雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

悲しいものは悲しい ・ 心の花園 ( 5 )

2012-09-25 08:00:54 | 心の花園
       心の花園 ( 5 )

 
            悲しいものは悲しい


突然亡くなった人のことを思い出すことがある。
心の整理はもう済ませたつもりなのに、思い出してしまうと、やはり悲しい。
本当は、心の整理など何も出来ていないのかもしれない。思い出したのではなく、いつもそばにいるものに、気付いただけなのかもしれない。
どちらにしても、悲しいものは、やはり悲しい。


心の花園の奥には、「キンセンカ」が咲いているはず。
鮮やかな黄金色のキンセンカは、仏花として使われることも多いが、派手やかな色合いに関わらず、よく似合う。この花は、日の出と共に花を開き、夜には花を閉じるという。私たちの生活に寄り添っているようにもみえる。
仏前に飾られ、悲しみと共にありながら、その花色は雄々しいほどに鮮やかである。悲しみを雄々しいほどの花色で表現しているのかもしれない。
良いではないか、悲しい時は、悲しめば良い。


キンセンカの花言葉は、『悲しみ』『嘆き』そして、『失望』。
しかし、望みを失ってはいけない。
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運命紀行  天晴れ女武者

2012-09-22 08:00:21 | 運命紀行
       運命紀行

          天晴れ女武者


『 木曽殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女(ビンジョ・身の回りの世話をする女性)をぐせられたり。山吹はいたはりあって(病のため)、都にとどまりぬ。
中にも巴は色白く髪長く、容顔まことにすぐれたり。ありがたき強弓精兵、馬の上、徒歩だち、打物もっては鬼にも神にもあはうどいふ一人当千の兵者(ツワモノ)なり。
究竟(クッキョウ・非常に都合のいいさま)の荒馬乗り、悪所おとし(険しい坂を駆け下りること)、いくさといえば、[木曽殿は]さねよき(堅固な)鎧着せ、大太刀(オオダチ)、強弓もたせて、まづ一方の大将にはむけられけり。度々の高名肩をならぶる者なし。
されば、今度も、おほくの者どもおちゆき、うたれける中に、七騎が内まで巴はうたれざりけり。 』
 
 (中略・・その後、今井四郎兼平らと合流するも、総勢三百騎ほどとなる)

『 木曽左馬頭、其日の装束には、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧着て、鍬形うったる甲の緒しめ、いかものづくりの大太刀はき、石うちの矢(鷲の羽を用いた強い矢)の、其日のいくさに射て少々のこったるを、頭高に負ひなし、滋藤(シゲトウ)の弓もって、きこゆる木曽の鬼葦毛といふ馬の、きはめてふとうたくましいに、黄覆輪の鞍おいてぞ乗ったりける。
鐙ふんばり立ちあがり、大音声(ダイオンジョウ)をあげて名のりけるは、
「昔は聞きけん物を、木曽の冠者、今は見るらん、左馬頭兼伊予守朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。たがひによいかたきぞ。義仲うって兵衛佐に見せよや」とて、をめいてかく。
一条の次郎、「只今なのるは大将軍ぞ。あますな者ども。もらすな若党、うてや」とて、大勢の中にとりこめて、我うっとらんとぞすすみける。

木曽三百余騎、六千余騎が中をたてさま、よこさま、蜘手(クモデ)、十文字にかけわって、うしろへつっと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。
そこをやぶってゆくほどに、土肥の二郎実平二千余騎でささへたり。其をもやぶってゆくほどに、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中をかけわりかけわりゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。
五騎が内まで巴はうたれざれけり。

木曽殿、「おのれは、とうとう(早く早く)、女なれば、いづちへもゆけ。我は打死せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曽殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど、いはれん事もしかるべからず」と宣ひけれども、なほおちもゆかざりけるが、あまりにいはれ奉って、
「あっぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せ奉らん」とて、ひかへたるところに、武蔵国にきこえたる大力、御田の八郎師重、三十騎ばかりで出できたり。
巴その中へかけ入り、御田の八郎におしならべて、むずととってひきおとし、わが乗ったる鞍の前輪におしつけて、ちっともはたらかさず、頸ねぢきってすててんげり。
其後物具ぬぎすて、東国の方へ落ちぞゆく・・・         (以下略) 』
 

     * * *

『平家物語』巻第九「木曽最期」からの抜粋である。
この中に登場する巴は、「巴御前」として知られる女武者である。
『平家物語』には、悲運の女性が数多く登場するが、巴御前もまたその一人といえる。
しかし、この悲運の女性は、見目麗しくも弱々しさなどみじんもなく、並の豪傑など寄せ付けぬ天晴れな女武者であったらしい。

「木曽最期」の主人公である源義仲は、久寿元年(1154)の生まれである。幼名は駒王丸。
討ち果たされることになる源頼朝より七歳年下、義経より五歳年上である。
父は、河内源氏の一族である源義賢、頼朝らの父義朝の弟である。従って、義仲と頼朝・義経は従兄弟という関係である。母は、小枝御前という遊女であったという。
父義賢は兄義朝と対立し、大蔵合戦により義朝の長男義平により討たれた。当時二歳の駒王丸に対しても殺害命令が出されたが、畠山重能らの計らいで信濃国に逃れることが出来た。
吾妻鏡によれば、駒王丸は、乳母の夫である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷に逃れたという。

巴御前の父は、中原兼遠あるいは樋口兼光という。兼光は兼遠の次男であるので、いずれの娘であったとしても、義仲とは幼い頃から共に過ごしたと考えられる。
年齢は、巴御前の方が二、三歳下と推定されるが(諸説ある)、幼い頃から義仲の武芸の相手役を務めたらしく、早くから合戦にも加わっていたらしい。
しかし、幼い頃の義仲の資料はほとんどなく、従って巴御前に関するものも同様である。

