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雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

今昔物語拾い読み 『その7』 ご案内

2020-01-03 13:20:15 | 今昔物語拾い読み ・ その7

        今昔物語拾い読み 『その7』 ご案内
  
   『その7』には、「巻26」から「巻28」までを収録しています。
     いずれも、本朝世俗部に位置付けられる部分です。
     「巻28」から逆になっていますが、いずれの巻も全話載せています。

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今昔物語 巻第二十八 ご案内

2020-01-03 12:43:46 | 今昔物語拾い読み ・ その7

        今昔物語 巻第二十八


巻第二十八は、本朝付世俗となっています。
内容は、世俗的なユーモラスな話が集められています。登場人物は社会の各層に渡っています。
全部で四十四話収録されていますが、単純明快な笑いが紹介されています。

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女にだらしない男 ・ 今昔物語 ( 28 - 1 )

2020-01-03 12:39:09 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          女にだらしない男 ・ 今昔物語 ( 28 - 1 )

今は昔、
如月(二月)の初午(ハツウマ)の日は、昔から京じゅうの上中下の多くの人が、稲荷詣でといって、こぞって伏見の稲荷神社に参詣する日である。

ところで、いつもの年より多くの人が参詣する年があった。
その日は、近衛府の舎人(トネリ・ここでは近衛府の官人で、将監以下の総称。)たちも参詣した。尾張の兼時、下野の公助、茨田(マムタ)の重方、秦の武員(タケカズ)、茨田の為国、軽部の公友などという世に知られた舎人たちが、餌袋(エブクロ・もともとは、鷹の餌を入れて鷹狩に携行した竹籠などを指したが、後には食物を入れて携行するのに用いられた。)、破子(ワリゴ・折箱状の容器。)、酒などを下人に持たせて、連なって出かけたが、中の御社近くまでくると、参詣に向かう人終えて帰る人が様々に行きかっていたが、とてもきれいに着飾った女に出会った。濃い紫のつや出しした上衣に、紅梅色や萌黄色の着物を重ね着して、なまめかしい様子で歩いている。

この舎人たちがやって来るのを見て女は、小走りに走り去って、木の下に立って隠れていると、舎人たちは気恥ずかしくなるような冗談を言い、あるいは近づいて下から女の顔を見ようとしながら通り過ぎて行ったが、中でも重方はもともと好き者でいつも妻に焼きもちをやかれては、知らぬ存ぜぬなどと言い争っているような男なので、特に立ち止まって目を離さずに女について行き、近くに寄って細やかに口説いた。
女は、「奥様をお持ちの方が、行きずりの人に出来心でおっしゃられることなど、聞く人の方がおかしいですわ」と答えたが、その声も実に魅力的であった。

重方が、「我君々々(アガキミアガキミ・「もし、あなた」といった呼びかけ)。おっしゃるように、つまらない妻は持っていますが、顔は猿のようで、心は物売り女(品性下劣な女の例え)のようなので、『離縁しよう』と思いますが、たちまちに綻(ホコロ)びを縫う者がいなくなるのも困るので、もしも『好意が持てそうな人に出会ったら、そちらの人に移ろう』と本気で思っていましたので、このように申すのです」と言うと、女は、「それは実のことでございますか。冗談をおっしゃっているのですか」と尋ねた。
重方は、「この御社の神もお聞きください。長年願っていた事であることを。『こうして参詣した甲斐があって、神様がお授け下さった』と思いますと、大変嬉しくてなりません。それで、あなたはひとり身でございますか。また、どちらのお方なのでしょうか」と尋ねた。
女は、「私も同じように、これといった夫はおりませんので、宮仕えをしておりましたが、夫がやめよというのでやめましたが、その人は田舎で亡くなってしまいましたので、この三年は、『頼みとなる人が現れますように』と思って、この御社に参詣していたのです。本当にわたしに好意をお持ちくださるなら、わたしの住いをお教えいたしましょう。いえいえ、そうとは申しましても、行きずりの人のおっしゃることを真に受けるなんて愚かなことですわ。早くお行き下さい。私も失礼いたします」と言って、さっさと行ってしまおうとするので、重方は、手を擦り合わせて額に当てて、女の胸の辺りに烏帽子をくっつけるようにして、「御神さま助けたまえ。そのような情けないことを聞かせないでください。今すぐに、ここからあなたの住いに参り、わが家には二度と足を踏み入れません」と言って、頭を低くして拝み倒すと、女は、その髻(モトドリ・髪を頭上で束ねたもの)を烏帽子の上からむんずと掴むと、重方の頬を山が響くほどにひっぱたいた。

重方はびっくりして、「これは、何をなさる」と言って、顔を上げて女の顔を見ると、なんと、自分の妻が姿を変えていたのである。
重方は仰天しながら、「そなたは、気でも狂ったのか」と言うと、妻は、「お前さまこそ、どうしてこんな恥知らずなことをするのですか。ご一緒の方々が、『あなたの主人は、油断も隙もありませんぞ』といつも来ては教えてくれていましたが、『わたしに焼きもちをやかせるために言っているのだ』と思って信じていませんでしたが、本当のことを教えてくれていたのですね。お前さまが言うように、今日からわたしの所に来ようものなら、この御社の神罰で矢傷を受けることになりましょうぞ。どうしてあんなことを言われたのか。その横っ面をぶち欠いて、往き来の人に見せて笑わせてあげよう。この恥知らず」と言い立てる。
重方は、「そんなにわめきたてるなよ。まったくお前の言う通りだ」とにこにこ顔でなだめたが、全く許すそぶりさえない。

