大和への道 ( 1 )
神話と事実
いわゆる「神武天皇の東征」については、様々な文献がある。
『古事記』と『日本書紀』は別格としても、明治維新以前の時代にも、研究書や物語風の物など多くの著作があるようだが、明治以降については、さらに思い切った創作が加えられた文献も少なくない。
私たちが神武天皇として認識している人物像も、文献により、あるいは著作者により大きく異なる。一般的には、わが国が第二次世界大戦に敗れるまでの時代と、それ以後とは、それこそ掌を反(カエ)したかのような変化がみられる。
しかし、神武天皇という人物、あるいはその足跡などについて、さまざま伝えられている全てを事実と考えるのは無理が多すぎると思われるが、かといって、すべてを単なる神話であるとか創作であるとして切り捨ててしまうのも正しくないような気がする。
本稿は、後に神武天皇とされる人物が、天下を治めるのに適した土地を求めて、高千穂宮を出て大和に移って行く様子を、『古事記』の記しているそのままに見てみようという物である。
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高千穂宮を出る
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒタカヒコ ナギサタケウ カヤフキアエズノミコト)を父に、玉依毘売命(タマヨリビメノミコト)を母とする兄弟、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト・後の神武天皇)と兄の五瀬命(イツセノミコト)は高千穂宮におられた。
この同母の兄弟は、もとは四人兄弟であった。一番上が五瀬命、二番目が稲氷命(イナヒノミコト)、三番目が御毛沼命(ミケヌノミコト)、四番目が神倭伊波礼毘古命である。このうち、稲氷命は亡き母の国である海原に入り、御毛沼命は常世国(トコヨノクニ)へ渡った。
さて、高千穂宮に拠点を置いていた神倭伊波礼毘古命と五瀬命の二人は、芦原中国(アシハラノナカツクニ)全体を治めるには、新たな土地を求める必要性を感じ、相談し合っていた。
「どの地に拠点を置けば、天下の政(マツリゴト)を平安に行うことが出来るのだろうか。やはり、もっと東に行く必要がある」ということになり、日向(ヒムカ)を出発して筑紫に向かった。
いわゆる「東征」の始まりである。
そして、豊国(トヨクニ・後に豊前国と豊後国に分かれる)の宇沙(ウサ・現在の宇佐市)に着いた時、その土地の者で、宇沙都比古・宇沙都比売(ウサツヒコ・ウサツヒメ)という二人が、足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ・宮殿の四本の柱のうち、三本は短くて崖の上に、一本は長く崖下まである建物)を作って、服属のしるしとしてご馳走を差し上げた。
その地よりさらに移って、筑紫の岡田宮(オカダノミヤ・所在未祥)に一年おいでになった。
また、その国より東に向かい、安芸国の多祁理宮(タケリノミヤ・所在未詳)に七年おいでになった。
また、その国から移って、吉備の高島宮(タカシマノミヤ・所在未詳)に八年おいでになった。
そして、その国からさらに東に向かう時に、亀の背中に乗って釣りをしながら袖を振りながら来る人に、速吸門(ハヤスイノト・潮流が速い所。明石海峡らしい)で出会った。そこで神倭伊波礼毘古命は、この人を呼び寄せて訊ねた。「お前は、誰か」と。
すると、「私は、国つ神です」と答えた。さらに命(ミコト)が「お前は、海の道を知っているか」と訊ねると、「よく知っております」と答えた。さらに命が「私に従って仕えないか」と問うと、「お仕え申し上げます」と答えた。
このような結果、棹を差し渡して、その人を命たちが乗る船に引き入れた。そして、サオ根津日子(サオネツヒコ)という名前を与えられた。
この人は、倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)らの祖先である。
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