雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

友を大切に ・ 心の花園 ( 36 )

2013-03-30 08:00:00 | 心の花園
          心の花園 (36)

            友を大切に


友と呼べるような人は、そうそう得られるものではありません。
いくらこちらが望み、一生懸命に尽くしたところで、その結果として本当の友人など得ることなどありません。
少々の意見の違いや感情の行き違いがあったとしても、あなたが信頼できる人物だと思っているのであれば、絶対に絶縁状態などにしてしまってはいけません。
もっとも、真の友というものは、一時の衝突などで途絶えてしまうような関係でないことも事実ですが・・・。

心の花園の藤棚で一休みしてくださいな。
淡い紫色の房は、他の花の追随を許さない見事な存在感を示しています。
「藤」は、わが国原産の花木で、古くから人々に珍重されてきました。
かの清少納言は枕草子の中で、『あてなるもの、水晶の数珠、藤の花』と書き残しています。また、「藤」を女性に、松を男性にたとえて、この二本を近くに植える風習があったそうです。

いずれにしても、この独特の雰囲気をもつ藤の花を見ていますと、心が落ち着き、たいていのことは許せる気持ちになってきますよ。
「藤」の花言葉は「歓迎」です。藤の花と共に、あなたも歓迎の門扉を開いてくださいな。
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桜の季節 ・ 心の花園 ( 35 )

2013-03-24 08:00:14 | 心の花園
          心の花園 ( 35 )

              桜の季節


桜の季節がやってきました。今年は各地とも例年より開花が大分早いようです。
卒業式や入学式、あるいは長年勤めた会社を退社する人もいるでしょうし、新たに社会人としてスタートする人もいることでしょう。

希望に満ちた季節でもあり、少々考えさせられることも多い季節です。
でも、しばらくは、素直に美しい桜の花を愛でて、気持ちを休めることも大切な季節です。

心の花園の「桜」も満開間近です。
私たちは、「桜」といえばほとんどの人がソメイヨシノを連想します。気象庁などの桜の開花予想なども、このソメイヨシノが対象です。

でも、ソメイヨシノという種類は、江戸時代に江戸の染井村で交配によって生み出された比較的新しい品種なのです。
『敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花』と本居宣長も詠んでいるように、古代から歌に詠われている桜は、山桜なのです。

また、現在、都道府県の花として四つの都府県が桜を選んでいますが、それぞれ種類が違うのです。
東京都はソメイヨシノ、山梨県はフジザクラ、京都府はシダレザクラ、奈良県は奈良ヤエザクラ、といった具合です。
「桜」の花言葉は「精神の美」そして「優美な女性」です。
花言葉のいわれを説明することなどないように、やはり桜の花は私たちにとって特別な存在のようです。
ぜひ、お花見など楽しんで、英気を養ってくださいな。
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運命紀行  朝日の三姉妹

2013-03-21 08:00:20 | 運命紀行
         運命紀行

            朝日の三姉妹


戦国時代、三姉妹といえば、おそらく多くの人は浅井三姉妹を連想するのではないか。
すなわち、浅井長政とお市の方の娘、お茶々、お初、お江の三姉妹である。
確かに、著名度、あるいはその後の数奇な生涯を考えれば、戦国時代においてこの三姉妹を超える題材は、そうそう見つけることは出来まい。
しかし、やや小粒とはいえ、朝日殿の三姉妹も、なかなかに味わい深い。今回の主役は、朝日殿の末の姫、「やや」である。

朝日殿の生家杉原氏は、平氏を祖とする播磨の土豪であったが、室町時代の頃尾張国朝日村に移り土着したとされる。但し、この時代の武者などの経歴は、立身した人物であればある程信憑性が疑われる面をもっており、杉原氏の平氏末裔というのもどの程度の血脈と考えてよいのかはよく分からない。
ただ、朝日殿は定利を婿として迎え入れているので、一応一家をなした土豪であったらしい。

夫婦となった杉原定利と朝日殿の間には、長男家定と、くま、ねね、やや、の三人の娘が生まれている。もう一人男児がいたともされるが、消息を確認することが出来なかった。
なお、朝日殿も本名は「こひ」で朝日殿というのは出身地から後に称されるようになった名前である。
朝日殿には七曲殿と呼ばれる妹がいた。妹は浅野長勝の家に嫁いでいたが子供がいなかった。浅野家は織田家に弓衆として仕える家柄で、杉原氏よりは少し格が上であったようである。そういうこともあってか、ねねとややの下の二人の娘は杉原氏の養女として育てられることになった。

長男の家定は、やがて家督を継ぐが、その後木下と改姓している。その理由は今一つはっきりしないが、どうやら朝日殿の夫となった定利の旧姓が木下であったか、木下姓に何らかのゆかりがあったように想像される。中には、出生を問われた定利が「木の下がわが家」と天下放浪の身を語ったことが木下となったという逸話もあるらしいが、少し作為的に見える。
いずれにしても、木下家定となった嫡男は、義弟となった後の豊臣秀吉に付かず離れずしながら悠然たる生き様を示してくれる。

