雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  怨讐は山の彼方に

2013-06-19 08:00:52 | 運命紀行
          運命紀行
               怨讐は山の彼方に


『 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
  沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(コトワリ)をあらはす。
  おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
  たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ヒトヘ)に風の前の塵に同じ。 』

ご存知、平家物語の冒頭部分である。
平安時代の歴史について学ぶ時、特に平清盛を中心とした平安末期については、平家物語を無視することが出来ない。
多くの人物が、雄々しく華麗に登場し、そして哀しく無残に消えてゆく多くの場面は、私たちに感動を与えてくれる。たとえそれが歴史的事実に必ずしも正しくないとしても、描かれている各場面を単なる物語として読み過ごすことは出来ない。
平徳子(トクシ/トクコ)も、この物語の重要な舞台回しを担っている人物である。

平徳子は、久寿二年(1155)に誕生した。
父は平清盛、母は時子である。
清盛については、多くの文学作品などに登場しているが、その出自については複雑な事情があるようであるが、この頃は武家平氏の棟梁としての地位にあった。
母の時子は継室であるが、いわゆる堂上平氏の家柄の出自である。異母姉妹に、後白河院の譲位後の妃として権勢を誇った滋子(建春門院)がいる。
また、清盛の子供のうち、重盛・基盛は異母兄であり、宗盛・知盛・重衛は同母の兄弟である。

徳子が誕生した頃は、清盛はすでに安芸守(正四位下)に就いていたが、一族の結束はまだ道半ばという頃であった。
そして、翌年保元の乱が勃発する。この乱は、皇族・貴族の主導権争いに武士階層も巻き込まれた形であるが、結果として、武士階層の立場を大きく台頭させることになる。しかし、源氏もそうであるが、平氏一門も敵味方に分かれ少なくない犠牲を出している。
そして、三年後に平治の乱となる。この戦いは、武士階層だけで見れば、保元の乱で勝ち抜いた清盛・平氏と義朝・源氏による決勝戦の様相を呈している。

この戦いに勝利した清盛は、平氏全盛期へと大きく踏み出す。
翌永暦元年(1160)には正三位参議となり、その後も強大な武力を持った貴族として昇進してゆく。そして、その行く手に、常に立ち向かうように存在したのが後白河法皇なのである。

仁安元年(1166)、後白河法皇は清盛の支援を受けて、憲仁親王の立太子を実現し、院政を開始する。
清盛も、大将を経ずして内大臣に任じられるという破格の待遇を受け、都は安定したかに見えた。
しかし、後白河院政は、院の近臣のほかに、摂関家らの影響力は無視できず、堂上平氏や武家平氏もそれぞれの思惑を抱いており、常に分裂の危険性を内蔵していた。
それは、憲仁親王が高倉天皇として即位した後も変わりがなく、後白河と清盛の紐帯を強める方策として、徳子入内が持ち上がってきたのである。

承安元年(1171)、高倉天皇の元服とともに徳子入内は具体化していった。そこには、後白河、清盛ともに思惑も打算もあったが、実現にあたっては、後白河の寵妃建春門院の働きがあったとされる。
建春門院(平滋子)は、高倉天皇の生母であるとともに徳子の母時子の異母妹にあたる。このあと、後白河と清盛が危ういながらも協力関係を保っていけたのには、この女性の存在が大きかったのである。
この年の暮れ、女御として入内した徳子は、翌年二月には立后して中宮となる。高倉天皇十二歳、徳子十八歳の時のことである。

治承二年(1178)十一月、徳子は平氏待望の男児を生む。翌月には言仁親王と命名され立太子する。
言仁親王は、清盛の孫になるが、同時に後白河の孫でもある。この皇子誕生が両者の関係を強めると考えられたが、事態は違う方向に動いて行く。
清盛と後白河との間を取り持っていた建春門院は、二年前に他界していた。言仁親王の立太子は、清盛を勢いづける半面後白河のもとに反平氏勢力を結集させることになっていった。
治承三年(1179)十一月、ついに清盛は強硬手段に出る。後白河法皇を鳥羽殿に幽閉したのである。治承三年の政変と呼ばれるクーデターである。

翌治承四年二月には、高倉天皇は三歳の言仁親王に譲位して、院政を始める。高倉上皇が治天の君として君臨することになったのである。
院庁は平氏一門と親平氏の貴族で固められ、践祚を受けた言仁親王の生母として徳子も少なからず政務に関わるようになっていった。
安徳天皇の即位式では、徳子は安徳天皇を抱いて高御座に登るなど、平氏の権力を見せつけるものであった。その後も、安徳天皇の行幸にあたっては同じ輿に乗るなど、国母としての存在感を示した。

しかし、平氏絶頂期は長くは続かなかった。
清盛が断行しようとした福原への遷都は、京都の人々に動揺を与え、以仁王の打倒平氏の挙兵など、いつの間にか平氏を主力とした高倉院政は崩れかけていた。
そして何よりも、高倉上皇の病状悪化が政権崩壊に拍車をかけた。徳子は国母の役を降り、准母を立てて高倉上皇の看病に専心するが、その甲斐もなく、治承五年(1181)一月、高倉上皇は崩御する。享年二十一歳という若さであった。

これにより、後白河法皇の院政復帰は避けられなくなり、平氏一門は国政に関与する手段が無くなってしまったのである。
清盛は、安徳天皇と徳子を平頼盛(清盛の弟)邸に行幸させるなど巻き返しを図るが、その清盛が熱病に倒れ、閏二月四日稀代の英雄は亡くなってしまうのである。
清盛が没すると、後白河法皇はすぐさま安徳天皇を閑院に遷し、十一月に徳子が院号宣下を受けると院政庁の人選に関わるなど平氏一門から天皇および建礼門院となった徳子を引き離しにかかった。
天皇の生母とはいえ、夫の高倉上皇と父の清盛を立て続けに亡くした建礼門院徳子には、後白河法皇の強引なやり口に抗する力はなかった。

