雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

初めての喫茶店 ・ 心の花園 ( 16 )

2012-11-30 08:00:36 | 心の花園
        心の花園 ( 16 )

          初めての喫茶店


何だか疲れを感じて喫茶店に入る。
マスターとアルバイトらしい中年の女性だけの小さな喫茶店だ。
こんな小さな喫茶店はあまり利用しないのだけれど、何だかとても疲れたものだから、見知らぬ喫茶店に入ってしまったけれど、よせばよかったかなあ・・・


どうしたのです?
疲れたというより、精神的に少し参っているみたいですね。
心の花園に「ニゲラ」って花が咲いていますよ。
ニゲラの花言葉は「当惑」です。
何もあなたの気持ちを揶揄するつもりなどありませんが、少し弱気になっていませんか? だって、いくら初めての喫茶店だからって、当惑するほどのことはありませんよ。

ニゲラって、難しい名前ですよね。南ヨーロッパなど地中海沿岸地方に自生する一年草で、細い針状の葉から白や青や紫の花をのぞかせる姿は幻想的なのですが、何だか堅苦しいような名前なのは、学名をそのまま使っているためなのでしょうか。
ニゲラというのは、ラテン語の黒という意味ですが、花のあと結実して黒い種を付けることから来ていて、クロタネソウという別名もあります。

この花の名前について、ちょっと面白い話があるんですよ。イギリスでは、love in a mist(霧の中の恋)と呼ばれることがあるそうですが、一方では、devil in a bush(茂みの中の悪魔)とも呼ばれるそうです。
気持ち次第で、同じ花でもこれだけ違う見方がされるんですよ。

ゆっくりとコーヒーでも味わって、元気を出して下さいよ。
そうそう、ニゲラには「不屈の精神」という花言葉もあるんですよ。
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幼い日の想い出 ・ 心の花園 ( 15 )

2012-11-24 08:00:49 | 心の花園
        心の花園 ( 15 )

           幼い日の想い出


幼い日の想い出が、幾つかあります。
鮮明なものや、おぼろげで、本当にあったことなのかどうか確信の持てないものも少なくありません。
そんな中で、自分としてははっきりと記憶にあるのですが、考えて見ると、その出来事は幼い頃というよりもっと小さな頃のことで、記憶にある方がおかしいように思うのです。
ですから、最近は誰にも話さないのですが、時々想い出されて、少々切なく、その想い出に浸りきりたいような気になることさえあるのです・・・。


「シクラメン」の花が咲いています。
心の花園は、あなたが望めば、いつでもどんな花でも見せてくれますよ。
あなたの大切な想い出、きっと本当にあったことですよ。
大人の頭で考えれば不可能のようなことでも、幼児や、あるいは乳児にだって、いえいえお母さんの胎内で見聞きしたことでさえ、記憶に残っている可能性があるように思うのです。

シクラメンの花言葉は、「内気・はにかみ」そして「清純」です。
シクラメンには、こんな伝説も残されています。
『 ソロモン王が王冠に花のデザインを取り入れたいと考え、いろいろな花と交渉しましたが断られてしまいました。そんな時にシクラメンだけが了承してくれたので、ソロモン王は大喜びで感謝の気持ちを表しますと、シクラメンは嬉しさと恥ずかしさのあまり、それまで花は上を向いていたのに、うつむいてしまったのです 』

シクラメンの花やその花言葉は、一見弱々しく感じられますが、意外にシクラメンは寒さに強く、花言葉が示している性格は、人生の大切な要素なのです。
あなたの想い出、大切にして下さいよ。
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運命紀行  戦乱の陰で 

2012-11-21 08:00:50 | 運命紀行
       運命紀行

          戦乱の陰で


慶長五年(1600)九月十五日、両軍合わせて十八万ともいわれる軍勢が美濃国関ヶ原において激突した戦いは、まさに天下分け目の戦いであった。
関ヶ原の戦いである。

御大将徳川家康率いる東軍は総勢十万余ともいわれ、その内訳をみると、家康軍が三万、井伊直政率いる三千六百、松平忠吉率いる三千、本多忠勝率いる五百と家康家臣団が続く。そして、先鋒隊の中心には、福島正則軍六千、浅野幸長軍六千五百、黒田長政軍五千四百、細川忠興軍五千、池田輝政軍四千五百など家康本隊に匹敵する秀吉恩顧とされる武将たちが陣を構えていた。

一方の西軍は総勢八万とも伝えられているが、頼みとした豊臣秀頼は出陣することなく、御大将に祭られた毛利輝元は大坂城留守部隊を務めていた。
関ヶ原に集結したのは、実質的な大将格ともいえる石田三成軍は六千九百、毛利秀元軍一万五千、宇喜多秀家軍一万七千二百、小早川秀秋軍一万五千、長宗我部盛親軍六千六百、小西行長軍四千、吉川広家三千、安国寺恵瓊千八百など西国大名を主力とした布陣であるが、頼みの島津は義久率いる千五百に過ぎなかった。

後世の軍事専門家たちの多くは、この両軍の布陣を見て西軍有利を指摘するという。
しかし、その評価には加えられていない条件があった。一つは小早川秀秋の裏切りであり、もう一つは当時毛利氏を運営していたとみられる、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊の戦いぶりは消極的で、吉川広家の場合は家康に内通していたという説もある。
それらの条件を加味すれば、軍事の専門家でなくとも、西軍の不利は明確に見える。

戦いは、家康旗本の意地を見せようとする井伊直政・松平忠吉軍の抜け駆けにより始まり、先鋒を任せられていた福島正則隊が激しく西軍陣営に攻め込んでいった。
その先制攻撃を受け止めて、逆に押し戻していった軍勢が宇喜多秀家軍であった。八万といわれる西軍勢力にあって、一万七千程は寝返り、二万程は様子見的な戦いぶりという中で、宇喜多秀家の大軍勢は、獅子奮迅の戦いを見せた。
勇猛で知られる福島軍を激しく押し戻し、一時は壊滅状態にまで攻め込んだが、次々と救援に加わる東軍勢に宇喜多軍は次第に分断され、戦力を消耗させられていった。
やがて、小早川秀秋の大軍が寝返り、松尾山の陣営より西軍の背後に襲い掛かると、西軍は一気に崩れていった。
この時、宇喜多秀家は小早川秀秋の裏切りに激怒し、「松尾山に乗り込んで金吾(秀秋)を叩き切ってやる」と叫んだといわれるが、家臣の明石全登に制止されて、やむなく落ち延びていったという。

この激しい戦いは、関ヶ原だけのものではなく、日本全土が東西両軍に分かれて、あるいは旗幟を鮮明にしない勢力をも巻き込んで、血みどろの戦いを繰り広げていた。
多くの将兵が倒れ、狩り出された足軽や人足たちも多くの命を失った。
そして、男たちの激しい戦いの陰では、女たちもまた同じような試練にさらされていたのである。

豪姫もまた、そんな女性の一人であった。


     * * *

豪姫は、天正二年(1574)前田利家の四女として生まれた。母は、賢妻賢母として名高い芳春院まつである。
生まれた場所は尾張国の荒子と伝えられているので、利家も生まれ育った場所と考えられる。
荒子の地は前田家の本拠地で、利家の長兄の利久が家督を継いでいたが、信長の命令で強制的に利家に家督を移されたのである。利久に実子が無く、病弱であったことが理由とされるが、二人の間にいささかの感情的なもつれが発生したらしい。
その家督の変更は、豪姫誕生の五年ほど前のことなので、その頃は利家の本拠地になっていたということになる。

