雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

ロンドンオリンピック開会 ・ 小さな小さな物語 ( 420 )

2012-07-29 08:00:24 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ロンドンオリンピックが始まりました。
つい半月ほど前には、イギリス国内でもあまり盛り上がっていないような報道もありましたが、数日前からはやはり相当の熱気が感じられるようになりました。
特にわが国内では、開会に先立って行われたサッカーの試合が、男女ともに素晴らしい勝ちっぷりだったものですから、テレビ報道は早くも過熱気味の感があります。


夏冬別々ですが、四年に一度行われるオリンピックについては、いろいろな意見もあるようです。
世界中の、人口的にいえば相当高い比率になると思うのですが、ほとんどの国や地域が参加するスポーツの祭典は、あらゆる問題点を認めざるを得ないとしても、開催されることを素直に喜ぶべきなのでしょう。
指摘される問題点としては、例えば、「商業化され過ぎている」というものがあります。国家間の競争意識が強すぎて、「移住」や「ドーピング」といったことも副作用の一つかもしれません。
シューズやユニフォームなどの素材や機能の開発競争は、それ自体は技術向上に寄与しているともいえますが、例えば、100メートル走るのに1秒程度短縮可能なシューズが開発された場合、その使用を認めるのでしょうか。
この程度の技術革新は不可能とはいえませんし、少し前には水着の問題もありました。今回のオリンピックでも、最も技術の高い国家の選手のシューズと、最も劣っている国家の選手のシューズを比較した場合、マラソンに換算すれば、10秒や20秒の差ではないと考えられます。それより遥かに差があるとすれば、果たして公平な試合といえるのでしょうか。
「ドーピングのルールに抵触しない薬や薬品の開発」「スピードや瞬発力や持久力を大幅に向上させる用具の開発」なども含めたものが試合なのだといわれれば、「そうですか」としか言いようがないのですが。


「移住」についても、幾つかの話題がありました。
今回のオリンピックにおいて、ある競技のメダリスト三人が、つい最近まで同じ国民であったのに別々の国家の代表者として表彰台に立つかもしれません。
ある競技に青春をかけ、場合によっては生活の糧として打ちこんでいる人が、何とかオリンピックに出場したいと「移住」まで考えることを否定するつもりなどありません。ただ、オリンピックには、まことに細々としていても、「参加することに意義がある」という精神は残されていると信じたいのです。
従って、選手役員合わせて数人といった国家や、それぞれの競技においてレベルが低くても特別枠で参加させるようなところには、オリンピックに出るためだけを目的とした移住選手は好ましくないと思うのです。
 

かつて、わが国は、東京でのオリンピック開催が決まっていながら戦争のため中止としてしまった前科を持っています。オリンピックの背景には、政治的な思惑も見え隠れしていることも否定できません。
けれども、多くの人々が集い、競技し、勝者は喜び、敗者は涙し、それでも尽きることのないほどの感動が生まれてくる大会が開かれていることは、やはり人類の誇りだと思うのです。
ぐずぐず申し上げておきながらではありますが、ここは一つ、オリンピックを純粋な気持ちで楽しみましょう。
素晴らしい競技や記録に拍手し、力及ばずとも懸命に頑張る選手に感動し、わが国の選手に精いっぱい贔屓して応援しようではありませんか。

( 2012.07.29 )
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運命紀行  事件の目撃者

2012-07-24 08:00:22 | 運命紀行
        運命紀行

          事件の目撃者



皇極四年(645)六月十二日に事件は起こった。

蘇我氏から権力を奪い取るためには、尋常の手段では及ばないと覚悟した中大兄皇子と中臣鎌足は、綿密に準備を固め機会を狙っていた。
蘇我本家の当主が温厚な蝦夷が病のため引退し、その子入鹿が大臣となったが、まだ若く粗暴な行動もあって、諸豪族や蘇我一族の中にも不満を漏らす者が出てきていた。それら勢力と好を深めて行ったが、何よりも蘇我一族の中の有力者である蘇我倉山田臣石川麻呂を陣営に引き入れることが出来たのが大きかった。

継体天皇に始まる混乱の状態は、推古天皇の御代になって安定しその治世は三十六年に及んだ。
推古天皇崩御後は、後継者が定められていなかったことや女帝の在位期間が長く後継適任者が孫の世代になっていたこともあって、豪族間の意見の対立はあったようである。
その中で有力者とされたのは、推古天皇の夫であった敏達天皇の孫にあたる田村皇子と推古天皇の兄であった用明天皇の孫にあたる山背大兄皇子の二人であった。結局蘇我氏が強く推す田村皇子が即位した。舒明天皇である。

