雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  作品のご案内

2024-06-06 08:09:15 | 運命紀行

       運命紀行  作品のご案内                         

        以下の作品は、カテゴリー内の『運命紀行』に収めています。


                  * 激動の陰で              * 謎と謎を結ぶ
       * 信長と光秀を結ぶ           * 敵は本能寺にあり

     * ただ、導かれて            * 天下所司代
     * 華やかに哀しく            * マムシの父親

     * 道長の娘               * 上りつめた先     
     * 才女の娘               * 平安王朝の全盛期 

     * 森の下草             * 夢のうちにありながら
     * 大輪の花             * 道半ばにして

     * 業平の母              * たきぎを負える山人
     * 一族の切り札            * 奥山深く 

     * 陰の功労者               * 万葉の時代を拓く
     * 情熱の歌人               * つらつら椿      

     * 最北の地を追われても        * 豊臣から徳川へ
     * 宿敵の姫               * 唯一人の大名

     * 名将の姫              * 花も実もある武将
     * 英雄の娘              * 双六のように

     * 家康の懐刀               * 大輪の花
     * 今一つの三本の矢          * 百年の栄華を支える   

     * 見守り続けて              * 戦国大名登場
     * 血脈を守る                * 鎮西探題攻防

     * 山深き宮廷で            * 北朝を護った公卿
     * 歴史の谷間で            * 戦国の名付け親

     * 祇王哀れ                 * 滋藤の弓
     * 想夫恋                 * 青葉の笛 

     * 怨讐は山の彼方に           * 歴史の語り部
     * 悲運の姉妹             * 荒ぶる魂

     * 流れゆくままに             * 淡路の廃帝  
     * 内親王宣下               * 重荷を捨てて 

     * 葵を支える                * 歴史の黒子役
     * 一人娘                  * 小大名なれど

     * 朝日の三姉妹              * 英雄の後ろで
     * 荒波の陰で               * 散りゆく中で

     * 母よ兄よ               * 制外の家
     * 伊達の秘蔵っ子            * 勝利者の影

     * 戦国の幕開け              * 東山に逃げる
     * 北朝を護る                * 花の御所

     * この盃に付けて           * 足利二つ引の旗
     * ほんろうされながら         * 七度生まれ変わって    

     * 戦乱の陰で               * 二条城の会見
     * 百万石を支える              * 孤高の武将

     * 美しきがゆえに            * 平安の怪人
     * 平安女流文学の主役          * 謎の歌集

     * 天晴れ女武者             * 紫衣を羽織る
     * 名家の誇り              * 清風は明月を払う

     * さすらう女房              * お笑いなさるな
     * 琴の音哀しく              * 麗しきやまと歌

     * 事件の目撃者               * いざ子供早く日本へ
     * 女帝誕生                * 言霊の使者

     * 非難は覚悟の上            * 自ら輝く
     * 次郎法師                * それぞれの道

     * 平安王朝のサロン           *名声も草枕で聞く
     * 沖の石なれど             * 琵琶を抱いて

     * 美貌の剣士              * 次の時代を紡ぐ
     * この命ある限り             * 赤入道出陣す

     * 言うに及ばず             * 名君への軌跡       
     * 女の意地                * やんぬるかな

     * 徳川を支えた花嫁         * 頑固一徹の天晴れ武者
     * 軍師の花嫁             * 流浪の豪傑


     * 誇り高きがゆえに          * 俗世去り難く
     * 情熱の歌人               * 命長ければ辱多し     
                
      * 斎王の身を投げ捨てて      * 二上山を仰ぐ
     * 血脈に翻弄されて         * 松が枝に託す命

      * 心を一つにせよ          * 大君の辺にこそ死なめ     
     * 絶えなば絶えよ           * 埋れ木の輝き


     * 今日を限りの命であれ       * 倭しうるはし 
     * 私を捨てよ              * 今生の暇乞い     

     * わが恋まさる             * 南海の彼方に
     * 君が袖振る              * 雪原の戦い    
     
     * 花も花なれ人も人なれ       * われこそは新島守よ   
     * しづやしづ             * クルスの旗の下に   
     * 時の旅びと

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運命紀行  激動の陰で

2014-09-06 08:00:15 | 運命紀行
          運命紀行
               激動の陰で

明智光秀が謎多い戦国武将であることは別稿で述べてきた。
それは、光秀という人物の生涯そのものや、心情についてであるが、その子孫についても同じことが言える。
もっとも、この時代の人物の家族関係や妻や子のその後についは、不明な部分が多いのが通常である。そう考えれば、光秀が特段謎多いというわけではないが、興味深い点が多いことも事実である。

光秀には、三男四女がいたとされる。これは「明智軍記」によるものらしいが、別の系図によれば、六男七女とされている。そして、古来、多くの研究者が口を揃えているところによれば、光秀の子女については、俗説が非常に多いとされている。
時の実質的な天下人である主君織田信長に反旗を翻し、しかも、瞬く間に羽柴秀吉に討たれてしまったとあっては、その子供たちのその後は、男の子であれ女の子であれ厳しいものであったに違いない。
山崎の戦いで光秀を破った秀吉が、もし晩年の秀吉であったならば、光秀の子孫はそれこそ根こそぎ抹殺されたのではないかと思われる。
しかし、男子はともかく、娘たちは厳しい試練にさらされながらも、誅殺されることなく生涯を終えている。

光秀の娘の中で、最も知られているのは、三女(あるいは四女ともいわれる)の珠姫であろう。玉姫とされることも多いが、細川忠興に嫁ぎ、父・光秀の謀反から関ヶ原の合戦にかけて波乱の生涯を生きている。敬虔(ケイケン)なキリシタンとして歴史上に名をとどめていて、むしろ、ガラシャ夫人という名前の方が名高い。
すでに述べたように、光秀の娘は、四人とも七人とも伝えられているが、養女も含めてのことであろうが、さらに多くの女性を光秀の娘とする伝承もあるらしい。
今回の主人公は、「明智軍記」には示されておらず、明智系図に五女と伝えられている「秀子」である。

秀子の生年は分からない。
その生年を推定する手段としては、一方で秀子は織田信長の三女とされていて、これは相当正しい記録と考えられている。そうすれば、次女の冬姫(蒲生氏郷の妻)が1561年生まれで、四女の永姫(前田利長の妻)が1574年生まれであることから、その間と考えられる。
また、秀子を光秀の娘だとすれば、明智系図ではガラシャ夫人の妹となっているので、ガラシャの生まれた1563年より後ということになる。
これらに加え、結婚することになる筒井定次が1562年の生まれであることも考え合わせれば、おそらく1565年(永禄八年)前後と考えられる。

秀子の生年を推定するのに、信長や光秀の娘の生年を並べるのは一見奇異に感じられるかもしれないが、その理由は、秀子は光秀の実の娘であるが信長の養女となっているからである。
もっとも、これには諸説があり、秀子は信長の実の娘だという説もある。ただ、信長の娘には生母がはっきりしないことが多く、有力武将などに対して、政略上家臣の娘を自分の養子として嫁がせることは信長に限らず多くの例がある。
本稿は、秀子が光秀の実の娘であり、その後信長の養女となったものと仮定して進めるが、その場合でも、養女となった時期が不明なのである。
つまり、まだ幼い頃に信長の養女として織田家で養育されていたとすれば、信長を父としてどの程度意識していたかはともかく、織田家を実家として意識する部分は大きいと思われる。一方、信長が筒井順慶との関係強化の手段としてその嫡男に光成の娘を養女として嫁がせたとすれば、信長と順慶との関係はどのようなものであれ、秀子には光秀を実父としての意識が強く、明智家を実家として意識することが強かったのではないかと思われる。
当時は、養子縁組による親子関係は、現代のそれ以上に強い紐帯となっていたようであるが、秀子の本心は明智の娘というものではなかったかと考えるのである。

おそらく、信長には多くの子供がおり、光秀の子供を幼い頃から養育したとは考えにくく、おそらく織田家と筒井家の関係強化の必要性が強まった段階で、秀子を養女とすることが実現したものと考えられる。
秀子は、おそらく十四歳の頃に信長の養女となり、織田秀子として筒井家に嫁ぎ、その四年後の天正十年(1582)の六月、実父光秀が養父信長を誅殺するという事件が起きてしまったのである。

その時の秀子の心境がどのようなものであったのか。
あまりにも過酷な試練であるが、興味が尽きない。


     ☆   ☆   ☆

織田秀子の残されている消息は極めて少ない。その僅かな消息をたどり、その過酷な生涯を探ってみよう。

秀子は、織田信長の三女とされている。
信長には、養子養女も含めれば多くの子供がいる。そのうちの一応誕生順が記されている六人と結婚相手を挙げてみる。
 長女・・徳姫、松平信康(徳川家康長男)に嫁ぐ。
 次女・・冬姫、蒲生氏郷に嫁ぐ。
 三女・・秀子、筒井定次に嫁ぐ。
 四女・・永姫、前田利長に嫁ぐ。
 五女・・報恩院 、丹羽長重に嫁ぐ。
 六女・・三の丸殿、豊臣秀吉の側室となる。
この他にも、実の娘とされる人が五人以上、養女とされる人が四人以上記録が残されている。

名前あるいは法名などを挙げた六人のうち、三の丸殿を除く五人はいずれも信長にとって重要な武将の息子に嫁いでおり、この中の三女の秀子だけが養女だというのは少々不自然な気がする。
しかし、秀子の実父を光秀とする伝承や文献は古くからある。それに、長女から六女までの順番を信長が決めたとも思われないので、他に伝えられている実の娘や養女も、この六人と誕生を前後している可能性もある。

それはともかく、本稿では、秀子は明智光秀を父として誕生したと考える。
生年は、永禄八年(1565)の頃、後のガラシャ夫人の二歳年下と推定する。 
永禄八年といえば、室町第十三代将軍足利義輝が三好三人衆や松永久秀らによって討たれるという事件が起こり、その弟の足利義昭が跡を継ぐべく決起した年にあたる。従って、まだ光秀は足利義昭とは接しておらず、若狭の武田家あるいは越前の朝倉家に身を寄せている頃であったと思われる。そうだとすれば、誕生の頃は、お姫さまという環境ではなかったかもしれないが、幼時について残されている記録は全く見当たらない。

天正六年(1578)年の頃、秀子は織田信長の有力家臣である筒井順慶の養嫡子・定次と結婚する。信長の娘としての輿入れで、十四歳の頃ではなかったか。
光秀の娘として育ってきた秀子を、明智・筒井両武将の御殿である信長の娘として嫁がせることは、両家にとっても悪い話ではなく、主家の織田も加えた三家の絆を強くするのに効果的な婚姻であったと考えられる。

筒井氏は、大神神社の神官・大神氏の一族といわれるが、早くから大和国の添下郡筒井あたりの豪族として一定の勢力を有していたが、戦国期に入るとさらに勢力を伸ばし戦国大名としての地位を獲得していった。
秀子が結婚することになる定次(サダツグ)は、永禄五年(1562)に筒井順国の次男として誕生した。ほどなく本家筋にあたる筒井順慶に子供がいなかったことから養嫡子となる。
二人の結婚は天正六年(1578)の頃と考えられているが、定次が十七歳、秀子が十四歳の頃ということになる。
その後の秀子は、夫と共に義父となった順慶の庇護下にあったと思われる。

それから四年後、天正十年(1582)六月二日未明、本能寺の変が勃発した。
秀子の実父の明智光秀が養父の織田信長を討ったのである。
「洞ヶ峠を極めこむ」という言葉がある。日和見的な態度をとることを指すが、その語源は、明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いにおいて、筒井順慶が洞ヶ峠に陣をしいて去就を明らかにしなかったということからきている。
秀子の驚きは想像に余りあるが、義父であり戦国の世に名高い筒井順慶をもってしても、光秀に味方すべきか、信長の敵を討つという秀吉に味方すべきか、戸惑いがあったものと想像するのである。

山崎の戦いの後は、筒井順慶は秀吉に仕えることとなり、定次は人質として大坂城に赴いている。秀子はおそらく大和にあったと考えられる。
天正十二年には順慶が亡くなり、定次は家督を相続した。
定次は二十三歳にして大和筒井城主となった。当然、人質としての立場は解かれ、大和に戻り、秀子も城主夫人として家内の監督にあたったものと考えられる。
しかし、定次が自領に落ち着けることはほとんどなく、秀吉の天下掌握の戦いの先鋒として戦場を駆け巡った。定次は長刀を振りかざして先陣を切るような剛の者であったらしい。
多くの戦役に加わり、その時々に戦功を挙げたが、天正十三年(1585)に、大和から伊賀上野へと移封を命じられた。

