小さな小さな物語 第二十五部
NO.1441 から NO.1500 まで収録しています
小さな小さな物語 目次
NO.1441 学ぶことはある
1442 彼が見ている世界
1443 コストもさまざま
1444 歴史的イベント
1445 成功の基準
1446 聖火台に火が灯りました
1447 懸命に生きる
1448 本音と建前
1449 「時間」を俯瞰する
1450 夢の舞台
1451 疑似戦争
1452 価値観の幅
1453 騏驎も老いては駑馬に劣る
1454 五十年に一度
1455 崩れるのは早い
1456 彼らが見た景色
1457 どん底と向き合う
1458 この声よ届け
1459 ここからが本番
1460 一寸先は闇
新型コロナウイルスによる感染症の拡大は、少なくともわが国においては、新しい段階を迎えた感があります。
わが国での感染拡大が懸念されるようになり、唐突にも思えるような学校閉鎖に始まり、ある手段は早すぎたり、ある対策は遅すぎたり、試行錯誤の連続といえる状況で一年半が過ぎてしまいました。ただ、それを政府のせいとか、専門家の判断に問題があったとか、いやいや一番の原因は私たちの行動規範に問題があったからだとか・・・、といったさまざまな意見が渦巻き、ごくごくたまには反省の声もあるにはあります。
しかし、これは、わが国に限ったことではなく、世界各地のほとんどで、未知のウイルスに対する対策の難しさを露呈してしまった感がありますので、私たちの能力の限界なのかもしれません。
ただ、そうした経験を積みながら、ワクチンの接種も大分進んできていることもあって、何とはなく安心感が広がっているように思われます。首都圏や関西圏などに見られるように、「緊急事態宣言だ」「蔓延防止等重点措置だ」と繰り返しているうちに、その有効性が薄れてきて、一部の人たちに厳しい束縛を与える以上の効果が見られないようになってきているように思われます。
しかも、ここに来て、大都市圏を中心に再び拡大傾向が明らかになってきました。東京には四回目の「緊急事態宣言」再発令されることになり、新しい段階を迎えたと考えるべきなのでしょう。
そして、この一年半ほどの間に、幾つかのことを学ぶことが出来たように思うのです。
思いつくままに幾つかを列挙しますと、
「わが国の医療体制は、私たちが漠然と認識していたほど強固なものではなかったこと」
「ワクチン開発に関しては後進国であったこと」
「ワクチンなどお金さえ積めば容易に輸入できると考えていた節があったこと」
「支援金などを配布する能力が、極めて脆弱なこと」
「入手したワクチンを適切に配布する体制さえ満足に組めないこと」
「自粛が守られる国だという自惚れが強すぎたこと」
「オリンピックに対する価値観が、世代等により差があること」
等々・・・。
ただ、素人が岡目八目的に問題点を指摘したところで、何の意味もありません。当然、いつかの時点で、これらの問題点の内の幾つか、あるいはこれ以外の問題点について、率直に総括し体制の整備をしてくれることでしょう。私たちの社会には、それだけの知恵と謙虚さがあるはずです。
そして、今回何よりも思い知らされたことは、ウイルスごときの物で、私たちの社会はここまでズタズタにされるということでした。これまで私は、例えば先端医療や、原子力開発なので、人間が神の領域に手を差し入れたのではないかと考えることが度々あったのですが、どうやら、それは杞憂というものでした。
ウイルスに振り回される私たちは、間違いなく神の領域とは遙かに及ばない辺りで彷徨っていることを思い知らされるになりました。
( 2021.07.09 )
わが家には、ネコが一匹おります。
今年の一月、ちょっとした事情もあって、ボランティアさんの申し出を受けて地域ネコとして世話されていたこのネコ君をわが家で飼わせていただくことになりました。
当市では、イヌやネコの殺処分0を目指していて、その一環として、ノラネコについては捕らえて避妊手術をした上で放して、地域で見守っていこうという方法を行っています。費用の一部は募金や公的援助もあるようですが、朝夕にはボランティアの方々が自費で餌やりをされています。
