雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  今日を限りの命であれ

2011-10-28 08:00:05 | 運命紀行
       運命紀行

          今日を限りの命であれ


登花殿において、中宮定子と春宮女御となられた淑景舎原子が初めて対面されたのは、長徳元年二月十八日のことであった。
同母のご姉妹のこととて、お手紙などのご連絡はしばしばなされていたが、輿入れからひと月ばかり経って正式のご対面がようやく実現となった。

中宮付きの女房や女官たちは数日前から大わらわの準備に追われ、ようやく準備万端となった夜遅く、淑景舎は数多の女房女官を従えて渡って来られたが、準備されている登花殿の東の廂二間ではとても入りきれるものではなく、多くの女房が淑景舎を無事お送りした後戻って行った。
関白藤原道隆と北の方貴子は、暁の頃、一つの車で参内した。今は、中宮と皇太子女御となった二人の娘の対面に列席するためである。

それぞれの御方のご装束を見れば、
関白道隆は、淡紫色の直衣、萌黄の指貫、紅の下襲などの出で立ち、北の方貴子は、白の表着に紅の打衣二枚ばかりに、腰には裳を付けている。関白の北の方が裳姿とは珍しいともいえるが、わが娘中宮定子に臣従を示すものであり、むしろ誇らしい思いの装束といえよう。
そして、この日の中宮の御召物は、紅梅の固文・浮文の表着に、光沢も鮮やかな紅の御衣三重かさねを上に、数多の御衣を召されている。妹君である春宮女御淑景舎を迎える姉君らしく、しっとりと落ち着いた様子であるが、その表情は、紅梅の御衣と競うかのように輝いている。
少し遅れて、対面の位置についた春宮女御の御姿は、いかにも初々しく、紅を主体とした御衣は、光り輝くと表現するばかりに照り映えていて、きっちりとお坐りなのが愛らしさを増している。

少し離れて、それぞれお付きの女房たち数多が、晴れやかな召物で連なっており、さらに離れて、数多の上達部や殿上人たちが伺候している。
その先頭に位置しているのは、中宮の兄にあたる、大納言藤原伊周と三位の中将藤原隆家であった。

関白北の方貴子は、ふっと息をもらした。
目の前に展開されている絢爛豪華な光景が、夢の中のもののように揺れていた。一の姫は一条天皇の中宮となり、二の姫は春宮の女御。三の姫、四の姫も美しく健やかに育っている。息子たち二人も順調に官位を進めており、あと一人の息子も僧籍にあって身を立てている。
今をときめく藤原氏の氏の長者の北の方として、目も眩むほどの栄華に晴れがましさと共に襲ってくる不安のようなものを感じていた。


     * * *

儀同三司の母と呼ばれる女性がいた。

『忘れじのゆく末まではかたければ けふを限りの命ともがな』
これは、百人一首にも入っている和歌で、この作者が儀同三司の母なのである。

儀同三司の母は、従二位式部卿高階成忠の娘で、後に関白まで上り詰めた藤原道隆の妻となった人物である。本名は貴子と伝えられている。
生年は不詳も、道隆の一歳下で天暦八年(西暦954年)の頃と推定できる。高階家は学問の名家であり、上流貴族の姫と誕生した。貴子も、和歌の名手として後世に名を残しているが、当時男性の学問とされていた漢詩や漢籍にも精通していたと伝えられている。

道隆が、貴子のもとに通い始めた頃は、貴子の父は二人が結ばれることに反対していたようであるが、暁の頃に帰っていく道隆の後姿を見て、将来は大臣にまでにも上る男だと感じて、結婚を許したという逸話が残されている。
先に挙げた和歌は、道隆が貴子のもとに通い始めた頃の歌とされていて、「今のこの幸せがずっと続かないのであれば、今日限りの命にしてほしい」といった、純粋で激しいものである。

貴子が道隆の妻となった後、道隆は順調に昇進を続け、ついには氏の長者として関白にまで上り詰める。当時の風習として、道隆には複数の妻がいたが、貴子を正妻として生涯大切にし、若き日の貴子の情熱に応えたといえる。
貴子は道隆との間に、三男四女をもうけ、公私ともに望む限りの栄華を手にした女性のように思われる。

