雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

女院の誕生 ・ 望月の宴 ( 41 )

2024-03-13 20:27:14 | 望月の宴 ②

        『 女院の誕生 ・ 望月の宴 ( 41 ) 』


ただ今世の中の一大事は、后宮(キサキノミヤ・詮子。一条天皇の生母。)がご不例でいらっしゃることである。
世の人々が目下の大事と憂慮しているうちに、前々からの御物の怪の様子がいつもと同じである。后宮の御様子は予断を許さない状態でもあり、帝も行幸などなさいまして、あれこれと思い惑われていらっしゃる。
ともすれば、夜昼分かたず、御物の怪に取り込まれ取り潰されそうになられるので、「今は何としても尼になりたい」と仰せになられるのを、殿方たちは、今しばらくは思い止まっていただくように思い申し上げたが、とても絶えられそうもない状態なので、この上は、ともかくも御無事でいて下さることが大切だと思われるようになり、后宮は尼になられた。

嘆かわしく大変なことではあるが、后宮の御平癒が大切とお考えになられたのであろう。
こうして、この世でなし得る限りの事を尽くされ、また、このように尼になられたからであろうか、御悩みも快方に向かわれた。
石山寺には、毎年、存命の限りは参詣なさり、長谷寺や住吉社などもみな参詣なさるとの御願の数はたいそうなものであるが、そのお陰もあってか御平癒なさった。
帝におかれても、うれしい御事であるなどと申し上げるも愚かなことである。

后宮は御年も三十歳くらいでいらっしゃいますので、ご出家なさるにはいかにも若々しく、嘆かわしく残念な御事であるが、譲位なさった帝になぞらえて、女院と申し上げる。これにより、毎年、年間年爵(ツカサコウブリ・経済面での恩恵)をお受けになるはずである。
賀茂祭に使いを発遣することもなくなり、衛士が詰める陣屋もなくなり、まことに気楽になられたが、むしろ結構なご身分である。
女院の判官代(女院に置かれた役人で、主に六位の者が選ばれた。)には、容姿の醜くない者をよく選んで任命なさった。

 
詮子さまは女院号をお受けになり、その居宅の東三条邸に因んで東三条院を称されましたが、この御方がわが国における最初の女院なのでございます。
円融天皇は崩御なされ、皇太后宮職も離れられましたが、何と申しまして、今上天皇(一条天皇)のご生母でございますから、内裏におかれましても、公卿方におかれましても、とても軽くお扱いなど出来る御方ではないのでございます。
東三条院詮子さまは、道隆殿・道兼殿・道長殿のお三方並びに冷泉天皇女御超子さまと同母の御兄弟で、このご一族の繁栄に大きな貢献を果たされているのでございます。
そして、何よりも重要なことでございますのは、詮子さまは、道長殿をたいそう可愛がられていて、道長殿の御立身に大きな力となったお方なのでございます。

さて、出家なさり、女院となられました詮子さまは、その年のうちに、長谷寺に参詣なさいました。
その御供は、上達部(カンダチメ・上級貴族)・殿上人が従い、年若いひときわ秀でた人たちは狩衣姿で、年配の殿方は直衣姿で御供されています。さらに、摂政殿(道隆)も御車で御供なさっているのでございます。
女院は唐の御車(カラノオンクルマ・太上天皇、皇后、東宮、摂関など極めて高貴な方々に限られた乗り物。)をお召しでございます。
そして、女房方が乗っている車の前に尼の乗った車を立てていらっしゃる。たいそうな行列でございます。

長らく女院にお仕えの方も、まだ新参の者も加えて、尼が十人ばかりお供しています。
みゆきという名で女童として仕えていた者は、女院のご出家の折にお供して尼になったので、りばた(離婆多)とお名付けになられました。女院は、后の時から女童をたくさん仕えさせておりましたので、ほめき、すいき、はなこ、しきみ、などと名付けられたいるのでございます。
こうして長谷寺に参詣なさり、ご立派に仏にお仕え申しあげ、僧たちにも十分なおねぎらいがあって、ご帰還なさったのでございます。
次の年には、二、三月の頃に、住吉社に参詣なさるおつもりだとか、思い通りの御様子でお過ごしでございます。

     ☆   ☆   ☆

 

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淑景舎の女御 ・ 望月の宴 ( 42 )