わが家へ来たネコは、年令が四、五歳くらいだと思われるのですが、昨年辺りからわが家の庭に度々顔を出し、早朝には餌を与えたりしていました。ところが、いつの間にか姿を消してしまいましたが、どうやら、他のノラネコに追いやられて、少し離れた地域でボランティアの方から餌をもらっていたようです。ただ、どうもそこでも追われがちで、再び、時々わが家に顔を見せるようになりましたが、それは、うまく餌をもらえなかったためのようです。
そうしたこともあって、ボランティアの方からの依頼をうけて、わが家で飼わせていただくことになったのです。
そう決まってから、何日かかけて、テラスから家の中に誘い込んだのですが、戸を閉めて締め込んだところ、大暴れした上、台所の隅の物陰で固まったようになり、触りに行くと牙をむくだけで、まったく出て来ようとはしませんでした。それでも、家人とは顔なじみだと思っていたらしく、数時間後には頭だけ覗かせて、餌を食べてくれました。あれから五ヶ月、大人のノラネコ君はなかなかなつかないとされていますが、お陰様ですっかり家族の一員となりました。私には触らせようとしませんが、餌を求めたり、窓のカーテンを開けて欲しいときは大きな声で鳴いて主張しますし、素足でうっかりしているとひっかきに来ます。寝床を何か所か用意していますが、それ以外にも、至る所に自分専用の場所を確保しています。
家族内での順位付けも決まってきているようで、私が、ネコ君より遙かに下位であることだけは確かなようです。ネコ君から見ても、家人たちから見てもです。
私たちと生活を共にする動物としては、イヌとネコが圧倒的に多いようです。わが国でもイヌ派とネコ派が二分されているようです。
人間と生活を共にするようになったのは、イヌの方が早かったのは、狩猟を主体とした生活にはイヌは必要でも、ネコはむしろ競合相手という立場であったからだそうです。やがて、人間が農耕という手段を知り、穀物の保管が必要になると、ネズミの天敵ともいえるネコが重宝されるようになったのでしょう。
ネコと人間が共に生活するようになったのは、イヌより相当新しいとはいえ、9千5百年前のキプロス島の墓で、それらしい痕跡が残されているそうです。ただ、私たちが親しんでいる現在のネコの祖先にあたるかどうかははっきりしないようです。紀元前3000年頃の古代エジプトでは貴族層に愛玩されていたらしく、紀元前1600年頃の壁画にはネコの姿が描かれています。
わが国には、平安時代の頃に、経典をネズミから守るために大陸から連れてきたとされますが、最近ではもっと早くにわが国に登場していたとされ、紀元前2世紀の弥生時代には私たちの近くで元気な姿を見せていたともいわれています。
私は、わが家のネコ君の世話はほとんどしないのですが、ネコ君と二人で留守番をすることが時々あります。短い時間だと彼はほとんど寝ていますが、半日ともなれば、お腹も空くようですし、退屈もするするのでしょう。そうした時、窓辺から庭をじっと見つめていることがあります。それも相当長い時間です。雀や蝶の姿を追っていることもありますが、私には理解できない一点をじっと見つめているのです。
どうもそれは、庭に限らず、天井や、もしかすると遙か彼方の何かを、見つめているのか、見守っているのか、捜しているのか・・・、いずれかだとしても、私などでは想像も及ばない何かが、見えているような気がしてならないのです。
彼は、一体、何を見ているのでしょうか。
( 2021.07.12 )
難航していた最低賃金の引き上げ額が『28円』で決着したという報道がありました。
蛇足かもしれませんが、最低賃金とは雇い主が働き手に最低限支払う時給換算の賃金額を指します。
厚生労働省の中央最低賃金審議会で決定された全国の加重平均の目安『28円』を基に、各都道府県ごとの審議会によって実際の額が決定されるそうですから、具体的に決着するまでには今少し時間がかかるようです。
現在の最低賃金額は、一番高い東京で「1013円」一番低い県では「792円」とかなりの差があります。物価や経済活動の動向などからランク分けされ、さらに都道府県別に検討がなされて決定していくようです。
