雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  美貌の剣士

2012-04-25 08:00:19 | 運命紀行
       運命紀行

          美貌の剣士


甲斐姫は、ついに開城を決意した。
小田原城が落ちた後も、唯一北条方として籠城を続けていた忍城であるが、北条氏が滅亡したとあっては、これ以上の戦いは無意味であった。甲斐姫は、継母や二人の妹とも計り開城を決めたのである。
甲斐姫は、継母や妹たちと共に甲冑に身を固め馬に乗り先頭に立った。その後には、家臣たちが続き、さらに農民や商人など共に籠城戦を戦った者たちを率いて、堂々の隊列を組んで城門を出て、石田軍に降ったのである。

豊臣秀吉が、北条討伐のため二十二万ともいわれる大軍を関東に向けたのは、天正十八年(1590)のことであった。
武蔵国忍城城主である成田氏長は、北条氏からの求めに応じ、三百五十騎を率いて小田原城に入った。
出陣にあたって氏長は、十九歳の長女の甲斐姫に後事を託した。氏長には三人の子供がいたが、いずれも娘ばかりだった。しかし、長女の甲斐姫は、東海一の美女と噂されるうえに、東海一の女剣士といわれる程の武技に優れ、武略にも非凡なものを有していた。
氏長は、甲斐姫の並の武将に引けを取らない器量を見込んで、「忍城は要害であるのでもっぱら守備を固めて守り抜くように」と言い残した。

氏長の妻は、甲斐姫にとっては継母にあたるが、太田道灌の曾孫で岩槻城主太田三楽斎の娘で、この女性も武勇の人であった。甲斐姫には十五歳の妹が二人いたが、一人は継母の娘であり、もう一人の生母は別の女性であったが、この四人はとても仲が良かった。
氏長出陣後の忍城には、侍は三百余りに足軽も四百余りしかいなかったが、敵軍襲来の噂を聞いて城下の農民や町人が続々と入城して来た。そして、籠城する人数は五千人にも膨れ上がっていった。

城主夫人を中心に甲斐姫と二人の妹が力を合わせることを誓い合った。
城主夫人が開いた軍議では、数少ない武者たちの配置に工夫を凝らし、農民なども総動員して、城を守りぬくことを決定した。戦闘要員が少ないことを悟られないための工夫や、城壁を上ろうとする敵に対する攻撃方法や、兵糧の管理などきめ細かな作戦がなされた。

やがて、秀吉勢の大軍が忍城を取り囲んだ。有り余る軍勢を動員した秀吉勢は、忍城一つに対して、石田三成を大将として、浅野長政、大谷吉隆、真田昌幸ら二万余の大軍であった。
忍城は利根川と荒川に挟まれた湿地帯に築かれていた。その中の小島を要塞化したもので大軍で攻め込むには困難な地形であった。
三成は、梅雨の時期でもあったことから、周囲に七里にも及ぶ堤を築いて水かさの増すのを待ったが、測量の稚拙さもあって、逆に堤の一部が決壊して数百の兵を失うという損害を出した。

三成は、この失態を挽回すべく、忍城への突入を強行した。
これに対して、甲斐姫は敢然として立ち向かったのである。
烏帽子形の兜に小桜縅の鎧、猩々緋の陣羽織をまとった甲斐姫は、黒駒に打ち乗り銀の采配を手に先頭に立ち、その後ろには二百の武者が続いていた。甲斐姫は事前に城外に伏兵を出していて、敵軍を混乱させ、退却させたうえで城内に戻った。
十九歳の麗しい乙女の颯爽たる指揮ぶりは、城内の士気をさらに高めた。
別の日には、乱戦の中、一騎打ちとなった真田軍の若武者を弓で打ち果たしたという。

しかし、甲斐姫らの忍城での奮闘も、北条方の劣勢に役立つものにはならなかった。
関東一円の北条方の城塞はすべて落とされ、ついに小田原城も開城となり、甲斐姫も収束を決意する。
城主夫人と三人の娘、そして家臣たちに続く農民たちも胸を張って城を出る。
甲斐姫が秀吉勢に敗れた瞬間であったが、歴史は、甲斐姫に新しい展開の舞台を用意していたのである


     * * *

甲斐姫の誕生は、元亀三年(1572)の頃である。
父は、忍城城主成田氏長で、彼が三十歳の頃の誕生と思われる。
母は、金山城主由良成繁の娘である。この母は、氏長が家督を相続すると同時に二十一歳で嫁いできたが、大変美人で武技にも優れた人であったらしい。
二人の結婚は、当時としてはごく当然である政略が絡んだものであった。つまり、北条方の氏長を古河公方方の成繁が味方に引き入れようとしたものらしいが、結局うまくいかず、天正元年に離縁、実母は二歳の甲斐姫を残して金山城に戻ったのである。