2024-03-13 20:26:41 | 望月の宴 ②

       『 淑景舎の女御 ・ 望月の宴 ( 42 ) 』


さて、今を時めく摂政道隆殿でございますが、そのご子息、大千代君と小千代君とのご出世競争はなかなかに微妙な状況が続いておりました。
本来ならば、長子である大千代君(道頼)が摂政殿の後継者として遇せられるべきと思われるのでございますが、摂政殿は三男の小千代君(伊周(コレチカ))を大切になさっておいででした。そのわけは様々噂もあるようですが、一番の理由は、小千代君のご生母は后候補となる四人の姫君を儲けられていて、定子さまは今上天皇(一条天皇)に入内なさっているということにあるとも言われております。
さらに、そうした事情を承知してでのことでございましょうか、大千代君は祖父に当たられる兼家殿の養子になられていますが、すでに他界なさっていて、有力な後継者を無くしているのでございます。かねがね摂政殿は、「道頼をわが子とは思っていない」と公言なさっているともされますので、何とも哀れなことでございます。

正暦四年のこの時(史実としては三年らしい。)、大千代君は中納言であられましたが、三歳下の小千代君は宰相中将であられることを摂政殿はご不満で、兄を飛び越える形で、大納言に就任させられました。
何とも強引な任命でございますが、大千代君にはまことに情けない思いでございましょう。


こうしているうちに、閑院の大将(朝光。兼通の子で、道隆らと従兄弟にあたる。)が重く患われて、大将の職を辞されたので、粟田殿(道兼。道隆の弟で道長の兄。)が代わって就かれた。小一条の右大将(済時。兼家らの従兄弟。)が左大将になり、粟田殿は右大将にお就きになった。
女院(詮子)が皇太后であられた時期に、正の亮(ショウのスケ・・意味分からない。)は、みな三位になり、めでたいことである。

粟田殿の御娘で、藤三位(藤典侍)が母である御君(尊子・後に一条帝の女御となる。)に裳着(モギ・成人した女性に初めて裳をつける儀式。女性の成人式で、十二歳から十四歳くらいに行うのがふつう。尊子はこの時十歳と考えられ、少し早いと思われる。)の儀式をあげて差し上げようと騒ぎ立てているので、粟田殿はそのようなつもりではなかったが、然るべき手配をお命じになった。

かくて、摂政殿(道隆)をば、帝が成人なさったので、関白殿と申し上げる。
中姫君(原子)は十四、五歳ばかりにおなりになった。東宮(居貞親王)に参内なさる有様は、華々しくご立派であった。
宣耀殿(センヨウデン・女御娍子。父済時の死後、後見が弱くなっていたが、東宮が三条天皇として即位したときには皇后となる。ただ、道長らからの圧迫が強かった。)は退出なさった。中姫君は淑景舎(シゲイシャ・後宮五舎の一つ。桐壺とも。)にお住まいになる。
何事もただこのように進められ、まことにめでたい限りである。
淑景舎の女御(原子。入内後すくに女御になったらしい。)のご気性も華やかで今風なので、はた目には恥ずかしいほどの御寵愛ぶりである。長い間、宣耀殿女御をご覧になられてきた東宮には、淑景舎女御は何につけ今風で新鮮なお方と思われたのであろう。
淑景舎の女御がそのように振る舞おうとなさっているわけではないが、御召物の重なっている裾の様子や、袖口など、たいそうすばらしいものと東宮はご覧になっている。
万事につけ、女房の服装なども、たくさんの人々が参り集まっているのだから、その善し悪しをはたの者が申し上げるべきではあるまい。

     ☆   ☆   ☆


 

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道隆の姫たち ・ 望月の宴 ( 43 )

2024-03-13 20:25:29 | 望月の宴 ②

          『 道隆の姫たち ・ 望月の宴 ( 43 ) 』


関白殿(道隆)の三の御方(三女)は、ご姉妹の中で、ご器量もご気性もまことに見劣りするとのお噂でございますが、そうとは申しましても、いつまでも放っておかれるわけには参りませんので、帥宮(ソチノミヤ・冷泉天皇の第四皇子、敦道親王)さまのもとに嫁がせました。
ただ、師宮さまの三の御方に対する情愛は、どうやら冷ややかなものらしいとのことでございますが、世間のとかくの噂をお気にされていることゆえとしても、三の御方が哀れでなりません。
婚姻を実現なさった関白殿さえが、無理ならぬ事だと思っていらっしゃるとか、何ともやりきれないことでございます。関白殿には、このご婚姻に後ろめたさがあったのでしょうか、師宮さまを格別大事にお世話されているとのことでございます。
とは申しましても、三の御方を冷泉院の南院にお迎え申し上げられましたので、申し分のないご配慮ということなのでございましょう。

