( 十二 )
美沙子が去った後、飯島は激しい虚脱感に襲われていた。
飯島の心の中で美沙子に対する感情に大きく揺らぐものはあったが、それを気付かれていたとは思えないし、もし気付かれていたとしてもそれを理由に自分のもとを去っていったとは考えられなかった。
残された短い手紙を繰り返し読んだ。そして、飯島が思い至ったことは、美沙子はやはり真沙子の子供であって、自分と真沙子の関係を知っていたのだということだった。いつ知ったのか分からないが、そのことで美沙子は、かつての自分の行動を責めているのだと判断せざるを得なかった。
「全てが終わったのかもしれない・・・」
と、飯島は思った。それは、美沙子とのことであり、青春の日の悔いへの償いが果たされないことでもあった。
茫然のうちに二日間が過ぎた。
一時は、後を追うことは美沙子を更に苦しめることになるとも考えたが、ちょうど届けられた美沙子に関する調査書で、彼女が紛れもなく真沙子の子供であることを確認した時、後を追う決心がついた。
このまま諦めてしまえば、あの時と同じになる。今行動しなければ、青春の日と同じ過ちを繰り返すことになる。今行動しなければ、美沙子まで失ってしまうと思った。
飯島は信州に向かっていた。
調査書には、真沙子の死亡も極めて事務的に記されていた。そして、真沙子が生まれた時の本籍は信州の住所になっていた。
若かったあの頃、故郷について多くを語らなかった真沙子がふと漏らしたその村は、八ヶ岳を間近に仰ぐ辺りだと語っていた。あの時の、真沙子の寂しげな瞳がありありと浮かんでくる。
飯島の願いは、美沙子の幸せである。真沙子への償いの気持ちもあるのは確かだが、美沙子の幸せを願う気持ちにはいささかの偽りもなかった。美沙子の幸せのためになることならいかなる援助も惜しまないつもりだった。
しかし、今は少し違ってきていた。
美沙子から明確な決別のメッセージに苦しんだ結果、そして、再び若い日と同じ過ちを犯しそうになった自分の姿を知った時、飯島の気持ちに明らかな変化が起きていた。
美沙子の幸せを願う気持ちが変わったわけではないが、それ以上に美沙子を失いたくないという気持ちが大きくなっていた。冷静に考えれば、その気持ちは今に始まったものではないのかもしれないが、飯島が美沙子に尽くそうとしていたものは、彼女の幸せのための側面援助だった。美沙子の後を追うことを一瞬でも躊躇したのは、その思いからだった。
しかし今は、もっと主導的に美沙子の幸せを考えたいと思い始めていた。実は、そう思っていたのはずっと前からのことで、美沙子の決別のメッセージによりはっきりと認識させられたのかもしれない。
美沙子に対して限りなく愛情を注ぎたいと思ったのは、真沙子から一方的に奪っていた愛情を、たとえほんの僅かでも返したいとの思いからだった。
しかし、今は明らかに違っていた。自分自身のために美沙子を失ってはならないのだった。たとえそれが、再び一方的に愛情を奪おうとしていることだとしても、今行動しなければ再びあの時の過ちを繰り返してしまう、と飯島は自分自身を励ました。
美沙子は、着の身着のままに近い状態で出て行っていた。お金も僅かしかもっていない筈である。訪ねて行ける人のことなど聞いたことがなかった。東京に戻ることなど考えられないとすれば、美沙子が向かう先は母の故郷だと、飯島は思った。
青山に仕事を託し、飯島は信州に向かった。
調査書に書かれている母の本籍地と、若い日に真沙子から聞いた、あの人の故郷の山や川の話が道標だった。
**
秋が訪れる季節だが、いつまでも残暑が厳しかった。
飯島は、何ケ所かで尋ねはしたが比較的容易に真沙子の生家を探し当てることが出来た。今は遠縁にあたるという老夫妻が住んでいた。
美沙子がすでにこの村に来ているのかどうかは分からなかったが、少なくともこの家は訪ねていなかった。
老人が案内してくれた村の墓地にその墓はあった。
林に囲まれた墓地は歴史を感じさせる鄙びたものだが、真沙子の眠る墓は比較的新しいものだった。案内してくれた老人の話では、美沙子の伯父夫婦がこの村を離れる時に新しくしたということだった。
