雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  百年の栄華を支える

2013-09-29 08:00:37 | 運命紀行
          運命紀行
               百年の栄華を支える


わが国の戦国時代を考える時、北条早雲という人物の存在を無視することは出来ない。
戦国時代をどの期間とするかについては、これまでにも何度も述べてきたが、その期間を応仁の乱勃発(西暦1467)から大坂夏の陣により豊臣氏が滅亡する(西暦1615)までの期間だとすれば、およそ百四十八年間ということになる。
この激動の百四十八年間のうち、北条早雲が興した後北条は五代九十七年間にわたって繁栄を続けたのである。

私たちには北条早雲という名前でよく知られているが、伊勢新九郎盛時というのが本名である。
伊勢氏は、武家平氏である桓武平氏伊勢流の名門で、室町幕府の御家人として活躍した伊勢氏の一族にあたる。
伊勢盛時が駿河国に入ったのは、文明八年(1476)に今川義忠が戦死したことから起こった今川氏の内紛に甥の今川氏親を支援するためであった。
応仁の乱も終息に近い頃で、京都の町はすでに大半が荒廃していて厭戦気分が強くなっていたが、地方各地ではなお戦闘が続けられていた。

室町幕府で強い権力を有していた一族の伊勢貞親は、応仁の乱に先立つ文正の政変により山名宗全らによって京都から追放されているので、盛時も少なからぬ影響を受けていると思われる。
盛時が駿河国の今川氏のもとに入った時は、一介の素浪人であったという物語もあるが、伊勢氏は歴とした家柄であり一介の素浪人というのは当たらないが、幕府の力を背景に今川氏の内紛を仲介しようとしたというのも正しくないようである。当時、盛時にはそれほどの権威も幕府の後ろ盾もなかったと思われるからである。

いずれにしても、盛時は甥の氏親を支援し、今川の九代当主に就かせることに成功している。氏親の母・北川殿は盛時の姉であり、桶狭間の戦いで敗れる今川義元は氏親の子である。
氏親が当主になると、北川殿という存在もあって、盛時は今川家中で存在感を高めていった。
そして、明応二年(1493)、盛時は、幕府の管領細川政元らによる足利義澄の将軍擁立に連動する形で、伊豆国に軍を進めた。堀越公方の子・足利茶々丸を義澄の母と弟の敵として討つという大義名分のもとに滅ぼし、戦国大名としての第一歩を踏み出す。
「北条早雲による伊豆討ち入り」と呼ばれる戦国時代における大きな出来事の一つである。

その後も積極的に伊豆国内を攻略して所領を固めていった。
明応四年(1495)には、大森氏から小田原城を奪って本拠地を移し、やがて、三浦半島の新井城で三浦義同討ち亡ぼして相模国全土も手中にする。
伊勢盛時、すなわち北条早雲は自ら北条を名乗ることはなかった。
北条氏を名乗るようになるのは、早雲から家督を継承した二代氏綱であるが、一般的には早雲を北条氏の初代としている。
氏綱が北条氏を名乗るについては、鎌倉幕府の執権北条氏を意識したものであるが、それは、その圧倒的な著名度へのあこがれもあるが、京都政権と距離を置いて関東の独立性を保とうとした意思もあったと考えられる。
また、その北条氏と区別することから、「後北条氏」あるいは「小田原北条氏」と呼ばれることもある。

この後、「後北条氏」は豊臣秀吉に敗れるまで五代に渡り繁栄を続けるが、そこには際立って優れていた治世が行われていたようである。
かつては風雲児と評されることの多かった北条早雲であるが、実は極めて優れた君主であり政治家であったから成し得た偉業なのであるが、それを五代の後まで継承させていく過程には、それを支えたと思われる一人の人物が浮かび上がってくるのである。
それが、早雲の弟の一人である北条幻庵宗哲なのである。


     * * *

北条宗哲は、伊勢新九郎盛時のちの北条早雲の三男(四男とも)として生まれた。母は側室と思われる善修寺殿である。幼名は菊寿丸といった。
生年は、明応二年(1493)とされているが、文亀元年(1501)説もあるようで、早雲が最も慌ただしい頃のことで、側室の子供の記録は正確でない可能性もある。
幼少のうちに箱根権現社に入り、その後継者と目されていた。大永二年(1522)から近江国三井寺上光院に移り、大永四年に同院で出家している。
このあたりの経緯をみると、文亀元年誕生の方が自然な感じもする。
この後、程なく帰国して、箱根権現社別当に就任した。

出家後は、長綱(チョウコウ)と幻庵宗哲(ゲンアンソウテツ)の二つの法名を称しているが、幻庵宗哲の方がよく知られている。
早くから仏門に入れられているが、武将としての活躍の方が目立つ。
当時は家督争いを避ける意味もあって、男児を早くに有力寺社に入れる例は多いが、幻庵宗哲の場合は、最初から箱根権現社の権威を手中にするための早雲の狙いからなのか、いざ入れてみたが幻庵宗哲の武門としての器量が際立っていたため活躍するようになったのか分からないが、おそらくその両方であったように思われる。

稀代の英雄北条早雲が没するのは、幻庵宗哲が二十七歳の頃(あるいは十九歳)である。
この頃は、まだ正式に出家する前で箱根権現社で修業の身であった。従って、父・早雲のもとで初陣を果たしたのかどうかは伝えられていない。その後、三井寺上光院に移っているが、早雲亡き後の北条家としては、周辺との戦いに多忙な時期であった。その中での近江行きを考えれば、幻庵宗哲もこの頃は武将としてはあまり期待されていなかったかに見える。