豪姫の誕生は利家が三十七歳(三十八歳とも)の頃で、織田信長が最も激しい戦闘を繰り広げていた頃である。
浅井・朝倉との戦いから石山本願寺との戦いへと続き、長島一向一揆とも残虐な戦いに明け暮れていた。もっともこの頃は、利家は信長の側近くで警護や連絡将校の役目についていたらしく、得意の槍を奮う機会は少なかったらしい。
やがて、柴田勝家の与力に加えられ、越前一向一揆との凄惨な戦いの先頭に立った。豪姫の誕生はその最中の頃らしく、誕生の時は荒子から遠く離れていたものと思われる。
そして、越前鎮圧後、その功により翌年に、佐々成政、不破光治とともに府中三万石が与えられた。一人当たり三万三千石という大名となったのである。

この頃豊臣秀吉はといえば、浅井・朝倉との戦いの後、浅井氏の旧領北近江三郡を与えられ、長浜城主となっていた。天正元年(1573)のことで、名前を木下藤吉郎から羽柴秀吉に改めたのもこの頃のことである。
秀吉の年齢は利家より一歳上(同年とも)で、信長のもとに出仕間もない頃から親交があっらしい。
二人が粗末な足軽長屋で隣りあって住んでいたと伝えるものもあるが、秀吉はともかく、利家は最初からの知行持ちであり足軽長屋に住んでいたというのは信じがたい。
ただ、二人の妻となった、後の高台院ねねと芳春院まつが若い頃から親交があり、終生親しかったことは事実と思われる。

豪姫は、幼くして秀吉の養女となった。
生まれて間もない頃らしく、誕生前から生まれてきた子が女の子なら貰い受けたいと、秀吉夫妻から強い申し出あったともいわれる。
幼いうちに養女として秀吉夫妻のもとへ移ったのだとすれば、荒子か府中か長浜のいずれかで譲り渡しが行われたのであろうが、その後は長浜城で育てられたと考えられる。
いずれにしても、豪姫は子供のいなかった秀吉夫妻に溺愛されたようである。秀吉は、身分が上がっていくと共に大勢の猶子や養子養女を得ているが、その多くは政略や権勢確保を目的としたものであるが、少なくとも豪姫に限っては実の娘として可愛がっていたようである。
豪姫も秀吉やねねの期待を裏切らない女性に育っていったらしく、利家やまつの美貌や才覚を引き継いでいたらしい。
「もし豪が男であったなら、関白にしたものを」と秀吉は心境をねねに綴っている。

天正十六年(1588)、豪姫十五歳の時、宇喜多秀家と結婚した。
秀家はこの時すでに備前岡山の城主であったが、早くに父に死に分かれ秀吉の養子として可愛がられていた。年齢が秀家が二歳上ということを考えれば、二人はかなり前から知りあっていたと考えられる。
秀家は岡山五十七万石と秀吉の後見を受けて、秀吉政権下で重要な役割を担っていく。
文禄の役では、小西行長、加藤清正、福島正則といったそうそうたる武将ら渡海軍の総大将を務め、秀吉最晩年には五大老の一人に選ばれている。

しかし、歴史には一方的な上昇はありえず、慶長三年(1598) に稀代の英雄秀吉が没し、翌年には豪姫の実父利家も世を去った。
時代は関ヶ原の戦いへと流れていった。

関ヶ原において西軍総崩れとなる中、宇喜多秀家は僅かな側近と共に戦場を脱出した。
いったん崩れかけた軍勢は、大軍であればある程立て直すことなど不可能で、混乱状態に陥っていった。
記録によれば、西軍の戦死者は五千ともいわれ、東軍の戦死者も三千にのぼるとされる。僅か一日足らずの戦いにおいてこれだけの戦死者を出したことになり、負傷者はさらに多いのであろうが、逆に言えば、相当の敗残兵が西に向かい、山中に逃れていったということになる。さらに、それを上回る東軍の追討軍が後を追い、混乱はしばらく続く。

秀家は僅かの家臣と共に伊吹山中に逃れた。その期間は相当長い間だったと考えられるが、その後の状況、特に京都や大坂の状況を探っていたのであろう。厳しい逃避行であったと考えられるが、あるいは何らかの支援も受けていたのかもしれない。
やがて、薩摩の島津義弘らを頼って潜伏を続けた。伊吹山から遥々と薩摩への逃避行は、変装しての決死行であったともいわれるが、国内の大半が徳川傘下となりつつあり、残党狩りの厳しい中の移動は簡単なはずがない。おそらく、手引したり密かに支援してくれる勢力があったと考えられる。
薩摩潜伏中には、琉球へ逃れるといったことも考えられたらしいが、徳川体制が固まると共に、薩摩での滞在が困難となり、島津義弘の子供である忠恒によって家康のもとに身柄を引き渡された。慶長八年(1603)の頃である。ただ、その間に薩摩や豪姫の兄前田利長らから助命の嘆願がなされていた。
その願いが聞き入れられたらしく、駿河国久能山に幽閉された後、八丈島に流罪となった。

秀家が八丈島に送られたのは慶長十一年(1606)のことで、三十五歳の頃である。秀隆・秀継の二人の男の子も一緒であった。
秀家らの流人生活は延々と続くことになるが、前田家や宇喜多旧臣花房正成らの支援を受けて厳しいながらも生き延びることが出来たのである。前田家の宇喜多氏への支援は明治維新までも続くことになるが、当初は秘密裏の支援であったが、後には隔年七十俵の支援が公認されていたという。
元和二年(1616)、家康が死去した後で、秀家らの赦免が認められたが、秀家は八丈島に残ることを望んだという伝承もある。
秀家が八丈島で波乱の生涯を終えたのは、明暦元年(1655)十一月のことである。徳川将軍は四代家綱になっており、関ヶ原で戦った武将たちは、敵も味方もすでにこの世の人ではなかった。
もし、戦いの勝利者を最後まで生き延びた者と仮定するならば、宇喜多秀家こそ関ヶ原の戦いの真の勝利者といえるのかもしれない。

さて、秀家の妻豪姫であるが、関ヶ原で西軍の大敗が明らかになった頃は、おそらく、大坂の宇喜多屋敷に居たと考えられる。
敗戦の報とともに大混乱になったと考えられるが、東軍勢力の攻撃までには時間の余裕はあった。豪姫が宇喜多家に嫁ぐ際に付けられていた中村次郎兵衛(後に刑部)らに護られて娘の佐保姫らと共に前田屋敷に逃れ、さらに兄である金沢の前田利長の庇護を受けることが出来た。

その後は、城下に移り住み、再婚することなく、秀家の身を案じ遥か八丈島へ支援を続けたという。
また、その頃、キリシタン大名として名高い高山右近は前田家の客将として迎えられていて、金沢には多数のキリシタン信者が誕生していて、豪姫もマリアという洗礼名を得ていたという話もある。
そして、もう一つ、豪姫は金沢に戻ってから女子を生んでいる。秀家の子供とされていて、どうやら秀家が薩摩に逃れる前には何度かの逢瀬があったらしいのである。切ない話である。

