運命紀行
怨讐は山の彼方に
『 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(コトワリ)をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ヒトヘ)に風の前の塵に同じ。 』
ご存知、平家物語の冒頭部分である。
平安時代の歴史について学ぶ時、特に平清盛を中心とした平安末期については、平家物語を無視することが出来ない。
多くの人物が、雄々しく華麗に登場し、そして哀しく無残に消えてゆく多くの場面は、私たちに感動を与えてくれる。たとえそれが歴史的事実に必ずしも正しくないとしても、描かれている各場面を単なる物語として読み過ごすことは出来ない。
平徳子(トクシ/トクコ)も、この物語の重要な舞台回しを担っている人物である。
平徳子は、久寿二年(1155)に誕生した。
父は平清盛、母は時子である。
清盛については、多くの文学作品などに登場しているが、その出自については複雑な事情があるようであるが、この頃は武家平氏の棟梁としての地位にあった。
母の時子は継室であるが、いわゆる堂上平氏の家柄の出自である。異母姉妹に、後白河院の譲位後の妃として権勢を誇った滋子(建春門院)がいる。
また、清盛の子供のうち、重盛・基盛は異母兄であり、宗盛・知盛・重衛は同母の兄弟である。
徳子が誕生した頃は、清盛はすでに安芸守(正四位下)に就いていたが、一族の結束はまだ道半ばという頃であった。
そして、翌年保元の乱が勃発する。この乱は、皇族・貴族の主導権争いに武士階層も巻き込まれた形であるが、結果として、武士階層の立場を大きく台頭させることになる。しかし、源氏もそうであるが、平氏一門も敵味方に分かれ少なくない犠牲を出している。
そして、三年後に平治の乱となる。この戦いは、武士階層だけで見れば、保元の乱で勝ち抜いた清盛・平氏と義朝・源氏による決勝戦の様相を呈している。
この戦いに勝利した清盛は、平氏全盛期へと大きく踏み出す。
翌永暦元年(1160)には正三位参議となり、その後も強大な武力を持った貴族として昇進してゆく。そして、その行く手に、常に立ち向かうように存在したのが後白河法皇なのである。
仁安元年(1166)、後白河法皇は清盛の支援を受けて、憲仁親王の立太子を実現し、院政を開始する。
清盛も、大将を経ずして内大臣に任じられるという破格の待遇を受け、都は安定したかに見えた。
しかし、後白河院政は、院の近臣のほかに、摂関家らの影響力は無視できず、堂上平氏や武家平氏もそれぞれの思惑を抱いており、常に分裂の危険性を内蔵していた。
それは、憲仁親王が高倉天皇として即位した後も変わりがなく、後白河と清盛の紐帯を強める方策として、徳子入内が持ち上がってきたのである。
承安元年(1171)、高倉天皇の元服とともに徳子入内は具体化していった。そこには、後白河、清盛ともに思惑も打算もあったが、実現にあたっては、後白河の寵妃建春門院の働きがあったとされる。
建春門院(平滋子)は、高倉天皇の生母であるとともに徳子の母時子の異母妹にあたる。このあと、後白河と清盛が危ういながらも協力関係を保っていけたのには、この女性の存在が大きかったのである。
この年の暮れ、女御として入内した徳子は、翌年二月には立后して中宮となる。高倉天皇十二歳、徳子十八歳の時のことである。
治承二年(1178)十一月、徳子は平氏待望の男児を生む。翌月には言仁親王と命名され立太子する。
言仁親王は、清盛の孫になるが、同時に後白河の孫でもある。この皇子誕生が両者の関係を強めると考えられたが、事態は違う方向に動いて行く。
清盛と後白河との間を取り持っていた建春門院は、二年前に他界していた。言仁親王の立太子は、清盛を勢いづける半面後白河のもとに反平氏勢力を結集させることになっていった。
治承三年(1179)十一月、ついに清盛は強硬手段に出る。後白河法皇を鳥羽殿に幽閉したのである。治承三年の政変と呼ばれるクーデターである。
翌治承四年二月には、高倉天皇は三歳の言仁親王に譲位して、院政を始める。高倉上皇が治天の君として君臨することになったのである。
院庁は平氏一門と親平氏の貴族で固められ、践祚を受けた言仁親王の生母として徳子も少なからず政務に関わるようになっていった。
安徳天皇の即位式では、徳子は安徳天皇を抱いて高御座に登るなど、平氏の権力を見せつけるものであった。その後も、安徳天皇の行幸にあたっては同じ輿に乗るなど、国母としての存在感を示した。
