雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  鎮西探題攻防

2013-08-30 08:00:41 | 運命紀行
          運命紀行
               鎮西探題攻防

元弘三年(1333)閏二月、後醍醐天皇は隠岐島を脱出して、伯耆国の名和長年に奉じられて四方の軍勢の招集にかかった。
後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王は楠木正成などと共に苦戦を強いられながら吉野や河内を中心に倒幕活動を続けていて、天皇の隠岐島脱出は反北条勢力に勢いづけることとなった。
大塔宮は、諸国の社寺や豪族たちに令旨を発し決起を促していた。これに応じて、播磨の赤松氏、四国伊予の土居氏・得能氏らが挙兵した。

そして九州にも、「鎮西探題北条英時、および一族の桜田師頼を討て」という元弘三年二月七日付の大塔宮の令旨が到着した。鎌倉御家人も含む有力豪族に広く発せられたもので、菊池武時もその一人であったと考えられる。
これに対して、倒幕方の動きを察知した北条英時は、反乱を未然に防ぐため、九州の地頭御家人を博多に招集した。

菊池武時は、この召集に応じて一族一門二百五十騎を率いて出立、その中には幼い孫まで加わっており、再び故郷菊池の地を踏まぬ覚悟の出陣に見えた。
鎮西探題は、文永の役・弘安の役という蒙古軍の来襲を受け、九州の防備並びに統括の必要性から博多に合議訴訟機関を設置したことに始まる。当初は、鎌倉から派遣された三人の使者と、九州の有力守護である少弐・大友・島津の三氏による合議機関を作り、それがやがて正応六年(1293)、九州における武家統率の最高機関である鎮西探題となった。
これにより、鎌倉政権、つまり北条氏による九州での権限・権益は強まる一方で、豪族たちの不満は募っていた。

武時に率いられた菊池一門の決起は、鎮西探題北条英時からの召集に応じた形であるが、大塔宮の令旨に応えて幕府の九州における拠点である鎮西探題を攻撃する決意を抱いていた。
当然のことながら、少弐・大友ら有力豪族とは意志の統一がなされていたはずである。
元弘三年三月十一日、菊池勢は博多に到着して息浜に宿営した。翌十二日、探題館の奉行所に出頭した武時は、侍所・下広田新左衛門尉に、遅参したことを理由に到着を示す名簿に記入することを拒否される。
かねてから武時が、倒幕方の首謀者として活動していることを承知していて、あえて挑発したと考えられる。

宿営地に戻った武時は、鎮西探題襲撃の計画はすでに露見していると判断し、その夜作戦を練り直し、翌朝討ち入る手はずを固め、その夜は死出の別れの祝宴を開いたという。
翌十三日未明、東の空が微かに白みかける頃、菊池勢は博多の町の所々に火を放ち、探題に宣戦を告げた。それと共に、かねてより密約を結んでいた少弐・大友の両陣営に使者を立て、決起を要請した。
他の資料によると、全体の決起は十四日であったとも考えられるが、博多の東部の地に宿営していた少弐貞経は、菊池の使者二人を斬り捨て、大友貞宗も同様に斬ろうとしたが、こちらは逃げ帰ったらしい。
両者ともに、約定より早い決起に危うさを感じたための行動かもしれないが、むしろ、この両者により菊池武時を中心とした鎮西探題襲撃計画は、幕府方に漏らされていた可能性が高いように思われる。

この頃、伯耆で決起した後醍醐天皇のもとには、期待ほどの軍勢は集まっておらず、吉野にあった大塔宮護良親王は行方不明の状態にあり、楠木正成の守る赤坂城は幕府の大軍に攻め落とされたとの噂も伝わっていた。
少弐貞経や大友貞宗の行動は、日和見とも裏切りともいえるが、中央の激しく動く権力闘争の余波を受けながら一族を守ってゆかねばならない豪族当主としては、決起の時期は未だ熟さずと判断したことを単純に非難することは出来ない。

友軍と頼んでいた豪族たちに見限られた菊池一族一門は、錦旗を先頭に掲げ「我らは宣旨の使いである。我らは朝敵を征伐するのだ。人々早く来て、軍勢に加われ」と叫びながら進軍した。
総勢決死の覚悟で探題館に向かったが、放火により延焼中のため道がふさがれていて迂回せざるを得なくなった。さらには放火に気付いた探題館からは、武蔵四郎・武田八郎の率いる軍勢に行く手を阻まれた。
ようやく探題館に突入した頃には、幕府方も応戦体制を整えていて、過酷な戦いとなった。
武時と子息三郎頼隆は犬射の馬場で討ち取られてしまった。武時の弟二郎三郎入道覚勝は一軍を率いて館深くまで攻め込んだが、中庭で激戦の上七十四人ことごとくが壮絶な最期を遂げた。
勇猛果敢な武時に率いられた決死の菊池勢は、数時間後の戦いののち壊滅的な敗戦となった。

