小さな小さな物語 第二十四部
NO.1381 から NO.1440 までを収録しています
『 小さな小さな物語 目次 』
No.1381 十大ニュースの行方
1382 新年のご挨拶
1383 「ありがとう」と言える幸せ
1384 対コロナの長老
1385 明日のわが国のために
1386 リーダーが輝くとき
1387 矛盾を抱きながら
1388 取り返しがつかないこと
1389 バイデン新大統領就任
1390 二大政党制に学ぶ
1391 環境の変化
1392 一月の終りに
1393 春たちぬ
1394 何が足りないのか
1395 歴史のロマン
1396 余人を以て代え難し
1397 「人の振り」はよく見えるが
1398 コロナですか? オリンピックですか?
1399 公正と公平
1400 時々間違う
年の瀬となり、本来ならば「今年の十大ニュース」とやらがテレビなどで話題を集める頃です。十二月に入ってから、それらしい話題が取り上げられている場面もあったようですが、当然のことながら盛り上がるはずもなく、テレビではほとんど見られなかったような気がします。
さて、後は、この数日の内の新聞は、この定番というべき話題を取り上げるのかどうか、少々興味を抱いています。
しかし、この一年を振り返ってみた場合、わが国にとって少なからぬ影響があると思われるニュースは、むしろたくさんあったと思われます。
なにも私が「今年の十大ニュース」を選ぼうというわけではないのですが、本来なら、とてつもないほど大きなニュースが埋もれかかっているように思うのです。
幾つか挙げてみますと、「安倍首相の突然の辞任」「菅首相誕生」「東京五輪延期(あるいは開催)」「米大統領選挙」などは、相当の大ニュースですし、国際関係では、イスラエルとアラブ諸国の内の幾つかと国交を開いたこと、米中関係、日韓関係、北朝鮮を巡る問題、などから幾つかが有力候補になるでしょうし、スケールは小さくなりますが、国内から二つや三つ選ぶのは難しくないように思われます。
しかし、それらのどれもこれもが、『新型コロナウイルス』に飲み込まれてしまった状況で、年末を迎えようとしています。
確かに、今年の場合、何を話題にしても『新型コロナウイルス』に叶うまでもなく、もし選ぶ場合には、「新型コロナウイルスを別にすれば・・・」という冠をつける必要がありそうです。
「今年の十大ニュース」という話題は、今年に限っては意味づけるのは難しいですが、「重大なニュース」は存在しています。個人個人にとっては、それぞれの出来事から受ける影響には差があるでしょうし、個人にとっては、社会的な出来事をすべて消し去ってしまうような事もあるかもしれません。
ただ、私たちの国全体にとっては、「長年続いた安倍首相が突然辞任し、直前まで有力候補とされていなかった菅首相が誕生したこと」は、実は国家にとって大変な出来事といえると思うのです。
しかし、この重大な事件さえもが、コロナの後塵を拝することをどう考えるべきなのでしょぅか。
今回の『新型コロナウイルスによる感染症の拡大』は、政権交代を越えるほどの事件だといえますが、同時に、わが国家は、例え自民党内での首相交代だとしても、その移行で国家は何の揺らぎも見せず、国家体制の不安定化の心配よりも、コロナ問題の方が心配だということは、実は、大変ありがたいことだと思うのです。
今年もあと数日となっています。
残念ながら、ことコロナに関しては、まだ拡大途上のままでの年越しとなってしまいましたが、考えようによっては、私たちに幾つかの問題を提起してくれているように思います。私たちが何気なくやり過ごしてきた問題点が、しっかりと見直しなさいと示してくれているような気もするのです。どれもこれも、簡単に解決できるわけではないでしょうが、新しい年は、私たちの社会力が試される年になりそうな気がしています。
この一年、当ブログをご支援いただきありがとうございました。
皆様にとりまして、新年が良いお年でありますよう祈念申し上げます。
( 2020.12.29 )
謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
旧年中は当ブログをご支援いただきありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨年は、私たちの誰もが経験したことのない感染症の恐怖というものを体験させられました。
