雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  南海の彼方に

2011-09-28 08:00:41 | 運命紀行
       運命紀行

          南海の彼方に


元暦元年三月。南海の海は穏やかに晴れわたっていた。
空の色も、日の出直後の朱の色は消えて、海の色より薄い水色に白い雲がここかしこにかかっている。
早起きの漁師たちの小舟はすでにそれぞれの漁場に向かった後らしく、幾つかの小舟が浮かんでいるのが見えるばかりである。

岩陰に繋ぎ止めていた小舟は、打ち寄せるさざ波に小さくふるえ、主が乗り込むのを待ち構えていた。
供する者もなく、積み込む荷物さえ僅かなものであった。
首から掛けた大ぶりの数珠を強く握りしめた後、維盛は小舟に乗り込んだ。
用意されていた竿を使って、船を押しだした。小岩の間を船べりを打ちつけながらも抜け切ると、もう竿が役立たない深さである。竿を収め、おぼつかない手つきで櫓を取った。にわか覚えの技ではあるが、小舟は揺れながらも沖に向かった。

懸命に櫓を漕ぎ、海岸から離れたことを確認すると、昨夜までの心の揺らめきは消えていた。
何もかもを覚悟しきったわけでもなく、いわんや悟りきったつもりもない。ただ、引き返そうという気持ちは露ほどもなかった。
この先遥か、それがどれほどの先なのかは分からないが、補陀楽の地を目指すだけである。ただひたすらに、南海の果て、観自在菩薩が御座すいう浄土を目指すだけである。


     * * *

平維盛(タイラノコレモリ)は、重盛の長子として誕生した。重盛は清盛の嫡男であるので、維盛は平氏の棟梁となるべき立場の人物といえる。
その姿かたちは美しく、数多いる平氏の公達たちの中でも抜きん出た存在であった。若くして左近衛少将となるが、その容貌の見事さに人々は、『桜梅の少将』と名付けたという。
また、舞の名手としても知られていて、その将来は洋々としていた。

武家平氏の嫡男が舞の名手といえば、いかにも軟弱な青年を連想してしまうが、決してそういうことではない。
清盛により築き上げられた権勢はその頂点にあり、それと共に平氏一族は急速に貴族化しつつあった。貴族社会において重視されるものは、武技ではなく、詩歌や雅楽や舞などであった。上流貴族の仲間入りを果たしつつある平氏にとって、舞の名手であることは、弓の名手に勝るともいえた。

しかし、絵に描いたような公達維盛に、不運が襲いかかる。
その最初は、父重盛の死去であった。清盛の後継者の地位にあった重盛の四十二歳での死は、維盛の不運というばかりでなく、平氏一族にとって大きな打撃であった。
折から平氏のあまりの繁栄に対する風当たりも強くなってきており、後白河法皇との軋轢も増していた。
そして、ついに源三位頼政の反乱をきっかけに各地で源氏の蜂起が始まった。

源頼朝の大軍と対峙した富士川の合戦では、維盛は平氏軍の総大将を命じられた。本来なら、父重盛が就くべき役目であるが、清盛はその後継者としての立場を明らかにする意味もあって、まだ二十三歳の維盛を総大将としたのである。
この戦いは、後に「水鳥の羽音に驚いて平氏軍は敗走した」と伝えられる大敗を喫した。
これにより、維盛は武将としての評価を落としたが、翌年の墨俣の合戦では源行家(新宮十郎行家)軍を破り面目を保った。

その結果、木曽義仲討伐軍の大将に命じられたが、倶利伽羅峠で義仲の奇襲を受け惨敗した。これにより、維盛は武将としては無能という烙印を押されてしまったのである。
時代は、『舞の名手』より『弓の名手』を求めるようになっていたのである。
この後は、後継者の地位は重盛の弟宗盛に移っていくが、清盛の死により平氏の衰運は明らかになって行った。