その後氏長は、大田道灌の血を引く女性を後妻に迎えているが、この女性も武勇に優れ、甲斐姫に対してもやさしい継母であったらしい。すでに述べたように、甲斐姫は実の母親とは早くに別れることになったが、継母に恵まれ、それぞれ母の違う二人の妹とも仲が良かったらしい。
そんな環境の中で、甲斐姫は実母や祖母(妙印尼)の美貌と、同じくその人たちの武勇と、加えて継母の教育もあって、美しくて、しかも東海一の剣士といわれる程の女性に成長していった。

やがて、小田原城が落ち、甲斐姫も秀吉勢の軍門に降ることになったが、忍城攻防戦での華麗な働きぶりは秀吉に伝えられ、奥州の仕置きに向かう途中で召し出されることになった。
そして、帰路上方に招かれ、側室となるのである。
甲斐姫が秀吉の寵を得たことで、氏長は助命され烏山城に移って二万七千石の所領を与えられたのである。

十九歳で秀吉の側室となり、大坂城に入った後の甲斐姫の消息は極めて少ない。
秀吉が亡くなるのは慶長三年(1598)八月のことで、およそ九年程の側室としての日々を過ごしている。その間のことについて伝えられているものはないようだが、甲斐姫の気持ちはともかく、物質的には栄華の頂点のような生活であったことは想像できる。当時の大名の側室の通例として、この時甲斐姫も落飾したものと考えられるが法名なども伝えられていない。
そして、元和元年(1615)五月、大坂夏の陣より大坂城は落城、淀殿と秀頼は自害、武者ばかりでなく城内にいた女性たちも含めて多くの命が失われている。甲斐姫、四十四歳の頃である。

豊臣秀頼には、二人の子供がいた(三人という説もある)。それぞれに別の側室から生まれた子供である。
嫡男にあたる男児は捕らえられ処刑されたが、もう一人の女児は秀頼の正室であり家康の孫娘である千姫の養女となっていたことから、尼となることを条件に助命されている。
千姫の懸命の働きかけに家康・秀忠がしぶしぶ承知したのであろうが、この運命の女児は、縁切り寺として有名な鎌倉の東慶寺に入り天秀尼となる。女児が八歳の頃である。
この天秀尼の生母は、成田氏と伝えられている。おそらく、甲斐姫の侍女として大坂入りした女性と考えられ、甲斐姫はこの女児の養育係を務めていて、東慶寺にも一緒に入山しているらしい。

そして、さらに時代は下って、東慶寺で大きな事件が起こっている。
寛永二十年(1643)、会津四十万石の藩主加藤明成と家老堀主水が衝突、堀が殺害される事件が起こった。当時の風潮として、事の正否に関わらず主人の主張が絶対視されていた時代であるが、堀の家族は加藤の振る舞いに不満を抱き逃亡、男子は高野山に逃げ込んだが高野山は女人禁制であり、妻や女子は東慶寺に逃げ込んだのである。
これに対して、加藤明成は藩の威信をかけて東慶寺に対し逃げ込んだ妻子の引き渡しを求めたの対し、天秀尼は、男子禁制、女性保護を盾にして拒絶、険悪な状態となった。
天秀尼は、千姫を通じて幕府に事態を訴え、その結果会津加藤藩は改易となったのである。
この事件により、東慶寺の力が全国に知られることとなり、縁切り寺としての権威はさらに増したのである。

この事件を考える時、秀頼の血筋を引く天秀尼だとはいえ、七歳までは深窓に育ち、過酷な経験をしたとはいえ、その後も出家の身とはいえ多くの女性に囲まれての生活を考えると、戦国の荒々しさを色濃く残している加藤藩と互角の交渉が出来たことに不思議を感じる。
幕府に訴え出た段階では、千姫の尽力が大きく、豊臣の匂いがする加藤家を退けたいという幕府の思惑も働いたのであろうが、そこに至るまでの交渉には、天秀尼には強力な側近がついていたと思われてならない。もし、そうだったとすれば、それは、甲斐姫をおいて他にはいないだろう。

天秀尼に、豊臣の誇りと東慶寺の権威を植え付けた人物こそ甲斐姫だったとすれば、その頃は甲斐姫も、七十二歳に達している。
当時の七十二歳は決して若くはないが、甲斐姫の祖母にあたる妙印尼は、七十七歳にして嫡孫を後見して、凛々しい馬上姿で戦場を疾駆したと伝えられている。
甲斐姫もまた、祖母に負けない若々しさで不運の天秀尼を力強く補佐していたとしても、何の違和感も感じられない。