探題方の損害も莫大であったが、少弐・大友をはじめ集結していた豪族たちは探題館に駆けつけ、戦いは一方的なものとなり、菊池一族一門による無謀な討ち入りとなった。
武時の嫡男二郎武重は、阿蘇大宮司惟直と共に戦場を脱し、辛くも落ち延びることが出来た。他にも生き残った者たちは、肥後をさして落ちていった。
しかし、探題方による追撃は厳しく、周囲の豪族の殆どが幕府方となった中で、次々と討ち取られていった。菊池氏の本拠地菊池城も攻撃され、阿蘇にもその一帯が差し向けられた。
ここに、九州における天皇方の中心勢力の一つであった菊池氏は壊滅状態となった。

菊池武時の蜂起は、幕府方の一方的な勝利で終わったが、鎮西探題の受けたダメージも小さくなかった。
勝利したとはいえ、探題方の有する戦力はごく限られたものであることが露呈したのである。さらに、中央の状況も逐一豪族たちは把握していた。
四月二十九日には足利尊氏が反北条の兵をあげ、五月七日には京都における幕府の拠点六波羅を陥落させたのである。千早城攻撃の幕府軍が奈良に撤退したとか、五月二十一日には新田義貞が鎌倉を陥れたという情報が九州に到達したのがいつなのか明らかではないが、九州の豪族たちは次第に倒幕方に変わって行った。
少弐貞経はその中心人物として動き、大友氏、島津氏と共謀して、五月二十五日には、鎮西探題北条英時を襲い自殺させたのである。
菊池武時討死から、僅か七十日後のことであった。

太平記の巻第十一には、武時討死の状況を詳しく記している。その最後の部分を引用しておく。
『 哀しいかな、昨日は少弐・大伴、英時に随ひて菊池を誅つ。今日は妙恵・愚鑑(少弐・大伴の法名)、心を翻して英時を誅す。二君に仕へざるまでの事こそかたからめ、不得心の至極なり。されば、「行路のかたきこと、山にしもあらず、水にしもあらず、ただ人の情の反復の間にあり」と、白居易が書かれたりし筆の跡、思ひ知りける人は、皆そぞろに袖をぞぬらしける。 』


     * * *

菊池氏は肥後の名門豪族である。

伝えられている系図などによれば、寛仁三年(1019)の刀伊の入寇(大陸から筑前・壱岐・対馬に侵攻)の戦役で功のあった太宰権帥藤原隆家の孫とされる藤原則隆が肥後国に下向して土着、藤原(北家)氏を称したのを初代としている。(異説もある)

この藤原隆家という人物は、中の関白と呼ばれた藤原道隆の子であるが、『枕草子』という名著を残した清少納言が仕えた中宮定子の弟でもある。
中の関白家は、道隆の死後、急速に家運を落としている。道隆の弟である藤原道長が台頭し、藤原氏の全盛を築いて行く過程で政争に敗れたためである。
隆家も、本来ならば中央で大納言あるいは大臣へと昇る可能性があったが、地方の長官に左遷されたのである。
しかし、考え方によれば、そのような経緯があったればこそ、名門菊池氏が誕生したのだともいえる。

武時は、菊池氏第十二代目の当主である。生年は確定されていないが、享年を四十二歳と仮定すると、正応五年(1292)の生まれとなる。
父の隆盛が、第十代当主である祖父武房より先に亡くなったため、兄の時隆が祖父の養嫡子となって第十一代当主となったが、この家督相続に不満を持った叔父の武経と争いとなり、結局両者共に滅びる結果となり、武時が家督を引き継ぐことになったのである。

このような経緯からも分かるように、この頃には、菊池氏の一門一族は肥後国を中心にかなりの勢力を有していた。
同時に、九州の諸豪族たちは、中央の政権の動きに敏感に反応しながら、一族の安泰と勢力拡大に奔走していた。武時が、後醍醐天皇の蜂起にいち早く反応し、王朝方、あるいは南朝方として行動していたかに見えるが、実際は一族の繁栄が目的であって、鎮西探題を拠点とする北条氏の圧力と対抗しようとした動きであったと思われる。

しかし、結果として、武時の探題館襲撃は、九州における倒幕活動の先駆けとなったことは確かである。
ただ、惜しむらくは、少々決起が早すぎたかもしれない。
武時討死からひと月余り後には、足利尊氏が反北条の兵をあげ、五月七日には六波羅を陥落させたのである。これらの都の動向は、現代の我々が想像するより遥かに早くに九州に伝えられていたようである。
太平記では厳しく非難されているが、一族を守ることに懸命な少弐氏や大友氏は、敏感に中央の流れをつかみ、反北条に立場を変えて、五月二十五日には、北条英時を亡ぼしている。
鎌倉が新田義貞により陥落させられたのは、それより前の五月二十一日のことである。

このように、早すぎた菊池武時の決起は一見犬死のように見える。しかし、その果敢な決起を評価する人物がいたのである。
後醍醐天皇による建武の新政が始まると、功臣や天皇方として働いた豪族たちへの恩賞が与えられた。
九州においては、うまく立ち回った有力豪族である少弐・大友・島津には多大な恩賞が与えられた。
そして、そうした動きの中で、楠木正成が述べたという意見が残されている。
『 元弘の忠烈は、労功の輩、これ多しと雖も、いずれも身命を存する者なり。ひとり勅諚によりて一命をおとせる者は武時入道なり、忠厚もっとも第一たるか。 』
これにより、武時の嫡子武重は、肥後守に任ぜられたのである。
「英雄は英雄を知る」、そんな気がして何か嬉しいのである。