都を追われた平氏勢力は、九州で体勢を立て直し、兵庫一の谷まで進出したが、ここで源義経軍に敗れ、四国屋島に逃れた。
維盛もきらびやかな戦装束で奔走していたが、一族の中での居場所を失ってしまっていた。武士の家に生まれ、人並み以上の武技は身に着けていた。しかし、戦いの中で自分の存在感を示すことが出来ず、示すことの価値を見出すことも出来ていなかった。
悶々と悩みながら、各地を転戦し、その多くは負け戦で逃げることだった。何のための戦いなのか、何のための命乞いなのか分からなくなっていた。

ついに、維盛は脱出を決意した。一族の中で居場所がなくなり、戦いの中でその意味が分からなくなったうえは、消え去るしかなかった。
屋島の陣営を密かに脱出し、高野山を目指した。漠然とではあるが、今の苦しみから逃れる方法は出家しかないという思いがあった。
都に残している妻子のことが何度も思い浮かび、決断を遅らせてきていたが、今はもう迷いを振り払うことが出来ていた。一日も早く、仏の力を借りて自らが浄土に至り、妻子をそこで迎えることだと思い定めていた。

僅かな縁を頼り、高野山から熊野の寺社や山野を巡り歩いた。
旅の終わりは、南海を望む小さな漁村であった。西方に阿弥陀仏が御座す浄土があり、南海の遥か彼方には観自在菩薩が御座す浄土があるという・・・。

平氏一門が、幼帝と共に壇ノ浦に身を投じるのは、維盛が小舟で南海の彼方に向かった一年ほど後のことである。
維盛もまた、生まれてくる時を少しばかり誤った一人なのかもしれない。

                                       ( 完 )
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運命紀行  君が袖振る

2011-09-22 08:00:16 | 運命紀行
       運命紀行

          君が袖振る


宴席は最高潮に達していた。
即位したばかりの天智天皇が数多の群臣を率いて、ここ蒲生野の御料地で行われた遊猟は壮大なものであった。
新天皇を取り巻く人々は意気軒昂に語り、歌い、かつ酔い痴れていた。

やがて、指名されたのか立ち上がったのは額田姫王であった。
この時、姫王は三十八歳になっていたが、その容貌はさらに輝きを増していた。
姫王が立ちあがると、あれほどのざわめきが潮が引くかのように静まり、貴人たちも武者たちも手にしていた盃をそっと卓に置いた。
姫王は、朗々と歌い始めた。


『あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖振る』

一瞬の静寂の後、人々は立ち上がり、再び盃を掲げ、やんやと歓声がこだました。
そして、これもまた、武者たちに押し出されたように立ち上がったのは、皇太子となった大海人皇子であった。皇子は、少しばかりの戸惑いの後、やや低いがよく通る声で歌いあげた。

『紫の匂へる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも』

皇子の歌い終わった後には、姫王の時よりさらに長い沈黙があった。
そして人々は、先ほどよりもさらに大きい歓声をあげた。
天皇もすぐ近くの席にあったが、松明の明かりの陰となっていて、その表情は定かに見えなかった・・・。


     * * *

「日本書紀」天武天皇の条に、
『天皇、初め鏡王の女(ムスメ)額田姫王(ヌカタノオホキミ)を娶して、十市皇女(トヲチノヒメミコ)を生(ナ)しませり』と、記されている。
若き日の大海人皇子と額田姫王は結ばれ、やはり歴史の重要な一頁を歩くことになる十市皇女が誕生した。二人が十七歳の頃であろうか。

姫王の父は、鏡王という豪族であることから、姫王は宮廷に生まれ育った女性ではなく、おそらく、「采女」として宮廷に送り込まれたと考えられる。
「采女(ウネメ)」というのは、地方豪族の娘で容姿端麗なものから選ばれたもので、天皇の身の回りの世話などを担当したが、その身分は低い。
額田姫王の歴史に伝えられる部分を見る限り、とても「采女」という低い身分とは考えられないが、「額田部姫王」と記されている文献からすれば、出雲系豪族で祭祀に関わりの深い一族の出身者とも考えられる。

