雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

歴史散策  大和への道

2015-11-24 09:44:07 | 歴史散策
          歴史散策
               大和への道


天下を治めるに適した土地を求めて、神武天皇たちは高千穂の宮を出る。いわゆる「神武東征」については、様々な研究がなされ、創作されたものも多い。
本稿は、『古事記』にはどのように示されているのかを知るために、他の文献を無視し、『古事記』の記事を六回に分けて紹介させていただいたものです。  
 
            

 
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歴史散策  大和への道 ( 1 )

2015-11-24 09:43:04 | 歴史散策
          大和への道 ( 1 )

神話と事実

いわゆる「神武天皇の東征」については、様々な文献がある。
『古事記』と『日本書紀』は別格としても、明治維新以前の時代にも、研究書や物語風の物など多くの著作があるようだが、明治以降については、さらに思い切った創作が加えられた文献も少なくない。

私たちが神武天皇として認識している人物像も、文献により、あるいは著作者により大きく異なる。一般的には、わが国が第二次世界大戦に敗れるまでの時代と、それ以後とは、それこそ掌を反(カエ)したかのような変化がみられる。
しかし、神武天皇という人物、あるいはその足跡などについて、さまざま伝えられている全てを事実と考えるのは無理が多すぎると思われるが、かといって、すべてを単なる神話であるとか創作であるとして切り捨ててしまうのも正しくないような気がする。

本稿は、後に神武天皇とされる人物が、天下を治めるのに適した土地を求めて、高千穂宮を出て大和に移って行く様子を、『古事記』の記しているそのままに見てみようという物である。

     ☆   ☆   ☆

高千穂宮を出る

天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒタカヒコ ナギサタケウ カヤフキアエズノミコト)を父に、玉依毘売命(タマヨリビメノミコト)を母とする兄弟、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト・後の神武天皇)と兄の五瀬命(イツセノミコト)は高千穂宮におられた。
この同母の兄弟は、もとは四人兄弟であった。一番上が五瀬命、二番目が稲氷命(イナヒノミコト)、三番目が御毛沼命(ミケヌノミコト)、四番目が神倭伊波礼毘古命である。このうち、稲氷命は亡き母の国である海原に入り、御毛沼命は常世国(トコヨノクニ)へ渡った。

さて、高千穂宮に拠点を置いていた神倭伊波礼毘古命と五瀬命の二人は、芦原中国(アシハラノナカツクニ)全体を治めるには、新たな土地を求める必要性を感じ、相談し合っていた。
「どの地に拠点を置けば、天下の政(マツリゴト)を平安に行うことが出来るのだろうか。やはり、もっと東に行く必要がある」ということになり、日向(ヒムカ)を出発して筑紫に向かった。
いわゆる「東征」の始まりである。

そして、豊国(トヨクニ・後に豊前国と豊後国に分かれる)の宇沙(ウサ・現在の宇佐市)に着いた時、その土地の者で、宇沙都比古・宇沙都比売(ウサツヒコ・ウサツヒメ)という二人が、足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ・宮殿の四本の柱のうち、三本は短くて崖の上に、一本は長く崖下まである建物)を作って、服属のしるしとしてご馳走を差し上げた。
その地よりさらに移って、筑紫の岡田宮(オカダノミヤ・所在未祥)に一年おいでになった。

また、その国より東に向かい、安芸国の多祁理宮(タケリノミヤ・所在未詳)に七年おいでになった。
また、その国から移って、吉備の高島宮(タカシマノミヤ・所在未詳)に八年おいでになった。
そして、その国からさらに東に向かう時に、亀の背中に乗って釣りをしながら袖を振りながら来る人に、速吸門(ハヤスイノト・潮流が速い所。明石海峡らしい)で出会った。そこで神倭伊波礼毘古命は、この人を呼び寄せて訊ねた。「お前は、誰か」と。
すると、「私は、国つ神です」と答えた。さらに命(ミコト)が「お前は、海の道を知っているか」と訊ねると、「よく知っております」と答えた。さらに命が「私に従って仕えないか」と問うと、「お仕え申し上げます」と答えた。

このような結果、棹を差し渡して、その人を命たちが乗る船に引き入れた。そして、サオ根津日子(サオネツヒコ)という名前を与えられた。
この人は、倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)らの祖先である。