しかし、天文四年(1535)の甲斐山中合戦、翌五年の武蔵入間川合戦では、二代当主となった兄の氏綱に従って、甥の氏康(三代当主)・為昌らと共に出陣し、一軍の大将を務めている。
天文十二年の頃からは、北条氏の領国支配の諸策への参加が見られ、武蔵小机領の支配を担うなど、この後も家中の長老として後北条全五代にわたって重要な役割を担い続けたのである。
永禄二年(1559)の「北条家所領役帳」によれば、幻庵宗哲の所領は突出した一位で5457貫文である。二位の松田憲秀2798貫文を大きく引き離し、直臣約390人の総額が64250貫文であることを考えると、いかに大きな存在であったかが分かる。

後北条は、北条早雲という英傑の出現により誕生したが、二代以後も勢力圏の拡大を続けている。
三代氏康の頃には関東のほぼ全域を制圧するほどであったが、織田信長の台頭以後は、領土をめぐる争いは激しくなっていった。
それでも、信長が倒れた後に徳川家康と同盟を結んだ時点の勢力範囲は、伊豆・相模・武蔵・上野・下総・上総北半分に及び、さらに下野・駿河・甲斐・常陸の一部も領有していた。加えて安房の里見氏も勢力下にある状態で、全盛期の版図は二百四十万石に及び、十万の軍勢を動員することが出来たという。

その強力な軍事力は、本城と支城が連携する体制を構築し、さらには枝城、端城と呼ばれるものが本城支城を守るなど、まるで近代の大艦隊のような軍事体制を構築していた。支城の数は主なものだけでも数十に及び、全城数を示す資料を見つけることが出来ないほどである。
各支城は、単に軍事的な任務を担うだけでなく、一定地域の内政なども司り、まるで幕藩体制の小型版といえる領国支配を行っていたのである。
また、後北条氏は、民政面でも極めて優れていて、直轄地では当時としては画期的ともいえる四公六民の善政を敷いていた。

後北条五代百年の栄華を長いとみるか短いとみるかは意見の分かれるところであろうが、激しい時代を強大な勢力を保ち続けた今一つの要因は、家督が極めて円滑に引き継がれたことである。
家督相続にあたっては正室を重んじることが徹底されていて、他家によく見られる廃嫡騒動やそれに伴う家臣団の派閥争いがほとんど見られなかったのである。
どの大名家においても、家督相続が野放図だったわけではないが、約束事が守られていくことは容易なことではない。そこには、一族を取り纏め、嫡系を護り抜く有力な人物を必要としたことは間違いあるまい。
後北条には、家中最大の所領を得ており、しかも創業者早雲の弟という血統と文武に優れた北条幻庵宗哲という人物が全五代に渡って睨みを利かせていたのである。

後北条氏は、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めにより滅亡した。
隠居していた四代氏政とその弟氏照は実質的な指揮者として切腹となるが、当主の氏直は助命されて高野山に流された。これには繋がりの深かった徳川家康の取り成しがあったとも伝えられている。
謹慎処分とはいえ氏直には、大名並の一万石の賄い料が与えられ、遠からず国持ち大名として再封という話もあったらしい。しかし、氏直は翌年に病死し、後北条の嫡系は絶えたのである。

氏直には子がなかったため叔父の氏規が家督を継ぎ、後に許されて河内国狭山で七千石を拝領、その子の氏盛も下野国内に四千石が与えられた。氏規の死後、氏盛は父の遺領と共に一万一千石の大名として、河内狭山藩を興し、紆余曲折はあるも江戸時代を生き抜いている。
また、家康が天下を取ると、縁故ある数家が旗本などとして再興されている。有名な大岡越前守忠相もその流れをくむ。
そして、徳川幕府は、軍政において武田氏から多くのものを受け継いでいるように、民政面では後北条から受け継いだものも少なくないのである。

幻庵宗哲は、嫡男が早世、二男が戦死などの苦難を受けながら、天正十三年(1585)に嫡孫である氏隆が成人すると家督を譲り隠居している。
その後の動静については伝えられていないので、高齢でもあり一線から完全に離れていたらしい。
そして、天正十七年一月、小田原落城の前年に没している。享年は九十七歳(八十九歳とも)。
幻庵宗哲が小田原の落城を見る前に亡くなったのは幸せだったともいえるが、もし健在な時に豊臣軍を迎えていれば、果たして戦況はどうであったのかなどと考えるのだが、所詮、詮ないことではある。

                                     ( 完 )

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一朝の夢 ・ 心の花園 ( 48 )

2013-09-20 08:00:02 | 心の花園
          心の花園 ( 48 ) 
               一朝の夢

今日は、心の花園の「むくげ」の花を紹介しましょう。
漢字で書くと「木槿」と大変難しい字になりますが、これは中国での名前をそのまま使ったからのようです。

夏の初めから初秋にかけてまで、厳しい暑さの中で、次々と可憐な花をつけてくれる「むくげ」は、実に逞しい花でもあります。
原産地はインド・中国あたり。中近東にも自生しているようです。わが国には、奈良時代にはおそらく朝鮮半島を経てでしょうが入ってきており、一部の地域では自生しています。
園芸種は、数多く生み出されています。花色は、白・濃紅・薄紅・濃紫・青紫などがあり、花弁も一重・八重・半八重とあり、種類は多彩です。