この移封については、対立する考え方がされている。
大和へは、その後秀吉の弟の秀長が入っているので、大坂、京都に近い大和国を一族で固めたいというのが秀吉の狙いであっことは確かであるが、当時大和国は四十万石ともいわれ、新たに定次に与えられた伊賀上野は五万石ほどなので、減封左遷されたものと見ることが出来た。
一方で、筒井氏が支配していたのは大和国の半分ほどで、新たな領地には伊賀上野の他に伊勢・山城の一部も与えられていて、むしろ若干の加増であったともいわれる。また、伊賀上野は要衝の地であり、秀吉が定次に羽柴の姓を与えたりしていることを考えれば、左遷ではなかったらしい。
伊賀上野での街造りでは定次は非凡なところを見せたと伝わるが、その一方で、家臣間の争いをうまくさばけず、後に石田光成の重臣となる島左近が定次を見捨てて筒井家を去っている。この島左近は、「治部少(光成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と謳われた名将である。
この頃に、他にも古くからの家臣が数人去っているので、定次には人望面で問題があったのかもしれない。

時代は豊臣から徳川に移り、関ヶ原の戦いでは、定次は東軍について徳川家康から所領を安堵された。
翌年の慶長六年(1601)には、秀子は嫡男順定を設けた。家中挙げての慶事であったことであろう。
ところが、慶長十三年(1608)、幕命により筒井家は突然改易となった。その理由としては、「たびたび大坂城に赴いていること。悪政、酒乱を責められた。キリシタンとの関わり」であったとされる。
身柄は鳥居忠政に預けられた。なお、この後、家康の配慮もあって、定次の従兄弟にあたる定慶に一万石が与えられたが、大坂夏の陣で大野治房軍に攻められ自刃、大名家としての筒井家は滅亡となる。

改易されていた筒井定次の家族の受難はさらに続いた。
慶長二十年(1615)三月、前年の大坂冬の陣で豊臣方に内通していたとの理由で、定次と十五歳の嫡男定慶が切腹を命じられたのである。
その理由は、大坂冬の陣において、大阪城中から放たれた矢の中に筒井家が使っていたものがあったというものであった。これは、改易された際に散逸した物が城中に入ったと考えられるし、定次に豊臣方に味方するほどの力などなかったはずである。
幕府は、何としても豊臣に極めて近いと見える筒井家を抹殺したかったかに見える。ちょうど、加藤清正や福島正則がそうであったように、筒井定次も徳川幕府にとって危険な存在であったのかもしれない。

実父も養父も非業の最期を遂げた秀子は、夫も、さらに息子までも無残な最期を見守ることになってしまったのである。
その時の様子も、その後のことも、消息を尋ねることはなかなかに難しい。
法名は日栄と伝えられているので、非業な最期を遂げた人々の菩提を弔う晩年であったと考えられる。
秀子は、寛永九年(1632)に世を去った。享年は、六十八歳ほどであったか。
夫と息子を亡くしてから十七年もの年月をどのように生きたのか、ただ、想像をめぐらすばかりである。

                                                ( 完 )

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運命紀行  謎と謎を結ぶ

2014-08-25 08:00:42 | 運命紀行
          運命紀行
               謎と謎を結ぶ 

「本能寺の変」が、戦国時代における最大級の事件であることに異論は少ないだろう。
そして、その舞台を演じたのは、一方は織田信長であるが、主役となれば、やはり明智光秀ということではないだろうか。
この、大舞台の主役である光秀の前半生には謎が多く、事実がどうか分かりにくい部分が多いことは別の稿 (「敵は本能寺にあり」) で述べたが、その謎多い生涯は、「本能寺の変」で終わることなく、さらに深い謎を後世に残している。
もしかすると、「本能寺の変」は、明智光秀という人物の前半生の謎とその後の生涯の謎を結ぶ出来事だったのかもしれない。

光秀が信長打倒に動いた原因については、古来多くの説が唱えられている。近代になってからも新しい資料が発見されたということを理由にその原因を強調されることもあるが、現代に至るも、いずれの説もそれ一つと確定するに至っていない。
謀反に至った原因については、小説やドラマなどで採られているものを含めれば数多いが、そのいくつかを示してみる。

まず、怨恨によるという説がある。どの説の場合も、その背景となった原因としては加えられることが多い。
例えば、満座で恥をかかさせられることが度々あった。
家康の接待役を突然外され面目を失ったうえ、秀吉の指揮下に入るよう命じられた。
丹波攻めの際、八上城の波多野秀治・秀尚兄弟を投降させるにあたって身の安泰を保証し、その条件を守るべく光秀の実母を人質として八上城に送り込んでいたが、信長は光秀に相談することなく波多野兄弟を殺害したため、母親は惨殺されてしまったという。

身の危険、あるいは恐怖心から謀反に至ったという説。
信長は、宿老であった佐久間信盛、林秀貞らを働きが不十分ということで追放している。次は自分かもしれないと感じるような気配があり、恐怖心を抱いていた。
家康の接待役を外され中国攻めに加わるよう命令され丹波亀山城で出陣の準備中に、信長から領地替えが伝えられたという。その内容は、現在の丹波国と近江国滋賀郡 ( 坂本城近辺 ) を召上げて、出雲国と石見国を与えるという内容であった。領地としての価値はともかく、出雲・岩見は毛利氏の勢力下にあり、自分で切り取ってこいということになり、追放された宿老たちのことを連想した可能性もある。

野望説というのもある。
これは、光秀自身が自ら天下を治めたいという野心を抱いていて、それを実行に移したものだというものである。その根拠の一つに、出陣にあたっての連歌の会で詠んだ『 時は今 雨が下しる 五月哉 』という発句を、決意の表れとするものである。「時は」は、自らの出自である土岐氏を指し、「雨が下しる」は、天が下知る、として、「土岐氏が天下を治める五月である」という意思表示だというのである。事実かどうかはともかく、実に素晴らしい舞台装置ではある。
戦国時代にあって、名のある大名なら、誰もが天下に号令したいという野望を抱いていたと言われることがあるが、それはあまり正しくなように思われる。版図を広げていった毛利元就には天下への野望はなかったといわれるし、今川義元が上洛戦の途上で討たれたというのは事実でないと考えられる。むしろ、天下を望んだ大名はごく少数であったと考えられる。但し、光秀がどうであったかは分からない。

四国の長宗我部征伐がそのきっかけという説もある。
これは、かねてから光秀は信長からの命令で長宗我部氏を臣従させるべく折衝を行っていて、重臣斎藤利光の娘を長宗我部元親に嫁がせるなど実現しつつあったが、突然信長は、秀吉が結んだ三好康長と組んで四国を武力制圧することに変更し、織田信孝・丹羽長秀に出陣命令が発せられ、光秀は面目を失くしたというものである。
ただ、このことは、「本能寺の変」の切っ掛けになったとしても、このことだけで光秀が謀反を起こしたというのは原因としては弱い感じがする。

他にも黒幕説というのがある。光秀を決起させた張本人が他に居るというものである。
その黒幕とは、例えば、足利義昭説、朝廷説、イエズス会説などのほか、秀吉、家康などというのも登場してくる。
光秀が、朝廷との関係を重視していたことは事実らしく、信長を倒した後、朝廷つまり公家勢力を頼りにしていたことは確かと思われる。
ただ、秀吉あるいは家康となれば、戦国ドラマと考えても少々行き過ぎの感がある。

結局、これこそが原因だというものは見つからないが、個人的には、おそらくいくつもの要因が重なって光秀は謀反に動いたと思うのである。
そして、決起する時点では、光秀には謀反などという観念ではなく、「天下国家のために決起する 」という気持ちだったと思うのである。
「時は」まさに「今」だったのである。
倒すべき信長は、わずかな近習を従えただけで本能寺にあった。本能寺は信長の定宿として防備されているとはいえ城郭には及ばない。
嫡男の信忠もわずかな兵を率いているだけで、近くの妙覚寺に宿泊している。
大軍を擁する重臣たちも、柴田勝家は越中にあって上杉氏と対峙していた。羽柴秀吉は備中にあって毛利氏と対戦中である。滝川一益は武蔵にあって北条氏に対しており、丹羽長秀は織田信孝とともに和泉で四国征伐への準備中であった。最強軍団といえる徳川家康は、領国を離れて堺辺りを遊覧中で、丸裸の状態である。

果たして、謎多いという決起であるが、光秀はあっけないほどに成功させてしまうのである。
ここまでは「本能寺の変」の成功までの光秀であるが、この後にも、光秀の謎は数多く浮かび上がってくるのである。


     ☆   ☆   ☆

天正十年六月二日に「本能寺の変」を成功させた後、明智光秀はどう動いたのか。
第一に動いたのは、京都を掌握することであったが、信長・信忠を討った後は、洛中には反抗勢力というほどのものはなく、安土攻めにかかったと思われる。京都と安土を結ぶ要所は瀬田川であるが、誘降しようとした 近江瀬田城主山岡景隆に拒絶され瀬田橋を焼かれたため進軍が遅れた。
それでも、六月四日にはほぼ近江国全土を掌握し、光秀は五日に安土城に入り、収奪した金銀財宝などを部下などに分け与えたという。
七日には、朝廷からの使者を迎えている。この間にも、各地の大名などに味方するよう勧誘する使者が送られているはずであるが、この頃には、秀吉は姫路に到着していたのである。

六月八日には安土を発って京都に戻った。この頃には、秀吉の動向も伝えられていたかもしれない。
そして、六月十三日には山崎の戦いとなるのである。
この間に京都や近江の防備、有力大名との連携に動いたと思われるが、結論としては、有力大名は一人として光秀に味方しなかったのである。最も頼りにしていたと思われる細川幽斎・忠興親子は、光秀とは早くから交際があり婚姻関係もあった。しかし、味方に引き入れることはできなかった。筒井順慶も親しい交際をしてきていたが、言を左右されて逃げられている。もし、秀吉の動向を少しでも掴んでいたとすれば、摂津に居城を持つ中川清秀、高山右近らの動向が大きな意味を持つのは当然のことであるが、ことごとく秀吉陣営に取り込まれてしまったのである。
光秀は、これほどまでに人望の薄い人物であったのか、それとも謀反という行動は、下剋上が当然のような世にあっても、軽蔑される行動であったのか、大きな謎といえる。

山崎の地は、山城国と摂津国の境界にある地で、ここで光秀軍と秀吉軍が激突することとなった。山崎の戦いである。時には「天王山の戦い」と呼ばれることもあるが、この戦いにおいて、天王山を押さえることが戦いを有利にする鍵であったが、秀吉軍に押さえられてしまった。
さらに、対峙した両軍には大きな戦力の差があった。光秀軍は、一万、あるいは二万の軍勢とされているが、本能寺の変後に有力な味方を獲得することができなかった光秀軍は、京都や安土などの防備を考えると、おそらく一万をいくらも超えない戦力であったと考えられる。
対する秀吉軍は、二万ないしは四万とされているが、主立った武将の戦力を数えるだけで二万を超えるので、有利と読んで馳せ参じる軍勢を考えれば、四万というのも誇張ではないかもしれない。
戦いは、一日にして光秀軍の惨敗に終わった。

光秀は、わずかな供回りに護られて坂本城を目指したが、その深夜、落ち武者狩りの農民に討たれた。
農民といっても、近年の農民とは違い、戦となれば戦場に駆けつける農民は数多くいたので、落ち武者狩りに励む者どもには、下手な武士よりも強い農民がたくさんいたことは間違いない。
光秀は槍で突かれて落命したとも、逃げ切れるのは無理と悟って自刃したとも言われる。その首は、見つからないように埋められたとも領国に持ち帰られたともいう。
それにしても、あっけない最期である。
智将として知られる光秀が、万が一の敗戦に対して無防備すぎる気がする。影武者を用意するとか脱出ルートを確保しておくなどの配慮があって当然なのだが、わずかな落ち武者狩りの農民にむざむざ討たれるのは、あまりにもレベルが低すぎるような気がする。

秀吉が光秀の首実検に立ち会ったのは四日後のことといわれ、腐敗が進み正確に見分けられるような状態ではなかったともいわれる。その後、京都の粟田口にさらされたが、果たして、本当に光秀本人の首であったのか、一抹の謎が残る。それに、首実検のために用意された首は三体あったとも言われ、ますます謎めいてくる。

それはともかく、山崎の戦いに勝利した秀吉は、やがて柴田勝家も滅ぼし、天下人へと上り詰める。
しかし、豊臣の栄華の時も長くは続かず、やがて家康が天下を奪い、徳川幕府の時代となる。
そして、再び、光秀の謎が登場する。

