雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  徳川を支えた花嫁

2012-02-25 08:00:18 | 運命紀行
           運命紀行

            徳川を支えた花嫁


それにしても慌ただしい輿入れであった。

武将の家に生まれ、すでに十六歳になっていた栄姫には、遠からずいずれかの家へ嫁がねばならない覚悟は出来ていた。この時代の十六歳はすでに結婚適齢期に入る年頃だったからである。
そして、その嫁ぐ相手は、父が決めてくれることであって、自分の意志や好みなど全く考慮されないことも当然と心得ていた。さらに言えば、結婚相手は、人物というよりは家であって、わが保科家との利害によって選ばれるということも承知していた。

ただ、突然に徳川家康というとてつもない人物のもとに連れて行かれ、僅かな言葉を交わした後にはその人の娘になることが決められたのだから、驚きというより、何が起ころうとしているのか理解することが出来なかった。
徳川家康は、父が身を寄せる御大将であるので、事前に話は固められていたのであろう。また、母は、家康と母を同じくする異父兄妹であるから、やはり相談を受けていたのかもしれない。
しかし、栄姫が事の次第を知らされたのは家康との対面後のことであり、すでに嫁ぐ先も決められていた。

生まれ育った保科の名字が、嫁ぐこともなく徳川に変わり、いつから用意されていたものか、葵の花嫁道具があっという間にそろえられた。
そして、慶長五年(1600)六月六日、栄姫は華やかな行列と共に大坂天満の黒田家の屋敷に入った。そして、祝宴の後は、僅かな侍女や小者と共に捨てて行かれたように、栄姫は一瞬思った。

栄姫が、夫となった黒田長政の顔を僅かに見たのは、寝所に入ってからのことであった。
黒田長政は、この時三十二歳。先妻との間には一女があり、その先妻は栄姫を迎えるために離縁して里に帰していた。それもつい最近のことである。
長政もまだまだ若さにあふれた働きざかりであったが、すでに二十二歳で家督を引き継ぎ、豊前中津十二万石の当主であった。幼い頃には人質生活を経験し、十五歳で初陣してからは、秀吉軍の主力部隊として戦場を駆け巡り、朝鮮の役にも参加している。多くの勇士・豪傑を輩出した黒田家中を取り纏める御大将であった。
武将の娘とはいえ深窓で育った栄姫にとって、恐ろしさが先立つ殿御であったろう。

ただ、長政にとっては、栄姫は大切な花嫁であった。武将にとって妻とは、妻の実家との縁を結ぶことであり、花嫁は実質的な人質ともいえる存在である。栄姫とてその立場に変わりはないが、石田三成一派と袂を分かつ長政にとって、まだ十六歳の花嫁は徳川との縁を固める重要な宝であった。何の落ち度もない長年連れ添った妻を離縁してまで得た花嫁を、長政は慈しんだ。

しかし、栄姫が妻となった十日後には、夫となった人は、大軍を率いて出陣していった。上杉征伐に向かう家康軍に従ったのである。関ヶ原の合戦への序幕というべき出陣であった。
そしてほどなく、石田三成が挙兵。家康に従った武将たちの妻子を人質として大坂城に幽閉しようとする事態が出来した。栄姫は、徳川の人質として黒田家に入ったはずが、大坂方からは黒田の人質として狙われたのである。
この窮地は、家臣たちの働きにより無事国元に送り出されたが、如水(黒田官兵衛)の妻であり栄姫の姑にあたる櫛橋殿と共に、俵に詰められて運び出されるという危機迫るものであった。
豪傑母里多兵衛に天秤棒で担がれながら、十六歳の花嫁は、何を考えていたのだろうか。


     *  *  *

慶長三年(1598)八月、秀吉が没すると世情の混乱は一気に噴き出した。
老耄著しい秀吉であっても、生存している限りは家臣や有力大名たちは表面的には平穏を保っていた。しかし、その重石が外れると、かねてたから対立関係にあった石田三成を中心とする文治派と福島正則・加藤清正らの武断派との軋轢は激しさを増し、翌春、前田利家が没すると両派を抑えきれる人物はいなくなってしまった。
黒田長政もまた、有力な武断派の一人であった。父如水が剃髪に至った原因は、三成の讒言によるものと考えられていたこともあり、三成陣営に属することなど考えられなかった。さらに、隠居したとはいえなお実力者の如水には、臣従していたとはいえ秀吉のもとからの家来でもなく、ぐらついている豊臣家と運命を共にする気持ちなどなかったのかもしれない。