一方、他の舎人たちはこの騒動を知らず、参道の先の小高い崖に登り立ち、「どうして田府生(デンフショウ・重方のこと。「田」は「茨田」の唐風の略称。「府生」は近衛府などの下級官僚のこと。)は遅れているのだ」と言いながら振り返って見ると、女と取り組んで立っている。
舎人たちは、「何事が始まったのか」と言って、引き返して近寄って見ると、妻に打ちすえられて立っていた。そこで舎人たちは、「よくなさったものだ。だから、いつもも申し上げていたでしょう」とほめそやすと、妻はこう言われて、「この方々のご覧の通り、お前さまの本性が明らかになったようですね」と言うと、髻を掴んでいた手を離したので、重方は烏帽子のくしゃくしゃになったのを直しながら上の方にお参りに行った。
女は重方の後ろ姿に、「お前さまはその惚れた女の所に行きなさるがいい。もし、わたしの所に来ようものなら、きっとその足を打ち折ってやるからね」と言って、下の方に降りて行った。

さて、その後、妻があのように言っていたのに、重方は家に帰ってきて盛んに機嫌を取ったので、妻の怒りもおさまってきたので、重方が、「そなたはやはりこの重方の妻なので、あれほど厳しいことが出来たんだなあ」と言うと、妻は、「うるさいわね、この愚か者が。目の不自由な者のように、妻の気配も見分けられず、声も聞き分けられずに馬鹿をさらして人に笑われるとは、なんと呆れたことではありませんか」と言って、妻にも笑われた。
その後、この事が世間の評判になって、若い公達(キンダチ・貴公子。摂関、大臣、上達部などの貴族の子弟の称。)などの笑い者にされたので、若い公達がいる所では、重方は逃げ隠れするのであった。

その妻は、重方が亡くなった後、女ざかりの年頃となり、別の人の妻となっていた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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勇者にも弱点 ・ 今昔物語 ( 28 - 2 )

2020-01-03 12:37:32 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          勇者にも弱点 ・ 今昔物語 ( 28 - 2 )

今は昔、
摂津守源頼光朝臣(ミナモトノヨリミツアソン・藤原道長の家人で、酒呑童子退治などで有名。)の郎等に、平貞道、平季武、坂田公時という三人の武士がいた。いずれも、容姿堂々としていて、武芸に優れ、肝が太く、思慮もあり、難のつけようのない者たちであった。
そこで、東国でも度々優れた活躍をして、人々に恐れられる武士どもだったので、摂津守もこの三人に目を掛け、自分の身辺において重用していた。

さて、賀茂の祭りの返さの日(カエサノヒ・賀茂際の二日目。斎王が上社の神館から斎院に還る大行列が華麗で人気が高かった。)、この三人の武士が話し合い、「何とかして今日の行列を見物したいものだ」と手はずを考えたが、「馬を連ねて紫野へ行くのは、いかにも見苦しい。徒歩で顔を隠して行くわけにもいくまい。行列はぜひとも見たいが、どうしたものだろう」と嘆いていると、一人が、「それでは、某大徳(ナニガシノダイトク・大徳は有徳の僧。)の車を借りて、それに乗って見に行こう」と言った。また別の一人は、「乗り慣れぬ車に乗って行って、高貴な方々に出会って、車から引き落とされて、つまらぬ死に方をするかもしれないぞ」と言った。もう一人は、「下簾(シタスダレ・牛車の前後の簾の内側にかけて垂らす絹布。)を垂らして、女車のようにして見物するのはどうだろうか」と言った。
他の二人の者が、「それは良い考えだ」ということになり、一人が提案した大徳の車をすぐに借りてきた。下簾を垂らし、この三人の武士は、粗末な紺の水干(スイカン・狩衣を簡素化した物)の袴などを着たまま乗った。履物などは皆車の中に取り入れて、三人は袖も出さずに乗ったので、どんなに素敵な女房が乗っているのかと思わせるような車になった。

さて、紫野の方向に向かって車を走らせて行ったが、三人ともこれまでに車に乗ったことのない者どもなので、箱の蓋に何かを入れて振ったかのようになって、三人とも振り回されて、ある者は立板に頭を打ち付け、あるいは互いに頬をぶつけ合って仰向けに倒れ、うつ伏せになって転ぶなど、とてもたまったものではなかった。
こんな状態で行くうちに、三人ともに車酔いしてしまって、踏板(フミイタ・車の出入り口にあるやや広い横板)に汚物を吐き散らし、烏帽子も落としてしまった。(当時、烏帽子を落とすことは、極めて不作法で見苦しいふるまいとされた。)
牛はすこぶるの逸物で、力まかせに引いて行くので、三人は訛り丸出しの声で、「それほど速く走らせるな、走らせるな」と叫んでいると、同じ道を続いてくる車や、それについて来る徒歩の雑色(下人)どもも、この声を聞いて怪しみ、「あの女房車には、どんな人が乗っているのか。東国の雁が鳴き合っているようで、よくさえずることだ。(欠字あり、一部推定。)何とも不思議な事だ。『東国の田舎娘が見物に来たのだろう』と思われるが、声は太く男の声のようだなあ」と、まったくわけがわからなかった。

こうして、紫野に行き着き、牛をはずして車を立てたが、余りに早く着きすぎたので、行列が渡るのを待っている間、この者どもは、車酔いがひどく気分が悪くなり、目が回って何もかもが逆さに見えた。ひどく酔っているため、三人ともうつ伏せになって寝込んでしまった。

