雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

うつせみ   第十二回

2010-07-29 08:17:51 | うつせみ
          ( 十二 )

美沙子が去った後、飯島は激しい虚脱感に襲われていた。
飯島の心の中で美沙子に対する感情に大きく揺らぐものはあったが、それを気付かれていたとは思えないし、もし気付かれていたとしてもそれを理由に自分のもとを去っていったとは考えられなかった。

残された短い手紙を繰り返し読んだ。そして、飯島が思い至ったことは、美沙子はやはり真沙子の子供であって、自分と真沙子の関係を知っていたのだということだった。いつ知ったのか分からないが、そのことで美沙子は、かつての自分の行動を責めているのだと判断せざるを得なかった。

「全てが終わったのかもしれない・・・」
と、飯島は思った。それは、美沙子とのことであり、青春の日の悔いへの償いが果たされないことでもあった。

茫然のうちに二日間が過ぎた。
一時は、後を追うことは美沙子を更に苦しめることになるとも考えたが、ちょうど届けられた美沙子に関する調査書で、彼女が紛れもなく真沙子の子供であることを確認した時、後を追う決心がついた。
このまま諦めてしまえば、あの時と同じになる。今行動しなければ、青春の日と同じ過ちを繰り返すことになる。今行動しなければ、美沙子まで失ってしまうと思った。

飯島は信州に向かっていた。
調査書には、真沙子の死亡も極めて事務的に記されていた。そして、真沙子が生まれた時の本籍は信州の住所になっていた。
若かったあの頃、故郷について多くを語らなかった真沙子がふと漏らしたその村は、八ヶ岳を間近に仰ぐ辺りだと語っていた。あの時の、真沙子の寂しげな瞳がありありと浮かんでくる。

飯島の願いは、美沙子の幸せである。真沙子への償いの気持ちもあるのは確かだが、美沙子の幸せを願う気持ちにはいささかの偽りもなかった。美沙子の幸せのためになることならいかなる援助も惜しまないつもりだった。
しかし、今は少し違ってきていた。
美沙子から明確な決別のメッセージに苦しんだ結果、そして、再び若い日と同じ過ちを犯しそうになった自分の姿を知った時、飯島の気持ちに明らかな変化が起きていた。

美沙子の幸せを願う気持ちが変わったわけではないが、それ以上に美沙子を失いたくないという気持ちが大きくなっていた。冷静に考えれば、その気持ちは今に始まったものではないのかもしれないが、飯島が美沙子に尽くそうとしていたものは、彼女の幸せのための側面援助だった。美沙子の後を追うことを一瞬でも躊躇したのは、その思いからだった。
しかし今は、もっと主導的に美沙子の幸せを考えたいと思い始めていた。実は、そう思っていたのはずっと前からのことで、美沙子の決別のメッセージによりはっきりと認識させられたのかもしれない。

美沙子に対して限りなく愛情を注ぎたいと思ったのは、真沙子から一方的に奪っていた愛情を、たとえほんの僅かでも返したいとの思いからだった。
しかし、今は明らかに違っていた。自分自身のために美沙子を失ってはならないのだった。たとえそれが、再び一方的に愛情を奪おうとしていることだとしても、今行動しなければ再びあの時の過ちを繰り返してしまう、と飯島は自分自身を励ました。

美沙子は、着の身着のままに近い状態で出て行っていた。お金も僅かしかもっていない筈である。訪ねて行ける人のことなど聞いたことがなかった。東京に戻ることなど考えられないとすれば、美沙子が向かう先は母の故郷だと、飯島は思った。
青山に仕事を託し、飯島は信州に向かった。
調査書に書かれている母の本籍地と、若い日に真沙子から聞いた、あの人の故郷の山や川の話が道標だった。

     **

秋が訪れる季節だが、いつまでも残暑が厳しかった。
飯島は、何ケ所かで尋ねはしたが比較的容易に真沙子の生家を探し当てることが出来た。今は遠縁にあたるという老夫妻が住んでいた。
美沙子がすでにこの村に来ているのかどうかは分からなかったが、少なくともこの家は訪ねていなかった。