                                          ( 完 )













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運命紀行  次の時代を紡ぐ

2012-04-19 08:00:39 | 運命紀行
       運命紀行

          次の時代を紡ぐ


ふと疑問を感じた。
何かが間違っているような気がしてならなかった。都における戦闘は膠着状態となっているも、関東をはじめ全体としては味方有利の展開であるはずだが、何かが自分の意志とは違う方向に動いているように思えてならなかった。
その動きは、当面の相手と戦うほどの激しさは感じられないが、もっと大きな、それも遥かに強大な力が時代そのものを動かせているような気配が感じられるのである。

細川勝元にとって、山名宗全率いる一族は、後ろ楯になってくれるものであって、戦う相手ではなかったはずである。それがいつしか対立する二つの陣営の将に立っているのだ。
勝元が父持之の死により家督を相続したのは、嘉吉二年(1442)のことで、この時、七代将軍足利義勝から一字を賜り勝頼を名乗った。そして、叔父にあたる細川持賢の後見を受けて、摂津、丹波、讃岐、土佐の守護となり、中央政界に登場したのである。
その頃の山名宗全は、前年の嘉吉の乱により赤松氏を降し、一族が支配する領国は細川氏に匹敵するほどになり、中央政権での存在感も増してはいた。しかし、宗全には中央政権での野望はそれほど感じられず、武士としての風貌を色濃く持っていた。

宗全は勝元より二十六歳上であるから、すでに四十歳に近く、勝元には宗全と武力をもって争う考えなど全くなく、むしろ積極的によしみを結ぼうとしていた。
勝元の戦いの相手は、管領職を競い合う斯波氏であり畠山氏であった。特にこの頃は、畠山氏の勢いが強く、これに対抗するためには強力な味方が欲しく、中央政治への野心が薄いと見える宗全は最も頼りに出来る人物であった。
宗全も若い勝元に対して好感を抱いていたらしく、もちろん少なからず打算はあるとしても、養女を勝元の正妻として娶せたのも、同盟を結ぶに適した人物と評価したからに違いなかった。

文安二年(1445)三月、勝元が十六歳で管領職に就くことが出来たのも、家柄とはいえ決して持ち回りなどではなく、細川一族の実力に加え、山名宗全の強大な軍事力が後押ししていたことも確かであろう。
その後も宗全が窮地に追い込まれた時には勝元が積極的に支援しているし、畠山氏の力を抑えるのに宗全の存在が役立つなど、暗黙のうちの同盟関係は続いてきていた。

しかし、現在三回目の管領職にある勝元は、宗全に危険な匂いを感じるようになってきていた。
それは、自分を裏切るといったものではなく、管領職という強力な権力を通して幕府の運営の実権を握ろうとしている勝元にとって、畠山氏や斯波氏とは違う圧力を宗全に感じ始めたのである。
宗全に中央政権への野心が薄いことは確かなようであるが、その裏返しとして、幕府権力を軽視するような面が多々見られるのである。宗全が頼りとするものは自らの武力であり、一族や同盟者との結束が基盤であり、幕府のしきたりや官位などに縛られない不気味さを感じさせるのである。

二人の関係がはっきりと対立したのは、寛正五年(1464)の頃であったか。畠山氏の家督をめぐる争いに絡んで、両者の対立があり、その後は足利将軍家の後継争い、斯波氏の家督争いなどにおいてことごとく対立するようになっていった。その遠因には、山名氏の宿敵ともいえる赤松氏に対して勝元が支援していることがあることも確かであった。
そして、気がついてみると、いつの間にか両者を頂点とした二つの陣営が全国を真っ二つにして戦っていた。

何かが違う。
この思いは、勝元の胸の中で膨らみ続けていった。宗全の幕府権力を軽視するかの振る舞いは許し難いが、かといって、山名氏を敵に回して利するものは少ないと思うようになっていった。
勝元は、後継者と考えていた猶子の勝之を廃嫡し、宗全の養女である正室の子である政元を後継者に変えた。すると、これに呼応するかのように、宗全は自殺を図ったという騒ぎがあり隠居したのである。この両者の阿吽の呼吸のごとき行動を背景に和睦の交渉がなされたが、勝元陣営の有力者である赤松正則の抵抗で実現させることが出来なかった。

そして、翌年の文明五年(1473)三月、宗全の死去が伝えられてきた。死因は自殺騒ぎの折の傷の悪化によるとも伝えられたが、ここ数年体調を悪くしていたことも事実であった。
いずれにして、隠居しているとはいえ実質的な敵大将の死は何よりの朗報であったが、勝元は素直に喜ぶことが出来なかった。