関白殿には、ご正妻の貴子さまとの間だけでも、三男四女の御子さま方を儲けられております。そのうち男子は、伊周殿・隆家殿・隆円殿のお三方ですが、いずれも時の流れに翻弄されることになるとは申しましても、それぞれにご活躍でございますが、ここでは述べることは控えさせていただきます。
一方で、姫様方についてでございますが、一の御方は一条天皇の中宮定子さま、二の御方は三条天皇の女御原子さま、四の御方は御匣殿別当としてお仕えの後、一条天皇の寵をお受けでございます。
ただ、如何なる事でございましょうか、定子さまは二十四歳、原子さまは二十三歳、御匣殿は十八歳でお亡くなりになっているのでございます。
さらに、この三の御方に至りましては、お生まれの時が明らかでなく、お名前の頼子さまと申されるのも、今一つはっきりしないのでございます。師宮さまに嫁がれたのは十二歳前後かと思われますが、ほどなく離縁となり、その後の消息は漏れ伝わってこないのでございます。まことに、はかなく哀しげな姫さまでございます。


この三の御方と同腹の弟の君(隆家)は、三位中将にお就きになった。六条の右大臣(ミギノオトド・源重信。宇多天皇の孫にあたる。)殿が大切に養育なさっていた姫君に、この中将を婿としてお迎えになった。
大臣は、御年など召しておられるが、この三位中将の御事をたいへん立派な婿と思われて、夜はいくら夜遅くに訪れた場合でも、ご自身はお寝にもならずあれこれとお世話なさるのも、実に細やかな真心であるのに、この中将の君は、全く気にとめることもなく、景斉(カゲマサ)の大進の娘に夢中になっていて、この姫君に対してはまことに粗略でいらっしゃるので、関白殿ははらはらしたり、六条の右大臣殿に申し訳ないことだと申されているが、男の心というものは、どうにもならぬもののようである。

かくて、一条の太政大臣(為光)の邸を女院(詮子・円融天皇女御。一条天皇の生母。道長らと同母のきょうだい。)が伝領なさり、帝の後院(天皇退位後の御在所)にとお考えなのであろう。

     ☆   ☆  ☆☆

 

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道長に二人の御子 ・ 望月の宴 ( 44 )

2024-03-13 20:25:03 | 望月の宴 ②

          『 道長に二人の御子 ・ 望月の宴 ( 44 ) 』


大納言殿(道長)には、土御門の上(倫子)も宮の御方(明子)も、共に男君をお生みになられたのである。土御門殿(倫子)の若君を、田鶴君(タヅギミ・のちの頼通)と命名なさった。宮の御方の若君を、院の御前(オマエ・一条天皇生母詮子。道長の同母の姉でもある。)の乳母を迎えて万事お世話なさって、巌君(イワギミ・のちの頼宗)と命名なさった。


ところで、橘三位(キノサンミ)さまがお生みになった御子には、関白殿(道隆)のお子ということで男子(好親)と女子(名前不詳)がいらっしゃいます。さらに、このお方には、山井(ヤマノイ・道頼)殿との間にも女子を儲けられています。この姫君は、道長殿の姫君寛子さまの女房としてお仕えになりましたが、それは少し先のことでございます。
この橘三位さまは、なかなか謎多きお方のように思われます。三条天皇の乳母であられ、正三位、典侍を勤められていますが、ご実家のことなどは明らかでないようでございます。父上は大納言橘好古殿とも噂されてはおります。いずれにしましても、相応の御家の出自であることは確かでございましょう。
ただ、帝の御乳母から、関白殿の思われ人となり、関白殿ご逝去の後とは申せ、ご長男の山井殿との間に子をなされるに至るには、さまざまなことがお有りだったのでございましょう。


さて、宣耀殿(センヨウデン・娍子。三条天皇女御、後に皇后。)の女御は、このところ身重の御体になられた。大将殿(父の済時)は大変なこととしてご安産のご祈祷をなさった。東宮(この時、三条天皇はまだ東宮であった。)の御寵愛をいただいたお陰だとお思いである。
最近では、淑景舎(シゲイシャ・原子。道隆の次女。)がおそばに仕えておいでなので、里邸に退下なさるよい折だとお思いになられた。麗景殿の女御(綏子。兼家三女)は里邸にばかりお籠もりで、あまり良くない噂ばかり立てられている。
東宮はただ今のところ、人知れぬお心の内でとても大切なお方として宣耀殿女御を愛しておいでである。痛々しくお気も使わなければならないお方として淑景舎を思っていらっしゃって、別に麗景殿まではさほど念頭に置いてはおられない。

かくて、小千代君(伊周。道隆の三男)が内大臣におなりになった。御年は二十歳ばかりである。
中宮大夫殿(道長)は、もっての外(道長らを飛び越えての昇進であったことに不満。)のことと嘆かわしく思われ、出仕もなさらないという仕儀になっていった。

