雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語  表紙

2011-01-12 10:04:44 | 小さな小さな物語 第一部~第四部

   小さな小さな物語  第四部


        第四部には(No.181~240)を収めています

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小さな小さな物語  目次

2011-01-12 10:01:27 | 小さな小さな物語 第一部~第四部

   小さな小さな物語 ・ 目次  ( No.181 ~ 200 )


 No.181  変化の兆し
    182  戦い終わって
    183  最善は望みませんが
    184  名画を楽しむ
    185  誤差の範囲


    186  時間を計るもの
    187  生きとし生けるもの
    188  子供は神様のもの
    189  古代の謎
    190  さまよう人たち


    191  平和な社会
    192  「長寿」は、まぎらわしい
    193  八月十五日
    194  季節の小さな変化
    195  タックスヘイブン


    196  処暑の候
    197  どこもかしこも暑くて
    198  二百歳登場
    199  記録更新
    200  食料自給率

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変化の兆し ・ 小さな小さな物語 ( 181 )

2011-01-12 09:59:56 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
いよいよ明日は参議院選挙の投票日です。
サッカーワールドカップの決勝戦、大相撲名古屋場所の初日、そして参議院選挙。明日は、注目行事の集中日だそうです。
この三つを同列に語るのもどうかと思われますが、投票に行く人の割合が、他の二つをテレビで短時間でも見る人の割合を上回るのかどうか、ちょっと心配です。


さて、世界の歴史の流れを考えてみますと、国家の繁栄というものはまさに栄枯盛衰止まるところを知らず、栄えた国は必ず滅びたり衰退したりしています。
わが国の第二次世界大戦後の奇跡的な復興から驚異的な成長の歴史は、少なくとも物質面からみる限り、繁栄の一時代を経験したといえるのではないでしょうか。そして今、その物質的な繁栄はどうやらピークを迎えたらしく、あとは成熟期を継続できるのか、それとも衰退の一途を辿るのか、実に微妙な時期にあるのではないでしょうか。
これまでに繁栄から衰退へと向かった多くの国々の歴史を考えてみますと、何百年か後になってみる場合にはその原因となったものや転落の過程などをある程度知ることが出来ますが、その歴史の当事者たちや渦中にあった人々にはどのような認識があったのでしょうか。


現在のわが国が、果たして歴史のターニングポイントといわれるほどの時期にあるのかどうか意見の分かれるところですが、多くの識者といわれる人や政治に携わる人たちは、まさにその時期を迎えていると訴えています。
変革だ、改革だ、抜本的な見直しだ、などと威勢のいい声は聞こえてくるのですが、その多くが、自分のためや、自分のグループを有利に導くための大声に過ぎないようにも聞こえてきます。そうではなくて、本当にこの国とこの国に生きる人々のために正しい方向を示してくれる指導者の出現を願うのですが、そこが、それ、民主主義国家とやらの難しいところで、簡単には英雄が出現できない仕組みになっているようです。


今私たちが、衰退へと向かう可能性の極めて高い歴史の流れに対して行動できることに、どのようなものがあるのでしょうか。思いつくこともないことはないのですが、いずれも思いつくだけのことで、何かの役に立てるとも思われません。そこで、とりあえずは参議院選挙で一票を投ずることではないでしょうか。
私の一票が、何かの役に立つとか、政治の方向性に影響を与えるとか、まして歴史の流れに何らかの意見を示したとはとても実感できませんが、「太平洋の真ん中で溺れている時に掴む藁切れ」程度の自己満足は得られるかもしれません。
幸い大相撲は夕方ですし、サッカーも選挙の大勢が決した後のことです。少しばかり時間を捻出して投票に行きましょうよ。

(2010.07.10)
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戦い終わって ・ 小さな小さな物語 ( 182 )

2011-01-12 09:58:23 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
参議院選挙は終わりましたが、その結果を受けてしばらくは各党間の綱引きや、党内勢力の小競り合いなど、なおきな臭い話題に溢れているようです。


