雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

今昔物語 その2 ご案内

2024-05-20 14:51:08 | 今昔物語拾い読み ・ その2

   今昔物語 その2 ご案内


  『 今昔物語 その2 』には 巻第六から巻第十 までを収めています
   巻第八は欠巻となっていますが、 いずれも「震旦」に関する作品です
   掲載順は 巻第十から巻第六へと逆になっていますが ご了承下さい

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今昔物語 巻第十 ご案内

2024-05-20 14:48:57 | 今昔物語拾い読み ・ その2

    『 今昔物語 巻第十 ご案内 』


 「巻第十」は、全体の位置付けとしては、「震旦付国史」となっています。

 国史となっているのは、仏法を中心としたものに対して、世俗系の治世や歴史を
 中心とした物語が多く集められているからです。

 なお、震旦(中国)を中心とした五巻の最終巻になります。
   

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始皇帝の最期 ( 1 ) ・ 今昔物語 ( 10 - 1 )

2024-05-20 14:47:55 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 始皇帝の最期 ( 1 ) ・ 今昔物語 ( 10 - 1 ) 』


今は昔、
震旦の秦の御代に、始皇という国王が在(マ)しました。
勝れた知性と勇猛な心で以て世を治めたので、国内で従わない者はいなかった。少しでも自分の命令に従わない者がいれば、その首を切り取り足や手を切った。されば、人民は皆、風になびく草の如く服従した。

始めて、感楊宮(カンヨウグウ・感陽宮とも。)という宮殿を造って都とした。
その都の東に関所があった。感谷関(カンコクカン・函谷関に同じ。)と言う。櫃の迫(ヒツのハザマ・大きな箱の角)のようであったので感谷関と言うのである。
また、王城の北には高い山を築いた。これは、胡国(ココク・北方遊牧民の国)と震旦との間に築き並べた山である。胡国の遊牧民が侵入してくる道を防ぐためである。(万里の長城のこと。)震旦側は普通の山のようで、人が登って遊んだ。遙かに高い山の頂上に登って胡国の方を見ると、さえぎる物がない。胡国側は垂直の高い壁を塗ったようになっていて、人が登ることなど出来ない。
山の東西の長さは、千里ある。高いことは雲の如し。されば、雁が渡る時、この山並みが高くて飛び越えることが出来ないので、山に雁が通れるほどの穴を開けていて、そこを飛んで通った。雁は、それが習性となって、大空であっても、列を作って飛ぶのである。

これは、胡国の襲来を恐れて築いた物で、始皇帝は「わが子孫は、代々引き継いでこの国を治めるべきで、他者の統治を認めない」(このあたり、破損による欠文が多く、推定した。)と、「又、これまでに代々踏襲されてきたことを皆廃止して、我が新しく政を定める。又、過去の代々の書籍(ショジャク)をすべて取り集めて焼き棄てて、我が新しく書籍を作って世間に留め置くこととする」と。
されば、孔子の弟子などには、大切に書籍などを密かに隠して、壁の中に塗り込めて後世に残そうとした。

ところで、始皇帝には昼夜に寵愛している一頭の馬がいた。名を左驂馬(ササンマ)と言う。この馬の体は、竜と違わないほどである。
これを朝暮に可愛がって飼っていたが、始皇帝の夢の中で、この左驂馬を海に連れて行って体を洗ってやっていると、高大魚(コウタイギョ・鮫のような物か?)という大きな魚がにわかに大海より現れて、左驂馬を食い付いて海に引き入れようとしたところで、夢から覚めた。
始皇帝は、心の内で極めて怪しいことだと思った。「どうして、我が宝として大切に育てている馬を、高大魚は喰らおうとするのか」と大いに怒り、国じゅうに宣旨を下した。「大海に高大魚という大きな魚がいる。その魚を射殺した者には、望み通りの賞を与えよう」と。
そこで、国じゅうの人はこの宣旨を聞くと、それぞれが大海に行き、船に乗って遙か沖に漕ぎ出して、高大魚を探し回ったが、わずかに高大魚の姿を見る者もいたが、とても射ることなどできなかった。
そこで、帰って王に申し上げた。「大海において高大魚の姿を見ることは出来ましても、とても射ることなど出来ません。これは、竜王に妨げられているためです」と。

始皇帝は、これを聞くと、わが身への祟りを恐れて、それを除くために方士(ホウジ・道士。道教の術者。)と言う人に、「お前は、速やかに蓬莱の山に行って、不死薬という薬を取ってこい。蓬莱は未だ知られていな所だといえども、昔より今に至るまで、世間に多く伝承が伝わっている。すぐに行くのだ」と命じた。
方士は、この宣旨を受けて、すぐに蓬莱に向かった。
それから後、還って来るのを待っているうちに、数ヶ月が過ぎ、ようやく還って来ると、王に申し上げた。「蓬莱に行くのはたやすいことでした。しかしながら、大海に高大魚という大きな魚がおります。これが怖ろしいために、蓬莱に行き着くことが出来ませんでした」と。
始皇帝は、この事を聞くと、「その高大魚、我に対して様々に悪事を働く。されば、やはり、あの魚を射殺すのだ」と宣旨を下したが、誰も大海に行って高大魚を射ようとはしなかった。

