雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語 第二十七部

2023-02-02 15:42:57 | 小さな小さな物語 第二十七部

 

    小さな小さな物語  第二十七部


     NO.1561 から NO.1620 までを収録しています
  

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小さな小さな物語  目次

2023-02-02 15:42:07 | 小さな小さな物語 第二十七部

        『 小さな小さな物語  目次 』


     NO.1561  三つ子の魂百まで
        1562  うつせみの命
        1563  消費者泣かせの2022年
        1564  打てば響く
        1565  若い時の苦労は 買いか売りか

        1566  お盆のひとときを
        1567  ここ掘れ ワンワン
        1568  老いの繰り言
        1569  一瞬の判断
        1570  幸せの賞味期限

        1571  幸福と幸せのせめぎ合い
        1572  良いめぐりあい
        1573  一匹と九十九匹
        1574  地球の温暖化は進んでいるが
        1575  今 何合目にいますか

        1576  秋の真ん真ん中
        1577  どうでもいいこと
        1578  隅から隅まで
        1579  エリザベス英女王の御葬儀
        1580  秋の夜長

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三つ子の魂百まで ・ 小さな小さな物語 ( 1561 )

2023-02-02 15:41:32 | 小さな小さな物語 第二十七部

「三つ子の魂百まで」という言葉があります。
ことわざと言うほどでもない言葉だと思うのですが、時々にお目にかかったり、ご高説の振りに使われたりしています。と申し上げている私が、まさに、その振りに使おうとしているのですが。
この言葉を辞書で調べてみますと、「幼い時の性質は老年まで変わらない」とあります。辞書に文句を言っても仕方がありませんが、実際に使われる時の多くは、もっと具体的な事項について、それも、どちらかと言えば悪口や揶揄するような時に使われるような気がします。「昔取った杵柄」とか「雀百まで踊りを忘れず」などとよく似た意味で使われるのでしょうが、「三つ子の魂百まで」の方が、ややアクが強いように思うのは私だけなのでしょうか。

一方で、この言葉を幼児教育の大切さを示す言葉として考える向きもあるようです。
「三歳児神話」という言葉もあるそうで、こちらは、三歳までの期間は性格形成に重要な時期なので、極力母親が養育にあたるべきだ、といったもののようですが、こちらは、多くの研究者が否定的で、共働き世帯であっても、その対応次第だという意見の方が有力なようです。
江戸時代の幼児教育の考え方に、「三つ心、六つ躾(シツケ)、九つ言葉、十二 文(フミ)、十五 理(コトワリ)」というのがあるそうです。つまり、三つまでにその人の本性のようなものは形成されると言うことなのでしょうか。そして、その時代、十五歳は元服の年で、この後は一人前だと言うことなのでしょう。
これによる限りでは、「三つ子の魂」がどうであるかは、生涯にわたって重要な意味を持っていると考えられていたのかも知れません。
現代の研究においても、三歳児頃までの間が、人格形成に大きな意味を持っているという考え方は有力のようですが、人間の成長は継続しているもので、幼児期の育児の大切さはあるとしても、三歳で区切る意味はないようです。

ここからは、脳科学などの研究者の意見をカンニングしたようなものですから、そのつもりでお読みいただきたいと思います。
人間の脳細胞の形成は、胎児の間にほぼ完成に至るそうです。月満ちて生れてきた赤ん坊には、すでに成人と同程度の140億個の細胞があるそうです。
脳は神経細胞の塊のようなものですが、それぞれの細胞には情報を授受する機能、シナプスというものが形成されていくそうですが、誕生後ものすごい勢いで作られていき、3歳までに80%、6歳までに90%、12歳までにほぼ100%が形成されるそうです。その数は、一つの細胞に8000ものシナプスが形成されるそうですから、脳全体では112兆に及ぶそうです。
この数字を見ますと、まだ幼い子や、十代の子供に、数学の天才や、将棋や囲碁の天才が登場してくるのも、何の不思議もないのかもしれません。