「槿花(キンカ)一朝の夢」と歌われるように、次々と咲く花は夕方にはしぼんでしまうことから、その儚さが人々の心に訴えるのでしょう。
おとなり韓国の国花にも定められていますが、逞しくて、そしていじらしいところが多くの人に好まれるのでしょう。
園芸種は、だいたい3~4メートルまでに選定されますが、本来は10メートルにまでなる高木なのです。また、一日で閉じてしまう花は一日花として紹介されていますが、本当は翌日もまた開くそうで、一重のもので2~3日、八重のものは一週間以上も咲いているそうです。

「むくげ」の花言葉は、「信念」「慈しみ」「ゆかしさ」などいくつもの花言葉が紹介されています。そして、そのいずれもが、とても優しさを感じさせるもののようです。
たとえひとときでも、「むくげ」の花に心を委ねてみてはいかがでしょうか。 
        
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運命紀行  見守り続けて

2013-09-17 08:00:59 | 運命紀行
          運命紀行
               見守り続けて

応仁の乱の勃発をもって戦国時代の幕開けという考え方は、ほぼ定着しているように思われる。
応仁元年(1467)に勃発した大乱は、この後十一年も続くことになるが、当然のことながら、その前兆ともいえる動きはもっと前からあった。
足利将軍家の後継問題に加え、管領家の畠山氏・斯波氏の家督争いが激しさを増し、公卿や有力守護たちが複雑に絡み合い、それがついに応仁元年に爆発してしまったということなのである。

この応仁元年六月、後花園上皇が戦乱の勃発の責任を感じて出家を決意されたという記録がある。
応仁の乱といえば、管領家の家督争いを主因とし、そこに足利将軍家の後継問題も絡んでいたと考えてしまうことが多いが、実は、その争いの責任を天皇家が重く受け取っていたということも事実なのである。
時の天皇は、三年前に践祚を受けた後土御門天皇でこの時二十六歳であった。年齢からすれば立派な青年天皇ではあるが、この時代は父であり上皇である後花園院こそが天皇家の最高権力者だったのである。
この頃、天皇家は、南北朝以来の激しい後継争いがようやく収束していた。その苦心の時代を三十六年もの間天皇位にあり、ようやくわが子・後土御門に皇位を譲ることが出来た安心感も束の間で、京都の大半を灰燼に帰す大乱発生となってしまったのである。

後花園天皇は、第百二代の天皇であるが、神武天皇までも遡らないとしても、例えば、第二十六代の継体天皇以後の継承を見れば、何の問題もない継承の方がむしろ少ないように見える。しかしながら、第九十六代の後醍醐天皇から後花園天皇に至る継承を見れば、天皇家にとって難しい時代であったことが窺われる。
後醍醐天皇の即位は、西暦1318年であり、後花園天皇の即位(践祚)は西暦1428年である。この百十年の間に、両天皇を除いて、南北朝合わせて十人の天皇が即位されているのである。
皇位交代については、さらに短い期間で交替がなされた時代もあるが、この期間は、朝廷が南北に分かれるという特異な期間であった。

南北朝が合一することによって北朝と呼ばれる京都朝廷が存続することになるが、その京都朝廷にとっては、この期間の皇位継承はまことに厳しい状況が続いていたのである。
大まかに言えば、南朝と北朝とが対立していた時代全体を見れば、軍事力を中心に圧倒的に北朝が優位にあったといえる。しかし、その優位性の裏付けは、足利将軍家の力に支えられていたからである。南朝に対しては有利にあったとしても、足利政権の圧迫を受けながら皇統を守り続けていたのである。
そう考えた時、幼くして天皇となり三十六年間に渡り皇位を守り続けた後花園天皇の存在は極めて大きな意味を持ってくる。
そして、持明院統の正統の血を引く王族とはいえ、本来皇位とは遠い存在と思われていた彦仁王(後花園)を守り育てた生母、源幸子の存在も、歴史上極めて大きな意味を持っていると思われるのである。

     * * *


源幸子(ミナモトノユキコ)は、明徳三年(1390)四月に誕生した。南北朝が百余年にわたる抗争に終止符を打つ二年ばかり前のことである。初名は経子で、幸子と名乗るのはずっと後年のことであるが、本稿では幸子で通す。また、源は本姓で通常は庭田氏を名乗っていた。
父は庭田経有。庭田氏は宇多源氏の流れを引く堂上源氏で、家格は大臣家に次ぐ羽林家である。母も同じく羽林家の家格である飛鳥井氏の娘で、幸子は上流貴族の姫として育った。

やがて、伏見宮貞成親王のもとに出仕するが、その時期はよく分からない。
女房名は二条局といったが、これもいつの頃からか分からないが貞成親王の寵愛を受けるようになり、最初の姫が二十七歳の時に生まれている。そして、三十歳の時に後の後花園天皇となる彦仁王を生んでいる。この他にも一男四女を儲けており、全部で二男五女に恵まれている。
幸子は貞成親王の正妻ではなかったようであるが、貞成には正妻の記録がなく、実質的には正妻の立場にあったと思われる。
ここまでの経過を見れば、幸子は親王家の恵まれた麗夫人として生きたかに見えるが、現実はかなり違う。その最大の理由は、夫である貞成親王の生涯が波乱に満ち過ぎていたからである。

貞成親王は、応安五年(1372)、伏見宮栄仁親王の次男として誕生した。幸子より十八歳年上ということになる。栄仁親王は北朝第三代崇光天皇の皇子であり、今上天皇(北朝の)と極めて近い関係にありながら何故か貞成は、親王宣下どころか、親王家の御子としても扱われなかったようなのである。
幼くして今出川家で育てられ、共に左大臣に昇る今出川公直・公行親子が養親になっている。
貞成が父の栄仁親王に迎え入れられたのは、応永十八年(1411)のことで、すでに四十歳になっていた。この時、伏見御所で元服し、貞成と名乗るのもこれ以降のことである。