しかし、平氏絶頂期は長くは続かなかった。
清盛が断行しようとした福原への遷都は、京都の人々に動揺を与え、以仁王の打倒平氏の挙兵など、いつの間にか平氏を主力とした高倉院政は崩れかけていた。
そして何よりも、高倉上皇の病状悪化が政権崩壊に拍車をかけた。徳子は国母の役を降り、准母を立てて高倉上皇の看病に専心するが、その甲斐もなく、治承五年(1181)一月、高倉上皇は崩御する。享年二十一歳という若さであった。
これにより、後白河法皇の院政復帰は避けられなくなり、平氏一門は国政に関与する手段が無くなってしまったのである。
清盛は、安徳天皇と徳子を平頼盛(清盛の弟)邸に行幸させるなど巻き返しを図るが、その清盛が熱病に倒れ、閏二月四日稀代の英雄は亡くなってしまうのである。
清盛が没すると、後白河法皇はすぐさま安徳天皇を閑院に遷し、十一月に徳子が院号宣下を受けると院政庁の人選に関わるなど平氏一門から天皇および建礼門院となった徳子を引き離しにかかった。
天皇の生母とはいえ、夫の高倉上皇と父の清盛を立て続けに亡くした建礼門院徳子には、後白河法皇の強引なやり口に抗する力はなかった。
平氏一門の凋落は日を追うごとに明らかとなり、寿永二年(1183)五月の木曽義仲を鎮圧すべく派遣された平氏の北陸追討軍が倶利伽羅峠で大敗を喫すると、これ以降は没落の一途を辿ることになる。
諸勢力、特に延暦寺が木曽方についたことを知ると、平宗盛は京都防衛を断念、平氏の本拠地六波羅に火を放ち、安徳天皇・建礼門院徳子らを戴いて京都を脱出した。
身を隠していた後白河法皇は、都に戻ると直ちに平氏追討の宣旨を発した。
ここに平氏一門は、官軍から賊軍へと転落したのである。
この後は、源頼朝の挙兵もあり、平氏一門は、一時的な巻き返しは図るも、滅亡へと向かい続けた。
須磨一の谷から屋島へと、さらには西国での再起を目指すも、元暦二年(1185)三月二十四日、壇ノ浦の戦いによって、栄華を誇った平氏は滅亡する。
幼帝安徳天皇が祖母である二位殿(清盛の妻時子)と共に海に身を投げる場面を、平家物語より引用させていただく。
『 「君はいまだしろしめされさぶらはずや。先世の十善戒行の御力によって、いま万乗の主と生れさせ給へども、悪縁にひかれて、御運すでにつきさせ給ひぬ。
まづ東にむかはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇(イトマ)申させ給ひ、其後西方浄土の来迎にあづからむとおぼしめし、西にむかはせ給ひて御念仏さぶらふべし。この国は粟散辺地(ソクサンヘンヂ・辺鄙な粟のように小さな国)とて心憂きさかひにてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき処へ具し参らせさぶらふぞ」
と泣く泣く申させ給ひければ、山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて、御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、
「浪の下にも都のさぶらふぞ」
となぐさめ奉って、千尋の底へぞ入り給ふ。 』
* * *
愛してやまない息子である安徳天皇が祖母である二位殿時子(徳子の母親)に抱かれて海底へと身を投じたのを見守った後、建礼門院徳子も後を追った。
左右の懐に、焼き石(体を温めるのに用いる)と硯を重石として入れて身を投じたが、何分豪華な衣装のため、少々の重しではすぐさま沈むものではなかった。たちまち敵方に助けられ、女房たちが「その御方は女院ですよ」と武者たちの狼藉を防ごうとしたので、源氏の大将判官義経の御座船に移されたという。
都に連れ戻された徳子は、東山山麓の荒れ果てた僧房に入り、五月には出家した。
その後、都も残党狩りや大地震もあって荒廃する。
徳子は、わが母とわが子が海原に身を投じるさまを間近に見た苦しみに堪えながら、行き遅れた命をどうすればよいのか苦悩の日々を送ったものと思われる。そして、その結論として、さらに山深い地へと移り住んだものと思われる。
『 西の山のふもとに、一宇の御堂あり。即ち寂光院是なり。ふるう作りなせる前水、木立、よしある様の所なり。
「甍やぶれては霧不断の香をたき、枢(トバソ・扉)おちては月常住の灯をかかぐ」とも、かやうの所をや申すべき。 』
これは、平家物語が、後白河法皇が徳子を訪ねた時の寂光院の様子を記した部分である。
