雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

新古今和歌集を楽しみたい

2021-09-05 08:04:38 | 新古今和歌集を楽しむ

     『 新古今和歌集を楽しむ 』 ご案内

「新古今和歌集を楽しみたい」というのが、本稿の目的です。

わが国の古典文学において、歌集ということになりますと、『万葉集』・『古今和歌集』・『新古今和歌集』の三つの歌集が代表的なものとする分には、まず、異論はないと思われます。
これらのいずれの歌集についても、様々な形で紹介されており、多くの研究書や解説書も発行されています。
本稿は、そのような研究の書ではなく、『新古今和歌集』に掲載されている和歌の幾つかを、純粋に楽しみ、少しばかりその和歌の背景らしいものを探ってみようというのが目的です。

第八番目の勅撰和歌集

『新古今和歌集』は、第八番目の勅撰和歌集です。
勅撰和歌集とは、天皇あるいは上皇の命により編纂された和歌集をいいます。勅撰和歌集は、『古今和歌集』を最初に、全部で二十一作られていますが、これらを総称して「二十一代集」と呼ばれています。因みに、一番目から三番目まで、具体的には古今和歌集・後撰和歌集・拾遺和歌集を「三代集」といい、一番目から八番目の新古今和歌集までを「八代集」といい、九番目の新勅撰和歌集から最後の新続古今和歌集までを「十三代集」といいます。 

成立の経緯

後鳥羽院は、建仁元年(1201)に和歌所を設置し、源通具・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経・寂蓮の六名に、「上古以来の和歌を撰進せよ」という院宣を下しました。ただ、寂蓮は翌年に死去しているので実質的には選者は五人ということになります。また、最終決定には、後鳥羽院が相当関与したらしいので、選定には後鳥羽院の意向が強く働いている可能性があります。
さらに、新古今和歌集という名前からも分かるように、古今和歌集を相当意識したうえで選定が進められたようです。そして、「上古以来の和歌を撰進せよ」という命と共に、これまでの勅撰集に選ばれているものは除外するようにされていたようですが、万葉集については勅撰集ではないことから除外の対象にはなっていません。
その規模は、20巻、1978首となっており、古今和歌集の20巻・1100首を上回っています。

歌風ならびに代表歌人

「新古今調」といわれるのは、妖艶な情調、幻想的、韻律的といった評価がされており、題詠・本歌取り・体言止めといった技巧が重視されている面があり、これらの特徴が、新古今和歌集の評価を高めたり、一部の人には酷評される原因になっているようです。
因みに、「万葉調」は、「ますらおぶり」といわれるように、雄健さがその特徴とされ、「古今調」は、万葉調に対比される形で、「たをやめぶり」といわれ、優美、繊細、理知的さが特徴とされています。

新古今和歌集に代表される歌人として、選歌数の多い順に挙げてみますと、
①西行 94首  ②慈円 92首  ③藤原良経 79首  ④藤原俊成 72首  
⑤式子内親王 49首  ⑥藤原定家 46首  ⑦藤原家隆 43首
⑧寂蓮 35首  ⑨後鳥羽院 34首  ⑩俊成女 29首 ・・・
  以上とは別に、古い時代の歌人をあげてみますと、
①紀貫之 33首  ②和泉式部 25首  ③柿本人麻呂 23首 ・・・
となります。

本稿での選定基準 

本稿では、新古今和歌集に掲載されている1978首の中から100首余りを取り上げてみたいと考えています。
その選定基準は、文学的な優劣、これまでの評価といった面はまったく考慮しておりません。
選考基準はただ一つ、筆者の好みだけですので、その点はご承知おきください。とはいえ、若干配慮しましたことは、一部の作者に偏らないこと、作者や時代背景の魅力等については加味しております。
また、新古今和歌集そのものは、春の歌・夏の歌・・・というように、テーマごとに分類されていますが、本稿はあえてランダムに掲載しています。

はたして、新古今和歌集の魅力をどの程度ご紹介できますかと不安な面もありますが、ぜひ、ご愛読いただきますようお願い申し上げます。

     ☆   ☆   ☆

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玉のかざし

2021-08-24 08:05:38 | 新古今和歌集を楽しむ

     そのかみの 玉のかざしを うち返し
              今は衣の 裏を頼まん 

             作者  東三条院

( NO.1712  巻第十八 雑歌下 )
        そのかみの たまのかざしを うちかえし
                 いまはころもの うらをたのまん