晴れて伏見宮の一員になった貞成王だが、五年後の応永二十三年(1416)に父・栄仁親王が死去、跡を継いだ兄の治仁王も翌年死去するという不幸が続いた。
ここに、つい数年前までは想像さえしていなかった伏見宮三代当主に就いたのである。しかし、治仁王の死があまりに急であったため毒殺の噂が流れ、貞成王は辛い立場に置かれたようである。この嫌疑は、時の治天の君後小松上皇と第四代将軍足利義持から安堵を受けることで晴らすことが出来たのである。
この慌ただしい期間を、幸子は夫を支え、次々誕生した子供たちの養育に励み、皇族や将軍家や公卿家との親交に務めたことと思われるが、その消息を伝える物は極めて少ない。しかし、貞成王や嫡男の彦仁王に対して、後小松上皇や足利将軍家が好意的であったと窺われるのは、北朝の正統という家柄もさることながら、幸子の内助の功も働いていたと想像できるのである。

その一方で、北朝の正統の家柄ということは、当人の意向に関わらず、天皇やその側近たちからは危険視されることも多かったようである。
応永二十五年、貞成王が伏見宮三代当主として落ち着きを見せかけた頃、事件が発生している。称光天皇に仕える女房が懐妊したが、貞成王との密通が疑われるという騒動が発生したのである。この時も足利将軍義持が中に入り、貞成王が起請文を差し出すことで決着を図っている。
さらに、称光天皇が一時危篤状態になった時、次期天皇の有力候補と目され、応永三十二年(1425)四月に親王宣下を受けている。これにより五十四歳にして貞成親王誕生となったが、ほどなく天皇は病状が回復、この経緯を知った称光天皇が激怒したため、三か月後には出家に追い込まれたのである。

正長元年(1428)七月、再び称光天皇が重体に陥ると、第六代将軍足利義政は、貞成親王の嫡男彦仁王を支持して、後小松上皇に新帝の指名を強く求めたのである。
南北朝が合体して三十六年が経っていたが、未だ南朝方の残党が不穏な動きを続けていて、後南朝と呼ばれることになる反抗勢力は、この後も三十年ばかりも続くのである。
足利将軍家としては、後小松天皇の直系が途絶えるとなると、空白期間を作ることなく北朝正統の天皇を即位させる必要があり、彦仁王以外に選択肢はなかったのである。

父の波乱をそのまま体験していたわけではないが、激しい運命に求められるままに、まだ十歳の彦仁王は後花園天皇として践祚されたのである。。即位は翌永享元年(1429)であるが、この後三十六年間にわたって皇位にあり、天皇の地位の安定を取り戻したのである。
後小松上皇存命の最初の五年程は上皇が実権を握っていたと思われるが、上皇の薨去時でもまだ十五歳であり、政治的にはともかく、精神的には父・貞成親王や母・源幸子の存在を大きな支えにしたことは当然のことと考えられる。

幸子は、後花園天皇が践祚を受けてから二十年後の文安五年(1448)に五十九歳で没した。夫の貞成親王の死去はさらに八年後のことである。
幸子が没した時には、後花園天皇は三十歳に達していて、堂々たる天皇に成長していたことであろう。時代は応仁の乱に向かう激しい時代であり、後南朝という朝廷に真っ向から抵抗を示す勢力も存在していた。そしてその後は、百年以上も続くことになる戦国時代が待っていたのである。
この激しい時代の中、後花園天皇は三十六年間皇位にあり、譲位を受けた第一皇子である後土御門天皇も同じく三十六年間皇位を守っている。

幸子が育てた子供たちは、長男彦仁は後花園天皇となって皇位を守り、次男貞常は伏見宮を継ぎ世襲親王家として後世まで皇室を守り続けているのである。五人の姫たちもそれぞれ有力寺院に入っている。
なお、世襲親王家とは、江戸時代において、当今天皇との血統の遠近に関わらず代々親王家の宣下を受ける四家を指している。その四家は、伏見宮・桂宮・有栖川宮・閑院宮であるが、伏見宮が最も旧い。

源幸子は、嫡男が後花園天皇となった後には官位を授かり、准三后の宣下を受けている。死の直前には敷政(フセイ)門院という院号宣下まで受けている。
しかし、おそらく幸子は、幼帝後花園を母親として懸命に支えただけで、敷政門院という名前ほどに政治に関わったつもりなどなかったと考えられる。ひたすらに、ただひたすらに子供たちを守り続けただけという気持ちだったのではないだろうか。
しかし、その結果として、戦国の世を迎える難しい時代の皇室を守った女性として、今少し注目されるべきだと思うのである。

                                      ( 完 )





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運命紀行  戦国大名登場

2013-09-11 08:00:24 | 運命紀行
          運命紀行
               戦国大名登場

戦国大名の定義を、戦国時代に登場してきた大名のうち、守護職から大名化したものではなく、いわゆる下剋上といわれるような武力をもって守護職などの権力者を倒して領国を築き上げて大名となった者とした場合、最初に登場してきた戦国大名とは、いったい誰なのか。

戦国時代の始まりを応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱とするならば、その登場は、この年以降ということになる。この大乱は、京都を中心として展開されたが、その広がりは関東から中国地方にまで及んでおり、それを考えるとこの戦に関わっている人物から最初の戦国大名が登場してきたと考えられる。
応仁の乱の両軍は、京都における本陣の位置から東軍・西軍と呼ばれることになるが、双方の大将である細川勝元と山名宗全の両雄は、共に数カ国の守護職を兼ねる人物であり、いわゆる守護大名であり、戦国期に入って大名化したわけではない。

