雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  奥山深く

2014-01-27 08:00:20 | 運命紀行
          運命紀行
               奥山深く

 『 桜花散らば散らなむ散らずとて ふるさと人の来ても見なくに 』

これは、古今和歌集にある惟喬(コレタカ)親王の和歌である。
歌意は、「桜の花よ、散るのならさっさと散ってしまえばよい。散らないとしても、ふるさとの人が見に来てくれるわけでもないのだから」といったものであろう。
この和歌は、隠棲後の惟喬親王が親交のあった僧正遍照に送ったものである。
僧正遍照は、『 天津風雲のかよひぢ吹きとじよ 乙女の姿しばしとどめむ 』という小倉百人一首の歌でも知られているが、桓武天皇の孫にあたる当時一流の歌人である。
なお、歌の中にある「ふるさと」は、隠棲する前の都の生活を指しており、「ふるさと人」は僧正遍照のことを指しているのであろう。

それにしてもこの歌は、桜の花に託しているとはいえ、何とも厭世的で、投げやりとも思われる生活ぶりが偲ばれる。
新古今和歌集には、次のような歌も残されている。

 『 夢かともなにか思はむ憂き世をば そむかざりけむ程ぞくやしき 』

歌意は、「今の生活を夢であればなどと、どうして思いますか。憂き世を捨てきれなかった頃のことこそが悔やまれるのですよ」といったところか。
こちらは、在原業平が訪ねてきたときに詠んだ歌らしい。業平も、惟喬親王と従兄にあたる皇族の一員である。
こちらもやはり、やりきれないような虚しさが伝わってくる作品である。もちろん、和歌が作者の生涯を映し出しているものとは限らないし、意識的に悲劇を描き出しているものも少なくない。
それにしても、天皇家に生まれながら、このような厭世的ともいえる歌を残した人物の生涯を見てみたいと思う。

惟喬親王は、承和十一年(844)、第五十五代文徳天皇の第一皇子として誕生した。母は紀静子である。
平安京が開かれて五十年ばかりを経た頃で、朝廷内で藤原氏の台頭がめざましい時代であった。
嘉祥三年(850)、藤原明子に第四皇子である惟仁皇子が誕生すると、惟喬を取り巻く状況は激変した。惟仁皇子が誕生まもなく立太子したからである。
藤原明子の父は右大臣藤原良房で、朝廷内で絶大な勢力を有していた。良房は、この後、皇族以外で初めて摂政に就いた人物で、藤原氏の中でも北家全盛の礎を築いた人物でもある。
一方、惟喬の母の実家紀氏には、藤原氏に対抗できるような人材も政権基盤も有していなかったのである。

文徳天皇は、惟仁皇子を立太子させ将来の皇位を約束したことになるが、何分まだ幼児のことであり、惟仁皇子が成長するまでの繋ぎの形で惟喬皇子を天皇に就けるよう画策したようであるが、藤原良房の反対を危惧した側近の源信(ミナモトノマコト・嵯峨天皇の七男)らの諌言により断念したらしい。
天安元年(857)、十四歳の惟喬皇子は文徳のもとで元服し、四品に叙せられた。翌年には太宰権帥に任ぜられた。任地に赴くようなことはなかったが、皇位争いから完全に除外されたという宣告でもあった。
そしてその年、文徳天皇は崩御、九歳の惟仁皇子が即位した。清和天皇である。

惟喬親王は、その後、太宰帥、弾正尹、常陸太守、上野太守を歴任するも、貞観十四年(872)に病を理由に出家し、近江国滋賀郡小野に隠棲した。二十九歳の時である。
その後も、山崎、水無瀬などにも閑居し、在原業平、紀有常らと交流していたらしいが、朝廷に復帰することはなかった。
そして、寛平九年(897)に閑居先で崩御した。享年五十四歳であった。
清和天皇すでに亡く、第五十九代宇多天皇の御代となっていた。


      ☆   ☆   ☆

惟喬親王の略歴を見ると、不運ではあるが、激しい皇位争いが絶えなかった奈良・平安時代の皇族としては、よくある生涯ともいえる。
しかし、今少し詳しく見ると、そして、若干の想像が許されるならば、違う光景が見えてくる。

惟喬親王が朝廷を去り出家したのは二十九歳の時である。病気のためとあるが、隠棲先が近江国の小野の里ということであるが、重病であればとても移れる距離ではなく、むしろ、時の政権から逃れるためであった可能性が高い。
小野に移ったのちも、さらに山奥である神崎郡永源寺のさらに奥地である小椋谷に移ったらしい。おそらく、追手から逃れるためであったと想像される。
伝承によれば、この地で里人たちに轆轤(ロクロ)を教えたという。惟喬親王にそのような技術があるとは思えないが、付き従った側近たちの中には帰化系の人や技術者なども含まれていたのかもしれない。

