雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

二条の姫君  第四十三回

2015-07-12 09:31:20 | 二条の姫君  第二章
     二条の姫君
          第二章  絢爛の荒波に揉まれて


               第二章 ( 一 )

『 いかで我隙ゆく駒を引き留めて 昔に帰る道を尋ねん 』
と、詠んだ人もおりますが、時の移り変わる速さといえば、早瀬川の流れをも凌ぎ、再び元に戻すことなど出来ぬのが定めと申すものなのでしょうか。

昨春には八歳の後宇多天皇が即位なさり、後深草院・亀山院という御兄弟の上皇が相並ぶこととなり、何かと騒がしいことでございましたが、後深草院の皇子が春宮に立たれることで決着をみて、後深草院の御所には晴れやかな雰囲気が漂うようになっております。

そして、明けて建治元年(1275)正月、姫さまは十八歳の春を迎えました。
百千鳥(モモチドリ・たくさんの鳥)が楽しげにさえずる春の日差しがのどかな新春でございますが、姫さまのお気持ちは沈みがちなものでございました。
何が原因だとはっきりしない心の内の煩悶を、姫さまは常に抱いておられるようで、はなやかな新年の様々な行事にも今一つ心が晴れぬご様子なのです。

今年の御薬の行事には、花山院太政 大臣殿がお役として出仕されました。昨年、後院の別当というお役にお就きになられましたが、後院は亀山天皇のためのものでございますから、こちらの御所の方々はご不快の様子もあったようですが、御所さまの皇子が春宮(トウグウ)にお立ちになられたことで、政治上のご不満も解消されましたし、また後々までいさかいの根を残さないためにも、今回御薬のお役に参られたようでございます。

女房たちは、格別に袖口も美しく装って、台盤所の人々は特別に気配りし、衣装の色なども心を尽くされたようでございます。
いつぞやの年、姫さまの御父上である中院大納言殿が御薬のお役をお勤めになられたことなどが、新年とはいえ姫さまには昨日のことのように思い出され、昔を懐かしむ涙を流されるのを、責めることなど出来ません。

さて、春宮の御方は、堅苦しい御行事が一段落するのを待ちかねていたのでしょうか、早速に御方分かち(オンカタワカチ・二組に分かれて何かの勝負をする)をしようと、それも十五日の内にと大騒ぎをされる。
いつものように、院の御方と春宮の御方がそれぞれに分かれられ、廷臣や女房たちはめいめいくじによって分けられるのです。その相手には、廷臣に女房を合わせられるのです。
春宮の御方には、傅の大臣(フノオトド・春宮の補導役、主に大臣の兼職)始め皆廷臣で、院の御方には御所さま以外は皆女房で、相手をくじで決めるのです。
姫さまのお相手には、傅の大臣(藤原師忠、この時二十二歳で右大臣)が当たりました。
「めいめい引出物を思い思いにそれぞれが用意して、さまざまな芸能を無理にでもさせよ」
という申し付けがありました。

賑やかなお遊びの中で、女房の方々にとって、ひどく堪えがたかったことは、あまりのことにも、御所さまが御自身お一人ではなく、近習の男たちを召し集めて、女房たちを粥杖(カユヅエ・正月十五日に粥を焚いた木で女性の腰を打つと安産だという迷信があった)で打たせさせたことでした。
これを、女房皆が何ともしゃくにさわることだというので、姫さまは東の御方と相談され、十八日に御所さまをお打ち申し上げようとの企みを練ったのです。

十八日、早朝の御食事が終わった頃、台盤所に女房たちが寄り集まって、御湯殿の上の口には新大納言殿・権中納言殿、表の方には別当殿・九五殿、常の御所の中には中納言殿、馬道(メンドウ・殿舎をつなぐ板敷の道)には真清水殿・さぶらふ殿などを配置することを決め、姫さまと東の御方はお二人で奥のひと間でとりとめもない話をしながら、
「きっと御所さまはここにおいでになるでしょう」
と言いながらお待ちしていますと、まことその通りお見えになったのです。

このようなお部屋に姫さまと東の御方までいるものですから、御所さまにすれば予想外のことで、下ばきともいえる大口袴だけのお姿で、
「どうしたのか、常の御所に人影さえないというのは。ここには誰が伺候しているのか」
と言って入ってこられた御所さまを、東の御方が抱きしめられました。
「おお、怖い、怖い。誰かいないのか、誰かいないのか」
とおどけながらも大きな声で人を呼ばれましたが、すぐに参上してくる者はおりません。

ようやく、廂の間に師親の大納言殿が参ろうとしましたが、馬道におりましたさぶらふ殿と真清水殿が
「わけがございます。お通し申しません」
と言って、粥杖を持っているものですから、師親の大納言殿が逃げてしまわれたので、姫さまと東の御方は思いのままに御所さまを粥杖でお打ちになったそうでございます。
『これ以後は、ずっと、人に打たせるようなことはしない』
との、御詫び状をお書きいただいたというのですから、上臈女房方も、なかなか恐ろしいものでございますねぇ。