東西両陣営には各国・各家の有力武士団が軍勢を引き連れて京都に上っているが、先に述べたように東西というのは領国の位置を示しているわけではないので、ほぼ全国の豪族たちが繁栄と生き残りをかけて参戦しており、一族一門が両陣営に分かれている例も多数見られる。
それら豪族たちの多くは、いわゆる守護大名であるが、その中には守護代や代官などが守護職の権限を振り払って、あるいは打倒して、大きく勢力を伸ばした者も少なくない。そのような人物こそが、いわゆる戦国大名と呼ばれる存在になって行ったのである。
そして、その中で最も早く、最も目覚ましい勢いで強大な勢力を築き上げた者、すなわち、最初の戦国大名とみられる人物は、朝倉弾正左衛門尉孝景ではないだろうか。

朝倉孝景(アサクラタカカゲ)は、越前朝倉氏の第七代当主である。なお第十代当主も孝景を名乗っているが、本稿では、孝景とは第七代当主である弾正左衛門尉孝景を指すものとご了解いただきたい。また、その名乗りも、何度も変えているようであるが、年代に関わらず孝景とさせていただく。
さらに、この孝景を越前朝倉氏の初代とする考え方も根強いことも記しておく。

朝倉氏の祖先は、日下部氏の嫡流とされている。
日下部氏は、源平の時代以前から但馬国を拠点とする大武士団として繁栄していた。朝倉氏は、但馬国養父郡朝倉(現在の兵庫県養父市)を本拠地としたから朝倉氏を名乗ることになったが、日下部氏の嫡流である。
越前朝倉氏はその支流にあたる豪族として越前に一定の勢力を有するようになっていった。そして、南北朝時代を経て、越前国守護である斯波氏の重臣となり勢力を強めていった。

孝景の生年は応永三十五年(1428)である。
南北朝の合一が実現してから三十五年ほど経った頃で、室町幕府としては比較的落ち着いた時代ともいえるが、その内部では、将軍家内部や各管領家や有力守護間の勢力争いは激化しつつあり、さらには管領家を始めとした家内の家督争いが多発してきていて、応仁の乱へと向かう時代でもあった。
孝景は、二十四歳の時に父・家景を亡くしたが、第五代当主であった祖父・教景が健在であったので、その補佐も受け大きく飛躍してゆくことになる。

長祿二年(1458)に始まった越前国守護斯波義敏と守護代甲斐常治の合戦では、孝景は守護代側に与し、その主戦力として働いている。
長祿三年八月の足羽郡和田荘の戦いでは、守護側の堀江利真(義兄・姉の夫)、朝倉将景(叔父であり妻の夫)らを敗死させ、守護代側を勝利に導いている。
越前国における孝景の存在感は高まって行ったが、このあたりの戦いは、骨肉相食むまさに下剋上と呼ばれるに相応しい凄まじいものであった。
さらに、守護代側の当事者である甲斐常治が和田荘での戦いの翌日に亡くなったため、孝景は一方の大将格になってしまった。

さらに、相手側の斯波義敏が関東出兵をめぐって将軍足利義政の怒りを受け、まだ三歳の嫡男松王丸に守護職を譲って、周防国に没落するという事件が出来した。
しかし、三歳で守護職が務まるわけもなく、寛正二年(1461)八月、足利氏庶流である堀越公方足利政和の執事である渋川義鏡の子息、斯波義廉が斯波氏の家督を奪った。

この交替劇には、孝景も山名宗全と組んで動いたという説もある。
ただこの頃は、孝景は甲斐常治の嫡子・甲斐敏光と共に、同じく斯波氏が守護職の地位にあった遠江国に、今川範将の起こした一揆を鎮圧するため相当期間出陣していたので、斯波氏の家督云々に関与したかどうかはよく分からない。
しかし、その義廉も文正元年(1466)七月には斯波氏の家督を追われ、没落していた義敏が斯波氏惣領に復帰した。幕府政所の執事伊勢貞親が肩入れしたからである。

伊勢貞親の行動は、自分の妾と義敏の妾が姉妹であったためとも、義廉の父・義鏡が政争に敗れたため義廉の利用価値がなくなったためとも言われている。
だが、この動きに反発した孝景と山名宗全は文正の政変と呼ばれる攻撃に出て、伊勢貞親・李瑍真蘂(キケイシンズイ・臨済宗の僧)・赤松政則らを京都から追い払い、再び義廉を斯波氏の惣領に復帰させた。
さらに、斯波氏ばかりでなく足利将軍家や畠山氏にも深刻な家督争いが起こっており、時代は応仁の乱へと突入していく。

応仁元年(1467)、孝景は主家である斯波義廉と共に、これまでも関わりの深い西軍と呼ばれることになる山名宗全側に属し、御霊合戦、上京の戦い、相国寺の戦いなど応仁の乱の幕開けともいうべき主要な合戦で活躍している。
伏見稲荷に籠って西軍を苦しめていた敵の足軽大将・骨皮道賢を討ち取ったのも孝景である。この足軽大将は、何ともふざけたような名前であるが、敵の大将細川勝元が金銭で雇った傭兵であったらしい。
京都の大半を荒廃させた戦いはやがて膠着状態になって行くが、孝景は魚住景貞を使者として密かに東軍の浦上則宗と接触し、文明三年(1471)五月、将軍足利義政及び敵の大将細川勝元から越前国の守護職行使の密約を受けて東軍側に寝返ったのである。

