『 故郷・故里・古里・ふる里・ふるさと・・、どの書き方をしても、郷愁を誘うような独特の雰囲気を持っています。 』
今年もはや年の瀬となりました。
多くの人がふるさとに向かって移動しています。
それにしても、「ふるさと」というのは良い響きですね。
故郷・故里・古里・ふる里・ふるさと・・、どの書き方をしても、郷愁を誘うような独特の雰囲気を持っています。
ふるさとで、年の瀬や正月を迎える方々は、その幸せをかみしめて欲しいものです。
残念ながら、ふるさとと呼べる所のない人や、今回帰郷が叶わなかった人は、せめて、十分でも二十分でも、父や母のことを考えてみる時間を作って欲しいものです。両親ともに健在の人はもちろんのこと、すでに他界されている人であればなおさらのことです。
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( 「小さな小さな物語」第一部 NO9 2008 . 12 . 29 作成分より抜粋 )
『 これが私の夢の値段です。高いですか? 安いですか? 』
宝くじを買いました。
( 中略 )
しかし、人生には思い通りにならないことが多く、物事には万が一ということがあります。
多分、あり得ないことですが、私の宝くじが1等に当たらないことも起こりうることかもしれません。
そこで、寛大な性格の私は、投下資金の回収方法を考えました。
その結果、1枚あたり300円の回収方法が見つかりました。
宝くじを買った時、お姉さんがにこやかに応対してくれましたので、それが10円として、残りの290円が夢を描く値段です。20日あるとして、1日あたり、14円50銭分夢を描くことができれば、まあ、元は取れるわけです。
これが私の夢の値段です。高いですか? 安いですか?
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( 「小さな小さな物語」第一部NO2 2008.12.8 作成分より )
『 平安王朝の絶頂期の大輪の花・馬内侍の生涯を伝えられることが、余りに少ないのが、重ね重ねも残念である。 』
平安王朝における女性ナンバーワンは誰なのか。
( 中略 )
梨壺の五歌仙とは、赤染衛門・和泉式部・紫式部・伊勢大輔、そして、馬内侍なのである。
いずれも当時一流の歌人であり、教養豊かな女房として宮廷内に知れ渡った人物であり、馬内侍もその中に加わって何の遜色も女房だったはずであるが、なぜか、現代の私たちには、正当な評価がなされていないように思われる。
今回は、この大輪の花といえる女房の生涯の一端を覗いてみる。
( 中略 )
当時の貴族層の姫の結婚適齢期は、十五歳前後と推定されるので、三十五歳というのは全盛を過ぎつつある頃と考えられるが、時代を背負って立つことになる若き藤原道長を惹き付けてやまない容色を保っていたことが窺えると思うのである。
真偽のほどはともかく、馬内侍との恋の噂が伝えられている人物は多く、しかも、その身分の高さに驚く。
名前と最高位を列記してみよう。
藤原朝光 大納言
同 伊尹 摂政・太政大臣
同 道隆 摂政・関白・内大臣
同 道兼 関白・右大臣
同 実方 左近中将・陸奧守
同 道長 摂政・太政大臣
同 公任 和歌の大家。大納言
といった具合である。
( 中略 )
馬内侍は、ほどなく宮中を去っている。
「この世をば我が世とぞ思ふ・・・」とまで歌われた道長の絶頂期の頃である。
その後は出家して、宇治院に住んだと伝えられている。
没年は不詳であるが、寛弘八年( 1011 )の頃とも伝えられている。享年は六十余歳と思われる。
平安王朝の絶頂期の大輪の花・馬内侍の生涯を伝えられることが余りに少ないのが、重ね重ねも残念である。
最後に、馬内侍歌集から一首挙げておきたい。
『 飛ぶ蛍まことの恋にあらねども 光りゆゆしき夕闇の空 』
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( 「運命紀行」大輪の花 より )
『 詰めかけていた大勢の人たちは、沈みきった雰囲気に堪えかねて、要領の良い人から順番に、一人去り、二人去り、家の中はさらに静かになっていきます。 』
いよいよ受領が決定される日ともなりますと、集まってくる人の数はさらに増えて、出されるご馳走を食い散らかし、酒を飲みまくり、まるでお祭りのような騒ぎです。