何かが違う。彼と戦うつもりなどなかった。
幕府権力を背景に国家の安泰を図ろうとしている自分とは、明らかに違う価値観を持っている舅でもある宗全の存在に恐怖を抱いていたが、何か、とてつもなく大きなものを失ったような虚脱感に、勝元は襲われていた。


     * * *

細川氏は、清和源氏の末裔であり、名門足利氏の支流にあたる。
細川の名乗りは、鎌倉時代に三河国額田郡細川郷に土着したことに由来する。
南北朝時代には、細川氏は足利尊氏のもとで北朝・室町幕府方として活躍し名声を得た。やがて、畿内を中心に一門で八カ国の守護職を占める守護大名となる。
三代将軍足利義満の時代、細川頼之は管領としてよく補佐し、以後嫡流である京兆家は代々管領に任ぜられる斯波・畠山と共に、三管領の一つに数えられるようになった。
なお、戦国時代後期以降活躍する肥後細川家の祖である細川幽斎は、傍流の和泉上守護家の出身である。

細川勝元は、細川氏の嫡流京兆家の嫡男として生まれた。父は細川持之、母は京極高光の娘である。永享二年(1430)のことである。
嘉吉二年(1442)八月、父の死により十三歳で家督を相続、勝元と名乗る。そして、叔父細川持賢の後見を受けて四カ国の守護となり、中央政権に登場する。
文安二年(1445)三月、十六歳で管領となり、幕府政治運営の中心に立つ。この後、三度にわたって、合計二十三年間管領職の地位に就いており、実に生涯の半分以上を管領として過ごしたことになる。

勝元が家督を引き継いだ頃、幕府政治の実力者は勝元の父から管領職を引き継いだ畠山持国であった。
細川一族の頂点に立った勝元の当面の敵は持国を当主とする畠山一族であった。勝元の最初の管領職は四年半で交代するが、その後の管領に就いたのも持国だった。
管領職を務めるのは、この両家と斯波氏を加えた三家であるが、第一の名門である斯波氏の力はすでに脅威というほどではなかった。細川氏の幕府内の地位を盤石にするためには、何としても畠山氏を圧倒する必要があった。勝元が山名宗全と同盟関係を持ったのは、実にそのためのものであった。

しかし、畠山氏との勢力争いで有利な立場に立って見ると、次の壁が見えてきていた。皮肉なことであるが、それが宗全であった。しかも彼は、勝元とは少し違う価値観を持つ人物であった。
畠山氏との争いは、同じ土俵の上での争いといえるが、宗全の場合は、少し異質の面を持っていた。
幕府勢力の重要な地位にあり、守護大名として力を蓄えていることは同じなのだが、宗全には、どこか幕府の組織を超越しているかのような部分が感じられるのである。自らの力だけを信じているような振る舞いが見られるのである。
勝元は、いつのまにか宗全のとらまえ難い発想に恐怖を感じ始めていたのである。そして、自ら意図したわけではなかったが、天下を二分する戦いに突入し、勝元と宗全はそれぞれの陣営を率いるようになっていたのである。

文明五年(1473)三月、山名宗全死去の報が伝えられた。
応仁の乱と呼ばれることになる戦いはすでに七年目を迎えており、膠着状態が続き両陣営に厭戦気分が高まっていた。そのような時の敵軍の大将の死は、この上ない朗報のはずであった。
しかし、勝元は、素直に喜ぶことが出来なかった。それよりも、むしろ喪失感のようなものが心の奥で吹き荒んでいた。
勝元が世を去るのは、この二カ月足らず後の事であった。享年四十四歳である。

やがて戦いは、それぞれの後継者の手により和睦が結ばれ集結する。
勝元の死去により家督を相続した政元は、勝元を上回る権力を掌握し、勝元が求めていた幕府内で絶対的な権力をつかむ。しかし時代は、勝元が漠然と恐れを感じていたように、幕府権力を絶対と感じない勢力が、全国各地に続々と登場し始めていた。
勝元と宗全が、全国を二分するほどの戦乱を展開させたことによって、次の時代の主役たちの孵化を促したかのように見える。彼もまた、次の時代を紡ぐ人物の一人であったことは間違いあるまい。

                                         ( 完 )



