雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

君達は

2014-08-31 11:00:29 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百六十四段  君達は

君達は、
頭中将、頭弁。
権中将、四位少将。
蔵人弁、四位侍従。
蔵人少納言。蔵人兵衛佐。


君達(キムダチ・貴公子)の好ましい官職は、
とうのちゅうじゃう、とうのべん。
ごんのちゅうじゃう、しゐのせうしょう。
くらうどのべん、しゐのじじゅう。
くらうどのせうなごん、くらうどのひゃうゑのすけ。



摂関家などの上流貴族の子息たちが、若くして任官する職掌が並べられています。
枕草子の中で、少納言さまが好意的に描かれている人たちの多くがいずれかの地位にあったことからも、若くて家柄良く、教養がありセンスも良い、つまり少納言さまお気に入りの人たちが多かったのでしょう。
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受領は

2014-08-30 11:00:38 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百六十五段  受領は

受領は、
伊予守、紀伊守。
和泉守。大和守。


ずりゃうは、
いよのかみ、きのかみ。
いづみのかみ、やまとのかみ。



受領というのは、国守、つまり地方長官のことです。
前任者から事務の引き継ぎを「受」けて、行政・司法・警察権など全般にわたって一国を「預」かるので、受領と呼ばれたそうです。
受領は殿上人ではなく地下人ですが、中下流の貴族にとって最も実入りが良い職務だったので人気が高かったようです。少納言さまもこのクラスの家柄でしたので、父も夫も受領を経験しています。
挙げられている四つの国ですが、紀伊は吉野詣もあり都とのつながりが強く、和泉も大和も同じような意味で納得がいきます。ただ、伊予というのは今一つよく分かりません。温暖というのを理由に挙げている研究者もおられますが、それも納得できませんが、船便などで意外に便利だったのかもしれません。
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権守は

2014-08-29 11:00:06 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百六十六段  権守は

権守は、
甲斐、越後。
筑後、阿波。


ごんのかみは、
かひ、ゑちご。
ちくご、あは。



権守というのは、正守が任国に赴任しない場合に置かれる役職です。「権」というのは「副」という意味なのでしょうが、権守の場合は少し違うようです。
正守が赴任しない(遥綬、遥任という)場合とは、親王などや、都での職務などの必要性から収入だけ受け取る名目だけの正守がいたのです。
従って、少納言さまがどんな理由でこの四つの国を選んだのか分かりませんが、権守を置く国はそう多くなかったようです。
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大夫は

2014-08-28 11:00:53 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百六十七段  大夫は

大夫は、
式部大夫。
左衛門大夫、右衛門大夫。


たいふは、
しきぶのたいふ。
さゑもんのたいふ、うゑもんのたいふ。



大夫(たいふ)とは、五位の者の通称です。
六位蔵人から、叙爵(五位昇叙)により、国司に任官される者と、宮中にて五位相当官に就く場合に分かれます。その場合、例えば、「式部丞」「左衛門尉」などに任官した者のうち、六位蔵人を経験した者を「式部大夫」「左衛門大夫」と呼んだそうです。
ただ、同じ漢字でも、百二十三段に少納言さまが高く評価していた藤原道長が、「宮の大夫」として登場していますが、これは中宮職の長官であり、この時すでに従二位権中納言でありました。従って、ここにある「大夫」とは全く別で、読み方も「だいぶ」となります。むつかしいものですねぇ。
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法師は

2014-08-27 11:00:14 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百六十八段  法師は

法師は、
律師。
内供。


法師で素敵なのは、
りっし。
ないぐ。



律師とは、僧侶の高級官職のうち、僧正・僧都に次ぐ三等官。わざわざ三等官を挙げているのは、若い僧侶が多く、その点が少納言さまのお気に召したようです。
内供とは、僧侶の中級官職のうちの一つ。已講・内供・阿闍李とあるうちから選んだのは、宮中の内道場に供奉し、夜居の僧として身近な存在だったからと思われます。
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女は

2014-08-26 11:00:13 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百六十九段  女は

