雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

小さな小さな物語  第八部

2013-02-06 19:27:23 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
小さな小さな物語  第八部


   
 No.421 ~ 480を収録しています
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小さな小さな物語 目次

2013-02-06 19:20:25 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
     小さな小さな物語  目次( No.421~440 )


      No.421  希望
        422  絶好調
        423  素質と努力
        424  バレーボールチームに感謝
        425  戦い終えて

        
        426  イメージ・トレーニング
        427  季節の変わり目
        428  趣味は何ですか?
        429  「松・竹・梅」
        430  技術立国


        431  違憲状態
        432  原発政策は冷静に
        433  しつけ
        434  責任の在り処
        435  つながり


        436  故人を偲ぶ
        437  行きつ戻りつ
        438  まわれ右
        439  踏み止まる力
        440  足して二で割る
        
     
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希望 ・ 小さな小さな物語 ( 421 )

2013-02-06 19:19:32 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ロンドンオリンピック、寝不足になりながら楽しんでいます。
一つのメダルの陰に多くの物語が隠されており、感動したり、同情したりの毎日です。
それぞれの競技にはそれぞれの特徴があり、歴史や国民性なども加味されながら、実にたくさんの競技があるものだと感心してしまいます。
例えば、カヌー競技などは、もちろん名前は知っていましたし、これまでにも映像は何度か見ましたが、今回テレビ放送を見ていても、どのあたりが技術的にすばらしいのか今一つ分からず、むしろ、こんな競技施設をつくるのは大変だっただろうなどと感心している始末です。


かつて、クーベルタン男爵は、スポーツを通じて世界の平和に貢献しようと近代オリンピックを提唱したと学びましたが、かの男爵も、今日のような発展までは考えていたでしょうか。
今回は、204の国や地域が参加していて、現に戦闘状況にある地域や、紛争の絶えない地域からも多数の国などが参加しています。経済的に厳しい状況にある国家や、経済面や領土などをめぐって激しく対立している国家も同じ競技場で肩を並べていたりします。
クーベルタン男爵の高邁な理想は、達成には遥かに遠いということは確かですが、この競技会にはまだまだ夢を託すだけの可能性があるように思われます。


競技運営に関していえば、審判判定に関しての不手際や不明瞭さがちらほら見えてしまいました。
メダル獲得のための凄まじいまでの戦いは見るものに感動を与えますが、それが行き過ぎてしまい、無様な姿として表面化してきているものもいくつか指摘されています。ある競技で無気力試合として失格扱いとなったものなどは、少々ではなく、相当程度を超えてしまっているように見えました。
これなどは、おそらく競技している選手の意思ではなく、指導者層の作戦、あるいは背景にある団体や国家の事情が出てしまったのだと思うのですが、実に後味の悪い出来ごとに感じました。


しかし、どうでしょうか。いろいろ醜い面も浮かび上がってきてはいますが、全体としてはオリンピック大会は感動を与えてくれるものだと思うのです。
大会はまだ前半戦が終わろうとしているところですが、これからも、まだまだ素晴らしい競技を展開してくれることでしょう。スポーツだけで世界の平和が実現できるとは思われませんが、希望を感じさせてくれるような気もします。
私たちの社会も、多くの嫌な事件や現象を抱えています。時代が進むことと、私たちが住みよい社会になることとが、一致しているとはとても実感できないのですが、オリンピック出場選手たちの努力や苦難を乗り越える姿を思えば、私たちは、そうそう簡単にこの社会を見捨てるべきではないように思うのです。
進歩の度合いは少なくとも、おもしろくないことの多過ぎる社会だとしても、それなればこそ私たちは、未来への希望を見つけ出すことが絶対に必要だと思うのです。

( 2012.08.04 )
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絶好調 ・ 小さな小さな物語 ( 422 )

2013-02-06 19:18:26 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ロンドンオリンピックの前半戦は、メダル獲得数で見る限り、日本は絶好調のようです。もっとも、金メダルの獲得数からいえば、皮算用に比べかなり物足りないようですが。
いずれにしても、それぞれの競技において、トップクラスで競う人たちには、ごく一部の例外の人を除けば、それほど大きな差があるわけではなく、その日にコンディションを最高潮に持っていけるかどうかが大切な要件の一つのようです。