すると、始皇帝は、「我自らが、速やかに大海に行って、高大魚を見つけて射殺してやろう」と言って、忽[ 欠文。「大軍を調えて」といった文章らしい。]彼の所に行き、始皇帝自ら船に乗って、遙かに大海[ 欠文。「高大魚を発見した経緯など]らしい。]見る事を得たり。
そこで、始皇帝は喜んで、これを射ると、魚は矢に当たって死んだ。始皇帝は大いに喜んで帰還する途中、天の罰を蒙ったのであろうか、[ 欠字。史実としては「平原津」らしい。]という所において、重病となった。
その時、始皇帝は、我が子の二生(ニセイ・二世。「胡亥」のこと。)という人、並びに大臣の超高(チョウコウ)という人を呼び寄せて、密かに申し渡した。「我は、突然重病となった。きっと死ぬだろう。我が死んだ後は、大臣・百官は一人として相従って王城に返ってはならない。この所に全員を棄てて、還るのだ。そこで、我が死んでも、この所において我が死を公表しないで、なお生きていて車の中にいるようにして、王城に連れ帰ってから正式に葬送を行うべし。王城に還る途中で、大臣・百官が離反することを恥じるからである。決して、この事を違えてはならない」と。こう言い残すと同時に死んだ。
その後、彼の遺言の如く、この二人は、始皇帝が生きているように取り扱って帰還したが、その途中で命令すべき事があれば、王の仰せのようにして、この二人で相談して命令を下した。
                ( 以下 ( 2 ) に続く 


     ☆   ☆   ☆

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始皇帝の最期 ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 10 - 1 )

2024-05-20 14:47:29 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 始皇帝の最期 ( 2 ) ・ 今昔物語 ( 10 - 1 ) 』
 

      ( ( 1 ) より続く )

さて、始皇帝の死を隠して都に向かったが、夏の頃とて、数日経つうちに、車の中は極めて臭くなってきた。
そこで、始皇帝の子の二生と大臣の超高の二人は、相談して対策を立てた。それは、すぐに方魚(塩漬けの魚。異臭を放つ。)という物をたくさん召し集めて、車に積んで前後に連ならせ、また始皇帝の車の前後にも掛けさせた。
この魚は大変臭いので、その香りは他の魚と比べようがないほどである。そのため、車の中の臭い香りは、その方魚の香りにまぎれて、人に知られることがなかった。
始皇帝が生きていた時も、勝手気ままな政は常のことであったから、人々はこの様子を怪しみ疑うことはなかった。
こうして、数日掛けて王城に還り着き、正式に葬儀を行った。
その時になって、人々は始皇帝の死を知ったのである。

その後、二生が王位に就いた。大臣の超高と相談して政務を行った。
やがて、この国王は、「わが父始皇は、国内の政を思うに任せて行われた。我もまた、父のように行いたいものだ」と思って、政務を行っているうちに、大臣の超高と仲違いした。
超高は、「この国王、始皇帝の子ではあるが、まだ即位して幾らも経っていない。即位して間もないのにこの有様だ。いわんや、長年経ったなら、我が為に良い事などあるまい」と思って、たちまち謀反の心が芽生えた。
ただ、超高は、世間の評判が分からず、どちらに味方するか気掛かりだったので、世評を試してみようと思って、鹿一頭を国王の前につれて参って、「このような馬がおりました」と申し上げると、国王はこれを見て、「これは鹿という獣である。馬ではない」と仰せになると、超高は、「これは[ 欠字あるも不詳。]馬です。世間の人にお尋ねになると良いでしょう」と申し上げた。
そこで国王は、世間の人にお尋ねなると、これを見た人は、皆が「これは鹿ではありません。馬でございます」と申し上げたので、その様子を見て超高は、「なるほど、世間の人は皆、我が方に味方しているようだ。謀反を起こすのに、何の障りもないだろう」と受け取って、ひそかに大軍を準備して、隙を窺い十分に配慮して、王宮に入って国王を攻撃しようとした。

国王はこれを知って、「我は国王だとはいえ、未だ権力を握ってから日は浅く、軍勢も少ない。超高は臣だとはいえ、長年権勢を振るってきた者で、その勢力は強大である。されば、我は逃げよう」と思って、ひそかに王城を脱出して、望夷宮(ボウイグウ・始皇帝が造営した宮殿。)という所に籠もった。
すると、超高は、大軍を引き連れて望夷宮を包囲して攻撃した。国王も軍勢で以て防ごうとしたが、軍勢の差は大きく、とても支えきれない。勢いに乗って、大臣方の軍勢はさらに攻め続ける。
遂に国王は、どうすることも出来なくなり、大臣に申し出た。「大臣、我が命を助けよ。我は、必ずこの後、大臣の御為に軽んずるようなことはしない。また、国王の地位は返上して、一臣下として貴方に仕えよう」と。

しかし、超高は、これを聞き入れず、自軍を激しく攻めさせた。
国王は、又申し出た。「それでは、我を小国の王(一郡の長、といった意味らしい。)にして、遠隔地に追いやってくれ。そして、命だけは生かしてくれ」と。
超高は、それも聞き入れず、なおも攻めた。
国王は、又申し出た。「それでは、我を、何者でもない普通の身分に落して、追放してくれ。決して我は、それなりの地位を得ようとは思わない。何とか、命だけは助けてくれ」と。
このように、国王は何度も命乞いをしたが、大臣はまったく受け入れず、激しく国王方を攻めて、遂に二生を討ち果たした。
その上で、超高は軍を引いて、王城に還った。