孝景は直ちに越前国の掌握に動いた。
当然ながら、元服して斯波義寛となった松王丸や、甲斐敏光、二宮氏の激しい抵抗を受けることになった。最初は苦戦することが多く敗戦も経験しているが、やがて連戦連勝となり、越前一国を手中に収め、守護に任じられたのである。
最初の戦国大名が華々しく誕生したのである。


     * * *

かつて、戦国大名あるいは下剋上という言葉に対して第一に挙げられる人物は、北条早雲だったように思われる。
一介の素浪人から成り上がっていって、伊豆国を手中に入れ、小田原に居城を築き広く関東を制圧したという物語は、立志伝として痛快なものではある。また、この北条早雲こそが戦国大名の第一号であって、早雲の伊豆討ち入りをもって戦国時代が始まったという考え方も一部にあったようだ。
しかし、早雲は決して一介の浪人などではなく、伊勢新九郎盛時という由緒正しい人物である。本稿にも登場している伊勢貞親らと共に幕政に加わっていた伊勢盛定の嫡男なのである。(異説もある)
ただ、伊勢貞親が京都を追われた時には同時に追放されている可能性が高いので、早雲が駿河に姿を現した時、一介の素浪人だったというのは事実と考えられる。
いずれにしても、北条早雲が伊豆討ち入りを果たしたのは、明応二年(1493)のことなので、朝倉孝景が越前一国を手中にした文明三年(1471)よりかなり後のことである。

孝景も朝倉の家督を継いだ時には、すでに豪族として都にも知られた存在であった。
しかし、その後の活躍ぶりは凄まじいもので、主な合戦だけでも二十回を超えており、それも当時の戦いは大将自ら槍や刀を振るっての激しいものであったと考えられる。応仁の乱というわが国全土で敵味方が激しく入れ替わる中、裏切りも裏切られることも経験しながら、ついには越前一国を手中にしたのである。
孝景は、主君にあたる斯波氏から越前国を奪った形であるが、当時の斯波氏は越前・遠江・尾張の三国の守護職を兼ねていた。そこからは、いわゆる守護代として甲斐・朝倉・尾張の三氏が台頭してきて、朝倉氏は越前を手中にし、尾張は織田氏が手中にして有力な戦国大名に育っていったのである。甲斐氏は孝景に追われる形で遠江に勢力を張ろうとしたが、駿河の今川氏が強力で遠江にも勢力を及ぼしており、甲斐氏は戦国大名として台頭することは出来なかった。

隆景と朝倉軍の勇猛ぶりは抜きん出ていたらしく、越前を手中に収める過程を中心に、当時の権力層である公家や寺社の荘園を強引に奪い取って行ったようである。
前中納言であった甘露寺親長は日記の中で、孝景のことを「天下悪事始行の張本」と述べており、孝景の死去を知った時には「天下一の極悪人が死んだことは、近年まれにみる慶事」とまで書き残しているのである。

しかし、その一方で、武勇に優れた人物でありながら、家臣や兵卒に対しては気遣いの行き届いた人物だとも伝えられている。兵卒とさえ共に食事をしたり、酒を飲み交わしたという。傷ついた者には治療に尽くし、死を悼む心は厚く、家臣たちからの人望は高かったようである。
また、連歌や和歌にも親しんでいたとされ、「孝景十七ケ条」という家訓も残している。
それによれば、合理的な考え方の持ち主だったらしく、「槍や刀は、名槍・名刀など必要なく、普通の物を備えておくこと」「合戦や城攻めには、吉日や方角などの吉凶に関係なく、臨機応変の策略を立てることが大事」「歴代の家であっても、無能な者を奉行にしてはならない」などと諭している。どこか、織田信長の考えに類似しているように思われる。

孝景は、越前国を手中にしてから十年ほど後の文明十三年(1481)七月、五十四歳で亡くなった。享年五十四歳であった。
その跡は嫡男の氏景が継いだが、叔父にあたる孝景の弟三人がよく補佐し、領国を盤石のものにしていった。
しかし、孝景の四代後の義景は、天正元年(1573)織田信長により亡ぼされ、越前朝倉氏は滅亡する。猛々しく越前を手にした孝景の子孫は、最も雅やかな大名として亡びていったのである。

越前朝倉氏は、孝景を初代とし義景を五代とすることも多い。
そのように考えるならば、越前朝倉氏は、戦国時代の幕開けと共に台頭してきて、戦国の世を治めようとする織田信長の台頭と共に滅び去ったともいえ、何とも感慨ひとしおである。

                                      ( 完 )


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

運命紀行  血脈を守る

2013-09-05 08:00:36 | 運命紀行
          運命紀行
               血脈を守る

足利尊氏が軍勢を率いて鎌倉を出立したのは、元弘三年(正慶二年・1333)三月二十七日のことであった。
何かと理由を付けて渋る尊氏に対して、幕府の実権を握る北条高時は再三出陣を促し、ついに承諾させたのである。後醍醐が隠岐島を脱出し兵を集めているのに対抗するためには、御家人第一の実力者足利氏の上洛は絶対に必要であったからである。

尊氏が出陣を渋っていた理由としては、先の出陣からまだ日が浅いことと自身病気がちであることなどを述べているが、実際は、この時点ですでに鎌倉幕府、すなわち北条政権を見限っていたためと思われる。
すでにそのような風評は幕府の中でもささやかれていたようであるが、高時にすれば、何といっても足利氏は鎌倉幕府に忠節を誓う御家人の筆頭の家柄であり、尊氏の正室は幕府執権赤橋守時の妹であり、不穏な噂があるとしても尊氏の軍事力を頼りにせざるを得なかったのである。
もちろん高時もそのあたりのことに対処するため、尊氏の正室赤橋登子と次男千寿王を鎌倉に残すことを命じていた。実質的な人質である。