徳子が移り住んだ大原の地は、都から遠く離れた山深い地であった。そして、住いとした寂光院は「屋根が破れ、家の中にはいつも霧が立ち込め、まるで香をたいているようであり、扉が崩れ落ちていて、月の光が常夜燈のように輝いている」といったものであったという。
そして、平家物語の作者は、この膨大な作品を、この世の栄枯盛衰、世の無常などを建礼門院徳子に語らせることで締めくくっているのである。
平家物語によれば、その後は静かな余生を送り、建久二年(1191)二月、静かな最期を迎えたと記している。
ただ、徳子の没年には諸説がある。
後白河法皇の大原御幸は、文治二年(1186)四月とされているが、その後の徳子の消息を伝える資料は極めて少ない。
吾妻鏡に「文治三年(1187)、源頼朝が平家没官領のうちから摂津国真井・島屋両荘を徳子に与えた」という記録があるので、もしかすると、この頃から後は念仏三昧の生活を送るのには十分な経済基盤を得ていたのかもしれない。
また、文治五年(1189)に、配流先から京都に戻った全真という僧が尋ねたという記録もあるらしい。
平家物語による没年は、この二年後のことになり、まだ世間が平氏の記憶を持っている頃と思われ、それにしては他に記録が見当たらないため疑問視されているのである。
そして、一般的には、「皇代暦」などに記されている建保元年(1213)とされているようだが、他説もある。
いずれにしても、平家物語によれば、徳子の享年は三十七歳で、大原に移って五年余りであり、建保元年であれば、享年は五十九歳となり、大原での生活は二十七年を超えることになる。
平家物語の中で、後白河法皇に語る徳子の述懐の中に母時子から
『 男のいきのこらむ事は、千万が一つもありがたし。設(タト)ひ又遠きゆかりは、おのづからいき残りたりといふとも、我等が後世をとぶらはん事もありがたし。昔より女はころさぬならひなれば、いかにもしてながらへて、主上の後世をもとぶらひ参らせ、我等が後生をもたすけ給へ 』
とかき口説かれたと語っている。
西海に散っていった人たちは哀れだが、残されて祈る身も、尋常の苦しみではないはずである。
建礼門院徳子は、その苦しみの中で、怨讐は山の彼方に捨て去って、ただひたすらに、先立って逝った人々を弔う道を選んだのだと思うのである。
( 完 )
怨讐は山の彼方に
『 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(コトワリ)をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ヒトヘ)に風の前の塵に同じ。 』
ご存知、平家物語の冒頭部分である。
平安時代の歴史について学ぶ時、特に平清盛を中心とした平安末期については、平家物語を無視することが出来ない。
多くの人物が、雄々しく華麗に登場し、そして哀しく無残に消えてゆく多くの場面は、私たちに感動を与えてくれる。たとえそれが歴史的事実に必ずしも正しくないとしても、描かれている各場面を単なる物語として読み過ごすことは出来ない。
平徳子(トクシ/トクコ)も、この物語の重要な舞台回しを担っている人物である。
平徳子は、久寿二年(1155)に誕生した。
父は平清盛、母は時子である。
清盛については、多くの文学作品などに登場しているが、その出自については複雑な事情があるようであるが、この頃は武家平氏の棟梁としての地位にあった。
母の時子は継室であるが、いわゆる堂上平氏の家柄の出自である。異母姉妹に、後白河院の譲位後の妃として権勢を誇った滋子(建春門院)がいる。
また、清盛の子供のうち、重盛・基盛は異母兄であり、宗盛・知盛・重衛は同母の兄弟である。
徳子が誕生した頃は、清盛はすでに安芸守(正四位下)に就いていたが、一族の結束はまだ道半ばという頃であった。
そして、翌年保元の乱が勃発する。この乱は、皇族・貴族の主導権争いに武士階層も巻き込まれた形であるが、結果として、武士階層の立場を大きく台頭させることになる。しかし、源氏もそうであるが、平氏一門も敵味方に分かれ少なくない犠牲を出している。
そして、三年後に平治の乱となる。この戦いは、武士階層だけで見れば、保元の乱で勝ち抜いた清盛・平氏と義朝・源氏による決勝戦の様相を呈している。
この戦いに勝利した清盛は、平氏全盛期へと大きく踏み出す。
翌永暦元年(1160)には正三位参議となり、その後も強大な武力を持った貴族として昇進してゆく。そして、その行く手に、常に立ち向かうように存在したのが後白河法皇なのである。
