運命紀行
徳川を支えた花嫁
それにしても慌ただしい輿入れであった。
武将の家に生まれ、すでに十六歳になっていた栄姫には、遠からずいずれかの家へ嫁がねばならない覚悟は出来ていた。この時代の十六歳はすでに結婚適齢期に入る年頃だったからである。
そして、その嫁ぐ相手は、父が決めてくれることであって、自分の意志や好みなど全く考慮されないことも当然と心得ていた。さらに言えば、結婚相手は、人物というよりは家であって、わが保科家との利害によって選ばれるということも承知していた。
ただ、突然に徳川家康というとてつもない人物のもとに連れて行かれ、僅かな言葉を交わした後にはその人の娘になることが決められたのだから、驚きというより、何が起ころうとしているのか理解することが出来なかった。
徳川家康は、父が身を寄せる御大将であるので、事前に話は固められていたのであろう。また、母は、家康と母を同じくする異父兄妹であるから、やはり相談を受けていたのかもしれない。
しかし、栄姫が事の次第を知らされたのは家康との対面後のことであり、すでに嫁ぐ先も決められていた。
生まれ育った保科の名字が、嫁ぐこともなく徳川に変わり、いつから用意されていたものか、葵の花嫁道具があっという間にそろえられた。
そして、慶長五年(1600)六月六日、栄姫は華やかな行列と共に大坂天満の黒田家の屋敷に入った。そして、祝宴の後は、僅かな侍女や小者と共に捨てて行かれたように、栄姫は一瞬思った。
栄姫が、夫となった黒田長政の顔を僅かに見たのは、寝所に入ってからのことであった。
黒田長政は、この時三十二歳。先妻との間には一女があり、その先妻は栄姫を迎えるために離縁して里に帰していた。それもつい最近のことである。
長政もまだまだ若さにあふれた働きざかりであったが、すでに二十二歳で家督を引き継ぎ、豊前中津十二万石の当主であった。幼い頃には人質生活を経験し、十五歳で初陣してからは、秀吉軍の主力部隊として戦場を駆け巡り、朝鮮の役にも参加している。多くの勇士・豪傑を輩出した黒田家中を取り纏める御大将であった。
武将の娘とはいえ深窓で育った栄姫にとって、恐ろしさが先立つ殿御であったろう。
ただ、長政にとっては、栄姫は大切な花嫁であった。武将にとって妻とは、妻の実家との縁を結ぶことであり、花嫁は実質的な人質ともいえる存在である。栄姫とてその立場に変わりはないが、石田三成一派と袂を分かつ長政にとって、まだ十六歳の花嫁は徳川との縁を固める重要な宝であった。何の落ち度もない長年連れ添った妻を離縁してまで得た花嫁を、長政は慈しんだ。
しかし、栄姫が妻となった十日後には、夫となった人は、大軍を率いて出陣していった。上杉征伐に向かう家康軍に従ったのである。関ヶ原の合戦への序幕というべき出陣であった。
そしてほどなく、石田三成が挙兵。家康に従った武将たちの妻子を人質として大坂城に幽閉しようとする事態が出来した。栄姫は、徳川の人質として黒田家に入ったはずが、大坂方からは黒田の人質として狙われたのである。
この窮地は、家臣たちの働きにより無事国元に送り出されたが、如水(黒田官兵衛)の妻であり栄姫の姑にあたる櫛橋殿と共に、俵に詰められて運び出されるという危機迫るものであった。
豪傑母里多兵衛に天秤棒で担がれながら、十六歳の花嫁は、何を考えていたのだろうか。
* * *
慶長三年(1598)八月、秀吉が没すると世情の混乱は一気に噴き出した。
老耄著しい秀吉であっても、生存している限りは家臣や有力大名たちは表面的には平穏を保っていた。しかし、その重石が外れると、かねてたから対立関係にあった石田三成を中心とする文治派と福島正則・加藤清正らの武断派との軋轢は激しさを増し、翌春、前田利家が没すると両派を抑えきれる人物はいなくなってしまった。