徳川幕府初期において、政権安定に少なからぬ働きをした僧がいる。南光坊天海という人物である。
天海の没年は寛永二十年(1643)十月でこれは記録に明らかである。しかし生年となれば、いくつもの説が存在している。一般的には天文五年(1536)とされているが、これは享年が百八歳といわれることから逆算されたものらしい。本稿もこの説に従うが、永正七年(1510)というものから天文二十三年(1554)というものまで幅は広く、十種以上もあるらしい。
出身は陸奥ともいわれるが、本人は出自について語っていないらしい。早くに出家したらしく、十四歳の頃には下野国宇都宮の粉河寺で天台宗を学び、近江国の比叡山延暦寺、三井寺、大和国の興福寺などで研鑽を積み、比叡山が焼き討ちされた後、武田信玄に招かれ甲斐国に移り、その後蘆名氏に招かれ、上野国の長楽寺を経て、天正十六年(1588)に武蔵国の無量寿寺北院 ( のちの喜多院 ) に移り、天海を号したという。
実は、天海の足跡がある程度明らかになるのはこの時からなのである。

天海と家康の出会いについても諸説ある。家康に招かれたともいわれるが、北条攻めの頃に家康の陣幕に居たともされる。
その後朝廷との交渉役や、政策にも関与したらしく、元和二年(1616)に家康が重篤となった時、葬儀に関する遺言を天海に託したとされ、厚い信頼を得ていたようである。  
天海は、家康没後も、日光東照宮の造営など、秀忠・家光の時代にも重きを成している。
そして、この天海が、明智光秀だという説があるのである。

その説の根拠とされるいくつかの事項を示してみる。
* まずは、光秀の首実検があまり信用できないものであったことである。そして、天正十年以降に、比叡山に家光の名で寄進された石碑があり、光秀は山崎の戦いでは亡くなっていないというのである。
* 天海が造営に深く関わった日光東照宮には、光秀の家紋である桔梗の図案が随所に配されている。
* 日光に明智平という場所があるが、天海が名付けたもので、「明智の名前を残す為だ」と、その理由を語ったという出来過ぎた話もある。
* 関ヶ原戦屏風に、天海が家康の軍師として描かれていて、学僧とされる天海では説明がつかない。

* 家康が天海と初めて会った時、極めて親しく接したという。
* 光秀の重臣斎藤利三の娘お福 ( 春日局 ) が三代将軍となる家光の乳母に選ばれたことも不思議であるが、天海と会った時に「お久しぶりです」と挨拶したとされる。
* 光秀と天海の筆跡が酷似している。これは、テレビ東京が番組内で行った鑑定でもそのような結果だったらしい。
* 秀忠、家光の名前には、光秀の名前が使われているという。少々無理筋の気がするが。
この他にも、古くからさまざまな研究がなされているようである。

天海がもし光秀であったとすれば、亡くなった時は百十六歳となる。但し、光秀の生年も諸説ある。
また、上記した天海光秀説に対しては、それぞれに反論があり、天海が光秀であるという説はほぼ否定されている。
同様の話は光秀に限ったことではなく、スケールの大きなものとしては、源義経がチンギス・ハーンになったというものもある。
この種の多くは、いわゆる「判官贔屓」といわれるように、悲運の人物に寄せる願望のようなものが含まれていることが多い。
明智光秀という人物が、そのような庶民感情を誘うような人物であったのかどうか、これも謎の一つであろう。

                                                   ( 完 ) 


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運命紀行 ・ 信長と光秀を結ぶ  

2014-08-13 08:00:20 | 運命紀行
          運命紀行
               信長と光秀を結ぶ

下剋上という言葉は、中国で使われるようになった言葉であるが、わが国には鎌倉時代に登場している。
その意味は、下位の者が上位の者を政治的あるいは軍事的に打倒して、上下関係を覆すことを指す。従って、そこには、当事者間に主従関係があることが前提となり、社会的に身分差があるとしても、もともと敵対関係にある人物を討ち果たしても、下剋上とは違う。

室町幕府が衰え戦国時代と呼ばれることになる時代ともなれば、守護大名の多くは守護代にその勢力を奪われ、さらには、もっと末端の豪族や一介の野心に満ちた人物に取って代わられるようになっていった。
後世の私たちからすれば、戦国時代は下剋上がまかり通る時代のように見えるが、当時の人々にとっては、特に下剋上を果たしたと考えられる人物にとっては、力のある者が衰えた者を打倒したに過ぎず、下剋上と呼ばれるのは片腹痛いと思っていたかもしれない。

さて、「敵は本能寺にあり」との采配を振るい主君織田信長を討ち果たした明智光秀も、下剋上を象徴する時代の典型的な人物のように見えるが、当の光秀本人はどのように考えていたのだろうか。
確かに、光秀にとって信長は主君であり、絶対服従を求められる立場にあったことは間違いない。しかし、わが国に下剋上という言葉が登場してきた時代と異なり、戦国も末期近いこの頃ともなれば、主従関係といえどもいささか違う様相を見せていたのではないだろうか。
主従関係を成立させているものは、形式的な身分制度ではなく、軍事力を中心とした力そのものだけであったと思われる。しかし、たとえそうだとしても、光秀が信長を討つには相当の覚悟を必要としたはずであり、それは単に信長の軍事力の大きさだけではなく、やはり主君を討つという心の葛藤があったはずである。

光秀の出自が今一つはっきりしないことは別稿で述べたが、一応伝えられているところによれば、美濃国の斎藤氏に仕え、その後、若狭武田家、越前朝倉家を経て信長に仕えている。
この間信長は、尾張国を手中にし、美濃国への進出に成功している。光秀は美濃国を離れて浪々の末、吸い寄せられるように美濃国に戻り、信長に仕えることになったのである。まるで、十数年後の本能寺の変を演じるかのようにである。
しかし、この二人の動きを、単なる歴史の流れのいたずらかといえば、どうやらその陰には、信長と光秀という因縁の二人を結び付けた女性の姿が垣間見られるのである。

今回のヒロインは、濃姫である。
濃姫とは、これも戦国時代の梟雄の一人ともいえる斎藤道三の娘である。母は、明智光継の娘・小見の方である。
明智光継は、東美濃あたりの豪族で、長山城主として一家を成していた。明智氏は、土岐氏の流れとされているが、それはともかく、このあたりの豪族として一定の勢力を有してきたようであるが、歴史上その存在が現れるのは、この人物あたりからである。
濃姫は、道三の三女といわれ、生年は天文四年(1535)である。この生年も不確かな面もあるが、正しいとすれば、後に結婚することになる織田信長より一歳年下で、ほぼ同年ということになる。

濃姫というのは、美濃の姫といったことから名づけられたもので、結婚後のことである。本名は、帰蝶(キチョウ)という名前が伝えられている。
父の道三は、まさに下克上の手本の如く戦いに明け暮れた生涯を送った人であるが、濃姫が誕生した年は、守護代の名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った頃で、濃姫の生活環境は安定していたと考えられる。
戦闘を続けていた尾張の織田信秀と講和した道三は、その条件の一つとして濃姫を信秀の嫡男信長に嫁がせることになった。
二人の結婚は、天文十七年(1548)のことで、信長十五歳。濃姫十四歳であった。

結婚後の二人がどのような仲であったかについては、さまざまの説があるが、そのほとんどは後世の作品などに描かれたものが独り歩きしたもので、信頼できる記録は極めて少ない。
信長には数多くの妻妾がおり、子供の数は確認されているだけでも相当の数である。しかも、生母がはっきりしない子供も少なくない。
時には、濃姫が嫁いだ時には信長には何人もの女性がいて、子供も生まれていたとされる話もある。しかし、濃姫との結婚時、信長は数え年の十五歳であり、当時の少年が早熟であったとしても、少なくとも妻妾といわれるような立場の女性が何人もいたとは考えにくい。
また、信長には、部下に妻を大切にせよと諭したとか、秀吉夫妻の夫婦喧嘩の仲裁をしたとかというエピソードが残されている。そのことから考えても、一家における妻の立場を重視していた人物のように思われる。
おそらく、濃姫は、信長から正妻として大切にされ、歴史の表面に顔を出すことはなくとも、内助の功に励んでいたものと考えたい。

濃姫を、賢妻として描かれている作品は少なくないが、それらでは子供を生さなかったことが惜しまれている。
しかし、濃姫には子供がいなかったのかといえば、それは断定出来ないのである。おそらく、女の子を産んでいる可能性がある。
ある公家が書き残したものに、「御台出産」との記録があり、別の軍記物には「若君が誕生しなかったため側室が生んだ奇妙丸 ( 信忠 ) を養子として嫡男とした」という記録も残されている。これらの記録の信憑性には疑義もあるようだが、濃姫が信忠の養母であったことはかなり信憑性が高いとされる。

また、濃姫が表向きのことに関わったという記録や伝聞はほとんどないが、「信長正室が、斎藤義龍の後家をかばった」という伝聞がある。
このことから、一つの推定が浮かんでくる。
つまり、朝倉氏に身を寄せていた明智光秀が、どういう繋がりを得て信長に仕官することになったかということである。
濃姫の生母は、明智光継の娘・小見の方であることはすでに述べたが、光秀の父とされる明智光綱も光継の子であり、濃姫と光秀は従兄妹であったらしいのである。光秀は、直接か、小見の方を介してか、急台頭してきた信長への仕官の仲立ちを頼んだのではないだろうか。
これは推察ではあるが、そのように記されている文献も存在している。

尾張と美濃と、隣接した国に誕生した信長と光秀、近いといえば近いともいえるが、本来なら主従関係ではなかった二人を結びつけ、やがては、歴史上の大事件へと導いたのは、それが歴史の流れだといえばそれまでであるが、その出会いを作ったのには濃姫という女性の存在があったと思うのである。


     ☆   ☆   ☆ 

斎藤道三の娘として生まれ、母は東美濃の豪族明智氏の娘小見の方。そして、嫁いだ相手は織田信長。
戦国時代というドラマで重要な役割を果たしたはずの濃姫は、その足跡を後世に伝えているものはあまりにも少ない。
この時代の女性の動静が伝えられることが少ないのは濃姫に限ったことではないが、これだけの歴史上の人物に囲まれた女性だけにその少なさは不思議というより謎めいて見える。謎めいていると表現する理由の一つは、亡くなった時期が実に多様に伝えられているからである。
伝えられているものを列記してみよう。

まず、最も早くなくなったと指摘しているものによれば、信長と結婚して間もなくに死去あるいは離婚したというものがある。
その理由はただ一つで、結婚後の濃姫の情報が全くというほど伝えられていない、ということである。
しかし、結婚間もない時期といえば、織田家にとって、美濃の斎藤家は軽視できる相手ではなかったはずである。濃姫と信長の夫婦仲がどのようなものであっても、まだ幼いといえるほどの新妻を追い返すことなどできないし、万が一死去であれば、葬儀にしろそれなりの礼を尽くしたはずである。何らかの伝聞が残される程度の動きがあったはずである。

次に多いのは、信長の嫡男となる信忠 ( 奇妙丸 ) 誕生の少し前あたりに死去あるいは離婚したというものである。
信忠の生母は、生駒宗家の長女である吉乃とされていて、信雄、徳姫 ( 後に徳川家康長男に嫁いだ ) の生母でもあるとされる。吉乃は信長が最も寵愛した女性といわれることが多く、信忠誕生の頃からは正室の座にあったという説があり、この頃までに死去あるいは離縁されていたというものである。
濃姫に相当の落ち度があればともかく、斎藤家は父・道三を滅ぼした義龍が当主であり、信長とは敵対関係にあり、母方の実家明智家は没落していたと考えられ、信長といえども濃姫を離縁して実家へ追い払ったとは考えにくい。

それに、すでに書いたように、その後にいくつかの伝聞がある。
斎藤義龍が病死した後、信長本妻が義龍の後家をかばったという記録がある。この信長本妻というのは、斎藤家との関係からも濃姫のことと考えられる。信忠誕生から二年ほど後のことである。
そして何よりも、信忠が濃姫の養子となったことはほぼ定説ではないかと思われるのだが、それ以前に死去あるいは離縁されたという意見が消えないのは不思議に思われる。
そして、信忠を濃姫の養子として嫡男としたことは、信長が濃姫を押しも押されもしない正室であったことを認めていたということではないだろうか。