仁安元年(1166)、後白河法皇は清盛の支援を受けて、憲仁親王の立太子を実現し、院政を開始する。
清盛も、大将を経ずして内大臣に任じられるという破格の待遇を受け、都は安定したかに見えた。
しかし、後白河院政は、院の近臣のほかに、摂関家らの影響力は無視できず、堂上平氏や武家平氏もそれぞれの思惑を抱いており、常に分裂の危険性を内蔵していた。
それは、憲仁親王が高倉天皇として即位した後も変わりがなく、後白河と清盛の紐帯を強める方策として、徳子入内が持ち上がってきたのである。
承安元年(1171)、高倉天皇の元服とともに徳子入内は具体化していった。そこには、後白河、清盛ともに思惑も打算もあったが、実現にあたっては、後白河の寵妃建春門院の働きがあったとされる。
建春門院(平滋子)は、高倉天皇の生母であるとともに徳子の母時子の異母妹にあたる。このあと、後白河と清盛が危ういながらも協力関係を保っていけたのには、この女性の存在が大きかったのである。
この年の暮れ、女御として入内した徳子は、翌年二月には立后して中宮となる。高倉天皇十二歳、徳子十八歳の時のことである。
治承二年(1178)十一月、徳子は平氏待望の男児を生む。翌月には言仁親王と命名され立太子する。
言仁親王は、清盛の孫になるが、同時に後白河の孫でもある。この皇子誕生が両者の関係を強めると考えられたが、事態は違う方向に動いて行く。
清盛と後白河との間を取り持っていた建春門院は、二年前に他界していた。言仁親王の立太子は、清盛を勢いづける半面後白河のもとに反平氏勢力を結集させることになっていった。
治承三年(1179)十一月、ついに清盛は強硬手段に出る。後白河法皇を鳥羽殿に幽閉したのである。治承三年の政変と呼ばれるクーデターである。
翌治承四年二月には、高倉天皇は三歳の言仁親王に譲位して、院政を始める。高倉上皇が治天の君として君臨することになったのである。
院庁は平氏一門と親平氏の貴族で固められ、践祚を受けた言仁親王の生母として徳子も少なからず政務に関わるようになっていった。
安徳天皇の即位式では、徳子は安徳天皇を抱いて高御座に登るなど、平氏の権力を見せつけるものであった。その後も、安徳天皇の行幸にあたっては同じ輿に乗るなど、国母としての存在感を示した。
しかし、平氏絶頂期は長くは続かなかった。
清盛が断行しようとした福原への遷都は、京都の人々に動揺を与え、以仁王の打倒平氏の挙兵など、いつの間にか平氏を主力とした高倉院政は崩れかけていた。
そして何よりも、高倉上皇の病状悪化が政権崩壊に拍車をかけた。徳子は国母の役を降り、准母を立てて高倉上皇の看病に専心するが、その甲斐もなく、治承五年(1181)一月、高倉上皇は崩御する。享年二十一歳という若さであった。
これにより、後白河法皇の院政復帰は避けられなくなり、平氏一門は国政に関与する手段が無くなってしまったのである。
清盛は、安徳天皇と徳子を平頼盛(清盛の弟)邸に行幸させるなど巻き返しを図るが、その清盛が熱病に倒れ、閏二月四日稀代の英雄は亡くなってしまうのである。
清盛が没すると、後白河法皇はすぐさま安徳天皇を閑院に遷し、十一月に徳子が院号宣下を受けると院政庁の人選に関わるなど平氏一門から天皇および建礼門院となった徳子を引き離しにかかった。
天皇の生母とはいえ、夫の高倉上皇と父の清盛を立て続けに亡くした建礼門院徳子には、後白河法皇の強引なやり口に抗する力はなかった。
平氏一門の凋落は日を追うごとに明らかとなり、寿永二年(1183)五月の木曽義仲を鎮圧すべく派遣された平氏の北陸追討軍が倶利伽羅峠で大敗を喫すると、これ以降は没落の一途を辿ることになる。
諸勢力、特に延暦寺が木曽方についたことを知ると、平宗盛は京都防衛を断念、平氏の本拠地六波羅に火を放ち、安徳天皇・建礼門院徳子らを戴いて京都を脱出した。
身を隠していた後白河法皇は、都に戻ると直ちに平氏追討の宣旨を発した。
ここに平氏一門は、官軍から賊軍へと転落したのである。
この後は、源頼朝の挙兵もあり、平氏一門は、一時的な巻き返しは図るも、滅亡へと向かい続けた。
須磨一の谷から屋島へと、さらには西国での再起を目指すも、元暦二年(1185)三月二十四日、壇ノ浦の戦いによって、栄華を誇った平氏は滅亡する。
幼帝安徳天皇が祖母である二位殿(清盛の妻時子)と共に海に身を投げる場面を、平家物語より引用させていただく。
『 「君はいまだしろしめされさぶらはずや。先世の十善戒行の御力によって、いま万乗の主と生れさせ給へども、悪縁にひかれて、御運すでにつきさせ給ひぬ。