老人が案内してくれた村の墓地にその墓はあった。
林に囲まれた墓地は歴史を感じさせる鄙びたものだが、真沙子の眠る墓は比較的新しいものだった。案内してくれた老人の話では、美沙子の伯父夫婦がこの村を離れる時に新しくしたということだった。
飯島は老人に礼を述べて別れ、一人墓前に額ずいた。墓碑に刻まれた名前が悲しかった。老夫妻が用意してくれた心ばかりの花束を供え、過ぎた日を思った。

真沙子との思い出は、懐かしさを覆い隠す苦さとともに蘇ってくる。それは、飯島の心の奥から切なく沸き上がり、美沙子との短い日々とも入り交じった。飯島の中で、時間の経過が混乱していた。
どの位の時間が流れたのか、ようやく我に帰った飯島は頭を上げた。そして、立ち上がろうとした時、墓石の土台の辺りに泥のようなものが付着しているのに気がついた。蝉の抜け殻だった。

「うつせみ・・・」
と、飯島は呟いた。
この空蝉が、真沙子の人生だったというのか・・・。それならば、自分はどのように詫びれば許されるのか・・・。

当社のホープと言われ、仕事の上ではそれなりの成果を上げてきたという自負もあった。
しかし、今こうして過ぎ去っていった取り返しのつかない日々を思う時、虚しさが胸に迫ってくる。そして、いくら後悔してみても、今さら取り返すことのできない時間が過去という闇の中に消え去っているのだ・・・。残されているものといえば、空蝉のような虚しさだけなのだ。
この空蝉は、自分の今の姿なのだ、と飯島は思った。

その時、背後に人の気配を感じた。
立ち上がり振り返った飯島の前に、若き日の真沙子の姿があった・・・。
美沙子はハンカチで飯島の頬を拭うと、そっと腕を組んだ。そして、二人は無言のまま墓前に立ち尽くしていた。

「行きましょう・・・」
どの位の時間が過ぎた後だったのか、美沙子は腕を組んだまま飯島を見上げて言った。
飯島は、遠い日のことと現実の時間が再び混乱しているのを意識しながら、何度も何度も頷いた。

「どこまで行けるか分かりませんが、一緒に連れて行ってくださいな」
美沙子は、さらに体を寄せて言った。
この人とここで会えたのは、もしかすると母の意志かもしれないと美沙子は思った。
                                           ( 完 )
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小さな小さな物語  表紙

2010-07-04 18:26:53 | 小さな小さな物語 第一部~第四部

   小さな小さな物語  第三部


小さな小さな物語  No.121 から No.180 までを収めています

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小さな小さな物語  目次 ( No.121~140 )

2010-07-04 18:25:08 | 小さな小さな物語 第一部~第四部

   小さな小さな物語  目次 ( No.121~140 )


     121  祈りのある生活
      122  毎年のことながら
     123  プチ冒険の旅
     124  便利な言葉
     125  満月の元旦


     126  誰にも分からない
     127  いとをかし
     128  無償の値段
     129  愛と希望と勇気の日
     130  逝きし人に


     131  原風景を想う
     132  愛妻の日
     133  二月如月の候
     134  立春に思うこと
     135  子供手当


     136  過去と未来の間にあるもの
     137  春を待つ
     138  法律の限界
     139  優しい季節
     140  カーリングに魅せられて
      

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祈りのある生活 ・ 小さな小さな物語 ( 121 )

2010-07-04 18:21:10 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
今読んでいる小説の中に、王朝時代の宮中における出産の様子を描写しているシーンがありました。
有力寺院などには安産の祈祷を命じ、高僧たちは側近くに控えてひたすら祈る。弦を鳴らして悪霊を祓い、お付きの女官たちも、かの神社、かの寺院、かの祠といわず、霊験あるとされるあらゆるものにすがる・・・。


ある古老の話。
小さな子供の頃、農作物の番をする小屋にお祖父さんといるとき、大風に襲われたことがあったとか。その時お祖父さんは「ホーイ、ホーイ」と両手を振りまわし「大風よ向こうへ行け」と叫び続けたそうな。
そんなことが何の役にも立たないはずだが、子供心にすごく安心したのを覚えていると、その古老は語る。



現在の病院には、そこがどれほど充実した病院であっても、祈祷の部署はないし、その専門家もいないようだ。
人間の心は弱く、まして重い病を背負ったり、付き添っている近親者にとっては、時には科学の力だけでは闘い抜けない時もあるのではないだろうか。
最近では、そのためのケアーが重視されつつあるが、神や仏に縋りなさいという指導は多分ないのでしょう。
宗教系の病院などでは、このあたりのことは少し違うのでしょうか。