一方で、惟喬親王には最低二人の子供はいたとされる。夫人の名前は伝わっていないが、子供の一人は兼覧王(カネミオウ)といい、生年が貞観八年(866)という説があり、これが正しいとすれば、惟喬親王が出家する以前のことなので、その後父と行動を共にしたのか、あるいは誰かに育てられたのかもしれない。また、父親は別だとする説もあるらしい。
この兼覧王は、仁和二年(886)に二世王(孫王)として従四位下に叙されている。その後官職には恵まれなかったようであるが、宇多天皇の親政が始まると侍従として召され、その後昇進し、宮内卿まで上っている。この経歴を見ると、惟喬親王の存在が影響しているようにも思われ、やはり惟喬親王の実子のように思われる。
もう一人は女の子で、三国町(ミクニマチ)という名前だったらしいが詳しいことはわからない。

惟喬親王が隠棲生活に入る前は、御所に近い大炊御門烏丸(オオイミカドカラスマ)の広大な屋敷に住んでいた。この屋敷は後にどういう経緯かわからないが藤原実頼らに伝承され、惟喬親王の御所であったことから「小野の宮」と呼ばれたという。この小野というのは、隠棲地から来たものと考えられるので、隠棲後もこの屋敷に影響を与えていたのかもしれない。
そうだとすれば、子供である兼覧王や三国町はこの屋敷に住み続けていて、宇多天皇が即位した仁和三年(887)以後は、惟喬親王も出入りしていたのかもしれない。

惟喬親王自身は、近江国の奥山深くに身を隠した後も山城国の数か所に閑居していたようだ。
惟喬親王が逃れ住んだとされる地をはじめ、木地師や轆轤師と呼ばれる一族には、惟喬親王を祖とする集団が少なくなく、また、中世、小野巫女と呼ばれた歩き巫女たちが小野神という神に対する信仰を全国に流布させていったが、この小野神と「小野の宮」が混同されるようになったらしい。
しかし、もしかすると、同じ根から出たものかもしれないような気もするのである。

『 白雲のたえずたなびく峯にだに すめばすみぬる世にこそありけれ 』

この和歌も古今集に収録されている惟喬親王の作とされる歌である。
現世を超越したような、仙人の生活を髣髴させるような歌であるが、「貫之集」にはほとんど同じような歌があり、「小町集」にも収録されているという。さらには、「古今和歌六帖」には作者不明となっている。

これは、全く個人的な感想であるが、「小野の宮」とも呼ばれる惟喬親王といい、小野小町といい、小野篁といい、小野という名前には不思議が似合うらしい。

                                       ( 完 )

  
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自然に親しむ ・ 心の花園 ( 53 )

2014-01-18 08:00:13 | 心の花園
          心の花園 ( 53 )
               自然に親しむ

自然に親しむと言っても、この寒さ厳しい折、冬山とか山スキーとでもいうのなら別ですが、野山を散策するわけにはいかないでしょう?

確かにその通りですが、近くにある公園や、少し郊外に出てみれば、厳しい季節の中にも、自然の息吹のようなものは感じられるものですよ。
心の花園も同様です。
季節の花となれば、やはりこの季節は、心の花園とて少なくなりますが、厳寒の中で、はや蕾を膨らませかけている「モクレン」などは、ちょっと良いものですよ。

「モクレン」は、漢字で書けば木蓮となりますが、その花の形が蓮(ハス)に似ていることから名付けられたものです。何でも、もともとは木蘭(モクラン)と呼ばれていたそうですが、蘭の花より蓮の花に似ているということから名前が変わったそうです。
「モクレン」というのは、春に赤紫の花を付けるもので、木の高さも3~5m程度のものを指します。
真っ白な花を付けるものもモクレンと呼ばれることが多いですが、本当はこちらは「ハクモクレン」という、近い仲間ですが別種のもので、木の高さも10~15mにもなります。

「モクレン」と「ハクモクレン」の交雑種に「サラサモクレン」というものもあります。
こちらは、両者の遺伝子を均等に引き継いだのか、木の高さは6~10mほどで、花の色も、ピンクを主体として白から紫まであるようです。
花の咲き始めるのも、「ハクモクレン」が一番早く三月上旬ぐらい、次は少し遅れて「サラサモクレン」、最後が「モクレン」で三月下旬ごろになります。

「モクレン」の原産地は中国ですが、一部の国には、原産地は日本として伝えられた経緯があって日本と紹介されている国もあるそうです。
いずれにしてもその花や木の姿は高貴な感じがあり、中国の庭園に似合う感じがしますし、日本の家庭の庭木や公園なのでも、すっきりとした存在感を見せてくれます。

「モクレン」の花言葉は、「自然への愛」です。
寒風の中で、小さいながらもくっきりと蕾を付けている「モクレン」や「ハクモクレン」の姿は、自然の愛おしさが感じられますよ。

     * * *
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運命紀行  陰の功労者

2014-01-15 08:00:36 | 運命紀行
          運命紀行
                陰の功労者

万葉集はわが国最古の和歌集である。
概ね、舒明天皇(在位西暦629~641)の頃から、大伴家持の巻末歌(西暦759の作)までの百三十年間の和歌が集められている。この期間は、飛鳥時代から奈良時代の中頃までにあたるが、万葉の時代と呼ばれるのは、この期間を指す。