平氏一門の凋落は日を追うごとに明らかとなり、寿永二年(1183)五月の木曽義仲を鎮圧すべく派遣された平氏の北陸追討軍が倶利伽羅峠で大敗を喫すると、これ以降は没落の一途を辿ることになる。
諸勢力、特に延暦寺が木曽方についたことを知ると、平宗盛は京都防衛を断念、平氏の本拠地六波羅に火を放ち、安徳天皇・建礼門院徳子らを戴いて京都を脱出した。
身を隠していた後白河法皇は、都に戻ると直ちに平氏追討の宣旨を発した。
ここに平氏一門は、官軍から賊軍へと転落したのである。

この後は、源頼朝の挙兵もあり、平氏一門は、一時的な巻き返しは図るも、滅亡へと向かい続けた。
須磨一の谷から屋島へと、さらには西国での再起を目指すも、元暦二年(1185)三月二十四日、壇ノ浦の戦いによって、栄華を誇った平氏は滅亡する。
幼帝安徳天皇が祖母である二位殿(清盛の妻時子)と共に海に身を投げる場面を、平家物語より引用させていただく。

『 「君はいまだしろしめされさぶらはずや。先世の十善戒行の御力によって、いま万乗の主と生れさせ給へども、悪縁にひかれて、御運すでにつきさせ給ひぬ。
まづ東にむかはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇(イトマ)申させ給ひ、其後西方浄土の来迎にあづからむとおぼしめし、西にむかはせ給ひて御念仏さぶらふべし。この国は粟散辺地(ソクサンヘンヂ・辺鄙な粟のように小さな国)とて心憂きさかひにてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき処へ具し参らせさぶらふぞ」
と泣く泣く申させ給ひければ、山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて、御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、
「浪の下にも都のさぶらふぞ」
となぐさめ奉って、千尋の底へぞ入り給ふ。 』


     * * *

愛してやまない息子である安徳天皇が祖母である二位殿時子(徳子の母親)に抱かれて海底へと身を投じたのを見守った後、建礼門院徳子も後を追った。
左右の懐に、焼き石(体を温めるのに用いる)と硯を重石として入れて身を投じたが、何分豪華な衣装のため、少々の重しではすぐさま沈むものではなかった。たちまち敵方に助けられ、女房たちが「その御方は女院ですよ」と武者たちの狼藉を防ごうとしたので、源氏の大将判官義経の御座船に移されたという。

都に連れ戻された徳子は、東山山麓の荒れ果てた僧房に入り、五月には出家した。
その後、都も残党狩りや大地震もあって荒廃する。
徳子は、わが母とわが子が海原に身を投じるさまを間近に見た苦しみに堪えながら、行き遅れた命をどうすればよいのか苦悩の日々を送ったものと思われる。そして、その結論として、さらに山深い地へと移り住んだものと思われる。

『 西の山のふもとに、一宇の御堂あり。即ち寂光院是なり。ふるう作りなせる前水、木立、よしある様の所なり。
「甍やぶれては霧不断の香をたき、枢(トバソ・扉)おちては月常住の灯をかかぐ」とも、かやうの所をや申すべき。 』
これは、平家物語が、後白河法皇が徳子を訪ねた時の寂光院の様子を記した部分である。
徳子が移り住んだ大原の地は、都から遠く離れた山深い地であった。そして、住いとした寂光院は「屋根が破れ、家の中にはいつも霧が立ち込め、まるで香をたいているようであり、扉が崩れ落ちていて、月の光が常夜燈のように輝いている」といったものであったという。

そして、平家物語の作者は、この膨大な作品を、この世の栄枯盛衰、世の無常などを建礼門院徳子に語らせることで締めくくっているのである。
平家物語によれば、その後は静かな余生を送り、建久二年(1191)二月、静かな最期を迎えたと記している。

ただ、徳子の没年には諸説がある。
後白河法皇の大原御幸は、文治二年(1186)四月とされているが、その後の徳子の消息を伝える資料は極めて少ない。
吾妻鏡に「文治三年(1187)、源頼朝が平家没官領のうちから摂津国真井・島屋両荘を徳子に与えた」という記録があるので、もしかすると、この頃から後は念仏三昧の生活を送るのには十分な経済基盤を得ていたのかもしれない。
また、文治五年(1189)に、配流先から京都に戻った全真という僧が尋ねたという記録もあるらしい。
平家物語による没年は、この二年後のことになり、まだ世間が平氏の記憶を持っている頃と思われ、それにしては他に記録が見当たらないため疑問視されているのである。
そして、一般的には、「皇代暦」などに記されている建保元年(1213)とされているようだが、他説もある。

いずれにしても、平家物語によれば、徳子の享年は三十七歳で、大原に移って五年余りであり、建保元年であれば、享年は五十九歳となり、大原での生活は二十七年を超えることになる。
平家物語の中で、後白河法皇に語る徳子の述懐の中に母時子から
『 男のいきのこらむ事は、千万が一つもありがたし。設(タト)ひ又遠きゆかりは、おのづからいき残りたりといふとも、我等が後世をとぶらはん事もありがたし。昔より女はころさぬならひなれば、いかにもしてながらへて、主上の後世をもとぶらひ参らせ、我等が後生をもたすけ給へ 』
とかき口説かれたと語っている。

西海に散っていった人たちは哀れだが、残されて祈る身も、尋常の苦しみではないはずである。
建礼門院徳子は、その苦しみの中で、怨讐は山の彼方に捨て去って、ただひたすらに、先立って逝った人々を弔う道を選んだのだと思うのである。

                                     ( 完 )



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ふる里は遠く ・ 心の花園 ( 44 )

2013-06-16 08:00:37 | 心の花園
          心の花園 ( 44 )

               ふる里は遠く

今年も、何することなく父の日は過ぎてしまいそうだ。
もっとも、子供の頃から、母の日はそれらしいまね事をした記憶もあるが、父の日のことはあまり覚えていない。
それどころか、最近では、ふる里のことを思い出すことさえ少なくなった。遠くになってしまったものだ・・・。