舒明天皇の御代もおよそ十三年続き、推古・舒明両帝のほぼ五十年間は表面的には平穏な治世となった。
しかし、その政権は、蘇我氏の強力な後ろ楯によって保たれていたものであって、蘇我氏に反感を持つ勢力もじっと機会を狙っていた。
そして、舒明天皇が崩御すると有力な皇子が複数いるなかで、皇后である宝女王が即位することになる。皇極天皇である。
この時も、山背大兄皇子や舒明天皇の第一皇子である古人大兄皇子が有力候補と考えられていたが、蘇我氏の強い後押しで女帝誕生となるのである。
考えられることは、推古朝時代の平安を求める声や、蘇我氏勢力温存のために都合がよいなどが考えられるが、宝王女が舒明天皇の皇后になったことや、蘇我氏との血縁関係が薄いにもかかわらず天皇に押されたことは一つの謎ではある。

皇極二年(643)十一月、有力な天皇候補である山背大兄皇子は蘇我入鹿に攻め滅ぼされる。用明天皇の孫であり、厩戸皇子(聖徳太子)を父に持つ皇子は、「我が軍を動かし、入鹿と戦えば勝つのは分かりきっている。しかし、我が身のために民衆を傷つけたくない。よって此の身を入鹿に与えるのだ」という、何とも理解し難い言葉を残して自害、一族全員も従ったという。
この何とも理解し難い事変により、上宮王家と称せられる聖徳太子の後継は全滅してしまう。
そして、この事件を明日は我が身と感じた人物こそが、舒明天皇と皇極天皇との子である中大兄皇子であった。

中臣鎌足という味方を得た中大兄皇子は慎重に味方陣営の増強を計り、好機を待った。
やがて、絶好の機会がやってきた。
高句麗・百済・新羅三国からの使者が来朝し、朝廷において三国の調(ミツギ・献上物)の儀式が行われることになったからである。その席には、大臣である入鹿は必ず出席するし、味方となった石川麻呂も出席することになっている。天皇の御前であり、入鹿といえど護衛の兵士を側に置くことなど出来ない。

そして、皇極四年六月十二日の朝となった。
皇極天皇は朝廷の正殿に出御し、古人大兄皇子が側に控え、入鹿はその次の座に着く。そこで石川麻呂が上表文を読み上げ始める。
中大兄皇子は宮中の警備にあたっている靫負の司(ユゲイノツカサ)に命じて宮廷の諸門を閉めさせた。後は刺客に命じている者どもの首尾だけである。
石川麻呂が上表文を読み上げているうちに刺客が入鹿に切りかかる手筈になっていたが、終りに近づいてもその姿が見えない。石川麻呂の声が震え、入鹿は常とは違う気配を感じたかの様子を見せた。

中大兄皇子は、手違いか陰謀の露見かと懸念を感じたが、同時に自ら長槍をかざして入鹿に向かった。この行動に臆していた刺客たちも続いた。鎌足もその席に列していたから何らかの行動を取ったことだろう。
「この私に、何の咎があるというのか」と、入鹿は皇極天皇に迫った。
「一体何事なのか」と皇極天皇は慌てふためき、息子の中大兄皇子を詰問した。中大兄皇子は、
「蘇我入鹿は王族を滅ぼして王位を奪おうとしています。入鹿に奪われてなるものですか」と答えている。
すでに入鹿は切られており、言葉を失った皇極天皇は玉座を離れたという。

皇極天皇の目前で繰り広げられた暗殺劇は、乙巳の変と呼ばれることになる古代歴史上もっとも衝撃的なクーデターであった。そして、皇極天皇はその目撃者であった。


     * * *

宝王女、後の皇極天皇は、推古二年(594)に誕生した。
敏達天皇の孫にあたる茅渟王(チヌノオオキミ)の第一王女、母は、欽明天皇の孫である吉備姫王(キビツヒメノオオキミ)である。同父母弟に軽王がいる。
その出自は、歴とした皇族に繋がる王女ではあるが、皇族としてはかなり傍流である。
何歳の頃か確認出来ないが、高向王(タカムクノオオキミ)に嫁ぎ、漢皇子(アヤノミコ)を生んでいる。
この高向王という人物は、用明天皇の孫ということであるが、その父母の名前は全く伝えられていない。父は用明天皇の子ということになるので、厩戸皇子(聖徳太子と呼ばれることになる人物)と兄弟になるが、彼以上に謎多く全く不明である。
同じように、漢皇子についてもその後の消息が伝えられていないが、わざわざ記録に残されていることを考えると、この皇子はもしかすると歴史の鍵を握っているのかもしれない。

その後、宝王女は田村皇子(後の舒明天皇)に嫁ぐ。前夫である高向王は死去していたのか、離縁した上での再婚なのかは伝えられておらず、高向王の足跡は消えてしまっている。
そして、舒明二年(630)一月、舒明天皇の皇后に立てられる。三十七歳の頃である。皇極天皇は宝皇女と呼ばれることも多いが、それは皇后になってからのことである。
舒明天皇との間には、中大兄皇子、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子の三人の子を儲ける。奇しくも、壮大な歴史ドラマの主役二人の生みの親でもあるのだ。