そうしているうちに、行列が通りかかったが、三人とも死んだように寝込んでいる状態なので、まったく気づかないうちに終わってしまった。
行列が終わったので、それぞれの車に牛を繋ぎ、帰り支度で騒いでいる時になって意識がはっきりしてきた。しかし、気分は悪く、寝込んでいて行列を見ていないので、腹立たしく悔しくて仕方なかったが、「帰りの車を来る時のように飛ばされたら、我らは生きてはおれんぞ。千人の敵兵の中に馬を走らせて飛び入ることは、常に行っていることで恐れなどしない。ただ、貧乏くさい牛飼い童の奴一人に身を任せて、かくもひどい目に遭わされるのは、何の役にも立たない。またこの車に乗って帰れば、我らの命は危いぞ。されば、今しばらくはここにいよう。そして大路に人がいなくなってから歩いて帰る方が良い」と決めて、人並みが堪えてから、三人とも車から降り、車だけ先に帰した。その後、皆[ 欠字あり。「沓」などか? ]を履き、烏帽子を鼻先までずらし、扇で顔を隠して、摂津守の一条の家に帰って行った。

これは、平季武が後に語った話である。「勇猛な武者といえども、牛車での戦は無用のことである。これより後は、すっかり懲りてしまい牛車の近くには近寄らぬようにしたものだ」と述懐していた。
されば、勇猛で思慮深い武士たちであるが、それまでに一度も牛車に乗ったことのない者どもだったので、このように哀れに車酔いしてしまったのは馬鹿げたことである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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和歌の上手だが ・ 今昔物語 ( 28 - 3 )

2020-01-03 12:36:11 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          和歌の上手だが ・ 今昔物語 ( 28 - 3 )

今は昔、
円融院の天皇が退位なさって後、御子の日(オンネノヒ・正月最初の子の日に、野辺に出て小松を引いて息災延命を祈った。)の野遊びのために、船岳(フナオコ・船岡山)という所にお出かけになられた。堀川院より出発されて、二条大路を西へ行き大宮大路に出て、大宮大路を北に上られたが、円融院の御幸を拝するための物見車がすき間なく立ち並んでいた。お供の上達部(カンダチメ・上流貴族)や殿上人の装束は絵にも描きつくせないほどの美しさであった。

円融院は、雲林院の南の大門の前で御馬に乗りかえられ、紫野に到着なされた。船岳の北の斜面に小松があちらこちらに群生している中に遣水(ヤリミズ・庭園内の小川)を流し、石を立て、砂を敷き、唐錦の平張(ヒラハリ・天井を平たく張り渡した天幕。)を立て、簾を懸け、板敷を敷き、欄干がつけられていて、すばらしいことこの上ない。
その中にお入りになったが、その周りには同じ錦の幕を引き廻らしていた。その御前近くに上達部の席が設けられ、その次に殿上人の席が設けられている。殿上人の席の末の方に、幕に沿って横に歌人の座が作られている。

院が着座なされると、上達部・殿上人が仰せに従って着席する。歌人たちは前もって召されていたので、皆参上していた。
「座に着くように」との仰せが下されると、順序通りに席に着いた。その歌人たちとは、大中臣能宣(ヨシノブ)、源兼盛、清原元輔、源茲之(シゲユキ)、紀時文等である。
この五人には、かねて院より回状があり、参上するよう仰せがあったので、皆衣冠に身を正して参上していた。

すべての者が着席し終わってしばらく経った頃、歌人席の末席に、烏帽子をかぶり丁染(チョウゾメ・正しくは丁子染らしい。黒みがかった橙色。)の粗末な狩衣袴(公家の略服。院の席には無礼な装束。)を着た翁がやって来て着席した。人々は、「いったい何者だ」と思って、よく見ると曾禰好忠(ソネノヨシタダ・著名な歌人であるが、変人といわれ官位も六位と低かった。小倉百人一首に入っている。)であった。
殿上人たちは、「そこに参ったのは、曾丹(ソタン・丹後掾であったことからの通称であるが、一種の蔑称。)か」とひそひそ声で尋ねると、曾丹は気色ばんだ様子で、「さようでございます」と答えた。それを聞いて殿上人たちは、この日の行事役の判官代(行事を取り仕切っている院庁の役人。)に、「あそこに曾丹が参っているが、召したものなのか」と尋ねると、判官代は、「そのようなことはありません」と答えた。
「それでは、誰か別の者が承って召したものなのか」と、次々に聞いて回ったが、「承りました」という人はいなかった。そこで行事の判官代は、曾丹の後ろに近寄って、「これはどういうことなのか。召しもないのに参ったのは」と尋ねると、曾丹は、「歌人たちに参上するように仰せがあったと承りましたので、参上したのです。どうして参上しないでおれましょうか。ここに参上されている方々に決して劣らぬ者ですから」と言った。
判官代はこれを聞いて、「こ奴は、なんと、召しもないのに強引に参ったのだ」と気がついて、「どういうわけで、召しもないのに参ったのだ。今すぐ退出せよ」と追い立てたが、それでも着席したまま動こうとしなかった。

その時、法建院の大臣(藤原兼家。正しくは法興院で、この時右大臣。)、閑院の大将(藤原朝光)などがこれをお聞きになって、「そ奴の襟首をとっ捕まえて放り出せ」と命じられると、若くて威勢の良い下級貴族や殿上人など大勢が曾丹の後ろに回り、幕の下から手を差し入れて、曾丹の狩衣の襟首を取って、仰向けざまに引き倒し、幕の外に引きずり出し、一足ずつ踏みつけたので、七、八度も踏みつけられてしまった。
すると、曾丹は飛び起きて、一目散に逃げだしたので、殿上人や若い随身や小舎人童たちが曾丹が逃げる後を追って、手を叩いてあざ笑った。まるで放れ馬を追うように大声ではやし立てた。
これを見た多くの人は、老いも若きも声をあげて笑いあった。