黒田長政もまた、有力な武断派の一人であった。父如水が剃髪に至った原因は、三成の讒言によるものと考えられていたこともあり、三成陣営に属することなど考えられなかった。さらに、隠居したとはいえなお実力者の如水には、臣従していたとはいえ秀吉のもとからの家来でもなく、ぐらついている豊臣家と運命を共にする気持ちなどなかったのかもしれない。
このような状況の中、忍従の時を重ねてきた徳川家康は、慎重に軍備を整えていた。大名としては抜きん出た存在ではあったが、天下人となるためには、秀吉幕下にあった武将たちを味方につける必要があった。それも、軍事的に勝る武断派と呼ばれている武将たちを確実に傘下に収める必要があった。
さらに大きな存在は利家没したとはいえ、北陸の雄前田家であった。
家康は、前田利長に圧力を加え、利家夫人まつを人質として江戸に迎え入れるとともに、有力武将とは婚姻による紐帯を強めて行った。
子供や孫はもちろんのこと、養子・養女を次々と目指す家に送り込んでいった。秀吉の大名間の婚姻を制限した遺言など無視して強引に進めて行ったが、送り込まれる側も日の出の勢いとなった徳川家との縁は望むところであった。
家康の養子・養女は二十五人にも及び、長政のもとに嫁いだ栄姫も、その一人であった。
栄姫の誕生は、天正十三年(1585)の頃である。
父は、信州高遠城主保科正直。母は、多劫姫。この姫の母は、於大の方である。
於大の方は家康の生母であるが、ゆえあって離縁されたあと久松俊勝に再婚して生まれた姫で、久松家も保科家も家康とは近しい関係にある。つまり、母の多劫姫にとって家康は、異父兄であり、栄姫にとっては伯父にあたるのである。
長政は、栄姫を迎えるにあたって先妻を離縁している。徳川の傘下で生き延びようとする限り、蜂須賀小六正勝の娘とはいえ、秀吉養女の妻は黒田家にとって重荷な存在となっていたのだろう。といって、何とも薄情な話ではある。
離縁された先妻は、四歳の一人娘を残して阿波徳島の母のもとに帰ったらしい。
このことに栄姫は何の責任もないことではあるが、結果としては追い出したかのような形であり、これもまた切ない。
もっとも、先妻の実家蜂須賀家も、小六正勝の嫡孫至鎮が家康養女万姫(小笠原秀政の娘)を妻に迎えているので、大名家の結婚には個人の情愛より御家の事情が遥かに大きい時代だったのであろう。
さて、黒田家の大坂天満屋敷を無事脱出して豊前中津に辿り着いた棚橋殿と栄姫を迎えて、如水は演劇を催して歓待したという。
そして、関ヶ原の戦いは、夫は家康と行動を共にし、如水は九州全土を席巻せんばかりの働きを見せたという。結果は、家康方の大勝に終わり、如水には心外な結果であったようだが、黒田家は筑前五十二万三千石の大大名となる。
栄姫は、黒田家にあっては、ねね姫と呼ばれていたらしいが、三男(四男とも)二女を儲けていることからも、長政に可愛がられ、また太守の内室として敬愛された生涯を送っている。
また、先妻の一人娘菊姫も、重臣に嫁がせている。
栄姫が三十歳を過ぎた頃であろうか、大坂の陣が始まる頃に江戸に移り、後はずっと黒田家の江戸屋敷で過ごした。
栄姫三十九歳の頃、夫長政が病没し、出家して大涼院を名乗った。家督は嫡男忠之が継いだ。
この後は、波乱の前半生を思えば、まことに穏やかな日々であったらしく、残されている資料も少ない。
没年は、寛永十二年(1635)三月一日、享年五十一歳であった。