最低賃金の決定にあたっては、原則として、経営者と労働者と有識者の三者の議論を経て決定されることになっています。原則としてというのは、今回の場合も、政権の強い意向、コロナという経験したことのないダメージ、などは三者の議論に大きなプレッシャーになったのではないでしょうか。
三者の内の有識者という方々は、あらゆる局面に登場してきますが、本当に、他の二者のどちらにも偏らない方々なのでしょうか。
それはともかく、さまざまな意見がぶつかり合うとしても、最大の対立が経営者側としての立場と労働者側としての立場ではないでしょうか。
協議の中で、「このような厳しい経済状況の中で、大幅な人権費の増大には堪えられない」「非正規労働者が増えていることからも、最低賃金の引き上げは生活を守るために絶対必要だ」といった対立があることは、想像に難くありません。つまり、経営者にとって賃金は「コスト」であり、最低賃金の影響を直接的に受ける労働者にとっては「生活そのもの」なのではないでしょうか。
先日、「発電コスト」に関する情報が報じられていました。発電手法ごとのコスト計算がなされていて、これまで発電コストが最も安いとされてきた「原子力発電」が「太陽光発電」にその地位を譲ったということが大きな見出しになっていました。
「原子力発電」のコストが増加した原因は、福島の原発事故を受けて、安全対策費が大幅に増加したことにありますが、想定外であったかどうかはともかく、安全対策に関して私たちが無知だったことでしかありません。同様に、「太陽光発電」のコストに関しても、現時点で容易に想定できる要因さえ加味していないのは、なにか意図的なものさえ感じてしまいます。
同様なこととして、このところ混乱の限りを尽くしてきたオリンピックに関するさまざまなコスト計算や経済効果とやらも、その多くに恣意的なものを感じることがあります。
何かを為すためには、何らかのコストがかかるのは当然のことです。何も経済に関する事に限ったことではありません。しかし、そこには、互いに容認し合えるような正当性と信頼性が裏付けされる必要があるように思うのです。
企業経営において、コストをいかに低く抑えるかということは重要な課題であることを否定するつもりはありません。しかし、人件費を単なる経費の一つとしか認識できない人が経営者として大手を振っていることがあることに嫌悪を感じます。苦境の企業を再建させる手段の第一が、人員整理を含む人件費削減だと豪語した経営者がいました。しかも、名経営者と評されることさえある人物でした。
少し話がそれたかもしれませんが、最低賃金の結果を直接的に影響を受ける人の多くは、ギリギリの生活を強いられている人です。公務員や大企業の正社員の方々にとっては、直接的な影響はほとんどありますまい。報道機関の正社員の方々もおそらく直接的な影響はないでしょう。
しかし、最低賃金さえ満足に受け取れない環境で必死に働いて、生活保護費にも及ばない収入で生活している方々も決して少ないという報道を見たことがあります。
「最低賃金」という問題を、重要な社会問題として、もっともっと日の目を見ることが出来るようになることを願っています。
( 2021.07.15 )
もしかすると、私たちは今、『歴史的イベント』に立ち合おうとしているのかもしれません。
私たちの社会や、世界を巻き込んだ大きな社会も、さまざまな慣例や秩序は常に変化し、良い方向であれ悪い方向であれ、徐々に変化していくものです。変化しないものは廃れ、変化に耐えられるものだけてが生き残っていくのではないでしょうか。
その「もの」とは、世界全体を動かしている政治権力や、経済力や、生活習慣や、流通や、軍事力などといった大きなものもあれば、もっと狭い分野のものもあるでしょう。
そして、それらの変化は、多くの場合は少しずつ変化していきますが、時には、何かの切っ掛けによって、劇的な変化を見せることがあるものです。
『オリンピック』というイベントも、その「もの」の一つといえます。
単なるスポーツのイベントに過ぎないとはいえ、オリンピックやサッカーのワールドカップとなれば、スポーツの世界を超えた大イベントとなっていますし、メジャーリーグやテニスやゴルフなどでも大きな大会は、多くの国々にスポーツ以上の現象を与えることは、私たちも経験していることではないでしょうか。