土御門の大臣(源雅信。道長室倫子の父。)も、正暦四年七月二十九日にお亡くなりになったので、大納言殿(道長)や君達(キンダチ・公達に同じ。ここでは雅信の若い子息。)が集まって、葬儀の手配などなさっているのが、たいそうおいたわしい。
御年も七十ばかりにおなりなので、世の常ということであるが、殿の上(雅信の室穆子。倫子の生母。)はたいそうなお悲しみであった。
後々の御法事なども出来うる限り盛大に行い日々を過ごされた。大納言殿の上(倫子)はご懐妊中の身で、大臣殿(雅信)は御出産を見届けてと思われながらも、果たせずにお亡くなりになられたのである。

     ☆   ☆   ☆




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不運な有国 ・ 望月の宴 ( 45 )

2024-03-13 20:24:33 | 望月の宴 ②

          『 不運な有国 ・ 望月の宴 ( 45 ) 』


関白殿(道隆)は、入道殿(兼家。道隆・道長らの父。)がお亡くなりになって二年ばかり経ってから、有国(アリクニ・藤原氏。兼家の腹心であったが、関白を誰に譲るべきかと問われ、有国は道隆の弟の道兼を推したなど、不仲であった。)を、すべての官位を剥奪して、家に閉じ込めておいているのを、粟田殿(道兼)も大納言殿(道長)も、情けないことだと思われ、仰せられたりしている。
関白殿は、惟仲(コレナカ・平氏。有国と同様、兼家の腹心であった。)を左大弁に任じて、たいそう厚遇なさっている。その当時、大変気の毒なことだと世間でも有国に同情していた。さらに、そのままの状況の中で、有国の子が丹波守であったのまで剥奪なさったのだから、あまりにも情けない仕打ちである。

何ということもなく年は暮れて、正暦五年(994)となった。
どうしたわけか、今年は世の中が騒がしく、春の頃から患う人々が多く、道大路に行き倒れた骸が数多くある。
こうした折、宣耀殿女御(娍子)も身重で、今年が生み年にあたっている。

土御門の上(道長室倫子)もご懐妊中でいらっしゃるので、世の中が騒がしいだけに、どうなることかと案じておられたが、三月の頃に土御門の上は、さしてお苦しみもなく女君がお生まれになった。恐ろしい世の中なのに、まことに有り難いことだとお思いになった。

五月十日の頃、宣耀殿女御が産気づかれた。東宮からはお見舞いの使者が何度も遣わされる。大将殿(女御の父、済時)が、いかにいかにと心配されているうちに、この上なく立派な男宮(敦明親王)がお生まれになった。
大将殿はうれし泣きをなさって、最上の御祝いを指図なさった。望ましい限りのめでたさで、七日までの儀式も過ぎた。それらのすばらしいことは推察願いたい。御乳母が参り集まる。
東宮(居貞親王。のちの三条天皇)は早く早くと、まだ見ぬ我が子をご覧になりたくて、恋しく思っていらっしゃる。
ぜひとも早くお目にかけたいものだ、けれども、昔の宮たちは五歳か七歳になって初めてご対面なさっていたものだ、などと祖父殿(済時)はたいそう昔風に思っておられるが、東宮は、ひたすら「早く参内なさい」と急がせられる。
ただ、何よりも世間は疫病騒ぎで不安な状態なので、関白殿(道隆)も女院(詮子)も、すべてにつけて恐ろしいことと心配なさる。今年より来年はもっとひどい状態になるだろうとも取り沙汰されていて、本当に恐ろしいことだとお思いである。

     ☆   ☆  ☆☆

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一族の繁栄 ・ 望月の宴 ( 46 )

2024-03-13 20:24:01 | 望月の宴 ②

       『 一族の繁栄 ・ 望月の宴 ( 46 ) 』 


さて、粟田殿(道兼)の北の方が親しい間柄であることからか、村上の先帝の九の宮(昭平親王)が入道なさって石蔵(イワクラ・京都市左京区にある大雲寺。)にお住まいですし、兵部卿の宮(致平親王)と申されるお方は九の宮のご兄弟で三の宮と申し上げられたが、そのお方も入道なさって同じ所にいらっしゃる。
兵部卿の宮は、左大臣殿(源雅信・道長の岳父)の庶腹の娘のもとにお通いになり、男宮がお二人いらっしゃったが、お一人(成信)は大納言殿(道長)がご養子になさって、少将と申されたお方がいらっしゃる。もうお一人(永円?)は、幼い時から法師におさせになって、同じ石蔵にいらっしゃる。
九の宮は、九条殿(師輔)の御子で入道の少将(高光)多武峰の君と申されて、幼名を「まちをさ」と申し上げられた方の娘のもとにお通いになっておられたが、たいそう可愛らしい姫君がお生まれになっておられたのを、とても見捨て難く思われたが、世の中の無常をお感じになられたので、執着を断ち切って出家なさったのである。