「運も実力のうち」といわれることがありますように、あらゆる努力を重ねてきても、どうにもならない「運」といったものはあるみたいです。
例えば、今回度々話題になっている誤審や採点方法などについても、個々の選手ではどうすることも出来ない「運」の一つのように思われます。無気力試合とかで失格にされた選手たちに対して、あるテレビのコメンテーターは、「あの試合は全く問題ない。メダル獲得を至上命令とされている選手なら、あらゆる可能性を求めるのは当然のことだ。問題があるとすれば、そのような競技体系をつくった運営組織であって、選手に罰を与えるなんてとんでもない」と発言されていました。全く同感で、少々選手やコーチ陣もやり過ぎだとは思いますが、彼らが社会的な制裁を受けないよう願うばかりです。
柔道競技においてもこんなシーンがありました。「主審が『一本』を示したため、攻めていた選手はそれを確認して攻撃を中断しました。ところが、その後『技あり』に変更され、それまでの獲得技の関係で負けとなりました」、これなども、仕方がないといえばそれまでですが、攻めていた選手にすれば、相手を倒した後押さえ込みに入れる体制だったのを、『一本』として、試合の中断を強制されてしまったのです。


古い話になりますが、第二次世界大戦直後、「フジヤマのトビウオ」と称せられた水泳選手がいました。しかし、敗戦国であるわが国はオリンピックに参加することが出来ず、絶好調の時代にオリンピックで活躍する機会を与えられませんでした。
その後にも、モスクワオリンピックを西側諸国の一員としてボイコットしたことがありますが、政治的な問題はともかく、そのため絶頂期での活躍を封印されてしまった選手もいます。


今、わが家の庭では、蝉が絶好調です。そんなに張りきらなくてもよいのにと思うほど、懸命に鳴いています。
熱中症を恐れて、この一週間ばかり手抜きをしていると、チャンス到来とばかり雑草たちは絶好調です。
いつもたくさんの実を付けてくれるキンカンは、まだ少し実が残っているのに白い花をいっぱいつけて、目下落花の真っ最中です。案外、今がキンカンの絶好調の期間なのかもしれません。
さて、そこで、我が身をちょいと見つめてみますと、何とまあ、絶好調に縁のない人生だと少々考えこんでしまいます。
ただ、オリンピック選手にしても、蝉にしても、雑草にしても、キンカンにしても、絶好調の時以外の方が遥かに長く、その時を懸命に生きているのだと思われます。こんな例えの中にオリンピック選手を入れると叱られますが、そこそこの状態で生きて行くのも、これもまた人生かもしれません。

( 2012.08.07 )
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素質と努力 ・ 小さな小さな物語 ( 423 )

2013-02-06 19:17:30 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ロンドンオリンピック、連日感動を与えてくれています。
見事メダルを獲得した選手には、多くの報道機関が殺到し、幾つものエピソードが紹介されたりしています。一つのメダルの奥には、想像を絶するような努力と、実に多くの人々の支援があったことをうかがい知ることが出来ます。
同時に、惜しくもメダルを取れなかった選手も、あるいはとてもメダルなど縁遠いと考えられる選手であったとしても、やはり、オリンピック出場を果たすまでの道のりには、決して劣ることのない努力やバックアップがあってこそと想像されます。


テレビ観戦を通しての感想ですが、ある種の競技を見ていますと、日本人選手が、直近に帰化したような人は例外ですが、向こう百年オリンピックで優勝することなど不可能ではないかと感じてしまうことがありました。
人種的な差別の意識など全くありませんが、競技種目によっては、人種による肉体的能力に差があるのではないかと思われてしまうのです。