☆ 作者 東三条院とは、円融天皇の女御藤原詮子(センシ)のことである。( 962 - 1002 ) 行年四十歳(旧暦で計算)。

☆ 歌意は、「 その昔の 玉の髪飾りを お返しいたします 今は 衣の裏の玉を 頼みとしましょう (「救われることを気づかない者が、仏の教えで悟りを得ることが出来る」といった仏道の教えを引いている。)」といったものであろう。

☆ この和歌には、前書き(詞書)がある。 
「 后に立ち給ひける時、冷泉院の后の宮の御額を奉り給へりけるを、出家の時、返し奉り給ふとて 」とある。
つまり、作者が円融院の后になった時に、冷泉院の后(作者の姉、超子)がつけていた髪飾りを頂戴したようで、それを、自分が出家するにあたって、お返しします、ということらしい。
和歌そのものや、実姉とのやりとりが特別秀逸ということではないが、この姉妹は、それぞれ天皇の后であり、姉は三条天皇の生母であり、作者は一条天皇の生母だと考えると、この和歌のやりとりも特別な重みを感じさせる。

☆ 作者の父は、藤原氏の長者となる、摂政・関白・太政大臣藤原兼家である。母は、正室の時姫であるが、同母の兄弟姉妹が五人おり、いずれも歴史上の重要な役割を果たした人たちと言えるのである。男子の道隆・道兼・道長の三人は、いずれも貴族政治の頂点に立っており、女子は、姉の超子は冷泉天皇に入内して、三条天皇の生母となっている。妹である作者・詮子は円融天皇に入内して、一条天皇の生母になっているのである。
この五人の兄弟姉妹が活躍時代は、平安王朝文化、そして藤原氏が最盛期に至ろうとしている時期と言える。

☆ この五人の誰もが、アマチュア歴史ファンの一人としては魅力あふれる人物であるが、詳細を述べるのは割愛させていただきたい。
ただ、作者について若干触れさせていただくすれば、歴史の流れという観点から見れば、作者・詮子 の活躍は、986 年に、わが子の一条天皇が即位した後から存在感を増している。
991 年に夫の円融院の崩御後に出家し、自邸に因んで「東三条院」を称した。これが、わが国における女院号の最初である。
出家後は、むしろ政治向きの発言力が増えているようで、一説によれば、道長を支援することが多く、一条天皇の中宮彰子の実現にも尽力したとされている。

☆ このように、平安王朝文化、あるいは藤原氏による摂関政治全盛に、少なからぬ影響を与えた女性といえるが、それにしては、歴史上の著名度が少々低いように思われてならない。

     ☆   ☆   ☆


 

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篠屋の軒ぞ

2021-08-12 08:02:42 | 新古今和歌集を楽しむ

     常よりも 篠屋の軒ぞ 埋るる
            今日は都に 初雪や降る

             作者  贍西上人

( NO.658  巻第六 冬歌 )
       つねよりも しのやののきぞ うづもるる
                けふはみやこに はつゆきやふる


☆ 作者は、平安時代後期の僧。生没年とも不詳。一説には、没年は1127年で、行年は六十六歳位とも。

☆ 歌意は、「 いつもより 篠(細い竹)で葺いたわが家の粗末な軒は 深く雪に埋もっています この様子では 今日あたりは都にも 初雪が降ったのでしょうか 」といったものであろう。

☆ 作者の正確な伝承は少ないようである。出自についても、情報を入手することが出来なかった。
一般に伝えられているものによれば、もとは比叡山の僧で、後に雲居寺(ウンゴジ)に移り住んだとされる。中には、同時を創建したというものもある。

☆ この雲居寺というのは、京都東山の現在の高台寺の近くにあった寺院らしい。創建は、837年に桓武天皇の菩提を弔うために道場が造られたのが始めらしい。もし作者の瞻西上人(センサイショウニン)が創建したという伝承があるとすれば、衰退していた道場を彼が再建したのかもしれない。
同寺には、金色の八丈の弥勒菩薩像があったとされるが、応仁の乱で消失している。
また、東山の野の面に百丈の弥勒菩薩像を造ったという伝承もあるらしいが、百丈といえば約三百メートルなので、事実だとすればとんでもない造形物になる。もし事実だとしても、おそらく、地面に描いたものと考えられるが、それにしても大変な規模である。

