運命紀行
今日を限りの命であれ
登花殿において、中宮定子と春宮女御となられた淑景舎原子が初めて対面されたのは、長徳元年二月十八日のことであった。
同母のご姉妹のこととて、お手紙などのご連絡はしばしばなされていたが、輿入れからひと月ばかり経って正式のご対面がようやく実現となった。
中宮付きの女房や女官たちは数日前から大わらわの準備に追われ、ようやく準備万端となった夜遅く、淑景舎は数多の女房女官を従えて渡って来られたが、準備されている登花殿の東の廂二間ではとても入りきれるものではなく、多くの女房が淑景舎を無事お送りした後戻って行った。
関白藤原道隆と北の方貴子は、暁の頃、一つの車で参内した。今は、中宮と皇太子女御となった二人の娘の対面に列席するためである。
それぞれの御方のご装束を見れば、
関白道隆は、淡紫色の直衣、萌黄の指貫、紅の下襲などの出で立ち、北の方貴子は、白の表着に紅の打衣二枚ばかりに、腰には裳を付けている。関白の北の方が裳姿とは珍しいともいえるが、わが娘中宮定子に臣従を示すものであり、むしろ誇らしい思いの装束といえよう。
そして、この日の中宮の御召物は、紅梅の固文・浮文の表着に、光沢も鮮やかな紅の御衣三重かさねを上に、数多の御衣を召されている。妹君である春宮女御淑景舎を迎える姉君らしく、しっとりと落ち着いた様子であるが、その表情は、紅梅の御衣と競うかのように輝いている。
少し遅れて、対面の位置についた春宮女御の御姿は、いかにも初々しく、紅を主体とした御衣は、光り輝くと表現するばかりに照り映えていて、きっちりとお坐りなのが愛らしさを増している。
少し離れて、それぞれお付きの女房たち数多が、晴れやかな召物で連なっており、さらに離れて、数多の上達部や殿上人たちが伺候している。
その先頭に位置しているのは、中宮の兄にあたる、大納言藤原伊周と三位の中将藤原隆家であった。
関白北の方貴子は、ふっと息をもらした。
目の前に展開されている絢爛豪華な光景が、夢の中のもののように揺れていた。一の姫は一条天皇の中宮となり、二の姫は春宮の女御。三の姫、四の姫も美しく健やかに育っている。息子たち二人も順調に官位を進めており、あと一人の息子も僧籍にあって身を立てている。
今をときめく藤原氏の氏の長者の北の方として、目も眩むほどの栄華に晴れがましさと共に襲ってくる不安のようなものを感じていた。
* * *
儀同三司の母と呼ばれる女性がいた。
『忘れじのゆく末まではかたければ けふを限りの命ともがな』
これは、百人一首にも入っている和歌で、この作者が儀同三司の母なのである。
儀同三司の母は、従二位式部卿高階成忠の娘で、後に関白まで上り詰めた藤原道隆の妻となった人物である。本名は貴子と伝えられている。
生年は不詳も、道隆の一歳下で天暦八年(西暦954年)の頃と推定できる。高階家は学問の名家であり、上流貴族の姫と誕生した。貴子も、和歌の名手として後世に名を残しているが、当時男性の学問とされていた漢詩や漢籍にも精通していたと伝えられている。
道隆が、貴子のもとに通い始めた頃は、貴子の父は二人が結ばれることに反対していたようであるが、暁の頃に帰っていく道隆の後姿を見て、将来は大臣にまでにも上る男だと感じて、結婚を許したという逸話が残されている。
先に挙げた和歌は、道隆が貴子のもとに通い始めた頃の歌とされていて、「今のこの幸せがずっと続かないのであれば、今日限りの命にしてほしい」といった、純粋で激しいものである。
貴子が道隆の妻となった後、道隆は順調に昇進を続け、ついには氏の長者として関白にまで上り詰める。当時の風習として、道隆には複数の妻がいたが、貴子を正妻として生涯大切にし、若き日の貴子の情熱に応えたといえる。
貴子は道隆との間に、三男四女をもうけ、公私ともに望む限りの栄華を手にした女性のように思われる。
前半にある、中宮定子と春宮女御原子との対面の席は、貴子にとって生涯最良の時であった。そして、中関白家と呼ばれる道隆一族にとっても、栄華の頂点となる一日であった。
関白道隆が病のためこの世を去るのは、この栄華の時から三か月も経たぬ五月十日のことである。
時代は、やがて道長の時代となり、中関白家は衰退へと向かって行く。
「儀同三司」とは、最高官位である太政大臣・左大臣・右大臣を三公(唐風には三司)と呼ぶが、それと同等のものとして設けられた官職のことで、内大臣がそれにあたる。当然、三公に就くと期待していた大納言伊周は、父の後ろ盾を失い実現に至らず、無理やり設けられた形の内大臣に就任した。すなわち「儀同三司」に就任したのである。貴子は、その母として後の世に伝えられたのである。
この後の中関白家の衰退は、激しいものであった。
儀同三司の母貴子は、夫道隆から一年半ばかり遅れて世を去った。道長との政争に敗れた伊周が播磨へ、隆家が但馬へ送られるという悲運の中での逝去であったが、若くして世を去る愛娘定子に先立たれなかったことが、せめてもの慰めだったのかもしれない。