さて、この脳細胞やシナプスは、使われると強化され、使われないと弱体化し消滅するそうです。また、損傷しても、修復されることはないそうです。( 最近の研究では、分裂する細胞が発見されているそうで、将来は、医学的に利用される期待もあるそうです。)
つまり、12歳を過ぎた人は、脳の基本的な機能はそれ以上強化されることはなく、劣化しているだけのようです。人間は、その後も知識や知能が成長しているように見えますが、それは、脳細胞の使い方が向上しているだけで、根本的なベースは衰える一方と言うことになります。また、人間の脳は、使われているのは10%程度に過ぎないとか、せいぜい20%か30%だという意見も耳にしますが、余り正しくないようで、もしかすると、私たちの多くが90数%を使い切っているのかも知れません。
いずれにしても、成人式を迎えた人でもすでに脳の老化は始まっているのですから、いわんや、そこそこ生きてきた者としましては、今も頑張って下さっている脳細胞を、あだや疎かにすることなく、大切にしたいものです。
と申しながらも、その大切な残り少ない脳細胞を、どう考えても無駄と思われることには夢中になれるのは、どういう働きゆえなのでしょうか。

( 2022.07.28 )

 

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うつせみの命 ・ 小さな小さな物語 ( 1562 )

2023-02-02 15:40:20 | 小さな小さな物語 第二十七部

このところ、早朝の散歩の量を減らして、その分を庭作業に当てています。
まあ、庭作業といっても、一時間ばかりの草抜き中心の作業ですが、この十日ばかりの間で、気持ちのよい朝といった日は二日ばかりしかありません。他は、日差しこそまだ弱いですし、日陰になる場所を選んで作業していますが、蚊との戦いもあって、長靴に長袖という姿ですから、少し体を動かすだけで汗びっしょりになってしまいます。
今年の夏は、とんでもなく早い梅雨明けがあり、その直後に厳しい暑さが続いたため、暑さに順応するのが、例年よりうまく行っていないような気がします。
どうやらそれは、人間だけではないような気もします。

わが家の庭に限ってのことですが、ヒマワリ、ヒャクニチソウ、ケイトウの背丈が、いつもの年より大きく育っているような気がするのです。手入れが悪いこともあるのでしょうが、植えっぱなしで殆ど手入れをしないのが私流ですから、それほど大きな差はないと思うのです。
それに、背丈ばかり大きくなって花を付けないかと言えばそうではなく、いずれも立派な花を付けてくれています。ただ、地植えの物は、倒れやすく、鉢やプランターに植えている物は、例年以上に水を欲しがっています。さらに、今年は、ヒャクニチソウ、ケイトウに加えて、ホウセンカが、育った苗を間引くと言うことを知らない私は、少しの隙間を見つけては無秩序に植え、またそれが殆ど全部育っているものですから、賑やかなことこの上なく、その分隙間が少なくなっているはずですが、何の何の、雑草は変わらず健在です。
例年と違うと言えば、わが家で羽化するセミの数が、今年は少ないように思われるのです。
このところは、元気な声を聞かせてくれてはいますが、去年より少ないように思いますし、うつせみ(空蝉)の数は、明らかに少ないように思われます。

羽化した後のセミの命は、人間に比べますとまことに儚いものです。
もちろん、彼らにとっては、もしかすると、羽化後の時間などはおまけみたいなもので、地中での生活そのものが命が輝いているときかも知れません。
ただ、羽化後の姿しか知らない私にとっては、うつせみは、やや不気味な姿ですが誕生の証であり、生命の記念碑のように思うのです。そして、あの暑さを掻き混ぜるような蝉時雨は、口ではなんだかんだと言いながらも、生命力の逞しさのようなものを感じさせていただいています。そして、これからは、命尽きた亡骸を拾わせていただく季節を迎えます。