その後、始皇帝の孫に子嬰(シヨウ)という人を王位に就けた。
子嬰は、「我は、国王となって国を治めることは、嬉しいことだが、我が伯父の二生は、国王の地位にあっても、超高のために殺されてしまい、長く国を治めることが出来なかった。我もまた、その様になるだろう。少しでも意に添わないことがあれば、大臣の超高に殺されてしまうことは、疑うまでもあるまい」と思って、密かに謀を立てて、超高を殺した。

その後、子嬰は何の恐れもなく国を治めたが、周囲の者を信頼せず、腹心の者が少ないのを見て、項羽という武将が現れ、子嬰を殺害した。同時に、感楊宮を破壊し、始皇帝の[ 欠文。別資料では「塚を掘る」とあるらしい。]秦の宮室を焼いた。その火は、三ヶ月消えることがなかった。
子嬰が王位にあったのは、四十六日間である。これによって、秦の御代は滅びたのである、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

 

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漢の高祖誕生 ・ 今昔物語 ( 10 - 2 )

2024-05-20 14:46:57 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 漢の高祖誕生 ・ 今昔物語 ( 10 - 2 ) 』


今は昔、
震旦に漢の高祖(コウソ・劉邦)という人がいた。
この人の母は、もとは身分の低い家柄の人である。父は、竜王である。

高祖の母、その昔、道を歩いていて、池の堤を通り過ぎようとした時、にわかに雷震が起り、辺りは闇の如く真っ暗になった。
母はこれを恐れて、堤にうつ伏せに身を伏せた。すると、雷はたちまち女の上に落ち掛かって、女を犯した。
その後、女は懐妊して、男子を生んだ。その後、また、女子を生んだ。

その男子は、数年を経て、成長していった。
ある時、その母が自ら田に入って耕作していたが、一人の老人がその近くを通りかかった。
老人は、田仕事をしている女を見て、「そなた、特に優れた相をお持ちだ。きっと国母になるでしょう」と言った。
女は、「わたしは、決してそのような相を持っているはずがありません。わたしは、貧賤・下姓の女でございます。どうして、国母の相など持っていましょうか」と答えた。
その時、女の男女二人の子がやって来た。
すると、その老人は、また、二人の子を見て言った。「そなたは、この二人の子によって、国母の相を備えたのです。兄の男子は、きっと国王となるでしょう。下の女子は后となるでしょう」と言って、去って行った。
兄の男子というのは、漢の高祖その人である。下の女子というのは、[ 欠字。名前らしいが不詳。]という后は、この人である。

その後、高祖は、この事を聞いて、老人の予言を信じて、心の内に国王となることに期待を抱いた。世間の人に知られることなく、芒碭山(モウヨウセン)と言う山に隠れ住んだ。
ところが、秦の始皇帝の御代に、五色の雲が常にその芒碭山にたなびいた。始皇帝はこれを見て不思議に思い、「我こそが、天下にただ一人の者として世に君臨しているのに、なぜ、いかなる者があの山に住んでいて、常に五色の雲をたなびかせているのか」と怪しみ、使者を遣わして命令した。「あの芒碭山には常に五色の雲がある。間違いなく行って、その様子を見て、もし人が居れば殺して参れ」と。
命令に従って、使者が赴き、住む人を尋ね捜すこと数度に及んだ。しかし、高祖は逃れ去っていて、討たれることはなかった。

芒碭山に、高祖が隠れ住んでいた木の上には、常に五色の竜王が現れていた、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆ 

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高祖と項羽 ・ 今昔物語 ( 10 - 3 )

2024-05-20 14:46:12 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 高祖と項羽 ・ 今昔物語 ( 10 - 3 ) 』


今は昔、 
震旦に漢の高祖という人がいた。
秦の御代が滅びた時に、感楊宮を攻め取って拠点にしていた。
また、その頃、項羽(コウウ)という人がいた。この人は、国王となるべき家柄の人である。「我は、必ず国王の位に昇るべきだ」と思っていたが、高祖が感楊宮を攻め取って居城にしていると聞いて、大いに不愉快に思った。

そうした時、一人の男がやって来て、項羽に告げた。「高祖は、すでに感楊宮を攻め取って、国王になっている。『[ 欠字。秦王の「子嬰」らしい。]を我の臣下とする』と決められました。あなたは、どうなさるのでしょうか」と。
項羽は、これを聞いて大いに怒り、「我こそが王位に就くべきであるのに、高祖は、どうして我を超えて王位に昇ったのか。されば、感楊宮に行って高祖を討ち滅ぼそう」と相談の上決定させ、すぐに出陣した。
もともと項羽は、勇猛な心の持ち主で、弓矢の技量は高祖より勝れている上に、軍勢を集めること四十万人に及んだ。高祖方の軍勢は十万人である。