開票報道などを見ていて、いつもなが「選挙は男の世界だなあ」とつくづく思います。
もっとも、「男らしい」とか「女らしい」とかというのは、差別表現だそうで使うのは拙いそうですが、それに、選挙運動の様子などを見ていても、総じて、男性候補より女性候補の方が絵になっているように思われます。従いまして、「選挙は男の世界だなあ」という表現は取り消すとしましても、全く厳しい世界だと感じられます。
サッカーの「PK戦」も厳しいですが、選挙結果は、見事なほどに勝敗が明確であり、まさに天国と地獄と表現してもいいほどです。


選挙結果や関連報道などを見ながら幾つかのことに感心しているのですが、一番大きなことは、案外私たちは賢いのではないかということです。
各種の世論調査などが、大したことでもないことで大きく揺らいでいるように見えながら、前回の総選挙といい、今回の選挙結果といい、なかなか見事なバランス感覚を示しているように思うのです。
立候補者の一人一人を見ても、決して単なる人気投票にはなっていないし、当選者の多くの人にそれなりの期待を寄せてもいいような気がしています。
ただ、個人的な意見を言わせてもらいますと、どうしても当選して欲しくなかった人が何人か選ばれてしまっていることに若干の腹立たしさを感じています。


かつて、それも相当昔のことになりましたが、自分でネクタイを買っていた頃のことですが、親しくしていた専門家の人に、「ネクタイをいつも自分の好みで買うのは良くない。時々は、店員など専門家の意見で買いなさい」と言われたことがあります。
ネクタイに限らず、自分の好みだけで物事を進めていくことは良くないようです。国会議員にも憎々しい人が何人かいることも大切なのでしょうね。
絶対落ちて欲しいと思っていた新参議院議員さんに、エールを送ることにしましょう。

(2010.07.13)
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最善は望みませんが ・ 小さな小さな物語 ( 183 )

2011-01-12 09:57:18 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
豪雨による各地の被害が報道されていますが、何とも凄まじく言葉を失ってしまいます。被害地の皆様にお見舞い申し上げます。


「自然の力の恐ろしさを感じた」などという言葉を聞くことがありますし、私自身も使ったことがあります。
その言葉自体に何の間違いもないと思うのですが、毎年のように繰り替えそれる台風や大雨に対する備えは、所詮は自然の力の前では気休め程度にしかならないのでしょうか。
自然災害の恐ろしさは実際に体験した人でないと分からないかもしれませんし、体験した人であっても、果たしてそれがどの程度だったのかということもあります。私自身、幼い頃に水害にあった記憶があります。床下浸水で済んだのですが、両親が畳をめくって積み上げていたのを覚えています。阪神淡路大地震でも幸い被害は小さかったとはいえ、あの恐怖やその後の生活の苦労は簡単に忘れることはできません。


「自然の猛威の前では人間の力など抗すべきもない」これも事実かもしれません。
しかし、半日で500ミリとか三日で1000ミリ程度の雨に対しても、人間の能力では防げないものなのでしょうか。


選挙が終わっても、どうやら政治に大きな変化が起こりそうもありません。政局、つまり勢力争いではいろいろ変化が表れそうですが、多くの政治家の能力配分は、国民のための政治ではなく政局の方が重視されているようです。
まあ、災害対策にしろ、福祉政策にしろ、治安対策にしろ、決して最善など望みませんので、ほんの少しばかり目に見える改善をお願いします。

(2010.07.16)
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名画を楽しむ ・ 小さな小さな物語 ( 184 )

2011-01-12 09:55:52 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
テレビで古い映画を観ることがよくあります。何十年も昔に作成されたもので、時代背景などは懐かしくもあり古めかしくもあり、現在取り上げられるものは、当時それなりに評価を受けたものが大半だと思うのですが、さすがに最近のものに比べると多くの点で見劣りする部分は否めません。