女は、
典侍。
内侍。


女房ですばらしいのは、
ないしのすけ。
ないし。



典侍とは、内侍司の次官。
内侍とは、内侍司の女官の総称ですが、通常は「掌侍(ナイシノジョウ)」を指し、三等官にあたります。
因みに、長官は「尚侍(ナイシノカミ)」で、これらが上級職にあたり、その下に「女嬬(ニョウジュ)」「命婦(ミョウブ)」「采女(ウネメ)」がこれに属しました。また、内侍司は全てが女性です。

少納言さまは、中宮定子に招かれた(雇われた)女房で、官職は無かったようですが、宮中での地位は「命婦」相当だったようです。
また、官職もさることながら、父親や夫などの官職が女房の身分に大きな影響があり、宮中生活にはあらゆる面で身分社会の束縛があったことでしょう。

少納言さまにとっても、他の中下級貴族出身の女房と同様、典侍、内侍は憧れだったのでしょうか。
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六位蔵人などは

2014-08-25 11:00:53 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百七十段  六位蔵人などは

六位蔵人などは、思ひかくべきことにもあらず。
冠(カウブリ)得て、何の権守・大夫などいふ人の、板屋などの狭き家持たりて、また、小檜垣などいふもの新しくして、車宿に車ひき立て、前近く一尺ばかりなる木生(オ)ほして、牛つなぎて草など飼はするこそ、いと憎けれ。
     (以下割愛)


六位の蔵人にある人は、次のようなことを思い描いてはいけません。
五位に叙せられて、何の国の権守や何の大夫などという立場になり、粗末な板屋根の狭い家を所有し、また、貧弱な小檜垣とかいう物を新しくして、車宿りに牛車を引き入れ、家の前近くに一尺ばかりの杭を立てて、それに牛をつないで草など食べさせている様子なんて、ほんとに腹が立つ。

庭は(狭いので)とても美しく掃き、紫皮の帽額(モコウ・簾の上端に横に張った布、上等の物は絹糸)を付けた伊予簾をかけ、障子は布を張った粗末なものといった家に住んでいて、夜は、「戸締りをしっかりせよ」などと、召使に言いつけている様子は、いかにも将来性が感じられず、気に入りません。

自分の親の家や妻の父の家はもちろん、叔父や兄などの別宅とか、そのような都合のよい縁者がない者は、自然と親しく付き合うようになった受領(国司)で、任地へ行って空いたままになっていそうな家、でなければ、院や宮様方の、沢山屋敷をお持ちのどれかに留守番を兼ねて住んだりして、叙爵したからといって慌てて安普請のわが家を持つより、さらに昇進してから、さっと上等の屋敷を探して買い取って、住むことが良いのですよ。



枕草子には、六位蔵人がたびたび登場してきます。少納言さまお気に入りの職掌と見えますが、同時に、その後に五位に昇った後の生活ぶりが、お気に入ることが少なかったようです。

六位というのは殿上の間に昇ることはできませんが、蔵人だけは天皇の身の回りの御世話などをする職掌がら殿上人と同じように宮中で行動できたようです。時には、天皇の名代として使者に立つこともあり、晴れやかな機会も少なくなかったようです。
少納言さまの生家のような中下級の貴族にとって、六位蔵人は憧れの地位でもあったのでしょう。

六位蔵人は、任期の六年が満ちると巡爵といって従五位下に叙せられました。ところが、任期満了を待たずに叙爵を受けて実入りのよい受領などになることを願う者が増えていて、その風潮が、少納言さまは特にお気にいらなかったようです。
なお、文中の「院」は、上皇、法皇、女院をさし、「宮」とは、親王、内親王をさします。
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運命紀行  謎と謎を結ぶ