中国から文字が伝えられる以前、わが国には文字がなかったとされている。もちろん言葉はあったわけで、集落やあるいはもっと大きな集団生活をしていたと考えられる中で、日頃話されることが全く記録されることがなかったというのは、むしろ不自然なような気がする。何らかの表記はされていたように思えてならないが、少なくとも系統だった文字はなかったらしい。
日本語の音を表記する「ひらがな」が発明されるのは平安時代のことである。

従って、万葉集の時代には、まだ「ひらがな」は登場しておらず、中国文字の音を借りて、わが国独自の歌、つまり「和歌」を表記していったのである。いわゆる「万葉仮名」と呼ばれるものがそれである。
万葉集には、四千五百余首の和歌が収録されているが、その形式は、長歌、短歌(反歌)、施頭歌などで、まさしく日本の歌、すなわち「和歌」を「万葉仮名」という苦心の産物により記録していったのである。
この後、短歌が「和歌」を代表するようになっていくのはご承知の通りである。

万葉集の原本は現存していない。幸い多くの写本が伝えられているが、最も古いものでも十一世紀に書き移されたものらしい。従って、写本により、少々の誤差があることはどうすることも出来ないし、消失しているものや、紛れ込んだり故意に加えられたものがないとは言い切れない。
しかし、それらのことを加味したとしても、万葉集が伝えてくれる文学的な価値や歴史的資料としての価値は計りきれないほど大きい。
古来、万葉集については、多くの学者たちが研究を重ねてきていて、「万葉仮名」を全く読めない私などでも、簡単に親しむことが出来る。
天皇や貴族たちから下級の官人たち、あるいは庶民や防人など収録されている人たちの社会的な層は広く、女性の作品も少なくない。
万葉集は、万葉の時代の人々の喜怒哀楽や、あるいは文学的な価値を十分理解することは無理だとしても、古の人々の息吹の一端に触れることが出来たような気にしてくれる貴重な先人からの贈り物であることは確かである。

すでに述べたように、万葉集については、文学的な観点ばかりでなく、歴史上の資料や民俗的な観点などからも幅広く研究がなされてきている。
読解や作者の推定、あるいは成立の過程などでも研究は進められてきているが、それでもなお、多くの疑問を残している。また、それこそが万葉集の魅力の一つなのかもしれない。
その中で、この膨大な和歌集の編纂の中心人物であったのが、大伴家持という人物であったことは、すでに定説となっている。

大伴氏は、大和朝廷屈指の豪族で、物部氏と共に軍事面を担う名門氏族である。しかし、蘇我氏や藤原氏の台頭により、物部氏は著しく衰退し、大伴氏も幾度も政争に巻き込まれ、勢力を次第に失いつつあった。
祖父の安麻呂、父の旅人は共に大納言にまで上ったが、家持はついに中納言で終わっている。
しかし、養老二年(718)に誕生し、延暦四年(785)に没した家持の場合、藤原氏の台頭が激しく、王権をめぐる謀反事件が多発する中で、むしろ政争を生き抜き家門を守ったという方が正しいのかもしれない。
また、大伴氏は、安麻呂・旅人共に名高い歌人であり、家持もその家柄ゆえに万葉集編纂に多大な影響を与えることが出来たと考えられる。

しかし、当然のことではあるが、あの膨大な万葉集の編纂にあたっては、家持一人の仕事であるはずはない。むしろ、長期に渡って、何次かに渡って作り上げられてきたという説の方が定説ともいえる。おそらくそうだと考えられるが、家持が最後の仕上げに大きく関わっており、場合によっては、すでに出来上がっている部分にも修正を加えることが出来る立場にあったはずである。
そう考えた場合、同時代で家持を支援した有力な人物がいた可能性がある。当然父の旅人もその一人であるが、旅人は家持が十四歳の頃に亡くなっているから、資料や資産を受け継ぐことが出来たとしても、直接的な指導は出来なかった。

そう考えてきた時、精神的な面でも、さらには文学的な知識や、資料や資金面においてさえ、大きな支援と影響を与えることが出来た人物が浮かび上がってくるのである。
それが、大伴坂上郎女である。


     * * *

大伴坂上郎女(オオトモノサカノウエノイラツメ)の生没年はよく分からない。
父は大納言大伴安麻呂で、母は石川内命婦である。
家持の父である旅人は、異母兄にあたる。従って、家持とは甥・叔母の関係にあたる。

十三歳の頃、穂積皇子と結婚。穂積皇子は、天武天皇の第五皇子である。この事だけでも、当時の大伴氏の朝廷内の存在感が分かる。
穂積皇子の幼年期の記録が少なく誕生年も不明である。ただ、天武天皇の第三皇子である大津皇子が663年の生まれであり、第六皇子の舎人皇子が676年の生まれであることを考えれば、この間であることは確かである。
二人が結婚したとされる年も分からないが、坂上郎女のその後の資料などから、誕生を695年前後と推定することにすれば、穂積皇子は二十数歳年上であったことになる。

和銅八年(715)に穂積皇子が没する。坂上郎女が二十歳の頃だとすれば、婚姻期間は七年前後となる。二人の間に子供はいない。
その後どれほど経ってからか分からないが、藤原麻呂と親しい関係になり、一時は婚姻関係にあったとみられる。
万葉集には、二人の間の相聞歌が坂上郎女からのものが四首、麻呂からのものが三首収録されている。