     * * *
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第四十四回

2015-07-12 09:29:48 | 二条の姫君  第二章
               第二章 ( 二 )


さて、粥杖の事件にはまだまだ続きがございます。
姫さまや東の御方はじめ女房方は、万事計画通りにうまく仕返し出来たと溜飲を下げておりましたが、夕方の御食事の時に、常の御所に公卿方が伺候されていましたが、御所さまがこのことを話題にされたのです。

「私は、三十三歳になる。どうやら、厄年に負けたものと思われる。だから、このようなひどい目に遭ったのだ。十善の床を踏んで(帝王の位に就くこと)、万乗の主となった身が杖で打たれたなどということは、昔より未だ例のないことであろう。どうしてまた、諸卿は私に加勢しなかったのだ。女房たちと共謀したのか」
と、公卿一人一人に恨み言を仰せになられましたものでから、それぞれが何かと弁解を申し上げるのに苦労されたようでございます。

そのうちに、
「それにしても、わが君をお打ち申し上げるようなことは、女房であると申しましても、その罪科は決して軽いはずがございません。昔の朝敵とされる者どもでも、これほど不埒なことは致しておりません。御影をさえ踏んではならないことですのに、何と杖でお打ち申し上げたなどという不埒は、軽からぬ罪でございます」
といった趣旨を、二条左大臣藤原師忠殿・三条坊門大納言源道頼殿・善勝寺大納言藤原隆顕殿・西園寺新大納言藤原実兼殿・万里小路大納言源師親殿といったお歴々が、口をそろえて進言されたのでございます。

ことに善勝寺の大納言殿は、いつもの調子で先頭になって、
「それにしても、その女房の名前は誰と誰でしょうか。急いで承りまして、罪科の有様を公卿一同で協議申し上げましょう」
と、申されたのです。おそらく、このあたりが姫さまが今一つお好きになれないところなのでしょうね。

御所さまは、
「本人一人で済まないような重い罪科の場合は、親類にも累が及ぶことになるのか」
とお尋ねになられました。
「申すまでもないことでございます。六親(リクシン・父・母・兄・弟・妻・子の六種の親族)と申しまして、皆累が及びます」
と、得々と一同にお話されていますと、
「まさしく私を打ったのは、故中院大納言雅忠の娘であり、四条大納言隆親の孫であり、善勝寺大納言隆顕の姪と申すのであろうか。また、養女としてたいそう大切にしているということであるから、御息女ともいうべきなのであろう。二条殿の御局の仕業であるから、隆顕卿に一番の罪科が及び、他人事ではなかろう」
と、御所さまが仰せになられましたものですから、御前に伺候されていた公卿方は声を揃えて大笑いとなったそうでございます。

結局、「年の初めに女房を流罪にするのはどうかと思われる。親類縁者まで咎を蒙るのも、なかなかに煩わしいことである。昔にもこのような例があるので、早急に賠償を申しつけるべきである」と、大騒ぎのうえ決定されたようでございます。
お遊びから発展した事件でございますが、どこまで本気なのかもよく分からないままに流罪などという言葉まで出てきていたのです。もっとも、累が伺候されている公卿方まで及ぶとなっては都合良く抑えてしまわれましたが、多くの方々が賠償の責任を負わされることになってしまったのです。

     * * *
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第四十五回

2015-07-12 09:28:49 | 二条の姫君  第二章
               第二章 ( 三 )


当然姫さまも伺候されておりましたので、公卿方の裁定に苦情を申し上げられました。
「今回の一連のことは、わたしが思いついたことではございません。十五日に、あまりにも御所さまが強くお打ちになられただけでなく、公卿や殿上人を召し集めて打たせられましたことは、まったく心外なことと思っておりましたが、この身は物の数でもない者でございますゆえどうしようもないとあきらめておりましたが、東の御方が『この恨みを仕返し申し上げましょう。強力なさい』ということでございましたので、『そのことは、承知いたしました』と申して、御所さまをお打ち申し上げたのでございますから、わたし一人が罪を受けなければならない理由はございません」
と、きっぱりと申し開きをされましたが、
「どういう経緯であれ、まさしく君の御身に杖をお当てした者以上に重い科人はいない」
ということで、賠償することが決定されてしまったのです。

姫さまにとってはまったく心外なことでございましたでしょうが、東の御方の御名前を出されましたのは、決して罪をなすりつけるつもりなどではなく、何といっても院に仕える女房方の中の最高位の御方であり、何よりも春宮の御生母であられますから、この御方が関わっている上は何の処分も出来ないはずだとの判断からでした。
そのあたりのことは、公卿方の方は百も承知で、さらりと、二条の姫君一人の罪で決着させてしまったのです。
姫さまも、東の御方に罪を被らせることなど毛頭考えておりませんでしたから、結局は一人で罪を引き受けることになってしまったのでございます。