                                   ( 完 )

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冷涼な花姿 ・ 心の花園 ( 47 )

2013-08-27 08:00:27 | 心の花園
         心の花園 ( 47 )
               冷涼な花姿 


残暑厳しいこの季節、園芸店を覗いてみても花の種類も減り気味です。それに、第一、庭いじりなどする気にもなりません。
しかし、こんな時こそ、涼しげで可憐な花など眺めて、一息つきたいものです。

心の花園なら、いつでもお望みの花に出合うことが出来ます。
「スカビオサ」が薄青紫色の涼しげな姿を見せています。
この名前は、英名をそのまま使ったものですが、園芸種では主にこの名前が使われています。原産地は、ヨーロッパ、アジア、アフリカなど広く分布していて、その種類は八十種にも及び、地域により少しずつ違う雰囲気をもっています。いずれも、高地など冷涼な気候を好むようです。

和名は「セイヨウマツムシソウ」ですが、「セイヨウ」とついているのは、わが国にもわが国を原産地とする「マツムシソウ」があるからです。
名前の由来は、花が落ちた後のネギ坊主のような姿が、僧侶が巡礼の時に持つ松虫鉦(マツムシガネ)に似ていることから名付けられたものです。
「「スカビオサ」には、「不幸な愛情」「私はすべてを失った」などいくつもの花言葉がありますが、いずれも寂しげで不幸を暗示させるようなものばかりです。花の姿から連想したという外国の花言葉がそのまま用いられたものですが、私たちが園芸種の花姿を見る限り、もう少し違う、涼しげな花言葉が欲しい気がします。
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運命紀行  山深き宮廷で

2013-08-18 08:00:32 | 運命紀行
          運命紀行
               山深き宮廷で

足利尊氏に追われた後醍醐天皇が、山深い吉野に朝廷を開いたのは建武三年(1336)のことであった。
尊氏に擁立される形で践祚を受けた光明天皇に対抗したもので、これにより朝廷は分裂、南北朝の始まりとなる。
南朝と呼ばれることになる吉野朝廷は、都から遠く離れた山奥の地で、紆余曲折を経ながらも五十余年に渡って朝廷を護り抜いたのである。
今回の主人公は、吉野朝廷に生きた一人の女房である。

女房の名前は、伊賀局という。
まず、伝えられている逸話を紹介しよう。

伊賀局は、後醍醐天皇の寵妃・阿野廉子に仕える女房であった。
廉子は天皇の寵妃であったが、同時に並の人物ではなかった。その評価は大きく分かれるとしても、南朝政権に大きな影響力を示した女性である。
後醍醐天皇が崩御した後も、僅か十二歳で後を継いだわが子の後村上天皇に対しても後見役ともいえる立場にあった。

正平二年(1347)六月というから、後村上の代になって八年ばかり過ぎた頃のことである。
その日は、六月十日の暑い夜であった。
伊賀局は一人で庭に出ていた。大きな松の枝が垂れていて、その間から月が煌々と輝いていた。
伊賀局は思わず、
『 涼しさを松吹く風にわすられて 袂(タモト)にやどす夜半の月影 』
と、即興の歌を口すさんだ。
すると、誰もいないと思っていた松の梢の方から、
『 心静かであれば 身も又涼し 』
という古い歌の下の句を言う者がいた。

見上げてみると、鬼の形をした化け物が翼を広げて、伊賀局の方を見下していた。
「あなたはいったい何者か。名を名乗りなさい」
と言うと、その化け物は、
「私は、藤原基遠でございます。廉子さまのために命を捨てて働いた者ですが、いまだ死後を弔って貰えないので、こんな姿になっているのです。これでは浮かばれないので、恨みを言おうと思っていたのです。どうかこのことを廉子さまに申し上げてください」
と叫びました。伊賀局は、
「世の中が乱れに乱れていて、廉子さまもお忘れになっているのでしょう。わたくしが申し上げて、弔って差し上げましょう。その時、どのような御経を読めばよいのでしょうか」
と聞くと、化け物は、
「法華経を読んでください」
と言って、間もなく姿を消してしまった。

伊賀局は、早速廉子の御前に参上し報告した。
廉子は、戦いに倒れていっ者の後生を弔うことを放置していたことを深く謝罪し、早速、翌日、吉水の法師に頼み、三・七日の間法華経を読んで弔った。
その後、藤原基遠も成仏出来たようで、化け物も出なくなったという。

もう一つの逸話。
先の逸話から半年ばかり後の、正平三年(1348)正月、南朝の吉野の行宮は、北朝方の高師直軍に攻め立てられ、後村上天皇はさらに奥地の賀名生(アノオ)に行宮を移すことになり吉野を脱出した。
天皇の母・廉子も同行しており、伊賀局も付き従っていた。供する者はごく僅かで、雪深い道なき道をさらに奥地への脱出行であった。
やがて一行は、吉野川の支流に行きあたった。賀名生に向かうためには何としてもこの川を渡らなくてはならないのだが、激しい流れに架けられていた橋は朽ちて崩れ落ち、とても渡れる状態でなかった。
一行の皆が、僅かな武者までが途方に暮れたが、その時伊賀局は、近くの大木の太い枝を次々と折り取って、崩れている橋にかけてゆき、無事一行は川を渡れることが出来たのである。
人々は、さすがに篠塚重宏の娘だと感心し称えたという。