その一方で、怪しげな祈祷や霊験あらたかだという玉や壺や印章などを売りつける詐欺集団も少なくなく、だまされる人も、これまた少なくないとか。
わが国は八百万の神々がおわします所です。その国で、自分が頼りにできる正しい神様を一人も見つけられないのはなぜなのでしょうか。
科学の力を無視したり、迷信を信じ過ぎるのもどうかと思いますが、日常の生活の中で八百万の神々の全員とはいいませんが、何人かと親しくすることも大切なのではないでしょうか。

( 2009.12.21 )
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毎年のことながら ・ 小さな小さな物語 ( 122 )

2010-07-04 18:19:26 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
今日はクリスマスイブ、だとか。
わが国には八百万の神々がおわしますのに、なおまだ不足なのかキリストさまを祝う行事は欧米諸国に引けを取らないとか・・・、などと憎まれ口を言いながらも、小さな子供もいないのに、ケーキとかそれらしい食事がないと淋しいという自分も含めたわが家族。


年賀状を書き終えました。おそらくこの数年で最も早い仕上がりです。
印刷したものにほんの一言加えるだけの年賀状ですが、住所録と前年いただいたものを見比べながら一言加えて行く作業は、なかなか負担が大きいものですが、同時に、それぞれの人とのかかわりの一端が思い出され、手が止まってしまうこともしばしば。
特に、喪中の中に先輩の家族の方の名前が差出人になっているのを見るのは、さすがに辛いものです。


このところ毎年同じ形式の手帳を使っているのですが、その手帳は十二月分から使えるようになっています。今年は年末まで今の手帳をしっかり使おうと思いながらも、少し先の予定などは来年のものが必要になり、さて、いつ切り替えようかと考えています。


毎年のことながら、自分では浮世を離れたような生活をしているように思いながらも、世間の動きに少なからぬ影響を受けていることに驚きながら、そのくせ、どこか安心してみたり・・・。
残された今年の数日も、正月の準備だとか、年末の片付けだとか、紅白も見なければとか・・・。
まあ、毎年のことながらも、これはこれで良いのかもしれない、と思ってみたり・・・。

( 2009.12.24 )
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プチ冒険の旅 ・ 小さな小さな物語 (123 )

2010-07-04 18:18:14 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
来年のことを考える頃になりました。
「来年のことを言うと鬼が笑う」と子供のころ聞いたり言ったりした覚えがありますが、もうぼつぼつ来年のことを考えても鬼は笑わないでしょう。
そこで、来年は少々冒険心を掻きたててみたいと思っています。えっ、生意気なことを言うな、ですか?


先だって、野口さんがロシアの宇宙船ソユーズで宇宙ステーションに向かったというニュースがありました。これなどは、間違いなく冒険の旅ですよね。
でも、何も野口宇宙飛行士の快挙にケチをつけるわけではありませんが、そもそも、宇宙ステーションに向かうのを宇宙の旅というのはいささかオーバーではないでしょうか。
バブル全盛の頃、宇宙旅行の募集がされ、やたらお金をつかんでしまった人が申し込んでいると話題になったことがあります。まあ、何にチャレンジするのも結構ですが、ロケットに乗って地球の表面から少し離れることを宇宙旅行というのは、商売上の見出しとしてはともかく、やはりオーバーだと思うのです。


宇宙全体の広大さを考えると、人工衛星が飛んでいるあたりは地球の周辺であって宇宙と表現するのに無理があると思うのです。それなら、人間が思い切ってジャンプした辺りも宇宙ではないのですかね。
いえ、つまらぬ理屈をこねるのがこのテーマの目的では決してありません。
要は、冒険などといえば大層ですが、プチ冒険ですから、そう肩ひじ張らずに取り組めるはずだと言いたかったのです。


小さな子供の頃、日暮れの頃ともなると墓地の横を通るのは大変怖く、相当の冒険心を必要としました。狭い山道を抜けて2kmほど先の隣町に至るのは、ちょっとした冒険の旅でした。
歳を経て、いつのまにか、そのような小さな冒険心を失っていることに愕然とします。
さんざんケチをつけながら何だと言われそうですが、宇宙ロケットに乗ることはもちろん、エベレストにもキリマンジャロにも登る機会はなさそうです。
でも、大好きな小説に出てくる土地や、万葉集や百人一首に詠われた土地を訪れる程度の、プチ冒険の旅なら可能ではないでしょうか。
来年はひとつ、自分だけが納得すればよいプチ冒険の旅を楽しもうではありませんか、ご同輩。