項羽が軍勢を調えてまさに出立しようとしたが、その頃、項羽と親しい項伯(コウハク・項羽の伯父にあたる。)という人がいた。
この人は、項羽の一族であるが、長年項羽に随って従者として仕えていた。心は勇猛で武者として並ぶ者とてないほどである。
一方、高祖の第一の従者として張良(チョウリョウ・知謀の将として著名。)という者がいた。この項伯と長年無二の親友として、何事につけ分け隔てのない付き合いをしていた。
二人は互いに心を通わせて過ごしていたが、項羽が激怒して軍勢を集め、高祖を討つために感楊宮に出撃しようとしているのを見て、項伯は思った。「高祖はきっと討たれるだろう。高祖が討たれると、我が親友の張良も必ず殺されるだろう。そう思うと、とても堪えられない」と。そして、ただちに項伯は、密かに張良の所に行って、状況を知らせて言った。「貴君は知らないだろうが、項羽は高祖を討つために、軍勢を調えて感楊宮に向かって出立しようとしている。項羽は勇猛で勝れた武将である。それに、兵員の数は遙かに多い。されば、高祖は間違いなく討たれるだろう。高祖が討たれると、貴君の命も危うい。この戦いによって、貴君と我との長年の友情が永久に絶えてしまう。それゆえ、貴君が高祖の許を離れるほかない」と。

張良は、これを聞いて答えた。「貴君の意見は、まことにその通りだ。長年の友情とは、こうあるべきだ。我は極[ 欠字あるも不詳。]也[ 欠字あるも不詳。]教えに従うべきではあるが、我は、長年高祖に仕えて、自分の心に違えることがなかった。また、我と一切隔てる心なく長年やって来たのに、今、命が失われようとする時に臨んで去ることは、互いの信頼を忘れることで、それは、思いもよらないことである。されば、この命を棄てることになろうとも、このまま高祖を見捨てて去ることは、とてもできないことだ」と。
項伯は、これを聞くと、帰って行った。

その後、張良は、高祖に話した。「項羽は、すでに貴君を討たんがために軍勢を整えて攻撃してくると聞きました。あの男は、軍事に関して人に勝っています。また、兵の数は四十万人のようです。わが軍は十万人です。もし戦えば、きっと討たれてしまうでしょう。されば、ここは項羽に降伏しなさい。命に勝るものなどありますまい」と。
高祖は、これを聞くと驚いて、張良の進言に従った。使者を項羽の所に遣わして、「貴君は、どなたかの偽りの言葉によって、悪行を起こされてはなりません。我は、決して帝位に昇ろうという気持ちはありません。ただ、子嬰(シヨウ・三代皇帝。)の後、秦王朝が破れて乱れているのを、世を鎮めるために感楊宮を鎮圧して、貴君が帝位に昇っておいでになるのを待っているのです。どなたかの事実でない言葉をお信じになってはなりません。我は、この宮に逗留してはいますが、未だ玉璽(天子の印)も王国の財宝も動かさせてはいません」と伝えた。

項羽はこの事を聞くと、「高祖の言っていることを我は確かに聞いたが、直接会って語り合おう。されば、鴻門(コウモン・地名)に来るがよい。その所で会おう」と、日を定めて連絡させた。
その日になると、高祖は家臣をそれほど多く連れないで鴻門に行き会談に臨んだ。
項羽は、兵車千両・万騎の家臣を引き連れてやって来た。その中には、項伯が項羽の第一の家臣として加わっていて、今日は事を起こしてはならない旨を熱心に項羽に言上していた。それは、ひとえに張良と親しい友であるがゆえであった。
やがて、鴻門において会談する。
鴻門というのは、大きな門のことである。(実際は、単なる地名で、門があるわけではない。)そこに、大きな幕を引き渡して、その中にまず項羽・項伯らが入り、並んで東向きに席に着いた。その側には、南向きに項羽の家臣である范増(ハンゾウ)が着座している。范増は、熟練で軍事に精通していた。
その向かいには、北向きに高祖は着座した。高祖の家臣である張良は、西向きに少し控えて着座した。

やがて、これまでの経緯などについて会談する。
高祖は、自分には決して敵対する意志がないことを告げた。連れてきた家臣たちは皆門の下に待ち受けていて、心を奮い起こし、万が一に備えていた。
一方、范増は、項羽に目配せして、高祖刺殺の合図を送ったが、項羽はまったく無視する。( このあたり、破損部分が多く、推定した部分がある。)
そこで、范増は、「高祖を、必ず今日討ち取るべきである。もし、今日討たなければ、後で大いに後悔するだろう」と思って、項羽が信頼している家臣である項荘(項羽の従弟)という者を密かに呼び寄せて、「高祖を、今日、必ず討ち取るべきだ。どのように計略を立てればよいか」と相談して、「すぐに、この座において舞を披露するよう申し出よう。項荘がその舞人として剣を抜いて舞って、その座の辺りを舞ながら、高祖の所に近付いた時に、舞ってるようにして高祖の首を切り取ろう」と打ち合わせた。
それから、計画したように、舞を披露する旨申し出た。

その時、項伯は、その気配を見て取って、やはり張良が気の毒に思ったので、すぐに項伯も立ち上がって、共に舞って、高祖に立ち塞がって討ち取れないようにした。
すると、高祖はその気配を察知して、何気なく少しばかり立つようにして逃れた。そして、暇を請うために席に戻ろうとしたところ、高祖の家臣の燓会(ハンカイ)が強く制止して、席に返らせず連れて逃げた。同時に、張良を席に戻して、「これは、我が主君からの引き出物でございます」と言って、白璧一朱(ハクヘキイッシュ・白い輪型の玉、一双。)を項羽に奉った。玉斗(ギョクトウ・玉で出来た酒器。)を范増に与えた。范増はこれを受け取らず、打ち砕いて棄てた。
また、この燓会は、人間ではあるが、まるで鬼のようであった。一度に猪の肉片足を食べ、酒一斗を一口で飲んだ。