2014-08-25 08:00:42 | 運命紀行
          運命紀行
               謎と謎を結ぶ 

「本能寺の変」が、戦国時代における最大級の事件であることに異論は少ないだろう。
そして、その舞台を演じたのは、一方は織田信長であるが、主役となれば、やはり明智光秀ということではないだろうか。
この、大舞台の主役である光秀の前半生には謎が多く、事実がどうか分かりにくい部分が多いことは別の稿 (「敵は本能寺にあり」) で述べたが、その謎多い生涯は、「本能寺の変」で終わることなく、さらに深い謎を後世に残している。
もしかすると、「本能寺の変」は、明智光秀という人物の前半生の謎とその後の生涯の謎を結ぶ出来事だったのかもしれない。

光秀が信長打倒に動いた原因については、古来多くの説が唱えられている。近代になってからも新しい資料が発見されたということを理由にその原因を強調されることもあるが、現代に至るも、いずれの説もそれ一つと確定するに至っていない。
謀反に至った原因については、小説やドラマなどで採られているものを含めれば数多いが、そのいくつかを示してみる。

まず、怨恨によるという説がある。どの説の場合も、その背景となった原因としては加えられることが多い。
例えば、満座で恥をかかさせられることが度々あった。
家康の接待役を突然外され面目を失ったうえ、秀吉の指揮下に入るよう命じられた。
丹波攻めの際、八上城の波多野秀治・秀尚兄弟を投降させるにあたって身の安泰を保証し、その条件を守るべく光秀の実母を人質として八上城に送り込んでいたが、信長は光秀に相談することなく波多野兄弟を殺害したため、母親は惨殺されてしまったという。

身の危険、あるいは恐怖心から謀反に至ったという説。
信長は、宿老であった佐久間信盛、林秀貞らを働きが不十分ということで追放している。次は自分かもしれないと感じるような気配があり、恐怖心を抱いていた。
家康の接待役を外され中国攻めに加わるよう命令され丹波亀山城で出陣の準備中に、信長から領地替えが伝えられたという。その内容は、現在の丹波国と近江国滋賀郡 ( 坂本城近辺 ) を召上げて、出雲国と石見国を与えるという内容であった。領地としての価値はともかく、出雲・岩見は毛利氏の勢力下にあり、自分で切り取ってこいということになり、追放された宿老たちのことを連想した可能性もある。

野望説というのもある。
これは、光秀自身が自ら天下を治めたいという野心を抱いていて、それを実行に移したものだというものである。その根拠の一つに、出陣にあたっての連歌の会で詠んだ『 時は今 雨が下しる 五月哉 』という発句を、決意の表れとするものである。「時は」は、自らの出自である土岐氏を指し、「雨が下しる」は、天が下知る、として、「土岐氏が天下を治める五月である」という意思表示だというのである。事実かどうかはともかく、実に素晴らしい舞台装置ではある。
戦国時代にあって、名のある大名なら、誰もが天下に号令したいという野望を抱いていたと言われることがあるが、それはあまり正しくなように思われる。版図を広げていった毛利元就には天下への野望はなかったといわれるし、今川義元が上洛戦の途上で討たれたというのは事実でないと考えられる。むしろ、天下を望んだ大名はごく少数であったと考えられる。但し、光秀がどうであったかは分からない。

四国の長宗我部征伐がそのきっかけという説もある。
これは、かねてから光秀は信長からの命令で長宗我部氏を臣従させるべく折衝を行っていて、重臣斎藤利光の娘を長宗我部元親に嫁がせるなど実現しつつあったが、突然信長は、秀吉が結んだ三好康長と組んで四国を武力制圧することに変更し、織田信孝・丹羽長秀に出陣命令が発せられ、光秀は面目を失くしたというものである。
ただ、このことは、「本能寺の変」の切っ掛けになったとしても、このことだけで光秀が謀反を起こしたというのは原因としては弱い感じがする。

他にも黒幕説というのがある。光秀を決起させた張本人が他に居るというものである。
その黒幕とは、例えば、足利義昭説、朝廷説、イエズス会説などのほか、秀吉、家康などというのも登場してくる。
光秀が、朝廷との関係を重視していたことは事実らしく、信長を倒した後、朝廷つまり公家勢力を頼りにしていたことは確かと思われる。
ただ、秀吉あるいは家康となれば、戦国ドラマと考えても少々行き過ぎの感がある。