前半にある、中宮定子と春宮女御原子との対面の席は、貴子にとって生涯最良の時であった。そして、中関白家と呼ばれる道隆一族にとっても、栄華の頂点となる一日であった。
関白道隆が病のためこの世を去るのは、この栄華の時から三か月も経たぬ五月十日のことである。
時代は、やがて道長の時代となり、中関白家は衰退へと向かって行く。
「儀同三司」とは、最高官位である太政大臣・左大臣・右大臣を三公(唐風には三司)と呼ぶが、それと同等のものとして設けられた官職のことで、内大臣がそれにあたる。当然、三公に就くと期待していた大納言伊周は、父の後ろ盾を失い実現に至らず、無理やり設けられた形の内大臣に就任した。すなわち「儀同三司」に就任したのである。貴子は、その母として後の世に伝えられたのである。

この後の中関白家の衰退は、激しいものであった。
儀同三司の母貴子は、夫道隆から一年半ばかり遅れて世を去った。道長との政争に敗れた伊周が播磨へ、隆家が但馬へ送られるという悲運の中での逝去であったが、若くして世を去る愛娘定子に先立たれなかったことが、せめてもの慰めだったのかもしれない。

                                     ( 完 )
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運命紀行  倭しうるわし

2011-10-22 08:00:49 | 運命紀行
       運命紀行

          倭しうるわし


尊の命は、その役割を終えようとしていた。
ようやく辿り着いた地は、「のぼの」だという。帰り着くべき地は、まだ遥かに遠い。

思えば、戦いに明け暮れた日々であった。
天皇の命令とはいえ、熊襲征討のため西に向かったのは、まだ十六歳のときであった。それも僅かな兵を与えられただけで苦しい戦の連続であった。
熊襲を討って帰還した尊に対して、天皇はすぐさま、東への出陣を命じた。「東の方、十二道の諸国に命令に従わない人々がいるから、これを討て」というものであった。

西の方への長征の疲れをとるひまもなく、東の方への遠征を命じるのは、天皇は吾に早く死ねと思っているのかと、疑いの気持ちを抱きながらも出立せざるを得なかった。
この征討も、兵士さえ与えられぬ出立であった。
東の諸国を平定しての帰路、伊吹の山に荒ぶる神がいると聞き征伐に向かった。しかし、この荒ぶる神を討つことは出来ず、氷雨に打たれ霧に包まれて道に迷い、ようやく下山した時には荒ぶる神の妖気にあてられ尊は病の身となった。

尊は倭への道を急いだ。
病を得た身を回復させる方法があるとすれば、懐かしい倭の地で身を休めることしかなかった。
尊は、すでに己の命が終わろうとしていることを感じ取っていた。
しかし、倭の地は遥かに遠く、身を進める力はすでに果てていた・・・。

  倭は 国のまほろば
  たたなづく 青垣
  山ごもれる 倭しうるわし
                    
 

     * * *

日本武尊は、神話の世界と有史の世界の狭間に活躍した、わが国古代史上随一の英雄である。

ヤマトタケル(日本武・倭建)という名前は、熊襲の首長が討たれた時、尊に奉った称号である。
本名は、小碓命(オウスノミコト)。景行天皇の第二皇子であり、第十四代仲哀天皇の父と伝えられている。
兄、大碓命(オオウスノミコト)が朝夕の食事に出てこないことを注意するように命じられた時、言うことを聞かなかったのか、「手足を折りこもに包んで投げ捨てた」と天皇に報告した。
このことも原因してか、天皇はまだ少年の小碓命を十分な兵もつけずに熊襲征討を命じた。まだ、前髪が残る十六歳の頃であったという。

さらに、小碓命、すなわち日本武尊が無事熊襲征伐から戻ると、ほとんど休む間もなく、天皇は、東国への征討を命じた。
「父は私に早く死ねと思っているのか」と嘆きながらも東の方の征伐に向かう。命じられた国々を平定し帰還の途中、伊吹山の荒ぶる神を征伐に向かい、ここで荒ぶる神の妖気にあてられてしまう。一度は、泉の水を飲み元気を取り戻すが、ついに、能煩野(ノボノ)まで来た時に力尽き、遥かなる倭を偲びながら命絶えたという。三十歳の頃であったとか・・・。
そして、ここ能煩野の地に墓を造営した時、白鳥が墓から飛び立ち、倭の地に向かったと伝えられている。