一年延期という異例の対応を経た「東京 2020 オリンピック」は、いよいよ開幕まであと5日となりました。
新型コロナウイルスによる感染症に苦しめ続けられている当大会は、開幕直前の今日に至っても「大会中止」を声だかに主張する人もいますし、観客や関係者への対応も、まだ固まっていないような気さえします。
これまでにも、中止に追い込まれたり、ボイコットにより歪められた大会や、大会中のトラブルも経験してきています。しかし、この東京大会ほど、開会直前まで各界や国民の意見が対立した大会は無かったのではないでしょうか。そして、その混乱の中で、わが国内だけで見ても、国民間の意見対立、平和の祭典という言葉の虚しさ、アスリートファーストという言葉が便利に使われてしまっていること、大会の真の目的は「お金と政治」ではなかったのかとの疑問、等々が浮上してきています。
しかし、紆余曲折を経た上の大会であるゆえに、私たちは、多くの国からお迎えする選手や関係者の方々に、可能な限りの『おもてなし』を尽くすべきなのは当然の礼儀ではないでしょうか。
そして、その上で、今大会を曲がりなりにも無事終了させることが出来れば、世界中に何かを発進することが出来るような気がするのです。
その中には、おそらく、「オリンピック精神というものの原点とは何であったのか」「オリンピックは今やスポーツの祭典というより興業面の方が色濃いのではないか」「オリンピックがアスリートファーストを強調すればするほど嘘くさくなっているのではないか」「これほどお金のかかる大会など、世界中で開催できる都市を持っている国など限られているのではないか」などということが、わが国だけでなく、多くの国々で問題提起されるのでないでしょうか。
今回のオリンピック大会は、クーベルタン以来最大の変化をもたらすべき使命を担った、『歴史的イベント』になるのではないでしょうか。その大イベントに私たちは立ち合うことになるのです。
その責務を果たすためにも、ここまで来たからには、小異を捨てて、大会の成功のために、懸命の拍手を送りましょうよ。
( 2021.07.18 )
「成功」という言葉を辞書で調べてみますと、「①目的を達成すること。 ②転じて、地位や富を得ること。 ③事業を成就した功績。」とありました。
因みに、「失敗」という言葉も調べてみました。そこには、「やってみたが、うまくいかないこと。しそこなうこと。やりそこない。しくじり。」とあります。
成功と失敗は、対の言葉として取り扱われる言葉でしょうが、一直線上に存在している言葉だということも出来るように思われます。つまり、例えば一つの事業を行う場合、その線上には成功も失敗も存在しているという意味ですが。
ただ、時々思うことですが、その線上には、「成功」と「失敗」という断定的な結果しか存在していないものなのでしょうか。
道中の努力だとか偶然だとか支援とか障害といった事象は別にして、最終結果だけを考えた場合ですが、一線上の両端に「成功」と「失敗」が存在しているとした場合、その間には、さまざまな最終結果がぎっしりと詰まっているのではないでしょうか。「ほとんど成功または失敗」「どちらかといえば成功または失敗」などといった最終結果が数限りなくちりばめられているのではないでしょうか。特に、私たちの日常生活における案件においては、ほとんどのことは、どこかで決着させていて、成功だ失敗だと意識することは少ないように思われます。
「失敗は成功のもと」という言葉があります。ことわざとして著名ですし、なかなか味わいのある言葉ではあります。しかし、言葉を斜めから見るくせのある私には、「成功のもとになる失敗は、それはそれで『小さな小さな成功』の一つ」のように見えるのです。むしろ、「成功こそ失敗への危険を知らせるシグナル」と言いたくなってしまうのです。
私たちの日常生活は、思い通りにならないことの連続です。失敗ばかりの連続で、もしかすると自分の人生そのものも失敗ではないかと、弱気になる時もあることは否定できません。確かに、取り返しがつかない失敗というものはあるのでしょう。何もかも失ってしまう失敗もあるのかもしれません。