巴御前に関しては、記録として残されているのが軍記物語とよばれる『平家物語』と『源平盛衰記』のみであり、当時の公式資料などには記録されているものがなく、鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』にさえ動向が記されていないことから、その実在さえ疑う研究者もいるそうである。また、たとえ存在していたとしても、一軍の大将となるような女武者など考えられないというのである。
しかし、当時の女性に関する記録は一部の皇族を除けば極めて少ないのは常識であり、女性で男性顔負けの武者働きをしたとされる伝聞は、何も巴御前に限ったことではない。

平氏討伐のためにいち早く立ちあがった木曽の源義仲が、京都の治安維持に失敗した粗雑な武将として評されることが少なくないが、それは、敗軍の将ゆえに後世に正しく伝えられていないためと考えられる。
源平合戦においては、九郎判官義経の神がかり的な活躍が評価されがちであるが、それらは、それに先立つ倶利伽羅峠の戦いにおいて、義仲が平氏の戦力を半減させていたからこそ実現できたともいえるのである。
そして、この戦いにおいても、巴御前は一軍の大将であったと伝えられている。

『平家物語』には何種類かの伝本があるが、巴御前に対する描写も微妙に違っている。
あるものは、「義仲に、自分の後世を弔うことが最後の奉公であると諭されて、東へ向かい、行方知れずになった」と。
又あるものは、「落ちのびた後、越後国友杉に住んで尼になった」と。
又あるものは、「粟津に着いた時には、義仲勢は五騎になっていたが、すでにその中には巴御前の姿はなく、討死したのか逃げのびたのか、その消息は分からない」と。

一方の『源平盛衰記』の中には、宇治川の戦いにおいて、敵将畠山重忠が遠目にも目立つ巴御前の姿を、何者かと問われた半沢六郎は、「木曽殿の御乳母に、中三権頭(中原兼遠)が娘巴という女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら、おもひものにして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井、樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。
別れの部分も、「我去年の春、信濃国を出でしとき妻子を捨て置き、また再び見ずして永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。さらば、無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の供よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」と、義仲が懸命になって巴御前を逃そうとしている様子が記されている。

さらに、落ちのびた後についても、頼朝から鎌倉に召し出され、和田義盛の妻になって朝比奈義秀を生んだという。和田合戦で和田一族が滅びた後は、越中国の石黒氏のもとに身を寄せ、出家して九十一歳までの生涯を送ったという。(但し、朝比奈義秀は討たれることなく戦場を脱出、その後の消息は不明)
『源平盛衰記』は『平家物語』よりさらに詳しく巴御前の消息を伝えているが、義仲討死の時には朝比奈義秀は九歳ほどになっているので、このあたりは、贔屓の引き倒しともいえる。
ただ、それも、巴御前という女性が、それほどまでに消息を膨らませたくなるような存在感を持っていた証とも考えられる。

朝日将軍と称された木曽義仲が、粟津の松原で鎌倉軍に討ち滅ぼされたのは、寿永三年(1184)正月二十一日の日没の頃と平家物語は伝えている。享年三十一歳。
たった一騎で東に向かったとされる巴御前は、二十八歳の頃であろうか。その後について、確たる消息を知ることは出来ない。ただ、ただ、颯爽と駆け抜ける天晴れ女武者の姿を思い描くばかりである。

                                      ( 完 )
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追憶 ・ 心の花園 ( 4 )

2012-09-19 08:00:37 | 心の花園
       心の花園 ( 4 )


            追 憶


海辺の小径を歩く。汐の香が心地よい。
外海に面している海岸ではないけれど、つい、椰子の実など探してしまう。
過ぎ去っていった日々が、静かに思い出される。少し切なく、それでいて満ち足りたような気持ちもする。


心の花園で「ミズバショウ」を探す。
岸辺近くに白い花が優雅に咲いている。白い花と見えるのは、実は仏炎苞(ブツエンホウ)と呼ばれる葉が変形したものであるが、その仏炎苞という名前自体が神秘的である。
ミズバショウは、尾瀬沼のものがあまりにも有名だが、北海道大沼公園など自生している場所は意外に多い。村などの花として指定している市町村の数は、二十にも及ぶとか。
次の季節には、自生地を訪ねてみようと、ついつい思ってしまう。


そう、水芭蕉の花言葉は、『美しい思い出』だとか。
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運命紀行  紫衣を羽織る

2012-09-16 08:00:34 | 運命紀行
       運命紀行

          紫衣を羽織る


『 大灯の門弟 残灯を滅す 
  解け難き吟懐(ギンカイ) 一夜の氷
  五十年来 簑笠の客 
  愧慚(キザン)す 紫衣(シエ)の僧 』

これは、文明六年(1474)、一休宗純が大徳寺住持に就いて間もない頃の作品である。
『 吾は僅かに残っていた大灯の法灯を消してしまった  胸に抱いた氷が一晩中解けない  五十年この方  簑笠で過ごしてきたが  今は紫の衣を着て恥じ入っている 』
といった意味の詩であるが、大徳寺の住持となり僧として最高位の象徴ともいえる紫の衣を着ることへの戸惑いが伝わってくる。一休、八十一歳の頃のことである。