なお、この物語は、伝承により若干内容が異なっている。
もっとも勇ましいものは、伊賀局が「近くに生えていた大木を根こそぎ抜いて川に渡した」と伝えている。伊賀局は怪力の持ち主であったようだが、ここまでくると少々大袈裟に過ぎる感がある。

さて、伊賀局という女性は、このような逸話として伝えられているが、残されている情報は多くない。
まず、生年であるが、伝えられている資料がなく、周辺の人物との関係から推定するも、なかなか決めかねる。
没年は、元中元年(1384)十月とされていて、これは正しいらしい。そうすると、怪力で橋を架けた時から、三十六年後までは生きていたことになる。そして、まさか五つや六つで大きな枝を折り取ったとも思えないので、この頃には十五歳以上であったと思われる。
また、時期は不明であるが、夫となる楠木正儀(マサノリ・楠木正成の三男)の生年は西暦1330年頃とされているので、これらを勘案すると、まったくの推定であるが、橋を架けた逸話の頃が十五歳から二十歳頃と思われるのである。

何故それほど生年にこだわるのかといえば、伊賀局という女性の生涯を考える時、その生年、そしてその誕生の地によって、その様子がずいぶん違うものになって見えてくるように思えてならないのである。


     * * * 

伊賀局の父は、篠塚重広という上野国の豪族である。
その血統は桓武平氏に遡るともいわれているが、元久二年(1205)、北条氏との戦いで畠山重忠・重秀父子が戦死すると、家来の宮野某は重秀の子とその母を連れて逃れ、母の実家である桶川の足立遠元を頼った。その後、同族の上野国守護である安達景盛に招かれて佐貫庄篠塚に移り住み、元服後は篠塚重興と称し篠塚領主となった。
篠塚重広は、その四代の孫である。

重広が歴史上に登場するようになるきっかけは、新田義貞の与力として従軍したことからである。
新田義貞は、当初は幕府方として、元弘三年(1333)一月には、楠木正成討伐軍の一員として河内に展開しているが、重広も従軍していたようである。この時義貞は、すでに朝廷方と何らかの連絡を取っていたと思われ、ほとんど戦うことなく、関東に引き上げている。
そして、五月初旬、今度は朝廷方として鎌倉攻めの旗揚げをする。
最初は百五十騎だったと伝えられているが、鎌倉に到着する頃には、足利尊氏嫡男の幼い義詮が加わったこともあって軍勢は膨らみ、二十数万騎になったという。
重広は、旗揚げに際して出陣の誘いがあり、最初の百五十騎の中に入っていたと思われる。

新田軍は五月下旬には鎌倉を陥落させる。
篠塚重広も、その功により後醍醐天皇から「伊賀守」を賜っている。この頃から後には、自称「何々の守」が大勢現れるが、重広の場合は、守護職を得たわけではないが、自称とは質が違う。
伊賀局の名前も、父の伊賀守に由来している。

重広は、この後も新田義貞に従って転戦する。義貞が南朝方に属したため、重広も南朝方の有力武将として名を上げていく。
身の丈六尺五寸(約197cm)というから、当時では雲突くほどの大男ということになる。大刀と長い金棒を振り回して敵陣に突入していく南朝の豪傑として名を上げてゆく。その活躍ぶりは、太平記に再三登場していて、楠木正成には劣るとしても相当の著名人物なのである。

新田義貞が敗死した後も、主として義貞の弟である脇屋義助に従って各地を転戦、軍事的に圧倒的に不利な南朝を支え続けた。
そして、興国三年(1342)四月、脇屋義助を大将とした五百騎の軍団に加わって四国に渡った。伊予方面の南朝勢力立て直しのための作戦であったが、不運にも大将の脇屋義助が急死するなど思いにまかせず、北朝方の大軍に攻め立てられ敗れた。

重広最後の戦いとなった合戦は、大館氏明が守る世田城の援軍として峰続きの笠松城に入っていたが、北朝方細川頼春の大軍に攻め立てられ、四十余日の攻防の末世田城は落ちた。
その勢いをかって北朝軍は笠松城に攻めかかった。小城である笠松城を死守することなどとてもできず、城を枕に討死するよりは敵陣に打って出ることを選んだ重広は、群がる敵陣の中に躍り出た。
見上げるほどの長身で、「我こそは・・・」と大音声で名乗りながら長大な金棒を振り回しながら進むと、敵兵は後ずさりしして道をあけたという。

重広は敵陣を突破して海に至り、小舟を雇って沖の島へ渡った。
この島の名前については諸説があるが、島々を転々としていたらしい。
その後については正確な動向を確定しづらい。程なく瀬戸内の島で没したともいわれ、島を脱出して故郷近くに戻り、三年後に没したともいわれている。
重広の足跡を多く伝えている大信寺には、暦応三年(1340)に没したとする資料が残されているが、史実とは食い違いがある。重広が島を脱出して故郷近くに身を隠していたとすれば、その辺りが北朝の勢力下であったことを考えると、故意にそのような資料が残された可能性もあり、むしろ故郷で数年間潜伏していた証拠のような気がする。