長女のくまは、医者の三折全成に嫁ぐ。この頃の医者というのがどの程度の社会的な地位であったのかはなかなか難しいが、一家を構えた医者であれば、名家の部類にあったのではないか。ただ、自称医者という輩も少なくなかったらしく、そちらであれば呪術師か詐欺師に近い人物も少なくなかったらしい。
ただ、くまはしっかりとした生活を続けていたらしいことは、後に北政所と呼ばれ天下第一の女性となった妹とも行き来があったことから分かる。
晩年には、長慶院と名乗り、京都妙心寺の塔頭長慶院を建立して今日に伝えている。このあたりのことに付いては、妹からの援助もあったのかもしれないが、高台寺という壮大な寺院を営む妹高台院とはずっと温かな関係を保っていたらしい。
そして、寛永元年(1624)に病を得て没した。八十歳に近い頃であったか。
奇しくも、妹高台院も同じ頃に病を得、姉長慶院に一月ばかり遅れてこの世を去っている。

その、次女のねねであるが、この人について語るとなると、少々の文字数では紹介することは困難である。若干の経緯だけを記録しておく。
ねねは誕生間もなく浅野長勝・七曲殿夫妻の養女となる。妹のややも同じく養女となるが、同時だったのか時間差があったのかは分からない。
十四歳の頃、十一歳ほど上の藤吉郎(後の豊臣秀吉)と結婚。藤吉郎が木下を名乗ったのは、ねねの兄である木下家定に勧められたものらしい。
この結婚には、ねねの生母朝日殿は強く反対したらしい。年齢差と、藤吉郎が再婚でありすでに女性関係にだらしなかったかららしい。
その後の、日の出の勢いの藤吉郎と、それを支え続けたねねの物語は割愛するが、歴史を、豊臣秀吉を中心とした見方から、高台院ねねを中心とした見方に変えた場合、違うものが見えてくるような気がするのである。

この日の出のごとく上り詰め燦然と輝き続けた豊臣秀吉に、朝日殿は何かと苦言を投げつけていたらしい。嫡男家定の処遇に不満があり、正室ねねの立場などを護りたい一心からなのだろうが、なかなかの肝っ玉母さんであったことは確からしい。
天下を収める器量を持った秀吉であるから、いくら肝っ玉母さんに苦言を呈されても、その器にない家定に重要な役目を与えることなどなかったが、家定の官位は従三位中納言にまで上っているのである。
他の大大名と比べてみてもその官位の高さに驚くが、どうやら秀吉も朝日殿は苦手だった証左のような気がして、可笑しくなってくる。


     * * *

さて、末娘ややは、浅野家で大切に育てられたことであろう。
子供のいなかった浅野長勝と七曲殿夫妻は、七曲殿の姉夫妻からねねとややの二人の娘を養女として貰い受け大切に育ててきたが、僅か十四歳で上の娘ねねを藤吉郎というとんでもない男に取られてしまったのである。残された妹のややには、何としても浅野の家を継がす必要があったのである。
そして、白羽の矢が立てられたのは、姻戚関係にある安井重継の子長吉(ナガヨシ)であった。
浅野夫妻は長吉をややの婿として迎え入れた。後の浅野長政である。

ややの生年は、天文十八年(1549)前後と考えられる。
実は、この三姉妹の生年はいずれも確定されておらず、その生まれ順を疑問視する研究者もいる。
家定が天文十二年(1543)、ねねが天文十六年(1547)という生年が正しいと仮定すれば、くまやややの生年も概ね推定できる。
夫となった長政(長吉が長政に改名するのはずっと後年のことである)は、朝日殿が嫡男家定の出世の遅いことを秀吉に苦言を言っていたのには、この長政の出世ぶりと比べていたらしい。
浅野家は信長直臣の家柄であったが、秀吉の台頭とともに最も近い姻戚である長政を秀吉の与力として付くことを命じたのである。

天正元年(1573)、浅井攻めで功績を認められた秀吉は小谷城主(後に長浜城主)となった。この時長政も、近江国内で百二十石が与えられた。
信長の死後は秀吉に仕え、天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いの功により、近江国大津二万石が与えられた。
天正十二年には京都奉行職となり、秀吉政権下の中枢を担うようになり、後に五奉行の筆頭に任じられている。その行政手腕は高く評価されていて、太閤検地では主導的な役割を果たし、秀吉政権下で諸大名から収奪した金銀鉱山の管理を任されていた。

天正十四年には、秀吉は徳川家康を臣従させるため、秀吉の妹旭姫を正室として娶せることになったが、この時旭姫を浜松まで護衛する役にも就いている。
天正十五年、九州征伐でも活躍し、同年九月には、若狭国小浜八万石の国持ち大名となった。
この間、ややは夫の活躍を支え、幸長、長晟、長重らと三人の姫を儲けている。

長政の活躍はその後も続き、奥州の仕置き、文禄の役でも功績を挙げ、文禄二年(1593)、甲斐国府中二十一万五千石が与えられ、甲府城に入り東国大名に取り次ぎ役を命じられている。
ただ、その職務は嫡男の幸長が主に行っており、長政は上方に詰めていた。
五大老筆頭の家康とは親しい関係にあり、このこともあって、秀吉没後は同じ五奉行である石田三成とは激しく対立したとされるが、必ずしも正しくないようだ。むしろ三成を糾弾しようとしていたのは嫡男の幸長であったようである。

しかし、家康からすれば、関東と大坂の戦となれば、最も恐れる相手は前田利家没したとはいえ利長率いる前田軍であり、豊臣政権の中核を担ってきた浅野長政であった。
慶長四年(1599)、家康暗殺との謀議が取りざたされ、前田家は芳春院まつを江戸に送ることで難を逃れ、浅野長政は自身が隠居して謹慎することとし、家督を嫡男幸長に譲って苦難を凌いだのである。