その後、項羽は陣を引いて還っていった。
その後(二年後の出来事)、項羽は高祖の許に使者を遣ったが、高祖は格別の宴席を準備して、使者をもてなそうとしたが、訪れたのが項羽からの使者だと知ると、用意させていた格別の宴席を中止させて、粗末な食事を出して、「実は、范増殿からの使者だと思ったので格別の宴席を準備していたのです。項羽からの使者であれば、その様な宴席はいりませんからなぁ」と言ったので、使者は帰ってから項羽にその事を話した。
項羽はそれを聞くと大いに怒り、「なるほど、范増は高祖と仲が良いと言うことだな。我はその事を知らなかった」と言った。
范増は、「我が主君は、思慮の足りない人物だ。前から思っていたことだ」と言って、項羽の許を去った。

また、項羽は、張良と項伯が親しい関係にあると聞き及んで、項伯に訊ねた。「どういうわけで、お前は我に臣従していながら、張良と仲が良いのだ」と。
項伯は、「かつて、始皇帝の御代に、我は張良と共に仕えていました時、我は、人を殺してしまったことがありました。ところが、張良はその事を知りながら、今まで誰にも告げようとしません。その恩を忘れることが出来ないからです」と答えた。

それから後のこと、高祖は感陽宮(感楊宮)に籠居し続け、軍を増強して、項羽を討つことを決心して、張良・燓会・陳平(家臣の一人)等と相談したうえで出陣した。
ところが、その途中で、白い蛇(クチナワ)に出会った。高祖はそれを見て、すぐに切り殺させようとした。
すると、その時、一人の老媼が現れて、白い蛇を殺そうとしているのを見て、泣きながら言った。「白き竜の子が、赤き竜の子に殺されようとしている」と。
これを聞いた人は、高祖は赤き竜の子だったのだ、ということを人々は知ったのである。

     ☆   ☆   ☆

* 最終部分は、欠文になっているようですが、「定型の結び」が欠けているだけのようです。

     ☆   ☆   ☆

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天ノ川の源を尋ねる ・ 今昔物語 ( 10 - 4 )

2024-05-20 14:45:41 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 天ノ川の源を尋ねる ・ 今昔物語 ( 10 - 4 ) 』


今は昔、
震旦の漢の武帝の御代に、張騫(チョウケン・前 113 年没)という人がいた。
天皇(正しくは皇帝。以下は皇帝を使う。)は、その人を召して、「天河(アマノカワ・七夕伝説の天ノ川のこと。)の源を尋ねて参れ」と仰せになって向かわせたので、張騫は宣旨
をうけたまわって、浮き木に乗って河の水上(ミナカミ)を尋ねて行くと、遙かに行き行きてある所に至った。
その所の様子は、全く見たこともない。そこに、いつも見ている人とは異なる様子の者が、機(ハタ)を数多く立てて布を織っている。また、見たこともない翁がいて、牛を引いて立っている。

張騫は、「ここは、どういう所ですか」と尋ねると、「ここは天河という所です」と答えた。
張騫が、また「この人々は、どういう人々ですか」と尋ねると、「私たちは、織女・牽星(タナハタツメ・ヒコボシ)と言います。ところで、あなたはどういう人ですか」と尋ねたので、張騫は「私は張騫と言います。皇帝の仰せによって、『天河の水上を尋ねて参れ』という宣旨をうけたまわって、ここまで来たのです」と答えると、ここの人々は、「此処こそは、天河の水上です。もう、返りなさい」というのを聞いて、張騫は返ってきた。

そして、皇帝に奏上した。「天河の水上を尋ねて参りました。ある所に至りますと、織女は機を立てて布を織り、牽星は牛を引いていて、『此処こそ天河の水上です』と申しましたので、そこから返って参りました。その所の様子は、普通の所とはまったく異なっておりました」と。
ところで、張騫が未だ返ってきていない時に、天文の者が七月七日に参上して、皇帝に申し上げたことは、「今日、天河のほとりに知らない星が現れました」というものであった。
皇帝はそれをお聞きになって、怪しくお思いになっていたが、この張騫が返ってきて申し上げたことをお聞きになって、「天文の者が、『知らない星が現れた』と言っていたのは、張騫が行ったのが見えたのだったのだ。ほんとうに尋ねて行ってきたのだ」とお信じになった。

されば、天河は天にあるのだが、天に昇らない人でも、このように見えたのである。これを思うに、その張騫という男は只者ではないに違いない、と世間の人は疑った、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆ 

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美貌が故の災難 ・ 今昔物語 ( 10 - 5 )

2024-05-20 14:45:11 | 今昔物語拾い読み ・ その2

      『 美貌が故の災難 ・ 今昔物語 ( 10 - 5 ) 』


今は昔、
震旦の漢の前帝(不詳。誤記らしく、前漢第十代元帝か?)の御代に、天皇(皇帝)は、大臣・公卿の娘で、容姿が美麗で優雅な者を選んで召し集めて、全員を宮中に座らせて、じっくりとご覧になられたが、その数が四、五百人にも及び、後には余りに多くなってしまい、とても全員をご覧になることもなくなってしまった。

