雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

たくさんの家族

2010-04-29 12:04:46 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


わたしは たくさんの家族の中で育った。
きょうだいは九人いて、わたしは 一番末っ子だった。
「おまんは おとんぼなんで、好き勝手に育った」と、皆によく言われたけれど、さて 確かにそうかもしれないが、かならずしも気楽なわけでもなかったよ。


きょうだいのうち 三人は幼いうちに亡くなっていて、わたしの上には 兄二人と姉が三人いたけれど、わたしが小学校四年の頃には 長兄以外は全部外へ出ていた。

そんなわけで、その頃の家族といえば、長兄と兄嫁さん、その子供が四人、わたしのてて親と はは親、そして わたし。
てて親と はは親は、母屋の中にある納屋だった所を 少しばかり手を入れて生活していて、わたしは一番上の姪と一緒にいることが多かった。


両親のことを、家の中では ジイちゃん バアちゃん と呼んでいたし、姪や甥たちは わたしのきょうだいみたいだったし、何が何だか よく分からん家族だったなあ、まったく。

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となり町のおばあさん

2010-04-28 10:05:23 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


となり町に 母方のおばあさんが一人で住んでいた。
すぐ近くに子供の家族がいたが、一緒に住むのは 気づまりだとかいって、古いが結構広い家に一人で住んでいた。


わたしは はは親の使いで時々訪ねていった。
まあ いま思うと やはり はは親は気掛かりで、といって そうそう自分が里へ帰るわけにもいかず、代わりに わたしを行かせていたのだと思う。


となり町までは 大分距離があるけれど、わたしは そのおばあさんが好きだったので 行くのが楽しみだった。


行くと いつも よく来たよく来たと喜んで、わらを編んだ ふご のような物の中から お菓子を出して くれるのよ。
ほかの孫や ひ孫に取られんように とっておいてくれるんよ、ね。
でも、いつから入れていたのか、せんべいや おかきは 湿っていたし、干菓子なのか饅頭なのか分からないような物もあった、な。
でも、わたしは とても嬉しかった。


おばあさんは 足は達者だったけれど、歯はほとんどなく 言葉も はっきりとは聞き取れなかった。
顔もくしゃくしゃで 口の悪い大人の中には、「化けるほど生きているからなあ」と言う人もいた。


だが 考えてみると、あのころ あのおばあさんは九十歳くらいだったはずだから、いつの間にやら わたしの方が 遥かに長生きしてしまったなあ、ほんとになあ。

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ランプの生活

2010-04-27 13:27:03 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


わたしが小学生のころに、家に電気がついた。
町の方では、もっと早くに電気がきていたらしいけれど、わたしらの所は少し離れているから大分遅れたらしい。

それでも、同じ小学校に通ってきている子の中では早い方で、山の方の子の家などは、終戦のあと わたしの家族が姉さんの家に世話になったときにも、まだ電気は引かれていなかったらしい。

百姓の家だから そりゃあ 町の家より広かったが、電灯があったのは 玄関と台所と長兄たちの部屋の三か所だけだった。
里にいるあいだは、ほとんどランプでの生活だった。そのランプも すぐ消されてしまうから、冬はいろりの明かりが頼りだった。
それでも べつに 不便だなんて思ったこともなかった、な。

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楽しみはタコの足

2010-04-25 17:15:34 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


てて親が、ウリとかスイカとかナンキンなどを売りに行くと、わたしは一人で瓜小屋の番をしていた。
退屈しながら、虫を捕まえたり、草花を摘んだりして遊んでいたが、てて親が帰ってくるのが待ち遠しかった。


それは、町へ行った帰りの てて親の籠の中には、いつも何かおみやげが入っていたからなんだ。
てて親の姿を見ると、わたしは一番に籠の中を覗き込んだ。
たいした物など入っていないんだが、せんべい二、三枚か、干したタコの足一、二本か、ごくたまに飴玉もあった。


「咲は、いつも籠の中を覗きに来るから、何ぞ買って来んわけにはいかん」と、てて親は笑っていたが、わたしは、タコの足をしゃぶりながら、とっても幸せだったよ。

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風を追う

2010-04-25 17:14:46 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


瓜小屋へよく行ったが、いつも てて親と一緒だった。
瓜小屋は、ウリやスイカなどを盗まれないように番をする小屋だが、木とむしろで作られた粗末なものだったが、わたしは好きだった。


夏休みも終わりに近い頃になると、大風に襲われることが時々あった。粗末な作りの小屋のため、大風ともなると激しく揺れ、とても怖かった。
すると てて親は、「ホーイ、ホーイ」と大声を張り上げて、風を追い払おうとするんだ。


その頃 てて親は六十歳近くで、当時としては年寄りであり、わたしも含めた皆からは「おじいさん」と呼ばれていたが、風を追う時には とても大きな声を張り上げていた。


今思えば、「ホーイ、ホーイ」と叫んだくらいで 風が他所へ行ってくれるはずはないが、その頃は、てて親の風を追う声を聞くと 不思議に安心することができたなあ。

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蕎麦を打つ

2010-04-25 10:47:21 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思い出される・・・