尊氏の出陣は、吉良・渋川・畠山・今川・細川・高・上杉などの有力氏族七十三氏をはじめ総勢二千余騎を率いての出陣であった。
搦め手の大将名越尾張守高家は、尊氏に三日遅れて鎌倉を出立した。名越高家は、北条一門の有力武将であり、大手の大将と伝えられてもいることから、この時の後醍醐討伐軍の大将は高家で、尊氏は副大将格であったらしい。

尊氏が反旗を翻し丹波篠原に陣を構えて、諸国の兵を募り、京都における幕府の拠点である六波羅探題を攻撃したのは五月七日のことであるが、鎌倉から京都に入った四月十六日には、後醍醐から討幕の綸旨を得ていたのである。
鎌倉では、尊氏の京都攻撃より早く、人質とされていた千寿王は五月二日に行方不明となったと大騒ぎになっている。つまり、前もって尊氏から指示されていた予定の脱出行であったと考えられる。当然、正室の赤橋登子も同行していたと思われる。
しかし、前もって計画されていたとしても、幕府方としては千寿王と赤橋登子は重要な人質であり、そうそう自由に行動できるとは思えない。そこには、登子の兄赤橋守時の支援があったと考えられる。

赤橋氏は、北条一門の中でも得宗家に次ぐ家格を誇っていた。鶴岡八幡宮の前に屋敷があり、八幡宮の前の池の赤橋に因んで、赤橋氏と称していた。
赤橋守時はこの時執権職にあり、本来ならば幕府政権の最高権力者であるはずだが、尊氏の正室登子と千寿王が行方不明となった責任を問われ、北条高時から謹慎を命じられている。この頃の幕政は得宗家の高時が牛耳っていたことがよく分かる。
守時は、この後、新田義貞軍が鎌倉に侵攻してきた時、一門から裏切り者として見られているなか、先鋒隊として出撃し激戦を展開するが、衆寡敵せず打ち破られ、自刃して果てている。五月十八日のことで、享年三十九歳であった。

鎌倉を脱出した赤橋登子と千寿丸は、かねて計画していた通りに無事逃れきることが出来た。
しかし、伊豆にあった尊氏の長男である武若は、伯父の宰相法印良遍ら十余人に守られて上洛を図るも途中で全員が討ち取られている。
その後どのような経路を辿ったかは不明であるが、五月八日、新田義貞が僅か百五十騎で討幕の兵をあげると、九日には、紀五郎左衛門ら二百余騎に守られた具足姿の千寿丸はこの一軍に加わっている。
千寿丸はこの時まだ四歳であったが、家臣たちに助けられて足利尊氏嫡男の名のもとに各地の武士たちに軍忠状を発布しており、これが後に足利氏が武士の棟梁として認知される大きな要因になるが、同時に新田氏との確執を生じたともいえる。

新田義貞率いる討幕軍は、たちまちのうちにその数を増し、二十万七千騎ともいわれる大軍となった。
そして、幕府方の激しい抵抗もあったが、ほぼ一方的に鎌倉は陥落する。北条氏一門を中心とした幕府方は壮絶な最期を遂げてゆく。その数、六千余人という。
ここまでも太平記に基づき述べてきたが、第十巻の最終部分を引用する。

『  於戯(アア)この日いかなる日なればか、元弘三年五月二十二日と申すに、九代の繁昌一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐、一朝に開くる事を得たり。驕る者は久しからず、理(コトワリ)に天地助け給はずと謂(イ)ひながら、目前の悲しみをみる人々、皆涙をぞ流しける。 』


     * * *

わが国の歴史を俯瞰してみると、ある興味深いものが見えてくる。政権は変わっても、絶妙の形で血脈が繋がれているということである。
例えば、中国の歴代王朝の交替は、前王朝を全否定する形であることが多いように見える。
わが国の場合でも、男系で見る限りその傾向が強いが、女系を重視する形で見てみると、何とも見事なほどのバランスが見えてくるのである。

壬申の乱は、天智天皇の皇子の大友皇子と弟の大海人皇子が後継者争いをした古代の大乱であるが、勝利した大海人皇子(天武天皇)には幾人もの天智の皇女が妻になっており、その後の天皇を女系をベースで見てみると、絶妙の配慮が感じられるのである。
源平が激しく戦った時代については、その歴史的真実性はともかく平家物語という名著が残されているが、平氏は劇的な最期を遂げている。しかし、清盛平氏は滅びたが、鎌倉幕府を興した源頼朝の妻北条政子は歴とした平氏の女性であり、ほどなく幕府の実権は平氏を祖先とする北条氏が掌握するのである。
少し趣は違うが、戦国時代を収束させた人物として、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康を並べて、徳川氏が最も美味しいところを頂いたといわれることがあるが、徳川二代将軍秀忠の正室お江は、お市の方が残した三姉妹の末娘であり、やはり女系を中心に考えてみると少し様子が変わってくる。

今回の主人公、赤橋登子(アカハシトウコ・トウシ)も、そのような歴史の宿命を背負って、滅亡してゆく北条氏の血脈を次の時代に繋いだ女性なのである。
赤橋氏は北条一門の中でも、得宗家(本家)に次ぐ家格を有しており、その姫登子と源氏の名門足利尊氏との結婚は、政略的にもすばらしい縁組であった。