☆ 掲題の和歌は、藤原基俊に贈ったものである。基俊は、従五位上左衛門佐と官職に恵まれなかったが、藤原道長の曾孫にあたる名門の出である。当時の社会構成を考えれば、
瞻西上人も貴族の家に生まれたものと考えられる。また、説教の上手であったとも伝えられており、「上人」という敬称からも、相応の僧侶であったと推定される。
ただ、残念ながら、筆者の力では人物像を描くだけの消息を手にすることが出来なかった。

     ☆   ☆   ☆

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春の夜の月

2021-07-31 08:09:33 | 新古今和歌集を楽しむ

     浅緑 花もひとつに かすみつつ
           おぼろに見ゆる 春の夜の月

             作者  菅原孝標女

( NO.56  巻第一 春歌上 )
       あさみどり はなもひとつに かすみつつ
               おぼろにみゆる はるのよのつき


☆ 作者は、平安中期の宮廷女房。更級日記の著者として知られる。生没年は未詳。

☆ 歌意は、「 空は浅緑に 花の色も一つになって 一面にかすんでいて おぼろに見える 春の夜の月のなんとすばらしいことよ 」といった、比較的分かりやすい和歌である。
この和歌の前書き(詞書)には、「祐子内親王、藤壺に住み侍りけるに、女房・上人など、さるべきかぎり、物語して、『春・秋のあはれいづれにか心ひく』などあらそひ侍りけるに、人々多く秋に心を寄せ侍りければ」とある。
つまり、春と秋のいずれが風流に勝っているかとの論争となり、多くの人が秋をあげたので、作者は春の情緒が勝っているとして詠んだ歌なのである。
作者が、本当に春の方が勝っていると思っていたのか、反骨的な気持ちからなのかは微妙なところである。

☆ 作者の菅原孝標女(スガワラノタカスエノムスメ)は、更級日記の著者としてよく知られているが、生没年やその本名さえ正確には伝えられていない。
ただ、生没年については、誕生年を 1008 年、没年を 1059 年以降とする資料も見られるが、これは、更級日記の内容から推定したもので、ほぼ正確だと考えられる。

☆ 作者の父の菅原孝標は、あの菅原道真の玄孫にあたる人物である。母は、藤原北家に属する正四位下伊勢守を務めた藤原倫寧の娘である。つまり、作者は中級貴族の姫として誕生したといえる。
作者の生涯について、比較的多くの情報が伝えられているが、その多くは、彼女が書き残した「更級日記」の内容からのものである。

☆ 作者の父・菅原孝標は、上野国の介としての任期を終えて、帰京することになった。なお、上総国は親王が国司を務める親王任国で、国司が任地に赴くことはなく、次官である「介」が実質的な長官(国司)役である。
1020 年 9 月に、孝標一家は国府(現在の千葉県市川市にあったらしい)を出立し、三ヶ月ほどかけて京に上った。
『 あづまぢの道のはてよりなほ奥つ方・・・ 』と始まる「更級日記」は、「蜻蛉日記」や「紫式部日記」などと共に平安女流日記文学の代表の一つとされるが、実際は、毎日毎日を記録しているものではなく、むしろ回想録といった性格の作品である。

☆ その作品によれば、作者の少女時代は大変な文学少女であったようだ。特に、帰京後間もない頃に、伯母から源氏物語の全巻をもらい受け、尋常でないほどにのめり込んだようである。
1024 年に姉が二人の子供を亡くしたことから、「信心せよ」といった夢を見るようになったらしい。
やがて、祐子内親王家に出仕し、1040 年に橘俊道( 1002 - 1058 ・従五位上信濃守)と結婚、一男二女を儲けた。この頃には、現実生活に追われ、夢のような物語の世界からは解放されていたようで、それと共に仏教に傾倒していったようである。
1058 年に夫の俊通が死去、子供たちも独立していて、孤独な生活になり、物語もその翌年で終っている。この事から、1059 年、作者五十二歳の頃から、そう遠くない頃に死去したと推定されているようである。

☆ 「浜松中納言物語」「夜半の寝覚」という作品も、この作者による物とされる説が強い。どちらも、源氏亜流と評されることがあり、源氏物語の影響を強く受けていることからも、源氏物語の影響を強く受けたとされる作者が書き残した作品かもしれないが、まだ断定はされていない。ただ、もしかすると、この二作品が菅原孝標女という女性の手によるものだとすれば、当時、数多くの物語を書き残していたかもしれないと、強く感じるのである。

     ☆   ☆   ☆

 

   