このような状況の中、忍従の時を重ねてきた徳川家康は、慎重に軍備を整えていた。大名としては抜きん出た存在ではあったが、天下人となるためには、秀吉幕下にあった武将たちを味方につける必要があった。それも、軍事的に勝る武断派と呼ばれている武将たちを確実に傘下に収める必要があった。
さらに大きな存在は利家没したとはいえ、北陸の雄前田家であった。
家康は、前田利長に圧力を加え、利家夫人まつを人質として江戸に迎え入れるとともに、有力武将とは婚姻による紐帯を強めて行った。
子供や孫はもちろんのこと、養子・養女を次々と目指す家に送り込んでいった。秀吉の大名間の婚姻を制限した遺言など無視して強引に進めて行ったが、送り込まれる側も日の出の勢いとなった徳川家との縁は望むところであった。
家康の養子・養女は二十五人にも及び、長政のもとに嫁いだ栄姫も、その一人であった。

栄姫の誕生は、天正十三年(1585)の頃である。
父は、信州高遠城主保科正直。母は、多劫姫。この姫の母は、於大の方である。
於大の方は家康の生母であるが、ゆえあって離縁されたあと久松俊勝に再婚して生まれた姫で、久松家も保科家も家康とは近しい関係にある。つまり、母の多劫姫にとって家康は、異父兄であり、栄姫にとっては伯父にあたるのである。

長政は、栄姫を迎えるにあたって先妻を離縁している。徳川の傘下で生き延びようとする限り、蜂須賀小六正勝の娘とはいえ、秀吉養女の妻は黒田家にとって重荷な存在となっていたのだろう。といって、何とも薄情な話ではある。
離縁された先妻は、四歳の一人娘を残して阿波徳島の母のもとに帰ったらしい。
このことに栄姫は何の責任もないことではあるが、結果としては追い出したかのような形であり、これもまた切ない。
もっとも、先妻の実家蜂須賀家も、小六正勝の嫡孫至鎮が家康養女万姫(小笠原秀政の娘)を妻に迎えているので、大名家の結婚には個人の情愛より御家の事情が遥かに大きい時代だったのであろう。

さて、黒田家の大坂天満屋敷を無事脱出して豊前中津に辿り着いた棚橋殿と栄姫を迎えて、如水は演劇を催して歓待したという。
そして、関ヶ原の戦いは、夫は家康と行動を共にし、如水は九州全土を席巻せんばかりの働きを見せたという。結果は、家康方の大勝に終わり、如水には心外な結果であったようだが、黒田家は筑前五十二万三千石の大大名となる。
栄姫は、黒田家にあっては、ねね姫と呼ばれていたらしいが、三男(四男とも)二女を儲けていることからも、長政に可愛がられ、また太守の内室として敬愛された生涯を送っている。
また、先妻の一人娘菊姫も、重臣に嫁がせている。

栄姫が三十歳を過ぎた頃であろうか、大坂の陣が始まる頃に江戸に移り、後はずっと黒田家の江戸屋敷で過ごした。
栄姫三十九歳の頃、夫長政が病没し、出家して大涼院を名乗った。家督は嫡男忠之が継いだ。
この後は、波乱の前半生を思えば、まことに穏やかな日々であったらしく、残されている資料も少ない。
没年は、寛永十二年(1635)三月一日、享年五十一歳であった。

                                         ( 完 )


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運命紀行  頑固一徹のあっぱれ武者

2012-02-19 08:00:27 | 運命紀行
            運命紀行

          頑固一徹のあっぱれ武者


この故事は、元禄・慶長の役の休戦中のこととされる。

母里多兵衛(太兵衛とも)友信は、主君黒田長政の使者として、京都伏見に滞在中の福島正則のもとを訪ねた。
秀吉健在中のことで、絢爛豪華な桃山文化の絶頂期といえる頃である。
福島正則は、数多いる秀吉幕下の武辺者の中でも最右翼に属する人物であった。その豪胆さは余人を寄せ付けず、積み重ねた手柄は数知れず、そしてまた、そのひと癖もふた癖もある気質は周囲の人々に恐れられていた。

母里多兵衛は緊張のうちに役目を果たし、福島正則から酒をすすめられる。
実は、多兵衛は黒田家中きっての酒豪で、今回の使者の役目についても酒による失敗を懸念する声も聞こえてきていた。その声も無理からぬことで、これまで酒の上での失態などなかったとは言えない経歴の持ち主でもあった。多兵衛は、使者の役目を終えるまでは、一滴の酒も口にしないことを自らに課すことにした。