里の家では、小麦も作っていたが、家でうどんを打つことはあまりなかったが、蕎麦は兄嫁さんが時々作っていた。


兄嫁さんは、石臼をごろごろと長い時間かけて蕎麦の実を挽いて粉にして、それを小さな声だが掛け声をかけながら練り上げていた。
それを、溜まり醤油で味付けした汁とネギを薬味に昼食や間食として食べさせてくれた。


兄嫁さんは恐い人だったけれど、あの蕎麦は美味しかった。
「おまんも、蕎麦の打ち方をしっかり覚えるんやで」と、蕎麦を打つのをいつも眺めていたわたしに、決められたせりふのように言っていた。


しかし、わたしは小さい頃に家を離れてしまったことや、その後も 所帯を持ったあとで蕎麦を食べる機会があまりなかったこともあって、とうとう一度も打つことがなかった。
兄嫁さんがあのように言っていたのに、もしかすると、わたしは大きな損をしていたのかもしれないと思うことがある。


 

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西山の狸

2010-04-25 09:54:25 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


子供の頃のご飯のおかずといえば、まあ 畑で採れるものばっかりだったわ、な。
肉は食べることなど習慣としてなかったし、魚も塩漬けされたものか干物に限られていたが、それも、余程のことでもないと食べさせてもらうことはなかった。


わたしはニンジンが、あまり好きではなかった。
今のニンジンは食べやすくなっているけれど、昔のニンジンは金時ニンジンだから、ほら、雑煮に使う真っ赤なの、あればっかりだから、ニンジンが好きな子供は少なかった。


それで、食事の時、親たちの目を盗んで、おかずのニンジンを窓からよく捨てたものだった。
それを見つけられた時には、はは親は決まったように「ああ、どんどん捨てなはれ、西山さんの狸が食べに来るわ」と言っていた。


子供たちにとって、西山に住んでいるという狸は、とても怖いものだったけれど、わたしは一度も見たことがなかったなあ。

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子供は残酷

2010-04-25 09:51:00 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


いたずらもよくしたなあ。


捕まえてきた虫を、穴を掘って入れて、持ってきていたお茶を飲むのを我慢して、その穴の中に流し込んだりして遊んだ。


いま思うと、かわいそうなことをしていたことだ。
わたしだけでなく、子供はあんがい残酷なもんだなあ。

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くやしい!

2010-04-25 09:50:05 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


悪い人っているもんだなあ。
そう、よく行っていた瓜小屋で、一人で番をしていたときのこと。
ちょうどスイカの収穫の頃で、てて親は 採れたものを町まで売りに行っていた。

暑い昼下がりのことで、わたしは小屋に寝ころんでいたが、見知らぬ小父さんが、「スイカをもらいに来たよ」と親しげに話し掛けてきたのよ。


わたしが、てて親が出掛けているので分からないと言うと、
「お父さんには話しているので、一つもらって行くよ」
と言って、町にある料亭の名前を言いました。
そこは、これまでにも てて親がウリやスイカを売りに行っていた所なので、わたしは安心して畑を見てもらいました。


小父さんは、てて親がわざわざ残していた一番大きなスイカを取ると、持ってきていた風呂敷に包んで、「お金は、店の帳場に取りに来るように言っていたと、お父さんに伝えてくれ」と言って、にこにこしながら帰って行った。


てて親が帰って来たのでそのことを伝えると、不思議そうに首を振りながらその料亭へ出掛けて行ったけれど、「うちが、畑までスイカをもらいに行くことなんかない」という返事だったそうです。


子供が一人で番をしていると思って、あの小父さんは気の良さそうな顔をして、まだ小さなわたしをだまして盗んでいったのよ。
あの時のくやしさは、今でも忘れられないなあ。

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雲と風の匂い

2010-04-24 11:03:07 | さても このごろは

さても このごろは、昔のことが しきりに思いだされる・・・


子供の頃には 天気予報なんてなかったよ。
テレビはもちろん家にはラジオもなかった。新聞はあったが、さて、毎日配達なんかされていなかったんじゃないかな。


それでも てて親はお天気を当てるのが うまかったよ。
「ほら、西山さんにあんなに黒い雲がかかったから、こりゃあ、ひどい雨がやってくるぞ」と、てて親が言うと、ものの三十分も経たないうちに、土砂降りになったもんだよ。


まあ、三日も四日も先のことは分からなかったんだろうが、翌日のお天気なんかは、雨だけでなく 風の強さや暑さ寒さなども、よく当てていたよ。


わたしが、どうして分かるんか、と尋ねると、雲の様子と風の匂いに気を配っていたら、大概お天気なんか分かるもんだよ、と言っていた。
特に 西山さんの様子は、この辺りの天候を知るのに一番大切なんだ、とも言っていたなあ。

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