長い地中生活を終えて地上に姿を現わしたセミは、結構長い距離を歩いて、羽化すべき地点を見定めると、その抜け殻を何の未練もないかのように脱ぎ捨てて、大空に飛び立っていきます。おそらく一ヶ月にも満たない時間だと思うのですが、その潔さに感動を覚えます。
そして、ふと、「このうつせみには命は無いのだろうか」と思うことがあります。ゴミとして処理しながら思うことでもないのでしょうが、彼らにとって、生きた証の一つだとすれば、何かの意味を持っているような気がするのです。
特に今年は、演説中に突然に命を奪われるという事件を目の当たりにしたこともあってか、うつせみを見つけるたびに、このセミは今どこで鳴いているのだろう、などと考えてしまいます。最期のひとときを力いっぱい鳴いて欲しいと願うのですが、彼は、私の思いなど全く浅はかに思いながら、与えられた生命を輝かせ続けているようにも思うのです。

( 2022.07.31 )

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消費者泣かせの2022年 ・ 小さな小さな物語 ( 1563 )

2023-02-02 15:39:17 | 小さな小さな物語 第二十七部

「値上げラッシュ  秋の陣」などといった、少々物騒な見出しを見ました。それも、複数回です。
私たちの日常生活で馴染み深い商品の値上げが、昨年あたりから見られるようになり、この四月あたりは、これまで最多の商品が値上げになった、といった報道を見たような記憶があるのですが、まだまだそれは序の口で、今月はこれまでで最多の2431点が値上げされ、来月も1600点余り、十月には6300点余りがすでに値上げを発表しています。
この数字は、国内の主な食品・飲料メーカー105社のデーターですが、この他にも、光熱費、医療費などの値上げも進んでおり、「値上げラッシュ 秋の陣」どころか、『消費者泣かせの2022年』として、後世にまで語られる苦難の年になるのではないかと、嫌な予感がしてなりません。

ここ数年、わが国の政策当局は、「2%の物価上昇」をと唱え続けてきました。その努力のお陰なのでしょうか、今年は、間違いなく2%を遙かに超える物価上昇が達成できそうです。
ただ、ここではっきりしておいていただきたいのは、「2%の物価上昇」が達成されれば、わが国の経済は成長路線に乗ると言っておられたように思うのですが、思い違いではないでしょうね。
「2%の物価上昇」で、私たちの生活が豊かになると考えるほど私たちも無知ではありませんが、少なくとも、企業業績や雇用状況は改善し、やがては私たちの生活も物価上昇の負担をカバーできるようになると考えていたのですが、この考えが間違っていないとすれば、さて、それはいつのことなのでしょうか。

個人的には、「物価上昇を国策の中心に置く」と言うことには、常に疑問を抱いています。
国民一人一人の生活となれば、千差万別、自由経済社会をベースにしている限りは、ある程度の貧富の差は仕方がないと思うのです。
しかし、考えなければならないことは、発表されている商品やサービスの多くは、余裕の無い生活を送っている人々にとっては、とても2%の物価上昇といった程度のダメージではないということです。
そして、何よりも懸念されることは、わが国の国民の半数は、「物価上昇に対する免疫を保有していない」と言うことです。この30年、私たちは、個々の商品はともかく、日常生活必需品全体としては、値上がりという現象に罹患していないのです。可処分所得が細る中で、何とか生活を守ることが出来たのは、物価が安定したからに他なりません。ただ、その結果、わが国民の多くは、「物価上昇に対する免疫」を殆ど持っておらず、免疫を持たない状態でインフレという試練は、一歩間違えれば、とんでもない惨状を招きかねません。
さらに言えば、国家や各自治体で指導的な立場にある人もまた、インフレ下で国民生活を守るという経験を持っていない人が大半でしょうから、とても心配です。