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いと悲しきは

2021-07-19 07:59:24 | 新古今和歌集を楽しむ

     数ならば かからましやは 世の中に
             いと悲しきは しづのをだまき

              作者  参議篁

( NO.1425  巻第十五 恋歌五 )
        かずならば かからましやは よのなかに
                 いとかなしきは しづのをだまき


☆ 作者は、小野篁(オノノタカムラ)のこと。平安時代初期の貴族。( 802 -  852 ) 行年五十一歳。

☆ 歌意は、「 私が 人の数に入るような男であれば このようなことはあるまい 世の中で 大変悲しいことは 身分の低い男であることだ 」といった、小野篁らしい皮肉を感じさせる和歌である。この和歌の前書き(詞書)には、「忍びて語らひける女の親、聞きていさめ侍りければ」とある。忍んで逢っていた女の親に、苦情を言われたので返答したものらしく、「恋歌」に入っているが、むしろ可笑しさを感じる。なお、「しづのをだまき」であるが、「しづ」は倭文のことで、古代織物の一種。「をだまき」は、糸を中が空洞になるような丸く巻き付けたもの。ただし、和歌などでは、「いやし」「繰ること」などの序詞と使われることが多い。また、「いと」は糸と掛けられており、「しづのをだまき」の縁語となっている。さらに、「しづ」は「賤」に掛けられていて、「賤しい・身分が低い」ことを表現している。
ややふざけた和歌とも取れるが、多くの技法が込められている和歌でもある。

☆ 小野氏は、神話時代にまで遡ることが出来る名門一族である。信頼に足る歴史上の人物としては、小野妹子は篁の祖先にあたり、小野小町・小野道風は孫にあたる。しかし、小野氏の全盛期はこの頃までで、藤原氏の勢威に上級貴族としての地位は沈んでいくことになる。

☆ 篁の父・小野岑守は文人として高い評価を受けていた。岑守が陸奧守に任じられたとき、篁も同国に赴いていて、弓馬を好み武者の道に進もうとしていたようである。一説によれば、身長が高く偉丈夫であったという。
やがて帰京するが、嵯峨天皇から父の文才に対して武者を志していることを非難されたことから、一念発起して、822 年に文章生の試験に合格している。当時は、武者が文官に比べて低く見られていたことが分かる。
その後、皇太子・恒貞親王(のちに承和の変で廃太子となる。)の東宮学士に任ぜられる。

☆ 834 年、遣唐副使に任ぜられ、従五位上、正五位下と急速に昇進した。しかし、836 年、837 年と、二回続けて渡唐に失敗し、838 年の三回目には大事が発生してしまった。
遣唐大使の藤原常嗣が乗る第一船が損傷したため、篁が乗る予定の第二船に乗船することになり、その変更に不満を示した篁は乗船を拒否してしまったのである。一行は篁を除外して渡唐していった。
その後、さらに篁は、遣唐使制度や朝廷を風刺するような漢詩を作ったことから、嵯峨上皇の怒りを買って、官位剥奪のうえ隠岐国に配流されてしまった。828 年 12 月のことである。

☆ 赦免されたのは 840 年 2 月のことで、6 月頃に帰京している。
帰京を果たした後、篁の人格・文才は高く評価されたようで、841 年には本位(正五位下)に復帰が許され、842 年には、承和の変(廃太子を伴う政変。藤原氏による他氏排斥の最初の事件とされる。)により道康親王(のちの文徳天皇)が皇太子に就くと、その東宮学士に任ぜられた。
これにより、篁は日の目を見ることになり、847 年には参議に任ぜられて、遂に公卿に列したのである。四十六歳の頃のことである。
しかし、その後は、病のため官職を辞すことになったようである。

☆ 850 年に文徳天皇が即位すると、正四位下に叙され、852 年には左大弁(太政官の最高位)に復帰するが、再び病となり参朝さえ困難になってしまった。それでも天皇は大変な信頼を寄せていたようで、何かと支援を続け、在宅のままで従三位に叙されたが、程なく世を去ってしまった。