  「大伴郎女の和(コタ)へたる歌四首」
 『 佐保河の 小石ふみわたり ぬばたまの 黒馬(クロマ/コマ)の来る夜は 年にもあらぬか 』
歌意は、「天の河ならぬ佐保河の小石を踏みながら渡って来るあなたを乗せた黒馬は、せめて年に一度でも来て欲しい」
なお、佐保河は、春日山に発し大和川に合流する川で、坂上郎女の屋敷(父の屋敷か)がそのほとりにあったらしい。 「ぬばたま」は「黒にかかる枕詞」
この歌は、麻呂の『 よく渡る 人は年にも ありとふも いつの間にそも わが恋ひにける 』という、「まめに渡る牽牛は一年に一度恋人に逢うというが、自分はどれだけの日も経たないのに、これほど恋しいのだろう」七夕にかけた贈答歌に対して、同じく七夕を意識した返歌を、皮肉まじりに詠んだものらしい。
 『 千鳥鳴く 佐保の河瀬の さざれ波 止む時も無し わが恋ふらくは 』
歌意は、「千鳥が鳴く佐保河の河瀬のさざ波のように、止む時などありません、私の恋心は」
 『 来むといふも 来ぬ時あるを 来じといふを 来むとは待たじ 来じといふものを 』
歌意は、「あなたは、来ると言っていても来ない時があるのに、ましてや、来ないと言っているものを、来るかしらと待ちますまい、来ないと言っているのですから」
まるで早口言葉のような歌だが、女心の切なさを表しているともいえる。万葉集には、このような言葉遊びのような歌がいくつか見える。  
 『 千鳥鳴く 佐保の河門(カワト)の 瀬を広み 打橋(ウチハシ)渡す 汝(ナ)が来(ク)とおもへば 』
歌意は、「千鳥の鳴く佐保河の渡りの瀬は、幅が広いので、板の橋を渡しておきましょう、あなたが来て下さると思いますので」
なお、「河門」は、「浅くなっていて渡る場所となっている所」

これらの歌の後ろには、「郎女は佐保大納言の女(ムスメ)なり」とあり、穂積皇子薨(ミマカリ)し後に藤原麻呂大夫、この郎女を娉(ヨバ)へり」とある。
また、「郎女は、坂上の里に住む。よって坂上郎女といへり」と記されている。
従って、二人の関係は坂上郎女の一方的な想いではなく、麻呂にも次のような情熱的な歌が収録されている。
 『 むしぶすま 柔(ナゴ)やが下に 臥(フ)せれども 妹(イモ)とし寝ねば 肌し寒しも 』

しかし、やがて二人は離別する。どうやら二人の蜜月期間はそれほど長い期間ではなかったらしい。
そして、どのくらいの期間をおいてかは分からないが、養老年間の終り頃、坂上郎女は異母兄である大伴宿奈麻呂(オオトモノスクナマロ)と結ばれる。西暦でいえば、723年前後であろうか。
坂上郎女が三十歳に近い頃と推定するが、宿名麻呂の年齢は不明である。二人の間には、田村大嬢(タムラノオオオトメ)・坂上大嬢の二人の姫が生まれたともいわれるが、万葉集によれば、二人は異母姉妹で、田村大嬢は田村屋敷に住み、坂上大嬢は坂上屋敷に住んでいたとされるから、坂上郎女が生んだのは坂上大嬢一人のようである。ただ、この姉妹は仲が良かったらしく互いに歌を贈りあっている。

宿奈麻呂は、坂上郎女を妻に迎えた頃には、すでに備後守などを歴任しており、すでに正五位上の歴とした貴族であった。その後従四位下となっているが、西暦727年頃までには亡くなったらしい。
二人の結婚期間は、せいぜい五年に満たなかったのではないだろうか。

宿奈麻呂を見送った坂上郎女は、九州の太宰府に赴いた。
異母兄にあたる大伴旅人は、太宰帥(ダザイノソチ・大宰府長官)として赴任していたが、妻を亡くしたため、あるいは本人の健康上の問題もあったのか、旅人の世話を目的とした九州行きであった。
旅人は、天平二年(730)十一月に帰京し、大納言に就いているが、翌年七月に没している。
旅人の太宰府での生活期間もはっきりしないが、歌人としては目覚ましい活動を見せており、万葉集に収められている和歌七十二首の内の多くがこの期間のものである。

大宰府歌壇ともいうべき集まりの中には、坂上郎女も重要な役割を果たしていたかもしれないが、それ以上に、九州下向により大伴氏全般の刀自(トジ・主婦。家事全般を司る女性)の地位につく形となり、同時に旅人の息子である家持・書持の養育にあたったという。
帰京後は、坂上邸に留まり、大伴氏全体の資産管理や一族の結束に大きな役割を果たし、旅人が没した後はさらにその存在感は増していったと考えられる。
坂上郎女の没年は不明であるが、かなり長命であったらしく、長く大伴一族を支え続けたと思われる。