豪姫は四人の子供を儲けている。
長男と次男は夫秀家と共に八丈島に流されたが、この地で血脈を伝えている。
長女佐保姫(理松院)は、前田家家臣山崎長郷に嫁ぎ、長郷没後には同じく前田家家臣の富田重家に再嫁している。
次女冨利姫(先勝院)は、利長の養女として、伏見宮貞清親王に嫁いでいる。
豪姫は前田家という大きな傘に護られながら、娘たちを育て、遥かな地の夫を想いつつ密やか生活を送った。そして、寛永十一年(1634)、金沢城鶴の丸で、その生涯を終えた。享年六十一歳である。
葬儀は、前田・宇喜多・前田と豪姫を護り続けてきた中村刑部ら多くの人々の手によって、宇喜多氏の菩提寺である金沢の浄土宗大連寺で行われた。

時は流れて、平成七年(1995)五月、この大連寺において豪姫の三百六十回忌法要が営まれた。そして、豪姫と秀家が加賀と八丈島に生き別れてから四百年を経て、二人の分骨を頂き記念碑が建立され、祀られているという・・・。

                                       ( 完 )
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いいじゃないですか ・ 心の花園 ( 14 )

2012-11-18 08:00:17 | 心の花園
        心の花園 ( 14 )

          いいじゃないですか


どうも微熱があるらしい。
咳は出ないけれど、風邪でも引いたのか少し身体が重い。

昨夜は、少しばかり、調子に乗ってしまったみたいだ。
別に見栄を張るつもりなどないのだけれど、ついつい負けん気が出てしまって・・・。
体調が思わしくないのは、自己嫌悪からなのかなあ。


いいじゃないですか、たまには。
話の流れから、ついつい背伸びしてしまうことってあるものですよ。いつもいつもだと、そのうち誰にも相手にされなくなる心配がありますが、少しぐらいの背伸びは、誰にでもあることですよ。

心の花園に「ケイトウ」が咲いているでしょう。そう、鶏のトサカのような立派な奴ですよ。
最近の園芸種は、小ぶりの物が増えてますが、熱帯原産らしい逞しくて、辺りを睥睨(ヘイゲイ)しているようなのが、今日のあなたには良いのではありませんか。

ケイトウの花言葉は、「おしゃれ」それに「気取り」です。
体調がよくないのが風邪なら、早く帰ってる寝ることですが、昨夜の言動が気になってのことなら、むしろ胸を張って、ちょっぴりおしゃれをして、背伸び分くらい大きくなってやればいいんですよ。
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運命紀行  二条城の会見 

2012-11-15 08:00:07 | 運命紀行
       運命紀行

          二条城の会見


徳川家康と豊臣秀頼の二条城における会見が実現したのは、慶長十六年(1611)三月二十八日のことであった。

家康が駿府から上洛し二条城に入ったのは、三月十七日のことである。四年ぶりの上洛であった。
上洛の目的は、二十七日に行われる後陽成天皇の譲位、並びに四月十一日の後水尾天皇の即位という一連の行事に参列するためであった。
しかし、二条城に入ると、旅の疲れを取るのもそこそこに、織田有楽斎を大坂城に向かわせた。自身の二条城入城を伝えさせ、秀頼の上洛を促せるためであった。

関ヶ原の戦い、家康の征夷大将軍就任、と天下の覇権は豊臣家から徳川家へと移行したことは明らかであったが、今なお大坂城を拠点とする豊臣勢力は無視することのできない存在であった。
徳川政権下にあっては、豊臣家といえども摂津・河内・和泉の六十五万石を安堵された一大名に過ぎず、豊臣恩顧とされる大名たちも関ヶ原の戦いにより滅ぼされるか残された有力大名はことごとく徳川政権下に組み込まれていた。
しかしその一方で、加藤清正、福島正則などを初め、いまだ豊臣家に同情を寄せている武将も少なくなく、西国の有力大名や外様第一の前田利長さえも、一朝ことある時には豹変する可能性を否定することは出来なかった。さらに、大坂や京都町民の秀吉人気はなお高く、公家衆の豊臣に寄せる信頼も捨て置けない状況にあった。
家康としては何としても秀頼の徳川家への臣従を天下に示す必要があった。

この数年、大坂方重臣片桐且元らや織田有楽斎、さらには秀吉未亡人である高台院ねねにも助力を願い、秀頼と対面の場を作るよう画策してきたが、淀殿は頑として受け入れようとはしなかった。
今回の天皇譲位の大儀に上洛した家康はすでに七十歳であり、今回が秀頼に上洛させる最後の機会だという思いが強かった。
この家康の並々ならぬ決意は、清正ら秀吉恩顧とされる大名たちに家康の重臣たちから伝えられていた。それは、この機会に対面が実現しない場合には、豊臣家の存続の危機が訪れる懸念を示すものであった。
豊臣家の存続を強く願う大名たちの懸命の働きかけで、ついに淀殿を動かし秀頼上洛が実現したのである。

三月二十七日未明、秀頼は加藤清正・浅野幸長・織田有楽斎・片桐且元・片桐貞隆・大野治長らをはじめ小姓などおよそ三十人に警護されて、楼船で淀川を遡航した。秀頼が大坂城を出るのは、慶長四年(1599)に伏見城より移って以来実に十二年ぶりのことであった。
淀川の両岸は、清正・幸長の軍勢が弓・鉄砲までそろえた厳重さで警備されていた。福島正則は病気であったとも留守居役を務めたともされているが、実は万が一に備えて京都近くに軍勢を集めていたとも伝えられている。

伏見に到着した時、家康の使いとして九男の義直(後の尾張徳川家初代、この時十歳)、十男の頼宣(後の紀伊徳川家初代、この時九歳)が出迎えており、池田輝政・藤堂高虎らも随行していた。
その地で一泊した後、一行は二条城に向かった。秀頼の乗った輿は左右の扉を開け放って若武者ぶりを洛中の人々に見せ、左右には清正と幸長が付き従っていた。
一行は途中片桐且元の屋敷で装束を整え、午前八時頃に二条城に着いた。

家康と秀頼の対面は、御成の間において家康が北に秀頼が南に着座して始まった。
それぞれの挨拶の後、まず吸い物が出され、盃の交換が行われた。
次には盛大な進物の交換が行われ、その席には高台院ねねも姿を見せ挨拶があり進物の交換を行っている。
その後は饗宴となり、次の間では随行の武将たちにも饗宴が開かれたが、清正はその招きには応じず、秀頼の側を一時も離れようとはしなかった。

宴もたけなわとなった頃、「さぞや母君がお待ちであろう」と清正が出立を促した。
家康も、清正の言葉を咎めることもなく秀頼を玄関まで見送り、義直・頼宣に途中まで見送りさせた。
無事対面を終えた秀頼一行は、豊国神社に参詣し、隣接する方広寺の大仏工事を視察した。
帰路途中には清正の伏見屋敷に立ち寄り、再び船で淀川を下り大坂に帰った。
船中清正は、肩の荷を下ろしたかのように供衆らと酒宴を開いたという。

家康と秀頼の対面が無事終わったことで、それも秀頼が押さえ付けられる形ではなかったことに、大坂城の重臣たちや大坂に親近の情を抱いている大名たちは少なからず安堵の気持ちを抱いた。
江戸との手切れを懸念していた京都や大阪・堺の町衆たちも天下泰平の到来と喜んだという。
しかし、家康の捉え方は違ったようである。京都の庶民の秀頼人気は高く、何よりも秀頼のあまりにも堂々たる若武者ぶりに、将来への懸念がより高まったともいわれている。