その時、曾丹は小高い丘に走り登り、後ろを振り返って、笑いながら追っかけてくる者たちに、大声で言った。「お前たちは何を笑っているのか。わしはもう何の恥もない老人だ。だから言ってやろう、よく聞けよ。太上天皇が子の日にお出ましになられ、歌人たちを召されると聞いて、この好忠が参上して座に着き、掻栗(カイグリ・菓子として出されている栗らしい。)をポリポリと食う。次に追い立てられた。次に踏みたてられた。それが何の恥になる」と。
それを聞いて、上中下の全ての人々が笑う声はさらに大きくなった。
その後、逃げ去ってしまった。その当時、人々はこの事を語り合って笑いの種にした。

されば、素性の賤しい者はやはりどうしようもない。好忠は、和歌は良く詠んだが、思慮が足りず、歌人たちを召すと聞いて、召しもないのに参上して、このような恥をかいて、大勢の笑いものになり、末代まで笑いの種にされたのである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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田舎者いじめ (1) ・ 今昔物語 ( 28 - 4 )

2020-01-03 12:35:28 | 今昔物語拾い読み ・ その7
 

          田舎者いじめ(1) ・ 今昔物語 ( 28 - 4 )

今は昔、
[ 天皇名を故意に欠字にしている。]天皇の御代に、[ 姓名を故意に欠字にしている。]という者がいた。
長年、旧受領(フルジュリョウ・古手のうだつの上がらない国守。)にて任官も出来ず不遇でいたが、ようやく尾張守に任じられたので、大喜びで任国に急ぎ下ったが、その国はすっかり荒れ果てていて、田畠を作ることさえ全くない状態であった。
この新任の守は、もともと誠実で身の程をわきまえた人物なので、前々の国においても善政を行っていたので、この国に着任してからも政を善く行い尾張国を並みの国にして豊かにした。すると、隣国の百姓(この時代、を除くすべての民を指した。)たちが雲の如く集まってきて、丘といわず山といわず開墾して田畠としたので、二年のうちに善い国になった。

そこで、天皇はこれをお聞きになって、「尾張国は前の国司に潰されてしまって、すっかり疲弊してしまったと聞いていたが、今度の国司は二年の間によくぞ国を富ました」と仰せられたので、上達部(カンダチメ・上級貴族)も世間の人も、「尾張は善い国になった」と褒め称えた。

そして、三年目の年、五節(ゴセチ・新嘗祭の行事として演じられる五節の舞いの舞姫をだす役を割り当てられた。名誉なことであるが、経済的な負担も大きかった。)の担当国にあてられた。尾張は、絹・糸・綿などを算出する所なので、何物も不足するものはない。それに、守は万事に才覚のきく人であったので、衣装の色や打ち方や縫い方など、すべて立派に整え奉った。
五節の舞姫の控え所は、常寧殿(ジョウネイデン)の北西の隅に設けられていたが、そこの簾の色、几帳の帷(トバリ・垂れ幕)、簾や帷の下から出した女房の衣の裾など、見事に色どりされている。これはまずいという色など全くなかった。
そういうことなので、「何と行き届いた男だろう」と誰もが褒め称えた。介添えの女童なども他の五節所よりも優れていたので、殿上人や蔵人などがたえずこの五節所に立ち寄り気を引くような振る舞いをしたが、この五節所の内では、守をはじめ子供や一族の者たちが皆屏風の後ろに集まっていた。

ところで、この守は身分賤しからぬ者の子孫であるが、どういうわけか、守の父も守自身も、蔵人にもなれず、昇殿を許されなかったので、宮中のしきたりについては聞いてもおらず、まして見ることもなかった。当然子供たちも知らなかった。
そのため、この五節所の内にかたまっていて、御殿の建て方や造り方、各宮様に仕える女官たちの唐衣や襷襅(チハヤ・神事などで首から肩にかける領巾(ヒレ)のような物らしい。)を着て歩く様子、殿上人や蔵人が出し袿(イダシウチギ・下着である袿を出している着方)して絹織物の指貫を着て様々に着飾って通る様子を、折り重なるようにして見ていたが、殿上人が近くに寄って来ると、屏風の後ろに逃げ隠れたが、先に逃げた者が後から逃げてくる者に指貫の裾を踏まれて倒れ、後の者は先の者にけつまずいて倒れた。ある者は冠を落とし、ある者はわれ先に隠れようと慌てて屏風の後ろに入り込む。入ったなら、そのままおればいいものを、またちょっとした者が通ると先を争って出て見ようとする。そのため、簾の内の醜態はこの上ない。
若い殿上人や蔵人などは、その様子を見て笑い興じた。

そのうち、若い殿上人たちが、宿直所に集まっていたが、皆で相談して、「この尾張の五節所は様々の物の色合いもすばらしく飾り立てている。介添えの女童も今年の五節ではここが一番優れている。しかし、この守の一族は宮中の作法については聞いてもおらず見てもいないようだ。ちょっとしたことでも知りたがって追い回してみようとする。また、我らを恐れて、近くに寄ると隠れて大騒ぎするなど、何とも馬鹿げたことだ。どうだ、何かはかりごとをして、もっと驚かし慌てさせようではないか。どうすればよいかな」と話し合った。
一人の殿上人が言った、[ 欠文があるらしいが、不詳。]。またある殿上人が言った。「驚かす方法があるぞ」と。「どうしようというのだ」と別の者が聞くと、「あの五節所へ行き、いかにも好意があるような顔をして、『この五節所のことを殿上人たちはひどく笑っていますぞ。お気をつけなさい。この五節所を笑い物にしようと殿上人たちがこのようなことを企んでいますよ。その企みとはね、ありとあらゆる殿上人が、この五節所を脅そうとして、皆が紐を解いて直衣の上衣の肩を脱ぎ、五節所の前に立ち並んで、歌を作って歌おうというものですよ。その作ったという歌とは、
『 鬢(ビン)タタラハ アユカセバコソ ヲカセバコソ 愛敬付タレ 』 
( 鬢たたら(耳際の毛)は、揺り動かせばこそ、歩めばこそ、かわいらしい。 といった意味らしいが、一部誤記された部分があるらしい。)
といったものですよ。この『鬢たたら』というのは、尾張守殿の毛が薄くて鬢が抜け落ちているのに、そんな鬢たたらで五節所にいて、若い女房たちの中に交じっているのを歌っているのです。『アユカセバコソ愛敬付タレ』というのは、守殿が後ろ向きに歩かれる様子があてやか( この部分欠字あり。「高貴な」という意味らしい。)なことを歌っているのです。こう申し上げることを本当とは思われないでしょう。しかし、明日の羊申(ヒツジサル・午後三時頃。)の頃、殿上人や蔵人が総出で、皆が肩脱ぎになって直衣の上衣を腰に巻き付けて、老若を問わずこれを歌いながら近づいてきたら、私が申し上げることが本当だと信じてもらえるでしょう』と、言ってやろうと思うのです」と言うと、他の殿上人たちは、「それでは、貴殿が行って、うまく言いきかせてくれ」と約束して別れた。

                                         ( 以下、(2)に続く )

     ☆   ☆   ☆


 

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田舎者いじめ(2) ・ 今昔物語 ( 28 - 4 )

2020-01-03 12:32:17 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          田舎者いじめ(2) ・ 今昔物語 ( 28 - 4 )

          ( (1)より続く )

さて、企みを提案した彼の殿上人は、寅の日(この部分誤記らしい?)の未明に、例の五節所に行き、守の子という若者に会って、得意げにあの企てのことを細々と語って聞かせると、若者はひどく恐れた様子で聞き入っていた。
話し終えてからその殿上人は、「余計なことを言ってしまった。他の君達(キンダチ・公達)に見られたりしては大変だ。そっと分からないように帰ろう。『私がこんなことを教えた』などと他の君達には決して話さないように」と言って帰って行った。

この守の子は父親のもとに行き、「新源少将(シンゲンショウショウ・新任の源氏性の少将。他にも源氏性の少将がいる場合に使う。)の君が参られて、このようなことを教えてくれました」と言うと、父親の守はこれを聞くと、「さて、さて」と言うだけで、ただ震えに震えて、頭をわななかせて、「昨夜君達がその歌を歌っていたので、『何を歌っているのか』と不審に思っていたが、さてはこの年寄りのことを歌っていたのだな。どのような罪や過ちがあって、この年寄りを歌に作って歌うのか。
尾張国の代々の国司によって疲弊していたのを、天皇が見捨て難く思われたので、『何とかせねば』と思って、懸命に努力して良い国に立て直し奉ったことが悪いとでもいうのか。また、この五節に奉仕したのは、自分が望んだことではない。天皇が無理に押し付けなされたので、苦痛であったが奉仕しただけなのだ。
また、鬢(ビン)の毛が無いことも、若い男盛りの時に鬢がないのなら可笑しくもあろうが、年が七十ともなれば鬢が落ちてなくなっても何がおかしいのか。何で鬢たたらと歌う必要があるのだ。また、わしが憎いのであれば、打ち殺すも蹴飛ばし踏みつければよい。それを、帝王がおいでになる王宮の内で、紐を解き肩脱ぎして狂い歌わなければならないのだ。決してそのようなことはあるまい。
それは、その少将の君が、お前が出て行って交わろうとしないので、脅そうとしてでたらめを言っているのだ。近頃の若い連中は、思いやりがなくこのような企てをするのだ。こんなことで他の者なら脅したり謀ったりすることもできよう。しかし、このわしは、身分は賤しくとも唐のこともわが国のこともよく知っている身なので、そうとは御存じない若い君達が口から出まかせに脅したことなのだ。他の人は騙されても、この年寄りは決して騙されたりはしない。
もし、脅しているように、本当に王宮の内で、紐を解き腰にからめて歌い狂ったら、自分のしたことで、その方々は重い罪に当たるだろうよ。お気の毒な事だ」と言って、糸筋のような細いすねを股までまくり上げて、扇であおぎ散らして怒っていた。