坂上郎女は、一人娘である坂上大嬢を家持に嫁がせる。
これにより家持との関係は、叔母・甥の関係に加え、育ての親であり、さらには姑という立場にもなったのである。しかも、大伴氏全体の財務・人事などでも実権を握っていたと考えられ、それらを家持に惜しみなく与えていったのではないだろうか。
万葉集編纂という大事業には、もちろん大伴家持という類稀なる才能が大きな役割を果たしたことに疑問の余地はないが、その背景には、激しい政争を切り抜ける人脈や情報、編纂に関わる膨大な資金、さらには、旅人だけではなく、穂積皇子にさえ遡る資料などが家持のもとに集まる手助けをしたと考えられる、坂上郎女の存在なくして万葉集の集大成は叶わなかったと考えるのは、極端に過ぎるのだろうか。

万葉集には、四千五百首以上の歌が集められていることはすでに述べたが、これを作者別に収録されている歌の数を見てみると、第一位は家持の四百七十四首、第二位が柿本人麻呂の参百七十首、そして第三位が坂上郎女の八十四首となる。
万葉集は全二十巻から成っているが、巻十七以降は家持の私家集の感がある。そのため家持の歌の収録数は全体の一割を超え、あの額田王の歌の収録数が十三首であることを考えると、坂上郎女の八十四首はいかにも多過ぎる感がある。
つまり、収録されている歌の数と歌人としての認知度や巧拙とは比例しないという欠点を生み出してしまっていると思われる。

坂上郎女の和歌について、必ずしも評価が高くない論評を見ることがある。その原因の一つには、収録歌数の多さにあるように思われる。秀歌のみを抜粋しているわけではないからである。おそらく、家持についても同じことがいえよう。
しかし、万葉集における坂上郎女を語るには、その歌の一つ一つの巧拙だけで云々するのは正しくないように思われる。
そこには、大伴氏という沈みつつある名門豪族を支えた女性の姿があり、伴侶を失いながらも、万葉集という私たちの大切な宝を生み出すのに少なからぬ貢献があったことに想いを致すべきなのではないだろうか。

                                 ( 完 )






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運命紀行  万葉の時代を拓く

2014-01-09 08:00:54 | 運命紀行
          運命紀行
               万葉の時代を拓く

『 大和には 群山(ムラヤマ)あれど とりよろふ 天の香具山 
  登り立ち 国見をすれば 国原は 煙(ケブリ)立つ立つ 
  海原は かまめ立つ立つ うまし國そ あきづ島 大和の国は 』

これは、万葉集の(第2番)に載せられている歌である。
作者は第三十四代舒明(ジョメイ)天皇である。
歌意は、「大和にはたくさんの山があるが、とりわけ立派なのは天の家具山(アマノカグヤマ)である。登り立って国見をすれば、国土には一面にかまどの煙が立ち昇り、海原にはカモメがいっぱい飛んでいる。豊かな国だ、あきづ島と呼ばれる大和の国は」
なお、「とりよろふ」は、「とりわけ立派」としたが、語義は未詳である。
「国見(クニミ)」は、高所から領土全体を見渡すことであるが、もともとは、支配者がおこなう儀礼の一つであったらしい。
「海原」は、当時、そうとう奥地まで海が入り組んでいて、湿地も多くカモメもいたらしい。あるいは、大きな池を海に見立てたともされる。

万葉時代という歴史区分があるわけではないが、万葉の時代といえば、舒明天皇の時代(西暦629~641)から、万葉集の最終句である大伴家持の『 新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(ヨゴト) 』という歌が詠まれた年である西暦759年までのおよそ百三十年間を指すのがふつうである。
つまり、この舒明天皇こそが、飛鳥時代から奈良時代半ばまでの間に「万葉の時代」と呼ばせるに相応しい時代を拓いた帝なのである。

ただ、万葉集を主題としてこの天皇の歌を調べてみると、何とも難しい人物なのである。
その代表として次の二首を挙げてみる。

  「崗本天皇(ヲカモトノスメラミコト)の御製歌一首」 (第1511番)
『 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜(コヨヒ)は鳴かず い寝(ネ)にけらしも 』

  「泊瀬朝倉宮(ハツセノアサクラノミヤ)に天の下(アメノシタ)知らしめしし大泊瀬幼武天皇(オホハツセ ワカタケノ スメラミコト)の御製歌一首」  (第1664番)
『 夕されば 小倉の山に 臥(フ)す鹿の 今夜(コヨヒ)は鳴かず 寝(イ)ねにけらしも 』
  「右は、或る本に伝(イ)はく『崗本天皇の御製なり』といへり。正指(セイシ)を審(ツバヒ)らかにせず。これに因(ヨ)りて以ちて累(カサ)ねて載す。

歌意は、「夕方になれば、小倉の山で鳴く(小倉の山にひそんでいる)鹿は、今夜は鳴かない、もう寝てしまったのだろうか」という感じであろうか。
なお、「小倉の山」は京都のものとは別である。

この二首の歌について、作者を確定することがとても難しいのである。
「崗本天皇」というのは、崗本宮で政務を行った天皇のことを指していて、舒明天皇がそれにあたるが、彼の妻であり後継者である斉明天皇(皇極と重祚)も同様に崗本宮を造営し、崗本天皇にあたるのである。
そして、「大泊瀬幼武天皇」というのは、第二十一代雄略天皇のことなのである。
実は、万葉集の(第1番)歌はこの天皇の歌であるから、(第1664番)程度の歌を詠んでいても、何の不思議もないのである。