懸命に淀殿説得を続け、必死の秀頼護衛を無事果たした清正は、この対面から僅か三か月を待たずして世を去った。
五月二十六日に上方から肥後へ帰る船中で発病したもので、六月二十四日に身罷ったのである。享年五十歳であった。


     * * *

加藤清正の誕生は、永禄五年(1562)である。幼名は夜叉丸と名付けられた。
織田信長が世に出る切っ掛けとなった合戦である桶狭間の戦いの二年後の頃であり、同じ秀吉子飼いの大名である福島正則より一年遅れての誕生である。
誕生の地は、尾張国愛知郡中村で、秀吉の生家とはごく近かったらしい。
父は加藤弾正右衛門兵衛清忠、自分勝手に名付けられる時代であったとはいえ何とも勇ましい名前であるが、身分は高くなくとも元は武士であった。身体を壊したため刀鍛冶に転身したが、清正の母は、その転身先の親方の娘である。

その父は清正がまだ幼い頃に病死し、母の手一つで育てられた。
この母は、秀吉の母と従姉妹の関係であったらしく、ほどなく秀吉を頼っているが、おそらく幼年期は、秀吉夫人ねねに可愛がられたことと思われる。
もっとも、その頃の秀吉は木下藤吉郎と名乗っていたが、天正十五年(1577)には長浜城主になっており、その前後に小姓として奉公するようになった。
清正が十五、六歳の頃で、元服し名乗りも夜叉丸から虎之介清正となり、翌年には百二十石(異説ある)の知行を得ているが、初陣した様子はなく、父がいないことや縁戚であることが考慮されたらしい。

その頃秀吉は中国路を転戦しているが、おそらく清正も側近くに仕えていたものと思われるが、目立った働きなどは伝えられていない。
清正の目覚ましい働きが伝えられているのは、織田信長が倒れた後の後継者をめぐる争いの決着をつけた賤ヶ岳の戦いである。後の世まで「賤ヶ岳の七本槍」と呼ばれる一人として活躍し、その戦功により三千石を得ている。
その後も、福島正則らと共に秀吉子飼いの侍大将として各地を転戦、九州征伐の後肥後国領主となっていた佐々成政が失政を問われ切腹の処分となった後を受けて、肥後半国十九万五千石を与えられた。
侍大将は一躍二十万石にも及ぶ大名に抜擢されたのである。

この時、残りの肥後半国を与えられたのは小西行長であった。行長は堺商人の出であり、いわゆる文治派として秀吉幕下で頭角を現してきた人物である。
武者働き一筋の清正にとって、それまで行長に対するライバル意識などなくむしろ後方支援を受けることが多かったと考えられる。清正にとってのライバルは福島正則など戦場を駆け巡る槍自慢の男たちであった。
しかし、肥後国を二つに分け与えられたことによって、二人の間に国境をめぐる幾つかの争いが発生したらしい。そして何よりも、文禄元年(1592)に始まる朝鮮侵攻によって二人の仲は厳しく対立することとなり、豊臣政権がもろくも崩れ去る大きな原因を生み出すことになるのである。

加藤清正といえば、「虎退治」と即座に連想されるように、清正を語るには朝鮮の役を理解する必要がある。ただ本稿では、その部分は割愛させていただくが、文禄の役においては、一番隊の大将が小西行長であり、二番隊の大将が加藤清正であった。以下九番隊まで組織されていたが、この二人が先鋒隊を率いて別ルートを突き進んでいったが、この過程により二人の間には修復不能なまでの亀裂が入ってしまったのである。清正は、文治派とされる一派の讒言で秀吉から謹慎処分さえ受けているのである。

ことはそれほど簡単な理由ではなく、どちらかに理があり正義があるといった単純な判断など出来るものではないが、この朝鮮の役により、加藤清正・福島正則・浅野幸長・黒田長政といった武断派とされる一派と、石田三成・小西行長ら文治派とされる一派との対立を生み出してしまったのである。
そして、秀吉が没するとともにその対立は深刻さを増し、軍事的に圧倒的に優勢である武断派は徳川家康と親密さを増して行き、関ヶ原の合戦へと雪崩をうつように時代を動かせたのである。

清正は豊臣政権下の武断派の代表的人物とされる。実際身の丈六尺三寸(190cm余)の堂々たる体躯に長烏帽子形兜というとんがり帽子のような兜を付けて戦場を疾駆する様は、あたりを圧するに十分なものであったという。
その一方で、藤堂高虎と並ぶ築城の名人として知られ、熊本城はもちろん、肥前名護屋城・江戸城・尾張名古屋城などの築城にあたってはその才能を発揮している。また内政においても、関ヶ原の戦いの後に与えられた肥後五十二万石においては、治水や農地改革において大きな業績を示しており、その功績は今に語り継がれている。

こんな逸話が残されている。
徳川幕府の命令により尾張名古屋城の普請にあたっていた時のことである。
福島正則が、「大御所の息子の城普請まで手伝わなければならないのか」と愚痴をこぼしたのに対して、清正は、「嫌なら領国に帰って戦準備をしろ」と言ったという。
清正も正則も、幼い頃から秀吉夫妻に可愛がられた子飼いの猛将であり秀吉と縁戚関係にあったとも伝えられている。二人とも豊臣家に対する忠節の気持ちは極めて厚く、戦場の働きばかりでなく、内政面でも非凡であったことは間違いない。
ただ、政治向きのことに関しては共に得てではなく、そのことが豊臣家にとって惜しまれる。
この逸話からも分かるように、清正は、豊臣への忠義心と共に、家康の実力の大きさを熟知していて、それだけに徳川体制下での豊臣の生き残りを必死に画策していたのである。

清正は、会見二か月後の五月二十六日、領国肥後に向かう船中で発病した。そして、ようやく辿り着いた熊本城において、六月二十四日にその壮大な生涯を閉じた。享年五十歳。
思い残すことは多く、その死因についても様々な憶測がある。
しかし、もしかすると、ほどなく起こる豊臣家の滅亡を見なくて済んだのは、天の配慮だったのかもしれない。

                                        ( 完 )
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たまにはクラシック音楽を ・ 心の花園 ( 13 )

2012-11-12 08:00:36 | 心の花園
        心の花園 ( 13 )

          たまにはクラシック音楽を


休日の朝、たまたまつけたラジオから、クラシック音楽が聞こえてくる。
確かよく耳にする曲だと思うのだけれど、クラシック音楽に詳しくない私には、曲の名前は思い出せない。
それでも、自然に背筋が伸びた感じになり、胸を張りたいよな気持になる。不思議なことだか、何かしら心を揺り動かされているような気持ちさえする。


広大な心の花園が山林に繋がっている辺りに、数本の「ヤマユリ」が見えるでしょう。
周囲の野草から一段高く顔を見せている花は、二十センチほどもある大きなもので、反り返った花の姿や、花の内側にある黄色の線や紅色の斑点は繊細で、神々しささえ感じさせる。この花が百合の王様と称えられるのも、むべなるかなと納得できます。