濃姫の最期とする説の中で最も華々しいのは、本能寺において信長とともに壮絶な最期を遂げたというものである。信長とともに薙刀を振るって奮戦したというもので、巴御前を髣髴させるものである。戦国ドラマの名場面としては実にふさわしく、著名な作家もこの説をとっている。
この説の裏付けの一つに、本能寺の変の後、信長家臣の一人が濃姫の遺髪を持って美濃国に逃れてきて埋葬したという。この遺跡とされる濃姫遺髪塚 ( 西野不動堂 ) が伝えられていて、この説を補強している。
同時に、本能寺の変の直後に、安土城から脱出に成功した信長妻妾たちの中に、御台所等の記述があり、これは濃姫を指していると思われ、そうだとすれば信長に同行していなかったことになる。また、本能寺の変後の混乱が落ち着いたあとの「織田信雄分限帳」に女性としては、信雄正室、岡崎殿 ( 徳姫 ) に続いて安土殿が載せられており、この女性は濃姫と考えるのが自然という説もある。

濃姫は、本能寺の変後も健在であったという説の一つには、本能寺の変の翌年の六月二日に、妙心寺において信長公夫人により一周忌の法要が執り行われたと記録があるという。これは、秀吉が主宰したものとは別で、もし事実とすれば、単に生き延びていたということではなく、一定の立場を保っていたということになる。
濃姫に関する生存情報の最も後のものは、慶長十七年(1612)七月九日に七十八歳で逝去したというものである。大徳寺総見院に埋葬されたとされ、安土総見寺には「養華院殿要津妙玄大師 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」という記録があるという。

果たして濃姫は、何歳まで生存していたのか。
個人的には、信長の嫡男となる信忠を養子としていることは事実と考え、信忠の誕生前後までに死去したとか離縁されたという説は受け入れにくい。また、本能寺において信長とともに華々しく散ったというのはドラマチックではあるが、出来過ぎているような気がするし、その後の情報も無視できない。
慶長十七年の逝去とすれば、すでに徳川の天下がすでに固まっており、大坂夏の陣で豊臣家が亡びるのは三年後のことである。信長の後天下人となった秀吉にしろ家康にしろ、濃姫を粗略に扱ったり、まして迫害を加えるようなことはなかったはずである。

おそらく、少々頼りない人物ではあるが、織田信雄のもとにあって、つつましやかに、激しかった戦国時代が終わりを告げようとする流れを見つめながら晩年を過ごしたのではないかと思うのである。

                                                          ( 完 )
 

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運命紀行  敵は本能寺にあり

2014-08-01 08:00:21 | 運命紀行
          運命紀行
               敵は本能寺にあり

「敵は本能寺にあり」
この号令により、羽柴秀吉の後詰を命じられ中国地方に向かおうとしていた明智軍一万三千は、進路を京都へと変えた。
天正十年(1582)六月未明のことで、世に言う「本能寺の変」の勃発である。

戦国時代全体を一つのドラマと考えた場合、そこには数えきれないほどの名場面、名台詞(セリフ)がちりばめられている。
多くは悲劇を伴うものであり、残酷な場面も少なくない。痛快に出世していく物語もあることにはあるが、それは戦国時代というドラマの中では、一つのエピソードにすぎないような気がする。
そして、あらゆる場面で語られる台詞の中で、「敵は本能寺にあり」という明智光秀が発したとされる台詞は秀逸であり、これを超えるものはそう多くはないと思われる。

実際に、織田信長や豊臣秀吉や徳川家康などを描く時代小説やドラマには、必ず「本能寺の変」の場面は登場してくるし、何かと独自性を示したがると思われる作家や演出家も、「敵は本能寺にあり」という台詞だけは、変更しているものはほとんどないと思われる。
それほどまでに名高く定着している名台詞は、単なる一世一代の大見えを切った言葉というだけでなく、戦国時代の流れを大きく変え、引いては近代日本の形態に少なからぬ影響を与える場面を演出しているのである。

天正十年五月二十日、織田信長は徳川家康を安土城に迎えて、盛大な宴会を催していた。
信長の家康招請は、甲斐武田氏を滅ぼし天下はすでに手中にあるとの自信と、家康の長年にわたる忠節に報いるためであった。壮大な安土城を披露し、すでに完全に掌握している京都・大阪、さらには堺までも見物させようという計画であった。
この接待役は明智光秀が命じられていて、早くから準備にあたり万全を期していた。ところが、宴席半ばに、信長のもとに羽柴秀吉からの使者が到着した。中国路で毛利軍との戦いが膠着状態にあり、援軍の派遣を求めてきたものであった。
実際の戦況は、毛利方の勇将・清水宗治が守備する高松城の水攻めが完成しており有利に展開していた。あまりに大きすぎる武功を独り占めすることを懸念しての援軍依頼だったとされる。

信長は、光秀の接待役を解き、ただちに秀吉軍の援軍として出陣することを命じた。
このあたりの事情については、接待役としての不備を信長から叱責されたとも言われるが、本当のところはよく分からない。ただ、秀吉の指揮下に入ることは光秀のプライドが許さなかったことは考えられる。
納得できないとしても信長の命に反抗するわけにはいかず、居城の一つ丹波国の亀山城に戻り、出陣の準備を整えていた。そこへ信長からの書状が届き、それは、領地替えを命ずるものであった。光秀の領地は、丹波国と坂本城を中心とした近江国の一部であるが、それを召上げ、代わりに出雲と石見の二か国を与えるというものであった。
領地としての価値はともかく、出雲も石見も現状では毛利氏の支配下にあり、「勝手に奪って来い」というばかりの仕打ちであった。

五月二十七日には、明智軍の出陣体制は完了した。
この日、光秀は戦勝祈願のため愛宕神社に詣でた。その時、神前でくじを引いた。一度、二度、三度まで引き続けたが、いずれも凶であったといわれている。
その夜は愛宕山で一夜を過ごし、翌日は親しい人たちを集めて連歌の会を催した。この時詠んだのが、
 『 ときは今 あめが下たる 五月かな 』
という句である。
「とき」は光秀の出自とされる土岐氏を指しており、「あめが下たる」は天下を治めるという意味を含ませていて、光秀が信長を倒して天下に号令しようと決意したものとされている。

やがて、時は至り、光秀は采配を振るう。
「敵は本能寺にあり」
明智軍は方向を転換し、京都に向かった。
この時、信長を討つことを知っていた者は、側近のごくわずかな人数であったという。本能寺を包囲し、乱入していった後も、雑兵たちの多くは、自分たちが討とうとしているのが誰かさえ知らされていなかったという。
しかし、明智光秀のクーデターは、あっけないほどに成功してしまうのである。


    ☆   ☆   ☆

明智光秀という人物は、実に分かりにくい。
歴史上の人物といわれるような人で、その出生や経歴などよく分からない人物は少なくない。江戸時代に入り、社会が落ち着きを見せた後は、ある程度正確な情報が残されているようであるが、それでも、時の権力者などにより何らかの手が加えられていることはごくふつうにみられる。
それが戦国時代以前となれば、出生の年月や出身氏族などが判然としない例は少なくない。後に出世した人物であればあるほど、そこには意図的な捏造もあって、よく分からない人物は光秀に限ったことではない。

まず、光秀の生年であるが、享禄元年(1528)というのが有力である。これは、西教寺過去帳に享年五十五歳という記録があることなどに基づいたもので、それなりの根拠があるとはいえる。但し、他にも大永六年(1526)、永正十二年(1515)という説もある。
生年が少々違ったところでどうということはないように思われるが、永正十二年が正しいとなれば、享年は六十八歳となり、光秀の生前の行動について大分違った見方が出てくるかもしれないのである。
一応、享年を五十五歳として話を続けると、光秀は、信長より六歳年長であり、秀吉より九歳年長ということになる。この年齢差が、光秀の生涯に少なからぬ影響を与えたように思われてならない。

明智氏は、清和源氏の流れをくむ土岐氏の一族とされる。そうなれば、間違いなく名門の家柄であるが、どの程度信頼できるものかよく分からない。多くの研究者の意見や文献などもあるようだが、どうも完全に信用することが出来ない。
もっとも、当時の新興の大名たちには、もっともらしい先祖や家系図を作り上げた人物は少なくないので、光秀もその一人なのか、それとも由緒正しい出自なのか分からない。秀吉などは、後年、天皇家につながる云々の話を作り上げようとしていたらしいが、これなどは、四百年後の私たちでも笑い話に出来るが、先祖は土岐氏だということになると、一概に架空の話とは言い切れない。
ただ、光秀の母は若狭国守護の武田氏の出身とされ、また叔母が斎藤道三の夫人で、信長の妻となった濃姫とはいとこにあたるという話もあるので、美濃国守護土岐氏の一族であるということも、否定できない。
ただ、父の名前は諸説ありはっきりしないし、生地も現在の美濃国可児郡の明智荘らしいということで、土岐氏の一族としても、一家は相当没落していたと考えられる。

信長の家臣の中では、秀吉がずば抜けた出世頭のように語られることが多いが、実は光秀もそのめざましさでは負けていない。
秀吉は貧しい農民の出身で、裸一貫出世街道を上りつめたという見事な立身を成し遂げていることは確かであるが、光秀とてもそれに劣らぬ立身を成し遂げているのである。少なくとも、信長を倒し、秀吉と山崎で戦うまではである。
光秀の若い頃の動静については、さまざま伝えられているが、信長に仕えるまでのことは今一つはっきりしないのである。つまり、朝倉氏などに仕えていたことは確かのようであるが、それほどの地位にはついていないと考えられる。

光秀が信長に仕える以前については定かでないが、最初は斎藤道三に仕えていたらしい。道三が家督を譲った嫡男義龍に敗れた長良川の戦いには、道三方として加わっていて、敗戦後は母方の縁で若狭国守護の武田家を頼り、その後朝倉家に仕官したらしい。
永禄八年(1565)、室町幕府第十三代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀に討たれたため、その弟義昭がその跡を継ぐべく若狭国の武田家を頼り、後に朝倉氏に上洛の支援を求めて移っている。どうやら、このあたりで、光秀は足利義昭の信頼を得たらしい。
しかし、朝倉義景はなかなか動かず、美濃を手中にして意気盛んな信長を頼ることになり、光秀が斡旋に動いたとも言われるが、この頃には、すでに信長の家臣になっていたようである。

歴史上、光秀の足跡が明確なものは、永禄十二年(1569)四月、木下藤吉郎・丹羽長秀・中川重政らと共に連署状に名を連ねている物が最も古いようである。光秀、四十二歳の頃で、この頃にはすでに一軍の大将格まで出世していたことになる。
年齢はともかく、当時の信長の大将格の家臣の中で、光秀は最も遅くに信長に仕えている。その異例ともいえるスピード出世に、秀吉や、家臣の筆頭格である柴田勝家でさえ妬むほどであったという。
光秀自身も、信長の過分な引き立てに感謝していたといわれ、またそれに応えるだけの働きをしたようである。
光秀といえば、どちらかといえば、公家や将軍家との折衝役として優れ、文官としてのイメージが強いが、信長の天下布武への激しい戦いに数多く参陣し、丹波平定など大将としても十分な働きを残している。

しかし、明智光秀は、織田信長の旗下で生涯を送ることを潔しとしなかった。
分からないことの多い光秀であるが、「敵は本能寺にあり」と采配を振るった真意は何であったのか、古来、この謎は今なお明確にされていない。
以下は、稿を改めさせていただく。

                                                 ( 完 )

 
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運命紀行  ただ、導かれて

2014-07-08 08:00:03 | 運命紀行
          運命紀行
               ただ、導かれて

わが国にキリスト教が伝えられたのは、天文十八年(1549)にイエズス会のフランシスコ・ザビエルによってとされるのが定説であろう。
もっとも、五世紀の頃には、すでに中国を経由してその教えの一端は伝来していたという説もあり、また、種子島に鉄砲が伝えられたのは、これより六年ほど前のことであるから、漂着したポルトガル人によってキリスト教の片りんのようなものを教えられていた人物がいたかもしれない。

それはともかく、はるばるとキリストの教えをあまねく広めるべき使命を受けた宣教師たちの一人であるザビエルやその後任者たちは、仏教あるいは神道、さらに言えば、八百万の神々がおわします日本に、新しい神の教えを組織的に広めようとやってきたのは、わが国が戦国時代の真っただ中の頃であった。
彼らは、多くの苦難と激しい抵抗にあいながらも布教を続け、次第に信者の数を増やしていった。
どうやらイエズス会やザビエルは、地方を統治している大名を通じて、国守である天皇なり足利将軍家の了承を得さえすれば、他宗教勢力の抵抗はあるとしても、わが国全土に布教活動を展開できるものと考えていたようである。
しかし、当時のわが国は群雄割拠の状態で、全国に号令できる権力者などいなかったのである。