残念ながら、未だ収束の道筋さえ見えておりませんが、すでに欧米ではワクチンの接種が始まっており、対処療法の薬品も幾つかが効果を示しています。新しい薬品の開発にはなお時間がかかるそうですが、やがて、登場してきてくれることでしょう。
ただ、そうそう簡単に特効薬というわけには行かないでしょうから、ウイルスとの戦いは、ひとりひとりの愚直な対応がベースになることは確かなことでしょう。
ただ、新型コロナウイルスは私たちに大きな恐怖を与えましたが、同時に、幾つかの教訓をもたらしてくれているように思われます。
そうした教訓の中に、「人類はもう少し謙虚であれ」というものも含まれているように思われてならないのです。
新しい年も、このウイルスとの対応を無視することはできませんが、もうぼつぼつ、どっしりとした日々を構築してもいい頃ではないでしょぅか。
どうぞ、新しい年が、皆様にとりまして実りある一年でありますよう祈念申し上げます。
( 2021.01.01 )
「ありがとうございます」という言葉は、つくづく美しい言葉だと思います。
「後世に残したい言葉」などといったアンケートでは、常に上位に選ばれるようですが、その響きといい、持っている意味の優しさといい、実に素晴らしい言葉だと思います。
世界中に幾つの言語があるのか知りませんが、おそらく、どの「言語」であっても、同様の言葉があるのではないでしょうか。
ただ、その語源と言いますか、今日使われている言葉の源となりますと、少し差異はあるようです。
例えば、中国語や韓国語は「感謝」という意味合いが強いようですが、当然のことながら、多くの言語は感謝という意味合いを含んでいるようです。そうした中でも、英語やドイツ語などでは、「あなたのことを思う」といった意味も強いようです。
そして、私たちの「ありがとう」は、現在では「感謝」を表す代表的な言葉ですが、その語源となりますと若干違うニュアンスを持っています。
「ありがとう」という言葉を文字では、「有り難う」「有難う」と書くことも少なくありませんし、明治の頃には、「難有う」と書くこともありました。つまり、「有り難いこと」「めったにないこと」ということから変じて、感謝の言葉として定着してきたようです。
そして、この言葉の語源としては、仏典にある「盲亀浮木(モウキフボク)」だとされる説がよく知られています。この言葉は辞書などにも載せられていて、「大海の底に棲んでいる盲目の亀が、海上に浮かんでいる木の孔に入ることの困難なことから、滅多にないことの例え」と説明されています。
そして、このことから「有り難い」という言葉の語源とされているようです。
枕草子にも、「ありがたきもの」という章段があります。
『 舅にほめられる婿。 また、姑に思はるる嫁の君。 毛のよく抜くる銀の毛抜。 主そしらぬ従者。 つゆのくせなき。 かたち心ありさますぐれ、世にふる程、いささかの疵(キズ)なき。同じ所に住む人(宮仕えする人)の、かたみに恥ぢかはし、いささかのひまなく用意したりと思ふが、つひに見えぬこそ(欠点が見えないことは)かたけれ。 物語・集など書き写すに、本に墨つけぬ。 よき草子などは、いみじう心して書けど、必ずこそ汚げになるめれ。
男女をば言わじ、女どちも、契り深くて語らふ人の、末までなかよき人 難し。 』
少々長くなりましたが、どれもこれも、現在でも納得できそうなことばかりですが、清少納言の言う「ありがたきもの」は「めったにないもの」といった意味で使われています。
つまり、この時代の「ありがたい」には感謝という気持ちは強くなく、まさに「有り難い」という意味だったようです。
こう考えてみますと、現在私たちがごく普通に使っている、感謝の意味での「ありがとう」「ありがとうございます」という言葉は、ごく新しい言葉だと言うことになります。それ以前までの感謝の言葉としては、「かたじけない」といったものが主であったようです。
現在のわが国内でも、「ありがとう」と同様の意味を持つ方言は数多くあるようです。「おおきに」といえば大阪言葉のように思われますが、近畿圏に限らず、東海地区や九州地区の一部でも使われているようです。他にも、「だんだん」「ごちそうさま」「きのどく」といったものもあるようですし、「たえがとうございます」となりますと、「有り難い」からの変化だということが明確に分かります。