私の場合、テレビで観る映画は、その半分近くは以前に観たことのあるものです。それほど多くの映画を観てきたわけではないのですが、以前感動を受けたものが放送されるのを知るとついつい観てしまうためだと思われます。ただ、その場合、確かに懐かしさはあるのですが、新たな感動を受けるということはめったにありません。


実は、そのような映画を観ながら、ふと、こんなことを考えました。
古い映画の場合、まだモノクロのものも少なくありません。正直、カラーでないことに少々がっかりしながら観始めるのですが、その作品がそこそこ面白い場合、いつの間にかモノクロであることにそれほど抵抗を感じなくなってしまいます。
それはおそらく、色がないことになれるからではなく、無意識のうちにモノトーンの景色や服装などにそれなりの色彩を感じながら観ているように思うのです。多分、この種のことに関しても脳の働きなどの研究がなされているのでしょうが、私はそれを知りませんので、勝手な感覚だけの話になりますが、とても不思議な気持ちがしています。


私はそのような映画を観ながら、夕日を見れば赤や朱の色に見え、大空を仰ぎ見れば青や水色に見えているのでしょう。しかし逆に、華やかな赤系統の色の服装を、沈んだ青系統の服と思い、微妙なニュアンスを取り間違っていることがあるかもしれません。
そしてそれは、私たちの日常生活にもあることのように思われます。
私たちの感情は、パソコンが表現できるよりはるかに複雑な色彩を用いて発信されているように思われます。しかし、それを受け取る私たちの能力は、モノクロとはいわないまでも、せいぜい十二色程度の識別能力しかないように思うのです。
人間どうしの意思の疎通がいかに難しいかよく経験するところですが、どうもこれは人間の持つ能力からして仕方がないのかもしれません。

(2010.07.19)
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誤差の範囲 ・ 小さな小さな物語 ( 185 )

2011-01-12 09:54:50 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
『銀河は太陽のように自ら光る恒星が無数に含まれる天体である。宇宙にはそれらの銀河が1000億とも2000億ともあると考えられている・・・』
以上は、私も大ファンである、今朝の毎日新聞朝刊の「西はりま天文台からの便り」の冒頭部分を引用させていただいたものです。
今回の記事は、3000万光年の彼方にある「エッジオン銀河NGC4565」を紹介したものですが、同天文台のホームページには興味深い記事がいろいろ掲載されています。


さて、当コラムで考えたいことは、引用させていただいた文章のスケールの大きさです。
この文章を見て、多くの人は宇宙と呼ばれるもののスケールの大きさに感心させられると思うのですが、中には違和感のようなものを感じる人もいるかもしれません。
例えば、「それでは宇宙には幾つの恒星があるんだ」ということになりますと、<無数×1000億ないし2000億>ということになります。つまり答えは、<非常にたくさん>ということです。
この見事な算式を、「なるほど」と思う人も「冗談を言うな」と思う人もいることでしょう。それは、1000億と2000億が誤差の範囲と認めるかどうかということかもしれません。


私たちの日常は、私たち自身が考えている以上に几帳面な数字によって支配されているような気がします。つまり誤差の範囲が狭い生活ともいえます。
学校へ行っている人やサラリーマンは、一日の相当部分が細かな約束事に縛られています。定年を迎え、口では「サンデー毎日だ」と言っている人に限って、悲しいかな、自ら自分を束縛する以外に対して意味もないような、計画を立てたがります。夏休みに入ってすぐの今が子供たちにとって最高の日々なのでしょうが、先生も親たちも、寄ってたかって規則正しい生活をせよ、などとのたまいます。


正しい計算、正しい習慣、理路整然、勧善懲悪・・・、どれもこれも結構なことです。
でも、どうでしょうか、子供たちの夏休みやサンデー毎日を満喫できる期間だけでも、1000億と2000億がたった二倍の誤差しかないと考えられるような生き方をしてみたいものだと思うのですが・・・。

(2010.07.22)
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時間を計るもの ・ 小さな小さな物語 ( 186 )