     ☆   ☆   ☆
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歴史散策  大和への道 ( 2 )

2015-11-24 09:40:10 | 歴史散策
          大和への道 ( 2 )

五瀬命の戦死

さて、一行は、速吸門(ハヤスイノト)の国(播磨国か)を越え、浪速の渡(ナミハヤノワタリ・大阪湾の一部)を経て、青雲のたなびく白肩津(シラカタノツ・場所未詳)に停泊した。
この時、登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネビコ)が軍勢を率いて、待ち迎えていて戦いとなった。神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)は、船に積んでいた楯を取って降り立った。それで、その地を楯津といったのである。今は、日下の蓼津(クサカノタデツ・現在の東大阪市日下町の辺り。当時はこの辺りまで入り江となっていた)という。

こうして、この登美毘古(トミビコ・トミノナガスネビコのこと)と戦った時に、五瀬命(イツセノミコト)は、手に彼の痛矢串(イタヤグシ・痛手を受けた矢、という意味か)を受けた。そして、「私は、日の神の御子として、日に向かって戦うことは良くなかった。だから、賤しい奴から痛手を負ってしまった。これからは、迂回して日を背に受けて敵を撃とう」と誓って、南の方から迂回している時に、血沼海(チヌノウミ)に着き、そこで傷ついた手を洗った。血沼海というのは、そのため付けられた名である。その地よりさらに迂回して、紀国(キノクニ・古くは和泉国の辺りまで紀国に属していた)の男之水門(オノミナト)まで来たが、五瀬命は「賤しい奴から手傷を負って死ぬのか」と雄叫びをあげて亡くなられた。その為、その水門を男之水門というのである。
五瀬命の陵(ハカ)は、そのまま紀国の竈山(カマヤマ・和歌山市)にある。

     ☆   ☆   ☆

熊野に向かう

神倭伊波礼毘古命は、さらに迂回して、熊野の村に至った時、大きな熊がほんの少し姿を見せ隠れしたあと姿を消してしまった。
すると、命(ミコト)は毒気に当てられて気を失ってしまった。従っていた軍勢も、同じように気を失って倒れてしまった。

この時、熊野の高倉下(タカクラジ・人の名前)が一振りの大刀を持って、天つ神の御子である命が横たわっている所にやって来て、その大刀を献上すると、天つ神の御子はたちまち正気を取り戻し、立ち上がって、「長い間寝てしまったなあ」と仰った。そして、その大刀を受け取った時に、その熊野の山の荒ぶる神は、自ら皆切り倒された。同じくして、意識が混乱して倒れていた軍勢も、全員が起き上った。

そこで、天津神の御子である命が、その大刀を手に入れた事情を訊ねたところ、高倉下が答えて申し上げた。
「私が夢に見ましたところによりますと、『天照大御神・高木神の二柱の神のご命令で、建御雷神(タケミカヅチノカミ・イザナギノミコトの御刀に因り生まれた神のひとり)をお呼びになり、「芦原中国(アシハラノナカツクニ)は大変騒がしいようである。わが御子たちは平安ではないらしい。その芦原中国は、もっぱらお前が言向けた(服従させた)国である。だから、お前が降るべきである」と申されました。建御雷神はそれに答えて、「私が降らなくても、もっぱらその国を平定した大刀があります。この大刀を降らすのが良いでしょう。その方法は、高倉下の倉の頂に穴をあけて、そこから落し入れます」と申し上げた。そして建御雷神は私に、「こういうことだから、よく探して、お前が取り持って天つ神の御子に献上せよ」と言われた』という夢を見たのです。そこで、夢のお告げの如く、朝になって自分の倉を見ますと、本当に大刀があったのです。それで、この大刀を献上申し上げるのです」と言った。

なお、原文の注意書きとして、<この大刀の名は、佐士布都神(サジフツノカミ)という。またの名は、甕布都神(ミカフツノカミ)という。またの名は、布都御魂(フツノミタマ)。この大刀は、石上神宮(イソノカミノカミノミヤ)に鎮座されている。>と説明されている。

     ☆   ☆   ☆


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歴史散策  大和への道 ( 3 )

2015-11-24 09:38:36 | 歴史散策
          大和への道 ( 3 )