やがて、宝王女は夫の後を継ぎ第三十五代皇極天皇となる。舒明天皇が即位したことも意外であったが、後継可能な有力皇子がいながら皇極天皇が即位したことも意外な流れである。おそらく、蘇我一族の思惑と強力な後見のもとでの即位であったことは違いあるまい。
しかし、その有力な後見者蘇我入鹿が討たれるという事件が起こってしまったのである。

中大兄皇子と中臣鎌足を中心とした乙巳の変(イッシノヘン・大化の改新と呼ばれることもある)は成功し、一時は抵抗の姿勢を見せた入鹿の父蝦夷も、翌日には重要な書類や珍宝を焼いたうえで自害した。ここに絶大な勢力を握っていた蘇我本家は滅亡した。
次期天皇の最有力候補者である古人大兄皇子は入鹿殺害現場から逃げ帰ったが、この皇子も暗殺の対象者になっていた可能性も高い。

皇極天皇は譲位を表明し、中大兄皇子に即位を促した。古人大兄皇子は蘇我氏という支援者を失った上は即位など望むべくもなく、早々にその意思のないことを表明し出家してしまった。
クーデターの首謀者であり、舒明・皇極の皇子である中大兄皇子が即位するのが当然であるが、彼は中臣鎌足の助言を受けて辞退した。おそらく実態は、蘇我本家を滅亡させたとはいえその勢力は侮りがたく、中大兄皇子が表面に立つことは困難だったと推測できる。
結局皇極天皇の弟の軽王が即位することになる。第三十六代孝徳天皇である。

孝徳天皇は、中大兄皇子を皇太子とし、これまでの大臣・大連にかわり左右大臣を定め、鎌足も内臣という要職に就いた。
元号を大化と改め、都を飛鳥から難波に移した。そして、舒明天皇以来の改革を進めて行った。大化の改新という言葉がよく使われるが、大化の元号は五年までであるが、その間にどれほどの革新的な制度改革があったかはよく分からないが、大化の改新を進めた天皇はこの孝徳天皇であった。
もちろん、皇太子である中大兄皇子や内臣の鎌足も参画したことであろうが、彼らが主導したということは納得し難い。

この間、中大兄皇子と鎌足は、自己勢力の拡充に心を砕いていた。そして、敵対勢力を狙い撃ちに滅ぼして行った。
古人大兄皇子は謀反の疑いで一族もろとも滅ぼされ、大化五年に左大臣安倍内麻呂が死去すると、数日後には右大臣についていた蘇我倉山田臣石川麻呂まで謀反の疑いで滅ぼしている。
このように次々と孝徳天皇の側近を奪っていった中大兄皇子は、最後は天皇に対して飛鳥への遷都を迫った。そのことだけではないようだが、孝徳天皇と中大兄皇子との対立は修復不能となり、白雉四年(653)、中大兄皇子は母の皇極上皇、皇后の間人皇女、弟とされる大海人皇子らを引き連れて飛鳥に戻ってしまった。公卿百官もこれに従ったという。

皇極上皇が積極的に中大兄皇子に従ったかといえば、強引に連れ去られた可能性も否定できない。
残された孝徳天皇は、激怒し、そして悲嘆のうちに翌年に世を去った。
そして、その後を継ぐのは、再び皇極上皇であった。重祚して第三十七代斉明天皇である。
この時斉明天皇は六十二歳、中大兄皇子は三十歳である。それでなお中大兄皇子が即位しなかったのには、何か特別の狙いがあったのか。それともあまりにも強引な手法が多くの抵抗勢力を生み出し、なお冷却期間を必要としていたのか。

斉明天皇は六年半玉座にあり、斉明七年七月、六十八歳で崩御した。
その跡は中大兄皇子が即位する。天智天皇の誕生である。その後、天智天皇は都を近江に移しているが、これも様々なことを考えさせてくれる。

皇極、斉明と二度にわたって天皇の地位にあった宝王女、その歴史上の役割は何であったのか。
中大兄皇子・中臣鎌足という稀代の策士たちの傀儡であったのか、それとも、天智、天武という英雄を舞台に立たせ、古代日本の礎を固めさせるものであったのか。
謎多い時代の、興味尽きない女帝であったことだけは確かである。

                                       ( 完 )
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運命紀行  いざ子供早く日本へ

2012-07-18 08:00:14 | 運命紀行
       運命紀行

          いざ子供早く日本へ


 『 いざ子供早く日本(ヤマト)へ大伴の 御津(ミツ)の浜松待ち恋ひぬらむ 』

  ( さあ皆さん、早く日本へ帰りましょう、大伴の御津の浜松も 私たちの帰りを
    待ち焦がれているでしょう。 なお、大伴の御津とは難波の湊のことで、当時
    大伴氏が治めていた地であった )