ヤマユリの花言葉は、「荘厳」。
この花の姿から連想されたものでしょうが、クラシック音楽に感動を与えられた休日の朝、せめて今日一日は、些細なことに拘らないで、堂々と振舞ってみるのはいかがでしょうか。
ちょうどヤマユリが、草木をなびかせる風を昂然と受け流しているように・・・。
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運命紀行  百万石を支える 

2012-11-09 08:00:38 | 運命紀行
       運命紀行

           百万石を支える


千代保が九州に向かったのは、いつの頃であったのか。

長い戦乱の世を勝ち抜き天下統一を果たし豊臣秀吉が、大陸侵攻への野望を実現すべく各大名に軍令が下されたのは文禄元年(1592)三月十三日のことであった。文禄の役の始まりである。
もっとも、大陸侵攻の前線本部となる肥前名護屋城は、前年八月には築城が開始されているので、計画についてはもっと早くから用意されていたことになる。
秀吉政権下にあって、このところの台頭著しく、徳川家康に次ぐ実力者になりつつあった前田利家は、軍令が発布されると諸将に先立って八千の軍勢を率いて九州に向かった。三月十六日のことである。

招集された軍勢は、九軍団に組織された渡海軍だけで十五万八千人といわれ、水軍や後詰を加えると十八万七千人とも伝えられ大軍勢であった。(三十万人という記録もある)
一番隊大将小西行長、二番隊大将加藤清正以下次々と渡海していった。
秀吉自らも渡海する意向であったが重臣らに留められたという。また、七月には秀吉の母・大政所が危篤となり秀吉は大坂に戻っているが、この間三カ月ばかり不在となる間は家康、利家の二人が指揮にあたっている。
翌二年一月には前田軍にも渡海の命令が下され準備に入ったが、その後、明との講和が進み結局利家は朝鮮に渡ることはなかった。

そして、八月には秀頼誕生の報がもたらされ、秀吉は嬉々として大坂に戻った。少し遅れて利家も退陣しており、十一月には金沢に戻っている。
結局、利家がこの文禄の役により肥前名護屋城に滞在していたのは、文禄元年四月から翌年十月頃までの間である。千代保が肥前名護屋城で利家に仕えていたのは、この間の数か月であったと考えられる。

千代保は利家夫人まつの侍女として仕えていたが、利家の身の回りの世話のため、まつに命じられて九州に向かったのである。
この時利家は五十五歳の頃で、千代保は二十三歳である。戦場への前線基地とはいえ、肥前名護屋城には秀吉を初めとして有力大名や文化人も出入りしているであろうことは、秀吉政権内部を知り尽くしているまつであれば、状況を承知していたはずである。そこへ派遣する侍女であるから、賢夫人まつの厳しい評価に耐えられる女性であったことは推定できる。教養や気配り、そしておそらく見目も麗しい女性であったと思われる。
ただ、千代保を身の回りの世話として派遣したまつに、当然利家の手付きとなることを予想した上であったのかどうか、不明である。

やがて、千代保は懐妊し、肥前名護屋城を離れる。
移動手段は籠しか考えられない時代である。臨月間近というわけにはいかず、永禄二年の夏の頃には出立したはずである。向かう先は、大坂であったのか、京都であったのか、金沢であったのか分からないが、おそらくまつのもとに向かったはずである。
千代保が出産したのは、十一月二十五日のことで、場所は金沢であったらしい。ただ、その頃には、利家は金沢に帰還しているが、生まれた子供とは会っていないので、城外の然るべき場所に保護されていたらしい。

生まれた子供は、猿千代と名付けられ、越中国守山城の城代前田長種のもとで養育される。長種の夫人は、利家・まつの長女幸姫であるので、まつの計らいによるものと推定され、大切に養育されたと思われる。
そして、利家にとって四男にあたるこの男の子が、加賀百万石にとって重要な意味を持つ人物へと育っていくのである。


     * * *

信長、秀吉、家康と激しい覇権争いの結果、家康によって江戸幕府という長期政権が築かれていったが、その中にあって、覇権こそ握ることはなかったが、加賀百万石と称えられる前田家は、さまざまの圧力を受けながらも、徳川御三家に次ぐ家柄として、また高い文化を誇る国を築き上げている。

支藩を含めれば百二十万石にも及ぶ雄藩を築き上げた藩祖は、若い頃から槍の又兵衛とうたわれた勇将前田利家であり、その妻まつも、良妻賢母であり、秀吉政権下にあっても少なからぬ影響力を持っていたとされる誉れ高い女性である。
加賀藩の誕生から繁栄を続けて行く過程を見る時、この二人の存在は極めて大きい。しかし、今少し時間の経過を伸ばしてみると、見過ごすことのできない女性が浮かび上がってくる。
寿福院千代保である。

千代保(ちょぼ)は、元亀元年(1570)の誕生であるから、利家より三十二歳、まつより二十三歳年下である。およそ子供にあたる年代といえる。
父は朝倉氏家臣上本新兵衛、母も朝倉氏家臣の娘である。父の死後母は小幡九兵衛に再嫁したため、千代保は小幡氏とも称される。
朝倉氏が織田・徳川連合軍に討ち破られたのは、千代保が三歳の頃にあたるので、一家の苦難は軽いものではなかったと想像される。

やがて、前田利家夫人まつに仕えることになるが、何歳の頃であったのかよく分からない。実は、千代保の本名は千代であるが、前田家に仕えるにあたって、同家の六女千世と音が同じだということで、千代保に改名させられたものである。
千代保が肥前名護屋城に出陣していた利家のもとに送られたのは二十三歳の頃である。それまで結婚の経験があるという記録は残されていないので、当時の女性の婚姻年齢を考えると、あまり恵まれた環境ではなかったような気がする。また彼女は、大変熱心な日蓮宗徒であったが、そのことも厳しい幼年期や青春期を連想させる。

文禄二年(1593)十一月二十五日、無事に誕生した男児は猿千代と名付けられた。その直後どのように育てられたのか不詳であるが、それほどの月日を置くことなく、守山城代である重臣前田長種のもとで養育されることになる。先に述べたように、長種の妻は利家・まつの長女なので、まつの意向が働いたと考えるのが自然であり、金沢城から遠く離れた地で育てられたからといって、決して粗略な扱いではなかったと考えられる。おそらく千代保も、幼児に同行したのであろう。
猿千代は、利家の四男にあたるが、誕生直後には利家と対面しておらず、四男としての認知を受けていたのかどうかははっきりしない。
また、幼名が猿千代と名付けられたことや、千代保が懐妊したのが肥前名護屋城であったことから、秀吉の子供だと疑う伝聞もあるらしいが、これは疑問に感じる。子供が欲しくて仕方のなかった秀吉の子を、利家夫妻が隠すことなど考えられないし、天下の太閤秀吉の子に猿千代と名付けるなどは常識的には考えられない。

猿千代が、父に初めて対面したのは六歳の時で、利家が守山城を訪ねた時のことである。利家が世を去る前年の慶長三年(1598)のことで、まだ幼年の猿千代を大変気に入って大小二刀を与えたという。四男としての認知を受けたのもこの時のことと思われる。
さらに千代保の生んだ男の子は大きな転機を迎える。
利家・まつ夫妻の長男であり、加賀藩初代藩主前田利長には男の子供がいなかったため、猿千代が養子に選ばれたのである。なお幼名は、猿千代から犬千代に改められているが、その時期は確認できなかった。犬千代は、父利家の幼名であることを考えれば、早い段階で利長の後継者に目されていたのかもしれない。
加賀藩の藩主については、前田利家を藩祖として、利長を初代として数えるようであるが、利長を二代藩主とするものもある。