この話は、以前にも書かせていただいた記憶があるのですが、遠い前のことになりますが、ある先輩が、こんな話をしてくださいました。
「『 生活費=収入-貯蓄 』、この算式をしっかりと覚えていなさい。これさえ守れば、身を誤ることはない」と教えて下さいました。当時は、小馬鹿にして聞いていましたが、その後、何度か思い知らされる現実を見てきてしまいました。
インフレに対する恐怖は、現在のアメリカ政府の対応を見ると分かると思うのです。わが国でも第二次世界大戦後には凄まじいインフレを経験していますが、敗戦によるダメージの大きさに打ち消された感があります。
幸い、わが国には、これまでに蓄えてきた資力も技術も社会力もあります。現在進行している程度の物価上昇から国民を守る力はあるものと信じたいと思いますが、個々の生活は、個々の努力がベースであることを覚悟すると共に、もし、限界を感じた時には、何ら恥じることなく、勇気をもって手を挙げ、周囲の人も、そうした合図に気付く程度の優しさをぜひ持ち続けたいものです。

( 2022.08.03 )

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打てば響く ・ 小さな小さな物語 ( 1564 )

2023-02-02 15:38:13 | 小さな小さな物語 第二十七部

私は漫才が好きで、生で見る機会は久しくなくなりましたが、つい最近まではテレビ番組があればよく見ていました。
テレビで見た中では、かなり前になりますが、テレビの有名なチャンピオンを決める番組で優勝したコンビは、「漫才の神様が降りてきた」とは、あのような状態を言うのかもしれない、と思わせるほどすばらしいものでした。
ただ、最近は、少し売れ始めると、漫才以外の仕事が多くなるようで、劇場へ足を運べばそうでもないのでしょうが、テレビでは、「漫才の神様が降りてきた」と思わせるような漫才にはなかなかお目にかかれません。

ある大御所と呼ばれるような芸人のお方が、こんな話しをされていた記憶があります。
「漫才であれ、芝居であれ、もしかすれば落語などのピン芸であっても、最も大切なのは『間』だと思う。そして、その絶妙の『間』を育て生かすのは、『打てば響く』ような互いの呼吸であり、信頼だと思う」といった内容でした。うろ覚えの部分がありますので、その点はご勘弁下さい。
この、『間』とか、『打てば響く』といった対応は、何も芸事に限ったことではなく、私たちの日常生活でも重要な意味を持っているはずで、仕事の上や人間関係でも、その良否が多くの影響を与えています。

幕末をテーマにした小説やドラマなどで、よく登場する名シーンがあります。
勝海舟に勧められて西郷隆盛と会談した坂本龍馬は、どのような人物であったかと勝海舟に尋ねられると、「茫漠としてとらえどころがない。ちょうど大鐘のようだ。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」と答えたそうです。 
一方の西郷隆盛は、坂本龍馬について、「天下に有志は多く、自分はたいていの人物と交わっているが、度量の闊大なことは、龍馬ほどの者を未だ見たことがない」と語ったという。
なかなか含蓄のある話だと思うのです。

現代社会においては、多くの場面で、人間関係の希薄さが語られるようです。
「自分の思いがなかなか伝わらない」「彼が何を考えているか分からない」等々、職場関係や教育現場、あるいは家庭内においても、こうした声は少なくないようです。
いくら立派な鐘であっても、打たないことには音は鳴りません。それも、小さく叩けば音は小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴ることは誰でも知っているはずです。しかし、人間関係においては、その叩き具合、さらには、それによって鳴る音をどう聞き取るのか、それが大切なようです。
家庭であれ交友であれ、長い付き合いがあれば、それなりに「阿吽の呼吸」といったものは生まれてくるものです。しかし、阿吽の呼吸といったものは、どのような場面においてでも通用するものではないのです。
名人上手というほどではないとしても、大切に思う人間関係であればあるほど、適切な『間』を考え、『打てば響く』ことが出来る関心を持ち続けることが大切なように思うのです。

( 2022.08.06 )

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若い時の苦労は 買いか売りか ・ 小さな小さな物語 ( 1565 )