それにしても、二つの歌はあまりにも似ているのである。
当時すでに「本歌取り」という手法があったのかどうか知らないが、模倣するということは当然あったと思われる。記録するということが現在より遥かに難しい時代にあって、故意ではなくても、よく似た作品が残されてしまうことはあり得ることであろう。

それにしても、同一といってもよいような二つの作品、しかもそれらが、雄略天皇はともかく、舒明天皇と斉明天皇の区別を付けることが難しいというのには、当時の激しい時代の動きがあったように思われるのである。


     * * *

舒明天皇の即位の頃をもって万葉時代の幕開けとみることはすでに述べたが、万葉の時代という何とものどやかな印象を受ける言葉とは裏腹に、この時代は王権をめぐる激しい時代であった。
本稿は、万葉集に収められている歌を中心に進めることが狙いであるが、その時代背景を無視することは出来ないので、概略を見てみよう。

激しい王権の移動があったと推定される第二十六代継体天皇が崩御したのは、西暦531年のことである。
舒明天皇は、継体天皇の四代後の子孫で直系にあたる。舒明天皇の即位は、西暦629年であるから継体天皇の没後およそ百年後に登場してきた天皇ということが出来る。

舒明天皇の先代は女帝である推古天皇であるが、その在位期間は三十六年に及び、政治の実権者が誰であったかはともかく、長期安定の王権時代を保っていた。
しかし、七十五歳で崩御した時、女帝は後継者を定めていなかったのである。
その時に後嗣としての有力候補は、田村皇子と山背大兄皇子であったが、豪族たちの支持は別れていた。田村皇子は、継体天皇の孫にあたる第三十代敏達天皇の孫にあたる直系であった。父は、敏達天皇の第一皇子の押坂彦人大兄皇子であるが天皇位には就いていない。
山背大兄皇子は、同じく継体天皇の孫にあたる第三十一代用明天皇の孫にあたる。父は、聖徳太子と呼ばれている人物である。

当時の政権の中心にいたとされる蘇我蝦夷は、群臣に計った上で田村皇子を後継者として、舒明天皇が誕生するのである。
もっともこの後継者決定にはさまざまな要因が考えられ、諸説も少なくない。
まず考えられることは、蘇我氏にとって、より御しやすい人物として田村皇子を擁立したということが考えられる。次には、用明天皇・推古天皇は共に生母は蘇我氏の堅塩媛であり、蘇我氏系統の天皇が続くことによる他の豪族の反発を避けようとしたと考えることも出来る。

いずれにしても、舒明天皇は蘇我氏の後ろ盾を得て即位したのである。
皇后には、宝姫王を迎えたが、用明・推古と繋がっている姫で順当な人選といえる。夫人には、蘇我馬子の娘の法提郎女(ホテイノイラツメ)がおり、第一皇子となる古人大兄皇子を生んでいる。
宝姫王は、舒明天皇の崩御後に皇極天皇として即位し、一代置いて再び斉明天皇として皇位についているのである。
宝姫王は、歴史上大きな意味を持つ人物を儲けている。列記してみると、天智天皇、間人皇女(皇極と斉明の間に位置する天皇である孝徳天皇の皇后)、天武天皇などである。
激しい時代を描くのは本稿の目的ではないが、舒明天皇の子供たちがかの有名な乙巳の変(大化の改新)や壬申の乱の主役を演じているのである。
また、山背大兄皇子は後に王権をめぐり蘇我入鹿により亡ぼされており、これにより聖徳太子とされる一族は滅亡しているのである。

さて、話を万葉集に戻そう。
舒明天皇あるいは斉明天皇の御製の可能性のある歌は併せて十一首ある。但しその中には、先にあるように雄略天皇の可能性のある歌や、額田王の作品も含まれていて、どうにも確定できない。
『 夕されば・・・』の二首の歌に限ったとしても、いろいろなことが想像できる。
どちらの歌も、名句と思われるが、一首を雄略天皇の作品だとすれば、舒明天皇にしろ斉明天皇にしろ、何故これほど酷似した歌を残したのだろうか。両者の間には百五十年ほどの隔たりがあるのである。
また、これらの歌が鹿の鳴く声を借りた夫を偲ぶ歌なので、作者は女性だという意見も根強いが、さて、妻を偲ぶ歌として男性の作品であっても何の矛盾もないようにも思われる。

ただ、舒明天皇も斉明天皇も崗本宮を造営したことから後世の人に混乱を与えたのであるが、その間に二十年余りの隔たりがあり、宮殿も幾つか変わっている。
万葉集の編纂に大きく関わった大友家持が生存したのは、西暦718年から785年の間である。斉明天皇が崩御してから六十年後には誕生しているのである。
つまり、万葉集や古事記や日本書紀に代表されるように、多くの歴史的事実を記録していた当時の人々にとっても、僅か数十年前の崗本天皇が、舒明天皇の方なのか斉明天皇の方なのか判別できないほど激しい時代であった証左ではないだろうか。