千代保の子供が利長の養子に選ばれる時、他に候補者がいなかったわけではない。
次男利政はすでに独立していたが、利長とは対立することが多かったらしく、関ヶ原の合戦では東軍に付く態度を鮮明にせず、領地の能登国を没収される事態になっていく。
三男知好は側室の子供であるが、この頃すでに出家していて対象から外れたらしい。この人物は後に還俗するが、家督に関して利光(猿千代)と諍いがあったらしい。
五男、六男は、それぞれ別の側室の子供であり当然年齢も下であるが、全く対象外ということではなかったはずである。
そして何よりも、利長はまだ三十八歳の頃のことであり、次男利政に男子は一人だけであったがまだ若く、後継者となる養子を取るのは早すぎるという意見もあったはずである。
これは、全く記録にないことだが、まつの心情を考えれば、有り得るような気がするのである。

しかし、利家死去による混乱が前田家に時間の余裕を与えなかったのである。
家康の動きが激しくなり、前田家に謀反の動きありと糾弾される事態となった。この危機を収束させるために、まつは江戸に向かうこととなり、その見返りのような形で利長の嫡男に秀忠の娘を妻に迎えることになったからである。
おそらく、このような切迫した中で養子が選定されたのであろうが、千代保の子供が幼いながらもすでに大器の片鱗が見えていたからなのかもしれない。六歳の猿千代に対面した利家は、その子供がとても気に入ったと伝えられており、その時に犬千代という名前を与えたのかもしれない。もしそうだとすれば、利家から利長にそれなりの申し渡しがあったのかもしれない。ただ、これらはすべて憶測に過ぎない。
猿千代すなわち犬千代は、幼くして利家によく似た堂々とした体格の持ち主であったらしく、利長が後継に犬千代を選んだ理由の一つに優れた体格の持ち主であることをあげているという。

千代保の子供が晴れて初代藩主利長の養子となり、同時に名前を利光と改め、さらに徳川秀忠の娘珠姫との婚約が決まった。この珠姫とは、秀忠に嫁ぐ千姫の妹である。
珠姫が江戸から金沢へ壮大な行列を引き連れて輿入れしたのは、関ヶ原の合戦後の慶長六年(1601)のことであるが、利光がまだ九歳のことで、珠姫にいたっては三歳であった。
絵に描いたような政略結婚であるが、この婚姻こそが加賀百万石にとって重要な意味を持つ慶事であった。
この頃には、千代保も金沢城東丸に居を構えていて、東丸殿と呼ばれる身分になっていた。

慶長十年(1605)には、利長は四十四歳の若さで隠居し、利光に家督を譲った。豊臣家との関係など、何かと幕府から警戒を持たれていることを懸念して、将軍家の娘婿に当主の座を譲ることを急いだのであろう。
ここに、僅か十三歳で前田家二代藩主利光が誕生したのである。なお、この人は利常として知られているが、利光から利常に改名するのは、寛永六年(1629)のことである。
利光が藩主になるとともに、松平の名字と源の本性が与えられ、外様でありながら準親藩のような地位を獲得していくことになる。

また、ままごと遊びのような形でスタートした利光と珠姫との仲は大変睦まじかったと伝えられていて、珠姫は僅か二十四歳で世を去ることになるが、その間に三男五女の子供を残し、加賀百万石にとって掛け替えのない嫁御となったのである。
利常(利光)も治世に優れ、性格も大胆かつ緻密な人物と伝えられ、割愛するが興味深い逸話を今に残している。
寛永十六年(1639)に家督を譲るも、三代藩主光高は六年後に急死、その跡を継いだ綱紀がまだ三歳であったため、将軍家光の命により綱紀の後見を務め、名君の誉れ高い藩主に育て上げるのである。

利常が世を去ったのは万治元年(1658)のことで、享年六十六歳であった。
実に半世紀にわたって加賀藩政務の陣頭に立ち続けていたのである。この間に、多くの諸制度を築き上げ、何よりも、嫡男光高には家光の養女大姫(水戸徳川家頼房の娘)を正室に迎え、嫡孫綱紀には家光の信頼厚い保科正之の娘摩須姫を正室に迎え入れ、徳川家との関係を盤石なものへとしていったのである。
百万石の実力を、武力に傾くことを避けて文化面の向上に務めたのも利常の功績の一つといえよう。

一方千代保は、慶長十九年(1614)利長の死去により、芳春院まつに替わって人質となるため江戸に向かった。
まつもそうであったが、江戸を自由に離れることが出来ないなどの制約はあるとしても、実質的には加賀藩江戸屋敷での生活であり不足のない生活であったと考えられる。
千代保は若い頃から熱心な日蓮宗徒であったが、この頃にはさらにその活動に務めていたらしい。家康の側室であったお万の方とは特に親しく、共に熱心な日蓮宗徒として甲斐身延山久遠寺の五重の塔など、各地に多くの寄進などを行っている。

一つの逸話がある。人質交代のため芳春院まつと寿福院千代保が江戸で会った時、互いに挨拶さえ交わさなかったというのである。
この他にも、二人の不仲を伝える伝聞があるらしい。もし事実だとすれば、何に原因があったのだろうか。改名させられたとか、利家の寵を受けたことが気に入らなかったとか、あるいは、家督相続に関して何らかの軋轢があったとか等々幾つかの要因は考えられないことはない。
しかし、加賀百万石を支えた程の二人の女性が、挨拶も交わさないほど大人げない行動を取るとは考え難い。単なる伝聞として聞き流したい気持ちである。

千代保は、寛永八年(1631)加賀藩江戸屋敷で世を去る。享年六十二歳。
池上本門寺で荼毘に付された後、金沢でも葬儀が行われ、能登の妙成寺に納骨された。日蓮宗に深く帰依していた千代保の願いからであったという。
徳川の時代に、加賀百万石として燦然と輝き続けた歴史を考える時、千代保という女性の存在を忘れることは出来ないのである。

                                        ( 完 )
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さざ波のように ・ 心の花園 ( 12 )

2012-11-06 08:00:02 | 心の花園
        心の花園 ( 12 )

            さざ波のように


激しく打ち寄せて来るような荒波ではないけれど、ふと気がつくと、心の奥深くで、さざ波のような小さなざわめきが感じられる。
もう終わったことだと、何度も自分自身に言い聞かせてきたし、そのことは、はっきりと自覚している。
しかし、何故なのだろう、この心のざわめきは・・・。
遠い日の想い出とするには、まだまだ時間が必要だというのだろうか。


あの樹の蔭に「アツモリソウ」が見えるでしょう。
見つけにくいかもしれませんが、心の花園には所々で群生しています。
アツモリソウはラン科の花ですが、横を向く袋状の花形が、昔の騎馬武者が背負っていた母衣(ホロ)に似ていることから名付けられました。花名は、源平の悲運の若武者平敦盛から名付けられたもので、今少しがっしりしたものには、熊谷直実にちなみクマガイソウの名が付けられています。
もっとも、アツモリソウの花は白っぽく、クマガイソウの花が赤っぽいのは、源平の旗色が逆のようですが、それはそれで何とはなしに儚く、どちらも野生種は絶滅が心配されています。