やがて夜も更けて、騒ぎ疲れた頃になっても、任官を伝える使者が訪れる気配がありません。さすがに、飲み食いに励んでいた人たちも様子のただならぬのを感じてか、「どうもおかしいな」などと、ささやき合い始めます。
外の様子などを耳を澄ませて窺っていますと、先払いの声などが聞こえてきて、上達部(カンダチメ・上級貴族)たちが次々と内裏から退出なさっています。
情報を掴む為に内裏近くに行かせていた下男の姿を見つけても、事の結果を訊ねることも出来ません。
( 中略 )
やがて、詰めかけていた大勢の人たちは、沈みきった雰囲気に堪えかねて、要領の良い人から順番に、一人去り、二人去り、家の中はさらに静かになっていきます。
しかし、永年の恩顧のある人や郎等たちは逃げ出すことも出来ず、「来年国守の交替があるのは、あそこと、あそこと・・」などと指を折っているのです。
「すまじきものは宮仕え」とか申すそうですが、なんとも、はい・・・。
( 「麗しの枕草子物語」 より )
『 実に優雅で、感動的なお話ではございますが、事と次第ではお里の名誉にも関わることであり、やんごとなき方々の学問は、まさに命がけでございますねぇ。』
村上帝の御時でございます。
宣耀殿(センヨウデン)の女御というお方は、小一条の左大臣の御姫でございます。
そのお方が、まだ姫君であられた頃、父君がお教えになられたことは、
「第一に、お習字の稽古をしなさい。次には、琴を上手に弾けるように心がけなさい。その上で、古今集二十巻を全部暗誦することを学問としなさい」
というものでした。
( 中略 )
この女御の教養の高さは、宮中で誰一人知らない者が
いないほどになり、ついに、帝が古今集二十巻すべてを
暗誦しているか試してみようということになる。
この様子を、女御に仕えている女房が、お里の大臣家にお伝えしたものですから、大臣殿はじめ皆さま大変心配なされ、経を唱えさせ、宮中の方角に向かってお祈りし続けたそうなのです。
実に優雅で、感動的なお話ではございますが、事と次第ではお里の名誉にも関わることであり、やんごとなき方々の学問は、まさに命がけでございますねぇ。
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( 「麗しの枕草子物語」より )
『 とうとう、あなたが翁丸贔屓であることが露見してしまいましたね 』
わたしは、御鏡を投げ出すようにして、翁丸に声をかけました。
翁丸は身を伏せて、応えるように激しく啼くのです。
中宮さまも、安心したかのように微笑んでいます。
帝も姿を見せられて、「犬でも、そのような神妙な気持ちを持っているのだなあ」と感心されていました。
わたしは、「はやく傷の手当てをさせなくては」などと翁丸の世話を始めますと、
「とうとう、あなたが翁丸贔屓であることが露見してしまいましたね」
と、女房たちが笑うのです。
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( 「麗しの枕草子物語」より )
『 それほどの人物であってもなお、冒頭に挙げた和歌にあるように、「夢の中で夢をみているようだ」と詠んでいるのを思えば、生きることの難しさをつくづく感じさせられてしまう。 』
『 旅の世に また旅寝して 草枕 夢のうちにも 夢をみるかな 』
これは、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、大僧正までも昇り詰めた僧・慈円の和歌で、「千載和歌集」に採録されているものある。
( 中略 )
このように、ごく断片的な資料を求めただけでも、慈円という人物が、単なる歌人であるとか、単なる僧侶であるとかという観点からでは、その偉大さを知ることができないことがわかる。
しかし、同時に、それほどの人物であってもなお、冒頭に挙げた和歌にあるように、「夢の中で夢をみているようだ」と詠んでいるのを思えば、生きることの難しさをつくづく感じさせられてしまう。
( 運命紀行「夢のうちにありながら」 より )
『 歴史の表舞台に立つことはなくとも、むしろそれゆえに、穏やかな生涯を送ってくれたものと願うばかりである。』