神事や祭祀に仕える女性は特別の立場にあり、歌謡は祭祀と密接な関係にあることから、姫王はその道に特に優れた女性であったと考えられる。
わが国の飛鳥と呼ばれる時代における最大のヒロインは、厚い謎のヴェールに包まれている女性であるが、その出身の背景を理解する必要があるかもしれない。

さて、若き二人が結ばれたのは、大化の改新といわれる政変後間もない頃ではなかったか。
その頃、中大兄皇子は皇太子の地位にあったが、弟の大海人皇子は皇族の一人に過ぎず、額田姫王は宮廷に出仕して二、三年が過ぎた頃で、天皇の側近く仕える女官として、それも祭祀や歌謡という特別に地位にあったと考えられ、一皇族が簡単に近づける存在ではなかったのではないか。
そう考えると、この二人の関係は禁断の恋ともいえるものではなかったのか。

やがて二人は別れ、そして、やがて額田姫王は中大兄皇太子と結ばれるのである。十市皇女誕生から十年ほど後のことであろうか。
それぞれの間にどのようなことがあったのか・・・。
中大兄が皇太子として台頭著しく、略奪に近い行為があったとしても当時の大海人に抗する力はなかったという推論も成り立つが、姫王が天智天皇となった中大兄を慕う歌が残されていることをみれば、きっかけはともかく、相思相愛の関係にあった時期があることは確かであろう。

そして、あの有名な額田姫王と大海人皇子の相聞歌が披露されたのは、姫王が中大兄の想い人となってから十年ほど後のことである。
『紫草の白い花が夕映えに染まってる御料地(標野)の中で、薬草を摘んでいる私に袖を振るなんて、野守が見ていますわ』と姫王が意味深長な歌で呼びかければ、
『可憐な紫草が匂い立つようなあなたを、もし憎いと思っているのであれば、人妻となってしまった今も恋しいはずがない』と、大海人も意味深長な歌を返す。

この遊猟後の宴席は、天智天皇即位直後のことであり、大海人も皇太子の地位に着いた直後の頃であり、少なくとも表面的には、両者は蜜月期であった。
群臣数多が参加している宴席であり、天皇も近くにいる中で、二人が相聞歌を交わすとは常識的には考えられず、戯れ歌の部類だという考え方もある。一方で、戯れ歌に見せかけながらも、引き離された愛を必死に確かめ合ってる切ない相聞歌なのだという意見も根強い。
額田姫王をめぐる三角関係が、壬申の乱の主因だという意見さえもある。
ただ、大海人皇子さえが人妻と認識していた額田姫王は、天智天皇の妃としては、公式文書のどこにも記されていない。

やがて、天智天皇が崩じ、後を継いだ近江の大友皇子と吉野に籠った大海人皇子が衝突、壬申の乱である。
吉野軍が勝利し、やがて天武天皇の誕生となる。
近江軍が敗れた時、額田姫王と大友皇子(弘文天皇)の妻となっていた十市皇女は吉野軍に保護され、後は天武天皇の庇護のもとで過ごすことになる。

額田姫王は、六十余歳頃まで存命していたらしい。晩年の頃の消息は少ないが、波乱に満ちた前半生に比べ、穏やかなものであったらしい。
飛鳥と呼ばれる時代には、ロマンあふれる人物が数多く登場する。しかし、やはり、最も鮮やかな光を放っているのは、謎多きこの姫王ではないだろうか。


                                     ( 完 )
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運命紀行  雪原の戦い

2011-09-16 08:00:59 | 運命紀行
       運命紀行

          雪原の戦い


降り続いていた雪は止んでいた。
東の空が微かな朱の色を生みだしていた。やがて、その色は、次第に広がりを見せ、空を水色に変えていきつつあった。千切られたような雲が北から南へ流れていたが、雪の気配はなかった。

軍勢は、すでに体制を整え終えていた。
数百の騎馬武者と数千の徒武者や農民兵たちは、出陣の合図を待ちかねていた。
騎馬武者たちの中から、二人の武者が進み出た。
一人は、この軍勢の御大将、八幡太郎義家その人であった。そして、今一人は、清原一族の一方の旗頭である清原清衡であった。