一休は、六歳で山城国の安国寺(京都。現存していない)に入り、八十八歳までの生涯を禅僧として生きた。
禅僧としてのただ一筋の生涯ともいえるが、その生き様は、波乱に満ち、激しく、破天荒なものであった。そして、その激しさの向かう先は、現世での栄達を願い、富を求め、権力に尾を振り、世間におもねる高僧たちを徹底的に糾弾するものであった。破天荒さは、一休の代名詞ともいえる風狂であり、酒房や遊郭に入り浸る破滅的な生活に身を置いたものであった。
自らの詩の中で「風狂の狂客」と自身を表現した一休は、僧侶の堕落や表面的な教義を指弾し、形式や常識や、戒律や、権力にさえも囚われず行動することであった。

その一休が、六歳で出家の道に入り、三十五歳で師というものから離れ、ひたすら風狂と現世の栄達を糾弾する生活を続けながら、八十一歳にして紫衣を許された権威の象徴ともいうべき大徳寺の住持を引き受けたのは、何故であろうか。しかも、そのことを恥じている漢詩などが幾つも残されているのである。
凡人が理解することなどとても困難な一休宗純。その中でも、この出来事は、特に分かり難い。


     * * *

一休は、応永元年(1394)一月一日に、京都の民家で誕生した。
母は南朝の高官である藤原氏の娘といわれ、父は未詳であるが、後小松天皇であるという説がある。
この皇胤説は、後の戯作などで盛んに用いられたために定着化した感があるが、生前の一休の足跡を見てみると、あながち否定できない面もある。

六歳で安国寺に入門受戒し、周建と名付けられた。
因みに、一休という号は、二十五歳の時に考案を悟り、師匠である華叟宗曇(カソウソウドン)から与えられたものである。

十二歳で壬生の清叟仁(セイソウジン)の維摩経の講座に加わり、十三歳で建仁寺の慕竜礬(ボテツリュウハン)に漢詩の指導を受け、いずれも非凡さを表していたようである。
二十一歳の時、以前から参禅していた西金寺の謙翁宗為(ケンオウソウイ)が亡くなった頃に、入水未遂事件を起こしている。母の使いに止められたというが、謙翁の死が原因か否かは不明である。ただ、十七歳の頃に、戒名を宗純と改めていることを考えると、謙翁を尊敬していたことは確かであろう。

そして、二十二歳で、近江堅田の華叟宗曇に、師事する。
華叟という人物は、大徳寺派の禅僧で、開山の大灯国師に始まる中国臨済禅の法脈を受け継いでいた。一休に対しても厳しい修業を課したが、同時に一休も生涯の師ともいえる人物に出会ったのである。
ここでの十数年の修業により一休という人物の骨格が出来上がって行ったと考えられ、詩作は世に知られるほどになって行った。
三十四歳の頃、後小松院より度々召されており、院の崩御に際しては宝墨を賜っており、このあたりのことが後小松天皇父親説の出所であり、安易に否定できない理由である。

正長元年(1428)に、一休宗全に多くのものを与えた華叟宗曇が没する。一休、三十五歳のことである。
そして、それは、一休の修業時代の終りを告げる出来事でもあった。
一休は、大徳寺派の高僧の薫陶を受けており、紛れもなく臨済宗大徳寺派の僧である。
しかし、大徳寺はもちろんのこと、京都の大寺には止住していない。小庵を渡り歩きながら、大寺院の威容を求めるのではなく、師とするに相応しい人物を求め歩く修行時代であったといえる。
華叟の葬式を済ませて京に戻り、なお、修業を続けたと思われるが、この後、師を持つことはなかった。

京に戻った一休がどこに住んだのかは未詳であるが、和泉方面での消息が残されているので、一か所に留まることなく、雲水のような日々を送っていたのかもしれない。
因みに、三十五歳から八十歳頃までの消息を辿ってみると、
四十歳の時、すでに述べたが、後小松院に召されて宝墨などを賜っている。
四十三歳の時、大灯国師の百年遠忌。
四十七歳の時、華叟宗曇の十三回忌を営む。この時大徳寺如意庵に住まうも十日ばかりで辞去している。
五十四歳の時、大徳寺の内紛に激怒、失望もあってか死を決意するも勅命により留まる。
六十三歳の時、現京都府田辺市にあたる薪(タキギ)村の妙勝寺を再興して酬恩庵を構え、以後一休の拠点となる。現在の一休寺である。

以上のような部分だけを列記していくと、並の禅僧ではとても及ばないような足跡を残している。
しかし、その他の膨大な時間の多くは、とても禅僧の行動とも思えない破天荒なものであり、まさに破戒僧というべき生活であったようだ。
居住地そのものが一定せず、小寺の宿坊なども渡り歩いたと考えられるが、檀家の屋敷の納屋のような所や、民家を借り受けたり、檀家や公家の屋敷やその妾宅に居候したりと、京都及びその周辺を動き回っているのである。そして、それらのつなぎの期間の大半は、酒房や遊郭などに入り浸っているのである。

一休は、漢詩を中心に多くの墨跡を残しているが、その多くは、出世や栄華を求める僧侶に対する糾弾であり、艶歌というにはあまりにも直截過ぎる色欲を詠んでいるのである。
そんな一休は、文明六年(1474)、八十一歳の時に、勅命を受けて大徳寺第四十七世住持に就いているのである。寺内には居住しなかったといわれるが、それにしても理解に苦しむ行動ではある。
一休自身が、大徳寺住持に就いたことに忸怩たる思いを吐露していることを考えると、止むに止まれぬ事情があったのであろう。
例えば、大徳寺は応仁の乱により堂塔を焼失して消滅の危機にあり、再興出来るのは自分以外にないとの自負であり、さらに、勅命を拒絶できないほどの皇室との強いつながりがあったのかもしれないということである。