八咫烏

また、高木大神(タカギノオオカミ・天照大御神とともに、天上より天つ神の御子を支援する神である)は夢のお告げにより神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト・神武天皇)にご命令を伝えられ、教えられた。
「天つ神である御子よ、ここから奥へは、すぐに入ってはならない。荒ぶる神が、大変多い。今、天上より八咫烏(ヤアタカラス/ヤタガラス・大きなカラスを指す。なお「八」は多数の意味。「咫は」親指と中指とを広げた長さ)を行かせる。そうすれば、その八咫烏がそなたを先導するだろう。その八咫烏の後について行くべし」と。

そこで、教えられた通りに、その八咫烏の後について行くと、吉野川の最下流に至った時に、筌(ウエ・竹で作った魚を取る仕掛け)を作って魚を取っている人がいた。
天つ神である御子が「お前は、誰か」と尋ねると、「私は国つ神で、名は贄持之子(ニエモツノコ)といいます」と申し上げた。この人は、阿陀(アダ・現在の奈良県五條市辺り)の鵜養の祖先である。

その地からさらに進んでいくと、尾の生えた人が井戸の中から出てきた。その井戸からは光が出ていた。
そこで、「お前は、誰か」と尋ねると、「私は国つ神で、名は井氷鹿(イヒカ)といいます」と申し上げた。この人は、吉野首(ヨシノノオビト)らの祖先である。
そして、そこの山に入ると、また、尾の生えた人に出会った。この人は、岩を押し分けて出て来たのである。
そこで、「お前は、誰か」と尋ねると、「私は国つ神で、名は石押分之子(イワオシワクノコ)といいます。今、天つ神の御子がおいでになるとお聞きしましたので、お迎えに参ったのです」と申し上げた。この人は、吉野の国巣(クニス)の祖先である。

その地から、道もない山中を踏み分けて、宇陀(ウダ・奈良県宇陀)に越えて行ったのである。それで、そこを宇陀の穿(ウカチ)という。

     ☆   ☆   ☆

宇迦斯兄弟

ところで、この宇陀という所に、兄宇迦斯(エウカシ)と弟宇迦斯(オトウカシ)という兄弟がいた。
そこで、八咫烏を派遣して、二人に詰問させた。「今、天つ神である御子がおいでになった。お前たちは、お仕えするか否か」と。
すると、兄宇迦斯は鳴鏑(カブラ/ナリカブラ・後世の鏑矢)でもって使者を待ち受けて射かけ、追い返した。それで、その鳴鏑の落ちた地を訶夫羅前(カブラサキ・場所未詳)という。

「待ち受けて撃とう」と言って、兄宇迦斯は軍勢を集めた。しかし、軍勢を思うように集められなかったので、「お仕え致します」と偽って、大きな御殿を造り、その御殿の中に押機(オシ・罠の一種か)を仕掛けて待ち構えていたところ、弟宇迦斯まず御子のもとに迎えに参り、拝礼して申し上げた。
「私の兄である兄宇迦斯は、天つ神である御子の使者を射返し、待ち受けて攻撃しようと軍勢を集めましたが、うまく集めることが出来なかったため、御殿を造り、その中に押機を仕掛けて、御子を撃ち取ろうと待ち受けています。それゆえ、お迎えに上がって真実を申し上げるのです」と。

早速、大友連(オオトモノムラジ)らの祖先である道臣命(ミチノオミノミコト)と、久米直(クメノアタイ)らの祖先である大久米命(オオクメノミコト)の二人が、兄宇迦斯を召し出して、激しく罵った。
「お前が御子の為に造った御殿の中へは、うぬがまず入って、お仕えしようとする証を示せ」と言って、大刀の柄を握り、鉾をしごき、矢をつがえて、御殿の中へ追い入れた。兄宇迦斯は、たちまちのうちに、自分の仕掛けた押機に打たれて死んでしまった。その亡骸は、引き出され、ばらばらに斬り刻まれた。それで、その地は宇陀の血原という。
そして、弟宇迦斯が献上した食事は、すべて兵士たちに与えられた。