遣唐使の一行が務めを終えて懐かしい日本の湊に近づいた時、山上憶良が詠んだとされる やまと歌である。

山上憶良が歴史書に登場してくるのは、大宝元年(701)に遣唐少録として記録されているのが最初である。
この時四十二歳であるが、まだ無位の状態であった。
憶良の生年は斉明六年(660)と考えられているが、この年齢で貴族でもない人物の生年が明らかなことは珍しいが、それは、彼が書き残した漢文の中に生年が記されているからである。もっとも、それ以外の傍証は無いようであるが、それを信じても特に不合理なことはない。

遣唐使船が派遣されたのは翌年のことであり、帰国したのは慶雲元年(704)のことであるので、冒頭のやまと歌はその時の船中で詠まれたものらしい。
この後も官職にあったと考えられ、和銅七年(714)に正六位から従五位に昇り貴族の仲間入りをしている。
霊亀二年(716)、伯耆の守に任じられ、養老五年(721)には東宮(首皇子、後の聖武天皇)侍講となり、この頃に「類聚歌林」を著作または編纂したと伝えられている。この「類聚歌林」は歌集と思われるが現存していない。

山上憶良が遣唐使として海を渡ったのが、自身が書き残しているように四十歳を過ぎてのことであるとすれば、年齢的にはかなり遅い出世といえる。
ただ、当時、遣唐使の一員に選ばれるのは、それなりの実績と将来性を期待された人物に限られていたはずである。憶良とて例外ではなく、歴史書には記録されていなくとも、若くからその才能は高く評価され、やまと歌の上手として知られていたのかもしれないが、万葉集の中に軌跡を求める以外に方法がない。
出自についても、山上という名字からして、有力豪族の流れではないと考えられ、百済滅亡により渡来したという説が根強いが、明確な根拠があるわけでもない。もし、若くしてやまと歌を詠んでいたとすれば、この説にも無理が生じる。

神亀二年(725)、六十六歳の憶良は筑前守に任じられ九州に向かう。
ここで、同じ頃太宰帥となった大伴旅人と親交を深め、作歌活動を強める。憶良が数多くの歌を詠んだのはこの時期で、いわゆる筑紫花壇を形成し今日の我々に感動的な作品を数多く残している。
万葉集に採録されている作品は、長歌約十首、短歌五十首とも八十首ともいわれ、漢詩や漢文も複数収められている。作品数の確定が難しいのは、憶良の作品の持つ独創性があまりにも強く、それがかえって研究者の意見を分けてしまうためらしい。

天平五年(733)六月、『 老身に病を重ね、年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌 』という詞書きを残しているが、この頃が最期であったらしい。


     * * *

万葉の歌人となれば、我々とは遠い存在に感じられる。
実際に千数百年の時を経ているし、伝えられている文献も漢文か万葉仮名によるものである。当時の人々の生活の断片を懸命に詠んだと思われる やまと歌が数多く残されているが、どのように声に出して歌ったのかは、想像することさえ困難である。

しかし、その中にも、現代社会と同じように、あるいはそれ以上に、まるで形振り構わず歌い上げたとさえ思われるほど純朴に、妻を思い、子供らを思い、家庭第一を やまと歌として詠んだ歌人がいる。
それが、山上憶良である。
憶良が万葉集を通して現代に生きる我々に残してくれた やまと歌の幾つかを味わってみよう。

(憶良が筑紫に赴任していた頃、大宰府での宴席を途中で辞する時の歌らしい。すでに六十八歳の頃と思われる)

 『 憶良らは 今は罷(マカ)らむ 子泣くらむ それその母も 我を待つらむぞ 』
 『 瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(シノ)はゆ いづくより 来りしものぞ
   眼交(マナカヒ)に もとなかかりて 安眠(ヤスイ)し 寝(ナ)さぬ 』
     ( 眼交に もとなかかりて・・・子供の面影が目の前にちらついて )
 『 銀(シロガネ)も金(クガネ)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも 』

(これは、幼児を亡くした親の懸命の祈りなのでしょうか)

 『 若ければ 道行き知らじ 賄(マヒ)はせむ 下方(シタヘ)の使 負いて通らせ 』
     ( 幼い子供なので 旅の仕方も知らないことでしょう 贈り物は私らが致します
       どうぞ黄泉(ヨミ)の使いよ 背負って通してやってください )
 『 布施置きて 我は祈(コ)ひ祷(ノ)む あざむかず 直(タダ)に率(イ)行きて 天道(アマヂ)知らしめ 』
     ( 布施を捧げて 私はお願いいたします この子を惑わさないで 真っすぐに
       連れて行って 天への道を教えてやってください )

(ひたすら家族を思う やまと歌です)