「使者の役目を受けた身でありますゆえ」と固辞する多兵衛に、
「この正則の酒は飲めぬと申すか」と正則はしつこく酒を注ごうとする。
それでもなお「使者の身なれば」と杯を受けようとしない多兵衛に正則は意地になっていく。
「使者だ使者だと、酒で役目を果たせぬのがそれほど怖いのか。黒田武士は酒に弱く、酔って物の役に立たなくなる者ばかりの集まりか」などと罵り始める。
さすがに多兵衛も、我が身を貶されるのは堪えるとしても、家中一党を罵倒されるのは堪え難い。ぐっと、睨みつける多兵衛に対して正則は、
「何だその顔は、文句があるならあの大杯を見事飲み干してみよ。さすれば、褒美は望みのままじゃ」

「されば、そこまで申されるならば、黒田武士の飲みっぷりをご披露申し上げましょう」
「そうよ、そうよ。見事飲み干したあかつきには、何なりと所望するがよい。さあ、者ども、あれにある大杯になみなみと酒を注いでやれ」

多兵衛は、剛の者二人がかりで運んで来た大杯を両手で受けると、
「では、頂戴つかまつりまする」と、叫ぶようにいうと、ごくりごくりと飲み始めた。
ゆっくりと、しかし休むことなく、ごくりごくりと飲み進んでいく。途中で息は継いでいるのであろうが、大杯は確実に角度がついてゆき、やがて多兵衛が大きな息を吐いた時には、見事大杯には一滴の酒も残っていなかった。

「見事、見事」
あっけにとられた正則は、一瞬の静寂の後に喝采を送った。
「見事なものよのう。これでこそ、あっぱれ見事な黒田武士というものぞ。さあ、何でも所望するがよい。望みは思いのままじゃ、銭でも、馬でも、知行でも、何でも申すがよい」
「されば、お言葉に甘えまして、あの槍を所望いたします」
「何? 槍だと?」
「はい、あそこに飾っておられる、あの槍でございます」
「いや、ちょっと待て・・・。刀はどうじゃ。良い刀があるぞ、馬もつけよう」
「ありがとうございます。されど、望みはあの槍でございます」
「うーん・・・。あれでないといかんか・・・」
「はい、あの槍を所望いたします」
「うーん、そうか・・・。やむを得ん。武士に二言はない。それ、あの槍をこの者に取らせよ」

ご存知、『黒田節』にも歌われる「名槍日本号」が飲み取られた瞬間の物語です。


     * * *

母里多兵衛友信は、弘治二年(1556)播磨国で誕生した。後に主君として仕える黒田官兵衛孝高より十歳年下、その子長政より十二歳年上である。
父の曽我一信は、播磨で勢力を持っていた小寺氏に仕え、官兵衛孝高の父である黒田職隆の与力的立場であった。この人物もなかなかの剛の者であったと伝えられている。

永禄十二年(1569)、十四歳で黒田官兵衛に出仕、十八歳で初陣を果たした。
この時から、母里姓を名乗ったようであるが、その理由ははっきりしない。母里は母方の姓であり、出雲の尼子氏に繋がる名門であるが、正式の養子として家督を継いだのかどうかははっきりしない。
母里多兵衛の勇猛ぶりは、初陣から発揮されたようで、この後も常に先鋒を務めた。勇士や豪傑を多く輩出した黒田家にあって、栗山四郎右衛門利安と共に常に先鋒を務めた。
容貌ひときわ優れ、身の丈は六尺五寸の見事な武者働きは、秀吉が直臣にと強く望んだと伝えられている。

秀吉の軍師としての地位が高まっていくのに従って、中国四国を転戦、九州では豊前宇留津城攻めで一番乗りの戦功を挙げるなどして、官兵衛孝高が豊前入国時には六千石を拝領した。
朝鮮出兵では、黒田長政に従って渡海。
関ヶ原の合戦では、黒田如水(官兵衛)の九州切り取りの主力部隊を率い、妻の兄でもある大友義統を降伏させるなど戦功を重ねた。そして、黒田家が筑前に移ると一万八千石の所領を与えられている。
生涯に挙げた首級は七十六といわれ、家中で一番であったという。

この見事なあっぱれ武者も、大変な頑固者であったらしい。
筑前入国後、鷹取城代となり築城にあたったが、
「この城は長く籠城するところではないので、簡略にせよ」と領主長政が命じたが、
「拙者はここを死に場所と考えている。それを簡略にせよとは何事だ」と怒りをあらわにし、他の重臣たちの忠告にも耳を貸さなかったという。
また、江戸城普請に携わった帰途、霊峰富士の見事さを人々が称えると、「我が鷹取城の背後にそびえる福智山(901m)の方が遥かに高いわ」と言い放ち、生涯その意見を変えなかったという。