この時、神倭伊波礼毘古命が歌われた歌である。
『 宇陀の 高城(タカキ・高い砦)に 鴫罠張る 我が待つや 鴫は障(サヤ)らず いすくはし 鯨障る 前妻(コナミ)が 肴(ナ)乞はさば 立ちソバの 実の無けくを こきし削(ヒ)ゑね 後妻(ウハナリ)が 肴乞はさば 厳榊(イチサカキ・榊の実はふつう食べないので、別の果樹か) 実の多けくを こきだ削ゑね ええしやごしや(これは敵意をあびせかけるもの) ああしやごしや(これはあざ笑うもの) 』
 ( 宇陀の高城で鴫(シギ)を捕る罠を仕掛けた。私が待っている鴫はかからず、何と鯨がかかった(「いすくはし」は鯨にかかる枕詞)。前妻がおかずを欲しがれば、ソバの実の少ないところをたくさんそぎ取ってやれ。後妻がおかずを欲しがれば、巌榊の実の多いところをたくさんそぎ取ってやれ。 ええしやごしや、 ああしやごしや )
なお、この弟宇迦斯は、宇陀の水取らの祖先である。

     ☆   ☆   ☆
  
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歴史散策  大和への道 ( 4 )

2015-11-24 08:41:58 | 歴史散策
          大和への道 ( 4 )

橿原宮に向かう

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト・神武天皇)とその軍勢は、さらに進んで行き、忍坂(オシサカ・奈良県桜井市)の大室(オオムロ・室は窓がほとんどない家屋)に至った時、尾の生えた土雲という猛者どもが大勢その室にいて、待ち構えて雄叫びをあげていた。
そこで、天つ神である御子(神倭伊波礼毘古命)の命令で、ご馳走を土雲の猛者どもに与えた。大勢の猛者たちにそれぞれ給仕人を用意して、各自に大刀を佩かせ、その給仕人たちに、「歌うのを聞いたら、いっせいに斬れ」と密かに命じられた。

その、土雲を撃つことを命じる合図の歌とは、
『 忍坂の 大室屋に 人多(ヒトサハ)に 来入り居り 人多に 入り居りとも 厳々(ミツミツ)し 久米の子が 頭槌い(クブツツイ・槌の一種) 石槌い持ち 撃ちてし止まむ 厳々し 久米の子らが 頭槌い 石槌い持ち 今撃たば宜(ヨロ)し 』
( 忍坂の大きな室屋に人がたくさん集まってきている。人がたくさん来ていても、勢い盛んな久米部(大伴氏と共に軍事を担った。大伴氏と同族とも)一族の者たちが、頭槌い、石槌いを持って、敵を撃たずにおくものか。勢い盛んな久米部の者たちよ、頭槌い、石槌いを持って、今撃つのが良いぞ。 )
このように歌って、刀を抜いていっせいに土雲を打ち殺したのである。

この後には、登美毘古を撃とうとした時にも、同じように歌を歌った。
『 厳々し 久米の子らが 粟生(アワフ・粟畑)には 香韮一本(カミラ ヒトモト・匂いの強いニラが一本) 其(ソ)ねが本 其ね芽認(ツナ)ぎて 撃ちてし止まむ 』と。
( 勢い盛んな久米部の者たちの粟畑には、香りの強いニラが一本生えている。その根や芽を探し求めるように、敵を探し出して撃たずにおくものか。 )

また、
『 厳々し 久米の子らが 垣本に 植ゑし山椒(ハジカミ) 口疼(クチヒヒ)く 吾は忘れじ 撃ちてし止まむ 』
( 勢い盛んな久米部の者たちが垣の所に植えた山椒を食べると口がひりひりする。その味を忘れないように、私は復讐することを忘れない。敵を撃たずにおくものか。 )

また、
『 神風の 伊勢の海の 大石に 這ひ廻(モトホ)ろふ 細螺(シタダミ)の い這ひ廻り 撃ちてし止まむ 』
( 神風の(伊勢を神格化している)伊勢の海の大石に這い回っている細螺のように、這い回ってでも、敵を撃たずにおくものか。 )

また、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)を撃とうとした時には、軍勢はしばしば疲れた。そこで歌われた歌は、
『 楯並(タタナ)めて 伊那佐の山の 木の間よも い行き目守(マモ)らひ 戦へば 吾はや飢(エ)ぬ 島つ鳥 鵜養(ウカイ)が伴 今助けに来ね 』
( 楯を並べて(楯並めては、「射る」という言葉から「イ音」にかかる言葉)伊那佐の山の木の間を通って、見張りながら戦っていると、私はとても腹がすいてしまった。(「島つ鳥」は鵜養にかかる言葉か?)鵜飼の友よ、早く助けに来てくれ。 )