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運命紀行  この命ある限り

2012-04-13 08:00:43 | 運命紀行
       運命紀行  

            この命ある限り


妙印尼は馬上の人となった。
夫を見送り、落飾してすでに六年の年月が過ぎていた。ここ桐生城で隠遁の生活に入っていた妙印尼に息子たちの危機が伝えられたのは、天正十二年のことである。
妙印尼は既に七十歳を過ぎていたが、何の迷いもなく行動に移った。嫡男が城主を務める由良氏の拠点金山城に向かって出立した。下野桐生城から上野金山城まではおよそ三里(12km)、僅かな供を従えて墨染の衣を翻して馬を飛ばした。

妙印尼の夫由良成繁から家督を引き継いだ嫡男国繁は、金山、桐生両城の城主として君臨しており、長尾家の養子となった次男顕長も、館林城、足利城を領有するなど勢力を強めていた。しかし、上野・下野を中心とした地は巨大勢力による争いが絶えない地域であった。
由良氏も同様であり、北条からの同盟の誘いを無視することは出来なかった。由良国繁・長尾顕長の兄弟が、北条氏からの厩橋での茶会の招待に応じると、そこで拘束され、幽閉されてしまったのである。

金山城に入った妙印尼は、息子二人が揃って出掛けていった無防備さを嘆きながらも、自ら軍議を取り仕切り、北条方と毅然とした態度で接することで家臣たちの意思統一を図った。そして、この難局を自分が先頭に立って指揮することを宣言した。
妙印尼は夫成繁から「金山城は山上に池があり飲み水に渇くことがなく、林が多く薪に困ることがない。東北に渡良瀬川、南に利根川を有する要害の城である。いかなる大軍を迎えても、武略に優れ、兵糧矢玉が尽きなければ、十年二十年の籠城にも耐える」と教えられていた。

果たして、北条方からは、国繁、顕長の身柄と引き換えに由良・長尾の諸城すべての明け渡しを求めて来た。
これに対して妙印尼は、わが子への情愛を抑え由良氏の存続をかけた戦いを決意する。
具足に身を固め、その上に白練り衣を羽織った妙印尼は、朱柄の長刀を膝に置き、三男の重勝や末娘を側に控えさせ、三千余の家臣を指揮して防備を固めた。
北条氏照が率いる大軍は、利根川を渡り金山城を取り囲んだ。
妙印尼は、広大な山城である金山城内を馬で駆け巡り、将兵たちに指示を与え、激励して回った。
北条方は、磔木を先頭に立て、「城を開けねば、国繁・顕長を磔にする」と叫んだが、妙印尼は屈することなく、「あの下知している者を大筒にて撃て」と命令した。
大筒を一時に三発放つと、砲弾は見事命中、下知をしていた武者や周りの者も吹き飛ばされた。城内からはすかさず兵が攻めかかり局地戦で勝利することになった。

由良成繁が言い残したように、金山城は堅固であり、城内の士気は衰えることがなかった。
北条方もついに力攻めをあきらめて、和睦を持ち出してきた。妙印尼にしても、いくら堅固な城と忠節を守る将兵がいるとしても、北条氏を相手にいつまでも持ちこたえられるものでもなかった。
人質となっている二人の息子の命と引き換えに、由良氏が金山城を明け渡して桐生城に移ることと、長尾氏も館林城を明け渡して足利城に引くことで和睦は成立した。
両家にとってこの犠牲は大きなものであったが、妙印尼の働きにより由良氏は上州において強い力を保持することが出来たのである。


     * * *

妙印尼は、俗名を輝子といい館林城主赤井重秀の娘と伝えられている。生年は永正十一年(1514)の頃とされる。
長じて由良成繁に嫁いだ。成繁は、もとは南北朝悲運の武将新田義貞の末裔である横瀬氏であるが、岩松氏を降し金山城主となり、その後由良氏を名乗っている。年齢は妙印尼より八歳ほど上であったらしい。
成繁は上杉管領に属していたが、上杉憲政が越後の長尾景虎(謙信)に管領職を譲ると、これを嫌って古河公方に移り、謙信軍と二度戦いこれを退却させるなどの武勇を通じて勢力を強めていった。

妙印尼は成繁との間に三男二女を儲けた。この女の子の一人が忍城に嫁ぎ甲斐姫という女傑を生んでいる。甲斐姫は東海一の美女と伝えられているので、おそらく妙院尼も美貌の持ち主と想像できるし、才知、武勇ともに優れた武将の妻であったが、同時に五人の子供を立派に育てた良妻でもあった。
夫の成繁は天正二年(1574)に家督を嫡男国繁に譲り、桐生城で隠居生活に入り、妙印尼も静かな生活を送っていたことであろう。そして、その四年後に成繁が七十三歳で死去、輝子が仏門に入り妙印尼と名乗るのはこの時からである。