最初に紹介した福島正則との逸話もその証左の一つといえる。
この話には後日談がある。母里多兵衛が飲み取った槍は「日本号」と名付けられていて、正則が秀吉から拝領したもので、そうそう簡単に手放せるものではなかった。
酒の勢いから軽率に振舞ったことを悔い、何とか返却して欲しいと申し入れるが、そこは頑固者の多兵衛は応じない。やがて、黒田長政と福島正則の対立にまで発展してしまった。これを心配した官兵衛孝高は、竹中重利(竹中半兵衛の従兄弟)を仲介に両者の兜を交換して仲直りさせている。

この「日本号」は、後の慶長の役で多兵衛の窮地を救った後藤又兵衛の手に渡り、又兵衛出奔の折に母里家に返され、その後は大正時代まで同家の家宝となっていた。
その後は、黒田家に移るなど所有者が転々と変わったが、現在は福岡市に寄贈されて、福岡市博物館で管理されている。

『黒田節』は現在もなお広く愛唱されているが、その物語の主人公は、頑固一徹、それでいて何かさわやかなものを感じさせるあっぱれな武者であったようだ。

                                       ( 完 )
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運命紀行  軍師の花嫁

2012-02-13 08:00:04 | 運命紀行
         運命紀行  

              軍師の花嫁


「ご内室に大坂城にお移りいただきたい」
予測していたことではあるが、戦雲はすでに動き始めていた。

黒田家の大坂天満屋敷では、重臣以下このような大坂方の動きは承知していた。
六月十六日、当主黒田長政は、徳川家康の上杉討伐に従うべく出陣していった。
長政の父如水(官兵衛孝高)は国元にあったので、栗山四郎右衛門、母里多兵衛らの重臣に留守を託し、このように命じていた。
「石田三成が挙兵に動けば、家康殿に従った諸将の妻子を人質として大坂城に幽閉するはずである。もし、そのような事態が出来したなら、直ちに母上と妻を国元へ送り届けよ。そして、どうしても脱出が叶わぬときには、両人を殺して、そなたたちも自害せよ。断じて大坂城に連行され、生きて辱めを受けてはならぬ」

その命に従って、黒田家の天満屋敷では万が一の場合の脱出に備えは整えられていた。出入りの商人、納屋小左衛門宅に二人の内室を匿ってもらうように手筈がなされていた。
しかし、いざ実行に移そうとした時には、すでに大坂方の軍勢が、黒田家の屋敷を遠巻きに取り囲んでいた。
そこで重臣たちは策を練り、夜を待って、屋敷の裏手の湯殿の壁に穴をあけ、二人の内室を俵に詰めて外に出し、それを籠に入れ商人に扮装した母里多兵衛が天秤棒で担いで小左衛門宅に運び込んだ。
小左衛門宅では、内蔵に住まわせ、主人夫婦の寝所の床下に隠す手筈も整えていた。

だが、その後、黒田屋敷には、騎馬武者や鉄砲隊を含む六百余の軍勢が押し掛け、二人の内室の所在を確認しようとした。
「お二人とも屋敷内におります」
という家老の返答にも満足せず、二人の顔を見知っているという女性を連れてきていて、確認させようとした。
仕方なく、栗山四郎右衛門は二人によく似た侍女を選び出し、一人は病気と伝え一人が付き添っている形で遠くからその姿を見せ、在宅を認めさせたという。

やがて、国元である豊後中津城の如水が派遣した迎えの船が大阪湾に到着したが、すでに主だった湊や河川には大坂方の兵士が固めていて、特に女性の通行を厳しく取り締まっていた。
黒田家の天満屋敷の重臣たちが、二人の内室を船に送り込むための策に苦心していた時、玉造方面で火の手が上がり、大坂方の警備兵たちの多くがその方向に向かった。黒田家の家臣たちは、その好機を逃すことなく行動して、二人を無事に迎えの船に送り込むことが出来た。
この玉造方面の火の手というのは、細川家の屋敷が燃え上がったもので、大坂方から同じように城内に移ることを強制された細川家の内室、つまりガラシャ夫人が老臣の介錯に倒れ、屋敷に火を放ったものであった。

こうして、無事に大坂城下を逃れ出ることが出来た二人の内室とは、一人はついひと月前に長政に嫁いできた栄姫で、この時十六歳。この方は家康の養女であるが、実際は保科正直の娘であった。
そして今一人は、長政の生母であり、如水すなわち黒田官兵衛孝高の妻であった。