結局、これこそが原因だというものは見つからないが、個人的には、おそらくいくつもの要因が重なって光秀は謀反に動いたと思うのである。
そして、決起する時点では、光秀には謀反などという観念ではなく、「天下国家のために決起する 」という気持ちだったと思うのである。
「時は」まさに「今」だったのである。
倒すべき信長は、わずかな近習を従えただけで本能寺にあった。本能寺は信長の定宿として防備されているとはいえ城郭には及ばない。
嫡男の信忠もわずかな兵を率いているだけで、近くの妙覚寺に宿泊している。
大軍を擁する重臣たちも、柴田勝家は越中にあって上杉氏と対峙していた。羽柴秀吉は備中にあって毛利氏と対戦中である。滝川一益は武蔵にあって北条氏に対しており、丹羽長秀は織田信孝とともに和泉で四国征伐への準備中であった。最強軍団といえる徳川家康は、領国を離れて堺辺りを遊覧中で、丸裸の状態である。

果たして、謎多いという決起であるが、光秀はあっけないほどに成功させてしまうのである。
ここまでは「本能寺の変」の成功までの光秀であるが、この後にも、光秀の謎は数多く浮かび上がってくるのである。


     ☆   ☆   ☆

天正十年六月二日に「本能寺の変」を成功させた後、明智光秀はどう動いたのか。
第一に動いたのは、京都を掌握することであったが、信長・信忠を討った後は、洛中には反抗勢力というほどのものはなく、安土攻めにかかったと思われる。京都と安土を結ぶ要所は瀬田川であるが、誘降しようとした 近江瀬田城主山岡景隆に拒絶され瀬田橋を焼かれたため進軍が遅れた。
それでも、六月四日にはほぼ近江国全土を掌握し、光秀は五日に安土城に入り、収奪した金銀財宝などを部下などに分け与えたという。
七日には、朝廷からの使者を迎えている。この間にも、各地の大名などに味方するよう勧誘する使者が送られているはずであるが、この頃には、秀吉は姫路に到着していたのである。

六月八日には安土を発って京都に戻った。この頃には、秀吉の動向も伝えられていたかもしれない。
そして、六月十三日には山崎の戦いとなるのである。
この間に京都や近江の防備、有力大名との連携に動いたと思われるが、結論としては、有力大名は一人として光秀に味方しなかったのである。最も頼りにしていたと思われる細川幽斎・忠興親子は、光秀とは早くから交際があり婚姻関係もあった。しかし、味方に引き入れることはできなかった。筒井順慶も親しい交際をしてきていたが、言を左右されて逃げられている。もし、秀吉の動向を少しでも掴んでいたとすれば、摂津に居城を持つ中川清秀、高山右近らの動向が大きな意味を持つのは当然のことであるが、ことごとく秀吉陣営に取り込まれてしまったのである。
光秀は、これほどまでに人望の薄い人物であったのか、それとも謀反という行動は、下剋上が当然のような世にあっても、軽蔑される行動であったのか、大きな謎といえる。

山崎の地は、山城国と摂津国の境界にある地で、ここで光秀軍と秀吉軍が激突することとなった。山崎の戦いである。時には「天王山の戦い」と呼ばれることもあるが、この戦いにおいて、天王山を押さえることが戦いを有利にする鍵であったが、秀吉軍に押さえられてしまった。
さらに、対峙した両軍には大きな戦力の差があった。光秀軍は、一万、あるいは二万の軍勢とされているが、本能寺の変後に有力な味方を獲得することができなかった光秀軍は、京都や安土などの防備を考えると、おそらく一万をいくらも超えない戦力であったと考えられる。
対する秀吉軍は、二万ないしは四万とされているが、主立った武将の戦力を数えるだけで二万を超えるので、有利と読んで馳せ参じる軍勢を考えれば、四万というのも誇張ではないかもしれない。
戦いは、一日にして光秀軍の惨敗に終わった。