2023-02-02 15:37:11 | 小さな小さな物語 第二十七部

「若い時の苦労は買ってでもせよ」という言葉は、かつては、ちょっとばかりうるさい小父さんの得意文句の一つだったようです。
さすがに、最近は余り聞かれないようですが、それでもまだまだ健在のようです。
確かに、「良いとこのボツちゃん」「苦労知らずのお嬢ちゃん」などといった言葉は、けっして褒め言葉ではなく、若い時に苦労知らずで育つと、世間知らずであったり、打たれ弱い人間になったり、人の痛みが理解できない性格になる、など、否定的な意味で使われることが多いようです。
そして、それと対を成すかのように、「若い時の苦労は買ってでもせよ」と小父さんは宣うわけです。

同じような言葉として、「艱難(カンナン)汝を玉にす」という言葉が紹介されることがあります。
なかなか威厳のある言葉で、きっと大陸あたりから渡ってきた言葉だと思っていたのですが、実は、西洋からやって来た物のようです。もちろん、この言葉そのままではなく、「困難や苦労を乗り越えることによって、初めて立派な人間に成長する」といった教えを、どなたかが、このような立派な言葉に仕上げて下さったのでしょう。
ただ、この二つの言葉を、同じような意味の言葉として紹介されていることが多いようですが、少し違うような気がするのです。どちらも、困難や苦労が人格形成によい影響を与えると教えているのでしょうが、片方は『若い時』が強調されており、他方には、それはありません。

本当に、『若い時の苦労』は買ってでも経験すべきものなのでしょうか。それとも、売り払ってしまうべきではないのでしょうか。
功成ったか否かはともかく、そこそこの年令まで人並みの生活が出来ていてこそ、「若い時の苦労は買ってでもせよ」と、イッチョ前の顔をして言えるのではないでしょうか。
実際には、『若い時の苦労』に押しつぶされて、人格形成に悪影響があったり、大変なハンディを生涯にわたって背負ってしまう人も少なくないと思えてならないのです。何かの統計に基づいての意見ではないのは申し訳ないのですが。
試練が逞しい人格を作るといった考え方は、洋の東西に存在しているのですから、おそらく真実なのでしょう。しかし、『若い時』、それもまだ幼いと言っていいような年代の過酷な試練は、人格形成に「わざわざ買いに行くほど」有用な物なのでしょうか。まだ未熟な子どもが、「苦労を売り払う」知恵などあるはずがないのですから、たとえ少しでも引き受けて軽くしてあげる社会制度が、もっともっと有効に働かなくてはならないように思うのです。

つい最近、ヤングケアラーに関するドキュメント番組を複数回見る機会がありました。
老老介護という問題も、大きな社会問題として取り上げられることがありますが、介護や育児といった本来大人が担うべき仕事の多くを、子どもたちに背負わせることは、一家庭の問題として見過ごしていいはずがありません。
「ヤングケアラー」というのはまだ新しい言葉で、法的な定義はないようですが、「本来大人が担うと想定されている家事や家族の世話などを日常的に行っている子ども」とされていて、18歳未満の子どもを指しているようです。
もちろん、国や地方行政として、こうした子どもや家庭に対して、いくつかの支援制度が準備されています。しかし、残念ながら、多くの対象者はその支援を受けておらず、事件化するような状態になるまで、幼いと言ってよいような子どもに重い荷物を背負わせているのです。
「若い時の苦労は買ってでもせよ」とご高説を述べるのも結構ですが、ヤングケアラーの問題は、当事者で解決を求めるのは酷であって、周囲の人の温かい目が絶対に必要なのだと思うのです。
私たちは、もう少し、自分以外の子どもたちも大切に見守る必要があるのではないでしょうか。

( 2022.08.09 )

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お盆のひとときを ・ 小さな小さな物語 ( 1566 )