向かう相手は、秋から包囲している金沢柵に立て籠もる清原家衡、同じく武衡らの一党である。
戦力的には圧倒的に優勢な義家軍であるが、その主力部隊は関東からの遠征部隊であった。地の利の不利があり、何よりも寒さと雪という自然の障害が敵に味方していた。
数か月に及ぶ戦いと包囲網の中で、敵軍の糧食は不足し、戦意が落ちてきているのは明らかだが、味方も奥羽の厳しい寒さに倒れる者が出てきており、大雪に見舞われると糧食の心配もされ始めていた。
持久戦の限界が来ており、決戦の時は今しかなかった。

義家は、長刀を大きく振りかざした。
鯨波の声は禁じられていたが、低い声が沸き起こり、数十の騎馬武者と数百の徒武者からなる第一陣が出立した。
世に、後三年の役と呼ばれる戦いの最後の合戦が始まろうとしていた。


     * * *

清和天皇の第六皇子を祖とする清和源氏が、武家としての存在が広く知られるようになった発端は、おそらく河内源氏の棟梁と位置付けされる源頼信ではなかったか。それ以前にも、多田満仲や源頼光など武勇で名を残す人物が登場しているが、朝廷の組織下にある武威の域を大きく出ていなかった。
長元元年(1028)南関東で起きた平忠常の乱において、頼信は甲斐守に任じられ忠常追討の命を受けた。この三年にも及んだ戦乱は、ほとんど戦うこともなく忠常が降伏したようであるが、これにより頼信の武将としての名は高まり、特に関東への足がかりを作ったと考えられる。

そして、頼信の嫡男頼義は、永承六年(1051)陸奥守に任じられ、さらに鎮守府将軍を兼ね、奥羽の豪族安倍一族の制圧に向かった。いわゆる前九年の役である。
この勝利により、頼義の武勇は広く知られるところとなり、源氏を武士集団として強く印象付けたことになる。特に、関東や奥羽における武将としての名声を得たのである。
石清水八幡宮の申し子と噂される源義家は、この頼義の嫡男である。

義家は、幼くしてその武勇は抜きん出ていたが、父と共に戦った前九年の役でその存在感は関東奥羽はもちろん、京においても広く認知されることになった。
この戦いが終息をみた頃、義家は二十四歳頃と考えられるが、武人としてはすでに伝説的な存在に達していた。その武技は衆人に勝り、特に弓矢を持てば百発放って的を外すことがなかったという。
敵将安倍貞任との伝説が生まれたのもこの頃のことである。

衣川の戦いにおいて、敗走する安倍貞任を追った義家が、射程距離内に捉えた貞任に向かって、『衣のたては綻びにけり』と大声で呼びかけると、
貞任は『年を経し糸のみだれのくるしさに』と、上の句を返したという。
義家は、乱戦の中にあってもなお和歌をたしなむ奥床しさに感じて、矢を収めて引き返したという。
少々出来すぎた説話ではあるが。

さて、後三年の役最後の戦いは、義家が支援する清衡の圧勝により終わる。
この戦いは、清原一族の跡目争いといえる戦いであった。
清衡は、藤原の血を引く旦理(ワタリ)経清と安倍一族の棟梁である頼時の娘との子供である。経清は、前九年の役では安倍軍の参謀役として働き、戦いは敗れ貞任らと共に処刑された。嫡男である清衡も殺害される運命にあったが、母が清衡を連れて敵将清原武貞に嫁すことで一命を助けられたのである。
この戦いの敗将となった家衡は、清衡の母と武貞の間に生まれた子であり、二人は異父同母の兄弟であった。

この戦いの結果、八幡太郎義家の武名はさらに高まった。しかし、それは、白河院を中心とする朝廷に警戒感を与えることになり、義家の晩年を苦境へと導くことになる。
しかし、その一方で、源氏の武威は万民の知る所となり、特に関東奥羽における源氏の影響力を強めたことは確かである。その後紆余曲折を経るとしても、やがて源頼朝を登場させる下地になったと考えることもできる。
そして今一つ、源義家という強大な勢力を得た清衡は、その後藤原氏を名乗り奥州藤原氏の繁栄を築くのであるが、彼にとってこの戦を抜きに後の繁栄はなかったことであろう。

