雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語 第十八部

2018-05-11 17:15:54 | 小さな小さな物語 第十八部
     小さな小さな物語  第十八部

          No.1021 から No.1080 まで収録しています
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小さな小さな物語  目次

2018-05-11 17:13:37 | 小さな小さな物語 第十八部
          小さな小さな物語  目次

     No.1021  おはようございます
        1022  えこひいき
        1023  適所はどこか
        1024  損得勘定
        1025  2対8の是非
 


        1026  508億円でどうぞ
        1027  新古今和歌集を学ぶ
        1028  時々間違う
        1029  ささやかな季節感
        1030  軽重を問う


        1031  目には目を歯には歯を
        1032  スーパームーン
        1033  冬限定の星 カノープス
        1034  正義はどちら
        1035  世界で羽ばたく  


        1036  鶏が先か卵が先か
        1037  談合は今も健在
        1038  ジングルベルも除夜の鐘も
        1039  雲泥の差
        1040  今を生きる
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おはようございます ・ 小さな小さな物語 ( 1021 )

2018-05-11 17:12:40 | 小さな小さな物語 第十八部
まだ朝早い時間、散歩途中で見かけるお家があります。若いお母さんと、三、四歳ぐらいの女の子と、お母さんに抱っこされた子供さんの三人が、勤めに出かけるお父さんをお見送りしている姿に時々出合います。
その家は最近新築されたものですし、私もいつも通るわけではありませんので、いつも見ているわけではないのですが、おそらく、そのお家では当然の日課のように見受けられ、実に微笑ましい気がしていました。

先日、そういう姿を見ながら、おじゃまにならないようにそっと通り過ぎようとした時、「オハヨウゴザイマス」という、元気な幼い声がかけられました。お父さんのお見送りが終わった後の女の子から声をかけられたのです。私も、ほとんど反射的に、「おはようございます」と返事を返しました。私の言葉に女の子は手を振ってこたえてくれて、子供を抱いた若いお母さんもニコニコしながら頭を下げてくれました。
この出来事だけで、私はこの日一日中豊かな気持ちで過ごすことが出来ました。

「おはようございます」「こんにちは」「さようなら」「「ありがとうございます」等々、日本語には実に優しい語感の言葉がたくさんあります。
西欧の人たちにとって、日本語はかなり難解な言語だそうですが、これらの言葉などは、比較的簡単に覚えてくれるようですし、カタコトで話す姿は実に微笑ましいものです。
これは何も日本語に限ったことではなく、世界中に幾つの言語があるのか知りませんが、おそらく、そのほとんどの言語において、いわゆる「挨拶」などで使われる言葉は、発音しやすく、語感が優しく、親しまれやすいものではないでしょうか。そして、そうである理由は、大小にかかわらず、およそ集団で生活する人々にとって、顔を合わせた時に交わす何気ない挨拶が家族やその集団を運営するうえで重要であることを物語っているように思われるのです。

挨拶に限りませんが、文字にすればごく短く表現できる程度の一言が、大きな変化を生み出すことを、私たちは最近の報道で嫌というほど知ることが出来ました。今年になって話題になった、それも悪評を生み出した幾つかの言葉は、どれも、決して「何気なく」ではなく、その人の処世観や品格が生みだしたものだと思うのですが、実に怖ろしいものです。
たった一言で情勢が大きく変化したことは、何も昨今になって顕著になったことではなく、古来多くの逸話も残されています。しかし、最近の情報の伝わる速さや広さは、半端なものではありません。中には、悪意に編集されたようなものでさえ、ある人やある企画の致命傷となることも珍しいことではありません。
社会の表舞台に立つような立場の人はもちろんのこと、ごく普通の日常生活に追われている人にとっても、不用意な言葉遣いというものは慎みたいものです。
そのためには、「おはようございます」としっかりとした挨拶ができるということが、そのスタートではないでしょうか。

( 2017.11.03 )
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えこひいき ・ 小さな小さな物語 ( 1022 )

2018-05-11 17:11:20 | 小さな小さな物語 第十八部
トランプ米大統領を迎えて日本中が沸いています。東京を中心とした警備体制は大変なもののようです。
昨今は、世界のリーダーとしての地位が低下していると言われる米国ですし、特にトランプ大統領に対しては、世界のリーダーとして何かと非難されることが多いようですが、わが国にとって重要な国であることに間違いないでしょう。
好き嫌いや、主義主張はともかくとして、第二次世界大戦に敗れてからのわが国の歴史を考えれば、経済・防衛面を中心に、大きな支えとなってくれてきたことは否定できないのではないでしょうか。