今となっては私たちは、
『 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも 』
という名句を、時には女性が夫を偲ぶ歌として、時には男性が妻を偲ぶ歌として、味わうのがよいのかもしれないと思うのである。

                                  ( 完 )
  
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運命紀行  情熱の歌人

2014-01-03 08:00:13 | 運命紀行
          運命紀行
               情熱の歌人

歴史上「情熱の歌人」と評される人物は決して少なくない。
しかし、これほど激しい歌を後世に残している女性は、そう多くはないのではないか。

『 君が行く 道のながてを 繰り畳(タタ)ね 焼き亡ぼさむ 天の火もがも 』

この激しい和歌を万葉集に残したのは、狭野茅上娘子(サノノチガミノオトメ)である。
歌意は、「あなたが去って行く長い長い道のりを、手繰り寄せ巻き畳んで、焼き亡ぼしてしまう天の火が欲しい。そうすれば、あなたはもう先に行くことは出来ないでしょうから」といった感じであろうか。
愛しい人が去って行く道を繰り畳んで燃やしてしまいたい、というのであるから何とも凄まじい情念を感じさせる歌である。
しかし、この歌は、確かに激しい恋の歌であるが、その裏には夫が流罪となり都を追われて行くという悲しい現実があったのである。

狭野茅上娘子は、奈良時代に生きた女性である。
残念ながら、その生没年は全く分からないが、僅かな記録から推察すれば、生年は奈良時代に入って間もない頃、西暦でいえば、720年前後ではないだろうか。

『 君が行く・・ 』の激しい歌の中にある「君」は、中臣朝臣宅守(ナカトミノアサミヤカモリ)である。
宅守は、神祇職を担う家柄である中臣の一族で、歴とした貴族の出自である。
狭野茅上娘子は、蔵部に仕える女嬬であった。蔵部は宮中の役所の一つであり、女嬬は雑役につく下級官人である。雑役婦に近い職務であったと思われるが、宮中に仕えているのであるから、何処の誰とも分からない家柄の出自ではなく、おそらく下級官僚の娘であったと思われる。全くの推量であるが。

この二人が、どういう切っ掛けかは分からないが、激しい恋に落ち、結ばれるのである。
その時期は不明であるが、狭野茅上娘子が残した歌から推定すれば、うら若い乙女というよりも、もう少し成熟した女性であった頃のように思われるのである。

激しい恋を経て結ばれた二人であるが、間もなく夫となった宅守は罪を得て越前国へと流されるのである。
この罪状についても、よく分からない。後年、宅守は謀反事件に関連して罪を得ているので、この時も政治的な動きをしていたことからの罪であったかもしれない。また、多くの研究者は二人の結婚が罪に問われたものだとして、重婚であったのではないかと指摘する向きもある。さらにダブル不倫だという人もあるようだ。

奈良時代であれば、一夫多妻など珍しくなく、特に貴族が複数の妻を持つのは普通のように私たちは考えているが、この頃の一時期には一夫一婦制がかなり厳格に守られていた期間があったらしいのである。実際に、重婚により処罰を受けたという記録もあるらしい。
この二人の場合も、重婚罪であった可能性は否定できない。あるいは、貴族(この頃はまだ宅守は六位以下であったが)と女嬬の結婚などは許されることではなかったかもしれないし、あるいは、宅守の妻の実家が有力貴族で、狭野茅上娘子への激情が面白くなく咎められたのかもしれない。
いろいろと想像は出来るが、宅守は越前国への流罪という厳しい罪を負いながら、狭野茅上娘子の方は何の罪も得ていないようなのである。やはり、何らかの政治的な罪ではないかと思われるのである。

ともあれ、ようやく結ばれた二人は、平城京と越前国に引き離される。
万葉集には、狭野茅上娘子の引き離された夫への激しい想いと悲しみが込められた歌が二十三首載せられている。同じく、妻の想いに答えた宅守の歌は四十首に及んでいるのである。
これらの贈答歌は、歴史上最も激しい恋を歌った女流歌人を誕生させたことになるが、同時に、万葉の時代の一途な大人の恋を彷彿とさせてくれる場面を演出してくれているのである。


     * * *

それでは、万葉集第十五巻に載せられている狭野茅上娘子の歌二十三首のうち前記しているもの以外の幾つかを記してみよう。

『 あしひきの 山路越えむと する君を 心に持ちて 安けくもなし 』

歌意は、「険しい山路を越えて行こうとしているあなたのことを、心に抱き続けていて、安まるときなどありません」
なお、「心に持ちて」という表現は、他に例を見ない独自のものらしい。

『 命あらば 逢うこともあらむ わが故に はだな思ひそ 命だに経ば 』

歌意、「命があれば、再び逢うことも出来ましょう。私のために余り思い悩まないでください。命さえ大切にしていただければ、いつかは逢えるのですから」
なお、「はだ」は「はなはだ」といった意味らしい。
また、この歌は、同じく万葉集に収められている宅守の次の歌などに答えたものらしい。
「 天地(アメツチ)の 神なきものに あらばこそ 吾(ア)が思ふ妹(イモ)に 逢はず死にせめ 」
「 吾妹子(ワギモコ)に 恋ふるに吾(アレ)は たまきはる 短き命も 惜しけくもなし 」