父・重広が転戦を続けていた頃、さらに行方が分からないようになった後、伊賀局はどのように過ごしていたのだろうか。
その前に、伊賀局が阿野廉子の女房として仕え始めたのがいつのことかということである。さらに、その前に、どこで生まれ、どういうきっかけで宮廷勤めをするようになったのか、考えてみたい。

伊賀局は、南朝屈指の武士である篠塚重広の娘としてそれなりの評価を受けていたと思われるが、当時は武士の宮廷内の地位は極めて低かった。当然上臈女房ということはあり得ない。女房というより女官程度の立場であったのかもしれない。
父・重広は元弘三年(1333)年に新田義貞に従って各地を転戦しているが、その二年前にも京都にいたらしい。つまり、伊賀局の誕生がこの頃から後のことであれば、京都という可能性があるということになり、それ以前であれば、父の故郷の篠塚城の可能性が高い。
京都で生まれたのであれば、母親なりその関係者などによって阿野廉氏との繋がりが出来た可能性はある。
故郷の上野国で誕生していたとすれば、幼い頃に京都に移ったことになり、その事情を推定するのが難しい。
いずれとも推定しがたいが、武士の娘が宮仕えをするのはそれほど容易いことではなかったと考えられる。

やがて、伊賀局は楠木正儀の妻となった。正儀は南朝の有力武将である楠木正成の三男である。
正儀は、父が兵庫・湊川の合戦で自刃し、正平三年(1348)に四條畷の戦いで正行・正時の二人の兄が戦死した後、家督を継いだ。
正儀も父や兄と同様に南朝有数の武将であるが、どちらかといえば、猛将というより知将という性質の武将であった。
正儀は苦戦を強いられることの多い南朝武将として転戦し、戦いの悲惨さは身にしみていた。正儀は講和派として後村上天皇の意を受けて和平交渉にあたったりしていたが、このため主戦派からは疑惑の目で見られることも多かった。
このため、一時は北朝方に身を置いたり再び南朝に戻ったりと難しい立場に置かれ続けていたようである。
正儀の没年は、元中六年(1389)ともその二年後ともいわれているが、南朝軍の武将として戦死したらしい。

伊賀局は、正儀より五年程前の、元中元年(1384)十一月に没している。
残念ながら、二人の結婚生活について伝えられている話はないが、知将である正儀と怪力とされる伊賀局の夫婦生活は、きっと微笑ましく仲の良いもので、厳しい南朝の中で奔走を続ける夫を支え続けたに違いない。
京都で生まれたのか篠塚城で生まれたのかはともかく、山深い朝廷や楠木家にすがすがしい息吹を吹き込んだ女性であったと思うのである。

こんな伝説もある。
一休宗純という歴史上の大人物がいる。
大人の一休禅師という人物については好き嫌いが分かれるかもしれないが、子供の頃を描いた一休さんを嫌いな人は少ないだろう。
この一休宗純が、後小松天皇の落胤であるらしいことは古くから伝えられていて、その可能性は高いらしい。そして、その母親については諸説があるが、このような話も伝えられている。

「南朝の高官の血筋で、後小松天皇の寵愛を受けていたが、その命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、その後一休を生んだ」
「正儀の三女が後小松天皇の官女となり『仔細ありて』退官した後に一休を生んだ。あるいは、その官女は正儀の孫娘であるとも」
など、楠木正儀の血筋であることも捨てきれないのである。
ただ、その官女の母なり祖母なりが伊賀局であったのかどうかについては、伝えられていないようだ。まことに、まことに残念なのである。

                                      ( 完 )


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小さな小さな物語  第九部

2013-08-17 10:52:20 | 小さな小さな物語 第九部
        小さな小さな物語  第九部

   
        No.481 から No.540 までを収録しています
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小さな小さな物語  目次

2013-08-17 10:51:27 | 小さな小さな物語 第九部
       小さな小さな物語 目次 ( No.481 ~ 500 )

      No.481  景気回復の正念場
        482  確かな息吹
        483  トキはトキ
        484  スポーツを楽しむ
        485  宇宙からの使者


      No.486  壮大なお話
        487 「逃げる勇気」を
        488  八十の手習い
        489  絶望の中でも
        490  二十四時間を生きる


      No.491  バンスターズ彗星
        492  時は流れて
        493  雁供養
        494  こうもりは鳥か
        495  プラシーボ効果   
  


      No.496  廻り廻って
        497  一票は一票
        498  国の骨格
        499  地震予知
        500  大切なもの
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景気回復の正念場 ・ 小さな小さな物語 ( 481 )

2013-08-17 10:50:07 | 小さな小さな物語 第九部
前政権が解散を決意してから、わが国の経済環境は文字通り様変わりの変化を見せています。
新政権への期待の大きさに、少々怖くなるような変わりようですが、同時に、遅まきながらあの時点で解散を決意してくれた前政権に感謝したいと思います。

ただ、何が変化したかと考えてみますと、対ドル相場がほんの10円ばかり円安方向に動いたことと、それによる株式市場の上昇で上場株式の総価格は大分増加しましたが、実は、実体経済で特別な変化が実現しているわけではありません。
それにしても、「景気は気から」とかいうそうですが、今回ばかりはこの言葉の凄さを見せつけられた気持ちです。
さあ、そこで、この、物語にしても信じられないような二カ月ばかりの間の変化を、実体面で良い方向で実現していくことが大切です。そのためには、この半年ばかりが正念場だと思うのです。