2023-02-02 15:36:05 | 小さな小さな物語 第二十七部

本日8月12日は、旧暦の7月15日に当たります。地域によっては、今日をお盆とする所もあるようです。
一般的には、8月13日から8月16日の期間をお盆とする地域が多いようで、企業のお盆休みもこのあたりを中心に設定されている所が多いようです。新暦の7月15日をお盆とする地域も関東を中心にかなりあったようですが、現在はどうなのでしょうか。
今年は、昨日が「山の日」であったことから、すでにお盆休暇に入っているお方も多いようで、一部では交通渋滞も始まっていますが、折から、コロナの感染拡大が治まらない中、極端な制約が解除されたなかで、それぞれが自己判断を求められる休暇になりそうです。

お盆、正確には盂蘭盆会ということになりますが、その始まりは、西暦606年に、推古天皇が「七月十五日斉会」を行った事に遡るとも言われています。「盂蘭盆経」に基づく行事ともいわれ、仏教との関わりの深い行事であることは確かでしょうが、時期や行事の習わしなどは、地域によってかなりの差があるようです。ただ、「ご先祖の精霊を浄土からお迎えして、お盆の期間を共に過ごし、ご冥福を祈り、やがて浄土にお送りする」といった意味を持っていることは、ほぼ共通しているようです。
浄土にお送りするにあたっての「京都五山の送り火」などは大変著名ですが、厳密な意味での仏教信仰に縛られることなく、多くの人にとって、一つの大切な行事になっているのではないでしょうか。
「盆と正月が一緒に来たような」と表現されることがあるように、家事を引き受けている人にとっては、この二つは多忙な行事の代表でしょうが、お正月に比べて、お盆はやはり重たい物が共存しているようです。
特に近年は、第二次世界大戦の敗戦の日や、原爆被害などの消えることのない記録が渦巻いていて、このお盆の前後の期間は、私たちに重い記憶を見せつけられることも少なくありません。

つい先日にも、「宝塚海軍航空隊」に関する悲劇が報道されていました。
昭和19年 ( 1944 ) 8月15日、宝塚大劇場を接収して、宝塚海軍航空隊(前進組織は、滋賀海軍航空隊宝塚分遣隊)として、増加した予科練甲飛第13、14期の生徒を教育するために予科練教育航空隊として創設されたのです。
そして、昭和20年8月2日、悲劇が起こりました。
淡路島南西部に砲台を造る(?)ため、少年兵たちは現地に送られることになりましたが、すでに海上運行も安全ではなく、岡山から四国に渡り、鳴門から淡路島に渡ろうとしました。木造船の住吉丸には111人の少年兵が、すし詰め状態で乗っていたそうです。その鳴門海峡で米軍機の機銃掃射に遭い、82人が戦死しました。うち76人は、14歳から19歳くらいまでの少年兵だったそうです。
この悲劇は、秘匿され世間に知られることはありませんでしたが、終戦直前の余りにも残念な犠牲でありました。
現在は、地元有志の方などによって、鳴門海峡を見下ろす丘の上に、82の墓碑と慈母観音像が祀られて、静かに海峡を見守っているそうです。

今なお収束の兆しさえ見えないロシアによるウクライナ侵攻は、おそらく、至る所で、多くの悲劇を生み出していることでしょう。それは、ウクライナの人に限らず、戦線に送られたロシアの人にとっても同様です。1万人の戦死者や犠牲者は、果たして何万人の悲しみや恨みを膨らませているのでしょうか。
これだけ大きな犠牲を払ってまで得ようとしている物は何なんでしょうか。不可解としか言えない気もしますが、つい70余年前には、わが国も、全く同様の、あるいはそれ以上の行動を取っていたのです。国家国民挙げてです。
わが国が無謀な戦争に突入していったのには、やはり、それなりの理由があった、との意見もあります。しかし、残念ながら、そうした意見を抑えるだけの知恵はなかったということも出来ると思うのです。そして、何かとキナ臭い状況の今、私たちには、戦争を避けるだけの知恵を少しは成長させることが出来たのでしょうか。
そうしたことも含めて、私たちが伝えてきた盂蘭盆会という貴重な習慣を、宗教的な問題は横に置いて、一足先に彼の地に赴かれた人たちと、ほんのひとときでも語り合うのも良いのではないでしょうか。

( 2022 .08.12 )

 

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ここ掘れ ワンワン ・ 小さな小さな物語 ( 1567 )

2023-02-02 15:35:07 | 小さな小さな物語 第二十七部

『 うらの畑で ポチがなく  正直じいさん 掘ったなら 
  大判小判が ザクザク ザクザク
  いじわるじいさん ポチ借りて うらの畑を 掘ったれば
  瓦や貝がら ガラガラ ガラガラ            』
これは、花咲かじいさんの一番と二番です。
この後もまだまだ続くのですが、全部を紹介させていただきますと、このコラムが終ってしまいますので、後は割愛させていただきます。
この童謡は、ご存じのように童話が元になっています。正直な人は幸せを受けることができ、意地悪な人は懲らしめられるという勧善懲悪を絵に描いたようなお話しです。
ただ、多くの童話がそうであるように、その内容を忠実に読み解いていきますと、なかなか残酷な面を持っていることが伝わってきます。
 
幼児に向けてのお話しに向きになることもないのですが、正直者(無欲の人)と意地悪者(欲張りの人)を、善と悪に二分させ、善の人には大判小判がザクザク入ってきますよ、といったお話しが、人格形成に何らかの影響を与えるのではないかと考えるのです。
「少年よ大志を抱け」という有名な言葉は、かつては青少年に向ける言葉としては、かなり上位に位置していたと思うのですが、現在ではどうなのでしょうか。
この言葉も、斜めから見てみますと、「大志と欲張りは、どこで線引きされるのか」と、現在の私などは考えてしまうわけです。
天下国家を語り、博愛を慈しむような大志もあるのでしょうが、齢を重ねるうちに、その大志も、大判小判を求める方向に傾き、やがては、自分の大志は、他人様から見れば、欲張りそのものではないかと感じるようになる可能性があります。それも、「そう感じる」ことが出来るとまだ救いはあるのでしょうが、いつの間にか、意地悪じいさんとなって、あちらこちらを掘り回っているのではないかと、忸怩たる思いがないわけではありません。 

先日、NHKの朝ドラの中で、ニーチェの言葉が用いられているのを見ました。
ニーチェ( 1844 - 1900 )はドイツの著名な思想家ですが、若い時に著作を読まれた方も多いのではないでしょうか。
その言葉は、『 汝の立つ処を深く掘れ そこに必ず泉あり 』というものです。(ドラマとまったく同一かどうか確認していません。)
つまり、「ここ掘れ ワンワン」と同一のようにも思うのです。出てくる物は、大判小判と泉との差がありますし、掘る人は、正直者であれ意地悪者であれ区別していないようですが。
まあ、この二つの言葉を同意語とするには無理があるのは認めざるを得ません。ニーチェの言葉は、むしろ『一隅を照らす』という教えの方が近いかも知れません。
齢を重ねることは、それなりに学び、それなりの経験を積み、それなりの知恵も得てきているはずですが、一方で、いつの間にか「大志と欲張り」が渾然一体となってしまっている可能性もあります。

今日は旧盆に当たります。今は亡きどなかとお話しなどなさいましたでしょうか。
そして、今日は、第二次世界大戦の敗戦を受け入れた日です。あれから77年を経て、私たちは奇跡と呼ばれるほどの回復を果たしました。しかし、一方では、近隣諸国との関係では、多くのことが解決できておりません。個人のレベルにおいても、今なお癒やしきれない傷を抱き続けている人も少なくないのでしょう。
これは笑い話の部類になるのでしょうが、「京都では、先の大戦といえば応仁の乱を指す」というのがあります。くだらないと言えばそれまでですが、戦争がもたらす傷跡は、百年や二百年では癒やされないのでしょう。
明日には、京都五山の送り火が行われます。個々のお家や地域でも似た行事を行う所もあるのでしょう。欲張りも煩悩も捨て去ることは大変ですが、せめて、何かで「一隅を照らす」ことは出来ないものか、考えてみたいと思っています。