古事記を基に推定すれば、日本武尊が活躍したのは千九百年ほどの昔である。記録を残した古事記が編纂されてからでも千三百年が過ぎている。
日本武尊の記録は、古事記や日本書紀に限らず、多くの文献に残されており、伝承となればさらにその数は増える。
それらの文献の内容は一致していないものも多く、いづれを持って真実と定めることは極めて困難である。むしろ、歴史上日本武尊なる人物は存在せず、何人かの英雄の業績を統合させたものだという意見の方が優勢かもしれない。

大和に政権が誕生するにあたって、哀しくも荒々しい活躍を見せた人物がいた。その記録されているもののすべてが彼の軌跡であったかどうかはともかく、『倭は国のまほろば、たたなづく 青垣、山ごもれる 倭しうるわし』と絶唱した人物がいたことを信じたい・・・。

                                    ( 完 )












                  
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運命紀行  私を捨てよ

2011-10-16 08:00:52 | 運命紀行
       運命紀行

          私を捨てよ


『侍は家を立てることが第一。私はもう年をとって老い先も短い。私の身を案ずるあまり、家を潰すようなことがあってはならぬ。万一の場合は、私を捨てよ。私のことなど少しも心に掛けることなく、ひたすら、家を立てることを心掛けよ』
前田利家未亡人芳春院まつが、人質として江戸下向にあたって利長に伝言したとされる言葉である。

家長となった嫡男利長をはじめ重臣たちの多くの反対を抑えて、芳春院が人質として江戸に向かって出立したのは慶長五年五月十七日のことであった。
前田家から徳川家へ人質として送られるのは、芳春院の他に重臣四名の子女もいた。そのうちの一人は、前田長種の十一歳の娘で、その母は、芳春院の長女幸なので孫にあたる。
芳春院や姫たちには、それぞれに侍女や小者が数人ずつ付き、さらには護衛の武者や荷駄を運ぶ要員も少ない数ではなかった。そして、全体を統括するのは古参の重臣村井長頼であった。

人質を江戸に送り届けるための一行とはいえ、豊臣政権下屈指の大大名としての品格は保たれており、女性の多い一行は、むしろ華やかささえ漂わせていた。
しかし、『私を捨てよ』と利長に伝えた芳春院もこの時五十四歳、老い先が長くないという思いは決して誇張ではなかった。わが身の人質としての重さと、もしこの身が失われた時の前田家の行く末、さらには豊臣家の行く末にさえ少なからぬ影響を与えることを感じていた。

そして、芳春院の一行が江戸に到着するのを待っていたかのようにして、家康は行動を起こした。
大軍を率いて東に向かったのである。上杉討伐がその目的であるが、石田三成に挙兵を促せる目的とも考えられ、そのためには、前田軍を味方に確保しておくことが絶対の条件だったのである。
七月の十七日、西軍の総大将となる毛利輝元が大阪城に入ると石田三成らは打倒家康を鮮明にした。
これより時代は、関ヶ原の合戦へと流れていくのである。


     * * *

臨終にあたっての秀吉の必死の願いにも関わらず、その死と共に豊臣政権は揺らぎ始めた。
家康の台頭だけでなく、秀吉幕下の大名たちも武断派と吏僚派との対立も激しく、一触即発の状態に達していた。彼らを何とか自重させていたのは前田利家の存在であった。

果たして、利家死去が伝わったその夜には、武断派といわれる武将たちが三成を襲ったのである。細川忠興、加藤清正、福島正則ら豊臣戦力の中心にいる七人であった。
この二派の対立の主因は朝鮮出兵に関する扱いともされているが、いずれにしても豊臣幕下の猛将たちの多くが関ヶ原において徳川方に付くことになるのである。