ある競技で抜群の成績を重ねていた選手は、「これほどの努力を人は天才だという」と話したという記事を何かで見た記憶があります。他の人を遥かに上回る、血の滲むような努力を「彼は天才だ」との一言で評価されることに強い抵抗を示したのでしょう。
あるベテラン監督のこんな話も記憶しています。「あれほど素質がありながら、今少し努力が足らないのではないのか」というある選手のことに関する質問に対して、「一流を目指している選手は、誰も大変な努力をしていますよ。しかし、超一流といわれる選手は、それを遥かに超える努力をしているのです。それが出来るのかどうかは、それも素質なのかもしれません」と、ベテラン監督は答えていました。


どんなに努力をしても、金メダルに届く選手はごく限られた人だけです。これは厳然たる事実で、やはり、持って生まれた素質というものを無視することなど出来ないような気がします。
しかし、虚弱体質で育った子供がスポーツ選手として大成している例も少なくありません。その人には、虚弱体質のように見えただけで、もともと素質があったのか、努力で素質を超えてしまうことが可能なのか、なかなか判断が難しいところです。
素質と努力、この二つの能力はどのような比重と関係を持ちあっているのでしょうか。
そして、これは、何もスポーツの分野に限ったことではありません。私たちの日常生活を取り巻いているあらゆる分野でも同様のことが言えます。
ただ、自分自身のことはなかなか分からないものですし、それ以上に認めたくもありませんから、ここは、混迷を極めている政治の世界で発言している人たちについて、「彼は素質が足らないのか」「努力が足らないのか」「双方共に足らないのか」と、好き勝手に品定めをすることにしましょう。

( 2012.08.10 )

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女子バレーボールチームに感謝 ・ 小さな小さな物語 ( 424 )

2013-02-06 19:16:32 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ロンドンオリンピック大会、女子バレーボールチームが見事銅メダルを獲得しました。
オリンピック出場をかけた予選大会や、オリンピックに入ってからも予選リーグは苦戦が続いていただけに、この銅メダルは全く見事なものでした。また、試合内容も素晴らしく、大きな大きな感動を頂戴しました。心より感謝申し上げます。


女子バレーボール競技は、東京オリンピックにおける東洋の魔女以来、わが国のお家芸のように思われている面がありますが、他国のレベルアップが激しく、最近は苦しい状況が続いていました。
バレーボールという競技は、基本的に身長の高い選手が有利な面があるスポーツの一つといえます。その面では、やはりわが国には若干のハンディーが見られ、今大会においても、一般的な日本人女性からすれば遥かに背の高い人の集団だと思うのですが、対戦する相手チームに対して身長面では劣勢でした。
さらに、これはバレーボールに限らないのですが、わが国のスポーツの多くが実業団チームによって支えられてきましたが、平成に入ってこの方、企業の業績悪化が数多くみられ、実業団のスポーツチームにとって厳冬の時代が続いています。
女子バレーボールチームとて例外ではなく、選手や関係者の方々のご苦労は、経済的な面からでも大変だったろうと推察いたします。


団体スポーツにおいて、チームワークの大切さがよく言われます。
バレーボールもそうでしょうが、サッカーであれ、野球であれ、ホッケーであれ同様だと思いますし、今回のオリンピック出場競技でいえば、基本的には個人競技と思われる水泳陣が、チームワークを強調する場面が再々見られ、感動を受けるとともに、もしかすると重要な要素なのかもしれないと認識を新たにしました。
チームワークの大切さは、レベルの如何を問わず、あらゆるスポーツに必要でしょうし、スポーツばかりでなく、文化活動や、実業活動においても小さくない比重を占めているようです。
しかし、各選手の奥の奥にある本音でいえば、チームメートはイコール、ライバルであり、ライバルの活躍は自分の活躍場面を奪っていくものです。そんな心の葛藤と、チームへの真の貢献へのあり方に、苦しむことも人間である限り避けられないはずです。