このように腹を立ててはみたが、「昨夜、東面の道において、あの君達がふざけていた様子からは、そのようなこともするかもしれぬ」と思われて、やがて未の時(午後二時頃)になる頃には、どうしたものかと誰もが胸がつぶれる思いでいたが、未の時を過ぎた頃、南殿(紫宸殿)の方から歌い騒ぎながらやって来る声がした。
「そらそら、やって来たぞ」と、皆が集まって、舌が回らず頭を振り振り恐れていると、南東の方角からこの五節所の方に向かって大勢が一団となって押し寄せて来るのを見ると、一人としてまともな姿をしている者はいない。皆直衣の上衣を腰の辺りまで脱ぎ下ろしている。その者たちが手を取り合ってやって来て、寄りかかるようにして内を覗き、五節所の前の薄縁の辺りにある者は沓を脱いで座り、ある者は横になり、ある者は尻を懸け、ある者は簾に寄りかかって内を覗き、ある者は庭に立っている。そして、それらの者が、皆声を合わせて例の鬢たたらの歌を歌う。
このようにして脅すことを知っている若い殿上人四、五人は、簾の内にいる者たちすべてが恐れおののく様子を可笑しがって見ていたが、事情を知らない年長の殿上人たちは、このように五節所にいる者たちが皆恐れおののくのを、ひどく不審に思っていた。

さて、守は「そのようなことはするまい」と理由立てて言い張っていたが、いる限りの殿上人や蔵人が皆肩脱ぎして、例の歌を歌いながらやって来るのを見て、「あの少将君は年は若いが、信用できる人のようなので、本当のことを教えてくれたようだ。あのように教えてくれていなかったら、自分の事ともしらずぼんやりしていたことだろう。何とも親切なお方だ。先年万年お栄えください」と言って、手を摺って祈っていたが、このやって来た君達は一人としてまともな者はなく、酔っ払っていて、肩脱ぎの人たちが簾の内を覗くので、守は、「今に自分も引きずり出されて、老い腰を踏み折られる」と思ったので、慌てて屏風の後ろに這い入り、壁代(カヘシロ・仕切りや目隠し用に壁の代わりに用いた几帳のような垂らし布。)の間で震えていた。子供たちや親族なども皆重なり合って逃げ隠れ震えていた。

そのうち殿上人たちは皆殿上の間に帰って行った。その後も守は、「君達はいるのか、いるのか」と見に行かせ、「一人もいなくなりました」と言うと、やっと守は震えながら這い出てきて、震え声で、「どうしてこの年寄りを笑われるのか。帝王の御為にも、このような無礼を働くのは呆れたことのなのだ。あの方々は、きっとお咎めがあるだろう。お前たち、よく見ていよ。天地日月[ 欠字があるらしい。 「明ら」か? ]かに照らし給う神の御代よりこのかた、このようなことは無い。国史にも絶対に記されていない。ひどい世の中になったものだ」と天を仰いで座り込んでいた。

隣の五節所の人たちが覗き見て、「可笑しいことだ」と思っていたが、後に関白殿(藤原頼通か?)が蔵人所に参って語ったのを次々聞き伝え、やがて貴族や皇族方に広く伝えられ、散々笑われることになってしまった。
その当時は、人が二、三人でもいる所では、この事を語って笑い合った、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

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越前守の悪だくみ(1) ・ 今昔物語 ( 28 - 5 )

2020-01-03 12:31:10 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          越前守の悪だくみ(1) ・ 今昔物語 ( 28 - 5 )

今は昔、
藤原為盛の朝臣(( ?~1029) 最終官位従四位下なので、中級程度の貴族。)という人がいた。
この人が越前守であった時、諸衛(ショエ・・左右の近衛・衛門・兵衛の六衛府をいう。)の役人に支給する大粮米(ダイロウマイ・月々支給される官給米。ここでは越前守の供出分。)を納めなかったので、六衛府の官人はじめその下人までが決起して、平張(ヒラハリ・平らな天井がある天幕。)の道具などを持ち出して、、為盛朝臣の屋敷に押し寄せ、門の前に平張を張って、その下に腰掛けを並べ、全員が居並んで座り、屋敷の者の出入りを止め、納めるよう強硬に要求した。

六月半ばのたいそう暑く日の長い頃なので、夜明け前から未の時(午後二時頃)頃まで座り込んでいたので、押しかけた役人どもは日に照り付けられてどうしようもなかったが、「納めないうちは絶対に帰らない」と思って我慢していたが、屋敷の中から門を少し開けて、年配の侍が首を突き出して言った。
「守殿が申されています。『ぜひとも早く対面させていただきたいが、あまりにも大勢で責められますので、女子供などが恐れていますので、対面して事の子細を申し上げることが出来ません。このように暑い時に、これほど長い時間日に照らされていては、定めし喉が渇かれたことでしょう。また、『物越しに対面して、事の子細も申し上げましょう』と思っておりますので、『そっと食事など差し上げたい』と考えていますがいかがでしょうか。差し支えなければ、まずは、左右近衛府のお役人方・舎人の方からお入りください。その他の方々は、近衛府の方々がお済の後にご案内しましょう。一度にご案内すべきですが、何分むさくるしく狭い所ですので、大勢一度にお入りいただく所がないからです。しばらくお待ちください。まずは、近衛府の方々お入りください」と言うと、役人たちは、日に照らされ大変喉も乾いていたところに、このような申し出があったので、「自分たちの要求を言ってやろう」と思って、喜んで、「とても嬉しい仰せです。すぐに入らせていただき、このように押し掛けてきた理由を申し上げましょう」と答えると、屋敷の侍は、「それでは」と門を開けたので、左右の近衛府の役人・舎人が中に入った。