前田利長は、利家の死から五か月経った頃、家康の強い勧めにより、金沢に帰国した。利家の遺言は三年間は大阪を離れるなというものであるが、それさえも破らなければならないほどの家康の強い要請だったのであろう。
そして、帰国後まもなく、「家康暗殺計画」という情報が家康のもとに伝えられた。しかも、その中心人物は利長だとされるものであった。密告者は光成に近い人物とされているが、案外、家康の意向によるものである可能性も捨てきれない。
家康は直ちに「前田に謀反の疑いあり」として加賀出兵を号令した。まことに迅速な行動で、やはり謀略的なものが感じられるが、前田家は苦境に立たされることになった。

利長は、一時は決戦の覚悟もしたようであるが、結局、重臣の横山長知を大坂に向かわせ釈明に努めた。
交渉は半年近くにも及んだが、ようやく利長の赦免が認められたが、その過程で家康は芳春院まつを人質として江戸へ下向させることを求めたのである。
利長や前田家中にとって苦しい選択となったが、その条件を受け入れることによって、お家の窮地をとりあえず回避することが出来たのである。

戦国時代において、人質を取ったり取られたりすることは、ごく当然の戦略であった。人質の存在が一定の安全保障になることは事実だが、時には何の役にも立たなかった例も少なくない。
家康ほどの人物が、芳春院まつを人質として押さえることに拘ったのは、よほどの価値を認めていたからであろう。
利家夫人として、前田家を今の身代に築き上げるのにどれほどの貢献があったかを家中の重臣たちすべてが承知しており、前田家を味方につける一番の鍵は芳春院を掌握することだと考えたのである。さらに、秀吉の全盛期の頃から、利家夫人まつは豊臣家の奥向きのことについて秀吉夫人ねねに並ぶほどの影響力を持っていて、秀吉子飼いの武将やねねに少なからぬ影響力を持っていることを熟知していたのである。

江戸に向かう芳春院まつは、ひたすら前田家の行く先を思い続けていた。
それは、単に行く末を案ずることではなく、いかに前田家の安泰を図るかということであった。
そして、その第一は、人質として大きな価値を認められている自分が、一日も長く生き抜くことが重要であり、その第二は、徳川の天下となるのであれば、前田家が重要な地位を占めるための手段であった。

芳春院まつは、江戸で十四年の人質生活を送ることになる。利長の死去により人質を解かれたのであろう。
この間に前田家は、加賀百万石の基礎を築いたといえる。徳川との関係では、秀忠の姫を三代利常の室に迎えることが実現していた。
芳春院まつは、人質生活を終えた後も、金沢を拠点に三年余りを過ごし、金沢城内で七十一年の生涯を終えた。
戦国の世に女性としてひときわ輝きを見せた生涯であった。

                                    ( 完 )
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運命紀行  今生の暇乞い

2011-10-10 08:00:15 | 運命紀行
       運命紀行
 
           今生の暇乞い


大坂の前田屋敷は、前日からの緊張が続いていた。
今やひとかどの武将に成長した利長を中心に、さらに強硬派の次男利政、重臣の村井長頼、奥村永福、片山伊賀らは断続的に軍議を重ねていた。
一時は、「討つべし」といった意見が圧倒していたが、「自重すべし」という意見も少数ながら強固であった。

慶長三年八月、稀代の英雄豊臣秀吉が世を去るとともに、その政権は大きく揺らぎ始めていた。
動揺の中心にあるのは、徳川家康に他ならず、これと対抗すべき立場には、自らの意思に関わらず前田利家が押し上げられていた。
秀吉は死期を悟った頃から、五大老をはじめとする有力者たちに後事を託し、起請文を出させた。しかし、家康の振舞は秀吉の願いを無視したものであり、石田三成を中心とした豊臣政権にとっては堪忍の限度を超え、さらには豊臣家臣団内部の対立も激しく、一触即発の状態になりつつあった。
複雑に絡み合った緊張の糸をほぐすべく、利家は伏見の徳川屋敷を訪れた。

実はこの時にも、利家には家康と刺し違える覚悟があった。
家康が次の天下を手に入れるために、一番邪魔なのは自分だということは明白であった。利家が徳川屋敷を訪れることは、相手に絶好の機会を与えることであった。
利家は、心配して同道しようとする利長に対して、「共に死地に赴いて何とする。もしわしが討たれた時は直ちに弔い合戦に打って出よ。何の、わしとてむざむざ討たれはしない」と、その覚悟を利長に残していた。

慶長四年三月八日、家康は僅かの供を連れただけで大坂の前田屋敷を訪れた。先の利家の訪問に対する返礼である。
その朝利家は、家臣たちに自分が動かない限り決して行動を起こしてはならないと厳命した。
昨夜来、利家はこれまでの走り続けて来た日々を思い起こしていた。己の命がもう数日しか残されていないことも承知していた。
「返々 秀より事 たのみ申候・・」という若い頃からの盟友の秀吉の遺言に応えられないことは断腸の思いであったが、これも又、世の常といえば常であった。
あの足利将軍家はあっけなく滅び、神をも恐れなかった信長さまさえ自刃した。秀吉は人徳厚く天下を掌握したといっても、次を治める人物は、天が望む人物でしかあり得ないのかもしれない。

利家は正装で宴席に臨んだが、その衰え方は隠しようもなく家康を少なからず驚かせた。
互いに慇懃な挨拶を交わしてしばらくたってから、利家は家康を見つめてしっかりとした口調で話した。

「これが今生のお暇乞いでござる。拙者は間もなく死にまする。利長のこと、くれぐれも頼み申しまする」
利家は、もうすべてが終わったという心境になっていた。そして、思わず言葉にしたことは、秀吉が鬼気迫るばかりに秀頼の後事を託しても空しいことを承知しながらも、わが子利長の行く末のことであった。
家康は、ただ、涙を流していたという・・・。
 


     * * *

前田利家が死去したのは、この会見後ひと月にもならない閏三月三日のことである。
若い頃から信長に従って、戦場を駆け巡ってきた「槍の又左」としては、功なり名を遂げて、しかも穏やかな最期だったといえる。
そして、歴史の流れを考える時、利家の死は、関ヶ原の戦いへの出発点だということさえできる。

利家が家康にわが子の将来を託したことが、果たして老獪な家康にどれだけのものとして伝わったのか、推し量る記録は見つからないが、両雄の最後の会見が権謀術数のみであったと断じることも出来まい。

前田家は、利家が死んだ後、家康の計略もあって厳しい立場に立たされるが、何とか凌ぎ切り、加賀百万石を明治の御代まで守り続けている。
その身代は、外様大名ばかりでなく、御三家を含む諸大名中最大であり、三代利常の室には秀忠の娘珠姫を迎えている。
江戸時代を通じて、前田家が御三家に次ぐほどの扱いを受けていることを思えば、利家の『今生の暇乞い』は、あながち無駄ではなかったのかもしれない。


                                  ( 完 )
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運命紀行  わが恋まさる  

2011-10-04 08:00:19 | 運命紀行
       運命紀行

          わが恋まさる


あれから五日も経ったのでしょうか。
まだ、身も心も納得できない状態なのに、内臣の殿が訪れるという前触れがありました。
私のさざ波のように揺れ動いている気持など誰も分かってくれないのか、新しく付けられた召使ならともかくも、長年私に付き従っている下女までが、何かうれしげに立ちふるまっているのです。

あの時、私にもある予感がなかったわけではありません。
あのお方が、大島の嶺とお呼びになった私の家に通って来られた頃の、あの夢のような日がいつまでも続くとは思っておりませんが、その後もずっと、私を愛おしく思っていて下さり、私はそれよりはるかにお慕い申し上げてきました。
それが、確たる変化は何もないのですが、何かしら隙間風のようなものを感じるようになったのです。そう、確か、私が子を宿したことをお知りになった頃からでしょうか・・・。

五日ばかり前、午前の食事からいくらも時間が経っていないのに私をお召しになられました。
これまでに無いことなので、私は胸騒ぎを感じながら参上いたしました。
そこは皇太子の私的なお部屋なのに、内臣の中臣鎌足殿が控えておられました。軍事の最高司令官として内臣を受けられている武人の姿に、私は身が固まるのを感じました。

「鏡王女よ」
と皇太子は呼びかけられました。
「そなたは、只今より、内臣の妻となるのじゃ」

お言葉は、ただ、それだけでございました。
鎌足殿は、低い声で皇太子に御礼を申しあげられ、私と目を合わすこともなかったのでございます。
私は、その日のうちに僅かばかりの供に連れられて、この屋敷に移りました。ここには、何人の下男や下女や、あるいは警護の武者がいるのか分かりませんが、私はたった一人で揺れ動く心と戦っています。いえ、おなかの中の子供と二人ででしょうか・・・。