宣教師たちは、各地の有力大名を訪ね、一国ずつ手さぐりで布教を進めて行くことになったが、彼らにとって幸いなことは織田信長という英雄が登場したことであった。各地の大名が宣教師の布教活動を認めてきた一番の理由は、南蛮貿易での利益であり、特に鉄砲・弾薬を手に入れる見返りを期待してのことであった。その点は信長も同様であったと思われるが、彼には、仏教など既存の宗教勢力に対する不信感も強かったようである。
信長による保護もあって、キリシタンと呼ばれる信徒たちは急速に数を増やし、大名やその家族にも入信する者が増えていった。
なお、キリシタンという言葉は、ポルトガル語からきたものでキリスト教徒といった意味であるが、英語ではクリスチャンとなる。現代では、キリシタンといえば、戦国時代から江戸時代にかけて、明治初期にキリスト教信仰が認められるまでの間のキリスト教徒に限られて使われるのが普通である。

順調にその数を増やしていたキリシタン信者であるが、信長の突然の横死により大きな苦難が襲うことになる。
その後天下を掌握した豊臣秀吉も、最初はやはり交易による利益から宣教師やキリシタンの活動を容認していたが、その後禁教と厳しい弾圧政策に舵を切った。その理由には、領主よりも神を絶対視する教えに危険なものを感じたとも、日本国民を海外に連れ出していることに激怒したとも、いくつかの理由があったようである。
秀吉の弾圧は厳しいものではあったが、それほど徹底されたものではなかったらしく、その後天下を握った徳川家康も、当初はキリシタンを弾圧するようなことはなかったようである。
しかし、家康も慶長十九年(1614)に禁教令を出し、寛永十四年(1637)に勃発した島原の乱以後は江戸幕府はキリシタンの完全消滅に方針を固めたのである。その二年後には鎖国政策が徹底され、寛永二十一年(1644)には、国内からカトリック司教は完全にいなくなったのである。

ここに、わが国のキリスト教の歴史は、表の歴史からは消え去ったことになる。
しかし、キリシタンがいなくなったわけではなかった。隠れキリシタンと呼ばれることになる人々は、世界史的に見ても残酷な試練に直面されながらも、そして多くの犠牲者を出しながらも、一部の人たちは棄教した形をとりながらもキリストの教えを守り続けたのである。
秀吉や江戸幕府による厳しい弾圧が始まる直前のキリシタンの数については推定が難しい。数十万人ともいう具体的な数字が示されている資料もあるらしいが、そもそも、現代でも同じであるが入信者の数を正しく把握することは極めて難しい。当時のキリシタンとされる人々も、単なる交易上の便利や、軍事的、あるいは強制的な形で入信していた人も少なくないはずで、純粋にキリスト教の教えに真髄していた人となれば、そうそう多くはなかったはずである。

しかし、隠れキリシタンと呼ばれることになる人々は、江戸幕府の厳しい詮索と弾圧の中で、小集団でそれぞれに教えを守り続けたのである。指導的立場であるはずの司祭も司教もわが国からいなくなって後、実に二百年余にわたって信仰の灯を守り続けたのである。
ある調査によれば、大正から昭和の初期の頃に、隠れキリシタンとして守り続けてきた教えになお携わっている人が、二万人ないしは三万人いたという。驚異的と表現すべき人数である。
この強靭な信仰集団を各地に残した背景には、おそらく、激しい弾圧の中で、特に江戸時代初期の世相の中で、何物にも揺らぐことのない信念を持った人々がいたからであろう。それは、現在私たちが歴史の事実として知るキリシタン弾圧の事件により倒れていった人ばかりではなく、キリシタンであり続けたことも知られることなく、密やかに、されど強靭に生きにいた人々がいたからなのであろう。

マセンシアという洗礼名を持つ女性も、そのような一人だったといえるかもしれない。


     ☆   ☆   ☆

マセンシアは、元亀元年(1570)に豊後の有力大名である大友義鎮 ( ヨシシゲ・後の宗麟 ) の七番目の娘として誕生した。名前は桂姫、あるいは引地の君と呼ばれた。
大友家は、義鎮の父義鑑(ヨシアキ)が、種子島に漂着したポルトガル人を呼び寄せるなどいち早く南蛮貿易に取り組んでおり、その利益と、とりわけ鉄砲の入手により勢力を広げていた。
一族内の争乱を切り抜けて家督を継いだ嫡男の義鎮も、ザビエルが日本にキリスト教を伝えた二年後には自邸に迎え、厚くもてなし布教の便宜も与えている。しかし、彼は熱心な仏教徒でありキリスト教に入信することはなく、その狙いは、やはり南蛮貿易で優位に立つ手段であったと思われるが、結果として、難航していたキリスト教の布教に尽力したともいえた。

やがて、義鎮の妻女や子供たちも入信した。桂姫が入信したのは十六歳の頃とされるが、乳母のカナリナという女性の影響が強くあったらしく、母たちの入信より後のことかもしれない。
天正十五年(1587)、桂姫は小早川秀包と結婚した。秀包は、桂姫より三歳年上であるが、この人物も波乱の生涯を送っている。

秀包(ヒデカネ)は、永禄十年(1567)毛利元就の九男として誕生した。その時には、長兄の隆元はすでに没していた。
元亀二年(1571)、五歳にして早くも備後国内に所領が与えられたが、同年、備後の国人である太田英綱が死去したことから、その遺臣たちに懇願されて後継者となり太田元網と名乗った。当然、年齢的に本人に判断能力などなく、毛利氏の政策の一環であっただろう。
天正七年(1579)、母の乃美大方が小早川氏の庶流である乃美氏の出身であることもあって、兄の小早川隆景の養子となり、元服とともに小早川元総を名乗った。
天正十一年(1583)、人質として、甥の吉川広家とともに大阪の秀吉のもとに送られた。この時、秀吉より秀・藤の文字を送られ、藤四郎秀包と名乗りを変えている。

秀包は毛利元就の実子であり、容姿にも秀でていて、秀吉にはずいぶん可愛がられたようである。
人質とはいえ束縛などほとんどなく、小牧・長久手の戦いには秀吉に従って出陣している。
天正十三年(1585)には、河内国内で一万石が与えられ大名身分となり、次いで、四国征伐の戦功で伊予国大津城で三万五千石が与えられている。
天正十四年から始まった九州征伐では、養父である小早川隆景に従って出陣、戦後、隆景か筑前・筑後を領すると、筑後三郡七万五千石が与えられ、翌年久留米城を築き居城とした。
大友家より桂姫を妻に迎えたのはこの頃のことである。また、洗礼を受け、シマオという洗礼名を受けているが、桂姫の影響も少なからずあったと考えられる。

その後も、朝鮮の役にも出陣し、その功で十三万石に所領を増やし、秀吉からは、羽柴の姓が与えられ、次いで豊臣も与えられている。
しかし、文禄三年(1594)に、隆景は、秀吉の養子である木下秀俊 ( 後の小早川秀秋 ) を養子に迎えることを決断、秀包は嫡子であることを廃され別家を立てることとなった。これには、毛利本家に養子を送り込もうとしていた豊臣政権の企みを防ぐため、隆景が小早川家を犠牲にしたという説も根強い。
それはともかく、この判断が秀包に大きな影響を与えたが、やがて豊臣政権消滅への一因を為すことになったのでもある。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では、秀包は西軍に属し、立花宗成らとともに京極高次が立て籠もる大津城を攻撃、多くの犠牲を出しながらも陥落させたが、肝心の本戦は、小早川秀秋の裏切りもあって、西軍は大敗を喫してしまったのである。
戦後、改易となり、毛利本家より長門国内に所領が与えられた。その折に、秀秋の裏切りのそしりを受けることを嫌い、小早川から毛利に姓を戻し、同時に剃髪している。
その頃、すでに体調を崩しており、慶長六年(1601)、三十五歳でこの世を去った。

さて、秀包の妻となった桂姫の消息は極めて少ない。
朝鮮半島に渡るなど戦いに明け暮れる夫に代わって、久留米城の守りに奔走していたことと考えられる。
関ヶ原の戦いは、本戦ばかりでなく全国で東西両陣営の間で激しい戦いがあった。
桂姫が留守を預かる久留米城も、加藤清正、黒田如水 ( 官兵衛 )、鍋島直茂らの攻撃を受けた。三万五千にも及ぶ攻撃軍に対して、久留米城の守備兵は宿老桂広繁以下五百ほどで、数日の抵抗後開城となった。
桂姫と嫡男元鎮らは黒田軍のもとに送られたが、その後、長門国内の秀包のもとに帰り着いている。これには、同じくキリシタンであった黒田家重臣・黒田惣右衛門直之の援助があったらしい。

秀包没後、嫡男の元鎮は毛利家当主輝元より改めて長門国阿川の地に七千石が与えられ、その子・元包は周防国吉敷に領地替えとなり一万一千石に加増されている。これにより、秀包の子孫は吉敷毛利家として一門を支えていくのである。
三十二歳の若さで未亡人となった桂姫は、おそらく息子たちと行動を共にしたと考えられるが、生涯をマセンシアという洗礼名で通したようである。
時代は、徳川氏の時代となり、キリシタンに対する締め付けは厳しくなるばかりであった。
また、当主輝元は、もともとキリシタンを嫌っていたようで、桂姫に対しても棄教を厳しく迫っていたようである。しかし、当主の立場であるとはいえ、桂姫は義理の叔母にあたることもあり、何よりも、桂姫の人柄と敬虔な信仰心とを砕くことはできず、黙認するようになったという。

桂姫、洗礼名マセンシアは、その信仰心を微動だに揺るがせることもなく七十九歳で天に召された。
慶安元年(1648)のことで、秀吉や家康による禁教令からは久しく、島原の乱からも十年を経ていた。亡骸は毛利家の菩提寺に葬られたが、墓地からは遠く離れた山中であったという。一族にキリシタンを抱えた毛利家の苦しい対応が窺える。
その生涯は、今に伝えられているものはあまりに少ないが、彼女のように生きた多くの人たちが、二百数十年に渡って心の灯を守り続けたことを思うと、まことに感慨深い。

                                                     ( 完 )






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運命紀行  天下所司代

2014-06-26 08:00:49 | 運命紀行
          運命紀行
               天下所司代

「所司代」というと言葉は、室町幕府の職名として登場している。
都の治安警護の任務に携わる役所が「侍所」で、その長官は「所司(あるいは頭人)」であり、その代官が「所司代」というわけである。
もっとも、「侍所」という役所は鎌倉時代には登場していたが、その頃の長官は別当であった。その任務は、軍事・警察といったもので、京都の治安維持を主目的としたものではなかった。
室町幕府の「侍所」も、幕府の軍事・警察権を担っていて、その長官には、赤松・一色・京極・山名の有力四家が交代で就き、四職と呼ばれた。因みに、さらに上位にあたる管領職には、斯波・細川・畠山の三家が交代で就き、こちらは三管領と呼ばれた。

さて、この軍事・警察権を「侍所」の長官、すなわち所司は重臣を「所司代」として実務を指揮させた。
室町幕府が安定していた時には、「所司代」による京都の警察権は機能していたが、次第にその力を失い、応仁の乱後の混乱では全く機能しなくなり、京都の治安を守る「所司代」は任命もされなくなったらしい。
幕府を背景とした軍事力を遥かに上回る軍事力を有する豪族が輩出し、戦国の世となっていったからである。

その混乱の戦国時代にあって、やがて織田信長が登場し、天下統一へと向かって各豪族の戦いは激しさを増していく。
永禄十一年(1568)、信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、天下人への先頭に立った。
その後、義昭との関係は互いの利害でこじれ続けるが、ついに元亀四年(1573)七月、信長は義昭を追放し、辛うじて存続していたとされる室町幕府は消滅する。
この直後に元号は天正と改められ、信長は本格的に京都の基盤を整えることになった。その施策の第一歩は、途絶している「所司代」の復活であった。
信長に「所司代」を復活させるという意識があったか否かは未詳であるが、鎌倉時代や室町時代の「所司代」とは、その権限において全く違うものであった。これまでの所司代は、軍事や警察権に限定された職務であったが、信長が定めた「所司代」は、警察権や裁判権に限らず、諸色全般、つまり、京都に於ける政(マツリゴト)すべての権限を与えるものであった。しかも、その職名は「天下所司代」という大げさなものであった。
そして、その京都の運営すべてを任せる任務に指名したのが、村井貞勝であった。