( 完 )
徳川を支えた花嫁
それにしても慌ただしい輿入れであった。
武将の家に生まれ、すでに十六歳になっていた栄姫には、遠からずいずれかの家へ嫁がねばならない覚悟は出来ていた。この時代の十六歳はすでに結婚適齢期に入る年頃だったからである。
そして、その嫁ぐ相手は、父が決めてくれることであって、自分の意志や好みなど全く考慮されないことも当然と心得ていた。さらに言えば、結婚相手は、人物というよりは家であって、わが保科家との利害によって選ばれるということも承知していた。
ただ、突然に徳川家康というとてつもない人物のもとに連れて行かれ、僅かな言葉を交わした後にはその人の娘になることが決められたのだから、驚きというより、何が起ころうとしているのか理解することが出来なかった。
徳川家康は、父が身を寄せる御大将であるので、事前に話は固められていたのであろう。また、母は、家康と母を同じくする異父兄妹であるから、やはり相談を受けていたのかもしれない。
しかし、栄姫が事の次第を知らされたのは家康との対面後のことであり、すでに嫁ぐ先も決められていた。
生まれ育った保科の名字が、嫁ぐこともなく徳川に変わり、いつから用意されていたものか、葵の花嫁道具があっという間にそろえられた。
そして、慶長五年(1600)六月六日、栄姫は華やかな行列と共に大坂天満の黒田家の屋敷に入った。そして、祝宴の後は、僅かな侍女や小者と共に捨てて行かれたように、栄姫は一瞬思った。
栄姫が、夫となった黒田長政の顔を僅かに見たのは、寝所に入ってからのことであった。
黒田長政は、この時三十二歳。先妻との間には一女があり、その先妻は栄姫を迎えるために離縁して里に帰していた。それもつい最近のことである。
長政もまだまだ若さにあふれた働きざかりであったが、すでに二十二歳で家督を引き継ぎ、豊前中津十二万石の当主であった。幼い頃には人質生活を経験し、十五歳で初陣してからは、秀吉軍の主力部隊として戦場を駆け巡り、朝鮮の役にも参加している。多くの勇士・豪傑を輩出した黒田家中を取り纏める御大将であった。
武将の娘とはいえ深窓で育った栄姫にとって、恐ろしさが先立つ殿御であったろう。
ただ、長政にとっては、栄姫は大切な花嫁であった。武将にとって妻とは、妻の実家との縁を結ぶことであり、花嫁は実質的な人質ともいえる存在である。栄姫とてその立場に変わりはないが、石田三成一派と袂を分かつ長政にとって、まだ十六歳の花嫁は徳川との縁を固める重要な宝であった。何の落ち度もない長年連れ添った妻を離縁してまで得た花嫁を、長政は慈しんだ。
しかし、栄姫が妻となった十日後には、夫となった人は、大軍を率いて出陣していった。上杉征伐に向かう家康軍に従ったのである。関ヶ原の合戦への序幕というべき出陣であった。
そしてほどなく、石田三成が挙兵。家康に従った武将たちの妻子を人質として大坂城に幽閉しようとする事態が出来した。栄姫は、徳川の人質として黒田家に入ったはずが、大坂方からは黒田の人質として狙われたのである。
この窮地は、家臣たちの働きにより無事国元に送り出されたが、如水(黒田官兵衛)の妻であり栄姫の姑にあたる櫛橋殿と共に、俵に詰められて運び出されるという危機迫るものであった。
豪傑母里多兵衛に天秤棒で担がれながら、十六歳の花嫁は、何を考えていたのだろうか。
* * *
慶長三年(1598)八月、秀吉が没すると世情の混乱は一気に噴き出した。
老耄著しい秀吉であっても、生存している限りは家臣や有力大名たちは表面的には平穏を保っていた。しかし、その重石が外れると、かねてたから対立関係にあった石田三成を中心とする文治派と福島正則・加藤清正らの武断派との軋轢は激しさを増し、翌春、前田利家が没すると両派を抑えきれる人物はいなくなってしまった。