今回の変化の基となったものを見てみますと、円安と公共事業を中心とした財政支出への期待が主なものです。
「三本の矢」などと、実に古典的なたとえを示してくれていますが、たとえは古典的であろうとなかろうと、実行・実現されるかどうかが重要なのです。規制緩和や成長分野の育成などということは、これまでも聞き飽きるほど聞かされたテーマです。本気で実行するかどうかなのです。
そして、これも予想したことではありますが、「円安」の副作用について唱える人たちが頑張り始めています。当たり前のことで、円安になれば輸入価格が上昇することなど誰にでも分かることです。その面だけを強調していては、デフレ脱却など不可能です。もっともっと円安方向に誘導して、国内の雇用を確保することが重要なのです。
公共事業を中心とした財政出動に対しても反対意見がぼつぼつ聞こえ始めました。「公共事業性悪説」のような意見を述べる人もたまに見ますが、あまりにも単純な発想なので無視するとしましても、財政規律を心配する考えを無視することは出来ません。しかし、わが国の財政は、いくら緊縮財政を実施しても膨大な国の借金を減らすことなどできません。何としても、税収を増やすことが大切なのです。出来ることなら、この時期の消費税の引き上げなどという愚策以外の方法で。

政府発表によれば、補正並びに13年度予算が予定通り実行された場合、年度末の国債発行残高は、750兆円になるそうです。
同年度の税収見込みが43兆円ほどですから、この分の10%を返済に充てていっても、180年近くかかる計算になります。つまり、もはやわが国の財政は、学校で習ったような知識では、完全に返済することなどできない状態になっているのです。
では、どうすればよいのか。といっても、そんな方法が簡単に見つかるわけはないはずです。ただ、あえて挙げるとすれば、「税収と税外収入を飛躍的に増やす」か「借金など返す必要がないという有無を言わせぬ理論を確立させること」の二つのように思うのです。もっとも、千倍程度のインフレにするというのもあるかもしれませんがこれは論外とします。
いずれにしても、今私たちは、経済再生の正念場にあります。優れた技術を、優れたシステムを、そして強い「円」をどんどん売っていくことが必要とされています。

( 2013.02.09 )
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確かな息吹 ・ 小さな小さな物語 ( 482 )

2013-08-17 10:48:23 | 小さな小さな物語 第九部
わが家の庭は、可哀そうなほどに放ったかされています。
菜園と呼ぶには少々おこがましいのですが、野菜を植えるために一画を仕切っています。今の状態を申し上げますと、青ネギが少々、ワケギはすっかり枯れてしまっているのですが、球根は生きているはずなのでぼつぼつ芽吹いてくるのではないかと思っていますが、さて、どうでしょうか。
先日、一畝をつぶしてブルーベリーを三本植えました。さんざん石灰を加えてきた畑なので、その畝だけはピートモスを大分加えたのですが、さて、ブルーベリーが喜んでくれる程度の酸性度になったのでしょうか。
その他の畝には、カブ、シュンギク、ホウレンソウ、コマツナ、フユナ(?)などが昨年から放ったらかしにされています。大きくもなりませんが、雪や霜に襲われても枯れもしないで健在です。さすがに青虫などはいませんから、それなりに元気です。

その点、通路にあたっている部分や、花壇の周囲ばかりでなく本来きれいな花が咲いているはずの場所までも、雑草がしっかりと伸びてきています。さすがだと思います。そして、もう一つ、ノースポールの苗が、通路を中心に数えきれないほどの数が大分大きくなってきていて、小さな花をつけ始めています。二年ほど前から、植木鉢から飛んだ種から芽を出すようになったのですが、このまま自然に任せているとどうなるのか、試してみようと思っています。

花らしい花がほとんどない花壇ですが、もっともわが家の花壇は私がそう呼んでいるだけで、きれいに整理されているものではなく、この一画にはこの花を、この一画にはこの木をといった具合で、よく言えば自然体、よく言ってくれない場合は乱雑、といった状態です。
その花壇ですが、至る所から球根が芽を出しています。スイセンは早くから伸びていますが、どれが何だかよく分からないままに、緑色の芽が雑草の合い間からしっかりと自分の場所を確保しているようです。雑草も逞しいですが、そうそう簡単には負けないぞと言わんばかりで、何だか嬉しくなってしまいます。

それにしても、今年は当地でも雪や霜柱が多く、結構厳しい冬が続いているのですが、球根たちは何を頼りに芽吹いているのでしょうか。
いくら寒くても、地中の中には春を教える合図があるのでしょうか。あるいは、延々と受け継いできた体内時計のようなものの指示に従っているのでしょうか。よく分からないのですが、少なくとも、めったに世話もしない私のためでないことだけは確かなようです。
いつか立春も過ぎて、寒い寒いと言いながらも、私たちの周囲には春の息吹が確かな足取りで近付いてきているようです。
あれも気に入らないし、これも面白くないと思うことも多いのですが、球根の艶やかな新芽を見つめながら深呼吸でもして、前を向いて行くことにします。

( 2013.02.12 )
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トキはトキ ・ 小さな小さな物語 ( 483 )