ところで、胡国(ココク・西方の遊牧民の国。)の者たちが、都にやって来たことがあった。これは、夷(未開の国を指している。)のような者たちである。
そこで、皇帝を始め、大臣・百官など皆が集まって、どう対応すべきが議論したが、なかなか結論が出ない。ただ、一人の勝れた大臣がいて、その良い案を思いついて申し上げた。「あの胡国の者たちがやって来たことは、わが国にとって極めて良くないことです。それゆえ、策を練って、彼らを本の国に帰らせることで、その為には、宮中に無駄に大勢いる女たちのうち、容姿が劣る女を一人、あの胡国の者に与えるのがよろしいでしょう。そうすれば、きっと喜んで帰ることでしょう。これに勝る手段は決してありません」と。

皇帝は、これをお聞きになって、「なるほど」とお思いになったので、自ら女たちを見て、胡国の者に与えるべき者を決めようとなさったが、宮中にいる女人たちが余りに多く、思い悩んでしまわれたが、何とか思い至ったことは、「大勢の絵師を呼んで、この女人たちを見せて、その容姿を絵に描かせ、それを見て、容姿が劣っている女人を胡国の者に与えよう」ということであった。
皇帝の仰せによって、絵師たちを召して、宮中の女人たちを見せて、「この女人たちの姿を絵に描いて持って参れ」と仰せになったので、絵師たちは女人たちを描き始めたが、その女人たちは、夷の生け贄となって遙かに遠い見知らぬ国へ行くことになるのを嘆き悲しんで、誰もが我も我もと絵師に、ある者は金銀を与え、ある者は諸々の財宝を差し出したので、絵師はそれに影響を受けて、それほどでもない容姿の者も美しく描き上げて持参した。
その女人たちの中に王照君(オウショウクン)という者がいた。容姿の美しいことは抜きん出ていたので、王照君は自分の美貌に自信があり、絵師に財宝などを与えなかったので、その姿のままに描こうとしないで、大変賤しげに描いて持参したので、皇帝は、「この者を与えることにせよ」と決定された。

ところが、皇帝はふと思うところがあって、その女人を召し寄せてご覧になると、王照君はまるで光を放っているかのように美しい。実に玉の如くである。
それに比べると、他の女人はみな土の如くなので、皇帝は大いに驚き、この女人を夷に与えることを嘆いているうちに、数日が経ち、夷が「王照
君を下さる」という噂を聞いて、宮中にやって来てその旨を申したので、もはや、改めて決めなおすことなく、遂に王照君を胡国の者に与えたので、王照君を馬に乗せて胡国に連れて行ってしまった。

王照君は、泣き悲しんだが、もうどうすることも出来ない。
また、皇帝も王照君を恋い悲しんで、その思いが募り、王照君が連れて行かれた所に行って見てみると、春は柳が風に靡(ナビ)き、鶯がわびしげに鳴き、秋は木の葉が庭に積もり、軒の[ 欠字あるも不詳。]隙間なく、物哀れなること言いようもなく、ますます恋い悲しまれるのであった。

あの胡国の人は、王照君を賜って、喜んで、琵琶を弾き様々な楽器を演奏しながら連れて行った。
王照君は泣き悲しみながらも、その演奏を聞いて少し心が慰められた。胡国の人は、自国に連れ帰ると、后として寵愛すること限りなかった。それでも、王照君の心は、決して慰められることはなかったであろう。
これは、自分の美貌に自信がある故に、絵師に財宝を与えなかったからである、と当時の人は非難した、
となむ語り伝へたるとや。

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忘れさられた妃 ・ 今昔物語 ( 10 - 6 )

2024-05-20 14:44:45 | 今昔物語拾い読み ・ その2

     『 忘れさられた妃 ・ 今昔物語 ( 10 - 6 ) 』


今は昔、
震旦の唐の玄宗(ゲンソウ・第六代皇帝。762 年没。)の御代に、后・女御は大勢いらっしゃったが、ある人は寵愛されていたが、皇帝に見(マミ)え奉ることさえない人もいたが、皆、宮中に伺候していた。

ある時、ある公卿の娘[ 欠字あるも不詳。]に、並ぶ者とてないほど容姿が勝れ有様が立派であるのを皇帝がお聞きになって、熱心にお召しになった。
父母は拒むことなくして、娘の年が十六の時に奉った。その宮中に参内する時の有様は、すばらしい事限りなかった。
この国の習いとして、女御として入内する人は、再び退出することはないので、父母は別れることを嘆き悲しんだ。

さて、その女御は、皇帝がいらっしゃる宮殿内には住まず、離れて別の宮殿にお住まいになった。その宮殿の名を上陽宮(ジョウヨウグウ)と言う。
ところが、どういうことなのか、その女御が参られてから後、皇帝がお召しになることがなく、御使者さえ尋ねてこないので、ただ一人寂しく宮殿内でぼんやりと過ごしていたが、しばらくの間は、今か今かとお思いであったが、虚しく年月が過ぎて行き、すばらしかった容姿も次第に衰え、美麗であった有様もことごとく変っていった。
女御の家の人たちは、入内した始めの頃は、「あの君が、宮中に参上なさったので、我等はきっと恩恵にあずかる身となるだろう」と思っていたが、まったく当てが外れて失望するばかりであった。