『天地の 底ひのうらに 吾(ア)が如く 君に恋ふらむ 人は実(サネ)あらじ 』

歌意、「天地の果てまでも探し回っても、私のように、あなたを恋い慕っている人はいないことでしょう」
なおこの歌も、宅守の次の歌に答えたものらしい。
「 他人(ヒト)よりも 妹そも悪しき 恋もなく あらましものを 思はしめつつ 」

『 白栲(シロタヘ)の 吾が下衣(シタゴロモ) 失なはず 持てれわが背子 直(タダ)に逢ふまで 』

歌意、「わたしの下衣を亡くさないように持っていてください、愛しいあなた。直接お逢いできる時が来るまで」

『 魂は 朝(アシタ)夕べに 賜ふれど 吾が胸痛し 恋の繁きに 』

歌意は、「あなたの魂の叫びは、朝も夕べも受け取っております。しかし、私の胸は、あなたを想う気持ちが激しくて、胸が痛むのです」
なおこの歌も、宅守の次の歌などを受けたものであろう。
「 吾が身こそ 関山越えて ここにあらめ 心は妹に 寄りにしものを 」

『 帰りける 人来たれりと 言ひしかば ほとほと死にき 君かと思ひて 』

歌意は、「赦免されて帰ってきた人が都に着いたということで駆けつけました。危うく死んでしまうところでした、あなただと思ったものですから」
なお、「ほとほと」は「ほとんど」の意。
天平十二年(740)に、大規模な恩赦が行われたが、宅守は許されなかったらしい。この歌も宅守に贈られたものであろうから、「あなたでなくて、死ななくてすんだ」という意味に取れるのは、落胆の気持ちを堪えて、いつまでも待つ気持ちを伝えたのではないだろうか。

『 昨日今日 君に逢はずて する術の たどきを知らに 哭(ネ)のみしそ泣く 』

歌意、「昨日今日と、あなたに逢えなかった悲しさに堪える術を知らなくて、声をあげて泣いてばかりいます」

『 白妙の 吾が衣手を 取り持ちて 斎(イハ)へわが背子 直(タダ)に逢ふまでに 』

歌意、「私の衣を手に持って、神に祈って下さい、あなた。直接お逢いできる日が来るまで、ずっとですよ」

以上は、万葉集に収められている狭野茅上娘子の歌の一部である。激しい愛情を歌いあげている様子が分かっていただけると思うが、宅守の赦免が叶わなかった後の二首などは、むしろ切なさが伝わってくるものである。

さて、夫の中臣朝臣宅守であるが、天平十二年六月の恩赦では許されなかったが、翌十三年九月には、さらに大規模な恩赦が行われており、ほとんどの流人が赦免を受けているので、この時に、無事都に、そして、狭野茅上娘子のもとに帰りついたものと考えられる。
そして、その後は二人に幸せな時間が訪れたものと願うばかりである。

万葉集には、実に四千五百首以上の歌が収められている。歌人の数となれば、詠み人不明のものも多く、確定は難しいがその数も少ないものでない。
その中にあって、貴族の家柄といっても決して身分の高くない男性と、女嬬という低い身分の女性の激しい恋の贈答歌が六十三首も載せられていることに驚きを感じる。
また、宅守はともかく、狭野茅上娘子は下級の女官であり、清掃などの雑務にあたる地位であったと考えられるが、その女性が、これだけの歌を残すことが出来たのには、どのような形で教育を受け教養を身につけることが出来たのか、興味深い。そのことは、万葉集に数多く登場してくる防人や名も伝わらない人々の教養の高さについても同様である。
さらにいえば、二人の間では、何度も何度も歌が交換され、下衣などが送られているのである。
流人の生活がどのようなものであったのか、都と越前国の間がそれほど簡単に往還することが出来たのか、驚くことが数多く見えてくるのである。

宅守は、恩赦を受けて帰京した二十二年後にあたる天平宝宇七年(763)一月に、従六位上より従五位下に昇叙している。貴族の末席についたといえる。
しかし、翌八年九月には、藤原仲麿(恵美押勝)の乱に関わったとして処罰を受けている。これにより、中臣氏の系図からも除名されているので、相当重いものであったと考えられる。

狭野茅上娘子の消息は、万葉集に収められている二十三首の歌のあとは辿ることが出来ない。
宅守は無事赦免を受けて都に戻った後、二十三年を経て従五位下に上っている。つまり、苦節はあったとしても、この間は官人としての生活を送っていたと思われる。
おそらく狭野茅上娘子は、宅守との愛をさらに育み幸せ溢れる時間を持つことが出来たはずである。
宅守が再び重い罪に問われた頃は、狭野茅上娘子は四十歳をかなり過ぎていたと考えられる。

宅守が再び罪を得た後に、二人の間で贈答歌が交わされたという記録は見当たらない。
もしかすると、この間に狭野茅上娘子は世を去っていたのかもしれない。
しかし、それも単なる想像に過ぎず、万葉集にある激しい恋の歌の数々から、万葉の時代に生きた情熱の歌人を思い描くことしか出来ないのである。

                                    ( 完 )

 
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