登子の生年は、徳治元年(1306)で、尊氏より一歳下ということになる。結婚の時期はよく分からないが、足利二代将軍となる千寿丸が誕生したのは、登子が二十三歳の時である。
二人の結婚は政略的に進められたものであろうが、二人の仲は睦まじいものであったという。千寿丸の他に初代鎌倉公方となる基氏、娘の鶴王を儲けているが、他にも数人の子供がいたという説もある。
しかし、当時としては普通のことであるが、結婚時には、尊氏にはすでに二人の側室がおり、それぞれに男児を儲けていた。
尊氏は赤橋家への遠慮から、すでに子をなしている側室母子を登子から遠ざけていたようであるが、登子が後々苦心を強いられることもあったようである。

尊氏が幕府に反旗を翻すことを決意した上で鎌倉を発った後、登子は千寿丸と共にどのように身を処していたのだろうか。
太平記を見る限り、尊氏謀反の噂はすでにあったようだ。おそらく尊氏は、武勇に優れた家臣を残していたと考えられるが、それにしても武力を使って脱出することなど難しく、おそらく兄である執権赤橋守時の支援があったと考えられる。事実として、幕府崩壊後の後醍醐新政における論功行賞で、後醍醐派の新田軍と戦って自刃した守時の未亡人に対して、土地が与えられているのである。当然、尊氏の意向と考えられる。

その後も、尊氏は戦乱に明け暮れることになる。後醍醐とは敵になり味方になり、一心同体ともいえる一つ年下の直義とさえも、敵として戦わねばならなかった。
そして、もう一つ、長男であるらしい直冬との何とも切ない経緯もある。
直冬は側室越前局の出生とされているが、千寿王より三歳年上である。本来なら嫡男として遇せられてもよい存在であるが、どうも尊氏に疎んじられ認知されていなかったらしい。おそらく赤橋家に対する遠慮からかと考えられるが、実は、直冬の母親は登子だという説もある。その容貌が、尊氏の実弟直義にとても似ていたというから話はややこしくなる。それに、登子が尊氏と結婚した年齢は分からないが、最初の出産が二十三歳というのも、当時としては少し遅いような気もする。しかし、直冬の父が直義であったとしても、母親はやはり登子以外の側室だったのではないか。
この問題はここまでにするとして、直冬は十代のうちに直義の養子となり、尊氏と戦うことになる。晩年の動向ははっきりせず没年も分からないが、この人の生涯も悲しくも強く魅かれる。

赤橋登子という女性は、足利尊氏という室町幕府の初代将軍の御台所としてわが子千寿王を二代将軍義詮として無事跡を継がせた、と言えばその通りかもしれない。実際にそうなっているからである。
しかし、その歩んだ道はそうそう平穏なものではなかった。
まず、登子が千寿王と共に鎌倉を脱出したのには兄の執権守時の支援があったことはすでに述べたが、その後新田軍との戦いで自刃している。そして、もう一人の兄である英時も、鎮西探題の職にあったが、ほぼ同じ頃九州の討幕勢に攻められて自刃しているのである。さらに言えば、鎌倉陥落時には北条一門はことごとくと言っていいほど壮絶な最期を遂げている。登子の血縁も知る辺も、その多くを失っているのである。

さらに、私たちは、室町幕府といえば、初代将軍が足利尊氏、二代将軍が足利義詮、三代将軍が足利義満、といったように考えるが、実は、ある程度幕府としての体制が整うのは、三代義満が力を持ち始めてからなのである。現に、現在私たちが室町幕府と呼んでいるのは、十歳で将軍職についた義満が十一年後にそれまで政庁を置いていた三条坊門の邸から花の御所と呼ばれることになる室町第に拠点を移したことに所以しているのである。
つまり、尊氏の時代は、後醍醐との戦いの他にも、直義・直冬との確執もあり、降参さえ経験しているのである。その間の赤橋登子の内助の功は伝えられていないが、御家人や公家衆たちとの関係調整に小さくない貢献を果たしているはずである。そして何よりも、千寿丸を無事二代将軍義詮へと成長させ、その正室には渋川氏の娘幸子(コウシ)を迎えるのに尽力があったと考えられる。

渋川氏は足利一門の家柄であるが、幸子の母は北条一門の娘なのである。つまり、三代将軍となる義満は、父も母も、北条の血を引く母から生まれているのである。そして、この渋川幸子は、夫義詮が病没した後、「大方禅尼」「大御所渋河殿」と呼ばれ、十歳の幼将軍を後見して、管領職はじめ御家人たちに睨みを利かせ、義満を大将軍に育て上げているのである。

尊氏が没したのは、登子が五十三歳の時である。跡を継いだ義詮はすでに二十九歳になっていて、若くから第一線で戦ってきており、武家の棟梁としての懸念はなかった。しかし、南北朝の衝突は激しく、北朝とはすなわち足利政権というのが実態のため、義詮は政治と戦乱に忙しい日々であった。
尊氏の死後出家した登子は「大方殿」と呼ばれ、義詮正室渋川幸子と共に家内を守り、尊氏が亡くなって百日目に誕生した義満の養育にも尽力したことであろう。

そして、南朝との戦いは続いてはいたが、京都朝廷は安定を見せ始め、足利将軍による武家政治が定着しつつあるのを見守りながら、登子は六十歳で没した。貞治四年(1365)のことである。
この時、義満は八歳になっていて、早くも大器の片りんを見せていた。そして、この二年後には義詮が三十八歳の若さで没してしまうが、登子の見込んだ幸子は、幼い義満を名君へと育て上げるのである。
赤橋登子、そして渋川幸子、北条の血脈を守る女性の逞しさが伝わってくるのである。

                                     ( 完 )



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする