人もまだ ふみ見ぬ山の 岩がくれ
流るる水を 袖に堰くかな
作者 信濃
( No.1098 巻第十二 恋歌二 )
ひともまだ ふみみぬやまの いわがくれ
ながるるみずを そでにせくかな
* 作者は、新古今和歌集では「信濃」とされているが、後鳥羽院下野(後鳥羽院のシモツケ)とされることも多い。
信濃の生没年は確認されていない。歌会に作品を残していることなどから、平安時代の末の頃に誕生し、鎌倉時代初期に活躍した女性と推定できる。
* 歌意は、「 誰もまだ踏み入っていない深山の 岩に隠れるようにして流れている水を 袖でせき止めましたよ。・・・愛しい人は まだわたしの手紙を見ていないので 人目につかないように 流れる涙を 袖でおさえています・・・」といった恋歌と受け取れる。
* 信濃の父は、日吉社の禰宜であり、母は伊賀守源光基の娘なので、出自は中級貴族の家柄と推定できる。大まかに言えば、清少納言や紫式部と同程度の家柄と考えられる。
伝えられている資料によると、後鳥羽院に仕え、多くの歌会に参加し和歌を残している。1204年の頃に源家長と結婚している。
家長は、官位は従四位上但馬守であるが、実際は地方官を歴任する五位の受領クラスであり、従四位上に上ったのは晩年のことである。つまり、信濃と同程度の家柄の人物といえる。家長も和歌に造詣が深かったと思われ、新古今和歌集の編纂にあたっては事務方として加わっている。
* 信濃が家長と結婚した時、家長は三十五歳くらいらしい。当時は、夫の年齢から妻の年齢を推定するのは極めてに難しいが、十五歳から二十五歳の間くらいと大胆に推定してみる。
信濃の歌会への参加は、少なくとも1251年(建長三年)という記録があるので、没年は、これより後のことになる。享年を推定するのは乱暴だが、おそらく、七十歳前後だったのではないだろうか。
* 信濃は新古今和歌集に入撰している和歌数は二首であるが、勅撰和歌集には全部で三十首程度は採録されているらしい。女流歌人として決して少なくない数である。家長も新古今和歌集に三首入選しているし、娘(但馬)も勅撰和歌集に採録されていて、親子三人が勅撰歌人といえる。
信濃あるいは後鳥羽院下野という歌人は、現在、必ずしも著名とはいえないが、今少し研究されてよい女性歌人のように思われる。
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