( 完 )
今日を限りの命であれ
登花殿において、中宮定子と春宮女御となられた淑景舎原子が初めて対面されたのは、長徳元年二月十八日のことであった。
同母のご姉妹のこととて、お手紙などのご連絡はしばしばなされていたが、輿入れからひと月ばかり経って正式のご対面がようやく実現となった。
中宮付きの女房や女官たちは数日前から大わらわの準備に追われ、ようやく準備万端となった夜遅く、淑景舎は数多の女房女官を従えて渡って来られたが、準備されている登花殿の東の廂二間ではとても入りきれるものではなく、多くの女房が淑景舎を無事お送りした後戻って行った。
関白藤原道隆と北の方貴子は、暁の頃、一つの車で参内した。今は、中宮と皇太子女御となった二人の娘の対面に列席するためである。
それぞれの御方のご装束を見れば、
関白道隆は、淡紫色の直衣、萌黄の指貫、紅の下襲などの出で立ち、北の方貴子は、白の表着に紅の打衣二枚ばかりに、腰には裳を付けている。関白の北の方が裳姿とは珍しいともいえるが、わが娘中宮定子に臣従を示すものであり、むしろ誇らしい思いの装束といえよう。
そして、この日の中宮の御召物は、紅梅の固文・浮文の表着に、光沢も鮮やかな紅の御衣三重かさねを上に、数多の御衣を召されている。妹君である春宮女御淑景舎を迎える姉君らしく、しっとりと落ち着いた様子であるが、その表情は、紅梅の御衣と競うかのように輝いている。
少し遅れて、対面の位置についた春宮女御の御姿は、いかにも初々しく、紅を主体とした御衣は、光り輝くと表現するばかりに照り映えていて、きっちりとお坐りなのが愛らしさを増している。
少し離れて、それぞれお付きの女房たち数多が、晴れやかな召物で連なっており、さらに離れて、数多の上達部や殿上人たちが伺候している。
その先頭に位置しているのは、中宮の兄にあたる、大納言藤原伊周と三位の中将藤原隆家であった。
関白北の方貴子は、ふっと息をもらした。
目の前に展開されている絢爛豪華な光景が、夢の中のもののように揺れていた。一の姫は一条天皇の中宮となり、二の姫は春宮の女御。三の姫、四の姫も美しく健やかに育っている。息子たち二人も順調に官位を進めており、あと一人の息子も僧籍にあって身を立てている。
今をときめく藤原氏の氏の長者の北の方として、目も眩むほどの栄華に晴れがましさと共に襲ってくる不安のようなものを感じていた。
* * *
儀同三司の母と呼ばれる女性がいた。
『忘れじのゆく末まではかたければ けふを限りの命ともがな』
これは、百人一首にも入っている和歌で、この作者が儀同三司の母なのである。
儀同三司の母は、従二位式部卿高階成忠の娘で、後に関白まで上り詰めた藤原道隆の妻となった人物である。本名は貴子と伝えられている。
生年は不詳も、道隆の一歳下で天暦八年(西暦954年)の頃と推定できる。高階家は学問の名家であり、上流貴族の姫と誕生した。貴子も、和歌の名手として後世に名を残しているが、当時男性の学問とされていた漢詩や漢籍にも精通していたと伝えられている。
道隆が、貴子のもとに通い始めた頃は、貴子の父は二人が結ばれることに反対していたようであるが、暁の頃に帰っていく道隆の後姿を見て、将来は大臣にまでにも上る男だと感じて、結婚を許したという逸話が残されている。
先に挙げた和歌は、道隆が貴子のもとに通い始めた頃の歌とされていて、「今のこの幸せがずっと続かないのであれば、今日限りの命にしてほしい」といった、純粋で激しいものである。
貴子が道隆の妻となった後、道隆は順調に昇進を続け、ついには氏の長者として関白にまで上り詰める。当時の風習として、道隆には複数の妻がいたが、貴子を正妻として生涯大切にし、若き日の貴子の情熱に応えたといえる。
貴子は道隆との間に、三男四女をもうけ、公私ともに望む限りの栄華を手にした女性のように思われる。
前半にある、中宮定子と春宮女御原子との対面の席は、貴子にとって生涯最良の時であった。そして、中関白家と呼ばれる道隆一族にとっても、栄華の頂点となる一日であった。
関白道隆が病のためこの世を去るのは、この栄華の時から三か月も経たぬ五月十日のことである。
時代は、やがて道長の時代となり、中関白家は衰退へと向かって行く。
「儀同三司」とは、最高官位である太政大臣・左大臣・右大臣を三公(唐風には三司)と呼ぶが、それと同等のものとして設けられた官職のことで、内大臣がそれにあたる。当然、三公に就くと期待していた大納言伊周は、父の後ろ盾を失い実現に至らず、無理やり設けられた形の内大臣に就任した。すなわち「儀同三司」に就任したのである。貴子は、その母として後の世に伝えられたのである。
この後の中関白家の衰退は、激しいものであった。
儀同三司の母貴子は、夫道隆から一年半ばかり遅れて世を去った。道長との政争に敗れた伊周が播磨へ、隆家が但馬へ送られるという悲運の中での逝去であったが、若くして世を去る愛娘定子に先立たれなかったことが、せめてもの慰めだったのかもしれない。
( 完 )