飯島は老人に礼を述べて別れ、一人墓前に額ずいた。墓碑に刻まれた名前が悲しかった。老夫妻が用意してくれた心ばかりの花束を供え、過ぎた日を思った。
真沙子との思い出は、懐かしさを覆い隠す苦さとともに蘇ってくる。それは、飯島の心の奥から切なく沸き上がり、美沙子との短い日々とも入り交じった。飯島の中で、時間の経過が混乱していた。
どの位の時間が流れたのか、ようやく我に帰った飯島は頭を上げた。そして、立ち上がろうとした時、墓石の土台の辺りに泥のようなものが付着しているのに気がついた。蝉の抜け殻だった。
「うつせみ・・・」
と、飯島は呟いた。
この空蝉が、真沙子の人生だったというのか・・・。それならば、自分はどのように詫びれば許されるのか・・・。
当社のホープと言われ、仕事の上ではそれなりの成果を上げてきたという自負もあった。
しかし、今こうして過ぎ去っていった取り返しのつかない日々を思う時、虚しさが胸に迫ってくる。そして、いくら後悔してみても、今さら取り返すことのできない時間が過去という闇の中に消え去っているのだ・・・。残されているものといえば、空蝉のような虚しさだけなのだ。
この空蝉は、自分の今の姿なのだ、と飯島は思った。
その時、背後に人の気配を感じた。
立ち上がり振り返った飯島の前に、若き日の真沙子の姿があった・・・。
美沙子はハンカチで飯島の頬を拭うと、そっと腕を組んだ。そして、二人は無言のまま墓前に立ち尽くしていた。
「行きましょう・・・」
どの位の時間が過ぎた後だったのか、美沙子は腕を組んだまま飯島を見上げて言った。
飯島は、遠い日のことと現実の時間が再び混乱しているのを意識しながら、何度も何度も頷いた。
「どこまで行けるか分かりませんが、一緒に連れて行ってくださいな」
美沙子は、さらに体を寄せて言った。
この人とここで会えたのは、もしかすると母の意志かもしれないと美沙子は思った。
( 完 )
美沙子が去った後、飯島は激しい虚脱感に襲われていた。
飯島の心の中で美沙子に対する感情に大きく揺らぐものはあったが、それを気付かれていたとは思えないし、もし気付かれていたとしてもそれを理由に自分のもとを去っていったとは考えられなかった。
残された短い手紙を繰り返し読んだ。そして、飯島が思い至ったことは、美沙子はやはり真沙子の子供であって、自分と真沙子の関係を知っていたのだということだった。いつ知ったのか分からないが、そのことで美沙子は、かつての自分の行動を責めているのだと判断せざるを得なかった。
「全てが終わったのかもしれない・・・」
と、飯島は思った。それは、美沙子とのことであり、青春の日の悔いへの償いが果たされないことでもあった。
茫然のうちに二日間が過ぎた。
一時は、後を追うことは美沙子を更に苦しめることになるとも考えたが、ちょうど届けられた美沙子に関する調査書で、彼女が紛れもなく真沙子の子供であることを確認した時、後を追う決心がついた。
このまま諦めてしまえば、あの時と同じになる。今行動しなければ、青春の日と同じ過ちを繰り返すことになる。今行動しなければ、美沙子まで失ってしまうと思った。
飯島は信州に向かっていた。
調査書には、真沙子の死亡も極めて事務的に記されていた。そして、真沙子が生まれた時の本籍は信州の住所になっていた。
若かったあの頃、故郷について多くを語らなかった真沙子がふと漏らしたその村は、八ヶ岳を間近に仰ぐ辺りだと語っていた。あの時の、真沙子の寂しげな瞳がありありと浮かんでくる。
飯島の願いは、美沙子の幸せである。真沙子への償いの気持ちもあるのは確かだが、美沙子の幸せを願う気持ちにはいささかの偽りもなかった。美沙子の幸せのためになることならいかなる援助も惜しまないつもりだった。
しかし、今は少し違ってきていた。
美沙子から明確な決別のメッセージに苦しんだ結果、そして、再び若い日と同じ過ちを犯しそうになった自分の姿を知った時、飯島の気持ちに明らかな変化が起きていた。