トランプ大統領就任以来、少なくとも表面的には、わが国と米国との関係は近年で最も良好なのではないでしょうか。もちろん、トランプ大統領はアメリカ・ファーストが大統領選挙当時から歯に衣着せぬ激しい言動で主張し続けていますし、わが国の安倍首相とても日本の利益を模索してくれていることでしょうから、腹の内にはそれぞれの打算もあるのかもしれませんが、少なくともわが国にとっては、米国を敵に回しての繁栄は難しいのではないでしょうか。
そう考えれば、大統領に先立って来日されたトランプ大統領の長女であり、大統領補佐官でもあるイバンカさんへの歓迎ぶりは異例というほどの歓待ぶりでした。安倍首相がつきっきりというほどの接待ぶりで、美人だからというだけの理由ではなく、大統領への影響力が最も強い人物だという情報は本当なのかもしれません。

イバンカさんに関する報道の中で、インタビューを受けた女性が、「えこひいき(依怙贔屓)だ」という感想を述べていました。
阿倍首相などの歓待ぶりが「えこひいきだ」と指摘しているのかと思ったのですが、そうではなく、神さまが「えこひいきだ」と言うのです。つまり、神さまは、イバンカさんには何もかも与えている、というのです。
なるほど、と変に感心してしまいました。
この宇宙が、ビックバンによって誕生し、無の状態から現在もなお膨張を続けているとされるこの宇宙が誕生したとするならば、宇宙に存在しているすべての物の総和は「無」すなわち「ゼロ」のはずだと私は思っているのですが、その前提に立てば、良いことがあれば悪いことが起こり、プラスがあればマイナスがあるという考えを、私は持っています。
確かに、イバンカさんの颯爽たる姿を見ていますと、もしかすると神さまの「えこひいき」の仕業によるもので、その分割負けしている人がいるのかもしれないと思ったりしてしまいました。

今年は、何かと「忖度(そんたく)」という言葉に振り回された感があります。それは、現時点でもなお尾を引いているようです。
しかし、考えてみれば、忖度などといえば何か別次元のような勘違いをしてしまいそうですが、要は、「えこひいき」があったかなかったかということを、明確な根拠を示せないためなのか、もっと他に理由があるのか知りませんが、問題の首謀者の「えこひいき」という代わりに、弱い立場の者の「忖度」ということで言葉を濁しているような気がしないでもありません。
まあ、インタビューに答えていた女性の考えが正しいとすれば、神さまでさえ「えこひいき」をするのですから、人間ごときが、程度の差はあれ、「えこひいき」をしないはずがないと思われます。

( 2017.11.06 )
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適所はどこか ・ 小さな小さな物語 ( 1023 )

2018-05-11 17:09:33 | 小さな小さな物語 第十八部
衆議院選挙が終わり、米大統領の来日という大行事が無事に終わり、政治的な日程としては大きな山を越えた感じがします。
間もなく臨時国会が開かれ、激しい論戦が予想されるそうですが、どんな課題が焦点になるのか知らないのですが、どんな問題が注目を浴びるとしても、その結果は大体想像できそうな気がします。
今回は、内閣に変化がなく、国会の要職もほとんど変化がありませんが、大臣などはこれからが国会デビューといった状態でしょうから、答弁などを通じて、これまでと同様に、質問にしろ答弁にしろ、見ていて恥ずかしくなるような場面が見られるのではないでしょうか。

今回は、大臣再任にあたってあまり報道がなされませんでしたが、看板通りの仕事をしてくれるよう期待したいと思います。
ただ、当初就任した時点でも、どうしてこの人がこの役職に就いたのかと首をひねるような人もいたようです。それは、何も第三者が無責任に発言しているばかりでなく、ご本人自ら発言されている人もいるらしいのですから、私たちはどう考えればいいのでしょうか。
そう考えれば、「適材適所」などと簡単に口にしますが、なかなか難しいことのようです。

「適材適所」という言葉は、日本の寺社や家屋の建築において、材木をいかに有効に配するかということから生まれた言葉のようです。わが国の木材資源は多様で、檜・杉・松・栗・桐など実に種類が多く、それぞれの材質の特長を生かすことが重要であり、古くは、生えている木の形をそのまま適所に配するといった手法も多く用いられていました。
現在では、「適材適所」といえば、人材をそれぞれ適した場所や業務に配置することとして使われることが殆どです。それぞれの人が、最も得意としている分野に配置するということは、一見、合理的で素晴らしいことのように思われますが、本当はどうでしょうか。
ある人物の適所というものが、そうそう簡単に見極めることなど出来るのでしょうか。