慶長五年の関ヶ原の戦いにおいては、いち早く家康を支持し、長政自身は秀忠の軍に属し、幸長は浅野主力軍を率いて東軍の先鋒として岐阜城攻略に加わり、本戦でも活躍した。
戦後、幸長はその功績により紀伊国和歌山三十七万石に加増転封された。長政自身は江戸幕府成立後は家康に近侍し、慶長十年(1605)に江戸に移った。
慶長十一年には、幸長とは別に常陸国真壁五万石が与えられた。
慶長十六年(1611)、真壁陣屋で死去。享年六十五歳であった。真壁藩は三男の長重が継いでいる。

ややは、夫長政の死去により出家し、長生院と号した。
慶長十八年(1613)には嫡男である和歌山藩主幸長に先立たれた。まだ三十八歳であった。
幸長は父長政にも勝る豪の者で、いわゆる武断派の筆頭格であった。徳川政権下で厚遇を得ていたが、最後まで豊臣存続に腐心していたともいわれる。死因は病死であるが、その時期や状況が加藤清正と酷似していることから両者ともに暗殺との噂もつきまとっている。
ただ、男子のいなかった幸長の跡は弟(長政次男)の長晟に相続することが認められ、さらに福島正則失脚後には安芸国広島四十二万石に加増転封されているので、暗殺は考えにくい。
浅野本家は、西国の雄藩として江戸時代を生き抜いて行くのである。

元和二年(1616)、長生院ややは江戸において没した。享年六十八歳の頃であったか。
その頃、長生院ややの二人の姉であるくまとねねは、やはり長慶院と高台院という仏に仕える姿で交流があった。遠く江戸にあった長生院ややは、二人の姉と音信を交わすことがあったのだろうか。
それはともかく、肝っ玉母さん朝日殿の三人の娘は、母が願った通りの十分な生涯を送ったように思うのである。

                                        ( 完 )
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胸を張って ・ 心の花園 ( 34 )

2013-03-18 08:00:32 | 心の花園
          心の花園 ( 34 )

            胸を張って


ええ、そうですよ。
あちらこちらへと気を使って、人の顔色を窺って生きていっても、本当の味方ができるわけではありませんよ。
ふてくされることをお勧めするわけではありませんが、もう少し自分を大切にして、胸を張ってみてはいかがですか?
他人の言動ばかりに神経を使ったからといって、自分の実力が高まるはずはないのですから、自分の身の丈だけで生きて行けばいいのです。身の丈なんて、傲慢であってはいけないけれど、胸を張って地に足をつけて歩いているうちに伸びるものではないでしょうか。

心の花園に「ダリア」が豪華な花を咲かせています。
もともとメキシコ原産の花ですが、明るくて豪華で華やかです。今もメキシコの国花になっています。
日本へは、江戸末期にオランダ人によってもたされた比較的新しい花ですが、その種類の豊富さや華やかさから、花壇や鉢花、さらには切り花としてとても人気の高い花です。

園芸品種としてとても種類が多く、例えば、花の大きさでいえば、30cmを超える超巨大輪から3cmに満たない可愛いものまであります。
草丈でいっても、150cmを越えるものから50cm以下の小柄なものまでさまざまです。
花の形状に至っては、シングル咲きに始まって、ポンポン咲き、オーキッド咲き、コラレット咲き、アネモネ咲き、ビオニー咲き、デコラティブ咲き、カクタス咲き・・・等々、大変な種類です。

「ダリア」一つとってみてもこれほどの品種があるのですから、人間の個性などはこんな程度ではないはずですよ。人の顔色より、自分の心根を大切にして生きていきたいものです。

「ダリア」の花言葉は、「華麗」そして「移り気」「不安定」です。
「華麗」というのは花の姿からすぐ連想できますが、「移り気」とか「不安定」というのは少々意外です。
この花言葉は、フランス革命後の政情が不安定な時代に栽培が流行したことから生まれたものだそうです。
「ダリア」といえども、それなりに苦難の時代を生きてきているのですねぇ。
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運命紀行  英雄の後ろで

2013-03-15 08:00:39 | 運命紀行
         運命紀行

            英雄の後ろで


わが国の歴史を俯瞰してみると、それぞれの時代に不世出と表現されるような英雄が登場している。
古代では、主として大王や天皇や有力豪族が中心であるが、少し時代が下れば、貴族階級などが加わってくる。しかし、これらは、政権者的な立場から考えた場合のことであって、芸術であるとか、宗教であるとかといった立場から見た場合、不世出の英雄といっても相当違う人物が浮かんでくることであろ。

このように、時代によりあるいは観点により英雄という人物の選定は様々であるが、やはり、戦国時代となると、他の時代以上に多様な人物を選び出すことが出来る。
天下人としての道を競い合った人物はもちろんとして、その過程で敗れ去った人物であれ、あるいは遥かに小さな舞台でしか活躍しなかった人物であっても、この時代の人物の生き様には心魅かれることが多い。
しかし、それらの多くの豪傑・英雄を輩出した時代にあって、あえて一人となれば、豊臣秀吉を挙げる。
この際好き嫌いは別にしなければならないが、織田信長や徳川家康にも同等以上の魅力を感じるが、一介の農民の子供からの活躍ぶりは、他の二人を圧倒する。
しかし、秀吉の鰻登りのような出世ぶりの陰には、未だに私たちが十分承知していないような何らかの要因があるように思えてならないのである。