     * * *

如水の妻が嫁いだのは、十五歳の頃である。
この時の夫の名前は、小寺官兵衛孝高。永禄十年(1567)二十二歳の頃である。夫の名乗りは、やがて黒田姓となり、如水となるが、ここでは便宜上如水で統一したい。
如水は、天文十五年(1546)、播磨御着城主小寺政職の家老で姫路城代を務める小寺職隆の長男として生まれた。実家は、もとは黒田姓であったが職隆の代に小寺姓を名乗ったが、如水は主家没落後黒田姓に戻している。

如水は、十六歳で小寺政職の近習として出仕、禄高は八十石であった。元服はこの翌年のことである。そして、結婚の前後の頃に父は隠居し家督を継いでいる。
妻の父は、播磨志方城主櫛橋伊定(クシハシコレサダ)の息女。名前は伝わっておらず、幸圓(コウエン)という雅号が伝えられているが、ここでは仮に櫛橋殿とする。
櫛橋伊定は、早くから如水の人物を評価していたらしく、結婚の一年前には如水に合子形兜と胴丸具足を贈っており、娘を嫁がせたいと願っていたらしい。それに、娘もまた、容色麗しく才徳兼備の姫であると伝えられている。
また、この兜は「如水の赤合子」と呼ばれて今日に伝えられている。

櫛橋殿は、嫁いだ翌年、永禄十一年十一月に嫡男松寿丸(後の長政)を出産、幸せな結婚生活をスタートさせている。
二人の新婚生活ががどのようなものであったのか、具体的に伝えられているものは少ないようであるが、戦国武将の大半が複数の妻妾を持つのが普通の時代にあって、如水は生涯櫛橋殿一人を妻として大切に遇していたと思われる。その意味からも、父の目は確かだったようで、櫛橋殿は幸せな家庭を得たといえよう。

しかし、時代は戦国時代、それも終りに近く、それだけに激しい時代であった。
しかも、櫛橋殿が生まれた志方城(兵庫県加古川市)も嫁いで行った姫路城(今日のものとは違い小規模なもの)も、毛利勢力と織田勢力が激突する接点にあった。
夫となった如水は、主家を説得して織田陣営に属するように働き、以後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時代の奔流の中心に位置して活躍を続けたが、それは出世と危機とを背中合わせにしたものであった。そして、妻である櫛橋殿も、その荒波を受け続けたものであったことだろう。

その第一の悲劇は、嫡男松寿丸を人質として差し出したことである。
その頃の播磨は毛利家の影響下にある豪族が多く、小寺家もそうであった。如水は、織田信長の並々ならぬ勢いを察知し、主家に織田家への帰属を進言、その使者として自ら安土に向かった。その時に松寿丸を同道したのである。
天正三年(1575)のことで、松寿丸八歳の頃である。人質は、一旦同盟関係にひびが入れば命の保証はない。幼い一人息子を送り出す櫛橋殿の心痛は察して余りある。

如水の働きにより主君小寺政職は織田陣営に属すことになったが、三年後に摂津有岡城主荒木村重が信長に背くという事件が発生、政職は荒木村重と通じていたので、政職を説得し村重に翻意させるため自ら有岡城に向かった。
しかし、小寺政職は荒木村重と行動を共にする意思を固めていて、如水の殺害を依頼していたのである。
如水は有岡城内の牢に幽閉されてしまい、それは一年にも及び、このため如水は足が不自由になる。
如水の父職隆は、事情を知って憤り、御着城下の如水屋敷に火をかけ、櫛橋殿を姫路城に移した。

さらに、音信が取れなくなった如水に疑いを持った信長は、人質の長政(松寿丸)殺害を命じた。
この時長政は、秀吉の居城長浜城に預けられていたが、秀吉を経由した命令が伝えられてきた。だが、歴史の不思議というべきなのか、たまたまその留守を預かっていたのが竹中半兵衛であった。如水と半兵衛は、共に秀吉の軍師として知られているが、お互いもその器量を認め合っていた。そのこともあって、半兵衛は如水が謀反を起こすことなど絶対にあり得ないと信じ、処刑の命令に応じた旨返答をし、密かに自身の領地である美濃菩提山城に匿ったのである。