昨年、私たちは「新型コロナウイルスによる感染症の拡大」という「有り難い」経験を強いられました。年が変わった今も、むしろ厳しさを増している状態です。
「ウイルスによる社会崩壊の危機」などといえば、SFの世界だと思っていましたが、残念ながら「有り難い」ことは存在し、それも私たちと極めて近い存在であることを教えられました。ウイズコロナであれ何であれ、完敗するわけにはいきませんから、今年中にはなんとか対応手段を確立させたいものです。
そして、「有り難い」ことに遭遇したときには、私たちは人々とのつながりやいかに様々な人に支えられているかということを教えられます。もしかすると、そうした経験が、「ありがとう」という美しい感謝の言葉を生み出したのではないかと思ったりしています。
人の好意に対して、ごく自然に「ありがとうございます」と言えることは、実は大変幸せなのではないかとも思っているのです。
( 2021.01.04 )
「一日の長(イチジツノチョウ/イチニチノチョウ)」ということわざがあります。言葉の意味は、単純に「少し年上」として使われることもあるようですが、一般的には、「経験や技量が相手より少し優れていること」といった意味で使われるのが普通です。
ことわざとしてはよく知られている方だと思うのですが、最近ではあまり耳にしないようです。ただ、このことわざをベースにしたというわけではありませんが、「年齢によって上下関係を厳しく守らせる」という手法は、わが国では広く行われてきました。
例えば、わが国で長く定着してきた「年功序列」「年齢給」といった企業等における身分や給与の体制は、多くの批判を受け、「職能給」「実力主義」といった考え方に押しまくられているようですが、未だに姿を消し去ってはいません。
学校のスポーツクラブなどでよく見られる、先輩・後輩の関係も、似たような部分があります。
以前に、ある人の講演でこんな話を聞いた記憶があります。
「高齢者と言われる年齢になれば、体力的にも、能力・気力ともに下降線をたどることは避けられない。しかし、年齢を重ねるほどに見えてくるものもある。複雑な見方をする能力が生まれてくる部分もある」といった内容でした。
かつて、私たちの祖先の社会には、一家ごとに、また、村ごとに「長老」といわれる存在の人がいて、その経験に基づく知識を大切にする風潮があったようです。
誰も彼もが長老になれるわけではないのでしょぅが、「一日の長」という考え方も働いていたのかもしれません。
折から、新型コロナウイルスによる感染症の拡大は、いよいよ厳しい状況になってきました。
首都圏を中心に緊急事態宣言が再び出されるようですが、さて、どのような具体策が示されるのでしょぅか。
前回の時には、緊急事態宣言の前に学校を全面閉鎖させるといった思い切った手段が打ち出され、その後も、緊急事態宣言も含めて、多くの施策は試行錯誤を重ねながらも、結果オーライの状態を実現させることが出来ました。あれからの半年余り、途中で第二波らしいものも経験しながら、私たちはどれだけのものを学んできたのでしょうか。
半年前に比べ、ワクチンは実現しつつありますが、医療体制は切迫した状況は改善されておらず、さて私たちは、対コロナに関しては、「一日の長」の教えは何の役にも立たなかったのでしょうか。
緊急事態宣言において、これまでとは違う斬新かつ効果的な対策が打ち出されることを期待していますが、もし、そうしたものがない場合には、現時点においては、これまでに防止対策として有効とされてきた手段以上のものは無いということになります。
そうだとすれば、それらの手段を私たちは愚直に守っていくしか対策はないということになります。ただ、その場合でも、私たちは一年近くの経験というものがあります。「一日の長」の何百回か分になるほどの経験です。つまり、私たちは誰もが、コロナ社会を最も経験しているのです。それを生かして、ひとりひとりが「対コロナの長老」として知恵を働かせることこそが、この難儀に打ち勝つことが出来る秘策ではないかと思うのです。
ところで、この「一日の長」という言葉は、孔子の「論語」が出典だそうですが、この言葉は自らの謙遜と共に用いる言葉なのだそうです。
感染対策には、「対コロナの長老」としての行動を率先するとともに、このウィルスに対して謙虚であることも忘れてはならないようです。
( 2021.01.07 )
コロナウイルスによる感染症の拡大は、未だ収束の気配さえ見せていません。
わが国も二度目の緊急事態宣言の発令に追い込まれましたし、その対象地域もなお増えていきそうです。
世界全体となれば、さらにわが国の状況とは桁違いで、発症者数は88百万人余、死者数は190万人に及び、死亡率は2%を超えています。この数字をわが国に当てはめてみますと、感染者数は百数十万人、死者数は二十数万人となり、まさかそこまでにはならないとは思うのですが、絶対にあり得ないと断言できないところが、この感染症の恐ろしいところです。
実用化が始まったワクチンが救世主になってくれることを祈る思いですが、何としてもこの感染拡大を抑えないことには、次の一歩などとても踏み出せないといった風潮を感じます。
昨日、高校ラグビーの決勝戦が行われました。高校サッカーの方は準決勝の二試合でした。試合内容については割愛させていただきますが、どちらも、たった一つのボールを巡って、フィフティーンなりイレブンなりは、懸命に技と力をぶつけ合います。勝敗はボールの行方だけが握っているわけですから、すべての選手はボールの動きに全神経を集中させ、素早く動きます。しかし、全選手がボールに向かって突進しているかとなれば、それではとても戦いにならず、決められているそれぞれの役目、瞬時の判断による位置取り、次の展開を予想しての動き、しかも、それらの動きがチーム全体一丸となったバランスが構築されていっているのでしょう。
あるサッカーの指導者は、「ボールを持っていない選手の動きこそが重要なのだ」という話をされておりました。
昨年のほぼ一年中が、世界は新型コロナウイルスに振り回されている状況にありました。わが国においても、「コロナか経済か」「餓死するよりもコロナで死ぬ方がましだ」「コロナを収束させることが最良の経済対策だ」等々の意見が渦巻きました。
しかし、そうした中でも、世界は大きなうねりを見せています。
経済でいえば、アメリカの株式市場は活況を呈し、わが国の株式指標もバブル崩壊後の最高値にまで駆け上りました。その理由に、経済対策としてジャブジャブに資金を投入したことが大きな原因でしょうが、果たしてそれだけでしょうか。コロナ騒動を横目で見ながら、IT巨大企業は、国家の統制力さえ振り切る程までに存在感を増し、電気自動車のテスラ社は株式市場で異常な程の評価を得ており、同社のCEOマスク氏は、常連のIT長者たちをごぼう抜きして世界一の富豪に躍り出た、と報じられています。
政治面でも、大統領選を巡るアメリカの混乱、イギリス離脱後のイギリス・EUの動き、いち早くコロナを収束させた中国の動き等々、菅政権による国内政治もさることながら、コロナ下でも大きなうねりを感じさせます。
先日の、菅首相による緊急事態宣言の会見について、もっと強いメッセージをとか、対応が遅すぎたとかの声が聞かれました。
そうした意見を否定するつもりもありませんし、よく比較されるドイツのメルケル首相の迫力ある演説には見劣りすることも事実でしょうが、演説がすべてではなく、コロナ対策がすべてというわけではないことを、私たちは冷静に考える必要があると思うのです。
コロナ対策に世界中が右往左往しているかに見えがちですが、荒波のように見える表面の動きの下では、次の時代を見据えた力強いうねりが明日の力を蓄えているはずです。それが何かは私などに分かるはずもありませんが、すでに見えているものだけでも、IT・AIといった分野のさらなる展開、脱炭素社会への変換、水資源・食糧資源の確保、国家間の摩擦の増大、等々は、わが国の現状はいずれも見劣りする分野ではないでしょうか。
コロナの収束は、わが国にとって当面の最重要課題ですが、コロナ収束だけで明日のわが国が補償されるわけではないことを、私たちは考えておく必要があると思うのです。
( 2021.01.10 )
コロナ禍の中にあっても、多くのスポーツ大会が困難を乗り越えて行われました。
悲喜こもごもはスポーツの常とはいえ、時には悔しさに涙し、時には喜びの、これもやはり涙し、スポーツなればこその場面を多く見させていただきました。
そして、それぞれのチームにはリーダーがおり、勝者には勝者の輝きを見せ、敗軍には敗軍なればこそのいぶし銀のような輝きを見せ、私たちに深い感動を与えてくれます。