例えば、ごく言われることであるが、信長に仕えることが出来たことであるとか、北政所と呼ばれることになる「ねね」の内助の功や、墨俣の一夜城などでよく知られている蜂須賀小六ら川並衆との繋がりは、単に面倒を見たとか気が合ったといったことでは説明できない何らかの繋がりがあったようにも考えてしまう。
そして、今回登場する木下家定という人物も、そのような秀吉を支えた一人のように思われるのである。

木下家定は、天文十二年(1543)の生まれである。
父は杉原定利、母は杉原家利の娘で、後に朝日殿と呼ばれる女性である。
杉原氏は桓武平氏の流れとされているが、当時の一族は農業を生業として行商など行っていたようで、時には戦働きをするといった階層であったらしい。

家定は嫡男であり、当初は杉原の家督を継いだがその後木下に改姓している。
家定には、くま・ねね・やや、という三人の妹がいたが、ねねとややは幼いうちに浅野長勝の養女となっている。長勝の妻は朝日殿の妹七曲殿で、子供のいない夫婦に請われたものらしい。
ねねとややは、浅野の家で成長していくが、ねねが十四歳の頃、とんでもない人物と結婚することになる。
そのとんでもない人物とは、後の豊臣秀吉、木下藤吉郎である。この結婚にはねねの生母朝日殿は大変な反対であったらしい。ねねはまだ十四歳であり、藤吉郎は十一歳ほど上で女性関係もいろいろ問題があったからである。朝日殿と藤吉郎は後々まで仲が良くなかったともいわれるので、虫の合わない関係だったのかもしれない。

しかし、やがて二人は強引に結婚する。今少し朝日殿が反対を通していたら藤吉郎の将来はどうなっていたか分からず、豊臣家というものは誕生していなかったかもしれない。
ただ、親族の少ない藤吉郎に木下の姓を与えたのは木下家定であるという説もあるので、この二人とは交際があったと考えられ、ねねの結婚にはこのあたりのことも働いていたのかもしれない。
いずれにしても、この結婚によって家定と秀吉との関係は強まり、やがて家定は秀吉の直臣となる。年齢は秀吉の方が七歳ほど年上であるが、義兄にあたることもあり当初は何かと頼りにしたと考えられる。

木下家定について、秀吉に関する歴史書や物語にはたまには登場してくることはあるが、目覚ましい活躍場面にはなかなかお目にかかれない。少なくとも、同じ秀吉の一族がらみといっても、加藤清正や福島正則のような武者働きは記録に残されていない。
それでも、天正十五年(1587)には播磨国に一万一千石余の知行地が与えられ、従五位下肥後守叙任、羽柴氏並びに豊臣性も授けられた。
さらに、従三位中納言に昇進、文禄四年(1595)には姫路城主となり、大坂城の留守居役にも任じられた。

このあたりの目覚ましい昇進は、家定の活躍からとは想像し難く、弟秀長の死去や一度は関白に就けた秀次を死に追いやったことなどが関係していると考えられ、秀吉に取って家定が安心できる人物であったということもいえるが、一族に有力者をもたない秀吉の悲劇とも見える。

やがて秀吉は没し、時代は大きく動いて行く。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では、高台院となった妹ねねを守って合戦に参加することはなかった。
中立とも様子見ともみえる行動ともいえるが、高台院の存在価値を高く評価していた家康は、家定の働きを称賛して、戦後の論功行賞においては、備中国に二万五千石の領地が与えられ、足守藩の初代藩主となるのである。

秀吉生存中の功績については、単なる賢妻ねねの兄であることへの配慮だったようにしか見えないが、関ヶ原の後の家康の家定への処遇をみると、これもまた高台院ねねの恩恵だとは思えないのである。
豪快華麗に絶頂を極めた英雄秀吉の遥か後ろで、ただ付き従っていたかに見えた木下家定。しかし、秀吉没後の姿を追ってみると、もしかすると、秀吉とは全く違う形ではあるが、一つの運命をつつましやかに、結果において、力強く生き抜いた一人の男の姿として見えてくるのである。


     * * *

木下家定について、興味深いエピソードがないか探してみたが、なかなか見つからなかった。
秀吉に信頼される人物として、家中でそれなりの評価は受けていたと思われるし、表立った活躍はなくとも秀吉政権下でそれなりの働きはしていたのは確かであろう。
しかし、先に述べたように、家定やねねの実母である朝日殿はずっと秀吉とは仲が良くなかったらしい。その理由の一つは、ねねが養女として入った浅野家に比べて木下家に対する処遇は相当低いものであったこともその原因らしい。つまり、秀吉にとって家定という人物は、安心できる人物ではあっても大きなものを期待できる人物ではないという評価であったようだ。
事実そうだったのかもしれないが、稀代の英雄から少し離れて、ゆっくりと付いて歩いていたような人物だったのかもしれない。

ところが、わが国の歴史全体を考えてみると、木下家定の存在を過小評価することはとんでもない間違いであることが分かる。
天下分け目の戦いと言われる関ヶ原の合戦は、さまざまな見方や さまざまな策謀が渦巻いた戦いであった。この戦いは家康が大坂城を離れた時からすでに始まっていたともいえるし、全国各地で戦いが展開されている。だが、関ヶ原で行われた東西両軍の大激突だけに絞った場合、勝敗を大きく左右させた人物は、おそらく小早川秀秋であろう。
膠着状態が続き、むしろ西軍が押し気味と見えた時、小早川秀秋の檄のもと小早川軍らの大軍が東軍に寝返り西軍は一気に崩れ去ったのである。

この関ヶ原の戦いの勝敗の帰趨を決定づけた小早川秀秋は、木下家定の五男なのである。
この時家定は、遥か京都の地で高台院と共に東西の対立を静観していた。
小早川秀秋の裏切りに家定も高台院ねねも全く関係ないのかもしれない。
ただ、家康は高台院ねねを大切に遇していたし、戦後処理において家定に好意的であったことも事実である。

家定は備中足守藩二万五千石を興した後、慶長九年(1604)に二位法印に叙せられ、同十三年(1608)京都で没した。享年六十六歳、まるで、この激しい時代をすり足で生き抜いたような最期であった。
なお、備中足守藩は、一時領地没収という危機にもあっているが、その後家定の次男利房に相続がゆるされ、江戸時代を生き抜いて行くのである。

                                         ( 完 )
  
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ほっと一息 ・ 心の花園 ( 33 )

2013-03-12 08:00:45 | 心の花園
          心の花園 ( 33 )

            ほっと一息


どうされました?
確かに可愛い子犬ですが、幼い子供とじゃれあっているのを、飽きもしないで見ておられましたね。
もう、かれこれ三十分にもなりますよ。
ほら、見てごらんなさい、子供たちはまだ遊び足らないようですが、子犬の方が飽きてしまったようですよ。

少しお疲れなのではありませんか。それも、身体というより心の方が・・・。
そんな時には、ぜひ心の花園を覗いてみてください。
そうですね、ほら、「ユキヤナギ」が白い可愛い花をいっぱいに付けているのが見えるでしょう。多分、柳の枝に雪が積もったように見えることから付けられた名前なのでしょうが、全くそのようで、実に可憐な花ですよね。

この花の原産地は、中国という説もあるようですが、おそらく日本固有のものもあるようです。
主に関西より西の地方にはたくさん自生していましたが、現在では石川県など一部の地域では絶滅が危惧されているようです。
植物に限りませんが、可愛いものを守り伝えていくためには、やはり相応の配慮や努力が必要なでしょうね。

「ユキヤナギ」の花言葉は、「愛らしさ」そして「殊勝」です。
子犬も行ってしまったことですから、しばらくは「ユキヤナギ」を眺めて、心を休めてくださいな。
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運命紀行 ・ 荒波の陰で 

2013-03-09 08:00:09 | 運命紀行
         運命紀行

            荒波の陰で


何をもって幸運といい、何をもって不運というかについては、一定の基準などないと思う。それぞれの価値観や、人生の捉え方によって幸運も不運も千差万別といるからである。
しかし、歴史上の人物を俯瞰してみた場合、やはり、運・不運はあるように見える。

松姫は、永禄四年(1561)、武田信玄の第五女として誕生した。母は側室の湯川氏である。
同母の兄弟姉妹には、信玄の意向で信濃の名族仁科氏の養子となった仁科盛信、駿河の名族葛山氏の養子となった葛山信昌、木曽義昌に嫁いだ真理姫、上杉景勝に嫁いだ菊姫らがいる。
これらの養子や婚姻は、当然武田家の勢力拡大あるいは安泰のための政略的なものであることは当然で、松姫にも同じような未来が用意されていたのである。

永禄十年(1567)十二月、武田・織田の同盟強化の一つとして、織田信長の嫡男信忠と松姫との間で婚約が調った。信忠十一歳、松姫はまだ七歳であった。
政略結婚であるから、花婿花嫁の年齢など関係ないが、そうとはいえ松姫があまりに幼いため結婚を先に延ばしたように思われるが、実は、この時に二人の婚姻は成立していたらしい。
織田家からは膨大な引き出物が届けられ、武田家では躑躅が崎の館に二人のための新居が立てられ、以後松姫はそこで大切に育てられることになった。記録にも、「信忠正室を預かる」とあり、松姫も新館御寮人と呼ばれたらしい。そうであれば、婚姻は成立していて、当面は新妻を武田家で預かるという形であったようだ。

元亀三年(1572)、信玄は三河・遠江方面へ大規模な侵攻を開始した。この時の三方ヶ原での合戦は、家康の生涯において最大の敗戦だったといわれる。
家康とは長い同盟関係にある信長は徳川に援軍を送ったため、武田と織田の同盟は破綻、連動して松姫と信忠の婚姻も解消となった。

天正元年(1573)には信玄が没する。異母兄の勝頼が武田家の家督を継ぎ、松姫は兄の仁科盛信の庇護を受けることとなり、高遠城下の館に移った。
天正十年になると、織田・徳川の連合軍が武田領に侵入、武田方の豪族たちや、一門に繋がる勢力さえもほとんど抵抗することなく降伏し、織田軍の総大将信忠は五万ともいわれる大軍で高遠城に迫った。
城主である仁科盛信は、危険が迫るのを知ると松姫を幼いわが娘督姫とともに、勝頼のいる新府城に逃れさせた。
高遠城を守る将兵は僅かに三千、勝敗の帰趨は自ずから明らかであり、信忠は一度は義兄弟の関係にあった盛信に開城を進めるが聞き入れられず、多くの武将たちが簡単に降伏するなかで、盛信以下高遠城三千の将兵は華々しく討ち死する。