ただ、何とか日常生活を送っている人の多くは、「成功」の恩恵を数多く受けているのではないでしょうか。それらの多くは『小さな小さな成功』で、自分では失敗だと考えている多くが、実は、傷を受けながらもわずかな恩恵も受けていることがあるように思うのです。
難しいことだとは思うのですが、日常生活においては、虫眼鏡が必要なほどの『小さな小さな成功』に感謝することが、心を豊かにしてくれるのかもしれないと思うのです。
いよいよ東京オリンピックが開会します。
その直前の本日現在でも、不愉快な話題が報じられています。新型コロナウイルス対策についても、選手や関係者の陽性が幾つか伝えられています。
開催に関して、その直前までこれほど意見対立が報じられた大会は、これまで無かったのではないでしょうか。それどころか、今日現在でも開催反対の声が報じられたり、状況によっては開催途中での中止も考えるべきだ、と言う声もあります。
しかし、ここまで来たからには、何としても大会の成功を祈りたいものです。
前回の当コラムでも述べましたが、今回の大会は、オリンピックのあり方に一石を投じる「歴史的イベント」になる可能性を感じていますので、成功させた上で今後の世界世論に委ねたいと思うのです。
そして、この段階で興味深いことは、何を持って「成功」とするかということです。上述しておりますように、成功といっても、それにはさまざまな段階があり、評価する人の基準によって、成功から失敗への一直線上を大きく動きます。
さて、あなたの東京オリンピックの『成功の基準』は、どの辺りに引かれているのでしょうか。
( 2021.07.21 )
今、聖火台に火が灯りました。
あかあかと燃え上がる炎は、一年遅れの東京2020オリンピック競技大会の開催を、しっかりと見守るように特別の感慨を表現しているかのように見えました。
無観客という、史上初の試みは、これからのオリンピック運営に何らかの提起をするものになるのでしょうか。コロナウイルスの感染拡大がむしろ深刻さを増しているともいえる東京における開催は、コロナ禍を乗り越えての勇気ある開催と讃えられるのか、無謀な強行と非難されるのか、微妙な状況にあるのかもしれませんが、二百を超える国や地域が参加してくれている入場行進を見ていると、やはり、オリンピックの持つ不思議な魅力を否定することも出来ません。
それにしても今回のオリンピックの開催ほど、トラブルに見舞われた大会は他にあったのでしょうか。これまでにも、中止に追い込まれた大会があり、ボイコットにより多くの国が不参加の中での大会もありました。テロという悲劇もありました。
しかし今回の大会は、感染症の大流行という予想も出来なかったことが主因とはいえ、わが国に起因するトラブルがこれでもかと言うほど続出しました。わが国のマネジメント力の低さが露呈した観があり、とても国際大会を主催する能力など有していないのではないかと、自信が揺らぐほどでした。
せめて、この大会で浮上した問題点が、今後の私たちにとってプラスに働いてくれることを期待したいと思います。
この大会の経験は、わが国のみならず、多くの国のそれもスポーツ分野に限らず、いくつかの検討テーマを提供するのではないでしょうか。
例えば、私個人が注目している観点は、①オリンピックが、あまりにも興行的になりすぎていないか。 ②一部の大スポンサーの意向で、開催日時や日程などが影響を受け過ぎていないか。③大会費用が巨大となり、世界中で開催可能な都市が限られてくるのではないか。 ④「アスリートファースト」という言葉をよく耳にしましたが、この言葉がまるで免罪符のように使われていないのか、この言葉の裏にうさんくさいものを感じることが再三あったのは、私だけだったのでしょうか。 ④これはわが国だけなのでしょうが、「組織委員会」の弱さが浮かび上がってしまったように思われます。寄せ集めということもあるのでしょうが、組織としては、あまりにも責任体制が曖昧のように思われます。もっとも、これは、組織委員会に限ったことはないと言われますと、その通りですが・・・。 等々、ぜひ多角的な検討が為されることを期待しています。