このような時、邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト・初めて登場する)が参上して、天つ神である御子に申し上げた。
「天つ神である御子が天下りされたと聞いたので、後を追って天降ってきました」と。そして、直ちに天上のしるしである神宝を献上して、お仕えした。
この邇芸速日命が登美毘古の妹である登美夜毘売(トミヤビメ)を娶って生んだ子は、宇麻志麻遅命(ウマシマヂノミコト)、この人は、物部連・穂積臣・婇臣(ウネメノオミ)の祖先である。

こうして、荒ぶる神たちを言向け平定して従わせ、従わない者どもは討ち払って、畝傍(ウネビ)の橿原宮(カシハラノミヤ)においでになって、天下を治めたのである。

     ☆   ☆   ☆


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歴史散策  大和への道 ( 5 )

2015-11-24 08:39:03 | 歴史散策
          大和への道 ( 5 )

皇后を求める

さて、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト・神武天皇)が日向(ヒムカ)においでになった時に、阿多の小椅君(アタノオバシノキミ)の妹である阿比良比売(アヒラヒメ)を娶って生んだ子は、多芸志美々命(タギシミミノミコト)、次に岐須美々命(キスミミノミコト)のお二人がいらっしゃる。

しかし、さらに大后(オオキサキ・皇后)とする乙女を求めることになった時、大久米命が、「この地に、そのような乙女がおります。その方は、神の御子といわれています。そのようにいわれるわけは、三島(摂津の地名)の湟咋(ミゾクイ・地名にちなむ名前)の娘で、名を勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)という女性は、その容貌が美しかったため、美和(奈良県の三輪)の大物主神(オオモノヌシノカミ)が一目で心を惹かれました。そこで、その娘が大便をしようとした時に、赤く塗った矢に姿を変えて、その大便をしようとしていた溝を流れ下って、その乙女のほと(陰部)を突きました。乙女は驚いて、走り回ってうろたえました。そして、その矢を持ってきて、床の辺りに置くと、たちまち立派な男性になったのです。
その男性が乙女を娶って生んだ子の名は、富登多々良伊須々岐比売命(ホトタタライススキヒメノミコト)と言い、またの名は、比売多々良伊須気余理比売と言います。これは、『ほと』というのを嫌って変えたものです。
こういうわけで、神の御子というのです」と申し上げた。

さて、七人の乙女が高佐士野(タカサジノ・場所未詳)に野遊びに出かけた時、伊須気余理比売(イスケヨリヒメ・前述の女性)がその中にいた。そこで、大久米命は、その伊須気余理比売を見て、歌によって天皇に申し上げた。
『 倭の 高佐士野を 七行く(ナナユク) 媛女(オトメ)ども 誰をし娶(マ)かむ 』と。

ちょうどその時、伊須気余理比売は、その乙女たちの先頭に立っていた。
そこで天皇は、その乙女らを見て、心の中でも伊須気余理比売が最も前に立っていることを感じて、歌によって答えた。
『 かつがつも 弥前立てる(イヤサキダテル) 兄(エ・兄弟・姉妹いずれも、年上を兄といった)をし娶かむ 』と。 
( <皆素晴らしいが>それはそれとして、先頭立って歩いている 年上の乙女を妻としよう )
そこで、大久米命は天皇の仰せを承って、その伊須気余理比売にその旨伝えた時、伊須気余理比売は大久米命の入れ墨をした鋭い目を見て、不思議に思って歌って言った。

『 あめ鶄鴒(アメツツ・黄色いセキレイらしい) 千鳥真鵐(チドリ マシトト ・マシトトはホオジロの仲間らしい。真は美称) など黥(サ)ける利目(トメ) 』と。
( セキレイやチドリやホオジロのように、どうして入れ墨を入れて目を鋭くしているのか。 )
これに対して、大久米命が答えて歌った。
『 媛女(オトメ)に 直(タダ)に逢はむと 我が裂ける利目 』と。
( お嬢さんに直接逢おうと思って、私は目を鋭く見開いているのですよ。 )
そこで、その乙女は、「お仕え申し上げます」と答えた。