少しざわめきがあり、それが鎮まると、内臣中臣鎌足殿が部屋に入られました。いつも見る御姿ではない、くつろいだ服装です。
付き従っていた武者一人と数人の召使たちは、敷物と膳部の用意を整え、潮が引くかのように去って行きました。
私は、殿の近くに座り、瓶子を取り殿が手にされた盃に酒を満たしました。
「うん」と頷かれた殿は、一息に飲み干し、その盃を私に持たせ、なみなみと注いで飲み干すように仕草で示しました。酒はとても強く、私は少しむせながら飲み干しました。

「それでよし」
と、少し表情を和らげた殿は、私の肩に手を回し、体ごと引き寄せられました。
「王女よ」
無骨な腕が私を抱きしめ、さらに言葉を続けました。
「わしにすべてを委ねよ。そなたも、腹の御子も必ず守って見せよう」

私は眼を閉じました。
これがわが身の定めなら、この殿にすべてを委ねましょう。
衣ずれの音を遠く聞きながら、私はお腹にある子どもの未来を祈りました。


     * * * 

鏡女王(カガミノオオキミ)は、額田姫王(ヌカタノオオキミ)の姉と伝えられている。異説もあるが、伝えられている資料から勘案する限り、二人が姉妹であったことは確かなように思われる。

額田姫王の場合には、采女のような立場で宮廷に出仕した気配があるが、鏡女王の場合は、中大兄皇子との相聞歌が残されているので、いわゆる妻問い婚の形で結ばれたようなので、その関係で宮廷あるいはその近くに召されたと推定される。

中臣鎌足は、中大兄皇子が蘇我氏を破った大化の改新といわれる事変の立役者であり、一番の協力者であった。内臣(ウチツオミ)というのは公的な役職ではないが、皇太子に就いた中大兄皇子の腹心といった意味があり、蘇我氏亡き後の軍事の実権を掌握していた。
鏡女王が、それも妊娠中に鎌足に下されたのは、歴史上他例もあることではあるが、その理由ははっきりしない。おそらく恩賞としての行為なのであろうが、鏡王女の心境はどのようなものだったのか。

『神奈備(カンナビ)の磐瀬(イワセ)の森の呼小鳥(ヨブコドリ) いたくな鳴きそわが恋まさる』

これは、恋の情熱をうたった鏡女王の歌だが、中大兄皇子に対するものか、鎌足に対するものか不明とされているが、筆者には、わが子の行く末を案じて鎌足にすがろうとしている切なさのように感じられてならないのである。

やがて、中大兄皇子は天皇となるも、その翌年、鎌足は近江王朝の絶頂期に逝去。鎌足五十五歳、鏡女王四十歳の頃。そして、鎌足に守られて出産した男の子が十歳くらい。
その男児は、後に藤原不比等と称することとなる人物なのである。
鎌足の死の前日、天皇は「藤原」の姓を与えたが、鎌足の子供で「藤原」を名乗るのは、この不比等ただ一人で、他の子は「中臣」姓なのである。

鎌足を亡くした後の鏡王女に試練が訪れる。
天智天皇の後継者大友皇子と大海人皇子が戦う、壬申の乱の勃発である。
戦いは、大友皇子側が敗れ、鏡女王は苦難に陥る。妹の額田姫王は大海人皇子の軍に保護されたが、鏡女王の消息は不明、おそらく一人息子と共に近江の辺境に逃れていたと思われる。

勝利した大海人皇子は即位し飛鳥浄御原宮に遷都する。天武朝の始まりである。
そして、並みならぬ努力もあって、藤原不比等は歴史の表舞台に登場してくるのである。その後、平安期、あるいはその後までも続く藤原氏の隆盛は、この不比等に始まるのである。
鏡女王は五十四歳くらいで亡くなったが、その前日には、天武天皇自ら鏡女王の自宅に見舞ったと記録されていることから、その晩年は幸せなものであったらしい。

                                  ( 完 )
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