( 2009.12.27 )
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便利な言葉 ・ 小さな小さな物語 ( 124 )

2010-07-04 18:17:16 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
便利な言葉ってありますよね。本来の意味から少し違う形で人々の間で認知され、大変便利に使える言葉、私たちは無意識に使っているものです。


大阪商人の言葉としてよく例に出されるのは、
「儲かりまっか」 「へえ、ぼつぼつです」 といった挨拶言葉があります。
これなど、別に相手の商売の状況を訊ねているわけではなく、自分の報告をしているわけでもありません。
「お元気ですか」 「はい、何とかやっています」 と言い換えても、お互いの真意は殆ど変わらないと思うのです。
もちろんこの会話の場合でも、それほど真剣に相手の健康状態を気遣っているわけではなく、答えている方も、元気一杯でも「何とか」などといっているのです。これなども、ある意味では単なる挨拶言葉の部類なのでしょう。


このように便利に使われる言葉は数多くありますが、その代表的なものとして「頑張る」という言葉があります。
広辞苑によりますと、「頑張る」とは、1.我意を張り通す 2.どこまでも忍耐して努力する 3.ある場所を占めて動かない。 と説明されています。
しかし、この言葉はこれ以外の意味で使われることが極めて多いようです。例えば、「さようなら」の代わりのように使ったり、適当な言葉が出てこない時に用いられたり、です。
大変辛い状態にある人や、登校拒否のような状態にある子供に、「頑張って」と言うのは、最も避けなくてはならない言葉の一つなのです。
「頑張る」という言葉の意味が、広辞苑の(2)の意味が主流になっている傾向があり、それでいて使う人の多くが単なる挨拶言葉のように使ってしまう傾向があるため、辛い状態の人をさらに追い詰めてしまうことがあるのです。
「頑張る」という言葉は便利な言葉ですが、大変危険な一面を持った言葉でもあるのです。


私たちの会話は、その軽重はともかく、お互いの信頼関係の上に立っています。
同じ言葉でも、ある人には人生の最大イベントとなる愛の告白でも、ある人にとってはとても許せないセクハラとなります。
便利な言葉をうまく使うことは人間関係を豊かにしますが、そこにはその言葉を共通認識できる信頼関係が必要ともいえます。
拙い文章を重ねている当コラムですが、何とか美しく躍動感のある言葉を見つけそれを生かせる文章を作りたいと思う気持ちだけは真剣です。
次回は来年となりますが、よろしくお願いします。

( 2009.12.30 )
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満月の元旦 ・ 小さな小さな物語 ( 125 )

2010-07-04 18:16:07 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
明けましておめでとうございます。
本年も、当コラムをご愛読いただきますようお願い申し上げます。


今朝はウォーキングを兼ねて、三キロばかり離れた初日の出を仰ぐ絶好ポイントへ行ってきました。
昨日から北日本や日本海側を中心に大雪を伴った荒天のようで、該当地にお住まいの方々にはお見舞い申し上げます。私の住まいする辺りは、幸い雪はありませんが、昨夜来の風が強く大変寒い元旦となりました。


初日の出を見ようと目指した絶好ポイントは、遥か明石大橋が遠望でき、若干方向はずれますが山の端から日の出が仰げる小高い場所なのです。
残念ながら、雲が多く、初日の出はその瞬間を見ることができず、雲の間から差すかぎろいを仰ぐだけでした。しかし、振り返って西の方を見ますと、少し輝きは衰えつつありましたが満月がくっきりと浮かんでいました。
何とも神々しく、一瞬ではありますが寒さを忘れて見とれていました。


かつて、いにしえの歌人は、東にかぎろいを見て、西に沈みゆく月を見たと詠みましたが、元旦にこの光景を見た人は、大宮人にも江戸の粋人にもいないのです。
月の運行で一か月が決められていた旧暦では、月の初日は常に新月であり、元旦に満月を迎えることはなかったからです。
新しい年の始まりにあたり、素直に新しい気持ちになって、美しいものは美しいと感じ、人の情けに素直に感謝できる気持ちを育てたいと思っています。