この姫君は、たいそう可愛らしいお方であるのを、粟田殿はお聞きつけになり、この宮をお迎え申し上げて、養女にして大切に養育なさっているうちに、然るべき人々から文など寄せられることが多かったが、お相手なさらないでいらっしゃったが、故三条の大殿(賴忠)のご子息である権中将(公任)が特に熱心にお言い寄りになった。
これというほどでもないお手紙でも、その書きようは他の人よりも見事なものとお感じになったので、意を決して婿にお迎えなさった。
二条殿(道兼の邸)の東の対を立派に調えられて、恥ずかしくない女房十人、女童二人、下仕え二人をつけて、見苦しくないように飾り立てて権中将を通わせなさった。姫君の御有様はまことに可愛らしいので、権中将はほんとうに婿になったかいがあったと思っていらっしゃる。
しばらくの間は、行き来なさっていたが、やはりこのような状態のままでは良くないと思われて、四条宮(頼忠の邸。皇太后遵子が住んでいたので「宮」と称した。)の西の対を立派に調えて、姫君をお迎え申し上げた。宮(遵子)も女御殿(花山院の女御諟子)も、まことに喜ばしい間柄だとお思いになって、ご対面などが行われた。
まことに申し分のないご様子なので、粟田殿はお思い通りの有様に何かにつけ権中将と手紙など交わされている。
また、粟田殿は、一条の太政大臣(為光)の御子の中将(道信)を養子になさって、この北の方の御妹を娶せられて、何かとお世話申し上げていらっしゃる。


このように、道兼殿(粟田殿・道隆の弟で、道長の兄。)に限ったことではございませんが、これと思われる御方のご子息、眉目麗しき姫君をご自分のお子様に迎えられることが盛んでございました。ひとえに、ご自分の影響力、御子孫の繁栄の礎を考えてのことでございましょう。

こうしているうちに、冬の兆しを感じられる頃になって、関白殿(道隆)が水ばかり飲んで、たいそうお痩せになられたとのことで、宮中にもほとんど出仕なさらないということでございます。
二位の新発意殿(ニイノシンポチ・道隆の正室貴子の父。新発意は、新たに仏門に入った者のこと。)は、すっかり動転なさって、ご祈祷をなさったり、秘法の術を行ったりなさっておられるとのことでございます。北の方さま(貴子)は、考えつかれる限りの手立てを尽くされていらっしゃいます。
世間を騒がせております疫病の流行が、冬になって少し下火になりましたので、世の人々は喜ばしく思っている折でございますが、関白殿のご容態がただならぬご様子とのお噂が、天下の一大事と思われておりました。

     ☆   ☆   ☆




     

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疫病の猛威 ・ 望月の宴 ( 47 )

2024-03-13 20:23:32 | 望月の宴 ②

       『 疫病の猛威 ・ 望月の宴 ( 47 ) 』


内大臣殿(伊周・関白道隆の子息)の子息の松君(道雅)は、まことに容姿が美しくいらっしゃるが、姫君たちもたいそう可愛らしくお生まれなので、行く末はお后にと大切にお育て申し上げている。
この内大臣殿は、ご容姿も身にそなわる才能も、この世の上達部(カンダチメ・公卿)としてはとてもおさまりきれぬ人物だとまで言われているお方なので、もしかすると、不吉なことになるのではないかと思われる、というのも無理からぬ事とお見えになる。
正室貴子御腹の三郎は、法師(隆円)にして、僧都にしてあげられた。また、その弟(隆家)は中納言でいらっしゃる。
山井(ヤマノイ・道頼。伊周の兄であるが、道隆に可愛がられず兼家の養子になった。)は、故殿(兼家。道隆らの父)のご意向を思い起こしになって、大納言におさせ申し上げられた。
このようになさった関白殿(道隆)は、水をお飲みになることが止めることが出来ず、まことに尋常でないご様子のまま、年も暮れていく。

東宮(居貞親王)には、宣耀殿の女御(娍子)がお生みになった若宮(敦明親王)をお連れになって参内なさったので、もう拘ることもなくなって(原子が入内して、波風が立っていたらしい。)、いつも若宮をお抱きになって大切に可愛がられていらっしゃる。