美沙子の幸せを願う気持ちが変わったわけではないが、それ以上に美沙子を失いたくないという気持ちが大きくなっていた。冷静に考えれば、その気持ちは今に始まったものではないのかもしれないが、飯島が美沙子に尽くそうとしていたものは、彼女の幸せのための側面援助だった。美沙子の後を追うことを一瞬でも躊躇したのは、その思いからだった。
しかし今は、もっと主導的に美沙子の幸せを考えたいと思い始めていた。実は、そう思っていたのはずっと前からのことで、美沙子の決別のメッセージによりはっきりと認識させられたのかもしれない。
美沙子に対して限りなく愛情を注ぎたいと思ったのは、真沙子から一方的に奪っていた愛情を、たとえほんの僅かでも返したいとの思いからだった。
しかし、今は明らかに違っていた。自分自身のために美沙子を失ってはならないのだった。たとえそれが、再び一方的に愛情を奪おうとしていることだとしても、今行動しなければ再びあの時の過ちを繰り返してしまう、と飯島は自分自身を励ました。
美沙子は、着の身着のままに近い状態で出て行っていた。お金も僅かしかもっていない筈である。訪ねて行ける人のことなど聞いたことがなかった。東京に戻ることなど考えられないとすれば、美沙子が向かう先は母の故郷だと、飯島は思った。
青山に仕事を託し、飯島は信州に向かった。
調査書に書かれている母の本籍地と、若い日に真沙子から聞いた、あの人の故郷の山や川の話が道標だった。
**
秋が訪れる季節だが、いつまでも残暑が厳しかった。
飯島は、何ケ所かで尋ねはしたが比較的容易に真沙子の生家を探し当てることが出来た。今は遠縁にあたるという老夫妻が住んでいた。
美沙子がすでにこの村に来ているのかどうかは分からなかったが、少なくともこの家は訪ねていなかった。
老人が案内してくれた村の墓地にその墓はあった。
林に囲まれた墓地は歴史を感じさせる鄙びたものだが、真沙子の眠る墓は比較的新しいものだった。案内してくれた老人の話では、美沙子の伯父夫婦がこの村を離れる時に新しくしたということだった。
飯島は老人に礼を述べて別れ、一人墓前に額ずいた。墓碑に刻まれた名前が悲しかった。老夫妻が用意してくれた心ばかりの花束を供え、過ぎた日を思った。
真沙子との思い出は、懐かしさを覆い隠す苦さとともに蘇ってくる。それは、飯島の心の奥から切なく沸き上がり、美沙子との短い日々とも入り交じった。飯島の中で、時間の経過が混乱していた。
どの位の時間が流れたのか、ようやく我に帰った飯島は頭を上げた。そして、立ち上がろうとした時、墓石の土台の辺りに泥のようなものが付着しているのに気がついた。蝉の抜け殻だった。
「うつせみ・・・」
と、飯島は呟いた。
この空蝉が、真沙子の人生だったというのか・・・。それならば、自分はどのように詫びれば許されるのか・・・。
当社のホープと言われ、仕事の上ではそれなりの成果を上げてきたという自負もあった。
しかし、今こうして過ぎ去っていった取り返しのつかない日々を思う時、虚しさが胸に迫ってくる。そして、いくら後悔してみても、今さら取り返すことのできない時間が過去という闇の中に消え去っているのだ・・・。残されているものといえば、空蝉のような虚しさだけなのだ。
この空蝉は、自分の今の姿なのだ、と飯島は思った。
その時、背後に人の気配を感じた。
立ち上がり振り返った飯島の前に、若き日の真沙子の姿があった・・・。
美沙子はハンカチで飯島の頬を拭うと、そっと腕を組んだ。そして、二人は無言のまま墓前に立ち尽くしていた。
「行きましょう・・・」
どの位の時間が過ぎた後だったのか、美沙子は腕を組んだまま飯島を見上げて言った。
飯島は、遠い日のことと現実の時間が再び混乱しているのを意識しながら、何度も何度も頷いた。
「どこまで行けるか分かりませんが、一緒に連れて行ってくださいな」
美沙子は、さらに体を寄せて言った。
この人とここで会えたのは、もしかすると母の意志かもしれないと美沙子は思った。
( 完 )