勝負は時の運、などという言葉もありますが、そうした試合も数多くあるのでしょうが、多くの試合は、やはり実力差というものは有り、少なくともチームの指導に当たる人にはそれは分かっているのでしょうが、万に一つとまでとはいわないまでも、十に一つ程度の勝利を目指して策を練り、実際に、時にはそうした番狂わせが実現するのもスポーツの魅力と言えます。
そして、あらゆる団体スポーツにはリーダーがおり、そればかりか、個人スポーツといわれるものにも、コーチやマネージャーや仲間がいて一つのチームをなしていて、そこにもチームリーダーがいるものです。勝敗はともかく、素晴らしい試合を実現させるためには、メンバーの一人一人の活躍もさることながら、チームリーダーの輝きこそが、そのチームに品格のようなものを生み出しているように思うのです。
チームリーダーといっても、様々な立場や役割の人がいます。実際に試合を行うメンバーを引っ張るキャプテン的なリーダーがいますし、日頃からチーム作りに励むコーチや監督的なリーダーもいるでしょう。
かつて、あるプロ野球の監督経験者が「どのポジション出身の人が監督に適しているか」についてテレビで話しているのを聞いた記憶があります。参加していた人の意見は、捕手と内野手というのが多く、投手は孤独なポジションなのでコーチはともかく監督には適していないのではないかという意見が多かったようです。ただ、それにしては、投手出身の監督は意外に多いのはなぜかということになったとき、その元監督曰く「ポジションで経験してきたことは、監督として必要な要件の、ごくごく一部にしか過ぎない」と。そして、最も大切な要件は何かということに対しては、残念ながら、言葉を濁して答えようとはされませんでした。
スポーツのリーダーは、私のような単なる見物人からすれば、まばゆいばかりの輝きを見せる人に目が行ってしまいます。しかし、リーダーの本当の輝きというものは、そのようなものではなく、メンバーに信頼され安心を与えることが出来て、しかもしっかりと進む先を指さしているような人ではないのでしょうか。しかも、そうしたすべてのものを包含した輝きにも、まばゆいばかりの輝きもあれば、外にあふれ出るようなことはなくても、メンバーの心をしっかりとつかみ取っているような目に見えない輝きもあるのかもしれません。
そして、チームリーダーを必要としているのは、何もスポーツ界に限ったことではありません。私たちの社会にこそ優れたリーダーが待望され、その優劣が私たちの社会の未来の明暗を分けることにもなりかねません。
私たちは、どのようなリーダーを望み、どのようにリーダーを支え、何よりも、どのようにリーダーを育てていくのかを学び続ける必要があると思うのです。特に、最強最大と思っている国家の混乱ぶりを見せつけられますと、さらにその思いが強くなってきます。
( 2021.01.13 )
「矛盾」という言葉があります。
「ホコ」と「タテ」という漢字を並べて「ムジュン」と読みますが、この言葉を知っている人にとってはどうと言うことはありませんが、知らない場合には、読みといい意味といい、なかなか難解な言葉と言えます。
言葉の意味は、一般的には「論理のつじつまが合わないこと」と言った意味で使われますが、論理学で用いられるときには、かなり難解な説明がされていますので勘弁させていただきます。
この「矛盾」という言葉は、「韓非子」にある話から生まれたものです。少々蛇足になりますが紹介させていただきます。
『 「どんな盾も突き通す矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた礎の男が、客から「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と問われ、返答することが出来なかった。 』という素晴らしい話から誕生した言葉です。
素晴らしい話ではありますが、この物語は、中国の戦国時代の法家である韓非が儒家(彼にとっては孔子)を批判するために作られた例え話のようです。
いずれにしても、「矛盾」という言葉は、今日でも私たちに親しまれていてよく使われています。故事などから生まれた言葉の中では、よく知られた言葉の一つと言えましょう。
さて、私たちの日常を考えてみますと、「矛盾」という言葉も時々お目にかかりますが、それ以上に、つじつまの合わないことや、裏表を使い分けるようなことはあふれるほど登場してきます。親の小言の多くがそうであるように、政治家の言動にも多く登場しますし、およそ正義を大上段に構える主張も「矛盾」の宝庫のような気がします。