首相が大臣を任命するにあたっては、「適材適所」という考え方も有効なのでしょうが、実はこの手法には、人材の育成という面で窮屈さを感じさせる面があるように思うのです。
特に、まだ成長過程にある子供や青年にとっては、片寄った人材を育ててしまう可能性が懸念されるのではないでしょうか。人間の得意分野などという物は、そうそう簡単に見極められるものではなく、相当の試行錯誤が必要なのではないでしょうか。保護者にも指導者にも、さらに本人にさえ気が付かなかった才能が眠っていたという事例は、決して少なくないはずです。
この考え方が正しいのであれば、国会においても、立派な人材を育てるためには、もたもたしている大臣に対して、適材適所云々などという非難は控えめにして、しばらくの間は、成長過程にあるものと考えて、温かく見守る必要があるのではないでしょうか。

( 2017.11.09 )
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損得勘定 ・ 小さな小さな物語 ( 1024 )

2018-05-11 17:08:02 | 小さな小さな物語 第十八部
トランプ米大統領のわが国を最初の訪問国としたアジア歴訪は連日多くの話題を提供しています。
首相をはじめわが国挙げての歓迎ぶりは、両国間の紐帯をさらに強めたという声は高く、今回の米大統領の訪朝はわが国にとって利益が大きかったという声も小さくないようです。一方のトランプ大統領も、声は大きくなかったものの、貿易収支などの面では少なくない成果があったともいわれ、それ以上に米国内向けには、存在感を高めるのに役立ったという声もあります。

次に訪れた韓国においては、外野席から見ている限り、両国間の関係は何とも複雑なものを感じました。
それぞれの立場を相当抑制しているようにも見えますし、それでいて最も強固な同盟関係であるべき立場を演出しているように見えてしまうのは、無責任な立場からの見方なのでしょうね。そして、この国においても、結局はどちらが得をしたのかといった論調を展開している新聞も見受けられました。
その次の中国においては、両国トップの腹の探り合いと、この国においては、米大統領は貿易収支の改善を就任以前から声高に訴えていただけに、その交渉は大いに注目されるところでした。
また、この三国訪問においては、北朝鮮問題も大きな課題であったと思われますが、報道される以外の所で、どのような交渉なり合意があったのか、大変気になるところです。

トランプ大統領は実業家出身の大統領であるだけに、何かにおいて損得計算で物事を判断しているかのように報道されることがあるようです。
しかし、考えてみれば、必死に算盤をはじいていたのは、大統領を迎えた側ではないのでしょうか。
外交という物は、自国の利益追求の場であると考えれば、互いの利害をギリギリのところで競り合うのは当然だともいえますが、国家の運営が、特に超大国とか、そこまで行かなくても先進国と評されるような国家においては、すべて自国の利益だけで動くことは、多くの国を窮地に押しやる可能性があるように思われます。

まあ、天下国家のことはともかく、私たちの日常を考えてみた場合、その多くの場面で「損得勘定」を働かせているような気がするのです。
こちらを取った方が何万円得だとか、こうした方がたとえ少しでも得になるとか、直接金銭面で有利になるならないといった場面はそう多くないかもしれませんが、もっと心理的な面、情緒的な面なども含めて、無意識のうちに「損得勘定」を働かせているのではないでしょうか。そして、そういう判断が出来ることが大人ということなのかもしれないような気もします。
同時に、そういう「損得勘定」に縛られたような思考回路に私たちは疲れを感じることがあるのかもしれません。
旅をしてみたいとか、映画や演劇を観てみたいとか、猫や犬と遊ぶことに安らぎを感じたり・・・、これらは、「損得勘定」に縛られた神経が悲鳴をあげている兆候なのかもしれません。
私たちは、時には、「損得勘定」から私たちの神経を解き放ってやる必要があるように思うのです。

( 2017.11.12 )
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2対8の是非 ・ 小さな小さな物語 ( 1025 )