2011-01-12 09:53:47 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
各地に大きな被害をもたらした集中豪雨がようやく去ってくれたたと思うと、今度はすさまじい猛暑です。今年くらい梅雨明け宣言が易しい年はないのではないかと思うくらい、見事に豪雨からカンカン照りへと季節が動きました。


昨日も地域によっては竜巻警報が出たり、激しい雨に見舞われた地域もあるようですが、日本全体としては、夏休みを絵に描いたような天候です。
ところで、遥かに遠い昔のことになりますが、まだ小さな子供の頃、待ちに待っていた夏休みがやってきて、特に最初の数日のうちはまるで天下でも取ったような気分を味わったものです。
蝉の声で起きだし、朝食が終わると友達と近くの溜池に泳ぎに行きました。溜池といっても、いずれも農業用水用のものですが、大きなものは周囲1kmに及ぶものも珍しくなく、しかも子供が歩いて行ける距離の範囲にでも、50やそこらはあったと思います。それでも遊びに行く池は大体決まっていて、平地の池や、山あいに幾つか並んでいる池の一番上の池はたいてい「お姫池」と呼ばれていて泳いではいけない池とされていました。
やがて昼時になると、それは太陽の位置と空腹感から分かるのですが、みんな揃って家へ帰り、全員が食事が終わった頃には、またぞろぞろと集まって池に行きました。そこで二時間ばかり遊ぶと、家へ帰り、全員が庭らしいものもない小さな家ばかりでしたが、日陰になる場所をちゃんと確保していて、ゴザやムシロを敷いて、将棋をしたり、メンコをしたり、ごくごくたまには宿題をしたり・・・、そんな日々でした。
あの頃、私たち子供は何で時間を計っていたのでしょう。


よくいわれることですが、二十代より三十台、三十代より四十台、といったように、年代を重ねるほど時間が経つのが早いといいます。私が先輩から言われたのには、同じ二十代でも、前半の五年より後の五年の方が遥かに速いというものがあります。これは、私自身何回も経験済みの事実です。


私たちは、時間を何で計っているのでしょうか。
「時計」というくらいですから、時間を計るもとになるものは時計が刻むものによるのかもしれませんし、私たちの日常は、まさに時計に縛られているいってもよいほどです。
しかし、いくら正確な時計を用いても、私たちの体感時間というものを正確に計ることは不可能だと思われます。ある時は長く感じ、ある時は短く感じ、またある時には止まってしまうことさえある私たちの時間の感覚は、何により制御され計られているのでしょうか。しかも、早くなったり遅くなったり、個々の感覚のままに自由奔放に振る舞っているように見えながら、ふと気がついてみると、カチカチと規則正しく時を刻む時計の束縛から一分たりともはみ出すことなど出来ていないのです。
私たちは、時間をどのようにとらえ、どのように付き合っていけばいいのでしょうか。

(2010.07.25)
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生きとし生けるもの ・ 小さな小さな物語 ( 187 )

2011-01-12 09:52:32 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
梅雨明け十日、といわれるように、梅雨が明けた後の十日ばかりはカンカン照りの日が続くのが普通のようですが、それにしても今年の梅雨明け後はすさまじい暑さです。
当地は、梅雨明け後昨日まで一滴の雨もみていません。あちらこちらから雨の便りはあり、比較的近い地区でも降ったようですが、そのいずれもが激しい豪雨のようです。何だか今年は、荒々しい夏のような予感がします。


ただ、この猛暑に、蝉たちはいたって元気です。私の家の近くでは、例年に比べ蝉の鳴き声はそれほど多いとは感じないのですが、それでも朝早くから元気な声を聞かせてくれていて、暑くなれ暑くなれと合唱しているように感じられます。
毎年わが家の庭のあちらこちらから飛び立っていくのですが、今年も蝉の抜け殻が木の枝などにからみついています。木の根っこ周りには、驚くほどの数の穴があいています。地中深くから這い出てきて飛び立っていったのかと思うと、短い地上生活を満喫して欲しいと願う気持ちが強くなります。