 『 父母を 見れば貴し 妻子(メコ)見れば めぐし愛(ウツク)し 世の中は かくぞことわり
   もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓(ウケクツ)を 脱き棄(ツ)るごとく
   踏み脱きて 行くちふ人は 石木(イワキ)より 成りてし人か 汝(ナ)が名告(ノ)らさね
   天(アメ)へ行かば 汝(ナ)がまにまに 地(ツチ)ならば 大君います この照らす
   日月(ヒツキ)の下は 天雲(アマクモ)の 向伏(ムカブ)す極み 蟾蜍(タニグク)の さ渡る極み
   聞こし食(ヲ)す 国のまほらぞ かにかくに 欲(ホ)しきまにまに しかにはあらじか 』
     ( 父母を見れば尊い 妻子を見れば可愛くいとしい 世の中の道理はそのようなものだ
       モチにかかった鳥のように 家族への愛情は断ち難い 行く末も分からない
       我々なのだから 穴のあいた靴を脱ぎ棄てるように 父母や妻子を 棄てて行く
       という人は 石や木から生まれた人なのか お前の名を告げよ 天へ行ったなら
       お前の好きなようにすればよい この地上にいるのなら 大君がいらっしゃる
       この太陽と月が照らす下は 空にかかる雲が垂れる果てまで ヒキガエルが
       這いまわる地の果てまで 大君が治められる すばらしい国土なのだ
       どれもこれも思いのままにしようというのか そのようにはいかないものだよ )
 惑(マド)える情(ココロ)を反(カヘ)さしむ歌一首
(反歌)  
 『 久かたの 天道は遠し 黙々(ナホナホ)に 家に帰りて 業(ナリ)を為まさに 』
     ( 天への道は遠い おとなしく家に帰って 家業に励みなさい )

(山上憶良 沈痾(ヤミコヤ)る時の歌一首)

 『 士(ヲノコ)やも 空しかるべき 万代に 語り継ぐべき 名は立てずして 』
     ( 男子たるもの 空しく一生を終えてよいのか 後々の世まで 語り継がれるような
       功名を残さないままで )


最後の歌は、山上憶良の最期に近い頃の作品と考えられる。享年は七十四歳か。
立身出世など超越したかの やまと歌を数多く詠んでいる憶良が、最後にこのような歌を残していることに、むしろ親しみのようなものが感じられる。
現代に生きる我々も、思いのままに行くことなど少なく、自虐の念に襲われることも少なくない。
そんな時、遥か千数百年もの昔に、宮仕えと家族への恩愛に心を痛めていた歌人がいたことに、なぜか救われる思いがするのである。

                                        ( 完 )

      
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運命紀行  女帝誕生

2012-07-12 08:00:30 | 運命紀行
       運命紀行

          女帝誕生


西暦592年12月8日、豊御食炊屋姫尊(トヨミケカシキヤヒメノミコト)は即位した。後の第三十三代推古天皇である。
そしてその即位は、神武天皇に始まる倭王朝における初めての女帝が誕生した瞬間でもあった。

六世紀の後半は、東アジにとって激動の時代だったといえる。
中国大陸では、隋が勢力を強めていて、強大な帝国を作り上げていた。そして、高句麗への圧力を強めていくと朝鮮半島の諸国は動揺し、その結果として百済は日本との交流を求め、有能な人材や物資が持たされることになるのである。
仏教伝来といえば、西暦538年に百済の聖明王から仏像等が贈られた時とされているが、実質的な仏教文化の伝来は、朝鮮半島諸国が混乱状態となり多くの人材が日本に帰化してからのことと考えられる。

日本国内においても、激しい王権の移動が見られる。
諸説、あるいは真偽はともかくとして、神武天皇に始まる皇統を仮に倭王朝と呼ぶならば、西暦506年に第二十五代武烈天皇が崩御したことによって一般的には王朝の移動があったと考えられている。
この後を継いだ第二十六代継体天皇は、応神天皇五世の孫とされているが、遥か越前(近江とも)から大和に向かったというのであるから、自然な王位継承であったとは考えにくい。継体天皇は武烈天皇崩御の翌年に河内国樟葉宮で即位しているが、大和に入るのに二十年近くを要しているのである。

この継体天皇といわれる方についての足跡もなかなかに掴み難い。
生年についても、古事記では西暦485年、日本書紀では450年となる。従って、即位の時の年齢も、一方は二十三、四歳の青年天皇であり、片方では五十八、九歳となり当時としては相当高齢であったことになる。しかも、大和入京になお二十年近くかかっているのである。

継体天皇は即位の時点ですでに多くの妻妾と子供がいたとされ、その子供らが即位した年齢が伝えられている通りと仮定すれば、相当の高齢での即位であり、その後も精力的な活動を見せ、大和の旧勢力と覇権を争ったと考えられる。
即位間もなく、武烈天皇の姉とも妹ともいわれる手白香姫(タシラカヒメ)を皇后に迎えている。旧倭王朝との融和のためと考えられるが、実はこの女性の存在が、その後の皇位継承に大きな意味を持つことになる。