このように、皇帝が召し出した女御がどうしているかとさえ思い出さないことは、他の女御たちが、この女御が美しいこと並ぶ者とてなく、自分たちが劣るため、策をめぐらして別の宮殿に押し込めていたからであろう。あるいは、国土は広く政治の務めは煩雑なので、天皇もお忘れになってしまっているのを、思い出させ奏上する人もなかったようだ、と世間の人はたいそう不思議に思った。

こうして、皇帝に対面することもなく、お嘆きになっている間に、奥深くにある宮殿において、長い年月を重ね、過ぎゆく年月を十五夜の月を見るごとに数えると、自分の年齢はそれほどになってしまったのだ。
春の日は遅くしてなかなか暮れず、秋の夜は長くしてなかなか明けず。そして、紅の顔(カンバセ)は若き頃の風情にあらず、柳のような髪は今や黒き筋もない。されば、親しくない人とは会わないと、恥じられる。
十六歳にして参内なさり、すでに六十歳におなりであった。

ある時、皇帝は、「そういう事があった」と思い出され、たいそう後悔なされた。
そこで、「何としても、会わないでいられない」と思ってお召しになられたが、その身を恥じて参上なさらず、お会いしないままになった。
この人を、上陽人(上陽の人。玄宗皇帝が楊貴妃を寵愛するあまり、上陽宮に忘れ去られた妃。)という。
物の道理をわきまえている人であれば、これを聞いて、とても理解することは出来まいと、
此(カク)なむ語り伝へたるとや。

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玄宗皇帝と楊貴妃 ・ 今昔物語 ( 10 - 7 )

2024-05-20 14:44:18 | 今昔物語拾い読み ・ その2

     『 玄宗皇帝と楊貴妃 ・ 今昔物語 ( 10 - 7 ) 』


今は昔、
震旦の唐の御代に玄宗という皇帝がいらっしゃった。性(ヒトトナリ)は、生まれつき色を好み、女を愛し給う心が強かった。

さて、皇帝には、寵愛しておられる后と女御がいた。后を[ 欠字。皇后の名前が入るが、良く分らない。]后宮と言い、女御を武淑妃(ブシュクヒ・伝不詳)と言った。
皇帝は、この人たちを寵愛し大切になさっていたが、その二人の后・女御が続いて亡くなってしまったので、皇帝はたいそう嘆き偲ばれたが、どうすることも出来ない。ただ、その人たちに似た女人を見つけようと、強く願い探し求められたが、人に任せているだけでは心許ないと思われてか、皇帝自ら宮殿を出てあちらこちらへと行き、様々な所を見て回られているうちに、弘農(グノウ)という所に行きあたられた。

その所に、楊の庵(ヤナギノイオリ・楊造りの庵、と思われるが、楊氏の庵が正しいらしい。)があった。その庵に、一人の翁がおり、名を楊玄琰(ヨウゲンエン)と言う。
従者にその庵を訪ねさせて様子を調べさせたところ、楊玄琰には一人の娘がいた。容姿は美しく有様のすばらしいことは世に並ぶ者がないほどである。まるで光を放っているように輝いていた。
従者はその娘を見て、皇帝にその旨を奏上すると、皇帝は喜んで、「すぐに連れて参れ」と仰せになったので、従者がその娘をお連れすると、皇帝はその娘をご覧になると、亡くなった后や女御よりも増さっていて、その美しさは数倍にも及ぶ。

そこで、皇帝は喜びながらその娘を輿に乗せて、宮殿に連れ帰った。
三千人にも及ぶ後宮の中でも、この人の美貌は抜きん出ていた。その名を楊貴妃という。
そのため、皇帝は他の事には目を向けようとせず、夜も昼も楊貴妃を寵愛なさるので、世の中の政もご存じなく、ただ、春は花を共に興じ、夏は泉に並んで涼み、秋は月を共に眺め、冬は雪を二人でご覧になられる。
このように、皇帝は楊貴妃を側から離さず、その他の事に割く時間は全くなく、この女御の御兄の楊国忠(ヨウコクチュウ)という人に、世の政をお任せになっていた。これによって、世間の大変な不満になっていた。そこで、世の人々は世間話で、「世にある人は、男子を儲けるよりは、女子を儲けるべきだ」と取沙汰した。

このように、世の中が騒がしくなっていたが、その時の大臣に、安禄山(アンロクザン・757 年没)という人がいた。賢明で思慮深い人で、皇帝が楊貴妃を余りにも寵愛するあまり、世の中が乱れることを嘆いて、「何とかこの女御の命を奪って、世を立ち直らせよう」と思う心があり、安禄山は密かに軍兵を集めて王宮に押し入ったが、皇帝は大変恐れて、楊貴妃を連れて王宮を脱出した。楊国忠も共に脱出したが、皇帝の護衛に当たっている陳玄礼(チンゲンレイ)という人がいたが、それが楊国忠を殺害した。

それから、陳玄礼は鉾を腰に差して、御輿の前にひざまづいて、皇帝を礼拝して申し上げた。「我が君、楊貴妃を寵愛なさるあまり、世の政に関わろうとなさらない。その為、世はすでに乱れております。国民の嘆きは、これに勝るものがありましょうか。願わくば、その楊貴妃を私に賜って、天下の怒りを鎮めるべきです」と。
しかし、皇帝は楊貴妃を思う心が深く、手放すことはとても出来ず、下賜することはなかった。