2018-05-11 17:06:20 | 小さな小さな物語 第十八部
与野党の質問時間の配分をどうするかで、もめているようです。
国会での質疑時間のことですが、野党側はこれまで通りの「与党2・野党8」を主張し、与党側は「与党5・野党5」を要求しているようで、激しく対立しています。
本稿を書いている時点ではまだ決着していないようですが、国会が始まっても質疑が行われないわけにはいかないので、どこかで決着するのでしょうが、この問題はなかなか奥が深く、とりあえずはどこかで決着させるとしても、もっと幅広い議論が必要な気がします。

この質問時間の与野党配分については法的な根拠がないそうで、これまでに何度も変更されているようです。
野党側の言い分としては、議院内閣制の下では、「政府=与党」であるから、法案などの立案される過程で与党の意見は反映されるので、国会においては、政府提案に対しては野党が質問すべきである、というのが大きな根拠としているようです。また、現在の「2対8」という配分は、自民党が野党時代に主張し実現させたもので、今になって変更を申し出るのは横暴すぎる。といった主張が中心のようです。
一方の与党側は、特に若手議員からは、野党議員に対して与党議員の質問機会が圧倒的に少ないため、活躍している(活躍しているらしい?)姿を世間に見てもらう機会が少ない、というのが理由の一つです。中には、国会質問そのものが、議員に等しく機会が与えられるべきと主張していて、現状であれば、7割近くの時間を与党に配分すべきだと主張している人もいるようです。もっとも、野党の厳しい追及を少しでも避けるために有効と考えているはずだ、という解説者もいるようです。

これらの意見のいずれも正しいような気がします。
しかし、現在の「2対8」に近い配分を続ければ、自民党で一期ぐらい議員を勤めても、一度も質問に立てない人はざらでしょうが、数人の議員しかいない党であれば、与えられる時間は短いとしても、何度もチャンスがあるかもしれません。質問に立つことも国会議員の権利の一つだとすれば、不公平であることは確かでしょう。
一方で、過去の与党議員の質問の中には、ヨイショを絵に描いたようなものや、罰当たりな講釈を述べた議員がいたりで、これ以上時間が増えるのは勘弁して欲しい気がします。
かと言って、野党側の質問がどれも立派かと言えば、報道される部分だけでもレベルを疑いたくなるものも少なくないようです。例えば、絶叫や口汚さが強さだとでも勘違いしているらしいものや、入試試験のような質問をしてみたり、ネタ元が週刊誌らしいことが見え見えのものなども度々目にします。
時間配分については、国会討議が重要だと考える議員が増えれば増えるほど、与野党間のつばぜり合いが続くことでしょう。要は、まともで真剣な質疑が展開することが大切なはずです。

私たちの日常においても、配分という問題は重要なことが多く、時には深刻な問題となり、長年の人間関係を壊すことも少なくないようです。
かつて、ある先輩から交渉術について教えを受けたことがあります。「交渉においては、<4対6>や<3対7>の状態を作って、そのうちの6や7を取るような交渉をしてはいけない。もしそれが成功しても、そのような取引や人間関係は長く続かないし、いつかは見破られるし、いつまでも続くようなら、そんな無能な相手とは早く関係を切った方が良い。理想は、10のうち5.2か5.3を手中にするのが巧みな交渉術といえる。ウインウインの関係だとか、五分五分の取引などというが、本気でそんなことを考えている人は、ごくごく少数だ」といった内容でした。
何かを配分することは、まさに先輩の話と一緒で極めて難しいことでしょう。先人の知恵の中には、「黄金分割」という大発見があり、この比率に基づいた様式が最も美しいともされています。ではこの比率とはといえば、大まかな数字はちょっと調べれば分かりますが、正確な数字となれば難解です。
つまり、黄金分割を選んだ場合でも、小数点以下何桁かの所で、取るや取らないのともめるのでしょうね、人間って奴は。

( 2017.11.15 )
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508億円でどうぞ ・ 小さな小さな物語 ( 1026 )

2018-05-11 17:04:35 | 小さな小さな物語 第十八部
イタリア・ルネサンス期に活躍した、レオナルド・ダビンチがキリストを描いた油絵が、ニューヨークでの競売において4億5千万ドル(およそ508億円)で落札されました。
まあ、「それがどうした」と言われればその通りですが、いくらすごいといっても、たき火に放り込めば簡単に燃えてしまうはずの1枚の絵が、希少価値、あるいは芸術性などをどう評価したのかしりませんが、508億円とは、何ともすさまじい価格です。