中門の北の廊に、長莚を西東向かい合わせに、三間ばかり敷かせて、中に机を二、三十ばかり向かい合わせて並べてある。それに載せられている物を見ると、塩辛い干し鯛が切って盛られており、塩引きの鮭の塩辛そうな物が切り盛られており、鰺の塩辛、鯛の醤(ヒシオ・塩漬けのような物)などいろいろな塩辛い物が盛られている。果物では、よく熟して紫色になった李(スモモ)が大きな春日器(カスガノウツワ・春日塗の器。奈良の特産品。)に十ばかりずつ盛ってある。
それらを並べ終えた後、「さあ、まずは近衛府のお役人だけ、こちらにお入りください」と言うと、尾張兼時、下野敦行という舎人をはじめ名の知れた老役人共が群がって入ってきた。
「他の衛府の役人も入ってきては困りますので」と言って、門を閉じて錠をかけ、鍵を持って入ってしまった。

近衛府の役人共が中門の所に並んでいると、屋敷の侍が「早くお上がりください」と言うので、皆上って、左右の近衛府の役人は、東西に向かい合って席に着いた。
そして、「まずは、御杯を急いで差し上げよ」と言ったが、なかなか持って来ないので、役人共は空腹に耐えかねて、急いで箸を取ると、並べられている鮭、鯛、塩辛、醤など塩辛い物を少しずつ食べ始めたが、「杯が遅いぞ遅いぞ」と催促するも、なかなか持って来ない。
守は、「対面してお聞きすべきですが、今は風邪をこじらせていて、すぐには顔を出すことが出来ません。しばらく杯を重ねていただいた後に、まかり出ましょう」と侍に言わせて、出てこようとしない。

やがて、ようやく酒が出てきた。大きな杯の中ほどの窪んだ物を二つそれぞれ折敷(オシキ・四角いお盆。)に載せて、若い侍二人が持ってきて、兼時、敦行が向かい合って座っている前に置いた。次に、大きな提(ヒサゲ・口つきの容器。)に酒をなみなみと入れて持ってきた。兼時、敦行はそれぞれ杯を取り、こぼれるばかりに受けて呑んだが、酒は少し濁っていて酸っぱいような気がしたが、日に照り付けられ喉が乾ききっていたので、ひたすらごくごくと呑んだ。杯を下に置くこともなく、続けさまに三杯呑み干した。

                                      ( 以下(2)に続く )

     ☆   ☆   ☆


     

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越前守の悪だくみ(2) ・ 今昔物語 ( 28 - 5 )

2020-01-03 12:30:08 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          越前守の悪だくみ(2) ・ 今昔物語 ( 28 - 5 )

      ( (1)より続く )

さて、続く舎人共も、皆待ちかねていただけに、二、三杯、あるいは四、五杯と喉の渇きのままに呑み干した。李を肴にして呑むと、さらに杯をしきりに勧めるので皆が四、五度、さらに五、六度と呑んだ。
その後、守は簾の奥から出てきて、「私が強く物惜しみするため、皆様方にこのように責められて、恥をさらすことになるなど思いもよりませんでした。わが任国におきましては、昨年は旱魃(カンバツ)で露ほども租税の徴収ができませんでした。たまたま少しばかり徴収できた物は、まずは尊いお上に責められて、ある限りの物を納めてしまい、何一つ残っておりませんので、わが家の食糧さえ無くなってしまいました。召使いの女童などは空腹を抱えている状態なのに、さらにこのような恥をさらしてしまい、もう自害でもしようかと思っています。
まず皆様方にお食膳にわずかなご飯さえ差し上げられないこともご推察ください。前世の因縁が拙く、長年官職につけず、たまたま疲弊した国の守になるも、このようにつらい目に遭うことになりましたが、人をお恨みすることでもありますまい。これも皆、私が恥を見るべき前世からの報いなのでしょう」と言って、激しく泣いた。

このように、声を限りに弁解を続けるので、兼時・敦行は、「仰せられることは、極めて道理でございます。われら皆ご心中をお察しいたします。しかしながら、これはわれら一人の事ではございません。最近は、衛府の食糧が底をつき、陣に勤務している者ども皆困り果てて、このように押しかけてきたのでございます。これもみな相見互いでございますので、お気の毒とは思いながらも、押しかけて参りましたが、まことに不本意ではあります」などと言っているうちに、二人の腹がしきりに鳴り出した。
盛んにごろごろ鳴るのを、しばらくは笏で机をたたいて紛らわし、あるいは拳を机の片端に突き入れるようにする。(この辺り、誤字もあるらしく分かりにくい。)
守が簾越しに見わたすと、末座にいる者まで皆腹を鳴らし、身体を震わせている。

しばらくすると、兼時が「失礼して座を外させていただきます」と言って、急いで走るように出て行った。兼時が席を立つのを見て、他の舎人共もわれ先に席を立って重なりあって走り板敷に下り、ある者は長押を飛び下りる時にびりびり音を立てて着たまま垂れ流した。ある者は車寄せに駆け込み、着物を脱ぐ間もなく糞をひりかける者もある。またある者は急いで着物を脱ぎ尻をまくり器から水を流すように排便する者があり、あるいは隠れ場所も見つけられずうろうろしながらひり散らす者もいる。
こんな目に遭いながらも互いに笑い合って、「こんなことになろうとは思ってもいなかった。『あの爺さんのことだから、ろくなことはするまい、きっと何か企むことだろう』とは思っていたことだ。何をされても守殿を憎くは思われぬ。われらが酒を欲しがって呑んだのがいけないのだからな」と言い、皆笑いながら腹を下してあたりかまわず糞を垂れ流した。