やがて年も改まりました。
宮中では中宮定子さまが、帝の寵愛を一身にお集めになり、並ぶ者などない有様で時めいていらっしゃいます。
東宮は、淑景舎の女御殿(原子)をどのように遇されるのかと、人々は興味深く見守られています。
ところが、この年、長徳元年(995)でございますが、沈静化したと思われました疫病が再び激しくなり、正月から世の中がたいそう騒がしくなって参りまして、もう誰もが生き残れないのではないかと思うほどで、大変悲しいことでございます。
とりわけ女院(詮子)におかれましては、関白殿(道隆)のご病状をご心配なされると共に、世の中の政を落ち着いて指図なさる事が出来なくなるのではないかと、お悩みが尽きません。
疫病の猛威(疱瘡らしい)は、今年は、まず下々の者などが、ほんのしばらく患っただけで、まことに無残に死んでしまうとのことでございます。四位、五位などの者が亡くなるのはもちろんのこと、いずれは上位の方々にも及ぶのではないかと、噂されているのでございます。

まことに恐ろしい限りですございますが、三月になって、関白殿のご病状はさらに重くなっておられましたが、宮中に夜分になって参内なさいました。
「このように病がひどく悪うございますので、この間の政務は内大臣が行うよう宣旨をお下しくださいませ」と、奏上なさったそうでございます。
帝は、関白殿のご様子をご覧になられ、やむを得ないことと思し召しになり、三月八日に、「関白病の間、殿上及び百官施行」という宣旨が下されたそうでございます。
これにより、内大臣殿(伊周)がすべての政務を執行なさることになりました。

こうしている間に、閑院の大納言殿(朝光・道隆らの従兄弟)が、猛威を振るっている疫病で、三月二十日にお亡くなりになりました。
まことに哀れで、悲しいことでございます。

     ☆   ☆   ☆

 

 

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道隆の逝去 ・ 望月の宴 ( 48 )

2024-03-13 20:23:00 | 望月の宴 ②

      『 道隆の逝去 ・ 望月の宴 ( 48 ) 』


明日のわが身のことは分からず、今日は他人の死を悲しんでいるかに見える、然るべき殿方たちは、胸をどきどきさせて恐ろしく思っているが、その間にも、関白殿(道隆)のご病状はいよいよ危うくなる。
四月六日には出家なさった。どなたもが哀れに悲しいことと途方に暮れておられる。北の方(貴子)はすぐさま続いて尼になられた。
実は、内大臣殿(伊周)が随身(ズイジン・摂関職などに与えられる護衛の舎人)などあれやこれやを賜ったのは昨日のことであるが、このような状況になり、何とも悲しく、どうすればよいのかと邸じゅうが途方に暮れているうちに、四月六日、入道殿(道隆)がお亡くなりになった。
ああ、大変なことだ、と世間は大騒ぎとなる。


内大臣殿の御政務執行の付託は、関白殿がご病気の間との宣旨でございましたが、すでにお亡くなりになられましたので、内大臣殿はこの後どうなるのかと、世間の人々は、人の世の無常ということよりも、後継者のことの方が大事とばかり騒がしく取り沙汰されておりました。
内大臣殿は、ご自分だけが政治の実権を握っているものとお考えのようでございましたが、世間の方々は、内大臣殿をどうも頼りないとお考えのようで、このまま後を継がれるということには首を傾げる方が多いようでございました。

大殿(道隆)殿の御葬送は、賀茂祭を終えてから執り行われることになりました。この事も、御服喪の期間が長くなり、内大臣殿には後継者選びでお気の毒ではありました。
ただ、御喪中でありながらも、政務をあれこれと指示なさって、人々の着衣や袴の丈を長くしたり縮めたりをお取り決めになられたりされておりました。
今は、このようなことはなさらずに、政務には関わらず、何よりも御喪中をお過ごしになるべきだと、非難される方々もおいででございました。
北の方のご兄弟方は、あちらこちらの国守をなさっておられますが、どうなって行くことかとうろたえていらっしゃいます。二位の新発意(ニイノシンポチ・高階成忠。貴子の父。新発意は、新たに仏門に入った者。)は、この御忌みに籠もろうともなされず、然るべき僧たちに命じて、内大臣殿が後継者となるようにと、様々なご祈祷を行わせ、ご自分も手を額に当てて、夜昼に祈られているとのことでございます。

このように、世の中が次の関白の地位を噂しあっているさなか、小一条の大将(済時・宣耀殿の女御の父。左近大将を兼務。)が四月二十三日にお亡くなりになりました。宣耀殿の女御(娍子)がお生みになられた一の宮(敦明親王。この時二歳)もまだ幼く、後に残されてのご逝去は、まことにいたわしいことでございました。