黒田長政もまた、有力な武断派の一人であった。父如水が剃髪に至った原因は、三成の讒言によるものと考えられていたこともあり、三成陣営に属することなど考えられなかった。さらに、隠居したとはいえなお実力者の如水には、臣従していたとはいえ秀吉のもとからの家来でもなく、ぐらついている豊臣家と運命を共にする気持ちなどなかったのかもしれない。
このような状況の中、忍従の時を重ねてきた徳川家康は、慎重に軍備を整えていた。大名としては抜きん出た存在ではあったが、天下人となるためには、秀吉幕下にあった武将たちを味方につける必要があった。それも、軍事的に勝る武断派と呼ばれている武将たちを確実に傘下に収める必要があった。
さらに大きな存在は利家没したとはいえ、北陸の雄前田家であった。
家康は、前田利長に圧力を加え、利家夫人まつを人質として江戸に迎え入れるとともに、有力武将とは婚姻による紐帯を強めて行った。
子供や孫はもちろんのこと、養子・養女を次々と目指す家に送り込んでいった。秀吉の大名間の婚姻を制限した遺言など無視して強引に進めて行ったが、送り込まれる側も日の出の勢いとなった徳川家との縁は望むところであった。
家康の養子・養女は二十五人にも及び、長政のもとに嫁いだ栄姫も、その一人であった。
栄姫の誕生は、天正十三年(1585)の頃である。
父は、信州高遠城主保科正直。母は、多劫姫。この姫の母は、於大の方である。
於大の方は家康の生母であるが、ゆえあって離縁されたあと久松俊勝に再婚して生まれた姫で、久松家も保科家も家康とは近しい関係にある。つまり、母の多劫姫にとって家康は、異父兄であり、栄姫にとっては伯父にあたるのである。
長政は、栄姫を迎えるにあたって先妻を離縁している。徳川の傘下で生き延びようとする限り、蜂須賀小六正勝の娘とはいえ、秀吉養女の妻は黒田家にとって重荷な存在となっていたのだろう。といって、何とも薄情な話ではある。
離縁された先妻は、四歳の一人娘を残して阿波徳島の母のもとに帰ったらしい。
このことに栄姫は何の責任もないことではあるが、結果としては追い出したかのような形であり、これもまた切ない。
もっとも、先妻の実家蜂須賀家も、小六正勝の嫡孫至鎮が家康養女万姫(小笠原秀政の娘)を妻に迎えているので、大名家の結婚には個人の情愛より御家の事情が遥かに大きい時代だったのであろう。
さて、黒田家の大坂天満屋敷を無事脱出して豊前中津に辿り着いた棚橋殿と栄姫を迎えて、如水は演劇を催して歓待したという。
そして、関ヶ原の戦いは、夫は家康と行動を共にし、如水は九州全土を席巻せんばかりの働きを見せたという。結果は、家康方の大勝に終わり、如水には心外な結果であったようだが、黒田家は筑前五十二万三千石の大大名となる。
栄姫は、黒田家にあっては、ねね姫と呼ばれていたらしいが、三男(四男とも)二女を儲けていることからも、長政に可愛がられ、また太守の内室として敬愛された生涯を送っている。
また、先妻の一人娘菊姫も、重臣に嫁がせている。
栄姫が三十歳を過ぎた頃であろうか、大坂の陣が始まる頃に江戸に移り、後はずっと黒田家の江戸屋敷で過ごした。
栄姫三十九歳の頃、夫長政が病没し、出家して大涼院を名乗った。家督は嫡男忠之が継いだ。
この後は、波乱の前半生を思えば、まことに穏やかな日々であったらしく、残されている資料も少ない。
没年は、寛永十二年(1635)三月一日、享年五十一歳であった。
( 完 )