( 2022.08.15 )

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老いの繰り言 ・ 小さな小さな物語 ( 1568 )

2023-02-02 15:34:16 | 小さな小さな物語 第二十七部

「老いの繰り言」という言葉、何とも哀れみを感じてしまいます。
この言葉を辞書で調べてみますと、「老人が同じことをくり返して、くどくど言うこと」とあります。この説明から考えますと、老人のどうにもならない欠点を冷たく突き放しているように説明されていると感じるですが、個人的には、少し違うのではないかと思うのです。
「繰り言」というくらいですから、同じ意味の言葉を繰り返すのでしょうが、第三者にとっては、特に若い人にとっては迷惑なことが少なくないのでしょうが、その繰り言には、くどさや頑迷さはあるとしても、悪意は含まれてはいないはずです。含まれているのは、必死さであったり、もどかしさであったり、言い表されないような悲哀のようなものを感じてしまうのです。

「老害」という言葉も嫌な言葉ですが、時々お目にかかりますし、その状態を実感することも少なくありません。
老害とされるものも、「自分の能力を過信する。自分が常に正しいと思って疑わない」「頑固で融通が利かない」「プライドが高く、学習する気がない」等々、延々と続きそうなほど説明されています。
確かに、個人の家庭内のことであれば、家庭崩壊の原因になることもあるのでしょうが、それほど多くないように思われます。もっとも、それには、堪え難きを堪えている人がいての事なのかも知れませんが。
ただ、これが社会的に指導的な立場にある人の場合、「困ったことだ」では済まず、それによって泣きを見る人は多く、社会的な損失も少なくないはずです。そして、この問題の困ったことは、当の本人は認識していないことが多く、社会的地位が高ければ高いほど、その首に鈴を付けに行く人がいないと言うことなのです。

「青春の詩」という詩があります。訳詞は幾つもあるようですが、『 青春とは人生のある時期を言うのではない。心のあり方を言うのだ。・・・ 』といった詩です。
この詩は、ドイツ出身のアメリカ人、サミュエル・ウルマン( 1840 - 1924 )という人の詩ですが、かつては、人生の応援歌という位置付けで、「青春は年令ではない」とばかりに、小父さんたちが訓話に取り入れていました。もっとも、その陰では、この詩を訓話に取り入れるようになると、すでに老害が始まっている証拠だといって笑う輩も少なくなかったようです。
この詩は、あのダグラス・マッカーサー元帥が大変好んで引用したそうで、わが国に進駐中にも、額にしたり訓話に用いたそうです。
個人的には、余り好きな詩ではありませんが、青春時代が年令に関係ないと言うのには賛成できませんが、年令だけでやたら老化や老害を云々するのにも反対です。

病床にある、尊敬していた大先輩が、こんな話をして下さったことを覚えています。
「人間は、どんな状態であっても、意外に生きられる物のようだよ。若い頃は、年寄りのくどさが嫌になったり、元気な時には、体が動かなくなってどうするのだろう、などと考えたものだが、いざその身になってみると、少し違うものが見えてくるんだ。若い者には、六十歳、七十歳の者が考えていることが理解できないかも知れないが、逆のことも言えて、幾ら俊才といえども二十歳の若者に六十歳の者が経験してきたすべてを知ることは出来ない。同じように、八十歳であれば八十歳の、百歳であれば百歳なればこその、何かが見えてくるような気がするんだ。その気にさえなれば、何歳になっても、明日には何が見えてくるのか、わくわくするもんだよ」と。
人は何歳になっても、どんな状態になっても、新たな発見を求めることは可能らしいのです。少なくとも、そう考えたいと思うのです。
老害を振りまいていないか自制する必要はあるとしても、ある年令になれば、「老いの繰り言」大いに結構だと思うのです。ただ、問題は、その「ある年令」がいつなのかが、なかなか自分で判断できないことなのですよ。

( 2022.08.18 )

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