西暦531年、継体天皇が崩御すると、その後を継いだのは長子である安閑天皇である。この天皇は即位した時すでに六十六歳と伝えられていて、在位五年弱で崩御する。そして、その後を同母弟の宣化天皇が継ぐ。この天皇も即位時六十九歳と高齢で、在位三年余りで崩御する。
そして、その後に登場するのが、第二十九代欽明天皇である。

欽明天皇も継体天皇の子供であり、先の二人の天皇の異母弟ということになるが、そこには大きな変化があった。
安閑・宣化両天皇の母は、尾張目子媛といい、継体天皇が歴史上に登場してくる以前からの夫人で、尾張に勢力を持つ一族の娘を母としていたのである。しかし、その後を継いだ欽明天皇の母は、あの手白香姫で、倭王朝の血を受け継いでいるのである。
欽明天皇の在位は三十二年に及び、王朝は安定を見せていたと推定される。

西暦571年、欽明天皇が崩御すると、その後はこの天皇の子供が四代続くことになる。
まず、第三十代敏達天皇が即位するが、この天皇の母は宣化天皇の皇女なので、ある時期までは尾張勢力との協力関係が保たれていたことが推定される。そして、この皇后となったのが、後の推古天皇である。
在位十三年余りで敏達天皇が崩御すると、異母弟が後を継ぐ。用明天皇である。この天皇の母は、推古天皇と同母であり蘇我氏の出身である。王権が旧倭勢力に戻ったとも見えるし、蘇我氏の時代の幕開けのようにもみえる。

しかし、用明天皇は在位僅か一年半程で崩御する。その後、後継を巡って激しい争いがあったようである。その結果第三十二崇峻天皇が即位する。次帝をめぐる争いは敏達天皇の崩御の時も同様で、推古天皇が穴穂部皇子に襲われるという事件も起きている。穴穂部皇子は崇峻天皇と同母の兄弟であるが、単に当人同士の争いなどではなく、取り巻く王族や豪族たちの複雑な利害や怨讐が絡んだものである。
さらに言えば、推古・用明の母と、穴穂部・崇峻の母と、当時一番の実力者であった蘇我馬子は、いずれも蘇我稲目を父とする兄弟である。

崇峻天皇が即位して五年あまり後の西暦592年11月、事件は起こった。
蘇我馬子は東国の使者を迎えるという目的で倉梯宮に群臣を集め、その面前で東漢駒(ヤマトノアヤノコマ)に命じて崇峻天皇を殺害したのである。
新羅征伐をめぐる意見の対立からだともいわれているが、天皇が群臣の面前で殺されるという過去に例を見ない事件である。天皇の母である小姉君は蘇我馬子の妹なので、意向に従わない甥を誅伐したかの事件にさえ見え、この後、蘇我馬子は何の責任も問われていないのである。
この事件から見えてくるものは、先の次期天皇擁立をめぐる争いで宿敵物部氏を打ち果たした蘇我氏の勢力に、対抗できる勢力はすでに無くなっていたということであり、さらに推定すれば、この時代は、少なくとも実質的には蘇我王朝と表現すべき時代だったのかもしれない、ということである。

そして、この混乱の中に、わが国最初の女帝が誕生したのである。
西暦592年12月、敏達天皇の后でもあった豊御食炊屋姫尊は飛鳥の地にある豊浦(トユラ)宮において即位した。
推古天皇の誕生であり、飛鳥時代の幕開けでもあった。


     * * *

天皇殺害という混乱の中で、僅かひと月後には推古天皇という初めての女帝が誕生したのである。
それにしても、なぜ混乱の中で誕生した天皇は彼女だったのであろうか。

現在我々が知ることのできる古代の歴史の断片の中には、推古天皇よりずっと昔に、ヤマタイコクには、ヒミコやトヨという女帝がいたことが知られている。しかし、彼女たちが神武天皇以下の皇統に連なる人物なのか、あるいは、推古天皇即位の時代に皇族や指導的豪族たちはヒミコやトヨの存在を知っていたのだろうか。もっとも、わが国で天皇という称号が用いられたのは天武天皇からということからすれば、推古天皇もそれ以前の天皇もおそらく大王と称されていたのであろうが、三十二代にわたって大王すなわち天皇の地位に女性を就けていないのにはそれ相応の理由があったはずである。それは同時に、それでは第三十三代はなぜ女帝であったのか、それ相応の理由があったはずなのである。