2013-08-17 10:46:53 | 小さな小さな物語 第九部
国の特別天然記念物である「トキ」について、分類の変更があったことが明らかになりました。
つまり、トキを含むトキ科の分類について、これまでの「コウノトリ目」から「ペリカン目」に変更になったことが日本鳥学会から発表されました。近年のDNA解析の向上の結果のようです。
まあ、端的に言えば、トキはコウノトリの仲間だと思っていたのが、実はペリカンの仲間だったということでしょう。

この結果、トキの正しい所属先は次のようになりました。
『動物界・・脊索動物門・・脊椎動物亜門・・鳥綱・・ペリカン目・・トキ科・・トキ属』のただ一種の鳥ということになります。
さあ、それがどうしたと言われますと、話は行き止ってしまうのですが、確かにペリカンの仲間というよりコウノトリに近い感じがすることは確かです。これが、「トキはコウノトリの仲間だと思っていたが、実はライオンの仲間だった」というのであれば、相当驚くのですがね。
因みにライオンの所属先はと調べてみますと、『動物界・・脊索動物門・・脊椎動物亜門・・哺乳綱・・ネコ目・・ネコ科・・ヒョウ亜科・・ヒョウ属』のライオンという種だということになります。トラも同じヒョウ属のトラという種になります。
ライオンとトラは極めて近い種属ということになりますが、当然ネコもそうだと思っていたのですが、意外に分類上は離れているようです。
ネコは『動物界・・脊索動物門・・脊椎動物亜門・・哺乳綱・・ネコ目・・ネコ亜目・・ネコ科・・ネコ属』の中のヤマネコ種のイエネコ亜種ということになります。さらに、もっと詳しく言えば、それぞれの項目の間に「上綱・亜綱・上目」という区分けもされているのです。
何がどう違うのか、ですか? 書いている私が「ジュゲムジュゲム・・」を唱えている感じになっています。

地球上に、どのようにして命が誕生したのか、そして、最初の命は一つだったのか、それとも多くの命があちらこちらで誕生したのか、そして、それらがどのような経過を辿り、どのような進化や絶滅を繰り返しながら、現在の地球上にその種を保っているのか、そのどの一つをとっても壮大なドラマが隠されているのでしょう。
トキについても同様です。
かつては、東アジア一帯に広く分布していたのですが、二十世紀前半の頃から激減していったようです。人間による、開発という名の環境破壊がその原因であることは間違いないことでしょう。
わが国においても、二十世紀中頃にはいったん絶滅したと考えられていたようですが、その後わずかな数が発見され、捕獲して保護にあたりましたが、わが国の固有種は2003年についに絶滅してしまいました。
この間、中国から二羽を貰い受け人工繁殖に成功し、現在は野生化を目指す所まで来ているのです。
絶滅したわが国の固有種と、中国のトキとでは、「亜種」というほどの差はなく、環境の変化による差異程度の僅かなもののようです。

トキがペリカンの仲間だったというのも驚きと言えば驚きですが、私たちの身の回りにも、「まさかあの人が・・」とか「あんな人とは知らなかった・・」といった声を聞くことが少なくありません。
見かけだけで人を判断することはとても難しいことであるのは、遠い昔から教えられていることなのですが、世の中には、悪い人も立派な顔貌で生きているものですから困ったものです。
さすがに、「あの人はペリカンだったのか」という話は聞いたことがありませんが、「サギだった」という話は珍しくもありません。
一人一人をDNA鑑定して、あの人は『動物界・・脊索動物門・・何某・・』に属しているから大丈夫だというわけにもいきません。お互いに十分注意をして、サギの餌にならないように注意したいものですねぇ。

( 2013.02.15 )
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スポーツを楽しむ ・ 小さな小さな物語 ( 484 )

2013-08-17 10:44:58 | 小さな小さな物語 第九部
スポーツに関わる話題が豊富です。
例年この時期は、プロ野球のキャンプ便りがスポーツ紙やテレビのスポーツ番組の主役になるのですが、今年は少し様子が違うようです。それも、社会面や、政治問題としてまで拡大しているのです。
わが国では、体罰問題が大きな話題になっていますが、世界的に見れば、オリンピックの競技種目の問題や、有名選手の事件らしい報道も伝わってきています。

それぞれの問題は、それぞれに理由があり、然るべき対応がなされていくと思うのですが、わが国について言えば、スポーツの位置付けについて国民全体で考え直す必要があるように思うのです。
大阪の某高校のスポーツ顧問の教師や柔道の代表監督に端を発して、あちらこちらから似たような事案が報告されています。それでもまだ、氷山の一角に過ぎないことでしょう。
この二件の指導者について言えば、こんなのを体罰だとか愛の鞭などといった言葉で表現するのはもってのほかです。他にも刑事事件になった指導者もいますが、そのいずれも有罪かどうかはともかく、完全な犯罪行為です。