もちろんこのことは、秀吉や信長ばかりでなく、姫路城の人々が知るはずもなく、櫛橋殿にとっては、主家との対立、夫の生死不明、嫡男処刑の噂などが積み重なって、生涯で最も苦しい期間ではなかったか。
如水が幽閉されてから一年後、有岡城が落され、如水は助け出された。
翌天正八年(1580)二月、小寺政職が出奔し、如水は黒田姓に戻した。そして、閏三月には、長政が四年ぶりに人質を解かれて戻り、秋には黒田家は一万石の大名へと出世した。

天正十年六月二日、織田信長が本能寺で討たれた。世情は一気に流動化する。
この時如水は、秀吉に従って毛利軍と対峙していたが、悲報に接すると「中国大返し」を進言し、自ら殿軍を務めた。そして、明智光秀を討った秀吉は天下人へと上っていく。
翌年四月、秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いでは、如水は十五歳の長政を連れて出陣していたが、櫛橋殿は、次男熊之助を出産した。十五年ぶりの出産である。

天正十一年十一月、櫛橋殿は大坂の天満屋敷に居を移した。秀吉は大坂城築城にあたり、大名たちに土地を与え妻子を住まわせるよう命じたのである。
この一年ほど後のことであろうか、如水は、キリスト教に入信している。高山右近に導かれたもので、いわゆるキリシタン大名となったのである。記録にはないが、当時のキリシタン大名は一族を入信させているので、櫛橋殿も洗礼を受けた可能性が高い。
そして同じ頃、嫡男長政が結婚。花嫁は秀吉の養女であるが、かの蜂須賀小六正勝の息女であった。
その後も如水は四国・九州を転戦、九州制圧後の天正十五年には、豊前国六郡十二万石の所領が与えられた。

しかし、その二年後、如水は長政に家督を譲った。如水はまだ四十四歳の働き盛りであった。家督相続の原因には幾つかの逸話が残されているが、要は秀吉にとって自分が危険人物として見られているらしいことを察知したためと思われる。
家督の相続は認められたが、名軍師如水を隠居させるようなことは秀吉の頭になかった。その後の朝鮮の役では主要戦力として働いているが、その時に石田三成の讒言もあって、無断で帰国し秀吉の怒りを受け切腹を申しつけられている。
如水は剃髪し謹慎したが、「如水」を名乗るようになったのはこの時かららしい。
如水の罪は、その後長政の働きに免じて許されたが、黒田家には大きな悲劇が待っていた。

如水の妻櫛橋殿は、夫や子供たちの波乱の日々を大坂天満の黒田屋敷で見守り続けていた。
如水と長政が渡鮮している間、国元である豊前中津城は、十六歳の次男熊之助が守っていたが、父や兄と同じ戦場に赴きたく、同じ年頃の家臣らと密かに中津から船出し、玄界灘で暴風雨に遭い船が沈没、水死してしまったのである。
櫛橋殿は「自分が中津にあればこのようなことはさせなかった」と、嘆き悲しんだ。櫛橋殿は、生前に落飾したと記録されているが、もしかするとこの時であったのかもしれない。

やがて、不世出の英雄秀吉が没すると、全土が大きく揺らぎ始めた。徳川家康を中心とした権力闘争は、激しさを増し、その動きの一つとして、嫡男長政が秀吉養女の妻を離縁し、家康の養女を新しく正妻に迎えるという出来事も起こっている。
そして、冒頭にある二人の内室の黒田家天満屋敷からの脱出劇は、その直後のことである。

関ヶ原の戦いは、長政は黒田家主力軍と共に家康に従い、如水は国元にあって、九州制圧を意識していたらしい。しかし、関ヶ原の戦いは僅か一日で決着、このため、あと島津を残すばかりの状態まで兵を進めていた如水は、そこで無念の断念をしたと伝えられている。
戦後、長政の働きを高く評価した家康は、筑前五十二万余石を与えた。黒田家は大大名となったが、如水に満足の気持ちはなく、以後隠遁の生活に入ったと伝えられている。福岡城完成の後は、三の丸に家を立てて、櫛橋殿とともに詫び住まいを始めたという。
この頃に、一族を集めた連歌の催しの記録が残されており、如水夫人の雅号が[幸圓」と残されている。

慶長九年三月、如水は京都伏見屋敷で五十九歳で生涯を終えた。
この時櫛橋殿は五十二歳。この後二十三年の年月を生きることになる。
さらに、長政にも先立たれることになるが、徳川将軍家との縁も深まり、お家の将来を憂うこともなく、七十五歳の生涯を福岡で終えている。
最も激しい時代を、最も激しい渦中に生きる夫は、まだ幼さの残る頃に嫁いできた妻を生涯護り通した男でもあった。櫛橋殿は、武将の妻として最も幸せな女性だったのかもしれない。