☆ 以上が作者 小野篁の略歴であるが、実は、筆者が大好きな歴史上の人物の一人である篁の真骨頂は、人間界と冥界を股にかけたスケールの大きな数々の伝説にあると言える。少し長くなるが、その幾つかを紹介させていただきたい。
『 篁は、昼間は朝廷に仕え、夜は冥府において閻魔大王の下で裁判の補佐をしていたと言う。』
『 冥府との往還には、井戸を使っていた。京都東山の六道珍皇寺と京都嵯峨の福正寺にその井戸が有ったと言う。』
『 京都北区にある篁のものとされる墓の隣には、紫式部のものとされる墓があるが、これは、愛欲を描いた罪により地獄に落されていた紫式部を、篁が閻魔大王に掛け合って救ったという縁によるものだと言う。』
『 嵯峨天皇が、「無悪善」という落書を読み解けと命じたが、篁はなかなか応じなかった。天皇がさらに強く求めると、「悪さが無くば善けん」(悪い嵯峨天皇が無ければ善いのに)と読み解くと、天皇は、「読み解けたということはお前が書いたのであろう」と強く責めたと言う。』
『 上記の天皇の怒りに対して、「私はどんな文章でも読めるのです」と釈明すると、「それではこれを読んで見よ」と言って「子子子子子子子子子子子子」という文章を示した。篁は、「猫の子の子猫 獅子の子の子獅子」と読み解いて、大事に至らなかったと言う。』

☆ 小野篁には、異母妹との壮絶な悲恋も伝えられているようだ。
人間社会だけでは納まらない篁と、異母妹との熱愛という人間の業を併せ持った篁・・・、もっともっと知りたいことの多い人物である。

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雲となりけん

2021-07-07 07:55:46 | 新古今和歌集を楽しむ

     あはれ君 いかなる野べの 煙にて
             むなしき空の 雲となりけん

              作者  弁乳母

( NO.821  巻第八 哀傷歌 )
       あはれきみ いかなるのべの けぶりにて
                 むなしきそらの くもとなりけん


☆ 作者は、三条天皇の皇女禎子内親王の乳母として知られる、宮廷女房、歌人である。生没年は未詳。

☆ 歌意は、「 ああ わが君は どのような野辺の 火葬の煙として 虚空の 雲になられたのでしょうか 」と、亡き天皇(後朱雀天皇)を悼んだものである。

☆ 作者の生没年は未詳であるが、皇女禎子に仕えていたこと、結婚した相手が公卿であること、歌合の記録が残されていることなどから、大まかな生没年を推定するのは簡単だが、筆者程度で入手できる記録を精査してみると難しい部分も浮上してくる。

☆ 作者 弁乳母(ベンノウバ)の本名は藤原明子。父は加賀守藤原順時であり、母は肥後守紀教経の娘である。いずれも受領クラスの家系であり、中級貴族の出自といえよう。なお、紫式部の娘である大弐三位も弁乳母と呼ばれることがあるが別人である。
作者の誕生年は未詳であるが、確実とされている記録もある。
① 1013
年に禎子内親王の乳母として出仕したこと。
② 年度は未詳であるが、参議藤原兼経と結婚している。子息の顕綱 ( 1029 - 1103 ) の誕生年を考えると、室となったのは 1029 年前後と推定できる。
③ 1078 年に、内裏歌合に出詠したことが確認されていて、これが作者の動静が残されている最後のものとされる。

☆ 上記の三点を基に作者の生涯を探ろうというのは、いかにも無理があるが、それでもかなりの推定が出来る。
なかでも、①にある「禎子内親王の乳母として出仕」したことが、多くの疑問を与えてくれる。
父の順時は、藤原北家とはいえ傍流であり受領クラスの貴族であるが、その娘が内親王の乳母に採用されたことを考えると、意外と皇室に近いあたりで活動している家柄だったのかもしれないと想像してしまうのである。もちろん、作者の学識と容姿なども優れていたのであろうが。
そして、作者が乳母として出仕したとき何歳だったのか、ということが大きな疑問として浮上してくるのである。
ふつう、この時代の「乳母」といえば、高貴な方の乳児に母乳を与えるために仕える女性のことであって、当然いくつかの条件がある。母乳が出る健康な女性であること、信頼に足る家柄の女性であること、さらには容姿や教養も条件とされたはずである。特に、皇女の乳母ともなれば、その条件は並大抵のものではあるまい。ただ、「母乳が出る」為には、出産間もない頃であることが必要になってくる。そのためには、この時作者は出産間もないことになり、従って、少なくみても十五歳位になっていることになる。
そうだとすれば、③の時点では、八十歳を過ぎていたことになる。弁乳母の行年を、八十過ぎとしている説もあるようなので、この論議も成立するかもしれない。
もう一つの考え方は、「乳母」には、母乳を与える役ではなく、養育にのみあたる女性もいたらしいので、もしかすると、作者はそちらだったのかもしれない。ただ、そうすれば、人柄や教養をより強く求められることになり、十五歳やそこらでは無理な気がする。