一休は、この後も風狂の生活に身を置き続けている。特に、盲目の女性森女を詠んだ過激なまでの艶歌は、一編の物語になるほどである。しかし、同時に大徳寺の復興に関しては、今日、中興の祖といわれるまでの働きを見せているのである。
そして、文明十三年(1581)七月、大徳寺の正門、偏門を復興し、落慶法要を行っている。
同年十月病に倒れ、一時小康を得るも、十一月二十一日に逝去。享年八十八歳であった。
一休には、辞世の句といわれるものが幾つもあるが、最後に弟子たちに語った言葉は、「死にたくない」であったともいわれている。一休宗純、面目躍如の一言である。

応仁・文明の乱がまだくすぶっている頃、そしてそれは、戦国時代の幕開けでもあるが、一休宗純はこの世を去った。
そして、この時、一休は再び命を得たかのように羽ばたき始める。虚実混合の一休の世界が始まったのである。

一休は、七言絶句を中心とした漢詩や偈(ゲ・仏典中の韻文)を中心に多くの墨跡を残している。
また、一休の著作といわれるものは二十数点あるとされているが、研究者によれば、本当に一休による作品とされるものは四、五点だといわれている。
墨跡は、茶席の掛物として珍重され、多くの著作物はさらに広がりを見せて、一休の世界を作り上げていく。
「一休ばなし」と呼ばれる小話集は早い段階に登場し江戸時代にはさらに広がりを見せている。そこには「頓知」もふんだんに登場している。
さらには、能狂言、俳諧、浄瑠璃、歌舞伎にまで広がりを見せ、草双紙にも多く登場している。
当然、禅僧としての一休も研究対象として飽かれることがない。
さらに昨今では、頓知小僧「一休さん」としての方が、遥かに認知されている。

このように、一休は没後極めて早い段階から、虚実が混同されて広がりを見せている。
もしかすると、生前の段階から、一休自身が虚実の中にあったようにも思われる。そうだとすれば、中途半端な勉強などで、一休宗純の爪の先であっても、理解することなど無理ということなのだろう。
最後に、一休の作品からなじみ深いものをいくつかあげておく。

『 シャカといふ いたずらものが世にいでて おほくの人を まよはすかな 』
『 女をば 法の御蔵と云ふぞ 実に シャカもダルマも ひょいひょいと生む 』
『 世の中は 起きて稼いで寝て食って 後は死ぬのを待つばかりなり 』
『 ナムシャカじゃ 娑婆じゃ地獄じゃ どうじゃこじゃといふが愚かじゃ 』  
『 門松は 冥土の旅の一理塚 めでたくもありめでたくもなし 』

                                    ( 完 )
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あなたはあなた ・ 心の花園 ( 3 )

2012-09-13 08:00:37 | 心の花園
       心の花園 ( 3 )


          あなたはあなた


正式なパーティーというほどのものではないけれど、わたしはいつも後ずさり。
華やかに振舞う友人たちの後ろについて歩いているだけみたい・・・。
別にヒロインのように振舞いたいわけではないけれど、
やはり、少しばかり自己嫌悪・・・。


ほら、心の花園に「シャクヤク」が咲いているのが見えるでしょう。
ボタンによく似たこの花も、「芍薬」という漢字が示しているように、平安時代に渡来してきた時には、薬用としてでした。
でも、ボタンに負けない美しさは、いつか人々の目にとまり、
「立てばシャクヤク 坐ればボタン 歩く姿はユリの花」とうたわれるようになっています。
あなたはあなた、無理に前に出ることなどないのではありませんか。


シャクヤクの花言葉は、『生まれながらの素質』そして『つつましやか』
他にも、「優美」「内気」「はにかみ」「はじらい」などというのもあるようですが、どれも大切にしたいもののように思いませんか。
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運命紀行  名家の誇り

2012-09-10 08:00:29 | 運命紀行
       運命紀行

          名家の誇り


突然の豪雨であったという。
永禄三年(1560)五月十九日、午後二時頃に歴史上名高い合戦の火蓋が切られた。

三河・尾張の国境あたりを制圧するために出陣した、今川義元を大将とする今川軍は総勢二万五千とも伝えられている。その辺りは、今川と織田の勢力圏が入り乱れており、それぞれの陣営に属する豪族たちも、敵味方の立場を変えることも珍しくなかった。
一方の織田家は、家中の主導権争いに明け暮れていたが、ようやく信長の出現により統一されようとしていることもあって、軍事的に圧倒的に優位にある今川家としても、国境地域での勢力強化を計る必要があった。家督を譲ったとはいえ実質的な主である義元自らが大将となっての出陣は、その重要性を感じていたからであろう。

これに対して織田信長は、籠城を主張する重臣たちを振り切って、出陣に踏み切った。総勢二千余ともいわれ、今川勢に対して一割ほどの軍勢に過ぎなかった。
午後一時になって突然の豪雨が戦場を襲った。敵本陣に奇襲を敢行する以外に勝目のない織田勢にとって、この豪雨は恵みであった。敵本営五千ほどの一隊が桶狭間で休息を取っていることを掴んだ信長は、敵勢に感ずかれることなく近づき、午後二時頃突入を計った。
狙いは、今川義元の首だけであった。

義元の首を討たれた今川勢は総崩れとなった。
義元の側近くに控えていた歴戦の武将も数多く討たれたが、今川遠征軍全体の戦死者は三千程度と伝えられている。しかし、総大将の討死は当時の合戦においては致命的で、散在していた二万五千ともいわれる軍勢は総崩れとなり、駿河に向かって敗走した。

桶狭間の戦いと呼ばれるこの合戦は、織田信長が天下人へと飛躍していく出発点ともいえる戦いであり、長年東海道一という大大名今川家が、没落へと向かう戦いであった。
そして、もう一人、歴史上の大人物を野に解き放った戦いでもあったのである。

幼年時代から今川家の人質として忍従の時を送っていた松平元康は、遠征軍の一隊として松平党を率いて大高城を守っていたが、敗走していく今川勢には従わず、大高城を捨て岡崎城に近い松平氏の菩提寺である大樹寺に移り、戦況を見守っていた。
そして、松平氏の居城である岡崎城に進駐していた今川勢が城を脱出して駿河に逃げ帰るのを確認した後、岡崎城に入った。
松平元康、後の徳川家康が、今川の束縛から離れ大きく羽ばたくきっかけとなった戦いでもあったのである。

そして、もう一人、総大将を討たれ、隊列を組むことも出来ず逃げ帰ってくる軍勢の様子の報告を、静かに目を閉じて聞いている女性がいた。
寿桂尼であった。


     * * *

寿桂尼の生年は確認できていない。
出自は勧修寺流中御門家で、「名家」の家格を持つ貴族である権大納言中御門宣胤の娘である。
公家の姫である寿桂尼が、守護大名とはいえ官位からいえば遥かに低く、しかも都から遠い駿河の今川家に嫁いだのには、これまでにも何らか交流があったようであるが、上流貴族でさえ経済的に厳しいという背景があったのかもしれない。

寿桂尼が今川氏親に嫁いだのは、永正二年(1505)のことである。(永正五年という説もある)
氏親はこの時三十五歳。二人の間の最初の子供の誕生が八年後のことなので、寿桂尼がまだ幼い頃の輿入れだったかもしれない。
今川家は、後には東海一の大大名と呼ばれるようになるが、氏親は誕生以来厳しい試練にさらされてきていた。

氏親は文明三年(1471)、駿河国守護今川義忠と北条早雲の姉北川殿の子として誕生した。
応仁・文明の乱の最中のことで、今川家もその争乱の影響を受けていた。隣国遠江の守護斯波氏との対立が深刻化を増しているなか、文明八年、氏親の父義忠は出陣中に不慮の死を遂げる。氏親が六歳の頃である。
今川家の家督は氏親が継ぐはずであったが、まだ幼年であることもあって、義忠の従兄弟である小鹿範満が後継者の地位を求め争いが発生した。そして、その紛争に古河公方執事である上杉政憲と大田道灌が介入してきたため家督をめぐる争いは混乱状態に陥った。
そんな苦しい状況の氏親陣営に救いの手を差し伸べたのは北条早雲であった。

早雲の仲介により両者は和睦し、氏親が成長するまで範満が家督を代行するということで決着をみた。
しかし、氏親が十六歳になっても範満は約束を守ろうとせず、氏親と北川殿の母子は再び早雲に助けを求めたのである。
早雲は直ちに行動に移し、範満の館を攻撃し討ち果たした。長享元年(1487)のことで、ここに氏親は名実共に今川家の当主となったのである。

当主となった氏親は、家中を固めると積極的に領土拡大に動いた。
明応三年(1494)の頃からは、弱体化しつつある斯波氏の領国である遠江に侵攻を計った。さらに関東・中部方面にも触手を伸ばし、甲斐武田氏とも再三交戦に及んでいる。
この積極的な軍事行動を可能にしたのは、強力な北条早雲の後見があったからである。

寿桂尼が氏親の正妻として駿河に下ってきたのは、氏親が今川家当主として安定してきてからである。
結婚後「大方殿(オオカタドノ)」と呼ばれた寿桂尼は、三人の男児に恵まれた。
氏親の後を継ぎ第八代当主となる長男氏輝は、永世十年(1513)に誕生、次男の彦五郎も同じ頃の誕生と考えられるが、この人物の記録はほとんど残されておらず謎の人物といえる。そして三男の義元は永世十六年(1519)の生まれである。

氏親による領土拡張行動はその後も続き、永正十四年(1517)には、念願であった遠江一国を手中にしたのである。
このように氏親は領土拡張の面で大きな実績を残したが、内政面でも検地を行うなど治世面でも優れていた。有名な武家家法である「今川仮名目録」の制定は、氏親が亡くなる二か月前のことであるが、晩年は中風を患っていたことから、その完成を急いだのかもしれない。
そして、この作成にあたっては、妻である寿桂尼がかなりの部分で関わっていたらしい。
氏親は、大永四年(1524)の頃に出家しているので、この頃にはすでに健康状態がかなり悪化していたと考えられ、長男はまだ幼く寿桂尼が政治面で相当深く関与していたと推定される。氏親名で発給されている文書も実質的には寿桂尼の意向に従ったものと考えられる。

北条氏の強力な後ろ楯を得ていたとはいえ今川家を大領主に仕上げた氏親は大永六年(1526)に病死した。葬儀は僧侶七千人という壮大なものであったという。波乱の時代を見事に生き抜いた人物といえる。
氏親は、この前年に長男氏輝を後継指名しており家督は障害なく引き継がれたが、氏輝はこの時十四歳の少年であった。当然老臣たちの支援を必要とし、寿桂尼の後見も必然的なものであった。
そして寿桂尼は、御家を守るべく自らが政治の先頭に立ち、多くの文書を発給している。氏親没後間もない間は、文書に「そうせん寺殿の御判にまかせて」という文言が記されていて、氏親後継者という意味を強く表現していたが、寿桂尼が主導的立場にあったことは確かである。
また、その文書には朱印が用いられていたが、女性が印を用いたとされる記録は極めてまれで、寿桂尼の決意が伝わってくるものであり、「女戦国大名」と呼ばれる所以である。

寿桂尼の発給文書は天文三年(1534)の頃を最後に姿を消す。氏輝の成長と共に政治の一線から引いたものと考えられ、氏輝の発給文書が見られるようになる。
ただ、これよりずっと後の天文十六年(1547)から十年余りの間にも寿桂尼の発給文書が数多く残されている。その内容は、直接的な命令や指示の文書ではなく、寺社領の安堵状や寄進などに関するものが主で、寺院や国人などの訴訟に関する文書もみられることから、氏輝の代に限らず、一貫して今川家中全体に対して影響力を持っていたものと考えられる。

寿桂尼の後見もあって、ようやく独り立ちしたと見えた氏輝であるが、天文五年(1536)に急死する。かねてから病弱であったといわれるが、二十四歳という若さであった。妻帯していたか不明であるが子供はなく、消息がほとんど残されていない次男の彦五郎もこの前後に死去したらしく、今川家は再び家督継承で紛糾することになる。
三男の義元は兄がいることもあって、幼少期に出家していた。今川氏の軍師であり政治顧問でもある太源雪斎のもとで学び、京都の建仁寺や妙心寺で修行を重ねた後、駿河国の善得寺に入山していた。
寿桂尼はこの三男を還俗させて後継者としたが、真っ向から異を唱える人物が登場する。

その人物は玄広恵探(ゲンコウエタン)といい、義元の二歳上の異母兄であった。氏親が福島氏の娘との間に儲けた子供で、福島氏の後見のもとに花倉の地で挙兵したのである。
花倉の乱と呼ばれる家督争いは、寿桂尼や太源雪斎らの支援を受けた義元側が福島氏の擁立する玄広恵探を打ち破り決着する。
ただこの争いについては、寿桂尼は最初玄広恵探を支持していたという説もある。
義元が室町幕府から正式に家督相続が認められたのは天文五年のことであるらしく、何らかの事情があったのかもしれず、同時に公家社会に縁故を持つ寿桂尼の働きがあったらしいこともうかがえる。

夫、そして長男に先立たれた寿桂尼は、太源雪斎らと共に義元を盛り上げ、今川家の全盛期に向かって突き進んでいった。
氏親も、武人としてだけでなく和歌や連歌をたしなむなど文武両道の人物であったが、義元はさらに文化面に力を入れ京都文化を積極的に取り入れていた。それには、当然寿桂尼の影響は大きかったと思われるが、治世面でも非凡な人物であったと思われる。
早雲はすでに故人となっていたが、北条氏との同盟は固く、遠江の先にある三河もほぼ手中に入れようとしていた。
だが、好事魔多しの喩えなのか、大軍を率いて三河・尾張に出陣していた義元が、予期もしていなかった惨敗をしてしまったのである。
永禄三年(1560)五月、寿桂尼が今川家に嫁いで五十五年が過ぎていた。

この後、今川家は没落の一途をたどる。
桶狭間の敗戦の二年程前には、義元は嫡男氏真に家督を譲っていたので、当主は健在ということになるが、義元の存在はあまりにも大きく、今川家は以前の勢いを取り戻すことはなかった。
氏真はこの時二十三歳、主柱を失った一族を取り纏めていくことはあまりにも重く、再び寿桂尼の発給文書が見られるようになる。孫の側にあって、今川の栄誉と自らが育った名家の誇りをかけて、生き残りを模索し続けた。

しかし時代は、織田信長、そして徳川家康という英傑を誕生させ、今川家の領土は侵略されていった。
やがて、駿府城を奪われ掛川城に籠った氏真は、家康軍の包囲に耐え切れず、家臣たちの助命を条件に開城した。ここに、戦国大名としての今川氏は滅亡したことになる。
寿桂尼は前年没しており、滅亡の憂き目を見ることはなかったが、公卿の姫から武家の今川氏に嫁いでからの六十余年を栄華の絶頂から没落の悲惨を味わいながらも、氏真に誇り高く生き残ることを教え続けたに違いない。

氏真は、掛川城を出た後は妻の実家である北条氏を頼ったが、その後は各地を遍歴し、身を寄せた館では文化人として歓迎されたようである。一時は家臣と共に徳川勢として戦場に臨んだこともあったらしい。
そして後年は徳川家に仕え、慶長十九年(1615)、江戸において七十八歳で天寿を全うしている。
今川氏は、江戸幕府に於いて高家として幕末を迎えている。
戦国大名としての地位は失ったが、寿桂尼が望んだように、文化人として誇り高い家系を守り抜いたようである。

                                        ( 完 )
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気になるあの人 ・ 心の花園 ( 2 )

2012-09-07 08:00:02 | 心の花園
       心の花園 ( 2 )


            気になるあの人


とても恋人と呼べる存在ではないけれど、とても気になる人がいる。
その人は、私のことなど知らんぷり。数人の友達とおしゃべりばかり。
その友達は時々変わるけれど、その人の美しさは際立っている。私の切ない気持を知ってか知らずか、時々見せる魅力的な微笑みは、一段と輝く。

心の花園に、『真っ赤なアマリリス』の花が咲いているでしょう。
花園の真ん中にあるわけでもないけれど、その華やかさは際立っている。あたりを圧するような存在感だが、決して傲慢さなどなく、周りの仲間とおしゃべりを楽しんでいるみたい。
さて、真っ赤なアマリリスを、遠くから眺めていますか? 一歩近づいてみますか?

アマリリスの花言葉は、『おしゃべり』そして『すばらしい美』。
そう、あの人にぴったりでしょう。

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運命紀行  清風は明月を払う

2012-09-04 08:00:31 | 運命紀行
       運命紀行


          清風は明月を払う


『 信長之時代、五年、三年は持たるべく候。明年あたりは公家などに成さるべく候かと見及び申し候。左候て後、高ころびにあおのけに転ばれ候ずると見え申し候。藤吉郎さりとてはの者にて候 』

これは、安国寺恵瓊(アンコクジエケイ)の手紙の一部である。
恵瓊は毛利氏の外交僧として、将軍足利義昭をめぐって微妙な関係にある織田信長との関係を調停すべく、信長側の使者である日乗上人、木下藤吉郎らと折衝を重ねていた。
この交渉の主眼は、信長と義昭の和解であったが、この目的は達せられなかったものの、織田・毛利の衝突はとりあえず避けることが出来たのである。

冒頭の手紙は、その交渉後の帰途で、吉川元春の重臣山県越前守と小早川隆景の重臣井上春忠に宛てた、京都の情勢などを伝えたものの一部で、日乗上人などに加え、信長と藤吉郎の人物評価がされているもので、この二人の将来を予言したものとして大変著名な文献である。天正元年の十二月のことである。

この天正元年(1573)の天下の情勢を見てみると、恵瓊が外交僧のような役割を担っていた毛利は、吉川・小早川との連携も進み全盛期を迎えようとしていた。一方の織田信長も、天下に号令をする体制を着々と進めてはいたが、いまだ石山本願寺は健在であり、将軍足利義昭との泥仕合のような状態も続いていた。
だが、この年の四月、戦国の巨星武田信玄が病没、徳川家康の成長もあって信長の東の脅威が少し薄れつつあった。
その結果として、織田と毛利の接点が少しずつ拡大しつつあった。その毛利との交渉役として織田陣営で目覚ましい台頭を見せている木下藤吉郎が抜擢されたのである。

後の豊臣秀吉である藤吉郎は、この歳三十七歳、恵瓊とほぼ同年齢である。
秀吉は何度も名前を変えているが、二十九歳の頃には、木下藤吉郎秀吉と名乗っていたことが文書に残されている。そして、この年に浅井氏の遺領である長浜城主となり、その前後に羽柴秀吉を名乗っている。従って、恵瓊が手紙に書いた頃には、羽柴秀吉となっていたのかもしれない。

それはともかく、毛利氏そのものが信長と対抗しうる領土を確保しており、石山本願寺や足利将軍家との戦いの目処も立っておらず、東には、信玄没したとはいえ武田勝頼があり、上杉謙信も健在であった。
その状況下にあって、今しばらくは信長の天下だと予測し、それにも増して、突然の滅亡を予測しているのである。さらに、まだ若く、しかも面識後日も浅い秀吉を「さりとてはの者」と評価した炯眼は、恵瓊がただならぬ人物であることを示している。

そして、この秀吉との出会いが、恵瓊の将来に大きな影響を与えることになるのである。


     * * *

安国寺恵瓊の生年は未詳である。いくつかの説があるが、天文六年(1537)と仮定する。この場合、豊臣秀吉と同じ年の生まれということになる。
両親も確定されたいない。安芸武田氏の一族である武田信重の遺児であるという説が有力のようであるが、異説もある。
安芸武田氏は甲斐の武田氏と同族で、鎌倉時代以来守護職として安芸一国に君臨してきたが、戦国期に入ると周防・長門から勢力を伸ばしてきた大内氏に圧迫され、さらにその配下にあった毛利氏の台頭が加わり、ついに天文10年(1541)、拠点の銀山(カナヤマ)城は落ちてしまう。恵瓊の父とされる信重は、この時自刃したとされる。

銀山城が落城となった時、恵瓊は五歳くらいであったと考えられる。竹若丸と呼ばれていた幼童は、家臣の戸坂某に守られて城を脱出し、安国寺に助けを求めた。
安芸の安国寺は、開山が平安時代にさかのぼる古刹であるが、足利尊氏・直義兄弟が後醍醐天皇はじめ敵味方の戦死者を弔うため全国に安国寺を設立したが、その時にこの寺が安芸における安国寺に設定されたのである。
当時の安芸安国寺は、京都五山の一つである臨済宗東福寺に属する有力末寺であった。戦乱により荒されていたとはいえ、由緒ある大寺院の威容は保たれており、また歴代の武田氏との繋がりもあって、幼い恵瓊の運命は、ここに託されたのである。

恵瓊は僧侶としての修業に没頭していたが、天文22年(1553)、生涯の師ともなる竺雲恵心(ジクウンエシン)にめぐり会ったのである。
恵心は出雲国の出身で、同じように東福寺の末寺である出雲安国寺で修行し、後には東福寺の二百十三世となり、京都を中心に活躍する当代第一流の禅僧となる人物である。
その恵心が安芸安国寺を訪れたのは三十二歳の頃で、恵瓊も入山して十二年ほどが経っていた。恵心は、恵瓊を一目見てその器量の尋常でないことを見抜き、以後厳しく指導し、取り立てていった。

恵瓊は禅僧として抜群の能力を示し、師となる人物や法兄に恵まれて、禅僧として異例なほどの出世を続けて行く。
恵心と出会って間もなく本山東福寺での修業の機会を得、恵心が庵主を務める東福寺の塔頭退耕庵を拠点として京都での見聞を広げていった。
そして、永禄十二年(1569)には安国寺の住持となるのである。三十三歳の頃である。恵瓊は後に東福寺の住持にまで昇るが、この安国寺住持の職を手放さず、安国寺恵瓊と呼ばれるようになるのである。

時代は、応仁の乱から百年が過ぎ、今や武士の台頭を止めることなど出来ず、中世封建社会から近代封建社会へと動いていく最中であった。
天皇を中心とした公家勢力や足利将軍家は領地を失い急速に衰えを見せていたが、武家たちも武力だけで領地を治める限界を知り、また、拡大を続けてきた各地の戦国大名たちが直接衝突し始めた時代でもあった。
そうした軋轢の中で、広い人脈を持つ高僧たちが、折衝役として重要視されてきていた。
竺雲恵心は、まさにそのような活躍を見せていた人物であり、安国寺恵瓊の外交僧としての活躍も、師匠の影響と時代の要請の産物ともいえる。

毛利氏の勢力拡大と共に、恵瓊は毛利氏の外交僧のような立場を確立していったが、さらに、軍師的な役割さえ担っていた感がある。
そして、天正十年(1582)六月二日、本能寺の変が勃発。恵瓊の予言が現実となったのである。
この時秀吉は織田軍の大将として、恵瓊も毛利軍の陣中にあって備中高松城を挟んで向き合っていた。
三日に信長の死を知った秀吉は急ぎ毛利との講和をまとめ、全軍で上方に向かう。歴史上名高い「中国大返し」である。
毛利方が信長の死を知ったのは秀吉が東に向かった直後のことであるが、誓約を破ってでも秀吉軍を追撃すべしという強硬論も強かったが、結局、誓約を守って動かなかった。

このあたりのことは、多くの小説などでも描かれている場面であるが、秀吉の機略に毛利方がうまく乗せられたと描いているものも少なくない。
秀吉やその参謀たちの決断や行動の素晴らしさは否定できないが、毛利方がまるで騙されたかのような見方はあまりにも単純なようにも思われる。
備中高松城を挟んで膠着状態にあった戦いを、和議によって打開を図ろうとしていたのは毛利方であったという見方もあり、この時動かなかったことにより、秀吉が天下を掌握していくにつれ、毛利家の存在が高まって行ったことも確かである。
この時の毛利軍の決断の正否を論ずることは難しいが、秀吉の器量を高く評価していた、恵瓊や小早川隆景が毛利首脳陣に誓約を守らせたことは確かであろう。

この後、秀吉はさらに速度を増して天下人へと進んでいった。
恵瓊もまた、さらに活動の範囲を広げていった。毛利氏の外交僧あるいは軍師的な位置は生涯変わらなかったが、秀吉の信任が厚くその活動は広がって行った。
しかも、禅僧としての活躍も滞ることがなく、多くの寺院の再建などに関わり、慶長三年には、東福寺の第二百二十四世の住持に就くのである。
外交僧としての活躍は、むしろ大毛利家の軍師ともいえる立場となり、多くの戦陣に加わり、朝鮮の役では蔚山城の工事監督にまであたっている。これは、毛利秀元に従っていたと考えられるが、恵瓊は天正十三年(1585)の四国討伐の後、秀吉より伊予国内で二万三千石(後に六万石まで加増される)の知行を与えられており、大名としての出陣だったともいえる。

やがて、大毛利家の重鎮ともいえる小早川隆景が没する。隆景は恵瓊と思想が近く、毛利家内での恵瓊の一番の理解者であった。反対に吉川の後継者である広家とは何かと衝突することが多かった。恵瓊自身も、単なる毛利家の外交僧という立場は超えて、秀吉との距離を縮めていたともいえる。
やがて、その秀吉も没する。
時代は徳川家康の時代へと動き、関ヶ原の合戦となる。

恵瓊は、明確に豊臣政権を守ろうとする立場に身を置いた。若くして魅せられた秀吉の器量に殉ずるつもりだったのかもしれない。
天下分け目といわれる合戦は、西軍から離反者が出て、東軍の大勝利となる。離反者が毛利一族からであることが、恵瓊にとって何とも痛ましい。
関ヶ原敗戦後、恵瓊は戦場を脱出、各地を経て京都まで逃れるが、関ヶ原の合戦から一週間後の九月二十二日に捕らえられ、十月一日に京都六条河原で処刑された。享年六十四歳であったか。

後世の安国寺恵瓊に対する評価は、残酷なまでに悪い。
悪僧といわれ、侫僧といわれ、妖僧といわれ、さらに、秀吉没後の晩年においては、時代の流れを読むことが出来ず、関ヶ原の合戦では、戦場を脱出して逃げまどい無様な最期であったとまで評されることさえある。
しかし、それらの論評や記録は、その後の時代背景を考えてみる必要もある。時代は徳川政権となり、西軍の知的柱の一人であった恵瓊を否定するのは当然のことであり、擁護すべき毛利一族にしても、徳川の世で生き延びていくためには、恵瓊一人を悪者に仕立てざるを得なかったのであろう。

『 清風払明月 明月払清風 』
稀代の英傑安国寺恵瓊は、死に臨んで、この詩を唱したと伝えられている。
彼は、自らを「清風」に喩えようとしたのか、あるいは「明月」に喩えようとしたのか、それとも・・・。

                                        (完)

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新しい一日 ・ 心の花園 ( 1 )

2012-09-01 08:00:13 | 心の花園
     心の花園 ( 1 )


            新しい一日


新しい一日が始まる。
それは、何も特別な日でなくても、例えば週の始まり、新しい学期や、係替えとなった職場への初出勤の朝などは、いつもより少し胸を張ってみよう。
ほんの少し、顔を上げて、いつもより視線を上げて遠くまで眺めてみよう。
いつも見慣れた景色が、ほんの少し、全くほんの少しだけれど、違う景色が見えるかもしれない。

そんな朝には、心の花園には、『ノースポール』の花がいっぱい。
白い愛らしい花をいっぱいに付けた株が花園を埋め尽くしている。その風景を北極に見立てて名付けられたというのも、気持ちの良い朝には納得させられる。

そして、この花の花言葉は、『誠実』。
今日一日だけでも、ゆったりと、そして誠実に生きてみよう。
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