織田信長という強烈な個性を持った武将が、天下統一の実現に向かって邁進することが出来たのには、当然いくつかの要因が考えられる。
信長固有の能力はもちろんであるが、天の配剤と思われるような幸運もあるだろう。例えば、武田信玄や上杉謙信の死没などもそう考えられないこともない。
しかし、やはり一番大きな要因は優れた家臣に恵まれたことであろう。恐怖政治を行った信長に本当に真髄する家臣は少なかったという意見も根強いが、生涯同盟関係にあった徳川家康、柴田勝家らの譜代の武将、天才的な働きを見せた羽柴秀吉、最後に裏切られたとはいえ明智光秀の貢献も小さくないはずである。そして、ややもすれば、戦働きに優れた武将たちに目が向きがちであるが、それを支えた内政を担う人物の存在も小さくないはずである。
村井貞勝とは、まさしく信長を支えた重要な人物だったのである。


     ☆   ☆   ☆

村井貞勝の前半生については、よく分からない部分が多い。
生年は、永正十七年(1520)とも、あるいはそれ以前だとも伝えられている。仮に永正十七年とすれば、信長より十四歳年上ということになる。共に仕事をすることも多かった明智光秀は八歳年下、秀吉となれば十七歳年下ということになる。

生地もはっきりしないが、近江国の出身というのがほぼ定着しているようである。従って、織田家の譜代の家臣ということではないが、信長にはかなり早い時期から仕えていたようである。
信長の弟である信勝が反旗を翻した弘治二年(1556)にはすでに信長に仕えており、両者の実母である土田御前の依頼を受けて、信勝や柴田勝家らとの和睦交渉に信長の家臣としてあたっている。この時信長はまだ二十三歳であるが、すでに重要な交渉役を任される地位にあったと考えられる。
信長が家督を継承したのは十九歳の頃であるが、その前後の頃に仕えるようになったらしい。

もちろん村井貞勝も、最初から文官として仕えたわけではなく、武者働きに奔走したものと考えられる。信長に従って多くの合戦に加わっていると考えられるが、信長の所帯が大きくなるにつれて、織田家の家政だけではない内政に優れた人物が必要になっていったのは当然の流れである。最初から文官として仕えている人物も数多くいるが、信長の侍大将たちと戦歴などにおいて引けを取らず、しかも内政面に才能を発揮した村井貞勝は、信長政権の中でかけがえのない人物になっていったのである。

信長が上洛を果たすに至る一連の合戦の多くにも参加しており、上洛後、足利義昭の将軍宣下を見届けると信長は京都を離れ岐阜に戻っている。
この時、京都の治安維持のために信長は五人の家臣を残している。村井貞勝・佐久間信盛・丹羽長秀・明院良政・木下秀吉の五人である。
このうち明院良政は信長の右筆であるが、他は一軍の将たちといえる人選であるが、信長が村井貞勝に期待したのは内政面での才覚であり、年齢から見ても貞勝が筆頭格であったと考えられる。

村井貞勝が信長から「天下所司代」に任じられるのは、この五年後のことであるが、その権限と責任は、室町幕府の「所司代」とは比べ物にならないほど大きなものであった。
この「天下」というのは、京都を指すが、京都内のすべての仕切りを任せられることになったのである。軍事・警察権を主体とした治安の維持はもちろんのことであるが、まだ根強い影響力を有していた公家や寺社との交渉や権益の安堵、あるいは禁裏との折衝事も含まれていた。
当然、これらの任務遂行には貞勝の手勢だけで事足りるはずはなく、信長旗下の諸将の協力があり、特に明智光秀とは緊密に相談しあっていたようであり、連署で文書が発給されたりもしている。
しかし、「天下所司代」という役職を与えられていたのは、村井貞勝ただ一人であった。

村井貞勝の仕事には、これらの他に、二条城の建設があった。足利義昭が使っていたものとは別に建設にあたったのである。
また、天正八年(1580)には、信長の京都での宿舎を本能寺に移すことになり貞勝がその普請の指揮をとっている。
天正九年、貞勝は出家して家督を子の貞成に譲っている。もしかすると、この年あたりが還暦だったのかもしれない。

天正十年六月二日未明、信長の宿舎・本能寺は、明智光秀軍の襲撃を受けた。
村井貞勝は、本能寺門前の自邸にいたが、騒ぎに気付いたときにはすでに手の施しようがない状態であったらしい。
貞勝は本能寺への突入を諦め、貞成と専次の二人の息子や郎党とともに、信長の嫡男・信忠の宿舎妙覚寺に向かった。
信忠も異変を察知していて、本能寺に向かおうとしているところであったという。明智光秀ほどの人物が起こした謀反であるが、本能寺を万全の体制で囲んでいながら、信忠の宿舎には軍勢を指し向けていなかったようである。

結果としては、信忠が京都を脱出し、さらには安土、あるいは岐阜に向かうことも可能であったと考えられるが、信忠は父・信長を残して京都を離れようとしなかったらしい。
貞勝は、本能寺に向かうことの困難を訴え、隣接の二条御所へ移ることを進言した。
二条御所は、皇太子誠仁親王の住まいであるが、もとは信長の京都での屋敷として建造されたものなので、頑強な造りになっていたからである。
信忠は貞勝の進言に従い、二条御所に入った。分宿している信忠の従者たちも次々と駆け付けたが、その数はおそらく千にも及ばない数だったと思われる。
結局信忠は自刃、村井貞勝も二人の息子とともに信長・信忠に殉ずる形で散っていった。

貞勝には、三人の娘がいた。三人は、佐々成政、前田玄以、福島高時 ( 福島正則の弟 ) に嫁いでいる。
考えてみれば、嫁いだ先の三人はそれぞれに一流の武将であるが、戦国の世にあって、難題を背負うことになった人物ばかりである。

戦国時代の一つの頂点ともいえる織田信長という人物の活躍を考えるとき、それを支えた人物といえば、羽柴秀吉や柴田勝家や前田利家を思い浮かべてしまう。あるいは徳川家康や明智光秀という人物の存在に思いをはせることもある。
しかし、荒々しくも世の中に大きな変化を与えた信長の業績を考えるとき、村井貞勝という人物をもっともっと重視するべきだと思われてならない。

                                                        ( 完 )








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運命紀行  華やかに哀しく

2014-06-14 08:00:00 | 運命紀行
          運命紀行
               華やかに哀しく

好き嫌いは別にして、戦国時代の人物のうち、最も華やかでドラマチックな活躍を見せた人物となれば、やはり豊臣秀吉ではないだろうか。
貧しい家に生まれ、戦国の世にあって武力的に優れていたわけではないが、その智謀と胆力を駆使して出世街道を駆け上ってゆく生涯は、真偽入り乱れながらも、数多くの物語を世に送り出している。
その秀吉が、最晩年にあたって、残された生命力を振り絞るようにして催したのが、「醍醐の花見」と今に伝えられる大規模な花見会であった。

慶長三年(1598)三月十五日、京都醍醐寺に続く山麓で催された花見の宴は、秀頼、北政所、淀殿らの一族をはじめ、女房衆や女中らを中心に千三百人を召し従えた壮大なものであったという。
諸大名らも召集されていたが、彼らは、伏見城から醍醐寺に至る沿道の警護や、会場のあちらこちらに設えられた茶屋の運営にあたっていて、花見の宴に招かれたのは女性ばかりで、男性といえば、秀吉、秀頼の父子のほかは、前田利家ただ一人であったという。

招かれた女性たちの輿の順番は、第一番が北政所、二番が西の丸殿、三番目が松の丸殿、四番目が三の丸殿、五番目が加賀殿、六番目が前田利家夫人となっていた。贅の限りを尽くした輿と衣装は、満開の桜さえ圧倒するほどであったという。
第一番目の北政所とは、もちろん正妻ねねのことである。二番目の西の丸殿とは、秀頼生母である淀殿である。三番目の松の丸殿とは、京極竜子である。四番目の三の丸殿とは、今回の主人公であるが、織田信長の六女である。五番目の加賀殿は、前田利家の娘である。そして、最後に輿を連ねていたのは、利家夫人のまつである。
前田利家が男性としてただ一人宴の客として招かれており、夫人のまつは、秀吉の正妻や側室たちと同列に扱われていたのである。この頃の秀吉が、利家をいかに頼りにしていたかよく分かるが、まつもまた、豊臣家の家政に深くかかわっていたらしいことが窺える出来事といえる。

この宴席において、盃を受ける順番をめぐってトラブルがあったというエピソードが残っている。本稿の別の作品で既に紹介しているが、改めて書かせていただく。
秀吉から妻妾に下される盃の順番については、第一番の北政所についは誰にも異存はなかった。それは、正室であるからということであるが、それにも増して、家中での存在感や秀吉の信頼感が図抜けていたからである。
問題は誰が二番目かということであった。輿の順序や、秀頼の生母であるということから、淀殿にすれば当然自分だと考えていたはずである。しかし、これに真正面から苦情を申し出た女性がいたのである。松の丸殿京極竜子である。
この女性は、それこそ数えきれないほどの秀吉の妻妾や単に関係のあっただけの女性たちの中で、抜群の美貌の持ち主であったという。

竜子は、はじめ若狭国守護武田元明に嫁ぎ二男一女を儲けている。元明は、織田信長から三千石の知行を得ていたが、本能寺の変の後、若狭一国を与えるとの約束を得て明智光秀に味方した。結果は明知方の惨敗となり、元明は討ち取られ竜子も捕らわれた。しかし、秀吉はその美貌に引かれ側室としたのである。
竜子は、単なる美貌だけの女性ではなく才色兼備のうえ気位は強く、時には秀吉さえも手におえないこともあったらしい。竜子は名門京極氏の生まれであるが、京極氏は淀殿の血筋である浅井氏の主筋にあたり、従姉妹の関係でもある淀殿の下風に立つことなど許せなかったのである。
京極氏は、いわゆる守護大名から幕末まで大名として残った数少ない家柄の一つであるが、それには、竜子の働きが極めて大きかったのである。
また、後年、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、秀頼の息子国松が処刑されるという悲劇があるが、この時、遺体を引き取って葬ったのは竜子なのである。

さて、淀殿と竜子の争いは、再現できるものなら見てみたいと思うほど激しいものであったらしいが、この騒動を鎮めたのは利家夫人のまつであったと伝えられている。
つまり、まつは、豊臣家の家政において、淀殿らの秀吉の側室さえも抑えるだけの発言力を有していたのである。
最晩年の秀吉は、前田利家・まつ夫妻を誰よりも頼りにしていたと考えられる。
利家は、秀吉に半年ばかり後れて世を去っているが、その直後から時代は関ヶ原の合戦への流れが速まり、戦後処理の一環として、徳川家康がまつを人質として江戸に移すことに拘ったのは、この夫婦の豊臣家中における存在の大きさを熟知していたからであろう。

秀吉は、この盛大な花見の宴の五か月後に世を去っている。
秀吉が、わが国の歴史上傑出した英雄の一人であることは間違いないとしても、この頃の秀吉の言論や行動には、壮年期と同一人物とは思えないほどの衰えを見せていたようだ。その秀吉が、朝鮮半島出兵中の中で催したこの催しは、何を思い何を目的として行われたものであったのか。
ただ言えることは、この催しは単なる花見というには規模が大きく、四百年余を経た今日ても、歴史上の出来事として伝えられるほどのものとなったことは確かである。


     ☆   ☆   ☆

豊臣秀吉にとって、醍醐の花見はその生涯の最期を飾るにふさわしい大イベントであったことは紛れもない事実である。
その行事の持つ意味や目的などということは、いろいろ詮索する方がスケールが小さいだけで、秀吉にとっては花見の宴そのものが目的であって、生涯を締めくくる豪華で華やかな、自分へのご褒美のようなものであったのかもしれない。

しかし、その宴席に晴れがましい席を与えられた人たちにとっては、果たしてどのようなものであったのだろうか。
贅を尽くした舞台装置に、桃山文化の最高峰といえる衣装や茶道具などに囲まれて、接待役は天下のそうそうたる大名たちだったのである。
ある人は、晴れがましさに身を震わせていたかもしれないし、ある人は、秀吉権力の頂点を過ぎようとしていることを感じ取っていたかもしれない。さらに言えば、脇役の接待役を申し付けられた諸大名たちは、秀吉の衰えを承知している人も少なくないはずで、密かに将来への布石を考えていたのかもしれない。

四番目の輿で登場した三の丸殿は、この花見の宴をどのような心境で過ごしたのであろうか。
先に述べたように、宴席では淀殿と竜子との派手なバトルがあったようだが、三の丸殿については、この席に限らず秀吉側室としての特別なエピソードも伝えられていないようだ。
信長の娘である三の丸殿は、秀吉にとって勲章のような存在であったはずで、粗略に扱われることなどなかったはずであるが、特別自我を通すようなこともなかったらしい。