今日なお多くの伝説を残す英雄八幡太郎義家と、絢爛豪華な一時代を築く藤原清衡が、雪原の中を轡を並べて戦ったのは、何か大きな意思が働いてのものであったのか、それとも、単なる歴史の気まぐれに過ぎなかったのか・・・。
                                     ( 完 )

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運命紀行 ・ 花も花なれ人も人なれ

2011-09-10 08:00:32 | 運命紀行
       運命紀行        

           花も花なれ人も人なれ


戦乱の気配は高まっていた。
それは、留守を預かる細川屋敷にも伝わってきていたが、ついに正室に大坂城に入る旨の要請があった。
申し出は拒絶したが、それで穏便に収まるはずもなかった。

すでに屋敷は石田勢に囲まれている気配があり、やがて力ずくでも、たまを拘引するつもりなのであろう。
すでに下男たちには暇を与え、嫡男忠隆の正室も侍女らとともに隣接する浮田屋敷に逃していた。手配に滞りはなく、迎えるべき時はやってきていた。

たまは身を正し、家老小笠原秀清にその命を委ねた。
秀清は、薙刀を構え、凛々しくも哀しい麗人の最後に涙した・・・。  

『散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ』


     * * * 

細川ガラシャとして知られるたま(玉とも珠とも)は、永禄六年(1563)、明智光秀の次女として生まれた。見目麗しく聡明であったと伝えられている。
十五歳の頃、細川幽斎の嫡男忠興に嫁いだ。織田信長の仲介によるものであった。
二人の仲は睦まじく、結婚間もなく次々に子宝にも恵まれ、幸せな日々が続いた。

しかし、天正十年六月、父光秀による本能寺の変が勃発、たまは「逆臣の娘」という立場に追いやられてしまった。
細川家はその処置に苦慮したが、忠興はたまを見限ることは出来ず、さりとて新しい権力者の逆鱗に触れることも懸念され、丹後の奥深い山里に幽閉したのである。
その期間は一年半ほどにも及んだろうか、鬱々たるたまを支えたのは侍女たちであったが、彼女らを通じてキリシタンの教えを知り、それもまた心の支えとなったと考えられる。

天正十二年三月、秀吉の勧めもあって、たまは夫忠興のもとに戻ることが出来、再び幸せな日が戻ったかに見えた。
すぐに子供も生まれ、表面的には幸せな家庭であったが、たまの心の中にはキリシタンの教えが宿っていた。そして、夫忠興が、秀吉の島津討伐に従って九州に出陣している間に、密かに洗礼を受け、「ガラシャ」(神の恵み)という洗礼名を得た。
しかし運悪く、秀吉は九州平定を終えると、突然「伴天連追放令」を発し、各大名にキリシタンとなることを厳しく禁じた。
大坂に凱旋した忠興は、侍女たちにキリシタンがいることを知るとこれを厳しく罰し、追放してしまった。たまは、その事実を夫に知られることはなかったが、その心を閉じた辛い日々を送ることになった。

やがて、秀吉が死に、豊臣政権と徳川家康の対立は激しさを増していった。
そして、慶長五年(1600)七月、家康が上杉討伐のために大坂を離れると、石田三成を中心とした大坂方の動きが激しくなり、家康と共に行動している大名たちの妻女を人質に取る行動に出たのである。

大坂の細川屋敷を預っていた家老小笠原秀清は、主君の正室たまの死を見届けると、かねて用意の火薬に点火し、自らも自刃して果てた。
家康に従っている大名の妻女たちの多くは脱出を果たしていたが、細川たまの壮烈な最期を知った三成は、人質を取る作戦をあきらめ、この事件を知った従軍していた秀吉恩顧の大名たちは、大坂方の非情を恨み徳川に味方することを誓い合った。