その後は、夫の菩提を弔いながらの穏やかな日を過ごしていたが、戦乱の世は才知、武勇共に優れた妙印尼を再び歴史の舞台へと誘うのである。
夫が亡くなってから六年程経った時に、冒頭の大事が出来したのである。この時の危機は、多大な損失を出しながらも御家の安泰が図ることができて、妙印尼は静かな生活戻っていたが、さらに六年後に御家消滅の危機に直面するのである。

天正十八年、豊臣秀吉は天下掌握の最後の障害である北条氏討伐のために大軍勢を関東に出陣させた。
迎え撃つ北条方は難攻不落を誇る小田原城を頼りとして籠城戦に出る。
北条氏の配下に属していた国繁・顕長の二人の息子は、三百騎を率いて小田原城に入った。
しかし、既に七十七歳になっていた妙印尼は、冷静に天下の動向を分析していた。日の出の勢いの秀吉を侮っている北条氏政・氏直父子に勝機はないと読んでいた。息子たちが北条の陣営に加わることは避けられないとしても、亡き夫が築き上げた由良の家を滅亡させるわけにはいかない。老いたりとはいえ、この命ある限り座視することなど出来なかった。

秀吉軍に属する、前田利家、上杉景勝の大軍が碓氷峠を越えて上州に入ったとの報が届くと、妙印尼は秀吉陣営に飛び込んでいく決意を固めた。
十歳になる嫡孫の貞繁を大将として、後見人としての妙印尼は轡(クツワ)を並べ、五百の兵を率いて桐生城を出た。そして、秀吉軍の先手衆として松井田城攻めに加わり、戦功を上げた。
前田利家は、妙印尼の年齢を感じさせない見事な采配ぶりに感動し、その働きぶりを秀吉に伝えた。秀吉も感激して妙印尼に直接対面し、その武功を称えたといわれている。

やがて小田原城は開城され、北条氏は滅亡する。
この戦いの後、関東の地が徳川家康に与えられたため、桐生城も足利城も召し上げとなってしまったが、妙印尼の働きにより二人の息子は助命され、妙印尼に対して常陸国牛久に五千石の領地が与えられた。これにより由良氏は存続できたのである。

妙印尼は、文禄三年(1594)秋、世を去った。享年八十一歳。おそらく、戦国一の女傑だったのではないだろうか。

                                         ( 完 )



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運命紀行  赤入道出陣す

2012-04-07 08:00:36 | 運命紀行
       運命紀行

          赤入道出陣す


但馬の国出石此隅山城には、人馬が溢れていた。
京都の風雲は各地に伝えられており、御大将の呼び掛けに、あるいは自ら志願して、ここ但馬の国や隣接する播磨の国からばかりでなく、遠く伯耆や備後、四国からの軍勢も加わっていた。
その軍勢の数はすでに一万を遥かに超えているが、一日を数えるごとになおその数を増していた。
それぞれの軍勢を指揮する武者たちの士気は高く、全体がうねるような勢いは、もう誰にも止めることは出来なかった。

ついに御大将は、進軍を号令した。この城の主であり、赤入道の異名を持つ山名宗全である。
赤入道の采配が指し示す先は、京の都であった。
細川勝元を支持する軍勢は、すでに都の要所を押さえているという知らせが次々に届けられていた。細川勢は、近畿一円に領国を持つ守護や国人が多く、すでに京都には細川方の軍勢が満ち溢れており、足利将軍家の邸である室町亭も奪われていた。
山名宗全のもとには逐一それらの情報が伝えられ、山名勢を支持する一派からは一日も早い上洛を再三促されていたが、足もとともいえる播磨国内において、細川勝元の支援を受けた赤松一族の蜂起が続き苦戦を強いられていてた。
しかし、伝えられる京都の状況は、山名勢にとって危機的な状況となっていた。もう播磨の小競り合いに関わっている余裕はなかった。

京都に入った山名宗全は、諸将を集めて軍議を開き、五辻通大宮東に本陣をおいた。
出石から京都に向かって進軍する間にも軍勢の数は膨れ上がり、軍議を開いている間にも各地からの軍勢の到着が続いていた。
この年の三月に改元されて応仁となった五月二十日のことであった。

一方の細川勝元勢は、一族の領国を中心に兵を集め、すでに十万を超える大軍を集結させていた。足利将軍の室町亭を陣営に取り込み、勝元の自邸である今出川屋敷を本陣としていた。
細川勢は都の要所に展開し、山名勢の年貢米を奪うなど挑発を続けていた。