光秀は、わずかな供回りに護られて坂本城を目指したが、その深夜、落ち武者狩りの農民に討たれた。
農民といっても、近年の農民とは違い、戦となれば戦場に駆けつける農民は数多くいたので、落ち武者狩りに励む者どもには、下手な武士よりも強い農民がたくさんいたことは間違いない。
光秀は槍で突かれて落命したとも、逃げ切れるのは無理と悟って自刃したとも言われる。その首は、見つからないように埋められたとも領国に持ち帰られたともいう。
それにしても、あっけない最期である。
智将として知られる光秀が、万が一の敗戦に対して無防備すぎる気がする。影武者を用意するとか脱出ルートを確保しておくなどの配慮があって当然なのだが、わずかな落ち武者狩りの農民にむざむざ討たれるのは、あまりにもレベルが低すぎるような気がする。

秀吉が光秀の首実検に立ち会ったのは四日後のことといわれ、腐敗が進み正確に見分けられるような状態ではなかったともいわれる。その後、京都の粟田口にさらされたが、果たして、本当に光秀本人の首であったのか、一抹の謎が残る。それに、首実検のために用意された首は三体あったとも言われ、ますます謎めいてくる。

それはともかく、山崎の戦いに勝利した秀吉は、やがて柴田勝家も滅ぼし、天下人へと上り詰める。
しかし、豊臣の栄華の時も長くは続かず、やがて家康が天下を奪い、徳川幕府の時代となる。
そして、再び、光秀の謎が登場する。

徳川幕府初期において、政権安定に少なからぬ働きをした僧がいる。南光坊天海という人物である。
天海の没年は寛永二十年(1643)十月でこれは記録に明らかである。しかし生年となれば、いくつもの説が存在している。一般的には天文五年(1536)とされているが、これは享年が百八歳といわれることから逆算されたものらしい。本稿もこの説に従うが、永正七年(1510)というものから天文二十三年(1554)というものまで幅は広く、十種以上もあるらしい。
出身は陸奥ともいわれるが、本人は出自について語っていないらしい。早くに出家したらしく、十四歳の頃には下野国宇都宮の粉河寺で天台宗を学び、近江国の比叡山延暦寺、三井寺、大和国の興福寺などで研鑽を積み、比叡山が焼き討ちされた後、武田信玄に招かれ甲斐国に移り、その後蘆名氏に招かれ、上野国の長楽寺を経て、天正十六年(1588)に武蔵国の無量寿寺北院 ( のちの喜多院 ) に移り、天海を号したという。
実は、天海の足跡がある程度明らかになるのはこの時からなのである。

天海と家康の出会いについても諸説ある。家康に招かれたともいわれるが、北条攻めの頃に家康の陣幕に居たともされる。
その後朝廷との交渉役や、政策にも関与したらしく、元和二年(1616)に家康が重篤となった時、葬儀に関する遺言を天海に託したとされ、厚い信頼を得ていたようである。  
天海は、家康没後も、日光東照宮の造営など、秀忠・家光の時代にも重きを成している。
そして、この天海が、明智光秀だという説があるのである。

その説の根拠とされるいくつかの事項を示してみる。
* まずは、光秀の首実検があまり信用できないものであったことである。そして、天正十年以降に、比叡山に家光の名で寄進された石碑があり、光秀は山崎の戦いでは亡くなっていないというのである。
* 天海が造営に深く関わった日光東照宮には、光秀の家紋である桔梗の図案が随所に配されている。
* 日光に明智平という場所があるが、天海が名付けたもので、「明智の名前を残す為だ」と、その理由を語ったという出来過ぎた話もある。
* 関ヶ原戦屏風に、天海が家康の軍師として描かれていて、学僧とされる天海では説明がつかない。

* 家康が天海と初めて会った時、極めて親しく接したという。
* 光秀の重臣斎藤利三の娘お福 ( 春日局 ) が三代将軍となる家光の乳母に選ばれたことも不思議であるが、天海と会った時に「お久しぶりです」と挨拶したとされる。
* 光秀と天海の筆跡が酷似している。これは、テレビ東京が番組内で行った鑑定でもそのような結果だったらしい。
* 秀忠、家光の名前には、光秀の名前が使われているという。少々無理筋の気がするが。
この他にも、古くからさまざまな研究がなされているようである。

