流れ出でん うき名にしばし 淀むかな
求めぬ袖の 淵はあれども
作者 相模
( No.1395 巻第十五 恋歌五 )
ながれいでん うきなにしばし よどむかな
もとめぬそでの ふちはあれども
* 作者 相模は、平安時代後期の歌人。生没年は不詳であるが( 998 - 1061 )という説がある。没年は1061年より後と考えられ、享年は六十四歳前後と推定される。
* 歌意は、「 流れ出るであろう 辛い浮名を思うと 身を投げることもしばし ためらわれます 尋ね求めもしない 袖の悲しみという淵はあるのですが 」といった内容でしょうか。作者は、恋多い女性と評されることもある情熱的な人であったようなので、経験をベースにしている部分は当然あるとしても、むしろ、技巧的なものが強く感じられる気がする。
この歌は、本歌取りといわれる手法が用いられている点からも、その感が強い。
因みに、本歌は、「 涙川身投ぐばかりの淵はあれど 氷解けねば行く方もなし (後撰和歌集・読人しらず) 」とされる。
* 相模の出生や家系は、なかなか興味深い。実父は不詳であるが、養父は源頼光である。頼光は摂津源氏の勇猛な武士で、酒呑童子退治などの伝説の主でもある。母は、能登守慶滋保章(ヨシシゲノヤスアキ)の娘であるが、保章の父は、陰陽家の賀茂忠行で安倍晴明の師とされる人物なのである。
父(養父)方、母方共に現在までも伝えられている人物であるが、陰陽師はもちろん武士の地位もあまり高くない時代であり、相模が育った社会的環境は中級貴族といったものであったと推定できる。
* 相模の初名は乙侍従(オトジジュウ)である。十代の頃、橘則長(タチバナノノリナガ・橘則光と清少納言の子)の妻となるが離別。その後、1020年頃までに、後に従四位下にまで上る大江公資と結婚、夫の任地である相模国に下ったことから、「相模」と呼ばれるようになった。しかし、この結婚も1025年頃に破綻している。
この頃に、藤原公任の長男で歌人としても知られた中納言藤原定頼と恋愛関係にあったらしい。時間的に、いわゆる不倫のようにも見えるが、むしろ、大江公資の結婚より藤原定頼との関係の方が早かったらしい。
いずれにしても、華やかな異性関係が想像される。
* やがて、一条天皇の第一皇女脩子内親王(シュウシナイシンノウ)に仕えた。1049年に脩子内親王薨去の後には、御朱雀天皇の第三皇女である祐子内親王に仕えた。
脩子内親王の母は、藤原道隆の娘で一条天皇の中宮定子で、清少納言などが仕えていた。祐子内親王の祖母は、同じく一条天皇の中宮彰子で紫式部などが仕えていた。彰子の父は、道隆の弟である道長で、藤原氏の絶頂期を築いた人物である。
道隆から道長へと朝廷権力が移り行き、定子の悲哀と彰子の繁栄が渦巻く中、絢爛豪華な平安王朝文化は輝きを増すが、ここでも、相模は歴史の語り部になれるかのような立場に身を置いていたのである。
もっとも、私たちは、定子と彰子が対立していたかのように考えがちであるが、脩子内親王は彰子の厚い庇護を受けていたようである。
* このように、相模の生きた背景に広がる歴史には興味が尽きないのである。相模が残した多くの和歌にも、そうしたものが強く反映されているのではないかと推測するのであるが、次の機会に譲りたい。
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