左右の大将がしばらくでもいらっしゃらないことは良くないということでしょうか、中宮大夫殿(道長)が、左大将にお就きになられました。(左大将は済時の死去で欠員となったが、右大将は道兼が兼務していて、道兼の関白就任により道長が左大将に就いているので、この部分は、史実とは違う。)
大殿(道隆)の御葬送は賀茂祭が過ぎて四月の月末に執り行われました。小一条の大将の御葬儀も同じ時期でございました。
ともどもに、たいそう悲しいことでございました。

内大臣殿は、世の中の動きが、どうやらご自分のお立場が危うくなる方向らしいことにお気づきになり、二位の新発意を「油断をするな、油断をするな」と責め立てて、執政の地位を守れるように祈祷をおさせになられました。
二位の新発意は、とっておきの秘法などをご自分で行い、然るべき人にも行わせて、「どういう情勢になっても、ご安心なさい。何事も人の力ではどうなるものでもありません。ただ天の摂理だけが事をお運びになります」と、頼もしげに申されたそうでございます。

     ☆   ☆   ☆

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道兼の関白就任 ・ 望月の宴 ( 49 )

2024-03-13 20:22:24 | 望月の宴 ②

       『 道兼の関白就任 ・ 望月の宴 ( 49 ) 』

 
内大臣殿(伊周)の御叔父の殿方たち(伊周の母貴子の兄弟たち)は、世の中がざわついていて、どうやらそれが内大臣殿の思いとは違う方に行きそうなことに不安を感じられていますのは、ひとえに、ご自分方のお立場が危うくなるからでございましょう。
その不安と申しますのは、粟田殿(道兼。道隆の弟。伊周からは叔父にあたる。)の動向が恐ろしく感じられたのでございましょう。
それと申しますのも、女院(詮子)さまのご意向が、どうやら粟田殿に傾いているようなのが気掛かりなのでございましょう。何と申しましても、女院さまは、帝(一条天皇)の御母上でございますし、亡き道隆殿・道兼殿・道長殿がたと同母のご兄弟でございますから、その御意向は、次の関白を選ぶに当たって無視することなど出来ないことでございます。

女院さまが直接ご意向を示されたわけではないのでしょうが、やんごとない方々は、そのあたりの事情を掴むことに優れた方々でございますから、どなたもが粟田殿の御邸に参っているとのことでございますから、それを見る内大臣殿のご悲嘆は増すばかりでございました。
ただ、粟田殿も、とても平常心ではいられないようで、どうも夢見が穏やかでいらっしゃらず、神仏の警告でもあるのかなどと落ち着かないお気持ちで、陰陽師などに占わせましたところ、「お住まいをお替えなさい」と申す者があり、適当な所をお探しのようでございますが、一方で、「お慶び事の験だ」と申す者もあるようで、どうも信じ切れないお気持ちのようでございました。


粟田殿のところでは、何かの前兆があったり、また御物忌みがなされているのを内大臣殿が聞きつけられて、ますますご祈祷に熱中される。
「こうしたたゆむことのない御祈りの効験があったらしい」などと、何とも恐ろしげなことを人々は口にしたり思ったりしているので、粟田殿は四月の末に他所へお移りになった。それは出雲前司相如(スケユキ・正五位下。道兼の家司として仕えていたらしい。)という人は、長年世間でもてはやされていた関白殿(道隆)のもとには参上することなく、ひたすらこの粟田殿を立派な方と頼っていたが、その者の家である。

その家は、中川(京極川)にあって、左大臣殿(誰を指しているのか、よく分からない)の御邸に近い所である。父の内蔵頭助信朝臣という人が造って住んでいた家で、池・遣り水・築山などがあって、たいそう風雅に造られていて、粟田殿の方違えの所にしようと口にもし思っていた家である。
この相如も、あの時平の大臣の御子の敦忠の中納言の御孫であったからか、「官位は低いが、人並み以上の暮らしなのだろうか」などと世間の人は噂しあった。
こうして、粟田殿はその家に移ってお住みになられたが、障子などには相如が自身で絵を描いたりしていて、風情をたたえた有様なので、粟田殿なども趣深く感じられ、世の中の多くの人も参上されたが、粟田殿のご気分はこの家に移っても回復なさらなかったのである。

こうしていらっしゃるうちに、五月二日、粟田殿のもとに関白の宣旨が届けられた。
折しも、この家で関白の宣旨をお受けになったことを、家主の相如もこの世の慶事と喜び、人々もめでたいことと申し上げ、心でも思った。
世の中の馬や車が次々と訪れる有様は、もう他所には馬も車も残っていないのではないかと思われた。