天海がもし光秀であったとすれば、亡くなった時は百十六歳となる。但し、光秀の生年も諸説ある。
また、上記した天海光秀説に対しては、それぞれに反論があり、天海が光秀であるという説はほぼ否定されている。
同様の話は光秀に限ったことではなく、スケールの大きなものとしては、源義経がチンギス・ハーンになったというものもある。
この種の多くは、いわゆる「判官贔屓」といわれるように、悲運の人物に寄せる願望のようなものが含まれていることが多い。
明智光秀という人物が、そのような庶民感情を誘うような人物であったのかどうか、これも謎の一つであろう。

                                                   ( 完 ) 


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枕草子の弱点

2014-08-24 11:00:04 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
     枕草子  ちょっと一息 

枕草子の弱点

このところ、「何々は、・・・」で始まる章段が続いています。
これは、全く私の個人的な意見なのですが、この種の章段が枕草子の中でかなりの比率を占めていることが、枕草子の文学作品としての弱点になっているような気がしてならないのです。

もっとも、「何々は」といっても、その「何々は」は極めて広範囲であり、挙げられているものについても、古歌などから引用されているものが多く、配置され方にも、対比や様式美が取り入れられているようで、本当は、これをもって枕草子の弱点などと考えること自体が、理解不足をさらけ出していることなのでしょう。
しかし、初心者として枕草子を読み進んでいる者としては、この種の章段をどのように理解すればよいのかは、なかなかの難題です。

第十八段に『たちは、たまつくり』という極めて短い文章があります。
個人的には大好きな章段なのですが、この一文をもって文学作品としての価値を云々するのは無理があるというのは正しい意見でしょう。しかし、『たち』とは、『太刀』なのか『舘』なのか、あるいは、もっと別なものが意識されての言葉なのか。『たまつくり』にしても、単純に『玉作り』と考えてよいのかどうか。あるいは、もしかして、『たちは、たまつくり』と示すだけで、当時、分かる人には、大受けするような背景があったのかもしれません。あるいは反対に、読者を惑わせてやろうという少納言さまの悪戯に過ぎないのかもしれません。

いずれにしましても、短い文章の章段には、いろいろ考えさせられることがあります。
それらを一つ一つ悩みながら読み進めるのも一つの方法ですし、さらりと流してしまうのも一つの方法で、どちらが優れているというものではないように思うのです。
ただ、願わくば世の枕草子ファンの皆様、「何々は」という章段を温かい気持ちで取り扱ってほしいと思うのです。
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女ひとり住むところは、

2014-08-23 11:00:34 | 『枕草子』 清少納言さまからの贈り物
          枕草子 第百七十一段  女ひとり住むところは

女ひとり住むところは、いたくあばれて、築土(ツイヒヂ)などもまたからず、池などあるところも、水草ゐ、庭なども、蓬に茂りなどこそせねども、ところどころ、砂子の中より青き草うち見え、淋しげなるこそ、あはれなれ。
ものかしこげに、なだらかに修理(スリ)して、門(カド)いたく固め、きはぎはしきは、いとうたてこそおぼゆれ。


女が一人で住んでいる所は、ひどく荒れ果てていて、土塀なども完全でなく、池などがある所も、水草が生え、庭なども、蓬がぼうぼうと生えているいうほどではなくても、所々、砂の中から青い草が見えて、淋しげな様子なのが、風情があるのです。
いかにもしっかり者のように、体裁よく手入れがされ、戸締りもいかめしく、几帳面に整えられているのは、とても不愉快な感じがするものですよ。



女が一人住むといっても、少納言さまと同等クラスの女性をイメージしていると思われますので、若干の下女や下男は雇っていると考えられます。
その上でなお、一人暮らしの女は、少し油断があり、同情されるような部分のある方が良い、ということなのでしょうね。
これは、少納言さまの処世術なのか、若い人へのアドバイスなのか、きっと、その両方なのでしょうね。
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