( 2010.01.01 )

                         
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誰にも分からない ・ 小さな小さな物語 ( 126 )

2010-07-04 18:14:25 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
あるドラマの一シーン
  子供が殺され荒れている父親と刑事の会話。
「落ちついてください。あなたの気持ちはよく分かりますが、云々・・・」
「お前に俺の気持ちなど分かるものか。何の罪もない子供を殺された俺の気持ちなど、誰にも分かるものか・・・」


これに似たシーン、よくありますよね。特に私の大好きなサスペンスドラマではよく登場します。
刑事は職務を進める上で父親の気持ちを落ち着かせなくてはいけませんし、被害者の父親は、気も狂わんばかりの悲しみを安易に「よく分かります」などと言われては、筋違いだと分かっていても刑事に噛みついてしまうのです。
でも、この時の刑事に「あなたの気持ちはよく分かります」といった言葉以外にどのような対応があるのかと考えてみますと、これがなかなか難しいのです。 


私たちの実生活においても、これに似た状況に出合うことは少なくありません。
殺人事件に関係するような状態はそうないでしょうが、大変辛い状態にある人を慰めたり力づけたりすることが必要な場面や、反対に、自分が大変辛い状態なときに「あなたの気持ちはよく分かります」と言われて余計に傷ついてしまった経験は、一度や二度はあるのではないでしょうか。


かねてから私は、「あなたの気持ちはよく分かる」と言って慰めたり励ましたりするのは、一種の傲慢さから出ているものだと思ってきました。その根拠は、かつて自分が大変辛い状態にあったとき、この種の言葉に対して「あんたに俺の気持ちが分かるものか」という反感のような気持を抱いていた経験からです。
この感情は単に私だけでなく、幾つかの本の中でも同じような指摘をしているのを見たことがありますので、人を慰めたり励ましたりする言葉や態度には、繊細な注意が必要なことは確かです。
しかし、時を経て、最近私は「お前に俺の気持ちなど分かるものか」という心もまた、甘えであり、ある種の傲慢さからきていると思うようになりました。
この悲しみ、この苦しみは誰にも分からないほど大きいのだという思いは、それこそ「よく分かります」が、果たして本当にそうなのでしょうか。自分が受けている悲しみや苦しみは、誰のものよりずば抜けて大きなものなのでしょうか。
私たちは人の情けを、もう少し謙虚に、もう少し素直に受け取るべきではないのでしょうか。たとえ、その言葉や態度に少々の稚拙さがあるとしても、その思いをありがたく頂戴すべきだと思うのです。

( 2010.01.05 )
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いとをかし ・ 小さな小さな物語 ( 127 )

2010-07-04 18:13:08 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
枕草子を少々勉強しています。
「春はあけぼの。」という見事なまでに簡潔な文章で始まるこの作品は、平安王朝文学を代表する作品の一つであり、わが国の文学史を語る場合必ず取り上げられるものの一つであることは確かでしょう。


平安王朝文学作品の多くがそうであるように、枕草子もまた作者が書き残した原文は伝えられておらず、伝えられている何種類かのものは、それぞれかなりの差異があるようです。伝書されているうちに、散逸したり、混入したり、誤記されたり、場合によっては意識的に加除されている場合もあるのでしょう。
ただ、多くの研究者によって、この作品が清少納言と呼ばれる女官一人による作品であることは間違いないとされています。


中学や高校などの教科書にも枕草子は登場してきますから、好き嫌いは別にしまして、知らない人は少ないでしょう。
しかし、この作品は伝えられているもの全部を集めれば、三百段を超えるものになります。さて、そのうちの半分でも読んだという人は、もちろん現代訳分でも可としても、そう多くないのではないでしょうか。
実は私もその一人ですので、今年は前段読破しようと考えています。


掲題の「いとをかし」という言葉は、枕草子に再々登場してきます。
「をかし」と「あはれ」は、この時代の文学表現の代表的なものだそうですが、中でも枕草子は「をかし」を、最も見事に描いている作品だともいわれています。
ぜひ機会があれば、枕草子の中の「をかし」と表現されている部分だけを読んでみるのも一興ではないでしょうか。

( 2010.01.08 )
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