スポーツというものは、ヨーロッパなどでは楽しむものとしてスタートしたそうです。それに対してわが国では、教育の一環としてスタートしたようなので、世界基準でいえば、歪んだスポーツの在り方や指導の在り方がまかり通っているようなのです。この機会に、徹底した実態調査をし、いくら力が強くても、いくら早く走れるとしても、いくらボールをうまく操れるとしても、人格に欠けた人物をスポーツの指導者にさせてはなりません。いわんや、学校教育の場でそのような人物がクラブを指導していることを考えれば、怖ろしくなってしまいます。
少なくとも、未成年ばかりの高校以下のクラブ活動からは、そのような指導者を早急に追放しなくてはいけません。そのため指導者が少なくなり、クラブ活動に支障があるのなら、クラブ活動なんてやめてしまえばよろしい。これまで、ひどい指導者のもとで運営されたクラブが解放されるだけで、青少年の教育上、相当のプラスになるはずです。

この際私たちは、スポーツを見直す必要があるのではないのでしょうか。
甲子園の高校野球に代表されるように、若者の懸命な姿は多くの人に感動を与えてくれます。しかし、その陰に、もしトラやライオンでも調教するような指導をしている学校が一校でもあるとすれば、全く興ざめになってしまいます。
大体、私たちはスポーツに優れた人をあまりにも神聖視しているように思うのです。
優れたスポーツ選手が称えられることに何の異論もありませんが、スポーツは、金メダルを手にしたり巨万の富を得ている人たちだけにあるものではないのです。
年齢や運動能力などに限定されないあらゆる層の誰でもが、もっともっと気楽に様々なスポーツを楽しめるようにすることこそが、金メダルの数を数えるより遥かに重要なはずです。
今こそが、「スポーツは楽しいものである」という原点に戻る絶好のチャンスだと思うのです。

( 2013.02.18 )
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宇宙からの使者 ・ 小さな小さな物語 ( 485 )

2013-08-17 10:43:48 | 小さな小さな物語 第九部
「宇宙からの使者」と呼ぶには少々荒っぽい訪問ですが、ロシアに巨大な隕石が落下しました。
落下に至る状況が、数多く映写されており、被害を受けた方々にはまことに申し訳ないのですが、実に貴重な映像となったはずです。
本体らしいものは「聖なる湖」とも呼ばれている結氷した湖に落ちたようで、直径8m程の穴があいているそうです。その本体はまだ確認されていません。
はるばる宇宙を飛来してきて「聖なる湖」に飛び込むなどは、出来過ぎた程の鮮やかさですが、周辺の人々には千人を超える怪我人が出ており、被害総額は三十億円を超えるようです。

地球をかすめるようにして飛び去っていった小惑星もありましたが、今回のはその破片なのではないかなどと思ったのですが、全く違う方向から飛来したもので、たまたま重なったものだそうです。
しかし、たまたま重なったと言いますが、それほど簡単に重なる程地球にやってくる「宇宙からの使者」は多いのかと思うのですが、それが結構な数のようなのです。
地球に飛び込んでくる小惑星と言ってよいのかどうか分かりませんが、塵や岩石などの大半は大気圏に突入した段階で燃え尽きてしまいます。私たちが流れ星と呼んで願いを懸けている物の大半はその類だと思うのですが、大気圏を通り抜けて地上までやってきたものは隕石と呼ばれますが、その数だけでも少なくないのです。
新聞の記事によりますと、年間の隕石の数は、重さ約10kgのもので800個、約1kgのもので4100個、約100gの小石大だと2万個にもなるそうです。

地球にやってくる「宇宙からの使者」たちは、小惑星に限らず、もっと遥かな宇宙空間からやってくるものもあり彗星などもその一つですが、では、小惑星というものはどのくらいあるかと言いますと、これまた相当の数なのです。
小惑星と呼ばれるものの多くは、火星と木星の間にあり、これを小惑星帯と呼ばれるそうです。
その数は、番号が付けられているものだけで約33万個、その他確認されているものを加えると50万個を遥かに超え、未確認のものを加えれば、この小惑星帯だけで100万個は超えそうです。
つまり、太陽系にある惑星は、「水・金・地・火・木・・・」なんてものだけではないのです。大根は小さくとも小根とは言わないのですから、いくら芥子粒のようなものでも惑星は惑星です。私たちの仲間と呼ぶべき天体は100万個ほどはあるということなのです。

このニュースを見た時、ある一つのことを連想しました。すると、予想に違わない発言をしてくれるコメンテーターの方が複数いました。
「この隕石が原発に落ちていたらどうなっていたか」「隕石に対する安全対策はどうなのか」等々。
昔、この空が落ちてきたらどうなるのかと、心配で心配で仕方がなかった人がいたそうです。
心配するのは勝手ですし、私自身もこんな無責任なコラムを書いていますので大きなことは言えませんが、少なくともテレビなどでコメントする程の人は、少しは責任のある発言をして欲しいものです。こんな発言を認めていれば、今に全ての建築物には隕石に耐えられる仕様が必要だと言いだすかもしれませんよ。
6500万年前に落下した巨大隕石が、気候変動を引き起こし恐竜を絶滅に導いたともいわれています。地球や宇宙の歴史からいえば6500万年前など、つい昨日のようなものかもしれません。かといっても、その規模の隕石落下に備える必要があるとはとても思われないのです。
ただ、地球上には、年間三万個ほどもの隕石が落ちてきています。もしかすると、今までに一度も隕石に当たったことのない人は、とても幸運な人なのかもしれませんねぇ。

( 2013.02.21 )
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