まづ東にむかはせ給ひて、伊勢大神宮に御暇(イトマ)申させ給ひ、其後西方浄土の来迎にあづからむとおぼしめし、西にむかはせ給ひて御念仏さぶらふべし。この国は粟散辺地(ソクサンヘンヂ・辺鄙な粟のように小さな国)とて心憂きさかひにてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき処へ具し参らせさぶらふぞ」
と泣く泣く申させ給ひければ、山鳩色の御衣にびんづら結はせ給ひて、御涙におぼれ、ちいさくうつくしき御手をあはせ、まづ東をふしをがみ、伊勢大神宮に御暇申させ給ひ、其後西にむかはせ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿やがていだき奉り、
「浪の下にも都のさぶらふぞ」
となぐさめ奉って、千尋の底へぞ入り給ふ。 』
* * *
愛してやまない息子である安徳天皇が祖母である二位殿時子(徳子の母親)に抱かれて海底へと身を投じたのを見守った後、建礼門院徳子も後を追った。
左右の懐に、焼き石(体を温めるのに用いる)と硯を重石として入れて身を投じたが、何分豪華な衣装のため、少々の重しではすぐさま沈むものではなかった。たちまち敵方に助けられ、女房たちが「その御方は女院ですよ」と武者たちの狼藉を防ごうとしたので、源氏の大将判官義経の御座船に移されたという。
都に連れ戻された徳子は、東山山麓の荒れ果てた僧房に入り、五月には出家した。
その後、都も残党狩りや大地震もあって荒廃する。
徳子は、わが母とわが子が海原に身を投じるさまを間近に見た苦しみに堪えながら、行き遅れた命をどうすればよいのか苦悩の日々を送ったものと思われる。そして、その結論として、さらに山深い地へと移り住んだものと思われる。
『 西の山のふもとに、一宇の御堂あり。即ち寂光院是なり。ふるう作りなせる前水、木立、よしある様の所なり。
「甍やぶれては霧不断の香をたき、枢(トバソ・扉)おちては月常住の灯をかかぐ」とも、かやうの所をや申すべき。 』
これは、平家物語が、後白河法皇が徳子を訪ねた時の寂光院の様子を記した部分である。
徳子が移り住んだ大原の地は、都から遠く離れた山深い地であった。そして、住いとした寂光院は「屋根が破れ、家の中にはいつも霧が立ち込め、まるで香をたいているようであり、扉が崩れ落ちていて、月の光が常夜燈のように輝いている」といったものであったという。
そして、平家物語の作者は、この膨大な作品を、この世の栄枯盛衰、世の無常などを建礼門院徳子に語らせることで締めくくっているのである。
平家物語によれば、その後は静かな余生を送り、建久二年(1191)二月、静かな最期を迎えたと記している。
ただ、徳子の没年には諸説がある。
後白河法皇の大原御幸は、文治二年(1186)四月とされているが、その後の徳子の消息を伝える資料は極めて少ない。
吾妻鏡に「文治三年(1187)、源頼朝が平家没官領のうちから摂津国真井・島屋両荘を徳子に与えた」という記録があるので、もしかすると、この頃から後は念仏三昧の生活を送るのには十分な経済基盤を得ていたのかもしれない。
また、文治五年(1189)に、配流先から京都に戻った全真という僧が尋ねたという記録もあるらしい。
平家物語による没年は、この二年後のことになり、まだ世間が平氏の記憶を持っている頃と思われ、それにしては他に記録が見当たらないため疑問視されているのである。
そして、一般的には、「皇代暦」などに記されている建保元年(1213)とされているようだが、他説もある。
いずれにしても、平家物語によれば、徳子の享年は三十七歳で、大原に移って五年余りであり、建保元年であれば、享年は五十九歳となり、大原での生活は二十七年を超えることになる。
平家物語の中で、後白河法皇に語る徳子の述懐の中に母時子から
『 男のいきのこらむ事は、千万が一つもありがたし。設(タト)ひ又遠きゆかりは、おのづからいき残りたりといふとも、我等が後世をとぶらはん事もありがたし。昔より女はころさぬならひなれば、いかにもしてながらへて、主上の後世をもとぶらひ参らせ、我等が後生をもたすけ給へ 』
とかき口説かれたと語っている。
西海に散っていった人たちは哀れだが、残されて祈る身も、尋常の苦しみではないはずである。
建礼門院徳子は、その苦しみの中で、怨讐は山の彼方に捨て去って、ただひたすらに、先立って逝った人々を弔う道を選んだのだと思うのである。
( 完 )