三の丸殿の生年は未詳である。生母は、信長の嫡男・信忠の乳母である慈徳院である。
信長には、確認されるだけで男子・女子共に大勢の子が存在する。
三の丸殿は六女となっているが、本当は他にも異母姉が存在する可能性もある。
伝えられている姉妹を列記してみると、長女は徳川家康の嫡男・松平信康に嫁いだ徳姫。次女は蒲生氏郷の妻・冬姫。三女は筒井定次の妻・秀子。四女は前田利家の嫡男・利長に嫁いだ永姫。五女は丹羽長重の妻・報恩院。そして、六女が三の丸殿であるが、この他にも、何女ともはっきりしない女子が五人以上はいる。

このうち、四女と五女の生年は、天正二年(1574)とされているので、三の丸殿の生年はおそらく天正三、四年の頃と推定され、信長の没年が天正十年であるが、そこまではくだらないと思われる。
例えば、仮に天正四年の生年と考えれば、信長が天下人としての地位を固めつつある時であった。石山本願寺をはじめ、敵対する勢力はまだまだ多かったが、前年には、権大納言に叙され、さらに右近衛大将にも就いている。この地位は征夷大将軍にも匹敵するもので、形式的には武家の棟梁の地位を公認されたといえる。もっとも、この種の権威の必要性を認めていなかった信長は、すぐに職を辞している。
そして、ほぼ同時期の頃であるが、織田家の家督を信忠に譲っている。もちろん、実権は信長が握ったままであるが、後継者を確定させたわけで、信忠の乳母である三の丸殿の母・慈徳院の存在感も大きくなったことであろう。
三の丸殿は、織田一族の中でも、最も恵まれた環境の中で誕生したのである。

しかし、やがて信長は本能寺の変で自刃する。おそらく三の丸殿が七歳の頃と考えられるが、信忠も同時に倒れており、慈徳院の悲しみはいかばかりであったか。
慈徳院というのは、この時出家したのちの号であるが、この後、信忠の菩提を弔ったという。
天下は激しく動揺したが、瞬く間に羽柴(豊臣)秀吉が全国平定を果たしていく。
三の丸殿が秀吉の側室になった時期は分からないが、秀吉が全国を掌握する天正十八年(1590)前後のことであろうか。
あるいは、蒲生氏郷の養女として輿入れしていることから、織田氏一族の安泰を図る為であったとすれば、もう少し早い時期かもしれない。いずれにしても、三の丸殿は十五歳前後であろう。
側室に入るということは、近代のいわゆる妾になるということとは全く次元の違う話なので、通常の結婚と大きく変わらない程度に考えるべきだと思われる。しかし、その婚儀成立には三の丸殿の意向など全く配慮されないものであったことも確かである。

三の丸殿の心境はともかく、秀吉の側室ともなれば、それも信長の息女ということなので、秀吉が軽んじることなどなかったと思われ、淀殿ほどではないとしても、望めば大抵のものは手に入れることができる生活であったと想像される。なお、三の丸殿という呼び名は、伏見城の三の丸に住んだことに由来する。
秀吉の側室としての生活は十年近くになったのだろうか。やがて、秀吉もこの世を去った。
三の丸殿は、その翌年に、二条昭実に再度嫁いでいる。継室としてであるが、昭実の前妻は信長の養女であったことや、豊臣家との関係が深かったことからの縁組らしい。
二条昭実は、摂関家の一つである二条家の当主である。関白職を秀吉に譲ったことでも知られているが、その後、後水尾天皇のもとでも関白職に復帰するなど、徳川家康との関係も良く、公卿としては超一流の人物である。

三の丸殿は、信長が天下人として認知された頃に娘として生まれ、父が倒れた後も、秀吉という、こちらは正真正銘の天下人の側室となり、その死後には、公卿の頂点に立つ昭実の継室となっている。
そのいずれの時期も、栄華に満ちた日々を送ったように思われるが、残されている消息は極めて少ない。
与えられる運命をそのまま受け止めて、水が流れるように静かな日々を送っていたように思われてならない。

三の丸殿は、二条家継室として、慶長八年(1603)二月、静かに世を去った。享年は、まだ二十歳代後半であったという。

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運命紀行  マムシの父親

2014-06-02 08:00:24 | 運命紀行
          運命紀行
               マムシの父親

わが国の戦国時代は、応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱に始まるというのは、ほぼ定説と言えよう。
その終わりを、例えば徳川家康による徳川幕府創設までとした場合、その期間は百三十六年間ということになる。
もちろん、戦国時代の始まりについても終焉の年度についても諸説あるが、そのいずれを採るとしてもその期間に大きな差はなく、武士を中心とした混乱の時期は、百数十年に及ぶことになる。
応仁の乱は、足利将軍家の後継者争いや山名氏や細川氏など有力守護大名の家督争いから戦乱が拡大していったものであるが、やがて、各地の豪族たちの台頭が見られ、さらには、これまで権力者側から遠い存在であったと思われる人物が、その才覚と胆力をもって歴史の表舞台に登場してきた時代でもあったのである。

武士、というより、武力をもって勢力拡大を図るということは、古代から展開されてきたことであるが、藤原氏が台頭し公家が政治の中心となってからは、武士が存在感を顕かにし始めたのは平清盛の頃からと考えられる。
しかし、その頃は、あくまでも公家社会の中での地位向上が主眼であったように見える。鎌倉政権は、公家政権とは明らかに一線を画していたが、足利氏の室町幕府となると、ごく初期を除いては武士政権とはいえず、間もなく幕府権力は衰え戦国時代へと移っていく。
戦国時代ともなれば、初期は従来からの有力守護大名が存在感を示していたが、やがて守護代を務めていた有力豪族が守護大名を凌駕し、さらには、地域に根差していた豪族の中からも、かつて身を寄せていた有力豪族を討ち果たし、あるいは、武士でさえなかった農民や商人などからも既存の勢力を滅ぼして有力な武力集団となり、やがては守護大名にとって代わるほどになっていくのである。
下剋上の時代である。

下剋上という言葉は、六世紀の中国で既に登場していたようであるが、わが国では鎌倉時代になってから見られる。主として武力でもって、時には政略や謀略によって身分秩序を壊すことを指すが、室町時代となれば頻発されるようになり、やがて戦国時代に突入していくのである。
室町初期においては、全国のほとんどが、たとえ名目だけだとしても守護大名によって治められていたが、豊臣秀吉が天下を掌握したとされる頃には、大名として存続していたのは上杉・結城・京極・島津など八氏にすぎないという。
そして、下剋上を代表するかに言われるのが、「美濃の蝮」とうわさされた斎藤道三である。

斎藤道三は、戦国武将としては相当著名な人物である。
戦国時代を舞台とした物語では、特に織田信長や豊臣秀吉を中心に描いているような物語では、斎藤道三は必ず登場してくるし、それもかなり重要な役回りを演じている。
その生涯は謎が多いとされながらも、多くの物語に登場し、特に著名な作家などに描かれているうちに、下剋上の典型のような、そして荒々しい魅力にあふれた人物としての姿が定着してきたといえる。
それらに描かれている大まかな姿を記してみよう。

道三の生年は諸説あるが、明応三年(1494)というのが有力らしい。
松波基宗の子とも伝えられているので、京都近辺のそれなりの家の生まれだったのかもしれない。
京都妙覚寺に入り法蓮坊という僧であったというのは真実らしい。但し、道三という法名は晩年に名乗ったもので、法蓮坊とはつながらないし何度も名乗りを変えているが、本稿では道三で通す。
二十歳の頃、還俗して松波庄九郎と名乗る。何か事件を起こしたということではなく、俗世での野心が高く、僧籍を離れたらしい。
やがて、油売りとなり、各地を回ったらしい。「油を売る」という言葉は、江戸時代になって生まれたものらしいが、道三の時代の油は、主として燈明用のものだと考えられるが、粘着力の強い油を小売りしていくので、一軒でそこそこの時間がかかるし、下層階級では燈明用の油を購入する余裕などなかったと考えられる。従って、各地の様々な情報を入手することも可能で、才覚に優れていた道三は、むしろ積極的に情報の入手や提供に励んだと推定される。

山崎屋と号するようになった道三は、その行動半径を広げて行き、油商人としても一家を成すに至ったようだ。
しかし、道三の望みはその程度のものではなかった。美濃国まで行動半径を広げた道三は、美濃国守護土岐家にも出入りするようになった。それには、僧侶時代の縁故を頼ったともされるが、都やその近隣、あるいは近江路などの情報は、土岐家にとって貴重なものであったことは間違いない。
やがて、土岐家の家老を務める斎藤家の重臣長井家の家臣となり、西村勘九郎を名乗るようになる。
応仁の乱勃発の背景の一つは、有力守護の家督争いにあるが、名門土岐家もその例にもれず、家長であった土岐政房が没すると長男・頼武と次男・頼芸の間で家督争いが起こり、頼武が勝利し守護職を継いだ。
道三は、敗れた頼芸に仕えていたが、家中の争いはなおくすぶり続けていて、その混乱の中で道三は着々と立場を高めていった。

道三は武勇・知略とも優れていて、頼芸の信任は高まるばかりで、頼芸は側室の深吉野を道三に与えている。享禄元年(1528)前後の頃と思われるが、ほどなくこの女性が生んだのが道三の後継者となる義龍である。真偽はともかく、この父子が極めて険悪な仲であったのには出生にまつわることもあったのかもしれない。
それはともかく、頼芸の絶大な信認を勝ち得た道三は、「美濃の蝮」と呼ばれるにふさわしい躍進を続ける。
かつての主君である長井長広を不行跡のかどで殺害し、その跡を襲い、長井新九郎規秀を名乗る。さらには、天文七年(1538)には、守護代の斎藤利良が病死するとその名跡を継ぎ斎藤新九郎利政となり、居城の稲葉山城を大改修し美濃国の有力勢力にのし上がった。
天文十年(1541)には、頼芸の弟・土岐頼満を毒殺したため頼芸と敵対関係となり、一時は窮地に立たされたが、翌天文十一年には、頼芸の居城大桑城を攻撃し、頼芸を尾張国に追放し、事実上の美濃国国守になったのである。

しかし、その後も騒乱は続き、織田信秀の支援を受けた頼芸は、朝倉氏からの援軍も得て美濃国に侵攻、頼芸は揖斐北方城を奪還した。
天文十六年(1547)には、織田信秀は稲葉山上に攻めかかったが、加納口の戦いと呼ばれるこの合戦で、織田方は大敗を喫した。
翌天文十七年に両家は和睦し、その条件の一つとして、道三の娘・濃姫(帰蝶)が信秀の嫡男・織田信長に嫁いだのである。
道三は信長との会見の折、とかく「うつけ」とのうわさのあった信長の見事な立ち居振る舞いに感じ入り、「わが息子たちは、あの『うつけ』の門前に馬をつなぐことになるだろう」と語ったという逸話が残されている。
信長の非凡さを、早々と見出していたのはさすがといえる。

信長に輿入れした濃姫に子供が生まれなかったことが残念であるが、正妻としてある程度の役目を果たしたらしい。道三からは、この縁組により得たものを見つけ出すことは難しいが、信長の舅となったことは歴史の流れの一ページに名を残すことになったようにも考えられる。
ただ、この後も、美濃国内は何かと騒がしく、やがて道三と嫡男・義龍の仲は険悪さを増していった。
道三が義龍に家督を譲ったのは信長の舅となった五年ほど後の天文二十三年(1554)のことである。自ら剃髪し道三と名乗るのはこの時からである。
稲葉山城も義龍に譲り、鷺山城に隠居したが、弟の孫四郎らを偏愛し義龍の廃嫡も画したらしく両者の対立はますます鮮明になっていった。

そして、弘治二年(1556)、両者は長良川河畔で決戦、道三は戦死した。
義龍軍一万二千に対して、道三の軍勢は二千五百ほどで、美濃の土豪や土岐家の関係者の多くは道三に味方しなかったという。急報を受けて信長も援軍に向かったが間に合わなかったという。
享年は六十三歳だといわれる、あっけない、そして道三らしいともいえる最期であった。


     ☆   ☆  ☆

僧侶の身を棄てて油売りとなり、権謀術数はその手段を選ぶことなく、主家を食い破りながらついには美濃一国を手中にしたという斎藤道三の物語は、稀代の悪役として取り扱われることが多いが、爽快な物語ではある。
ただ、近年に至り、古文書の発見などから、この国盗りに至る物語は一代で成されていたものではなく、どうやら二代で築き上げられたものらしく、そちらがほぼ定説となりつつある。