そんな私の確固たる考えは、女子バレーボールチームの三位決定戦を見ているうちに、かなり揺らぎ始めました。
もしかすると、このチームは、選手、スタッフともども確固たるチームワークを築き上げているのではないかと感じられたからなのです。己を殺すということではなく、ひたすら辛抱するということでもなく、たとえ出場機会がないとしても、チーム全体が最大の力を発揮できるように全員が尽力する・・、もしかすると、そういうチームワークを作り上げることが可能なのかもしれない・・・。
そんな思いでこのゲームを観戦させていただきました。
女子バレーボールチームの皆さん、感動をありがとうございました。

( 2012.08.13 )
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戦い終えて ・ 小さな小さな物語 ( 425 )

2013-02-06 19:15:30 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
ロンドンオリンピックは、多くの感動を与えてくれて無事終了しました。
幾つかの問題点も表面化していますが、大きな混乱もなく終えることが出来たことは何よりでした。
伝えられている報道によりますと、例えばボランティアの活動とか、開会式や閉会式のプログラムにしても、肩を怒らせているような部分は少なく、成熟した先進国らしい運営であったようです。
次回はリオデジャネイロ、また違ったダイナミックな運営をしてくれることでしょう。


今回の大会は、わが国の選手たちの健闘も目立ち、大いに楽しませていただきました。一人一人の選手の活躍の裏には、スタッフや家族や仲間やライバルなどの様々な関わりが秘められていて、私などが知ることが出来るのは、テレビなどで報道されるごく限られたものですが、いずれも感動的なものでした。
結果としては、目的を果たした人、不本意な結果であった人、様々な感慨を描いているのかもしれませんが、あのすばらしい大会に参加したことこそが生涯の誇りになるはずです。


最近のオリンピックの運営については、幾つかの問題点が指摘されることがあります。
まず、商業化が凄まじいことです。スポンサー企業の問題をはじめ、運営団体、スタッフ、選手などを取り巻く「お金」に関わる戦いは、金メダル争奪以上の激しさだともいわれています。
同じように、金メダルを目指しての戦いは、スポーツマンシップに則っている間は美しいものですが、それも行き過ぎると、さまざまな副作用を産んでしまいます。ドーピングなどはその最たるものです。
国家の威信を示す絶好の機会と考えるのは、ほとんどの国家・地域がそうなのでしょうが、やはり、これも程度もののように思われます。勝者こそがすべてという考え方が行き過ぎれば、本来のオリンピック精神というものを見失ってしまう可能性があります。


「オリンピックが世界平和に貢献する」という考え方に私自身は懐疑的でした。
しかし、今回のオリンピックを観ていて、もしかすると、その可能性を秘めているのかもしれないという気がしました。
初めて女性選手が参加した国が、今回は三か国あり、参加するすべての国家・地域が女性選手を送り込んだそうです。ある陸上競技で、ユニフォームなどにハンデを負いながらも最後尾を全力疾走する女性選手を見ていると、このシーンだけで、今回のオリンピック大会は有意義であったように思いました。
今回の大会には、204の国家・地域が参加しました。これだけの国家・地域が代表を送り込む大会や会議などは他にないはずです。それを考えると、「オリンピックは参加することに意義がある」という言葉が生き生きとして輝いてきます。利害を異にする多くの国家・地域や、主張や価値観を異にする人種や宗教が、何はともあれ一つの目的を持って集まることが、不可能と思われる世界平和の実現への小さな一歩になるのかもしれません。
昨日十五日は、第二次世界大戦終戦の日。私たちはあの戦争の当事国であったことを忘れるべきではありません。
そして、今夜は京都五山の送り火。何も出来ない身ではありますが、ただ、ただ、合掌。

( 2012.08.16 )
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イメージ・トレーニング ・ 小さな小さな物語 ( 426 )

2013-02-06 19:14:25 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
盛況のうちにロンドンオリンピックが終わりました。
テレビの番組などでは、まだまだメダリストを中心にインタビューや裏話が繰り広げられていて、「少々くどいな」と思いながらも、ついつい見てしまいます。
こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、たった一つのメダルが人生を大きく変えてしまう可能性もあるようで、他人事ながら少々考えさせられてしまいます。