このコラムは、開会式の放送を見ながら書いております。
一部の競技は、すでに始まっていますが、明日から本格的に競技が始まります。コロナ禍という厳しい環境を乗り越えてやって来てくれた多くの国や地域の方々、生活すべきその国家や地域さえ奪われた選手の参加もあると聞いています。
テレビを通じて、「ニッポンガンバレ」も結構ですし、「金メダルの数を競う」のも良いでしょう。しかし、この大会だけは、この厳しい環境の中を参加してくれたすべての選手に、好プレーには拍手し、思う通りの結果を残せなかった人には、共に涙を流すほどの応援をしようではありませんか。
苦しみ抜いた大会だけに、テレビ観戦する私たちも、これまでとは違うオリンピックの楽しみ方を見つけ出しましょうよ。
( 2021.07.24 )
少々オーバーな表現かもしれませんが、「懸命に生きる」といったことを考えさせていただきました。
このコラムは、オリンピック第四日目の競技が行われている時点で書いております。当然のことながら、まだ始まっている競技は限られていますが、それでも、テレビの映像を通じて伝えられる競技の内容や、さまざまなお国の事情や、各選手のエピソードなどは、オリンピック出場に至るまでの生き様や、凄まじいまでの精進努力などに心が打たれます。
オリンピック出場のために、まさに人生を懸け、命さえ懸けて努力してきた人々の集いは、私たちに熱い何かを伝えてくれているようです。
そしてそれは、十三歳で金メダルを手にした少女であっても、国内代表から外れて自国に強制的に返された人であっても、さらに言えば、それぞれの国での代表選手選考を勝ち抜けなかった人たちも含めて、多くのドラマを演出し、その経験は、悲喜こもごもといえども、それぞれの人の人生における重要な一コマを描いているのではないでしょうか。
そう考えた場合、果たして自分には、「懸命」という程の意気地で事にあたったことがあったのだろうかと、忸怩たる思いに襲われます。その「懸命」というのは、「一生懸命頑張ります」といったものではなく、文字通り「命を懸けて」という状況を指しているとした場合のことですが。
かつて、もうずいぶん前のことになってしまいましたが、ある先輩から、シベリア抑留生活の経験談を聞く機会がありました。
そのお方は、下士官として捕虜となりシベリアに抑留されましたが、将校は兵隊たちとは切り離されたため、一つの隊の隊長役にされたそうです。隊長役というのは、毎日毎日続く労役の管理役で、ノルマが果たされない場合は、隊長が処罰を受けることになるのです。
ある時、処罰を受けて独房に入れられたことがありました。極寒のシベリアの火の気が全くない土蔵のような独房は、罰として夕食が与えられなかった者にとっては、眠ることは死を意味するに近いことだそうです。飢えと寒さを耐え抜くために、そのお方は歩き続けたそうです。やがて意識が薄れてきて、生きているとか命とかといった感情は消え去って、部屋の中をあと一周あと一周とつぶやきながら歩き続けました。その時、明かり取りの小さな窓から何かが投げ込まれました。わずかな明かりを頼りに投げ込まれた者を拾い上げてみると、石のように固い半分の黒パンだったそうです。誰かが、乏しい夕食から、自分の命を削るようにして投げ込んでくれた黒パンだったのです。
その黒パンを口にしたとき、「何が何でも生きて祖国に帰ろう」と思ったそうです。そして、仲間を一人として死なせることなく帰るんだと思ったそうです。
「残念ながら、多くの人を死なせてしまったが・・・」と、相当の社会的な地位を得ていたそのお方は、涙を見せられました。
「一生懸命」という言葉があります。
考え方によって、この言葉はなかなか難しい色合いを秘めているように思います。文字通りに意味を探りますと、「一生の間、命を懸ける」といった意味になると思うのですが、日常において私たちが使う場合は、「真剣に頑張ります。もう少し真面目にやります。」といった場合が多く、比較的軽く使う場合が多いように感じられます。