五月二十六日、山名勢が細川勝久邸を攻撃し激戦となった。それぞれに援軍が加わり乱戦となるも決着がつかず、翌二十七日には両軍とも引いていったが、北は船岡山から南は二条通に到る広大な市街が炎上した。
五月二十八日には、将軍足利義政は和睦命令を出し収束に努めるも、動き始めた大軍勢を封じ込めることなど出来るものではなかった。
六月三日には、勝元が足利義政に要請し、将軍の牙旗を賜ることに成功する。これにより細川勢が官軍としての体裁を整え、戦力的に勝ることもあって有利に展開していった。
赤松正則軍が山名教之を破るなど局地的な勝利を収めるも決定的な勝利には到らず、類焼地ばかりが拡大していった。

そして、六月十四日に大和の古市軍、十九日には紀伊の畠山政国の軍勢など山名勢の援軍が続々と到着し、八月になると周防の大内政弘が大軍を率いて入京すると山名勢の戦力は一気に強まった。
十月には、相国寺において激しい戦いが展開されたが、勝敗を決するには到らず、市街地の荒廃は目に余る様相となっていった。
両軍は共に引かず、小競り合いが続く膠着状態に陥っていった。

それぞれの本陣の位置から、細川勝元側を東軍、山名宗全側を西軍と呼ばれたこの戦いには、都に集結した軍勢は、東軍十六万、西軍十一万とも伝えられており、さらに、九州北部から関東までのほぼ全国を巻きこんだ大乱となっていった。
世に言う、応仁の乱の幕開けである。


     * * *

応仁の乱の一方の旗頭である山名宗全は、山陰地方に大勢力を張っていた山名一族の出身である。

山名氏は、河内源氏の末裔であるが、新田義重の庶子、三郎義範を始祖としている。彼が上野国多古郡の山名郷を本拠地としたことから、山名氏を名乗るようになった。
鎌倉時代には、早くから源頼朝の御家人となり、源氏門葉として重用された。
南北朝時代には、新田義貞を中心に南朝に参加した新田一族とは一線を画し、山名時氏は縁戚の足利尊氏に従った。それが幸いし、尊氏が室町幕府を開くと時氏も守護大名として身代を増やしていき山陰地方を中心として有力一族に成り上がっていった。

その後曲折を経て、二代将軍足利義詮の時代には、幕府の重臣として四職家の一つに遇せられた。そして、時氏の子の氏清の時には、一族で全国六十六か国中の十一カ国の守護職を占め、「六分の一殿」と称せられ絶大な実力を誇った。
因みに、室町幕府における将軍に次ぐ役職は、将軍を補佐し幕政を統括した「総管頭領」つまり管領であるが、この役に就くのは斯波、細川、畠山の三氏であり、これに次ぐのが「侍所頭人」に任じられた四職と呼ばれる赤松、一色、京極、山名の四氏である。これらの重職を指して「三管四職」と呼ばれた。

山名氏一族の勢力が膨らむにつけ風当たりも強くなり、三代将軍足利義満からは危険視され、山名殲滅の謀略が図られたこともあり、山名氏清は一族を結集して京都に攻め入るも、逆に氏清が戦死するという敗北となってしまう。
明徳の乱と呼ばれるこの戦いの後、山名氏の存続は許されたが、氏清の三人の甥、すなわち、時煕の但馬守護職、氏之の伯耆守護職、氏家の因幡守護職のみとなり、一族の勢力は大幅に削減されたのである。
宗全は、辛くも存続が認められた但馬守護職の家に誕生するのである。

山名宗全は、応永十一年(1404)五月、時煕の三男として誕生した。但馬守護職の家ではあるが、辛うじて存続を認められた家であり、しかも三男ということであれば、中央政界での活躍など予想されない誕生であった。しかし、父時煕の活躍と数奇な運命が宗全を時代を動かす人物として登場させるのである。
応永二十年(1413)、十歳で元服、四代将軍足利義持の一字を賜り、持豊と名乗る。後に出家して宗峰と号し、さらに宗全と変えていくが、ここでは宗全に統一させていただいた。
応永二十年には長兄の満時が死去、さらに永享三年(1433)には次兄の持煕が六代将軍足利義教の勘気を受けて廃嫡されるという事態が生じた。宗全の活躍の舞台が整えられたのである。

永享五年(1433)八月、家督を相続して但馬、備後、安芸、伊賀の四カ国の守護大名となった。宗全三十歳の時である。
この頃には、すでに病がちであった父に代わって将軍義教に仕えていたが、同七年に父時煕が死去するとやはり一族の中での動揺が懸念された。果たして、同九年には、宗全の家督相続に不満を抱いていた次兄の持煕が備後で挙兵したが、これを鎮圧して一族の中で確固たる地位を固めた。
そして、同十二年(1440)、幕府侍所頭人兼山城守護の地位を得る。この地位は、管領職に次ぐものであり、幕府中枢に上ったことになる。