アツモリソウの花言葉は、「君を忘れない」です。
どういう経緯の別れであったのかはしりませんが、大切な人の想い出は、さざ波が自然におさまるまで無理をすることはない、とも思うのですが。
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運命紀行  孤高の武将

2012-11-03 08:00:33 | 運命紀行
       運命紀行

          孤高の武将


世に名高い小山評定と呼ばれる軍議が開かれたのは、慶長五年(1600)七月二十四日のことであった。

大坂において石田三成挙兵との情報を得ていた徳川家康は、上杉景勝討伐に向かっていた大軍を止めて、軍議の開催を決めた。
家康は、自分が大坂を離れれば、三成を中心とした反徳川勢力が挙兵する可能性は十分予測していたことであるが、次々と寄せられる情報は、予期していた以上に敵勢力は巨大化していた。毛利、宇喜多、さらには島津までもが徳川討伐軍に加わったらしく、その中心に淀殿に支えられている秀頼が据えられているらしいことは、三成らしい策略であり、上杉征伐に参軍している武将たちの大坂屋敷にも手を廻しているはずである。

上杉討伐軍は、名目上は豊臣家の命令により派遣された軍勢であるが、六万余の大軍の過半は秀吉恩顧の大名たちである。三成が豊臣秀頼を大将とした体制を整えているとすれば、従軍してきている将兵たちが動揺する可能性は高い。有力な武将たちが大坂方に味方することになれば、雪崩を打つようにして上杉討伐軍は徳川討伐軍に変わる懸念さえあった。

家康は、かねてより特に昵懇であり信頼できる黒田長政を中心に有力武将への根回しを行った。三成が挙兵することを考え、豊臣政権下の有力武将で味方になりうる人物を選んで上杉討伐軍を組んだつもりではあったが、いざ江戸・大坂の正面衝突となれば、豊臣への忠誠を優先させる武将が出る懸念は捨てきれなかった。
家康は可能な限りの根回しを行った上で、下野国の小山に各武将を集め三成挙兵の情報を伝えた。
この情報は、上杉討伐に向かっていた軍勢にとっては初めて聞く情報であったが、それほどの驚きはなかった。いずれの大名も、三成の挙兵はある程度予想されることであったからである。

家康は上方からの情報を伝えた後、「どなたも大坂屋敷に妻子を残されている。また秀頼殿の御身も気がかりであろう。こちらに味方をするのも、石田に味方をするのも自由である。立ち退かれる御方に決して手出しはしない」と、大見えを切った。
さすがに各武将の間に動揺が見られたが、すぐさま大音声をあげたのが福島正則であった。
「妻子を押さえられたとて、石田の味方をすることなどあるはずもない」と、徳川方に味方することを宣言し、さらに東西激突に向かう途上にある正則の居城、清州城を家康に提供することまでも告げた。
かねてから家康はもちろん黒田長政らの手配りもあって、ほぼ全員が徳川方につくことを鮮明にした。
この時、大坂への忠誠を尽くすとして退陣したのは、美濃岩村四万石の城主田丸具安ただ一人であったという。

上杉征伐は直ちに中止され、上杉軍の反撃を抑える軍勢を残して大軍は西に向かった。
徳川方はこの軍勢を中心にして関ヶ原の合戦へと突入していくわけであるが、すでに各地での戦闘は始まっていた。大坂方が東上する道筋はもちろん、全国の広い地域で大坂方、徳川方の旗幟を鮮明にし、あるいは両陣営の優劣を慎重にうかがいながら、全大名が戦闘態勢に入っていた。

天下分け目といわれる関ヶ原の合戦は、東西両軍を合わせれば二十万を超える軍勢が激突したわが国史上最大の合戦であるが、戦いの帰趨は一日で決着をみた。
正則は、石田三成との対陣を望んだが果たされないまま、井伊直政、松平忠吉らの抜け駆けにより戦端が開かれた。福島軍は西軍最大の勢力を有してい宇喜多軍と激戦となったが、戦況は劣勢となり五町余りも押し込まれ、壊滅の危機に見舞われた。正則自ら叱咤激励し、ようやく敵軍の進攻を止め、東軍他部隊の支援もあって反撃にかかった。
さらに、小早川秀秋の寝返りにより、西軍はたちまち総崩れとなっていった。

戦後、正則は東軍勝利への貢献第一と家康から激賞されたが、今少し長い時間軸でこの戦いを見ると、小山評定での正則の徳川軍に味方する積極的な発言こそが、この戦いの勝敗の大きな要因であったように思われる。
しかもその発言は、黒田長政に説得されたり、石田三成憎しの思いから発せられた部分が大きいとしても、正則自身としては、すでに天下第一の実力者と目される家康のもとで豊臣家の存続を確立させたいという思いもあった。
ただ、歴史の流れは、槍一筋に生きてきた男の切なる願いに応えようとはしなかった。


     * * *

わが国歴史上最も鮮やかな出世を遂げた人物といえば、やはり豊臣秀吉ではないだろうか。
その彼が、大陸への夢を描くほどの権力を掴みながら、子供の代さえも支え切ることが出来ず滅び去ったのはなぜなのだろうか。それも、関ヶ原の戦いが実質的な権力移動の分岐点であったとすれば、秀吉が没してからわずか二年後のことなのである。
豊臣政権がこれほど脆弱だったのには幾つかの要因が考えられる。その一つに、後継体制がいわゆる外様の有力者が主体になっていたことがあげられる。

例えば、秀吉が死期を悟って作ったとされる五大老の制度を見ても、徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景(後に、上杉景勝)、宇喜多秀家の五人であるが、いずれも戦国時代を戦い抜いてきた武将たちである。強いて言えば、宇喜多秀家は秀吉の養子として育てられていて、実際に関ヶ原の合戦において西軍のために懸命の働きをしたのは宇喜多勢だけなのである。
つまり、秀吉は、各地の有力大名を傘下に取り込むことは出来たが、完全に臣従させ、あるいは子飼いの大老を誕生させられなかったことが豊臣家の致命的な弱点といえる。
福島正則や加藤清正といった武将では力不足と考えたのであろうが、彼らさえも敵に回し、石田三成や淀殿取り巻きの勢力で徳川勢と戦うのは、所詮勝負にならなかったのは当然ともいえる。

秀吉にとって数少ない子飼いの武将の筆頭格といえる福島正則は、永禄四年(1561)尾張国海東郡で生まれた。秀吉より二十四年ほど遅れての誕生である。
父は福島正信(異説もある)とされ、桶屋を営んでいたという。母は秀吉の叔母にあたることから、まだ幼い頃に秀吉の小姓として出仕したらしい。ただ、その頃の秀吉には幼い小姓を側に置く余裕などなかったと考えられ、おそらく秀吉の妻ねねのもとで養育されていたのだろう。

天正六年(1578)に、播磨の三木城攻撃で初陣を果たした。十八歳の頃で、秀吉は四十二歳、すでに織田信長から一軍を任せられる地位に立っていた。
天正十年、織田信長が討たれた後の山崎の戦いでは目覚ましい働きをし、それまでの二百石から五百石に加増されている。
その翌年の賤ヶ岳の戦いでは、一番槍を果たし敵将を討ち取る殊勲をあげた。この戦いでは、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれることになる秀吉自慢の荒武者たちが大活躍をしたが、戦後の恩賞では、他の六人が三千石を与えられたのに対して正則は五千石が与えられた。突出した働きであったと考えられるが、縁戚であることが考慮された面があるのかもしれない。