まず一つには、男性皇子に適当な人物がいなかったことが考えられる。しかし、用明天皇の甥であり敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子や竹田皇子がおり、子である厩戸皇子もいた。
第二は、中継ぎであったという考え方もある。竹田皇子は推古天皇の子供でもあるが、この時まだ年若かったためわが子に皇位を継がせるため中継ぎ役として即位したという考え方は理解できる。もし、そうだとすれば、推古天皇自身にかなりの力があったことが条件となる。ただこの皇子は、推古天皇の即位間もない頃に亡くなったらしく歴史の舞台から消えている。

第三は、巫女としての力を期待されてということがある。時代や背景は違うが、ヒミコやトヨの場合は巫女としての超人的な能力により王座に就いたと考えられる。推古天皇は敏達天皇の皇后であり五人の子供を成しており、巫女という表現は不似合であるが、シャーマン的な能力を有していたことは考えられる。用明天皇崩御の直後、穴穂部皇子が推古天皇を力ずくで我が物にしようとしたという記録が残されているが、それは彼女の霊力のようなものを取りこもうとしたのかもしれない。
そしてもう一つは、敏達天皇の皇后時代から、蘇我氏の娘である推古天皇は、蘇我馬子という強大な人物をバックに相当の実力を有していて、その後の用明・崇峻両天皇の即位にも大きな影響を持っていて、混乱状態となった状況の中では、推古天皇以外には後を引き継ぐ人物はおらず、それがたまたま女帝であったということかもしれない。
もちろんその背景に、蘇我馬子の強大な力があったことは間違いない。

いくらかの推定と多くの謎のもとに推古天皇は即位した。
翌年には、用明天皇の子、厩戸皇子を皇太子に立て、広く政治を補佐させている。厩戸皇子はこの時二十歳、後の時代には聖徳太子と呼ばれる人物であるが、この人物はあまりにも謎が大き過ぎるので、ここでは多くを述べることを控える。
推古天皇の御代は三十六年に及び、強大な蘇我氏を背景に古代のわが国に少なからぬ足跡を残している。
仏教文化が根付いていくのはこの時代であったし、遣隋使の派遣など上質な大陸文化を大量に導入している。初めて暦が採用され、その評価はともかくとして、冠位十二階を制定し、十七条憲法も制定されたとされる。

推古天皇は激動のさなかに即位し、三十余年にわたって飛鳥時代の繁栄を生み出した。
わが国最古の歴史書とされる古事記は、天地開闢から神代の時代を描き、神武天皇に始まる皇統の軌跡を記している。そして、第三十三代推古天皇の時代で記述を終えている。
古事記の序文によれば、その序文が書かれたのは八世紀初頭だという。これが正しいとすれば、推古天皇が崩御してから八十年ほども後のことである。その間には、少なくとも八代の天皇が存在している。それなのに、なぜか推古天皇の時代で終わっているのである。
さらに、第二代綏靖(スイゼイ)天皇から第九代開化天皇までの八人については簡単に系譜程度が記されているだけで、そのため欠史八代といわれている。それと同じように、第二十四代仁賢天皇から第三十三代推古天皇までの十人についても同様の記述の仕方をしており、こちらも欠史十代という言われ方をすることがあるのである。果たして、どういう意図があるのだろうか。

推古天皇は激動のさなかに即位し、三十有四年にわたって世を治め、飛鳥時代の繁栄を生み出している。
しかし、やはり、この時、わが国が推古天皇という女帝を必要としたのか、明快な答えは示されていないように思われる。

                                        ( 完 )
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運命紀行  言霊の使者 

2012-07-06 08:00:39 | 運命紀行
       運命紀行

          言霊の使者


『 天地の 初めの時の ひさかたの 天の河原に 八百万 
  千万神の 神集ひ 集ひいまして 神はかり はかりし時に 
  天照す 日女の命 天をば知らしめすと ・・・・・ 』 

    ( アメツチノ ハジメノトキノ ヒサカタノ アメノカワラニ ヤオヨロヅ
      チヨロヅガミノ カムツドヒ ツドヒイマシテ カムハカリ ハカリシトキニ
      アマテラス ヒルメノミコト アメヲバシラシメスト ・・・・・ )

万葉集に収められている、この格調高い長歌は、この後もなお続き切々と哀悼を告げている。
その詞書きには、
『 日並皇子尊の殯宮の時に柿本朝臣人麻呂の作る歌一首・・・』
と記録されている。

持統三年(689)、日並皇子尊(ヒナミシノミコノミコト・草壁皇子のこと)の棺を殯宮(アラキノミヤ・葬儀の時まで安置しておく仮の御殿)に安置された時に詠み上げたとされる挽歌とともに、柿本人麻呂は歴史の舞台に登場する。

万葉集はわが国最古の歌集であり、全二十巻の中には、長歌・短歌(反歌)・施頭歌など約四千五百首が収められている。万葉仮名を主体として素朴で雄大なやまと歌が格調高く歌い上げられている。
そして、この万葉集は、古代の貴重なやまと歌を今日に伝える歌集ではあるが、同時に、古事記や日本書紀では伝えられていない歴史の流れを補完する役割も小さくないのである。