嘉吉元年(1441)六月、宗全にさらに大きな試練が待っていた。
宗全は将軍足利義教と共に播磨・備前・美作の守護である赤松満祐の邸に招かれたが、そこで将軍が赤松満祐に暗殺されるという大事件が発生したのである。嘉吉の乱である。宗全は窮地を脱出したが負傷を負ったともいわれている。
この事件は、義教が畠山、斯波、山名、京極などの家督相続に強引に介入しており、次はわが家だと察した満祐が先手を打ったものである。
将軍暗殺という大事件に関わらず、その後の幕府の行動は緩慢なものであった。この時の管領は細川持之であったが、持之は満祐と親しく何とか赤松氏に有利な方法を画策していた。このため各守護大名の行動が煮え切らないものになったのである。

ところが、この時単独で赤松討伐の軍を起こしたのが宗全であった。
領国に逃げ帰った宗全は、山名一族を纏めて攻撃を仕掛け、赤松氏を殲滅したのである。満祐は自害し、名門赤松氏はいったん滅亡したのである。
宗全の発言力は増し、幕政の一方の旗頭になっていった。身代においても、赤松氏の領国のうち播磨を手中に入れ五カ国の守護となり、共に戦った一族の山名教清、山名教之らも領国を増やし、一族で十カ国の守護となるなど、細川氏さえ凌ぐ存在へとなったのである。

しかし、赤松氏の残存勢力は、播磨を中心に復帰を目指す蜂起が続き、細川氏の支援を受けた勢力が宗全を悩まし続けることになる。
その一方で、嘉吉の乱で討たれた山名煕貴の娘を猶子に迎え、一人は大内教弘に嫁がせ、もう一人を細川勝元に嫁がせて、縁戚による同盟を計っている。同盟の目的は、やはり実力者の畠山持国に対抗するためであった。

山名宗全と細川勝元は、ややもすると宿命のライバルのような捉え方をしがちであるが、決してそうではない。
宗全にすれば勝元は養女とはいえ娘婿であり、勝元にしても、本当のライバルは管領職に就く家柄である斯波氏であり畠山氏であった。彼らを圧倒するためには舅である宗全の強大な軍事力は味方にしておきたい存在であった。
実際に、宗全が赤松氏の復帰をめぐり八代将軍足利義政と対立し、宗全討伐の命令が発せられ、諸大名の軍勢が京都に集結するという騒ぎになった時には、勝元の取りなしで治めることが出来たのである。
もっとも、そのため宗全は家督を嫡男教豊に譲り、但馬に下国して四年ばかりを過ごしている。

宗全をめぐる様々な事変は、山名氏の浮沈を演出するだけではなかった。
将軍家をはじめ、斯波氏、畠山氏など家督をめぐる争いは都を揺るがせ、それが各地に拡大していっていた。遠く関東の地では、関東管領職をめぐる争乱を中心に豪族たちの動きが活発化していた。守護を頂点とした諸国の秩序は揺らぎ、下克上と表現される武力を中心とした波が全国に広がっていた。
宗全と勝元の対立が鮮明になったのは、畠山氏の家督相続からとされているが、各氏の相続争いや領地争いで、ことごとく対立するようになり、それぞれに利害を中心とした支持勢力がつき、いつしか二人を頂点とした二派が生まれていった。

そして、播磨で蜂起した赤松氏の制圧に苦戦している宗全をしり目に、勝元は都の制圧を進めていた。上御霊神社での戦いは、畠山氏の相続をめぐる戦いではあったが、いつしか二分されている勢力の激突は避けられない状況になっていた。
宗全のもとへは都から出陣を願う使者が後を絶たず、ついに諸大名諸豪族に号令し、出石此隅山城(イズシ コノクマヤマ ジョウ)に大軍を集結した。

そして、赤入道との異名もつ武将山名宗全が、大軍を率いて都に向かって出陣を開始した。応仁の乱の始まりである。
この戦いは、およそ十年にも及ぶものとなるが、その大半は膠着状態であり、両軍大将の死去により明確な決着のないまま和睦となる。
この戦いでは、多くの戦死者や戦乱に巻き込まれた犠牲者は数知れず、都の大半を焼失させる被害を与えることになるが、戦国時代という幕を開けるためには避けられない歴史の必然であったのかもしれない。
さらに言えば、その一方の旗頭となった山名宗全という人物は、すでに戦国大名と同一の風貌と戦略を有していた人物のように思われてならない。

                                         ( 完 )
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