そんなインタビューなどを通して、ほとんどのスポーツにおいて「イメージ・トレーニング」というものが、かなり大きな意味を持っているらしいことを教えられました。
「イメージ・トレーニング」という訓練方法がスポーツのトレーニングに加えられ出したのはそれほど昔のことではないと思うのですが、現在ではほとんどのスポーツで行われているようです。
その効果は競技種目により差があるようですが、実際に身体を動かしての訓練では得られないような技術の向上が、「イメージ・トレーニング」により得られることもあるそうです。


この訓練方法が一般化し始めた頃、いわゆる根性論と混同されたことがあったようです。
今回のオリンピック大会においても、選手やコーチたちから、あるいは解説にあたっている人たちから、
「最後は精神力だ」といった、いわゆる根性論のような言葉をよく耳にしました。
技量が伯仲している人が戦った場合、最後に勝敗を分けるのは精神力の差だというのです。最後は根性のある奴が勝つというのです。
確かに、練習には強くても試合に弱い選手というものはあります。大試合になればなるほど力を発揮する選手もいます。
しかし、「最後は根性の差だ」という考え方には納得できません。


大事の前では人は緊張するものです。その緊張度には個人差があります。
しかし、その緊張の中でも普段の力を発揮できるようにするのが訓練です。その面での訓練方法の一つに「イメージ・トレーニング」があるように思われます。「根性の有る無し」で両断している間は、優れた指導者とはいえないように思います。
そして、この「イメージ・トレーニング」というものは、スポーツの分野だけではないと思うのです。文化的な活動、教育の分野、実業の分野などでも当然活用可能と考えられます。
ただ注意しなくてはならないのは、ここでもいわゆる根性論のようなものと混同されてしまう恐れがあります。「パワー・ハラスメント」や「洗脳」といった歪んだ形で利用される恐れがあり、現に、その実害も出ています。
私たちは、生まれたその日から誰かの指導を受けて育っていきます。自分の意思で指導者を選ぶことはとても難しいことですが、実に重要なことなのです。

( 2012.08.19 )
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季節の変わり目 ・ 小さな小さな物語 ( 427 )

2013-02-06 19:13:29 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
明日二十三日は、二十四節気の「処暑」にあたります。
「処暑」という言葉そのものから考えれば、「あついところ」つまり、まだまだ暑いという意味にとれますが、暦などの説明では、「残暑がしばらくとどまるが、朝夕は秋の気配が漂う」となっています。何とも優しい説明です。


今年の「立秋」は、八月七日でした。今年の立秋も「暦の上では秋ですが・・・」という表現そのものの、猛暑の真っただ中の「立秋」でした。
二十四節気は、太陽暦の一年を二十四等分したものです。太陰暦である旧暦において、季節のずれを補正すべく太陽による季節の移り変わりを加味させようとしたものです。したがって、「立秋」といえば、普通は八月七日を指しますが、立秋の期間といえば、本日までのほぼ半月間を指すのです。
どうでしょうか、少しは立秋らしい気配はありましたでしょうか。


この二十四節気は、かつては農作業などにおいて重要な役割を果たしていました。
現在では、二十四節気を基にして農作業などが行われるようなことはないのでしょうが、言葉だけはしっかりと生き残っています。それぞれの節気に付けられている名前が何とも優雅で、大切にしたいような言葉ばかりです。
ただ、この二十四節気は中国で生まれたものですから、わが国の風土や気候の変化とはずれがあり、実感と一致しない欠点があることは、昔から指摘されているようです。
現在、日本気象協会では、現代の日本の気候に合わせた新しい二十四節気を作る準備を進めているそうです。


暑い盛りに「立秋」があり、最も寒い頃に「立春」がある。
確かにこんな二十四節気など、生活の指針としては何の役にも立たないという意見もあるのかもしれません。
大声で叫びたくなるほどの暑さの中で「立秋」を迎え、虫の生態など全く関心がないのに「啓蟄」には虫が出てくる季節なんだとふと思い、露になど久しく触れていないけれど「白露」に季節を感じようとほんの少し思ってみたり・・・。
一年に数秒の狂いさえ発生させない時計を持ち、正確すぎるほどの乗り物や会社や学校の時間に包みこまれて生活する私たちには、何とも実感とずれのある二十四節気のような存在も、案外必要な気もするのですが。