ダビンチの絵画は、現存が確認されている物は20枚ほどだそうで、今回競売に掛けられたキリストの肖像画は、唯一個人所有になっていた物だそうです。
この作品は、17世紀にはイギリス国王が所有していたようですが、その後は行方不明となり、長く「幻の作品」とされていたようです。
何でも、長い沈黙の後登場した時には、100万円ほどで売買されたようで、その頃には、真贋が争われたとも言われています。その後、どのような経過を経たのでしょうか、ついに美術品市場の最高値に昇ったことになります。
買主は明らかにされていないようですが、もし個人でなければ、ダビンチの絵画の個人所有者は皆無になってしまうことになります。世界には、1兆円を超える資産を有している人がゴロゴロいるわけですから、そうした誰かが、2~3日程始末してこの絵を買っていてくれたら、唯一の個人所有の記録は続くことになります。
もっとも、それも余計なお世話ですが。

かつて、ある著名な小説家の方からお話を聞く機会がありました。そのお方は、若い頃には絵画も志していたそうで、その頃の仲間が、いずれも食べる物も削って画業に専念し、栄養失調から結核を患って有能な才能を開花させることなく若い命を散らせてしまった・・・、といった話を聞いたことがあります。その時、豪放無頼を売り物にされていたその先生が、目を潤ませていたことを覚えています。
もし、その時、先生の仲間たちの手に、この絵1枚があれば、何人の人材を育て上げることができただろうと、つい、詮無いことを考えてしまいました。

いくらすばらしいからといって、たった1枚の絵に508億円とは、と思わないでもないのですが、この世というものは、すべからくそういうものかもしれません。
現役の画家の間でも、1枚508億円の人はいないでしょうが、1枚数百万円の人はたくさんいるでしょうし、白地のままの方が高い値がつく方も少なくないのではないでしょうか。
これは、何も絵の世界だけでなく、芸術の世界だけのことでもありません。
能力や体力などに大きな差があるのだとしても、またたゆまぬ努力の結果だとしても、突出した一握りの人と、その他大勢と、そこからさえも落ちこぼれている人があることは、あらゆる分野でみられることです。
ただ、神様か仏様かは知らないのですが、そういった存在から学んだらしい先人たちは、508億円の絵はなくても、豊かに生きていく方法のヒントを伝えてくれています。
ただ、ヒントだけで、なかなか身に付かないのが難ですが・・・。

( 2017.11.18 )
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新古今和歌集を学ぶ ・ 小さな小さな物語 ( 1027 )

2018-05-11 17:03:12 | 小さな小さな物語 第十八部
今、「新古今和歌集」を勉強しています。
もっとも、勉強しているといえば大げさですが、私のことですから、何冊かの参考書を気の向くままに読んで、自分の好みを重視して歌の意味を理解しようとするのですから、遥か千年を超える昔に作られた珠玉の作品を、どの程度正しく受け取ることが出来るのか極めて疑問と言えるかもしれません。
まあ、その点には目をつむることにすれば、なかなか楽しいものです。

「新古今和歌集」は、第八番目の勅撰和歌集にあたります。
勅撰和歌集は、「古今和歌集」を第一番目として、二十一代集と呼ばれるように数多く作られていますが、「新古今和歌集」は、その八番目というわけです。私のような、興味本位で古典の和歌集を見てみようとした場合、一番著名なのは、やはり「万葉集」と思われますが、次いで「古今和歌集」そして、その次には「新古今和歌集」が候補に上がるのではないでしょうか。つまり、二十一ある勅撰和歌集の八番目という中途半端な位置にありながら、和歌集として重要な地位を占めているということになります。
「新古今和歌集」は撰進にあたって、「古今和歌集」を強く意識していたようです。選歌にあたっては、「古今和歌集」以後の勅撰和歌集に採用されている作品は除くことにされています。「万葉集」については、勅撰和歌集にあらず、と言うことで、除外の対象にはならなかったようです。その結果、もちろん、「古今和歌集」などに載っている著名な人物の歌も多く採用されていますが、かなり新鮮な感じがあります。
それともう一つ、「新古今和歌集」の歌風は、「古今和歌集」以来の感性を引き継ぎながらも、より優雅に、より抒情的に育成されたものとされています。良く言えば技巧的に優れ、悪くいう人は小手先の技巧に走っているとも評されているようですが、総じて優雅さが際立っているようにも感じられます。
そして、何よりも私にとって興味深いことは、この和歌集が誕生したのは、源平の合戦があり、その後の鎌倉幕府と天皇権力とが激しく衝突した時代であったことです。