晩年に道三と名乗ったとされる人物は、次々と実に多くの名前を名乗っている。真偽はともかく、また年代順の前後もあるかもしれないが列記してみると、『 法蓮坊、松波庄九郎(庄五郎)、山崎屋庄九郎、西村正利(勘九郎)、長井新九郎(規秀)、長井新九郎(秀龍)、斎藤新九郎(利政)、道三 』などである。小説などでは、さらに違う名前も使われているようであるが、この人物に関しては、それを作者が勝手につけた名前だといえない雰囲気がある。
但し、ある程度しっかりとした資料に残されているものとしては、『 長井規秀、斎藤利政、道三 』程度らしい。

このうち、京都妙覚寺で法蓮坊と名乗っていたとされる人物は、道三の父親らしい。
そして、野望抱いて油売りとなり商才を発揮して商圏を広げていったのもこの人物と考えられる。さらに、美濃国の土岐家に出入りしたのも同様と考えられるが、果たして油売りから西村勘九郎という武士もどきの奉公人となったのは、どちらの人物だったのだろうか。
文献などの研究者の多くは、武士になったのも長井新左衛門尉と名乗る道三の父親であったとしているようだ。この人物は、天文二年(1533)前後に死没したようであるが、そこで道三に引き継がれたのかといえば納得の行かない部分もある。

道三の享年六十三歳というのが正しいとすれば、長井新左衛門尉という人物が亡くなったとされる年には、四十歳になっていたことになる。それまで父の陰に隠れていて、父の死により家督を継いで活動を活発化させたというのは少々不自然である。
さらに、道三が頼芸から側室の深吉野が与えられたのは享禄元年(1528)の頃であり、その翌年には道三の嫡男義龍が誕生している。従って、深吉野を与えられた人物は父ではなく、道三自身であったことは確かなように考えられる。そして、側室を与えられるほどの信頼を得るためには、何年かの時間が必要であり、そう考えれば、長井新左衛門尉の子である道三は、相当早い段階から表に立っていたと考えられるのである。

油売りから身を起こし美濃一国を手中に治めたのは、二代にわたる行跡であったことは事実と考えられる。
しかし、道三の父とされる長井新左衛門尉という人物が、油売りから武士となり、美濃国守護土岐家の争乱の中で台頭し、やがて子の道三がその跡を継いだというのは、どうもしっくりしない。
「美濃の蝮」とまで称された道三の父・長井新左衛門尉は、僧侶であり続けることを潔くとせず飛び出し、商人として身を立てることになった。商才もあり努力もあって油商人として成功し、遠く美濃国までも足を延ばすようになり、その過程で多くの情報を集積していったのである。そして、やがて武家に奉公するに至ったが、その世界で父以上の才覚を見せたのは行動を共にしてきていた子の道三だったのではないだろうか。

長井新左衛門尉は、我が子道三の類まれな才能を伸ばすために後見役に徹したのではないだろうか。
その徹底した黒子のような行動が、いつの間にかその存在さえも消し去るほどになってしまったのではないだろうか。
この考えは全く個人的な推察にすぎないが、「美濃の蝮」といわれるほどの下剋上の英雄の誕生の陰に、黒子に徹した父がいたように思えてならないのである。

                                                     ( 完 )



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運命紀行  道長の娘

2014-05-09 08:00:28 | 運命紀行
          運命紀行
               道長の娘

平安王朝の長きにわたって政権を担った藤原氏の絶頂期を築いた人物となれば、やはり藤原道長ということになるのではないか。
もちろん、それに先立つ人たちの敷いた路線があってこその道長の誕生ではあるが、やはり、道長が詠んだとされる『 この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば 』という和歌は強烈な印象を伝えている。
藤原氏の政権掌握の手段は、摂関政治と呼ばれるように摂政・関白に就くことで公卿たちを勢力下に抑え込んでいくことであるが、それを可能にした最大のものは、一族の娘を入内させ、その娘が儲けた皇子を皇位に就けることによって外祖父の立場に立つことであった。
そう考えれば、藤原氏の長者になるためには優れた姫の存在が必要であり、実際期待に応えるだけの姫が次々と登場しているのである。

それは、道長とて同じである。
道長は、藤原氏の頂点に立つ兼家の五男に生まれたが、その才覚と豪胆さは若くから知られていたが、その後の栄達には子供たち、特に優れた姫たちの存在も大きな働きをしているのである。 
その道長には二人の妻がいた。もちろん、当時の皇族や公卿たちは複数の、というより多くの妻妾を持つのが普通であり、道長も同様に何人もの妻妾がおり、子をなした女性も二人以外にもいる。しかし、正妻あるいはそれと同様の存在と言えば、この二人に限られる。

その二人とは、源倫子(リンシ)と源明子(メイシ / アキコ)である。
五男とはいえ藤原北家の嫡流であり、すでに藤原氏が朝廷内で圧倒的な勢力を占めていた中で、皇族につながるとはいえともに源氏の女性を妻としているところに、いかにも道長らしいたくましさを感じる。当時は複数の妻妾を持つのが普通であるので、正妻は恋愛感情より勢力基盤の強化を第一に考えるのが普通だったからである。道長も同様であったと考えられ、そのうえで、同族の姫より皇族の血を引く源氏の姫に自分の将来をかけたあたりが、並の人物でなかった一つの証のように見える。

二人の妻は、極めて似通った家柄であり、甲乙つけ難いといえる血統に生まれている。
倫子は道長より二歳年上であるが、明子も倫子と同年か一歳年下と思われる。
結婚の時期も、倫子の方が一年ほど早かったとされるが、その頃にはすでに道長と明子は婚姻関係にあったとされる説もある。いずれとも確定しがたいが、あまり時期に差はないと考えられる。
倫子の父は、宇多天皇の皇子である敦実親王の三男である源雅信であり、左大臣まで昇っている。明子の父は、醍醐天皇の第十皇子であり、七歳の時に臣籍降下し源の姓を賜った人物で、やはり左大臣にまで昇っている。
醍醐天皇は宇多天皇の皇子であるから、宇多天皇から数えれば、倫子も明子も曽孫にあたることになる。

ここまでだけを見れば、二人の女性はまことによく似た背景を担っている。容貌などの差異は不詳であるが、ともに道長の子を六人ずつ儲けていることをみれば、どちらも仲睦まじかったと考えられる。
しかし、誕生してきた子供たちのその後の進路は、母親によって大きく違っているのである。
それぞれの子供のその後を見てみよう。

倫子の子供は、
 長女、彰子・・・一条天皇中宮(皇后)。
 長男、頼通・・・摂政、関白。道長の後継者。
 次女、妍子・・・三条天皇中宮(皇后)。
 五男、教通・・・関白。
 四女、威子・・・後一条天皇皇后。
 六女、嬉子・・・後朱雀天皇・東宮妃。
明子の子供は、
 次男、頼宗・・・右大臣。中御門家の祖。
 三男、顕信・・・従四位下・右馬頭に任官するも、すぐに出家。
          その行動について、道長から「不足職之者」と非難されたのが原因とも。
 四男、能信・・・権大納言。
 三女、寛子・・・敦明親王女御。
 五女、尊子・・・源頼房室。
 六男、長家・・・権大納言。御子左家の祖。

以上のように列記してみると、その差が歴然としている。もちろん、明子の子も、並の公卿としてみれば、相応の地位に達しているともいえるが、全員を兄弟姉妹としてみれば、母親による差はあまりにも激しい。
その理由は、道長は、倫子を正妻として遇し、明子をその他の妻妾とは同列としないまでも、次位の妻といった立場としたためである。
その理由は何かといえば、二人の父親の境遇の差といえよう。

明子の父・高明は、醍醐天皇の第十皇子であったが七歳の時に皇族の地位から離れたことはすでに述べたが、何といっても一世の源氏であり姉は村上天皇の中宮という恵まれた環境にあり、順調に官位を上げて左大臣に上っている。なお、一世源氏とは天皇の子が源の姓を賜った場合をい言い、親王の子が賜った場合は二世源氏と言う。 
しかし、安和二年(969)、安和の変と呼ばれる源満仲らの謀反事件に連座し、太宰権帥に左遷された。実質的に流罪である。高明が五十六歳の時のことで、明子が五歳の頃のことであった。
この流罪は一年ほどで許され都に戻ったが、以後政界に復帰することなく、十二年ほど後に没している。
明子は、父の失脚後、叔父の盛明親王(醍醐天皇の皇子)の養女となるが、親王没後は東三条院 ( 一条天皇生母 ) の庇護を受け、道長と結婚するに至った。明子が二十二歳前後だったと考えられる。

倫子の父・雅信は、宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で、宇多源氏の祖とされる人物である。
同じく左大臣まで上るが、倫子が道長と結婚した時期はその絶頂期であり、一上 ( イチノカミ ・ 公卿の筆頭、通常は左大臣 ) として活躍していて、倫子と道長が結ばれると、道長を自邸の土御門殿に住まわせたのである。これにより二人の妻の上下関係は明確になってしまったのである。
また、倫子が結婚間もなく長女彰子を生んだが、この女性の栄達もそれぞれの子供に大きな影響を与えることになったかもしれない。

道長は、多くの子供に恵まれたが、女性でいえば、宮中での栄達ということからすれば、彰子が第一番だということに異論がないであろう。
平安王朝文化の絶頂期ともいえる一条天皇に入内し、後一条天皇、後朱雀天皇の二人の天皇の生母となり、自らも上棟門院という女院を得るなど、およそ女性として望めるすべての地位を引き寄せて、八十七歳の長寿を全うしているのである。
しかし、人の生涯の幸せというものは、そうそう安易に甲乙を付けられるものではない。最上の位を得たからといって、道長の娘の中で彰子が最も幸せであったというのは、胆略にすぎるかもしれない。

そう考えてみると、一人の女性が浮かび上がってくる。
それが、道長の五女として生まれた尊子である。

     ☆   ☆   ☆


尊子 ( ソンシ / タカコ ) は、長保五年(1003)に生まれた。
母は、道長の妻としては倫子の後塵を拝したとされる明子である。
尊子は道長の五女にあたるが、明子が儲けた子供の五番目の子でもある。
道長の長女である彰子は、この時十六歳で、すでに一条天皇のもとに入内しており、まだ子供は儲けていなかったが、中宮として後宮の中心にあった。彰子の前の中宮である定子は、一条天皇に惜しまれながらすでに他界していた。

尊子は、二十二歳で右近衛権中将であった源師房と結婚した。
師房はこの時十七歳、尊子より五歳年下の夫であった。
師房の父は村上天皇の皇子である具平親王であるが、誕生の翌年には亡くなっており、姉の隆姫女王の夫である藤原頼通の猶子となった。頼通というのは道長の嫡男である。
十三歳の時従四位下に叙され、ほどなく元服し源姓が与えられた。これにより、師房は村上源氏の祖となるのである。

このような血統の持ち主ではあるが、尊子と結婚する時点ではまだ公卿に列しておらず、道長の娘で皇族でも公卿でもない「ただ人」と婚姻を結ぶのはこれまでに例がなく、同母兄たちは不満を抱いていたとされる。
しかし、道長は師房の人格・才能を高く評価していたようで、「頼通に男子が生まれなければ、師房に摂関家を継がせてもよい」といったとも伝えられていて、尊子を冷遇するつもりなど全くなかったと思われる。
「ただ人」として尊子と結婚した師房であったが、その後は道長・頼通の後見を得て、内大臣、右大臣にまで上り、七十歳で亡くなる時には、太政大臣に任ずるとの宣旨も下されていたという。

尊子は、夫が亡くなった十年ほど後に八十五歳で没しているが、二人の婚姻生活は五十三年程にも及び、その仲は睦まじかったとされる。
宮中で華やかな日々を送り、望めるすべてを得たかに見える彰子も八十七歳の長寿にも恵まれたが、夫の一条天皇との婚姻生活は十二年程で夫に先立たれ、天皇位についた二人の息子にも先立たれている。さらに、孫にあたる後冷泉天皇、後三条天皇さえも見送ることになり、長寿ゆえの悲哀を味わっているのである。

当時の天皇家や公卿たちの婚姻生活が、それぞれの人たちの幸せにどれほどの影響があったのか、さらに言えば、婚姻生活の幸不幸をその期間の長短で論じることに意味があるとは思わないが、少なくとも、明子を母として道長の娘として生まれた尊子は、権謀術数渦巻く摂関家の近くにあって、比較的平安な生涯を送った女性であったと思われるのである。

                                                    ( 完 )

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