この言葉は、「一所懸命」から転じたものです。「一所懸命」の方は、武家などが自分の領地を命を懸けて守る、といった意味で、鎌倉時代初期には文献に登場している言葉なのです。その後、時代が下ると共に「自分の領地を守る」といった意味が薄れ、「懸命」部分だけの意味となり、それも「命を懸ける」というほどの重さは薄れてきているように感じるのです。そして、その変化と共に、「一所」が「一生」への変化が見られたのですが、この部分の意味はほとんど薄れていると思われます。
現在、「一所懸命」と「一生懸命」は同じ意味の言葉として扱われていますが、教科書などでは「一生懸命」が使われているようです。
少々理屈っぽくなりましたが、考えようによっては、「一生」はともかく、「命を懸ける」という部分は、私たちは実行しているのかもしれない、と思うのです。
私たちは、誰もが限られた命を頂いて生きています。その長短に少々の差はあるとしても有限である点はまったく平等です。
私たちは、何事かを為すにあたっては、それに要する時間分だけ「命を懸けている」のです。まさしく、命そのものを懸けて物事にあたっているのです。
別に肩肘を張る必要などないでしょうが、事に当たるにあたっては、それがいくら些細な事であっても、そうしたことに思いを寄せたいと思っています。
( 2021.07.27 )
「本音と建前」。
この言葉、あまり良い意味で使われることは少ないようですが、耳にすることは多く、その現象を目にすることは多すぎるほどあるように思われます。
例えば、と言って例示すること自体が無駄なような気がしますが、あえて挙げさせていただくとすれば、公職のしかるべき立場にある人の会見やコメントのほとんどは、建前であって本音とは、大きくか小さくかはともかく、乖離している部分があることは確かでしょう。
しかし、私たちも、少し公式な場面で意見を述べるときのことを考えますと、さて、すべて本音を述べているのでしょうか。やはり、少しばかり装飾があり、少しばかり背伸びをしていて、自分のことをそれほど良い人と思ってもらおうとまでは考えないとしても、まるで我利我利亡者のようだとまでは思われたくないという気持ちが、ほんの少しだとしても、本音部分に加味されているのではないでしょうか。
実は、こうした考えが働く背景には、「本音と建前」と二つの言葉を対にした場合、どうも私たちには、「建前=嘘、あるいは悪」といった先入観が植え付けられているからではないでしょうか。
そこで、もともとの意味はどういうものであったのかを考えてみました。
「本音」を辞書で調べてみますと、「①まことの音色( ネイロ )。 ②本心から出たことば。たてまえを取り除いた本当の気持。」とありました。この辞書の説明はなかなか微妙で、①はともかく②の説明では、本音は本心からのもので、たてまえが加わると、本音つまり本心を歪めてしまっている、と説明されているような気がします。
一方、「建前」の方は、「『立前・建前』の両方が掲示されていて、①振売りや大道商人が、物を売る時の口上。売り声。 ②表向きの方針。」とあります。また、「建前」の別項には、「むねあげ。上棟式。」と説明されていますが、「本音と建前」の建前はこれではないようです。おそらく、①は「立前」にあたり、転じて②の意味が強まるにつけて、「羊頭狗肉」とまでは言わないとしても、物売りの調子の良すぎる説明を薄める意味で「建前」という文字に転じてきたのではないかと思うのです。まったく個人的な勝手な解釈ですが。
わが国は、目下オリンピック開催中です。わが国選手の大活躍が目立ちますが、一方で新型コロナウイルス感染者の急拡大という難題が重さを増しています。
各界の、さまざまな方々がさまざまな意見述べられています。官邸や各首長などからの指示や要請も出されています。
それらのすべてに、おそらく「本音と建前」というものが複雑な形でちりばめられているのでしょう。
しかし、私たちが誤ってはならないことは、「建前」には、制度や方針などからくる制約から、好き勝手を述べるわけにはいかないということも厳然たる事実なのです。一概に「建前だろう」と軽視してしまうことは社会秩序を混乱させる懸念を秘めています。
「本音と建前」という命題は、なかなか厄介な性格を持っていますが、結局の所、送り手と受け手との信頼関係の軽重によって揺れ動く部分が大きいように思われるのです。
( 2021.07.30 )