そして、再び門を開け、「では、皆さん出てください。今度は次々に衛府の役人方にお入りいただきましょう」と言うと、「それは良いことだ。早く次の者たちを入れて、われらと同じように腹を下させてやれ」と言って、袴などいたる所に糞がついているのを拭い去ることも出来ず、われ先に出て行くのを見て、あとの四衛府の役人たちは、笑いながら逃げ去ってしまった。
何ともこれは、この為盛朝臣が謀ったことで、「この炎天下において、平張の下で三時四時(八時間近く)日に照らさせた後に呼び入れて、喉が乾いている時に李や塩辛い魚などを肴として空きっ腹に十分食べさせたうえに、酸っぱい濁り酒に牽牛子(ケニゴシ・朝顔の中国名。漢方薬として下剤に用いられた。)を濃くすり入れて呑ませたなら、そ奴らが腹を下さないわけがあるまい」と思って、企てたものである。
この為盛朝臣は、たいそう奇抜なこと考え出すことに巧みで、人を笑わせる老獪な爺さんだったので、このようなことをしでかしたのである。とんでもない者のもとに押しかけて、舎人共はひどい目に遭ったと、当時の人々は笑い合った。

それ以後はこりたのであろうか、供出米を納めない国司のもとに六衛府の役人共が押しかけて行くようなことなくなった。
為盛朝臣は奇抜な工夫の上手で、役人共が追い返しても引き上げようとしなかったので、このようなおかしな策を考えだしたのである、
となむ語り伝へたるとや。

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落馬の言い訳 ・ 今昔物語 ( 28 - 6 )

2020-01-03 12:29:11 | 今昔物語拾い読み ・ その7

          落馬の言い訳 ・ 今昔物語 ( 28 - 6 )

今は昔、
清原元輔(キヨハラノモトスケ・従五位上。三十六歌仙の一人。清少納言の父でもある。)という歌人がいた。
その人が内蔵助(クラノスケ・中務省の内蔵寮の次官。)になって、賀茂の祭の使者(朝廷から遣わされる奉幣使。)に任命されて、一条大路を通って行ったが、[ 欠字あるが、不詳。]の若い殿上人の車がたくさん立て並べて見物している前を過ぎようとした時、元輔の乗った飾り馬が何かにつまずいて、元輔は頭から真っ逆さまに落ちた。

年老いた者が馬から落ちたので、見物していた公達たちは、気の毒なことだと見ていると、元輔はすばやく起き上った。しかし、冠が脱げ落ちてしまい、あらわになった頭には髻(モトドリ・髪を頭上で束ねたもの。)が露ほどもなく、まるでお盆でも被ったようである。
馬の口取りがあわてふためいて冠を拾って手渡したが、元輔は冠を着けようともせず、後ろ手で制して、「これ、うろたえるな。しばらく待っておれ。公達に申し上げることがある」と言うと、殿上人たちの車のそばに歩み寄った。夕日が差していて、頭がきらきらと輝いていて、見苦しいことこの上なかった。
大路にいる者は市を成して駆け集まり、大騒ぎして見物している。車の者も桟敷にいる者も、背を伸び上がらせて大笑いする。

そうした中を、元輔は公達の車のそばに歩み寄って言った。「公達方は、この元輔が馬から落ちて、冠を落としたのを愚か者と思われるのか。それはお心得違いというものですぞ。そのわけは、思慮深い人であっても、物につまずいて倒れることは普通のことです。いわんや、馬は思慮あるものでもありますまい。それに、この大路には石が多くでこぼこしています。また、手綱を強く引いているので、歩こうと思う方向に歩かせることも出来ず、あちこちと引き回すことになります。されば、心ならずも倒れた馬を『悪い奴だ』と責めることなど出来ません。石につまずいて倒れる馬をどうすることが出来ましょう。唐鞍(カラクラ・唐風の鞍。儀式用の豪華な鞍。)はまるで皿のように平らなのです。何につけうまく載せられるはずがない。馬が激しく躓いたので落ちたのです。何も悪いことではありません。また冠が落ちたのも、冠というものは紐で引っ掛けて結び付けるものではなく、掻き入れた髪でとめるものだが、私の髻はすっかり無くなってしまっている。されば、落ちた冠を恨むわけにもいかない。それも例がないわけではない。[ 意識的な欠字 ]の大臣(オトド)は大嘗会の御禊の日に落とされた。また[ 意識的な欠字 ]の中納言は、ある年の野の行幸において落とされた。[ 意識的な欠字 ]の中将は賀茂祭の二日目に紫野で落とされた。このように、先例は数えきれないほどあるのです。それを、事情をご存じない近頃の若君たちは、これをお笑いになるべきではないのです。お笑いになる公達の方こそ、愚か者というべきでしょう」と。
このように言いながら、車一つ一つに向かって指を折って数え上げ、言いきかせた。
こう言い終ってから、遠くに立ち退き、大路の真ん中に突っ立って、声高く「冠を持って参れ」と命じ、冠を取って髪を掻き入れて被った。
その時、これを見ていた人たちはいっせいに爆笑した。

また、冠を拾って手渡そうと近付いた馬の口取りが、「馬から落ちられた後、すぐに御冠をお被りにならず、どうして長々とつまらないことを仰せになったのですか」と尋ねると、元輔は、「ばかなことを言うな。尊(ミコト・もともとは尊称語であるが、「お前」といった意味でも使われた。)。あのように物の道理を言いきかせてやったからこそ、これから後、あの公達方は笑わないだろう。そうでなければ、口さがない公達はいつまでも笑うことであろう」と言って、行列に加わった。

この元輔は、世慣れた人で、面白いことを言っては人を笑わせてばかりする翁だったので、このように臆面もなく言い訳したのだ、
となむ語り伝へたるとや。

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