松姫が逃れた新府城も、織田の大軍が迫っており、松姫も兄盛信の最期を知る。
かつては夫婦の契りを誓った信忠に、兄盛信は討ち取られ、いま大軍を率いて進軍していることを知った松姫の心境は察するに余りある。
勝頼主従は、新府城が未完成の城であり籠城には適しておらず、協議の結果一門の小山田信茂の居城岩殿城を目指すが、到着直前に信茂の謀反にあい、結局天目山棲雲寺に行く先を変更したが、途中織田の先鋒隊に追いつかれ、勝頼は自刃、武田の嫡流はここに滅びる。

一方松姫は、勝頼主従たちとは行動を共にせず、僅かな従者に守られて、三、四歳の姫三人を連れて、東に向かって脱出した。
笛吹川を渡り、僅かな縁故を頼りにしての脱出行であった。その辺りはもともと武田の領地であったが、勝頼敗れるの報に北条軍が展開しており、後方からは織田や徳川の残党狩りが迫っていた。さらに恐ろしいのは、落ち武者を待ち構えている野伏せりたちであった。

武将の娘とはいえ深窓に育った松姫には、全く経験したことのない過酷な道行きであった。幼い姫たちを励まして懸命に歩き続け、海島寺(現山梨市)に辿り着いた。海島寺は武田氏ゆかりの尼寺で、しばらくここで手厚くもてなされたが、探索の手は迫っており、再び東に向かって出立した。
国境の峠を越え、ようやく武蔵国多摩郡の金照庵(現八王子市)という尼寺に入った。その道中でも、向嶽寺などの寺院や時には野宿をしながらの逃避行であったことであろう。

この金照庵に身を置いた頃、信忠がその消息を知り迎えの使者を送ってきた。
すでに離縁された身であるとはいえ、松姫にすればまだ会ったこともない信忠ではあるが、身内の多くを失った中での信忠の配慮は嬉しかった。
迎えの使者たちとはるばる信忠のもとへ向かっていた時、「信忠自刃」の報が届けられた。本能寺の変が勃発したのである。

同年秋、心源院(現八王子市)に移り、出家して信松尼と称した。松姫二十二歳の時である。
なお、この名前の「信」は、父親信玄と結ばれることのなかった夫信忠から取ったといわれ、この後は武田一族に加え信忠の菩提を弔ったという。

武田という戦国屈指の武家の家に生まれ、織田という天下人の嫡男と結ばれ、逃れてきた八王子はこれもまた戦国の雄ともいえる北条氏の勢力圏であった。そして、出家してようやく心の平安を得られるかにみえたが、信松尼は間もなく近くのあばらやに移り住んでいる。
その原因は、秀吉率いる北条討伐軍により信源院は戦乱に巻き込まれたらしい。
さらに、北条滅亡後は八王子は徳川の領地となり、又々天下人と関わることになるのである。

戦国末期の、多くの英雄たちの野望の陰で、荒波に翻弄されながらも生き抜いた女性、信松尼松姫。ただ、最後の徳川家康からは、手厚い保護を受けたようである。


     * * *

松姫には、織田家と手切れになった後や、八王子に辿り着いてからも幾つもの縁談があったらしい。
何といっても、戦国の色濃い時代には、信玄の娘というのは大変なブランドだったからである。しかし、松姫には信忠の妻であったという思いが強かったらしく、それらの縁談話をことごとく断っているようである。
一説には、信忠の忘れ形見である三法師の母親を松姫としているらしいが、二人が対面したとは考えられないのでとても真実性のある説とは思えない。

信松尼となった松姫は、甲斐から山を越え谷を越えて共に逃れてきた三人の姫を養育しながら武田一族と信忠の冥福を祈りながら後生を過ごしたという。
一説によれば、この三人の姫というのは、仁科盛信の娘督姫、武田勝頼の娘貞姫、小山田信茂の娘香貴姫であったという。もしそれが真実であれば、小山田信茂は土壇場で主君を裏切っているので、その娘を慈しみ育てているのは、すっかり仏に仕えている身だったのであろう。
この娘たちの内二人は家康の仲立ちで嫁いだといわれ、督姫だけは身体が弱く出家の道を選び二十九歳で没している。

徳川家康は、武田の遺臣たちを大切に処遇していることも多く、信松尼に対しても何かと援助があったらしい。特に代官職であった大久保長安は、草庵を提供するなど手厚い支援をしている。
また、武田の旧臣たちを取り纏めて甲州への備えとした八王子千人同心たちにとって、信松尼の存在は心の支えであったという。
また、これは大変有名な話であるが、後の名君保科正之の幼年期を姉の見性尼とともに秀忠夫人お江らの弾圧から守りぬいている。
さらに、三人の姫たちを育てるために蚕を育て織物を作って収入を得ているが、これが八王子織物として発展していっている。

戦国期を代表する武将たちの野望の荒波の陰で懸命に生きた信松尼松姫は、元和二年(1616)四月、五十六歳で世を去った。草庵の跡は、現在に伝わっている信松院である。
また、松姫峠や松姫湖という名前が現在も使われているが、いずれる松姫に因んで名付けられたものである。

                                     ( 完 )


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家族は大切 ・ 心の花園 ( 32 )

2013-03-06 08:00:56 | 心の花園
          心の花園 ( 32 )

             家族は大切


そうですか、上手く仲直り出来ましたか。良かったですね。
どんな場合でも家庭を第一にする生活など、そうそう出来るものではないですが、やはり、家庭って大切ですよ。
何もない時は、むしろ負担に感じることの方が多いような気もするのですが、深刻な問題が発生した時などには、やはり、家庭の持つ力や温かさは、得難いものではないでしょぅか・・・

でも、問題解決にお疲れじゃないですか?
そのような時には、ぜひ心の花園を散策してください。心を休めることが出来ますよ。

ほら、小さな花が精一杯に花を咲かせているでしょう。赤、ピンク、紫と色合いもきれいでしょう。ここには無いようですが、白い花もあるのですよ。
あの花は「バーベナ」と言います。世界には二百五十ほどの種類があるそうですが、大半はアメリカ大陸を原産としており、ヨーロッパやアジアにも自生しています。わが国にも帰化植物として古くから自生しています。

花名は、ラテン語で「宗教に用いる枝」という意味だそうで、キリストを十字架に打ち付けた釘からこの花が生まれたという伝説もあるそうです。
何とも凄い伝説ですが、わが国には別名として「美女桜」という名前が付けられています。こちらの方は、少々厚かましい名前のような気がします。
園芸種としても様々交配が行われ、可愛い種類が増えています。今日あたり、一鉢お土産に買って帰るのもいいのではありませんか。

そうそう、「バーベナ」の花言葉は、「家族のだんらん」です。
せいぜい家族を大切にして下さいな。
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運命紀行  散りゆく中で

2013-03-03 08:00:58 | 運命紀行
         運命紀行

            散りゆく中で


『 祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
  沙羅双樹の花の色 盛者必衰のことわりをあらはす・・・ 』

ご存知「平家物語」の一説である。
この物語に代表されるように、永きに渡って繁栄を誇った一族が滅びて行く姿は、壮絶であり、そして哀しい。
それは、平家物語に語られている平氏一族に限ったものではない。
清和源氏新羅三郎義光以来の名門として、甲斐の地で永年に渡り勢力を誇ってきた武田氏の最期にも同じ姿が見え、戦国の世とはいえ余りにも厳しい終焉である。

稀代の英雄、武田信玄が没すると、甲斐武田氏の勢力は急速に衰えていった。
跡を継いだ武田勝頼が凡庸であったわけではないが、信玄の存在は余りにも大きく、その死とともにこれまで従っていた豪族たちを繋ぎ止めておくことは至難の業といえた。
特に、信玄没後二年目の天正三年(1575)五月、長篠の戦いにおいて武田軍は織田・徳川連合軍に大敗を喫し、信玄以来の重要な家臣を多く失った。
この戦いを機に、武田氏の没落は加速していくのである。

まず、同盟を結んでいた北条氏や上杉氏との間に軋轢が生じるようになっていった。この時代の同盟は、あくまでも自家の優位を得るためのものであるから、力を有している間こそ意義があるが、一旦落ち目ともなれば、同盟先が安心できる保障など全くなかった。もっとも、それは、いつの時代でも変わらないが。
さらに、これまで信玄の実力になびいていた豪族たちに動揺が見られ、織田・徳川方の圧力の強い地域から順に離反の動きが広まって行った。

この頃織田信長は、石山本願寺や北陸の一向宗徒との戦いに忙しく、中国路の毛利氏との対立も激しくなってきていて、武田氏との戦いはもっぱら徳川家康に任せている形であった。
しかし、天正九年(1581)、武田方の高天神城陥落に関して武田勝頼は援軍を送ることができず見捨ててしまったことから、重臣たちの中からも離反者が出始めたのである。勝頼の妹が嫁いでいる木曽義昌もその一人で、織田方に寝返ったことを知ると信長は武田討伐の好機として、勝頼討伐軍の動員令を発した。

天正十年(1582)二月三日、織田軍は信長嫡男の信忠を大将として、まず先鋒隊が岐阜城を進発した。
織田軍は飛騨方面から、同盟者である徳川軍は駿河方面から信濃を目指し、さらに北条軍も呼応するかのように甲斐に向かっていた。
織田軍の先鋒隊森長可らは、二月六日には伊那街道から信濃に侵入した。街道筋の豪族たちは勝頼を見限り、積極的に織田先鋒隊の道案内を務めた。二月十四日には、松尾城(現飯田市)小笠原信嶺も織田軍に寝返った。
大将の織田信忠が岐阜城を進発したのは二月の十二日であるが、この頃には、先鋒隊はすでに飯田に入っていたのである。
飯田城の城主保科正直は、城を捨てて高遠城へ逃亡、これを聞いた勝頼の叔父武田信廉らは戦意を喪失して次々と逃亡している。

二月十八日には徳川軍も浜松城を進発した。この方面でも投降が相次ぎ、武田軍はほとんど戦うことなく、半月ほどで信濃の南半分を失ったのである。
この状況は、小仏峠などから軍勢を送り込んだ北条軍に対しても同様で、武田軍の指揮系統は崩壊しつつあった。

二月二十八日、織田先鋒軍に加わっている木曽義昌に敗れた武田勝頼は、諏訪での反抗を諦め新府城に撤退した。
高遠城を落とした織田本隊は本陣を諏訪に進め、武田氏の庇護下にあった諏訪大社を焼き払った。
三月一日には、武田一族である重臣の穴山梅雪が家康を通じて織田方に寝返った。梅雪を先導役として家康は甲斐への進攻を開始した。

三月三日、まだ未完成の新府城での籠城は困難と判断した勝頼は、逃亡先を重臣たちと協議した。真田昌幸は要害である岩櫃城を進言したが、小山田信茂は岩櫃城が遠いことを理由に自分の居城である岩殿城を勧めた。議論は伯仲したが、結局勝頼は、一族である信茂の意見を取り、岩殿城に向かうこととなり新府城に火を放った。
三月九日、勝頼らの一行は岩殿城を目前にした笹子峠(現大月市)で、信茂の裏切りにあい、岩殿城への入城を拒絶されたのである。

最後の砦と頼んだ城に入ることができなかった勝頼と嫡男信勝、正室北条夫人らは、僅かな側近たちに護られて、武田氏ゆかりの天目山棲雲寺を目指すこととなった。
三月十一日、勝頼一行は天目山を目前にした田野で織田軍の滝川一益隊に捕捉されてしまった。
最後まで付き従っていた側近たちは、勝頼たちの最期の場所を確保するために懸命の働きを見せて織田の大軍をしばらくは防ぎ切った。
その間に、勝頼・信勝・北条夫人らは自刃し、清和源氏の名門甲斐武田氏の嫡流は滅亡したのである。

信長が武田討伐軍を動員を発してから、二か月にも経たない間での滅亡であった。「人は城、人は石垣、人は堀」と鉄壁を誇ったはずの家臣団は、あまりにも脆く、あまりにも簡単に寝返っていったのである。
信忠軍の後詰をすべく、信長自身が大軍を率いて安土城を出立したのは三月五日のことで、まだ信濃にさえ足を踏み入れていなかったのである。

しかし、武田軍が何の抵抗もなく滅び去ったのかといえば、それは少し違う。
例えば、三月一日、信忠軍が高遠城を包囲した時、守将の勝頼の弟である仁科盛信は、兵力にあまりにも大きな差があり信忠は再三開城を促したが、盛信は壮絶な戦いを選び、信忠軍に少なからぬ損害を与え、ついに落城となった時自刃して果てている。

また、武田勝頼の最後の戦いともいえる天目山麓の田野での戦いは、僅かな手勢で滝川一益の大軍を一時は退却させるほどの働きをしたという。特に、土屋昌恒の武者働きぶりは、「片手千人斬り」の異名を残す程凄まじいものであったと後の世まで語られている。
この土屋昌恒や側近たちの働きがあったればこそ、武田勝頼に武将としての最期の時を提供することができたのである。


     * * *

土屋昌恒は、弘治二年(1556)、武田家譜代の家老衆である金丸虎義の五男として誕生した。
兄である次男の昌続は、武田信玄の近習として仕えていたが、土屋貞綱の養子となった。
土屋家は桓武平氏を引く名門で、元は駿河の水軍を率いて今川氏に仕えていたが、その後武田氏に臣従するようになった。

天正三年(1575)の武田家没落の切っ掛けとなった長篠の戦いには昌恒も加わっていたが、この戦いにおいて昌続とその義父貞綱は共に討死してしまった。そのため、土屋の名跡継承のため昌恒が家督を継ぐこととなり、土屋昌恒が誕生したのである。
昌恒は勝頼側近として仕え、おもに東海道、関東方面の戦いの多くに参加している。

天正十年(1582)の織田・徳川連合軍による甲州討伐戦では、有力豪族や譜代の家臣たち、さらには武田一門衆までもが次々と離反していった中で、昌恒は一部の側近たちと最後まで勝頼に付き従っていた。
天目山を目前にして滝川一益を大将とする織田軍に追い詰められた時、勝頼父子や夫人に武将らしい最期の時を稼ぐために、側近たちは数少ない手勢で織田の大軍を一度は退却させるほどの戦いをしているのである。

中でも土屋昌恒の武者振りは後世まで語り継がれる壮絶なものであった。
敵の大軍を一度は止めることは出来ても、兵力の差は如何ともし難く、味方の多くを失った勝頼の側近たちは、狭い崖路で大軍の進路を阻み、主君一族に最期の時間を作り出そうと奮戦した。昌恒は、崖から転落しないように片手を蔦の蔓に巻きつけて、片手で刀を持ち戦い続けたという。容姿端麗と伝えられている昌恒であるが、まるで悪鬼の如き形相での奮戦は、後々の世まで「片手千人斬り」と噂される戦いぶりであったという。
やがて、主君たちの見事な最期を知った側近たちは、戦いを収め次々と後を追って自刃して果てた。
名門甲斐源氏武田氏の壮絶な最期であった。

しかし、運命の支配者は、時には粋な計らいをするらしい。
土屋昌恒が自刃して果てたのは、二十七歳の時である。
彼には誕生間もない嫡男がいた(すでに六、七歳であったという説もある)。妻は先の高天神城の戦いで討死した勇将岡部元信の娘であった。

夫人は武田一族の滅亡を知ると、一子を連れて駿河の清見寺に逃げ込んだ。岡部氏も土屋氏も元は今川の家臣であったことから、駿河に何らかの縁故があったのかもしれない。
やがて、土屋昌恒の天晴れな武者振りを称える家康は、忘れ形見の消息を探させ召し出されることになった。
二代将軍となる秀忠の小姓として仕え、やがてその一字を与えられ、土屋忠直と名乗った。
天正十九年(1591)には相模国に三千石が与えられ、慶長七年(1602)の関ヶ原後の知行割りでは、上総国久留里藩二万石の藩主に抜擢されているのである。

「人は城、人は石垣、人は堀」と謡われた武田氏のあまりにも脆い最期の中で、土屋昌恒は、天晴れ武者も数多くいたことを教えてくれている。

                                         ( 完 )
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