                                         ( 完 )







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運命紀行  流浪の豪傑

2012-02-07 08:00:39 | 運命紀行
       運命紀行

          流浪の豪傑


その朝は霧が深かった。
率いる軍勢は、兵の数二千八百。形勢を逆転させるには、あまりに少数であった。

大和口を任された御大将は、黒糸威しの鎧姿も厳めしい偉丈夫、後藤又兵衛基次。
時は元和元年(1615)五月六日。大和路を攻めのぼって来る敵軍を迎撃すべく、藤井寺に出陣した。
やがて一隊は、徳川軍先鋒水野勝成隊と衝突、乱戦となった。天下無双の豪傑であり、戦巧者として知られた後藤又兵衛に率いられた一隊は、大軍を相手に、寄せては引き引いては寄せる互角の戦いを挑み、援軍の到着を待った。
しかし、後続してくるはずの薄田兼相、明石全登らの率いる軍勢は、霧のためもあって到着が遅れ、後藤又兵衛軍は孤立の状態に陥った。その一方で、敵軍には続々と新手の援軍が加わり、伊達政宗軍の鉄砲隊も参戦してきていた。

敵軍の数は、すでに十倍を超え、戦いの帰趨は明らかになりつつあった。
ただ、一縷の望みといえば、この戦場に一人でも多くの敵兵を引きつけることが出来れば、別の作戦部隊が敵の総大将徳川家康に肉薄することがたとえ少しであれ可能性が高まることであった。
後藤又兵衛は、少なくなった将兵を纏め、この日何度目かの敵陣突入を敢行しようとしていた。
その時であった。一発の銃弾が後藤又兵衛の腰のあたりに命中した。
堪え切れず馬上から崩れ落ちた御大将に、黒田藩以来の従者である吉村武右衛門が駆け寄って助け起こそうとしたが、立ちあがることは困難であった。その瞬間に、流浪の豪傑は己の最期を知った。
「我が首を敵に渡すな。田の中に埋めよ」

大坂夏の陣、世にいう道明寺の戦いであった。


     * * *

後藤又兵衛基次は、永禄三年(1560)播磨で生まれた。出生地には諸説あるが、姫路近郊の山田村とされる。
父は、播磨別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門(伯父という説もある)の次男。小寺氏滅亡後は、仙石秀久に仕えた。

幼少年期のことは、よく分からない。秀吉により播磨別所氏が攻められた時、水攻めにあい籠城中の三木城から、父が旧知である秀吉軍軍師黒田官兵衛に息子を託したという話もあるようだが、確認できない。

天正十四年(1586)の秀吉の九州征伐において、仕えていた仙石久秀が島津家久との戦いで大敗し、領国に逃げ帰ってしまった後、黒田家に仕えることになる。但しこの時は、藩主黒田官兵衛孝高の重臣である栗山利安のもとに百石で召し抱えられている。
その後は、勇猛ぶりを発揮し、順調に出世していった。朝鮮出兵にも参加、晋州城攻めでは加藤清正らと一番槍を競い、関ヶ原の合戦では、石田三成の家臣で剛槍の使い手として知られる大橋掃部を一騎打ちで破っている。
その戦いぶりは勇猛果敢、身の丈は六尺に及び、晩年までに身に受けた傷跡は五十三か所にも及んだといい、まさに豪傑を絵に描いたような武者振りであったという。
そして、関ヶ原の後黒田家が筑前五十二万石に移封されると、大隅城城代として一万六千石を拝領している。

慶長十一年、後藤又兵衛基次は突然黒田藩を出奔する。如水(官兵衛孝高)が亡くなって二年後のことである。
出奔の原因については、数々のエピソードが残されているが、あとから理由づけとして強調されたものもあり、どれと断定することは難しいが、主君黒田長政との軋轢が積み重なったものではないだろうか。
又兵衛は長政より八歳ほど年長である。又兵衛は諸国に知られた豪傑であり、長政も戦国末期の激しい時代を戦い抜いてきた剛の者であった。当然に共に我も強く信念を曲げない頑固者同士であったろう。しかも年長の又兵衛は、臣下とはいえ「目の上のたんこぶ」のような存在だったのかもしれない。

又兵衛は、家族や一族を引き連れて隣国細川家に入った。事前に密約が出来ていたともいわれる。
黒田藩と細川藩はこの頃激しく対立していた。関ヶ原の戦いの後、豊前から筑前へと国替えとなった黒田長政は、その折、その年の年貢米を徴収していってしまった。そのため、あとに入った細川忠興は年貢を徴収することが出来ず激怒し、以来両家は対立関係にあったのである。
そこへ、軍事機密などを熟知した重臣が突如逐電したのであるから、緊張は一触即発の状態に達した。その少態を憂えた徳川家康の調停で衝突は避けられたが、又兵衛は細川藩を退去することになった。