美貌にも聡明さにも恵まれ、さらに伴侶や子供たちにも恵まれた女性は、事の是非はともかくも、反逆者の娘という烙印を押されることになり、さらに心の支えとなったキリシタンの教えは心の奥に秘さねばならず、最後はその教えに従って家老の力を得て次の世に旅立って行った。
しかし、その三十八歳での死は、やがて開戦する関ヶ原の戦いに少なからぬ影響を与え、彼女の子供たちは、細川の名を後々までも伝えていっている。

                                  ( 完 )
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運命紀行  われこそは新島守よ

2011-09-04 08:00:11 | 運命紀行
       運命紀行       

           われこそは新島守よ


隠岐は絶海の孤島である。
都を追われ、伯耆の国でさえ地の果てまで行くのかと思われたが、さらに海上を行くこと十余里だとか・・・。

七月の日本海は、嵐さえなければ最も穏やかな季節といえる。
しかし、都の、それも禁裏の奥深くにあった上皇にとっては、白波の立つ日本海は、怒涛逆巻く荒海としか見えなかった。
洋上遥か、目指す島影は、緑の塊にしか見えず、人間の生きる場所とは想像すら出来なかった。

ようやく辿り着いた島には、船をつける湊があり、村人たちが集まり、島役人らしい姿も見える。
しかし、降り立った孤島は、荒々しい岩肌と、それらを隠そうとするかのような緑と、まばらな松林と、僅かな荒屋しか見えず、聞こえてくるものは、海鳴りにも似た波濤の叫ぶ声と、むせび泣くような松籟の音ばかりであった・・・

『われこそは新島守よ沖の海の 荒き波風こころして吹け』
     


     * * *

後鳥羽上皇は、高倉天皇の第四皇子で、安徳天皇の異母弟にあたる。
源氏に追われ、平氏一族とともに壇ノ浦に身を投じた安徳天皇の後継として、四歳で即位した。後鳥羽天皇の誕生である。
時の天皇勢力の中心人物は後白河法皇。全盛を誇った平氏を滅亡させたものの、取って代わろうとする源氏との争いに明け暮れた人物である。

後鳥羽天皇が天皇としての実権を得るのは、建久三年に後白河法皇が死去したのちのことと考えられるが、この時で十三歳であり実質的な政権運営は九条兼実ら貴族が中心であったと考えられる。
建久九年(1198)、第一皇子の土御門天皇に譲位、上皇となり、院政を始めた。十九歳の頃のことである。
後白河法皇が平氏打倒を目指し、後鳥羽上皇が源氏政権打倒を目指したことは、天皇に政治権力を集中させようとする必死の戦いであったとはいえる。しかし、さらに大きく時代の流れを見た時、天皇を中心とする公家政治は、すでに全国土を掌握することなど出来なくなっていて、武家政治へと変わる流れは鮮明になっていた。

承久の乱と呼ばれる事変は承久三年(1221)五月に勃発した。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府討伐の兵を挙げ、執権北条義時追討の院宣を発した。上皇には、鎌倉幕府三代将軍源実朝が暗殺され、後継者問題の難航など弱体化しているとの判断もあり、畿内や近国の武士を結集し自らの院宣を発すれば、幕府打倒も可能との判断があったのであろう。
しかし戦いは、あっという間に決着した。上皇方の完敗である。
事変終息とともに幕府方は厳しい処断を実施した。
後鳥羽上皇の隠岐配流ばかりでなく、順徳上皇は佐渡へ配流、土御門上皇も自ら土佐へと移った。

『われこそは新島守(ニイジマモリ)よ』とうそぶいた上皇は、この島で悶々とした日を送った。都の便りは届けられたものかどうか、自ら檄を飛ばす機会はあったのかどうか・・・。
事態の好転を持ちわびる日々は十八年にも及んだが、ついに生きて都の土を踏むことはなかった。
そして、後鳥羽上皇自らが起こしたこの事変こそが、公家政治から武家政治への移行を鮮明に示したものであったのは、歴史の必然であったのか、運命のいたずらであったのか・・・。

『身の憂さを嘆くあまりの夕暮に 問ふも悲しき磯の松風』

                                  ( 完 )
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