この膨大な歌集の巻頭を飾っているやまと歌は、雄略天皇であり、その後も舒明天皇や天智天皇、そして万葉集の代表的な女流歌人など、天皇や皇族、そして、天皇の後宮ともいうべき内裏に暮らす人々によって作られる歌が中心であった。
そこへ、未だ官位も低く、とても貴族とはいえない地位であった人物が、歌を詠む才能を携えて登場してくるのである。それが、柿本人麻呂であった。

古代のやまと歌は、朗々と歌い上げることが目的であった。
人々の心を鼓舞し、人心をまとめ、時には天皇や皇子たちの業績をたたえ、時には歓喜の雄叫びとして、時には失われた魂に慟哭しながら鎮魂の挽歌として、やまと歌は、朗々と、そして切々と歌い上げられたのである。

やまと歌は言霊であり、柿本人麻呂という人物こそ「言霊の使者」と呼ぶに相応しい人物だったのである。
 

     * * *

わが国のすべての歴史を通じて、歌聖という人物となれば、まず柿本人麻呂ということになろう。
人麻呂は、万葉集の中に多くのやまと歌を残し、その後の勅撰和歌集にもたくさんの和歌が収録されているが、実は、公的な歴史書などにはその消息は伝えられておらず、万葉集にあるやまと歌とそれに添えられている詞書きだけが彼の生涯を探る唯一の記録なのである。
従って、人麻呂に関する多くの物語や伝聞は、万葉集に記録されているもの以外は、たとえそれが真実に近いものだとしても、全て推測であり創作であるとしか言えない。

人麻呂の正確な生没年は不詳である。
残された数多くの作品のうち年月が明らかなものをあげると、持統三年(689)に冒頭に挙げた草壁皇子への挽歌が最初であり、文武四年(700)の明日香皇女への挽歌が最後のものである。
もちろん、この前後と思われる作品も数多く確認されているが、持統天皇即位の頃から、その崩御(702)の期間が活躍の中心時代であったことは確かである。
 
人麻呂の作品の中に、この時代の言霊の持つ霊力の大きさを示している和歌がある。
 『 敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ 』
というものである。
持統天皇は、夫でもある天武天皇崩御後の困難な時代を、最も頼りとしていたわが子草壁皇子を二十八歳で喪うという不幸に耐えながら、律令制度の定着を進め、ついに草壁皇子の忘れ形見軽皇子(文武天皇)に譲位を果たしている。その政治手法や権力構造は謎めいているが、その一つに言霊による人心掌握に優れていたこともあったように思われてならない。
そして、その側近くにあって言霊の使者としてやまと歌を高らかに歌い上げた中心人物が、柿本人麻呂だったのである。

人麻呂の生年は不詳であるが、大化元年(645)前後という説がある。また、斉明六年(660)前後の説もある。天智天皇の近江朝廷にも仕えていた時の挽歌とされるものもあるので、もしそうだとすれば斉明六年の生まれでは少々若過ぎる感じがする。
いずれもしても、乙巳の変(イッシノヘン・645年・大化の改新ともいう)間もない混乱の時代に誕生したと推定される。

持統天皇崩御後は文武天皇に仕えたようであるが、その崩御(707)後には朝廷から離れ、筑紫に下ったらしく、讃岐、そして石見にも移ったらしい。
万葉集には、文献により若干の差異はあるが、長歌・短歌(反歌)合わせておよそ八十首、後の時代の歌集から推定されるものは三百七十首に及ぶ。それら全部が人麻呂の真作とは断定できないまでも、全部合わせれば万葉集二十巻に収められている歌数の一割にもなるのである。まさに、歌聖と称えられるの相応しい存在感である。
また、人麻呂に限らないが、宮廷歌人と称されることもある。しかし、この時代に宮廷歌人という正式な職掌は存在していない。また、貴族にあたる五位以上の官位は与えられていなかったらしく、圧倒的な影響力を有する言霊の使者でありながら、その地位は六位以下の下級官僚であったらしい。

没年は、都を離れた後のことで、和銅元年(708)から養老四年(720)の頃までのことらしい。
その終息の地も諸説あるも、石見国が有力のようである。死因についても、後世様々な推察があるが、高齢でもあり病死と考える方が自然な気がする。
最後に、人麻呂の辞世とも見える和歌を記しておきたい。

柿本朝臣人麻呂 石見の国に在りて死に臨む時に 自ら傷(イタ)みて作る歌一首

 『 鴨山の 磐根し枕(マ)ける 我をかも 知らねと妹(イモ)が 待ちつつあるらむ 』

  (鴨山の 岩を枕にして死んでゆく私を 知らずに妻は 私の帰りを待っていることだろう)

                                         ( 完 )


  
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