運命紀行
南海の彼方に
元暦元年三月。南海の海は穏やかに晴れわたっていた。
空の色も、日の出直後の朱の色は消えて、海の色より薄い水色に白い雲がここかしこにかかっている。
早起きの漁師たちの小舟はすでにそれぞれの漁場に向かった後らしく、幾つかの小舟が浮かんでいるのが見えるばかりである。
岩陰に繋ぎ止めていた小舟は、打ち寄せるさざ波に小さくふるえ、主が乗り込むのを待ち構えていた。
供する者もなく、積み込む荷物さえ僅かなものであった。
首から掛けた大ぶりの数珠を強く握りしめた後、維盛は小舟に乗り込んだ。
用意されていた竿を使って、船を押しだした。小岩の間を船べりを打ちつけながらも抜け切ると、もう竿が役立たない深さである。竿を収め、おぼつかない手つきで櫓を取った。にわか覚えの技ではあるが、小舟は揺れながらも沖に向かった。
懸命に櫓を漕ぎ、海岸から離れたことを確認すると、昨夜までの心の揺らめきは消えていた。
何もかもを覚悟しきったわけでもなく、いわんや悟りきったつもりもない。ただ、引き返そうという気持ちは露ほどもなかった。
この先遥か、それがどれほどの先なのかは分からないが、補陀楽の地を目指すだけである。ただひたすらに、南海の果て、観自在菩薩が御座すいう浄土を目指すだけである。
* * *
平維盛(タイラノコレモリ)は、重盛の長子として誕生した。重盛は清盛の嫡男であるので、維盛は平氏の棟梁となるべき立場の人物といえる。
その姿かたちは美しく、数多いる平氏の公達たちの中でも抜きん出た存在であった。若くして左近衛少将となるが、その容貌の見事さに人々は、『桜梅の少将』と名付けたという。
また、舞の名手としても知られていて、その将来は洋々としていた。
武家平氏の嫡男が舞の名手といえば、いかにも軟弱な青年を連想してしまうが、決してそういうことではない。
清盛により築き上げられた権勢はその頂点にあり、それと共に平氏一族は急速に貴族化しつつあった。貴族社会において重視されるものは、武技ではなく、詩歌や雅楽や舞などであった。上流貴族の仲間入りを果たしつつある平氏にとって、舞の名手であることは、弓の名手に勝るともいえた。
しかし、絵に描いたような公達維盛に、不運が襲いかかる。
その最初は、父重盛の死去であった。清盛の後継者の地位にあった重盛の四十二歳での死は、維盛の不運というばかりでなく、平氏一族にとって大きな打撃であった。
折から平氏のあまりの繁栄に対する風当たりも強くなってきており、後白河法皇との軋轢も増していた。
そして、ついに源三位頼政の反乱をきっかけに各地で源氏の蜂起が始まった。
源頼朝の大軍と対峙した富士川の合戦では、維盛は平氏軍の総大将を命じられた。本来なら、父重盛が就くべき役目であるが、清盛はその後継者としての立場を明らかにする意味もあって、まだ二十三歳の維盛を総大将としたのである。
この戦いは、後に「水鳥の羽音に驚いて平氏軍は敗走した」と伝えられる大敗を喫した。
これにより、維盛は武将としての評価を落としたが、翌年の墨俣の合戦では源行家(新宮十郎行家)軍を破り面目を保った。
その結果、木曽義仲討伐軍の大将に命じられたが、倶利伽羅峠で義仲の奇襲を受け惨敗した。これにより、維盛は武将としては無能という烙印を押されてしまったのである。
時代は、『舞の名手』より『弓の名手』を求めるようになっていたのである。
この後は、後継者の地位は重盛の弟宗盛に移っていくが、清盛の死により平氏の衰運は明らかになって行った。
都を追われた平氏勢力は、九州で体勢を立て直し、兵庫一の谷まで進出したが、ここで源義経軍に敗れ、四国屋島に逃れた。
維盛もきらびやかな戦装束で奔走していたが、一族の中での居場所を失ってしまっていた。武士の家に生まれ、人並み以上の武技は身に着けていた。しかし、戦いの中で自分の存在感を示すことが出来ず、示すことの価値を見出すことも出来ていなかった。
悶々と悩みながら、各地を転戦し、その多くは負け戦で逃げることだった。何のための戦いなのか、何のための命乞いなのか分からなくなっていた。
ついに、維盛は脱出を決意した。一族の中で居場所がなくなり、戦いの中でその意味が分からなくなったうえは、消え去るしかなかった。
屋島の陣営を密かに脱出し、高野山を目指した。漠然とではあるが、今の苦しみから逃れる方法は出家しかないという思いがあった。
都に残している妻子のことが何度も思い浮かび、決断を遅らせてきていたが、今はもう迷いを振り払うことが出来ていた。一日も早く、仏の力を借りて自らが浄土に至り、妻子をそこで迎えることだと思い定めていた。
僅かな縁を頼り、高野山から熊野の寺社や山野を巡り歩いた。
旅の終わりは、南海を望む小さな漁村であった。西方に阿弥陀仏が御座す浄土があり、南海の遥か彼方には観自在菩薩が御座す浄土があるという・・・。
平氏一門が、幼帝と共に壇ノ浦に身を投じるのは、維盛が小舟で南海の彼方に向かった一年ほど後のことである。
維盛もまた、生まれてくる時を少しばかり誤った一人なのかもしれない。