しかし、同時に、「矛盾」を単純に「悪」として捉えるのも正しくないように思うのです。
礎の男は客の問いに答えられなかったとされますが、実際は、密かにその二つの武具をぶつけ合って、矛が劣っていれば盾をそのまま売り続け、盾を売っているうちにさらに鋭い矛を造り、といったことを繰り返したように想像するのです。
世に正しい戦争など存在しないと考えたいのですが、戦争が科学を育み発展させてきたことも否定できません。
矛盾に満ちた論理で弱者を痛め続ける輩を許すことは出来ませんが、人は弱く、常に考えは揺れ動き、矛盾を矛盾と気づかぬままに、時には承知の上で必死に生きていかなくてはならないこともあるように思うのです。
矛盾にあふれた日常であればこそ、自らの矛盾をいかに抑えるか、周囲の矛盾をどこまで容認することが出来るのか、そのあたりに生き様の一端が浮かび上がってくるように思うのです。
( 2021.01.16 )
1995年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災が発生しました。
満26年となる今年も、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けながらも、各地で記念行事が行われました。
最大の被災地となった神戸の街は、少なくとも街並みを見る限りは震災の面影など見当たらず、行き交う人々も緊急事態宣言下であることを考慮すれば、遠い過去の出来事になっているかに見受けられます。
しかし、追悼行事の様子を見れば、失われたものの大きさを今更のように思い知らされ、行事などに出席さえ出来ない重みを今なお背負っている人もいるのではないかと思いますと、実に切ない。
その後も、東北大震災など大きな災害が幾つも発生しています。そのたびに多くの命が失われ、生活の基盤を根こそぎ失ってしまう被害が数多く伝えられています。しかも、そうした悲しい経験は、何も大災害や大事件にのみ発生するものではなく、個々の人にとっては、世間の人、それも近隣の人にさえ知られない状態で、取り返しがつかない大事に襲われることは少なくありません。
私たちは、災害や事件ばかりでなく、自分自身の未熟さや迂闊さを原因に、とんでもない失敗をすることがあります。職場や地域での立場や信用を致命的に失うようなこと。二度と立ち直れないほどの経済的な損失。他の人の生命や身体に取り返しがつかないほどの被害を与えてしまうこと。等々、時には私たちは、取り返しのつかないことに遭遇したり、自ら起こしてしまうことがあります。致命的ともいえる出来事にです。
日常発生する、取り返しがつかないことに遭遇したり、失敗したときの対処方法を教えてくれている書物などもあります。また、こうした危機を経験した後をどう生きるかが、人格形成や品格として表れるという指導をされているものもあります。
かつて、ある警察関係者から聞いたことですが、交通事故、それも人身事故を起こしてしまった人の多くは、瞬間的には逃げ出せないかということが頭に浮かぶというのです。それでも多くの人は踏み止まって、それなりの処置を行うようですが、こうしたときの行動こそが、その人の人格を表しているようです。
そしてまたある人は、遭遇したときには「取り返しがつかないこと」と思うことのほとんどは、かなりの犠牲を払うとしてもなんとか出来ることなのだ、とも教えています。
しかし、やはり、取り返しがつかないこと、どうにもならないこと、といったものは存在しているように思うのです。
大切な人を亡くしたり、別離を余儀なくされたり、我が身一つならともかく家族とともに飢餓の極限に追い込まれたり、どうすることも出来ない曲面も少なくないのかもしれません。
でも、どうでしょうか。本当に『取り返しがつかないこと』や『どうにもならない状態』なのであれば、それはそれでいいのではないでしょうか。亡くした人を取り戻すことは出来ませんが、共存の手段を追い求めることは出来るかもしれません。経済的にどうにもならなくなっているのであれば、何もかも失うつもりで誰かに声を掛けることは出来ないのでしょうか。私たちの社会は、十分ではないとはいえ、手を差し伸べてくれるはずです。
どんな悲しみであっても、「きっと時間が救ってくれる」と言うのはそのまま信用できませんが、多くの場合は和らげてくれることは間違いないようです。
( 2021.01.19 )