「新古今和歌集」は後鳥羽院の勅命により誕生しました。
後鳥羽天皇は、第八十二代の天皇ですが、その前の天皇は、源平合戦の壇ノ浦の戦いでわずか八歳で入水した悲劇の幼帝安徳天皇なのです。
後鳥羽天皇は、即位したのは満年齢でいえば四歳の時なので、もちろん本人の意向など関係なく即位させられたのでしょうが、安徳天皇が崩御する半年以上前のことであり、三種の神器もない状態であったことから、何かと悪評が付きまとう部分があったようです。後鳥羽天皇が上皇となって後も朝廷権力を掌握し続けて鎌倉幕府と激しく対立したのには、即位の不明瞭さに対するコンプレックスがあったのかもしれないと思うのです。
やがて、承久の乱に敗れた後鳥羽院は隠岐の島に流され、その地で生涯を終えています。

『 われこそは 新島守よ 隠岐の海の 
            あらき波かぜ 心してふけ 』
これは、後鳥羽院の歌です。流人の身になっても、誇りも気力も旺盛な、それでいて何とも切ない歌ではないでしょうか。私はこの歌が大好きで、当ブログの『運命紀行』の中でも[われこそは 新島守よ」という作品を書かせていただいています。
「新古今和歌集」は、この激しい生涯を送った後鳥羽院の勅命によって誕生したということも、限りない興味を与えてくれているように思うのです。

( 2017.11.21 )



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時々間違う ・ 小さな小さな物語 ( 1028 )

2018-05-11 17:01:56 | 小さな小さな物語 第十八部
犯罪や不祥事が発生するたびに、関係者や組織の長たちが、「このような事が二度と起きないように規則を見直し、指導を徹底します」といった趣旨のコメントを発信する姿をよく目にします。
まあ、不本意な形で責任を問われている立場としては、このようなコメントを述べざるを得ないのでしょうが、聞いている人たちの心にどの程度響いているのでしょうか。
発信している方は誠心誠意だとしても、被害者的な立場の人はもちろん、外野席で興味本位で見ている人たちでさえ、一種の儀式のように感じているのではないでしょうか。

事件が発生した後、懸命に収束に努めている方々を揶揄するつもりではないのですが、私たちの多くは、どんな大事件であっても、「二度と起きない」などということが実現できない事を知っているのではないでしょうか。
つまり、私たちは、時々間違う動物なのであって、清廉潔癖で完璧な人間など、そうそういるものではないように思われます。もしいるとすれば、その人は人間の範疇を越えているように思うのです。
見方を変えれば、私たちはすべからく「時々間違いながら」生きており、社会を形作っているということになります。私たちは、少しでも間違いを少なくするように努力すべでありますが、間違いから派生する罰を負うのは当然としても、許し合う心も必要な気がするのです。

ところで、この「時々」という表現方法ですが、どのくらいの頻度を指しているのでしょうか。
千回に一度起きるものを「時々」とは表現しないでしょうし、十回のうち八回・九回起きる場合を「時々」と表現するのも違うように感じます。天気予報では、「晴れ時々曇り」と言う場合は、曇りが半分以下ということになるようです。また、その対象によって、時々の示す頻度は大きく変わるかもしれません。
これらを勘案して、時々を五回に一度と大胆に設定した場合、私たちは一日に何度も間違いを起こしていることになります。というのは、私たちは日常生活において、一日に無意識のうちに多くの決断をしています。起き出す時、家を出る時、道を歩いている時、等々だけでも多くの決断を必要としています。そう考えれば、私たちは一日だけでも、何度も何度も間違いを起こしていることになります。それは、最善ではないというだけの間違いが大半なのでしょうが。

少々理屈っぽくなりましたが、私たちは、社会生活を傷つけるほどの間違いは、法律や規則として定めているわけですから、無制限に間違いを起こすことが出来るわけではありませんが、可能な限り、相手の間違いには優しくありたいものです。常に小さな間違いを重ねている人の集団であっても、安定したそれなりの社会は作り上げられるものです。
追求することが正義のような国会や、このところ話題を独占している暴行事件などを見ていても、もう少し他人の間違いに優しくてもいいのではないかと思ってしまいます。
それも、所詮、人間という動物が、自分の間違いには優しく、他人の間違いには厳しいという性のなせる業なのでしょうねぇ。

( 2017.11.24 )
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