( 完 )
南海の彼方に
元暦元年三月。南海の海は穏やかに晴れわたっていた。
空の色も、日の出直後の朱の色は消えて、海の色より薄い水色に白い雲がここかしこにかかっている。
早起きの漁師たちの小舟はすでにそれぞれの漁場に向かった後らしく、幾つかの小舟が浮かんでいるのが見えるばかりである。
岩陰に繋ぎ止めていた小舟は、打ち寄せるさざ波に小さくふるえ、主が乗り込むのを待ち構えていた。
供する者もなく、積み込む荷物さえ僅かなものであった。
首から掛けた大ぶりの数珠を強く握りしめた後、維盛は小舟に乗り込んだ。
用意されていた竿を使って、船を押しだした。小岩の間を船べりを打ちつけながらも抜け切ると、もう竿が役立たない深さである。竿を収め、おぼつかない手つきで櫓を取った。にわか覚えの技ではあるが、小舟は揺れながらも沖に向かった。
懸命に櫓を漕ぎ、海岸から離れたことを確認すると、昨夜までの心の揺らめきは消えていた。
何もかもを覚悟しきったわけでもなく、いわんや悟りきったつもりもない。ただ、引き返そうという気持ちは露ほどもなかった。
この先遥か、それがどれほどの先なのかは分からないが、補陀楽の地を目指すだけである。ただひたすらに、南海の果て、観自在菩薩が御座すいう浄土を目指すだけである。
* * *
平維盛(タイラノコレモリ)は、重盛の長子として誕生した。重盛は清盛の嫡男であるので、維盛は平氏の棟梁となるべき立場の人物といえる。
その姿かたちは美しく、数多いる平氏の公達たちの中でも抜きん出た存在であった。若くして左近衛少将となるが、その容貌の見事さに人々は、『桜梅の少将』と名付けたという。
また、舞の名手としても知られていて、その将来は洋々としていた。
武家平氏の嫡男が舞の名手といえば、いかにも軟弱な青年を連想してしまうが、決してそういうことではない。
清盛により築き上げられた権勢はその頂点にあり、それと共に平氏一族は急速に貴族化しつつあった。貴族社会において重視されるものは、武技ではなく、詩歌や雅楽や舞などであった。上流貴族の仲間入りを果たしつつある平氏にとって、舞の名手であることは、弓の名手に勝るともいえた。
しかし、絵に描いたような公達維盛に、不運が襲いかかる。
その最初は、父重盛の死去であった。清盛の後継者の地位にあった重盛の四十二歳での死は、維盛の不運というばかりでなく、平氏一族にとって大きな打撃であった。
折から平氏のあまりの繁栄に対する風当たりも強くなってきており、後白河法皇との軋轢も増していた。
そして、ついに源三位頼政の反乱をきっかけに各地で源氏の蜂起が始まった。
源頼朝の大軍と対峙した富士川の合戦では、維盛は平氏軍の総大将を命じられた。本来なら、父重盛が就くべき役目であるが、清盛はその後継者としての立場を明らかにする意味もあって、まだ二十三歳の維盛を総大将としたのである。
この戦いは、後に「水鳥の羽音に驚いて平氏軍は敗走した」と伝えられる大敗を喫した。
これにより、維盛は武将としての評価を落としたが、翌年の墨俣の合戦では源行家(新宮十郎行家)軍を破り面目を保った。
その結果、木曽義仲討伐軍の大将に命じられたが、倶利伽羅峠で義仲の奇襲を受け惨敗した。これにより、維盛は武将としては無能という烙印を押されてしまったのである。
時代は、『舞の名手』より『弓の名手』を求めるようになっていたのである。
この後は、後継者の地位は重盛の弟宗盛に移っていくが、清盛の死により平氏の衰運は明らかになって行った。
都を追われた平氏勢力は、九州で体勢を立て直し、兵庫一の谷まで進出したが、ここで源義経軍に敗れ、四国屋島に逃れた。
維盛もきらびやかな戦装束で奔走していたが、一族の中での居場所を失ってしまっていた。武士の家に生まれ、人並み以上の武技は身に着けていた。しかし、戦いの中で自分の存在感を示すことが出来ず、示すことの価値を見出すことも出来ていなかった。
悶々と悩みながら、各地を転戦し、その多くは負け戦で逃げることだった。何のための戦いなのか、何のための命乞いなのか分からなくなっていた。
ついに、維盛は脱出を決意した。一族の中で居場所がなくなり、戦いの中でその意味が分からなくなったうえは、消え去るしかなかった。
屋島の陣営を密かに脱出し、高野山を目指した。漠然とではあるが、今の苦しみから逃れる方法は出家しかないという思いがあった。
都に残している妻子のことが何度も思い浮かび、決断を遅らせてきていたが、今はもう迷いを振り払うことが出来ていた。一日も早く、仏の力を借りて自らが浄土に至り、妻子をそこで迎えることだと思い定めていた。
僅かな縁を頼り、高野山から熊野の寺社や山野を巡り歩いた。
旅の終わりは、南海を望む小さな漁村であった。西方に阿弥陀仏が御座す浄土があり、南海の遥か彼方には観自在菩薩が御座す浄土があるという・・・。
平氏一門が、幼帝と共に壇ノ浦に身を投じるのは、維盛が小舟で南海の彼方に向かった一年ほど後のことである。
維盛もまた、生まれてくる時を少しばかり誤った一人なのかもしれない。
( 完 )