心の花園を覗いてみませんか。
心の花園なら、いつでも、どんな季節の花でも見ることが出来ますよ。
ほら、「シュウメイギク」が白い花をいっぱいに付けています。

「シュウメイギク」は、日本各地で自生しているものも見られますが、原産地は中国大陸で、古い時代にわが国に入ってきて、野生化したもののようです。
もともとの花色は赤紫ですが、最近では白い花も多く見られます。
「シュウメイギク」は、漢字で書きますと「秋明菊」となりますが、「秋牡丹」という別名もあります。いずれも、なかなか優雅な名前で、その姿をうまく表現していますよね。
二つの名前に「秋」という文字が使われているのは、花の季節が秋だからですが、「シュウメイギク」は、菊の仲間でも牡丹の仲間でもありません。
この花は、アネモネなどの仲間で、花に見える部分は萼(ガク)で花びらはありません。

「シュウメイギク」の花言葉に「薄れゆく愛」というのがあります。
私たちは、忙しい毎日に追われて、いつの間にか大切なものを失っていっているのかもしれません。
一度、ふる里を訪ねてみてはいかがですか。
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運命紀行  歴史の語り部

2013-06-13 08:00:59 | 運命紀行
          運命紀行

              歴史の語り部


昭和六十一年(1986)、奈良市の建設現場で古代の広大な邸宅跡が発見された。
発掘が進められていく中で、これが長屋王の邸宅跡であることが判明し、同時に木簡を中心とした貴重な古代資料が発掘されたのである。
このニュースは、単に研究者ばかりでなく、飛鳥・奈良時代の歴史ファンから大きな期待が寄せられ、実際に、木簡などから新たな事実や推定が公になっていった。
まさに長屋王は、飛鳥や平城京の息吹を現代に伝えてくれる語り部ともいうべき存在となったのである。

もちろん長屋王は、語り部ではなく歴とした王族である。
それも、都が飛鳥から奈良に移った時代、激しい王権の争いがあり、藤原氏という新興貴族が台頭してくる動乱の時代の中で、重要な役割を担った人物なのである。
その生涯は、悲劇的な最期も含めて謎も多く、それゆえに多くのことを語りかけてくれているような気がする。

長屋王は、天武十三年(684)に誕生した。
父は天武天皇の皇子・高市皇子であり、母は天智天皇の皇女・御名部皇女である。御名部皇女は後の元明天皇の同母姉にあたる。つまり、天武系と天智系による皇位の争奪がしのぎを削っていた時代、その中核に極めて近い存在として誕生したのである。

父の高市皇子は、天武天皇の第一皇子であり、天武天皇(大海人皇子)と天智天皇の子である弘文天皇(大友皇子)とが王権を争った壬申の乱において大活躍している。本来ならば、天武天皇の後継者となっても不思議はないのだが、生母が皇女でなかったため、数多いる皇子の中で、草壁皇子、大津皇子に次ぐ第三の位置付けであったらしい。
しかも天武天皇の皇后は天智天皇の皇女である後の持統天皇であり、皇后は何としても自分の子供である草壁皇子を次期天皇に就けたかったのである。
天智・天武・持統、そして文武天皇へと王権が移って行く時代は、新旧豪族の栄枯盛衰も絡み合って、王権を巡る権謀術数が繰り広げられた時代であった。
長屋王は、その時代の真ん真ん中に生きた人物なのである。

慶雲元年(704)、正四位上が与えられる。長屋王二十一歳の時である。なお、長屋王には、生年が天武五年という説もあるが、初めて爵位を受けた年齢が二十一歳というのは決して早すぎるものではなく、天武五年の生まれでは二十九歳となり遅すぎる気がする。
和銅二年(709)には従三位宮内卿、霊亀二年(716)には正三位へと昇進してゆく。

この頃の天皇の在位期間を見てみよう。(和暦は省略した)
天武天皇(673~686)、持統天皇(690~697)、文武天皇(697~707)、元明天皇(707~715)、元正天皇(715~724)、聖武天皇(724~749)となっている。
天武天皇と持統天皇との間が二年空いているが、この期間は「称制」と呼ばれるが、持統天皇が次期天皇を模索していた期間ともいえよう。
しかし、意中の草壁皇子が死去したため自らが皇位に就き、草壁の皇子・文武天皇に皇位を譲るまで頑張ったのである。そしてその意志は、持統天皇が没した後も継承されていった。
すなわち、文武天皇が二十五歳という若さで没した後も、元明天皇(文武天皇の母・草壁皇子の妻)、元正天皇(文武天皇の皇后)と女帝がつないでいるのは、文武天皇の子である聖武天皇を実現させるための苦肉の策といえる。
そして、この持統天皇の意志を継承した者こそが、藤原不比等だったのである。

壬申の乱の後、天武天皇が即位した後は皇親政治と呼ばれる天皇を中心とした有力皇族による政治が行われた。その中心となったのが高市皇子であったが、旧貴族が没落し壬申の乱の功績者が年老いてたり死去していく中、政権の中心に躍り出てきたのが、持統天皇の信頼を得ていた藤原不比等である。
都が平城京に移った後は右大臣である不比等が政権の中心に立っていた。
持統天皇没後も、若い天皇や女帝の補佐役として君臨し、聖武天皇実現のために奮闘したのである。その理由は、聖武天皇の生母は娘の宮子であり、さらに夫人となっている娘・光明子に皇子誕生を夢見ていたからである。

長屋王は、不比等の娘を妃に迎えていたこともあって、その関係は親しいものであった。
霊亀三年(717)、左大臣石上麻呂が没すると、その翌年、長屋王は大納言に任じられ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占めたのである。この昇進は、参議・中納言という地位を飛び越えてのもので、不比等が長屋王を皇族の代表者として遇するとともに、協力者として期待していたことが分かる。