武辺者としての後藤又兵衛基次の名は高く、福島正則、前田利長、池田輝政、結城秀康などの有力藩主から誘いの声がかかるが、又兵衛一行は郷里である播磨に戻った。
そして、播磨藩主池田輝政に出仕したが、黒田藩との関係を遠慮して少額の扶持であり、分家の岡山藩に移るという気の使いようであった。さらに、黒田長政からは、有力藩主に対して、又兵衛の仕官を受けてはならないという「奉公構え」というものが発せられるに至り、その岡山藩も辞し、京都で浪人生活をすることになる。慶長十六年(1611)の頃のことである。

慶長十九年(1614)、大坂の役が勃発すると、大坂方の呼び掛けに呼応して、諸将に先駆けて大坂城に入った。この時、三百人ほどの兵を率いていたという。
この時はまだ大坂城は堅牢であり、軍資金は無尽蔵というほどに豊富、諸国には浪人が満ち溢れていた。又兵衛が居を構えていた京都には、豊臣に同情的な公家勢力も少なくなかった。又兵衛が大坂城に入ったのには、徳川幕府を倒さないまでも、豊臣が一方の勢力として生き残る可能性は十分あると読んだのかもしれない。
しかし、冬の陣を戦って、大坂陣営の実力を知り、戦後の大坂城の惨めな姿を見た後の夏の陣は、死に場所を求めての参戦だったのかもしれない。あるいは、槍一筋の流浪の豪傑には、それ以外の選択肢などなかったのかもしれない。

後藤又兵衛基次が流浪の豪傑となる発端となった、黒田藩出奔の原因に関していくつもの話が残されている。そのいくつかを紹介してみる。
* 朝鮮遠征の出来事として、長政が敵将と組みあって川の中に落ちた時、又兵衛はそばにいたが加勢することなく悠然と見守っていた。不思議に思った小西行長の家来が何故加勢しないのかと尋ねると、「敵に討たれるようでは、我が殿ではない」と言い放ったとか。長政は見事敵を討ち果たしたが、後でこの話を聞き又兵衛を憎むようになったという。
* 同じく朝鮮の陣で、長政の陣営に虎が入り込み、馬を殺すなどして暴れ回った。家臣の一人が虎に切りかかったが刃が役に立たず、窮地に陥った。この時又兵衛が割って入って、虎の眉間に一撃を加え即死させた。この状況を見ていた長政は、一手の将たる者は、大事な役を持ちながら畜生と争うなどとは不心得である、と又兵衛を叱責したという。
* 城井氏との初戦で敗れたあと、指揮を取っていた長政は頭を丸めて父官兵衛孝高に謝罪し、物頭以上の部下もそれに倣ったが、又兵衛は、戦に勝ち負けはつきもの、負け戦のたびに髷を落としていたら、生涯毛が生えそろうことがない、と嘯いた。官兵衛は不問にしたが、長政は大いに面目を失ったという。
* この他にも、いくつかの話が残されている。いずれもエピソードとしては面白いが、どれを以て、両者に致命的なひびを与えたのか断じがたい。

また、又兵衛には、生存伝説も残されている。
* 奈良県宇陀市には、又兵衛桜と呼ばれる巨木が現存している。道明寺の戦いから生き延びた又兵衛は、この地で隠遁生活を送った。僧侶姿であったともいわれ、その屋敷跡の桜が現在に伝えられているという。
* 大分県中津市には、市の史跡として「後藤又兵衛の墓」が残されているという。大坂で戦死したのは影武者で、秀頼を護って真田幸村らと共に瀬戸内海を豊後に逃れ、島津を頼る一行と別れて、又兵衛は知人の女性がいる伊福の里に向かう。その里で女性や村人たちと平穏な日を過ごしながら再起の日を待つが、秀頼病死との知らせがもたらされ、再起の夢破れ自刃したという。

源義経などでもそうであるが、生存伝説を素直に受け入れることはなかなか難しい。
しかし、そこには、悲劇の英雄に対する庶民の温かい情愛のようなものが垣間見られる。
流浪の豪傑、後藤又兵衛基次。豪傑などという現代社会ではなかなか受け入れられにくい人物が、無骨で、要領が悪く、それらを背負って懸命に生きた人物がいたということは確かなことである。

                                       ( 完 )
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