☆ 作者が、参議藤原兼経の室となり顕綱を儲けたのは 1029 年のことである。兼経の父は、大納言道綱の三男であるが、道長が養父になっている。
三条天皇の内親王禎子は、1027 年に皇太子敦良親王(後の後朱雀天皇)に入内した。禎子誕生の頃は、父の三条天皇と祖父にあたる権力者藤原道長との仲はしっくりしていなかったが、その後、禎子は道長に可愛がられたようで、皇太子に入内できたのも道長の支援があったからである。
この年度を考えると、もしかすると作者はこの頃に禎子内親王のもとを辞したのかもしれない。そして、兼経の室となったのも、道長の意向が働いていたかもしれない。

☆ 作者 藤原明子は、中級貴族の姫として誕生したが、その生涯は天皇家に近いあたりが生活の場であり、禎子内親王(後の後朱雀天皇后皇后、陽明門院)や道長の庇護も受けて、存分にその才能を開花させた生涯であったのではないだろうか。歌人としては、家集もあり、勅撰和歌集には29首が採録されている。
夫となった兼経との結婚生活は十五年ほどで先立たれているが、二人の間の子である顕綱の子孫は、後に九条家につながり、その血統は今上天皇にまでつながっているのである。
心豊かな生涯を送った女性であったように思われるのである。

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今日は命の

2021-06-25 08:06:04 | 新古今和歌集を楽しむ

     昨日まで 逢ふにしかへばと 思ひしを
              今日は命の 惜しくもあるかな 

               作者  廉義公

( NO.1152  巻第十三 恋歌三 )
        きのうまで あふにしかへばと おもひしを
                  けふはいのちの おしくもあるかな


☆ 作者は、平安時代中期の公卿。( 924 - 989 ) 行年六十六歳。

☆ 歌意は、「 昨日までは 逢うこととひきかえならば 命などどうなってもよいと思っていたが お逢いした今日は 命が惜しくなりました 」といったものであろう。
この和歌の前書き(詞書)には、「 人のもとにまかり初(ソ)めて、朝(アシタ)に遣はしける 」とあるので、典型的な「後朝(キヌギヌ)の歌」といえる。 


☆ 作者 廉義公(レンギコウ)とは、平安王朝文化が絶頂期に向かう時期に、関白、太政大臣として君臨した藤原頼忠のことである。廉義公というのは諡(オクリナ)である。
父の実頼も、関白、太政大臣、摂政を務めており朝廷政治を主導したが、政治の実権は弟の師輔に後れをとりがちであった。その原因は、実頼が天皇と外戚関係を築けなかったためとされることが多い。頼忠も同様で、政権の最高位を務めながらも、師輔の子息の兼通・兼家らに主導権を握られていった。その主因も、天皇家との外戚関係とされがちであるが、それを否定することは出来ないとしても、政治的な能力の差もあったように思われてならない。

☆ やがて、一条天皇の御代になると、政権は兼家の子息の道隆、そして道長という傑物に握られていった。
一方、実頼の子孫は、政権という見地から見れば、道長の御堂関白家の後塵を拝する形に見えるが、頼忠の長男には、公任という人物が誕生している。官位は、正二位権大納言止まりであるが、和歌・漢詩に優れ管弦の名手でもあったという。当時を代表する文化人であったと評価できる。
つまり、作者頼忠の和歌の能力はともかく、その子孫は、文化人としては超一流であったと評価できると思う。もしかすると、頼忠に文化人として活躍する場が提供されていたら、まったく違う人物像が残されていたかもしれない、と思うのである。

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消えばわれこそ

2021-06-13 07:56:33 | 新古今和歌集を楽しむ

     露の身の 消えばわれこそ 先立ため
              後れんものか 森の下草

             作者  小馬命婦
 
( NO.1737  巻十八 雑歌下 )
       つゆのみの きえばわれこそ さきだため
                おくれんものか もりのしたくさ


☆ 作者は、平安中期の宮廷女房、歌人。生没年とも未詳。

☆ 歌意は、「 露のような身で あなたがお亡くなりになるのであれば わたしこそが先立ちましょう あなたに遅れることなどありましょうか ご愛顧を受けた『森の下草』のようなわたくしなのですから 」といった意味であろう。