天正十三年(1585)に起きた小牧・長久手の戦いは、秀吉と家康の唯一の対陣であるが、正則も父・正信と共に後備えとして兵三百を率いて出陣している。桶屋であった父も兵卒として動員されているあたり、天下人目前の秀吉といえども、兵員を集めるのは簡単なことではなかったらしい。
正則は秀吉子飼いの荒武者として活躍を続け、天正十五年の九州征伐の後、伊予国今治十一万石の大名に封ぜられ、小田原征伐にも加わっている。

文禄元年(1592)からの文禄の役では渡海し、五番隊の主将として京畿道の攻略にあたり、年末には京畿道竹山の守備を担当している。
この後、一度帰国しているが、文禄三年には再び朝鮮に渡り、軍船に乗り敵水軍と戦うなど奮戦している。

文禄四年には、秀吉の養子となっていた関白豊臣秀次が自刃させられるという痛ましい事件が発生した。
その後の秀次の妻子などに対する非情な処断は、豊臣家の将来を暗示するような事件に思えてならない。
この時正則は日本に帰っていて、秀次に切腹の命令を伝える使者に命じられている。
一連の騒動の後、正則は尾張の清州二十四万石を与えられた。大幅な加増であるが、清州は重要拠点であり秀吉の信任のほどがうかがえる。

文禄の役に続く慶長の役には正則は渡海していないが、秀吉は慶長四年にはさらに大規模の朝鮮侵攻を計画していて、その軍勢の大将には、石田三成、増田長盛とともに抜擢されていた。結局この計画は、秀吉の死去により実現されなかったが、秀吉が正則を武将として高く評価していたことが分かる。
ただ、これら一連の朝鮮侵攻は、結局得るものはなく、多くの人命・物資を失い、多くの大名に不満を持たせてしまった。そして何よりも、その戦略や賞罰に関連して、武断派と文治派とされる両者の溝を修復し難いものにしてしまったのである。

秀吉死去から関ヶ原の合戦までに要した時間は、僅かに二年一か月である。
この僅かな時間の間に家康は着々と地盤を固め、正則自身も養子の正之に家康の養女である満天姫との婚姻を実現している。
この婚姻は秀吉の遺命に背くものであるが、家康は強引に秀吉恩顧の武将を手中に取り込もうとしていたし、正則には家康と昵懇になることが豊臣家を守ることになるという思惑があった。
しかし、豊臣恩顧とされる大名たちの武断派と文治派との亀裂は深刻さを増すばかりで、関ヶ原の合戦において豊臣政権は弱体化してしまった。

関ヶ原合戦の後、正則は安芸広島と備後鞆の四十九万八千石を領有する大大名として遇せら、加藤清正や黒田長政なども大封を与えられたが、徳川体制は堅固さを増していった。
家康が豊臣秀頼に対面を求めたのは、豊臣が徳川の臣下となったことを天下に示すためであるが、淀殿を中心とした豊臣政権はこれに抵抗を続けていた。
しかし、豊臣家を存続させるためには、徳川政権下で生き延びる術を見出すべきだと秀吉恩顧の武将たちの多くは考えていた。
そして、何とか淀殿を説得し、二人の二条城での対面は実現した。対面には、加藤清正、浅野幸長、大野治長ら三十余名に警護され淀川をさかのぼったが、淀川の両岸には清正、幸長らの軍勢が警護を固めていた。
正則は、この対面の場には病気を理由に出ていないが、京都の近くに一万の軍勢で万が一に備えていたと伝えられている。

しかし、この対面は、豊臣家存続の切り札とはならなかった。
家康は、この対面で秀頼の見事な若武者ぶりに驚き、豊臣存続を危険と判断したという伝聞もある。
さらに、この会見後まもなく、加藤清正、浅野長政・幸長父子、池田輝政といった、親豊臣とみられる武将が次々と世を去っていった。いずれも病死とされているが、長政の六十五歳はともかくも、清正五十歳、幸長三十八歳、輝政五十歳という年齢を考えると、作為的なものを感じられないこともない。
正則は、一人残されてしまった心境ではなかったか。
前田、黒田、毛利、島津など、かつては秀吉政権下にあった有力大名は、徳川体制下に積極的に加わろうとしていた。

豊臣家が滅亡する大坂の陣では、秀頼から加勢を求められるも拒絶するが、家康からは江戸留守居を命じられている。なお羽柴の姓を有していた正則は、油断できない人物と見られていたのである。
家康死後間もない元和五年、広島城の修復をめぐって詰問を受け改易とされる。広島五十万石を没収され、信濃と越後に四万五千石が与えられ、それも家督を譲っていた嫡男忠勝の早世により二万五千石を返却している。
そして、寛永元年(1624)七月、信濃高井野に残されている二万石の地で没した。享年六十四歳。
病死として幕府に届けられたが、幕府の使者が到達する前に火葬されたため、死因に疑義も持たれている。さらに、この葬儀を咎められ、最後の二万石も没収となり、三代目を継いでいた正利は三千石の旗本とされ、それも、嫡子が無く御家断絶となる。

戦国時代後半を描いたドラマなどには、福島正則はよく登場する。
しかし、主役になることはあまりなく、「武勇に長けるが智謀に乏しい猪武者」という人物評価が定着しているかに思われる。事実、残忍であったとか、酒での失敗が多かったとかといった逸話も多い。
しかしこれらは、徳川家の資料や、宣教師の著書などからの影響が大きいと思われる。残忍な行いがあったことは確かであろうが、当時の武将であれば、信長であれ、秀吉であれ、家康であれ、目をそむけたくなるような残虐行為を行っている。正則だけではないのである。
伝えられて逸話の中には、広島藩などの内政に優れていたこと、清州などでは宣教師に感謝されていることなどもある。酒の上の失敗でも、有名な黒田節にある日の本一の槍を飲み取った武者は母里太兵衛であるが、飲み取られたのは正則なのである。むしろ、微笑ましいほどである。

こんな逸話も残されている。
改易を伝える使者が江戸愛宕山下の福島邸を訪れた時のことである。その伝達をおだやかに聞いた正則は、「しばし待たれよ」と席を外した。其の後二刻(約四時間)ほども正則は出てこなかったが、使者は辛抱強く待った。
ようやく姿を現した正則は、長袴を着て、刀も帯びずに、幼い娘二人の手を引いていた。そして、静かに坐るとはらはらと涙を流し、
「徳川家にはただならぬ忠義を尽くしてきたつもりであったが、かかる仰せを承ることになろうとは思いもよらなかった。今は、妻子を一々に刺し殺し、貴殿と刺し違えようと思い定めたが、刀を抜き娘を引き寄せて見たが、千度百度に及ぶといえども、いずこへ刃を立つべしとも思われず、この上は致し方なし、とにもかくにも、仰せに従うことに致した」
と、告げたという。

福島正則家が三代で断絶となってから四十四年後の天和元年(1681)、すでに五代将軍綱吉の時代になっていたが、京都に住んでいた忠勝の孫、正則の曾孫にあたる正勝が将軍家に召し出されて、二千石の旗本として復活している。
正則の勇将ぶりは、まだ忘れ去られてはいなかったのである。

                                         ( 完 )









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