『 マスク無しの卒業式 』
マスク無しでの 卒業式風景が 放送されていた
ある高校でのことだが
高校生や中学生にとっては 在学中は
新型コロナウイルスの恐怖も さることながら
対策に振り回される日々だった かもしれない
マスクは その象徴ともいえるが
その経験がプラスになる面を探すのは 難しいが
逞しく 巣立っていって欲しいと 切に願う
☆☆☆
『 藤井王将 初防衛へ王手 』
将棋の王将戦 藤井聡太王将と羽生善治九段が
熱戦を繰り広げている
第五戦は 藤井王将が勝って三勝目
初防衛に あと一勝となった
次戦 もし羽生九段が巻き返せば
歴史に残るような 王将戦になりそうだ
次戦は 3月11日・12日
興味津々だ!!
☆☆☆
『 移りもゆくか 』
吹きまよふ 野風を寒み 秋萩の
移りもゆくか 人の心の
作者 雲林院の親王
(巻第十五 恋歌五 NO.781 )
ふきまよふ のかぜをさむみ あきはぎの
うつりゆくかも ひとのこころの
* 歌意は、「 吹き荒れる 野風が寒くて 秋萩の 花の色が変わっていくように 世の流れとともに 人の心も同じように移り変わるのだろうか 」といった、世の無常を詠んだものでしょう。
* 作者の雲林院の親王(ウンリンインノミコ)とは、仁明天皇の第七皇子常康親王のことです。
母は、更衣の紀名虎の娘 種子です。
常康親王は、第七皇子であるばかりでなく、藤原氏の台頭が著しいこの時代、生母が紀氏であることから、皇位継承候補としては誕生した時点から外されていたようです。
* 常康親王の生年は不詳です。
仁明天皇には多くの后妃がおり、御子も伝えられているだけでも相当の数に上ります。常康親王は第七皇子ですが、必ずしも誕生順になっていない可能性もありますが、第四皇子の生年が 831 年、第八皇子の生年が 837 年という記録が残されていますので、常康親王の生年はこの間と推定できます。
常康親王の伝えられている消息は少ないのですが、840 年に無品(ムホン・品は皇子の官位に当たる。)ながら志摩国答志島を与えられた、という記録があります。
その次の記録としましては、851 年に亡き父帝を追慕して出家したことが残されています。
* 仁明天皇が薨去したのは 850 年のことですが、すぐその後を追っての出家のようで、その後は雲林院に隠遁する生活であったようです。
この時の常康親王の年令は、せいぜい二十歳程度だったのではないでしょうか。
この雲林院は、仁明天皇の先帝淳和天皇が離宮として造営したものを仁明天皇が受け継ぎ、その後 常康親王に与えられていたようです。
このように、幼いうちに答志島を与えられたり、雲林院を譲渡されるなどから分かるように、父帝は常康親王をたいそう可愛がっていたようです。また、若くして蔵人を務めた僧正遍昭も寵愛していたようで、その関係もあって常康親王と遍照は親しい関係であったようです。年令は、おそらく遍照の方が十歳以上年長であったと思われますので、常康親王にとっては、身分の差はともかく、兄あるいは師といった存在だったのかもしれません。
* 雲林院に移った常康親王は、869 年に没するまで十八年間を詩作三昧の日を過ごしたとされています。その期間は、宮廷で過ごした期間と等しいほど長いものであったのでしょう。ただ、遍照法師や素性法師などとは交流があり、没後の雲林院は遍照に託されています。
平安時代は、王朝が大きく発展し絢爛豪華な文化を築いていきました。その一方で、皇位をめぐる葛藤は、藤原氏を中心とした権力者たちの思惑もはらんで、激しく、時には凄惨なまでの争いが展開されました。
同時に、皇子や皇女の多くは、歴史の表舞台に立つことのない生涯を送っています。その事が、幸せであったのか否か様々なのでしょうが、さて、常康親王の場合はどうだったのでしょうか。
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『 大阪マラソンに3万人 』
大阪マラソンに 市民ランナー3万人も参加
パリ五輪代表への 第一歩である
MGC(マラソン グランドチャンピオン シップ)への出場権を
2名が突破するなど 成績も良かったが
それにも増して
スタートラインに 市民ランナーが3万人も集結する姿は
迫力があり ウイズコロナへの 力強いメーセージに見えた
通天閣も緑 スポーツ観戦も大声有り あと一息だ!!
☆☆☆
『 佐々木朗希投手でスタート 』
WBC日本代表チーム
佐々木朗希投手で 壮行試合をスタートした
対戦相手のソフトバンクの 球団会長であり
第1回WBCの 優勝監督でもある
王貞治さんも 元気な姿をお見せになっていた
各選手とも 順調な仕上がりとのことだが
ぜひ 万全な体調で 本大会を迎えていただきたい
☆☆☆
『 通天閣は緑信号点灯 』
大阪府が設けている 新型コロナウイルスの警戒基準で
通天閣の 警戒信号が 緑色になった
まだまだ 新規感染者が収束したとは 言えないが
一時の危機は 脱出しており
全国的にも 新型コロナからの脱出機運が 高まっているようだ
何としても スムーズな
ウイズコロナへの移行を 祈る思いだ
☆☆☆
『 戻ることが出来ないとすれば・・ 』
今回の ロシアによるウクライナ侵攻が始まったのは
昨年の明日のことだった
一年を経て なお収束の端緒さえ見えず
ウクライナの被害は 惨憺たるもので
人的な被害は ロシアも少なくない
昨年の今日 本当に 立ち止まる選択肢はなかったのだろうか
そのようなことを いくら考えても 詮無いことである
決して 戻ることが出来ないとすれば
何をなせば 良いのだろう・・・
☆☆☆
『 寂しいけれどほのぼのと 』
パンダのお見送りは やはり寂しい
パンダにとって 彼の地の方が幸せかもしれないが
わが国の日々も 覚えていて欲しい などと思ってしまう
ただ 嫌なニュースが多すぎる昨今
ここ数日の パンダに関するニュースは
寂しいけれど ほのぼのとしたものをいただいた
☆☆☆
『 雪解け遠し 』
ロシアによるウクライナ侵攻は
間もなく 一年に及ぶ
そのタイミングでの
バイデン米大統領の 電撃的なウクライナ訪問は
ウクライナには心強いだろうが 停戦への話題はない
一方で プーチン露大統領も 演説を行っている
こちらは まだ続いているようだが
とても 停戦への期待は 持てそうもない
雪解けは まだまだ遠いようだ
☆☆☆
『 大地や天空などあらゆるものの中に、八百万の神々息吹を感じながら生きていた祖先の人々・・・ 』
因みに、季候という言葉は、「四季・七十二候」から生れたものです。(気候は「二十四節気・七十二候」からです。)
それにしても、七十二候ということになりますと、一候は五日ということになりますから、昔の人は、五日ごとの季候の変化、つまり、日の光や、風の匂いや、山や海の色や、鳥や虫の声などを、敏感に感じ取ることが出来ていたのでしょうか。
( 中略 )
一年の自然の変化を、二十四節気どころか、七十二候を敏感に感じ取り、大地や天空などあらゆるものの中に、八百万の神々の息吹を感じながら生きていた祖先の人々、その生活は、病や飢えや弾圧の厳しい環境の中であっても、もしかすると、意外に心豊かなものであったのかもしれません。
( 「小さな小さな物語」第六部 NO.336 より )