☆ 作者 小馬命婦(コマノミョウブ)は、はじめは関白藤原兼通 ( 925 - 977 )に仕えていて、後に円融天皇皇后媓子( 947 - 979 、兼通の娘。)に女房として仕えている。
両親ともに不詳であるが、女房名から推定すれば、受領クラスの中下級の貴族の出自と推定される。
媓子が入内したのは、973 年のことであるが、おそらく、兼通は愛娘の入内に小馬命婦を女房として付けたのであろう。そうだとすれば、人格・教養共に高い評価を受けていたと推定できる。
また、これらのことから、作者が生きた時代がおおよそ推定できる。

☆ 掲題の和歌の前書き(詞書)は「返し」となっており、一つ前には贈歌が載せられている。
 「 長らへん としも思はぬ 露の身の さすがに消えん ことをこそ思へ 」
とあり、作者は「読人しらず」になっている。前書きも「わづらひける人のかく申し侍りける」となっているので、これは小馬命婦によって書かれた物となろう。
これらの二首は、「小馬命婦集」という歌集から採録されているが、それには、「堀川殿の阿闍梨の君いたくわづらひ給ふとて・・」とあるので、作者は堀川殿、つまり兼通の子息の一人であることが分かる。

☆ そこで、この二人の関係が気になるが、私などは、僧籍にある兼通の子息の死に臨んでの、激しい恋歌だと想像してしまうのだが、新古今和歌集の編者はこれらの和歌を「雑歌」に区分している。
ということは、二人の関係は私が想像するようなものではないということを知っていたのか、あるいは、高貴な出自の阿闍梨の絶唱を「恋歌」とするのを憚ったということも考えられる。
私は後者であって欲しいと願っている一人である。

☆ 小馬命婦の伝えられている消息は意外に少ない。時の関白や女御(後に皇后)に仕え、「小馬命婦集」という歌集を残しているほどであるから、歌人としても当時一流であったと考えられるだけに、今少し逸話があってもよいように思ってしまうのである。
側近く仕えた媓子は 979 年に三十三歳で逝去する。その後ほどなくして出家したとされる。
この時、小馬命婦は何歳くらいであったのだろうか。すでに兼通も世を去っており、内裏を退出した後、後見してくれる人物はいたのだろうか。藤原高遠や清原元輔(清少納言の父)など一流の歌人との交流はあったらしい。

☆ なお、清少納言の娘も小馬命婦という名前であり、和歌も残している。この人は一条天皇の中宮彰子、後の上東門院に仕えた女房であるが、全くの別人である。
この二人は、宮廷の女房であることや、活躍した時代も百年も離れていないこともあって、混同されることが少なくないようだ。母が清少納言という大看板であることや、仕えていたのが上東門院彰子という著名な中宮であることから、本歌の作者の存在が薄められている点があるような気がするのが残念である。

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なほ故郷を

2021-06-01 08:00:01 | 新古今和歌集を楽しむ

     道のべの 草の青葉に 駒とめて
            なほ故郷を かへりみるかな

             作者  民部卿成範

( NO.965  巻第十 羈旅歌 )
        みちのべの くさのあおばに こまとめて
                  なほふるさとを かへりみるかな


☆ 作者は、平安時代後期の公卿、歌人。 ( 1135 - 1187 ) 行年五十三歳。

☆ 歌意は、「 道の辺の 草の青葉に 乗っている馬をとめて 遠のくふるさとを 振り返って眺めてみる 」といったもので、ごく分かりやすいものと受け取ったが、この和歌が亡父に連座して、下野国に流される途中での詠歌であることを思うと、歌の持つ重さが変わってくる。

☆ 作者 民部卿成範(シゲノリ)は、平清盛が台頭してくる頃に、歴史の一端を担ったとさえいえる信西(シンゼイ・1106 - 1160 , 俗名は藤原通憲。)の三男にあたる。父・信西の政治的な立場や功績を安易に述べることは避けたいが、後白河法王と平清盛というあくの強い英雄の間で政治的な活躍を見せた人物である。
成範は、保元・平治の乱という激しい時代を、父の後見のもと順調に出世を続けた。若くして正四位下に昇り、遠江守、播磨守に就き、清盛の娘と婚約するなど、前途洋々であった。

☆ しかし、1160 年 ( 平治元年12月 ) に平治の乱において信西が殺害されると、状況は一転して、信西の子息たちは罪を受け、成範も上野国に配流となった。掲題の和歌は、配流となり京都を離れる粟田口の辺りで詠んだものである。