さて、この伊須気余理比売の家は、狭井河(サイガワ・三輪山から流れ出て初瀬川に合流している)のほとりにあった。
天皇は、伊須気余理比売のもとに参り、一夜をお過ごしになった。
< その河を、佐韋河(狭井河に同じ)というわけは、河のほとりに山ゆりがたくさんある。その山ゆり草の名を取っての佐韋河と名付けたのである。山ゆり草のもとの名は、佐韋という。(この部分は、本文にある説明書きである)> 

その後、この伊須気余理比売が宮中に入られた時の天皇の御歌。
『 芦原の 穢(シケ)しき小屋(オヤ)に 菅畳 弥清(イヤサヤ)敷いて 我が二人寝し 』
( 芦原の中のきたない小屋に、すげの畳(筵)を大変清らかに敷いて、私たち二人は寝ましたねぇ。 )
そうして、お生まれになった御子の名は、日子八井命(ヒコヤイノミコト)。次に、神八井耳命(カムヤイミミノミコト)。次に、神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト・後の綏靖天皇)。この三人である。

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歴史散策  大和への道 ( 6 )   

2015-11-24 08:38:02 | 歴史散策
          大和への道 ( 6 )

神武天皇崩御

さて、神武天皇が崩御された後に、残された三人の御子の庶兄(ママネ・異母兄)にあたる当芸志美々命(タギシミミノミコト・神武天皇が日向にいたころ生まれた御子)は、神武天皇の皇后である伊須気余理比売(イスケヨリヒメ・三人の御子の実母)を娶った時、その三人の義弟を殺そうとたくらんでいた。三人の母親である伊須気余理比売は心を痛め苦しんで、歌でもってその御子たちに知らせた。
その歌は、
『 狭井河よ 雲立ち渡り 畝傍山 木の葉さやぎぬ 風吹かんとす 』
( 狭井河から、雲が広がり 畝傍山の木の葉が音を立て始めた。風が吹こうとしているのだ。・・なお、「狭井河」は三人の御子と母の出身地である。「よ」は「より」の意味。「畝傍山」は橿原の宮を示している。 )
さらに、
『 畝傍山 昼は雲揺ゐ(クモトイ・雲が揺れる) 夕されば 風吹かむとぞ 木の葉さやげる 』
( 畝傍山は、昼は雲が揺れ動き、夕方になれば風が吹こうとして、木の葉がざわめいている。 )

三人の御子たちは、その歌を聞いて謀り事があることを知って驚き、すぐさま当芸志美々命を殺そうとしたが、その時、神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)が兄の神八井耳命(カムヤイミミノミコト)に「兄の命よ、武器を持って入って、当芸志美々を殺せ」と進言した。
そこで、神八井耳命は武器を持って入って殺そうとしたが、手足が震えて殺すことが出来ない。それで、弟の神沼河耳命は兄の持っていた武器を受け取って、中に入って当芸志美々を殺した。
それゆえ、その名を称えて、建沼河耳命(タケヌナカワミミノミコト)というのである。

そうして、神八井耳命は弟の建沼河耳命に皇位を譲って言った。
「私は、敵を殺すことが出来なかった。あなたは、見事に敵を殺すことが出来た。それゆえ、私は兄ではあるが、天皇となるべきではない。今を以って、あなたが天皇となって、天下を治めてください。私は、あなたを助け、身を慎んで神の加護を願う役としてお仕え致しましょう」と。

さて、三人の御子のうち一番上の日子八井命(ヒコヤイノミコト)は、茨田連(ウマラタノムラジ)・手島連(テシマノムラジ)の祖先である。
神八井耳命は、意富臣(オオノオミ)・小子部連(チイサコベノムラジ)ら多数の祖先である。(原文には多数挙げられている)
神沼河耳命は、天下を治められた。綏靖(スイゼイ)天皇である。

高千穂の宮を出て、遥かなる大和の地で初めて天下を治められた神倭伊波礼毘古天皇(カムヤマトイワレビコノスメラミコト・神武天皇)の享年は、百三十七歳である。
御陵(ミハカ)は、畝傍山の北方の白檮尾(カシノオ)のほとりにある。
                                      
                                               ( 完 )

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