まだ朝早い時間、散歩途中で見かけるお家があります。若いお母さんと、三、四歳ぐらいの女の子と、お母さんに抱っこされた子供さんの三人が、勤めに出かけるお父さんをお見送りしている姿に時々出合います。
その家は最近新築されたものですし、私もいつも通るわけではありませんので、いつも見ているわけではないのですが、おそらく、そのお家では当然の日課のように見受けられ、実に微笑ましい気がしていました。
先日、そういう姿を見ながら、おじゃまにならないようにそっと通り過ぎようとした時、「オハヨウゴザイマス」という、元気な幼い声がかけられました。お父さんのお見送りが終わった後の女の子から声をかけられたのです。私も、ほとんど反射的に、「おはようございます」と返事を返しました。私の言葉に女の子は手を振ってこたえてくれて、子供を抱いた若いお母さんもニコニコしながら頭を下げてくれました。
この出来事だけで、私はこの日一日中豊かな気持ちで過ごすことが出来ました。
「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」「「ありがとうございます」等々、日本語には実に優しい語感の言葉がたくさんあります。
西欧の人たちにとって、日本語はかなり難解な言語だそうですが、これらの言葉などは、比較的簡単に覚えてくれるようですし、カタコトで話す姿は実に微笑ましいものです。
これは何も日本語に限ったことではなく、世界中に幾つの言語があるのか知りませんが、おそらく、そのほとんどの言語において、いわゆる「挨拶」などで使われる言葉は、発音しやすく、語感が優しく、親しまれやすいものではないでしょうか。そして、そうである理由は、大小にかかわらず、およそ集団で生活する人々にとって、顔を合わせた時に交わす何気ない挨拶が家族やその集団を運営するうえで重要であることを物語っているように思われるのです。
挨拶に限りませんが、文字にすればごく短く表現できる程度の一言が、大きな変化を生み出すことを、私たちは最近の報道で嫌というほど知ることが出来ました。今年になって話題になった、それも悪評を生み出した幾つかの言葉は、どれも、決して「何気なく」ではなく、その人の処世観や品格が生みだしたものだと思うのですが、実に怖ろしいものです。
たった一言で情勢が大きく変化したことは、何も昨今になって顕著になったことではなく、古来多くの逸話も残されています。しかし、最近の情報の伝わる速さや広さは、半端なものではありません。中には、悪意に編集されたようなものでさえ、ある人やある企画の致命傷となることも珍しいことではありません。
社会の表舞台に立つような立場の人はもちろんのこと、ごく普通の日常生活に追われている人にとっても、不用意な言葉遣いというものは慎みたいものです。
そのためには、「おはようございます」としっかりとした挨拶ができるということが、そのスタートではないでしょうか。
( 2017.11.03 )