☆ ところが、1160 年 2 月には赦免されて京都に戻り、12 月には復位し大宰大弐に任じられている。後白河法王と平清盛の微妙な関係のさなかのことであるから、双方からかなりの信頼を得ていたものと推定できる。また、作者はこの頃までは「成憲」を名乗っていて、「成範」に改名したのはこの頃のことらしい。

☆ その後も順調に昇進し、1166 年には従三位となり公卿に列せられている。
1167 年には正三位・参議に、1180 年には従二位、1183 年には正二位・中納言に就いている。
この間、1179 年に起こった政変で、後白河法皇が鳥羽殿に幽閉されたときにも、兄弟らと共に出入りが許されている。
1185 年に、源義経が頼朝から離反した際には、義経に同心した嫌疑をかけられている。その真否はよく分からないが、大難には至っていない。
1187 年、享年五十三歳で没しているが病気によるものであったと伝えられている。

☆ 作者 藤原成範を紹介する場合、本稿もそうであるが、公卿・歌人とされる場合が多いようである。しかし、歌人としては、確かに勅撰和歌集に十数首採録されているが、当時においても一流の歌人というほどの評価は得ていないと思われる。公卿としても、政治的な足跡はそれほど大きなものは無いと思われる。
そうした中で、中納言にまで昇り、この難しい時代を生き抜いたことを考えれば、非凡な人物であったことは確かであろう。

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はかなき跡と

2021-05-20 07:33:59 | 新古今和歌集を楽しむ

     手すさびの はかなき跡と 見しかども 
            長き形見に なりにけるかな

             作者  土御門右大臣女

( NO.805  巻第八 哀傷歌 )
       てすさびの はかなきあとと みしかども
                ながきかたみに なりにけるかな 


☆ 作者は、平安時代中期の貴族の娘・妻。( 1027 - 1108 ) 行年八十二歳。生没年を未詳とする資料もある。

☆ 歌意は、「 手慰みの ちょっとした筆跡と 見たのだが 長く残る形見に なってしまいました 」と、何とも切ない和歌である。

☆ 作者の伝えられている消息は、余りにも少ない。ただ、その血筋は、皇族・摂関家に包まれたとも表現でき、周辺から推定できることはある。
作者名の土御門右大臣女とは、源師房(ミナモトノモロフサ・ 1008 - 1077 )の娘・妧子(ゲンシ)のことである。師房は、第六十二代村上天皇の第七皇子具平親王の長男である。従一位右大臣に上り、村上源氏中院流の祖となった人物である。
そして、妧子の母は、藤原道長の娘・尊子なのである。つまり、父は村上天皇の孫であり、母は藤原道長の孫という、その当時の超一流の血統といえる女性なのである。

☆ さらに、妧子が嫁いだ相手の藤原通房(ミチフサ・1025 - 1044 )は、道長の後を継ぎ、五十年にわたって関白を務めた藤原頼通の庶嫡子である。頼通の正妻に男子がいなかったため、嫡子扱いとして異例の出世の階段を昇った。なお、頼通の正妻・陸姫は、師房の姉にあたる。
通房は、十一歳で元服と共に正五位下に叙されている。十三歳で従三位、十四歳で従二位、十八歳で正二位権大納言に就いている。藤原摂関家の権力の凄まじさが窺えるが、同時に通房への一族の期待の大きさも伝わってくる。
しかし、通房は、1044 年 4 月、急病で死去してしまったのである。行年二十歳、余りにも早すぎる逝去であった。

☆ 妧子と通房との結婚の時期はよく分からない。ただ、当時の風習からすれば、通房の元服後間もない頃と考えられ、おそらく、妧子が十歳を幾つも過ぎていない頃だと考えられる。
通房に先立たれたとき、妧子は十八歳の頃と考えられ、八十二歳まで長命を保ったとすれば、夫と死別した後には、六十年を超える人生があったことになる。ただ、残念ながら、その間の様子を伝える消息は、筆者の力では想像すら出来ない。とはいえ、頼通の死去後は、摂関家の力が急速に落ちていくが、少なくとも経済的な面で、妧子の生活が脅かされるようなことはなかったと推定できる。

☆ 冒頭の和歌は、作者の数少ない消息である。
和歌の前書き(詞書)には、『 右大臣通房身まかりて後、手習ひすさびて侍りける扇を見出して、よみ侍りける 』とあるので、現代の私たちにその切ない気持ちを書き残してくれたのかもしれない。

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