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新関白道兼が重態 ・ 望月の宴 ( 50 )   

2024-03-13 20:21:56 | 望月の宴 ②

       『 新関白道兼が重態 ・ 望月の宴 ( 50 ) 』


粟田殿(道兼)に関白就任への宣旨が下されましたことで、内大臣殿(伊周)の御邸では、すべて諦めきったご様子で、世間の人々の物笑いの種になっていることを気にしながら、邸中のどなたもが膝を抱いて座り込んでいるような有様だったそうでございます。
「何とも、取り返しのつかないことになってしまった。こんなことになるのなら、ただ元の内大臣でいらっしゃればよかったものを。なまじ、しばしの摂政などになったばかりに、関白を夢見て人に笑われる種になることなど、どんな子供でも分かることなのに」
などと、家人たちは嘆きあっているとのことでございます。
粟田殿は摂政になられたわけではございませんが、家人や取り巻きの方々に取りましては、関白殿(道隆)の代行は、当然後継者であることとお考えであったでしょうから、そのお嘆きは当然のことと同情申し上げるばかりでございます。


こうしているうちに、関白殿(新しく就任した道兼)は、やはりご気分がすぐれず、お風邪かもしれないと思われて、朴(ホオ)の皮などを煎じて差し上げたが、一向に良くならず、起き伏しもままならぬご様子である。
実際のところ、世間の人々も、「粟田殿が関白になられたことこそ、あるべきことなのだ。どうして小児のような輩に政を任せることが出来よう」と噂しあっている。大将殿(道長)も、今の状態がご満足できる有様と思われている。
内大臣殿は、何もしないで御喪中を過ごされることなく、世の政を立派に行っていて、人の袴の丈や狩衣の裾まで長くしたり縮めたりなさったのを、おもしろからず思っている者たちは、「政権の伸び縮みが早かったのも、袴や狩衣の伸び縮みが性急だったせいだ」などと言っている。

五月の四、五日になると、関白殿(道兼)のご気分は明らかに苦しそうにおなりであったが、熱をお出しになったので、もうどうこうすることも出来ず、御読経・御誦経などは今は行われるべきでなく(不吉とされた)、関白になられた早々なので、まがまがしく思われて、無理に平気を装っておられるが、起き伏しにつけても、わが身一つが苦しげであった。
御邸内では、侍所(大臣などに設けられる家政機関の一つ。)に夜昼少しの隙もなく、あらゆる四位、五位の者や殿方に至るまで詰めておられる。御随身所、小舎人所では、酒を呑み大騒ぎし歌ったりしている。
彼らの御主君が、どれほど苦しんでいるのか思いもよるまい。
左大将殿(道長)は毎日お見舞いにおいでになり、処置すべき政務をご報告し決済なさる。
なお嘆かわしいご容態であることを合点の行かないことと見奉るも、まさか不吉なことになろうとは誰も思ってはいない。

このように、関白殿(道兼)のご病状が重くなられたので、今はどうあろうともこうあろうともということで、上旬の六日の夜中に、二条殿(本邸)にお帰りになった。
こうした事などが知れ渡ってしまったので、内大臣殿が実情を知りたいと思われるのも当然ではある。二条殿では、もはや病状を隠しきることは出来なくなり、御邸全体が 騒然としている。
世間も疫病で騒がしいなか、新関白が重病ということになっては、政権の行方が再び予断を許さない状況になり、宮中にも然るべき殿方が参集なさっている。滝口の武者(宮中の警備を担当)や帯刀(タチハキ・東宮の警備に当たる武者)などが当番を怠ることなく控えている。

二条殿では、北の方は日頃はご懐妊の状態であるが、今度お生まれになるのは女君であると夢にもご覧になり、占いでもそのように申していたので、殿(関白道兼)は誕生をいつかいつかと待ち遠しがっていらっしゃった。それに、関白の宣旨を受けるという慶事まであったので、きっと女君が誕生する(女君であれば后候補になれる)とお待ち申しておられたが、このように重態となり、いったいどうなるのかと邸内は動転している。
女院(詮子。一条天皇生母。道兼の関白就任を後援した。)からのお見舞いの使者が絶えない。大将殿(道長)は変わらず心を込めてお世話なさっていて、御誦経の料など多くの物を差し出されている。御厩(ウマヤ)の御馬は残らず、御車の牛に至るまで、御誦経の為に差し出すよう指図なさった。
このようにしながら、しまいにはどうなるのかと、邸内の人々は物に突き当たらんばかりに正気を失っている。

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