( 2012.08.22 )


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趣味は何ですか? ・ 小さな小さな物語 ( 428 )

2013-02-06 19:12:35 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
「趣味は何ですか?」と尋ねられて、返答に困る人って案外多いのではないでしょうか。
実は私などはその典型的な人だったのですが、最近それをクリアーすることが出来ました。
どうしてなのか、少々与太話に付き合って下さい。


かつて、バブル華やかし頃、ある会社の男性社員に趣味を尋ねると、およそ半数が「ゴルフ」と答えたそうです。その傾向は、この会社だけではなかったようです。
確かにある時期、猫も杓子もゴルフ、ゴルフといった傾向があったように思います。しかし、どうでしょうか、ひと月に一度コースに出るか出ないか程度で、しかも、仲間内でゴルフが出来ないというわけにもいかず、営業上の付き合いとしても必要なこともあり、乏しい小遣いをやりくりしながら始めたゴルフ、確かにコースに出れば楽しいのは楽しいのですが、さて、これは趣味といえる類のものなのでしょうか。
読書というのも同様です。相当以前のことになりますが、その頃の履歴書に書く趣味のナンバーワンは読書だったそうです。でも、人様に趣味ですと広言出来る読書とは、どの程度のものを指すのでしょうか。
最近では、ウォーキングやジョギングが人気のようですが、それも、ダイエットや健康管理のために必死に頑張っているものも趣味の部類に入るのでしょうか。


そもそも趣味とは何か、例によって広辞苑の力を借りることにしました。
趣味とは、「①感興をさそう状態。おもむき。あじわい。 ②ものごとのあじわいを感じとる力。美的な感覚のもち方。このみ。 ③専門家としてでなく、楽しみとしてする事柄」とあります。
ついでに、よく似た言葉である道楽も調べてみました。
道楽とは、「①本職以外の趣味などにふけり楽しむこと。また、その趣味。 ②ものずき。好事(コウズ)。 ③酒食・ばくちなどの遊興にふけること。放蕩。遊蕩。また、その人」とあります。
道楽という言葉は、最近あまり見かけませんが、こちらの方は、家族に迷惑をかけ、身代を傾けるほどのものでなければ、使ってはいけない言葉です。ちまちまと、懐を気にしているようでは、とても道楽などには値しないと思うのです。但し、これは私見ですが。
趣味も、本来の意味は現在私たちが使っているものとは少し違っています。私たちが趣味として使っているのは、③の意味がほとんどなのです。本当は、「趣味が良い」といった風に①や②の意味も、少しは含まれていなければならないと思うのですが、これもまた私見です。


そこで、私は今、「趣味は何ですか?」と尋ねられますと、堂々と、「園芸です」と答えます。
私の園芸の腕前といえば、時間だけはそこそこ使っていますが、園芸と称している時間の半分は「草抜き作業」です。青菜を植えれば、虫たちの食料供給者として感謝される状態ですし、トマトはダイコン風味だと珍重され、ダイコンは、一休さんでも「小根とはいわない」と言ってくれるかどうか心配な出来栄えです。でも、楽しいのです。土と汗にまみれて、まことに優雅な時間なのです。
そもそも、趣味などというものは、玄人のような腕前というものはその範疇から外れているのです。「趣味の域を超えている」という言葉があるでしょう。あまりの上手は、趣味ではないのです。
また、「趣味に命をかける」とか「趣味が生きがい」というほどのめり込むのもどうかという気がします。道楽の説明にもあるように、スケールの小さな道楽の域に迷い込む恐れがあるから注意が必要です。
趣味とは、たずさわっている時は楽しく、かといって、別の用事があれば簡単に中止することが出来、その手際や出来栄えが平均を超えない程度のもの、そういったものを指すのです。
以上は、全く自分のためだけの定義ですので、反論はご勘弁ください。
「ところで、あなたの趣味は?」

( 2012.08.25 )
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