養老四年(720)、藤原不比等が没すると、その子らの藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)はまだ若く、政治の中枢にあるのは参議の地位にある房前一人であった。
長屋王は、皇族の代表者であるばかりでなく、政治の中心人物になったのである。
長屋王の正夫人は、草壁皇子と元明天皇の娘・吉備内親王であり、元正天皇の妹であった。このこともあって元明・元正天皇の長屋王夫妻に対する信頼は厚く、吉備内親王の子供はすべて皇孫として扱う旨の勅を出しているのである。
また、藤原一族とも不比等の娘婿という関係からも良好であり、存分な働きが出来る環境にあった。
養老五年(721)には、従二位右大臣となり、神亀元年(724)には、聖武天皇即位とともに正二位左大臣に進んでいる。
この五・六年が、政治家としての長屋王の絶頂期といえる。

長屋王に陰りが見えるようになる事件は、聖武天皇の生母宮子に対する称号に関しての対立であった。
辛巳事件と呼ばれるこの騒動は、勅により与えられた「大夫人」という称号が、長屋王の反対により撤回されたというもので、これにより長屋王と藤原四兄弟の対立が表面化したのである。
もっとも、この事件で対立が表面化したことは確かであろうが、長屋王の絶大な権力に対して、藤原氏の不満が大きくなっていっていたことが下地になっていたと考えられる。

神亀六年(729)二月、悲劇は起こった。
漆部君足・中臣宮処東人という二人の下級役人が、「長屋王が密かに左道を学びて、国家を傾けんと欲す」と、朝廷に訴え出たのである。もちろん、長屋王の息がかかっていない部署にであろう。
「左道」というのは、国家が認めていない呪術などのことを指し、呪詛などと同一と考えて大差ないと思われる。

報せを知った藤原宇合は直ちに行動した。宮廷を警護する六衛府の軍勢を率いて長屋王の邸宅を包囲した。そして、舎人親王などによる尋問が行われたが、言い開きなど不可能と知った長屋王は、吉備内親王を殺し自ら毒を飲んだという。
膳夫王など、四人(三人とも)の息子も運命を共にしたという。
権力の頂点にあった人物の、あまりにも無残な最期であった。

     * * *


天平十年(738)七月、長屋王を密告した人物の一人、中臣宮処東人が大伴子虫という人物に斬り殺されるという事件が起こった。
碁を楽しんでいるうちに諍いになったのが原因ともいわれるが、どうやら密告の状況をうっかりと漏らしてしまったらしい。大伴子虫は、長屋王の恩顧を受けていたことがあり、真実を知り成敗したらしい。
不思議なことであるが、この事件で大伴子虫は何の咎めも受けていないのである。
「続日本紀」にも長屋王の事件が無実の罪を被せられたものと記されているそうで、平安時代初期には冤罪事件であることは公然の秘密であったらしい。
さらに、大伴子虫への対応を考えると、事件発生当初から、長屋王並びに皇位継承の資格を持つ四人の御子を消し去ることが目的の仕組まれた事件であることは、多くの人は感じとっていたものと思われる。
例えば、吉備内親王の御子たちは全員が運命を共にしていながら、不比等の娘である妃を始め、他の妃や子供たちも全く罪を問われていないのであるから、騒動の狙いは見え見えといえるものだったのである。

藤原四兄弟は、長屋王を亡ぼすと、光明子を立后させ(光明皇后)盤石の政治基盤を築いて行った。
しかし、取って代わられる可能性のある王や皇子たちを片っ端から粛清していったがために、この後、再び淳仁天皇や井上内親王などの悲惨な事件を引き起こすことになるのである。

昭和になって発見された長屋王邸宅跡の資料からは、「長屋親王」と記述されている物があるという。
長屋王が「親王」とされていたらしいことは、古くから知られていることではあった。しかし、親王というのは、天皇の子か孫で親王宣下がなされている人物だけが名乗れるのである。
従って、「長屋親王」が事実であったとすれば、一つには、父の高市皇子が実は即位していたのかもしれないこと。二つめには、吉備内親王の子はすべて皇孫とするという勅が出されているので、その父は「親王」であっておかしくない、という説もある。さらに、この当時、まだ皇族や位階制が完全ではなく、実力が抜きんでていた長屋王は親王に匹敵するとされたという考え方もある。
いずれもそれらしいが、いずれにも確定されていない。

そういえば、長屋王には、前例や格式を重んじられた時代にあって、異例なことがいくつかある。
例えば、皇族が初めて爵位を受ける時は、従五位下が普通なのである。それが長屋王の場合は、いきなり正四位上と三段階上なのである。
また、大納言に抜擢される時も、参議・中納言という重職を飛び越えているのである。
他にも、食封(領地)などにおいても、親王並みの待遇がなされていた。

これらを見ると、長屋王という人物は、若い頃から特別な人物だったのかもしれない。
その特別な器量が、藤原四兄弟に恐怖を与え、とんでもない事件を捏造させたのかもしれない。
そして、それだけ特別な人物を非業の死に追いやったからには、藤原四兄弟が無事なはずがないのである。

事件から八年後の天平九年(737)、藤原四兄弟は次々と死を迎え、長屋王の怨霊の成せる業だと人々は噂したという。
死因は、大流行していた天然痘によるものらしいが、そうだとすれば、多くの人が亡くなっていることになる。長屋王の悲運を見て見ぬふりをしていた者や、積極的に四兄弟に加担している人物などをじっくりと見定めたうえで、それらの者たちを成敗したのかもしれない。
まことに無責任な発言ではあるが、長屋王ばかりでなく、吉備内親王や御子たちの非業の死を思う時、せめて怨霊となってうっぷんを晴らしたものだと信じたいのである。

                                    ( 完 )





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運命紀行  悲運の姉妹

2013-06-07 08:00:28 | 運命紀行
          運命紀行
   
               悲運の姉妹

現在、私たちが古代の歴史を学ぼうとした場合、その中心が天皇並びにその周辺になることは避けることが出来ない。残されている資料の大半が王権周囲に集中しているからである。その真偽のほどは別にしてではあるが。

そして、皇位継承に関しては、有力氏族や皇族関係者の利害や思惑が激しくせめぎ合っているのである。
親から子へのごく自然な継承であっても、その陰にはやはり相当の権力闘争が秘められていることが多い。
従って、継承にあたって大きな変動を伴う場合、例えば継体天皇の登場などはその最たるものであるが、激しい権力闘争があったと考えられる。そして、皇位継承に激しい変化が見られる時、その陰にある悲劇もまた凄惨なものになりがちである。
都が、飛鳥・奈良周辺から京都へと移った時代も、その激しい変化を見せた時といえる。
聖武天皇の皇女として誕生した井上内親王と不破内親王の姉妹は、皇女であったがゆえに、そして激しい歴史の転換点にあっただけに、悲劇の舞台に立たされてしまったのである。
今回の主人公は、この井上内親王である。

井上(イガミ/イノエ)内親王は、養老元年(771)聖武天皇の第一皇女として誕生した。母は県犬養広刀自で、同母の弟妹に安積親王と不破内親王が誕生するが、いずれも悲運な生涯を送っている。
同じ聖武天皇の皇女で、後に孝謙天皇となる阿倍内親王は一歳年下である。本来なら、長女である井上内親王が皇位についても不思議がないのだが、阿倍内親王の生母は宮廷に強い影響を持っている藤原一族の安宿媛(光明皇后)であった。生母の違いが、内親王たちの生涯を大きく変えていったのである。

養老五年(721)九月、五歳で伊勢神宮の斎宮に卜定され、六年後に伊勢に下向した。
伊勢斎宮は皇女から選任されるのだが、第一皇女である井上内親王が卜定された背景には、光明皇后を支援する勢力の意向が働いていたかもしれない。
井上内親王が斎宮の職を解かれるのは、天平十六年(744)一月のことで、すでに二十八歳になっていた。しかも、その解職の理由は、弟の安積親王の死去によるもので、何ともいたわしいものであった。

京都に戻った井上内親王は、やがて結婚する。
正確な時期が今一つはっきりしないが、次期天皇に阿倍内親王が確定したことで、井上内親王に皇子誕生となっても皇位を奪われる心配がなくなってからのことだと考えられる。
結婚相手とされたのは、白壁王である。
白壁王は、天智天皇の第七皇子志貴皇子の第六皇子である。血脈としては赫々たるものであるが、天武系全盛の時代が続いており、天智系に皇位がめぐってくる可能性は考えられなかった。特に白壁王の場合は、八歳で父を亡くしていたこともあって、初叙が二十九歳の頃と極めて遅く、王たちの中でも忘れ去られていたような存在であった。

結婚時、井上内親王は三十歳を過ぎていたと考えられ、当時の初婚としては極めて遅く、夫の白壁王も花嫁より八歳ほど年長で、すでに妻も子もいたのである。つまり、孝謙天皇勢力にとって、白壁王は井上内親王を権力中枢から遠ざけるのに最も適任の人物だったのである。
天平勝宝六年(754)、二人の最初の子供である酒入内親王が誕生する。井上内親王三十八歳の時である。
この頃から白壁王は目覚ましい勢いで昇進していく。
天平宝字五年(761)他戸親王が誕生する。井上内親王は四十五歳になっていた。このため、他戸親王の生年をもっと早いとしたり、井上内親王の実子ではないとする説もあるが、いずれも確たる根拠があるわけではない。要は井上内親王が高齢であるゆえの推察らしいが、井上内親王を並の女性と考えることに私は反対である。

白壁王は、その後も昇進を続け、藤原仲麻呂の乱鎮圧で功績があったことから称徳天皇(孝謙天皇が重祚)の信頼を得、ついに大納言となり政権の中枢に加わるようになる。
相次ぐ政争で、有力な親王たちは粛清されていく中で、白壁王は酒びたりの生活をして凡庸を演じていたとも、実際に凡庸であったという説も根強い。
しかし、天武の血を引く親王たちが消えていく中で、天智系とはいえ天武の血を引く内親王を妻としている白壁王の存在を、いつの間にか皇位争いの先頭に浮上させていたのである。

宝亀元年(770)十月、ついに白壁王は即位し光仁天皇となる。実に六十二歳での即位である。
井上内親王は皇后となり、翌年一月には他戸親王が立太子する。
白壁王が即位するにあたって、朝廷を牛耳っていた藤原氏の中で激しい争いがあった。
未婚の女帝称徳の崩御であり、晩年の称徳天皇が道鏡を厚く用いたこともあって、次代を担うべき有力親王は粛清されていた。それだけに、次期天皇をめぐる争いは激しく、それ以上にその先の天皇となる皇后・皇太子の選定はさらに激しいものであったと推定される。
結局、左大臣藤原永手らの支援を受けた井上内親王が立后したのである。

しかし、光仁王朝は激動に見舞われる。
井上内親王は、僅か一年半ばかり後にその地位を奪われたのである。夫の光仁天皇を呪詛したとの理由で廃后とされ、その二か月後には他戸皇太子もその地位を奪われたのである。さらに、その半年ほど後には酒入内親王も突然伊勢斎宮に卜定されている。伊勢斎宮は、皇女が任命されるもっとも神聖な存在であるはずが、この任命は流罪を思わせるものであった。

この一連の騒動には、光仁天皇の意志というよりは藤原氏内の政権争いが絡んでいたと考えられる。
井上皇后・他戸皇太子は、藤原北家の永手らに擁立されたものであるが、その藤原永手は宝亀二年(771)二月に死去してり、これにより藤原氏一族内の主導権争いは激しくなり、一族の実権が藤原式家へと移って行ったのである。
井上皇后らが呪詛の罪に問われたのは、藤原式家の良継・百川らの陰謀によるものと考えられる。

宝亀六年(775)四月、井上内親王と他戸親王の母子は、大和国宇智郡(現五条市)の幽閉先で非業の最期を遂げる。当然暗殺であったと考えられる。
皇女であるばかりに政争に巻き込まれ、夫となった人からの庇護も受けられることなくこの世を去って行った井上内親王の無念は如何ばかりであったかと胸が詰まる。


     * * *

他戸親王が皇太子を廃された後、山部王が皇太子となる。おそらく、藤原一族内の実権を掌握した式家兄弟たちの思惑通りの筋書きであったことだろう。
山部王は、後の桓武天皇であるが、白壁天皇の第一皇子である。白壁王が天皇に就いた時、山部王は三十四歳になっており、十歳になったばかりの他戸親王が立太子することは、山部王にせよ、彼の皇位を望んでいた勢力にとってはとても納得できないことであったのだろう。
それもこれも、井上内親王が天武の血を引く聖武天皇の皇女であったことによる。当時、この血統の差はどうすることも出来ない絶対的な権威であった。
山部王なり、支持勢力なりにとっては、井上皇后・他戸皇太子を排除する以外に勝利する方法がなかったのである。
ただ、山部王は桓武天皇として即位したあと皇太子とした実弟の早良親王も、冤罪と思われる事件の主犯として死に追い込んでいる。
王権闘争の常とはいえ、少々、度が過ぎたのかもしれない。

井上内親王が非業の最期を遂げて間もなく、都を中心に異常な現象が見られるようになる。
まず、井上皇后・他戸皇太子を破滅に追い込んだ主犯者と思われる藤原式家の兄弟が相次いで急死している。最初は、井上内親王の死後間もなく、まだ四十二歳の九男蔵下麻呂が急死。その後も、七年のうちに良継、清成、百川、田麻呂と、政権の中枢にある兄弟が死んでいった。
光仁天皇が没するのも井上内親王が亡くなってから六年八か月後のことであるが、享年が七十三歳であり、これは井上内親王の怨霊には関係ないかもしれない。

正史とされる続日本紀には、井上内親王が亡くなった後さまざまな異常現象が多発していることを記している。
宝亀六年(775)、没後間もなくから、「黒鼠の大群が現れた」「真夏に雹が降り、飢饉が襲う」「野狐が現れる」「大嵐」「伊勢・尾張・美濃で風水害」「秋にも激しい雨」「地震」
宝亀七年には、「流星」「日食」「太白(金星)昼に現れる」 六月には、大祓いを行い、六百人の僧に大般若経を読ませた。しかし、その功はなく、その後も異変が続く。「西大寺西塔に落雷」「大風」「全国でイナゴの害」「瓦石や土塊が二十日余りも降る」「地震」
宝亀八年には、「日食」「宮中にしきりに怪異があり、妖怪が出没」「四月に雹・氷が降る」「大雨」「天皇の体調悪く、山部皇太子も病になる」「この年の冬は雨が降らず、泉川が枯れる」
等々、延々と異常な現象が記されているのである。

これらの怪奇な現象は、井上内親王の怨霊が成せる業として怖れ、祈祷などを行うも効果なく、ついに朝廷は、井上内親王の墓を改装して「御墓」と称することとした。
さらに宝亀九年(778)には、山部皇太子の「枕席不安(精神不安定)」を理由に正月の朝賀が取りやめとなった。このため一月二十日に使者を派遣して、「御墓」を再び改装し、井上内親王をもとの二位の位に戻している。
しかし、山部皇太子の病状は回復しなかった。

この年の十月、山部皇太子は伊勢神宮を参詣した。
井上内親王の怒りを鎮める最後の手段として、伊勢斎宮となっている井上内親王の忘れ形見である酒入内親王の力を借りようとしたのであろう。
酒入内親王は、井上内親王の娘であり、斎宮という霊力のある地位にあり、さらに言えば山部皇太子とは母は違うが兄と妹の関係である。
山部皇太子は、おそらく自らの非を詫び、井上内親王の霊を慰めてくれるように依頼したのであろう。
その効果があったのか、その後、山部皇太子の病状は回復したらしい。

山部皇太子が伊勢神宮を訪れた時、皇太子は四十二歳、斎宮は二十五歳の頃であった。
おそらくこの時二人は結ばれ、やがて酒入内親王は一人の女の子を生む。朝原内親王である。
酒入内親王は斎宮を退下し、やがて即位した桓武天皇の妃となる。
朝原内親王もまた伊勢斎宮を勤めた後、桓武天皇の皇子である平城天皇の妃になっている。

桓武天皇の皇太子時代を苦しめたとされる怪奇現象の数々が、本当に井上内親王の怨霊が成せる業だったのかどうかは分からない。
ただ、その非業の死は、怨霊となる程の恨みを抱いていたであろうことは想像するに難くない。
しかし、もし井上内親王が怨霊となって朝廷あたりに祟りをしていたとすれば、比較的短い期間に矛を収めている。
その理由は、酒入内親王や朝原内親王という娘や孫の幸せを願う母親という愛を持った怨霊だったような気がするのである。

皇族として生まれたゆえの悲運を背負って生きなければならなかった井上内親王と不破内親王という姉妹に、たとえ怨霊という形であってでも恨みを果たして欲しいと願うのだが、やはりこの姉妹には、次の世界に備えて安らかな眠りについて欲しいと思うのである。

                                    ( 完 )




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運命紀行  荒ぶる魂

2013-06-01 08:00:24 | 運命紀行
          運命紀行
               
               荒ぶる魂


『 瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われてもすゑにあはんとぞ思ふ 』

これは、小倉百人一首の第七十七番歌である。
「いかなる障害や世間の荒波に邪魔されて、たとえ今離れ離れになっても、いつか必ず一緒になろう」といった意味の、激しい恋の歌といえる。
作者は崇徳院、すなわち第七十五代崇徳天皇である。
崇徳院は、ある時期はわが国の歌壇を牽引した人物であり、第六番目の勅撰和歌集である「詞花和歌集」を撰進した天皇である。
小倉百人一首にあるこの和歌は、その内容の切なさや激しさゆえに、人気の高い札の一つといえよう。
しかし、崇徳院の生涯は、この恋歌を遥かに超える激しいものであり、実に切ないものだったのである。

崇徳院は、元永二年(1119)五月、第七十四代鳥羽天皇の第一皇子として誕生した。母は中宮藤原璋子(ショウシ・後の待賢門院)である。
誕生間もない七月には親王宣下を受け、保安四年(1123)一月二十八日に皇太子となり、その日のうちに践祚を受けている。僅か五歳の天皇誕生である。
このあたりのことについては、本人の意向とは全く関係なく進められていることであって、若くして聡明であったとか云々ということが有るにしろ無いにしろ、父鳥羽天皇、あるいは曾祖父の白河法皇の思惑通りの筋書きであったと考えられる。
つまり、崇徳院は、生まれながらにしての天皇候補であり、それに不足のない皇子であったと考えられるのである。

ただ、事はそれほど単純なものではなかった。
崇徳院が父から践祚を受けた時の政治を取り仕切っていた、いわゆる治天の君は白河法皇であった。従って、鳥羽天皇から崇徳天皇への譲位は、鳥羽天皇の意向は無視されて白河法皇が仕切ったものと考えられる。なにせ、鳥羽天皇はこの時まだ二十一歳だったからである。
鳥羽天皇が即位したのも五歳の時であるが、この時は父堀河天皇の崩御によるものであった。五歳から二十一歳まで、丸十五年余り天皇位にあったが、政(マツリゴト)の全ては祖父白河法皇が牛耳っており、こと政に関してはほとんど何もできなかったのである。
しかも、上皇となった鳥羽院は院政を行うにも、白河法皇は厳然と存在しており鬱々とした状態であったことは想像できる。

さらに、白河・鳥羽・崇徳の三人には、重大な秘密があったとも伝えられたいる。
鳥羽院は、かねてから崇徳院のことを「叔父子」と呼んでいたというのである。叔父子とは祖父の子という意味である。つまり、崇徳院の父親は白河法皇だということになるのである。
崇徳院の母藤原璋子は白河法皇の猶子(養女)として鳥羽院のもとに入内しているが、その前から白河法皇の寵愛を受けていたというのである。
この時代を舞台とした小説などに、このたりのことが興味深く描かれていることが多いが、叔父子に関する記録は限定的なもので、絶対に真実だと断言出来るものではないらしい。

ただ、鳥羽院と崇徳院の確執が激しかったことは事実らしい。
その原因の一つは、鳥羽院の愛情が、璋子から得子(トクコ・後の美福門院)に移っており、得子の生んだ皇子を皇位につけたいと画策し始めたことにある。
この種の争いは歴史上数多く見られることであり、それにしても父と子が武力でもって激しく戦うなどということの原因となるのか疑問があり、その観点からも「叔父子」という秘密は原因としては不足がなく強調されやすい一面を持っている。

それでも、白河法皇が健在な間は確執は表面化しなかったが、六年後に白河法皇が亡くなり、鳥羽院が院政を始めると崇徳院に圧力をかけ得子の生んだ躰仁(ナリヒト)親王が三歳になると譲位させてしまったのである。
崇徳院は二十三歳という若さで上皇となるが、父の鳥羽院と同じような皇位継承であるともいえた。
問題は、躰仁親王は崇徳院の中宮聖子の養子となっており皇太子からの践祚と思われていたが、譲位の宣命には皇太弟と記されていたのである。実は、政が院政として行われていた時代、天皇が子供である場合は院政を行うことが出来たが、弟ということになればそれは望めないのである。
この譲位により両者の対立は決定的となり、崇徳院は鳥羽田中殿に移り新院と呼ばれるようになる。

崇徳院には不満の譲位であったが、しばらくは平穏な時期が続いた。
新帝近衛天皇はまだ幼くしかも病弱でもあったので、継嗣を儲けることなく退位というような状態が起これば崇徳院の皇子重仁親王が後継者という可能性もあることから、もっぱら和歌の道に没頭しようとしていたようである。
また、鳥羽院も、治天の君として絶対権力を掌握していたが、近衛天皇の朝覲行幸(チョウキンギョウコウ・天皇が父母あるいはそれに準ずる太上天皇・女院に拝礼することを目的とする行幸)に際して、美福門院と共に崇徳院を臨席させているし、重仁親王を美福門院の養子にして将来に含みを持たせるなど、表面的には深刻な関係には見えない。

しかし、久寿二年(1155)七月、近衛天皇が十七歳で崩御すると、後継天皇をめぐって二人は激しく対立する。結局崇徳院の願いは叶えられず、崇徳院の同母弟である雅仁親王が立太子することなく即位することとなった。後白河天皇である。
しかも、後白河天皇の皇子であり美福門院の養子になっていた守仁親王が立太子したことで、重仁親王の皇位への望みは完全に断たれてしまったのである。
近衛天皇の後継には重仁親王が一番有力であったはずだが、鳥羽院や美福門院は、近衛天皇崩御の原因は、崇徳院に近い藤原頼長による呪詛と信じていたことが、重仁親王を除いた原因らしい。
ここに、崇徳院が絶望と共に武力を持ってしても皇位奪還を決意した可能性は否定できない。

折から、前関白藤原忠実家も異腹の兄弟である関白藤原忠通と左大臣藤原頼長が対立していた。
崇徳院は忠通の娘聖子を妻に迎えており、本来は有力な味方であるはずなのだが、聖子に子供が生まれず女房・兵衛佐局が重仁親王を生んだことから、忠通・聖子親子とは仲が悪くなり、この頃には忠通からは敵視されるような状態にあった。
また、このところ台頭を見せていた武士階層も、平氏・源氏それぞれが内部対立を起こしていた。

保元元年(1156)七月二日、鳥羽院が崩御すると、事態は急変する。
鳥羽院の臨終の頃見舞いに訪れた崇徳院は後白河天皇の側近らに面会を拒絶され、憤然と鳥羽田中殿に引き上げていった。
これを挙兵の合図と取ったのか、天皇方の動きは激しくなり、五日には「上皇(崇徳院)左府(頼長)同心して軍を発し、国家を傾けんとす」という噂が流された。
八日には、はや小競り合いが起こり、九日の夜中には、身の危険を感じた崇徳院は僅かな側近とともに鳥羽田中殿を脱出し、洛東白河にある同母妹の統子内親王の御所に逃げ込んだ。
翌日には、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入り、崇徳院の側近である藤原教長が駆けつけ、源為義、平家広、平忠平らが集結する。

院政を行えなかった上皇と天皇とでは公家勢力にも差があったが、平清盛や源義朝など源平の主力を味方につけた天皇方が武力面で圧倒的に優勢であった。
十一日の未明、天皇方は白河北殿に夜襲をかけ、屋敷は炎上する。崇徳院は脱出し行方をくらますが、頼長は敗死する。
十三日に、崇徳院は仁和寺に出頭し、同母弟の覚性法親王に取り成しを依頼するも拒絶され、幽閉状態となる。
二十三日、崇徳院は数十人の武士に囲まれた粗末な網代車に乗せられ、鳥羽から船で讃岐国に送られたのである。

武士台頭の切っ掛けになったとされる保元の乱は、天皇方の圧倒的な勝利で幕を閉じる。
天皇あるいは上皇の配流は、淳仁天皇が淡路に流されて以来四百年ぶりの出来事であった。


     * * *

崇徳院の讃岐国での配所は、現在の坂出市にあたる。
最初の三年間ほどは長命寺という寺院で過ごし、その後木の丸殿に移された。
木の丸殿は仮御所ということになるが、粗末な造りの獄舎に近いものであったらしい。

崇徳院は軟禁生活の中て、仏教に深く傾倒してゆき、五部大乗経の写本作りに専念した。血で書かれたものともいわれる壮絶な写本は、戦死者の供養と反省の証として京都の寺院に納めて欲しいと朝廷に差し出したが、呪詛が込められていることを懸念した後白河院は拒絶した。
送り返されてきた写本を前に激怒した崇徳院は、舌を噛み、流れ出る血潮で、
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん」
「この経を魔道に回向す」
と、写本に書き加えたという。
この後は、爪も髪も伸ばし続け、夜叉のような姿となり、後に生きながらにして天狗になったともいわれている。

以上は、「保元物語」をベースに、近世文学などで描かれている崇徳院の姿である。
どこまでが事実であるかは確認できないが、崇徳院が怖れられ敬われることになるのは、これから後のことなのである。

崇徳院が亡くなったのは、配流九年目の長寛二年(1164)八月二十六日のことである。享年四十六歳であった。
保元の乱が終結した後、崇徳院は罪人として扱われていた。崩御した時も、後白河院は「服喪の必要なし」として、その死を全く無視したのである。葬儀も、国司によって執り行われただけで、朝廷は全く関与していなかった。
さらに、配流となっていた藤原教長らが帰京が許された後も罪人としての扱いに変わりがなかった。

しかし、やがて京都の人々は、事の重大さに気付き始めるのである。
安元二年(1176)、建春門院(平滋子、後白河妃)、高松院(妹子内親王、後白河の皇子二条天皇の中宮)、六条院(六条天皇、後白河の孫)、九条院(藤原呈子、近衛天皇の中宮)など、後白河法皇や藤原忠通に近い人物が次々と死去したことから、崇徳院や藤原頼長の祟りではないかという噂が誰からとなく語られるようになったのである。
そして、翌安元三年になると、延暦寺の強訴、大火、鹿ケ谷の陰謀など都を揺るがせるような大事が次々と起こったのである。この頃になると、多くの公卿たちが崇徳院や頼長の怨霊の祟りではないかと、日記に書き残している。

寿永三年(1184)、かつて崇徳院の側近であった藤原教長は、悪霊とされている崇徳院と頼長の霊を神霊として祀るべきと主張を始め、精神的に追い込まれていた後白河法皇は受け入れたのである。
後白河法皇は、怨霊鎮魂のため、崇徳院らを罪人とした保元の宣命を破却し、讃岐院とされていた院号を崇徳院に改め、頼長には正一位太政大臣が追贈されたのである。
さらに、保元の乱の戦場であった春日河原に崇徳院廟(後の粟田宮)を設置している。

しかし、崇徳院にまつわる怨霊伝説や、逆に守護神としての言い伝えは、後々の世まで発生しているである。
近くは、明治天皇は慶応四年(1868)八月、即位の礼を執り行うにあたって、勅使を讃岐に遣わして崇徳院の御霊を京都に帰還申し上げて白峰神宮を創建しているのである。

わが国史上最強の怨霊とさえ称せられる崇徳院とは、本当はどういう人物であったのだろうか。
崇徳院イコール怨霊のイメージが極めて強いが、「今鏡」という書物には、恨みや怒りの話は少なく、寂しく絶望の中で病を得て没したという内容が書かれているそうである。

『 思ひやれ都はるかにおきつ波 立ちへだてたるこころぼそさを 』
『 花は根に鳥はふる巣にかへるなり 春のとまりを知る人ぞなき 』
この二首も崇徳院の作品である。
冒頭にある激しい恋の歌と、そこはかとなく寂しさが漂っているような二首を見る限り、何とも親しみを感じる人柄のように思えてくるのである。

何人をも恐怖のどん底に陥れる怨霊崇徳院の魅力は捨て難いが、温かみや弱さを感じさせる一面も、崇徳院は持っていたのではないだろうか。

                               ( 完 )


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