そうしている間に、楊貴妃はその場を逃れて、お堂の中に入り、仏の放つ光の中に身を置いて隠れようとしたが、陳玄礼はその姿を見つけて捕らえ、練絹を以て楊貴妃の首を結び、殺害した。
皇帝はその様子をご覧になって、半狂乱のようになり、涙を流すこと雨の如しであった。その様子はとても拝見することが出来ないほどであったが、道理にかなったことなので怒りの心はなかった。

さて、安禄山は皇帝を追い出して、王宮において政を行ったが、すぐに死んでしまった(我が子に殺された)。
そこで玄宗は、御子に帝位を譲って、自分は太上天皇(日本的な表現)になられたが、なお、楊貴妃のことを忘れることが出来ず嘆き悲しまれて、春は花が散るのも知らず、秋は木の葉の落ちるのも見ようとしない。木の葉は庭に積み上がったが、それを払う人もいない。
日が過ぎるほどに、むしろ嘆きは増すばかりなので、方士(ホウジ・道士とも。神仙の術を極めた者。)というのは蓬莱(中国の東方海上にあるという不老不死の理想郷。)に行くことが出来る者を言うが、その人が参上して、玄宗に申し上げたことは、「私は、皇帝の御使いとしてあの楊貴妃がいらっしゃる所を尋ねて参りましょう」というものであった。
玄宗はそれを聞いて、大いに喜んで仰せになられた。「されば、あの楊貴妃がいる所を尋ねて、その様子を我に聞かせてくれ」と。
方士はこの仰せをうけたまわって、上は虚空(大空)を極めて、下は底根の国まで探し求めたが、遂に尋ねることが出来なかった。

また、ある人が「東の海に蓬莱という島があります。その島の上に大きな宮殿があります。それが、玉妃(楊貴妃を指す)の大真院という所です。そこにあの楊貴妃がいらっしゃいます」と言った。
すると、方士はこれを聞いて、その蓬莱を尋ねて行った。その島に着くと、山の端に日はようやく沈んで行き、海の面は暗くなって行く。花の扉も皆閉じて、人の声もしないので、方士はその戸を叩くと、青い衣(冥界の人の衣の定番。)を着た乙女の髪をみづらに結ったのが出て来て、「あなたは何処からいらっしゃった人ですか」と訊ねた。
方士は、「私は唐の皇帝の使者です。楊貴妃に申すべき事があって、このように遙々と尋ねてきたのです」と答えた。
乙女は、「玉妃は、ただ今、お寝みになっております。しばらくお待ち下さい」と言うので、方士は手を[ 欠字あるも不詳。]て座っていた。

やがて、夜が明けたので、玉妃は方士がやって来ていることを聞くと、方士を召し寄せて、「皇帝は健やかにおいででしょうか。また、天宝十四年(755 年。安禄山の乱が起きた年で、楊貴妃が死んだのはその翌年。)から今日に至るまでの間に、国にどのような事が起ったのですか」と仰せになった。
方士は、その間の出来事をお話し申し上げた。
そして、帰る時になると贈り物を方士に渡して、「これを持ち帰り、皇帝に奉って下さい。『昔のことはこれを見て思い出して下さい』と申し上げて下さい」と言った。
方士は、受け取った簪(カンザシ)を見て、「玉の簪は、世間によくある物です。これを奉りましても、我が君は、真実の事とお思いにならないでしょう。ぜひ、昔、皇帝とあなたとの間でだけでお話になり、人にまったく知られていない事、それをお話し下さい。それをお伝えすれば、真実とお思いでしょう」と言った。

すると、玉妃は、しばらく考えてから仰せになった。「わたしは昔、七月七日に織女(タナハタツメ)に共に相まみえた夕べ、皇帝がわたしに寄り添って申されたことは、『織女と牽星の契りは、しみじみと感じる。我もまた、このようにありたいと思う。もし天にあれば、願わくは翼を並べた鳥となろう。もし地にあれば、願わくは枝を並べた木となろう。天も長く地も久しくあるといえども終りがあるのであれば、その恨みは綿々として絶えることがないだろう』と。その事を皇帝に申し上げて下さい」と。
方士は、これを聞いて帰り、その由を皇帝に奏上すると、皇帝はますますお悲しみになり、遂にその思いに堪えられずして、幾ばくも経たないうちにお亡くなりになった。

あの楊貴妃が殺された所に、思いが募るあまり、皇帝が行かれて御覧になった時、野辺に浅茅が風になびいていて、しみじみとした様子であった。この皇帝の心境はいかばかりであったろうか。されば、哀れなることの例えとして、この事をいうのである。(やや意味不明であるが、例えとなる歌があるらしい。)

但し、安禄山を殺すのも、世を直(タダ)すためであったので、皇帝も惜しまれることはなかった。
昔の人は、皇帝も大臣も、道理というものを知っていてこのようであったのだ、
となむ語り伝へたるとや。

     ☆   ☆   ☆

* 結びの部分が、今一つ解りにくいのですが、作者には、本話を単なる「情愛」の物語としてではなく、「物の道理」といった物を強調する意向があったのかも知れません。

     ☆   ☆   ☆

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