平安時代の才女を二人挙げるとすれば、清少納言と紫式部を挙げる人が多いのではないだろうか。
もちろん、王朝文学全盛の時代なので、好みや選考の視点によって候補となる人物は少なくないとも考えられる。しかし、やはり現代に伝えられている「枕草子」と「源氏物語」の著名度は圧倒的といえる。
さらに、清少納言と紫式部が対立関係にあったらしいといった話もあって、その興味からも、二人の存在が際立っている。
( 中略 )
そして、この二人の才女の娘たちであるが、紫式部の娘は、母の後を継ぎ彰子の女房として出仕している。母と違って、社交的な女性であったらしく、多くの浮名を残したようであり、歌人としても優れ、その和歌は小倉百人一首にも採用され今に伝えられている。さらに、万寿二年( 1025 )には、のちの後冷泉天皇の誕生とともにその乳母に任ぜられ、即位後従三位が与えられている。大弐三位という女房名は、夫の官職名とともに付けられたものと思われるが、従三位といえば男性なら公卿と呼ばれる身分なのである。
一方の清少納言の娘である小馬命婦も、彰子に仕えている。清少納言をよく知っている道長がその代わりのように出仕を求めたのか、あるいは、清少納言が宮中に出向いて娘の出仕を願い出たものかもしれない。
ただ、その後の小馬命婦の消息は、残念ながら全く探ることができない。歴史の表舞台に立つことはなくとも、むしろそれゆえに穏やかな生涯を送ってくれたものと願うばかりである。
勅撰和歌集に伝えられている小馬命婦の和歌は、「後拾遺和歌集」に載る一首のみである。
「 その色の草とも見えず枯れにしを いかに言ひてか今日はかくべき 」
( 「運命紀行」 才女の娘 より)
『 その頼通が、欠けることのない絶頂期を続けている中で、その先に見据えているものがあったとすれば、それは何であったのだろう。』
「 この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば 」
よく知られたこの歌は、道長が詠んだものとされる。権力の絶頂期にあることを見事にまで表した和歌とはいえようが、いかにも傲慢で無神経な感がある。
この和歌が詠まれたのは、道長が頼通に摂政を譲った翌年のことで、三女が後一条天皇の中宮に上ったことを祝う道長邸での宴席で、即興に詠んだものと伝えられている。ただ、道長が書き残した「御堂関白記」にはこの和歌の記載はなく、祝宴に加わっていた藤原実資が書き残した「小右記」に記載されていることから後世に伝わったのである。
藤原実資は、従一位右大臣にまで上った貴族であるが、道長に対して批判的な人物だったようなので、この和歌を書き残したことに若干の悪意が感じられる。まったく個人的な意見であるが。
あるいは、道長が書き残していないのは、さすがに少々調子に乗り過ぎたと考えたためかもしれない。
いずれにしても、当時道長が「欠けたるものがない」ほどの絶頂期にあったことは、決して過大な表現でなかったのである。
そして、その頃にはすでに摂政・内大臣になっていた頼通は、翌年関白に上り、以後五十年その地位を続けている。
月は満ちれば欠けるのが自然の摂理というものであるが、頼通は御堂関白家の絶頂期を保ったまま生涯のほぼすべてを貫き通しているのである。
その頼通が、欠けることのない絶頂期を続けている中で、その先に見据えているものがあったとすれば、それは何であったのだろう。
( 「運命紀行」 上り詰めた先 より )
『 人の生涯の幸せというものは、そうそう安易に甲乙を付けられるものではない。』
道長は、多くの子供に恵まれたが、女性でいえば、宮中での栄達ということからすれば、彰子が第一番だということに異論がないであろう。
平安王朝文化の絶頂期ともいえる一条天皇に入内し、後一条天皇、後朱雀天皇の二人の天皇の生母となり、自らも、上東門院という女院の地位を得るなど、およそ女性として望めるすべての地位を引き寄せて、八十七歳の長寿を全うしているのである。
しかし、人の生涯の幸せというものは、そうそう安易に甲乙を付けられるものではない。最上の位を得たからといって、道長の娘の中で彰子が最も幸せであったというのは、短絡に過ぎるかもしれない。
そう考えてみると、一人の女性が浮かび上がってくる。
それが、道長の五女として生れた尊子である。
( 「運命紀行」 道長の娘 より )