この季節庭いじりをしていますと、一番困るのが蚊の襲来です。今私が必死に取り組んでいます枕草子の第二十五段にも、蚊がいっちょ前に羽音を立てて飛び回るのがとてもにくらしいと紹介されています。どうも、蚊は千年前から嫌われ者のようです。


しかし、考えてみますと、蝉にエールを送り蚊を憎むのも、勝手といえば勝手なものです。彼らも彼らなりに真剣に生きているわけですし、生きとし生けるものそれぞれに大切な命を持っているということは頭では分かっているのですが、ところが、さて、蚊に好きなだけ血を吸っていただくだけの度量はなく、自分の植えた花は大切にしながら横に生えてきた雑草は憎々しげに抜いてしまうのです。
幼い子供たちの命が粗略にされているニュースを見ますと、激しい怒りを感じ生意気なことを言ったり書いたりしてしまうこともあるのですが、命を大切にするということは、それほど簡単なことではないのかもしれませんねぇ。

(2010.07.28)
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子供は神様のもの ・ 小さな小さな物語 ( 188 )

2011-01-12 09:51:15 | 小さな小さな物語 第一部~第四部
このところ、悲しい事件や腹立たしい報道が目立ってなりません。
最近特に多くなっているということではないのでしょうが、死刑執行に関する何か不愉快さを感じる報道、やり切れなくなるような事件、何よりも、幼い子どに対する犯罪や虐待、そして、わが子の養育の放棄・・・。


海亀は、夜砂浜に上がり涙を流しながら数多くの卵を産みます。その姿はテレビなどで報じられることがありますが、卵を産んだ後はやっとの思いで海に帰っていくのですが、その姿には深い感動を覚えます。
鮭は、大海で育った後、生まれ故郷の川に登り、たくさんの卵を産みつけます。そこには、遡上を待ち受けている人間とやらの危険を承知の上で子孫を残すために遥々とやってきて、産卵の後やがて死んでいくそうです。
海亀も鮭も、直接子育てをすることはありません。たくさん産みつけられた卵から、とてもたくさんの子供たちが誕生します。しかし、無事大海原へ帰って行ける海亀や鮭はほんの一握りの数に過ぎず、再び故郷へ産卵のために帰ってこれるものは、さらに少ないことでしょう。
海亀や鮭は、産卵の後は子供たちの命を自然の摂理に任せています。しかし、これを子育て放棄だと考えている人がいるのでしょうか。


犬や猫は複数の子供を産みますが、とても大切に育てます。牛や馬も同じですし、野生の大型哺乳類も、子供を自らの命をかけて守っています。
人間も大型哺乳類ですから、生まれてきた子供を大切に育てる本能を神様から授けられています。ただ、幸か不幸か、人間はたぶん神様の意志に反してだと思うのですが、実力以上の知恵や欲を持ってしまいました。そのひずみの一つとして、子供を大切に育てる本能を見失う瞬間を持つようになってしまったのではないでしょうか。


高齢者に対する社会福祉制度の拡充、とても大切なことだと思います。しかし、高齢者は有権者であり、幼い子供には投票権がありませんから、時の政権は高齢者優遇にはなっていませんでしょうか。
子供手当、保育施設の充実、高校教育の無料化など、どれをとっても大切な施策なのでしょう。しかし、これらの施策の多くが、本当に子供の幸せのために機能しているのか、子供の親の票が目当ての施策ではないかと疑うのは、下司の勘繰りというものでしょうか。
かつて、私たちの国では、七つまでの子供は神様のものだと考えられていたそうです。悲しいかないつの頃からか、自分の子供は自分の所有物であり、他人の子どもは特別関心もない単なる他人になってしまいました。こういう社会では、一つの悲しい事件が起きても、とても胸を痛めたり、あるいは痛めているようなふりをする人はたくさん登場しますが、きっと何度も繰り返されるのでしょうね。
しかし、その対策がいくら難しいからといっても、幼い子供は社会全体で守るという体制を築かなくては、少なくとも心豊かな社会など実現することはないのではないでしょうか。

(2010.07.31)
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