善勝寺の大納言殿が御所の御使いとして立ち、隆親卿のもとへ事情をお報せになられました。
四条(藤原)隆親殿は姫さまの母方の祖父にあたり、姫さまにとっては心強い後見者でありましたが、このような形でご迷惑をおかけしてしまったのです。しかも、使者の善勝寺の大納言殿の御父上にあたるわけですから、姫さまのご機嫌は悪くなるばかりです。
隆親殿は、「それは返す返すも無礼な所業でございました。急いで贖(アガナ)い申しましょう」とご返事されました。しかも、「日数が経ちますのはよろしくありますまい。大急ぎで」とわが息子に責められて、二十日の日には贖い物を持って参上されました。

賠償の仕方は何とも仰々しいもので、隆親卿の意地が感じられるものでございました。
その内容は、御所さまへは御直衣・楓御小袖十着・御太刀一振りを差し上げられました。二条左大臣はじめ公卿方六人には太刀を一振りずつ、女房方御中として壇紙(ダンシ・厚手の白い紙)百帳を差し上げられました。

二十一日には善勝寺大納言隆顕殿が賠償の品々をご持参になられました。
隆顕殿は、御所さまからも姫さまのお世話をするようにとの御命令も下されている立場でございますから、御父上隆親卿の贖い物を見てしまった以上、いい加減なことは出来なかったことでしょう。
その内容は、御所さまへは、紫の綾織物と練貫(絹布の種類)で琴と琵琶を作って差し上げられました。さらに銀の柳箱に瑠璃の盃を入れて差し上げられました。
公卿方には馬と牛を、女房方一同には、染物にて食器を作り、糸で瓜を作って入れたものを十個差し上げられました。

その折の御酒盛りがいつもより盛大に行われておりますちょうどその時に、園城寺の隆弁僧正が参られました。すぐさま御前に召され、御酒宴の場に参上なされました。
やがて、鯉が取り出されたのをご覧になって、「宇治の僧正の例がある。包丁道の家に生まれて、黙って見過ごすことはあるまい。料理致すが当然であろう」との御所さまのご意向が僧正殿に伝えられました。
隆弁殿は俗世では藤原北家末茂流四条家の出自で、四条家が包丁道(料理)の家であるゆえのご意向でございます。

当然のことでございますが、僧正殿は固辞されました。
しかし、御所さまの仰せが繰り返されましたので、隆顕殿が俎板を取って僧正殿の前に置きました。さらに、懐から包丁と真魚箸を取りだしてそのそばに置きました。
御所さまは、
「この上は、辞退せずに仕れ」
としきりに仰せられます。
僧正殿は仕方なく、香染めの法衣の袂のままで鯉を切られましたが、高僧のこのようなお姿はまことに珍しいことでございます。

少しばかり切った後僧正殿は、
「頭を切ることは致しかねます」
と申されましたが、
「そのようなこが、どうして認められようか」
と、さらに続けられるよう仰せになられますと、僧正殿は覚悟をお決めになられたのでしょうか、実に見事な包丁さばきを披露しますと、急いで御前を退出されました。
御所さまは、たいそう感じ入られたご様子でしたが、僧正殿の包丁さばきに感心したのか、無理強いを悔いたものなのか、姫さまには判断がつかなかったそうでございます。
ただ、僧正殿の御車が控えている門前に人を向かわせ、贖い物として献上されたばかりの瑠璃の盃を柳箱に据えたまま下賜されたそうでございます。

     * * *
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第四十六回

2015-07-12 09:27:44 | 二条の姫君  第二章
               第二章 ( 四 )


そうこうしていますうちに、隆顕殿がまたまたこのようなことを言い出されたそうでございます。

「祖父、叔父にあたるということで、罪科が贖(アガナ)われましたが、皆外戚にあたるものでございます。伝え聞くところによりますと、まだ父方の祖母が健在だということです。また、叔母もおります。これらに対して、どうして贖いの御命令がないのでしょう」
と、言いだしたのです。

「それも道理だが、直接に血筋が繋がっているわけでもない。それらにまで贖いを命じるとなれば、余りに行き過ぎである。まことの罪状を責めるようで面白くなくなってしまう」
と、御所さまは仰せになられましたが、隆顕殿は、
「このままではよくありません。二条本人を御使いとして御命令なさればよろしゅうございます。また、北山の准后こそは、幼い頃から大切にされており、二条の母の典侍大をも可愛がっておりましたのです」
と、くどくどと申されるのです。
北山の准后殿と申されるお方は、姫さまの祖父四条隆親卿の姉にあたるお方で、准三后という高いご身分のお方なのです。また、雪の曙殿である西園寺実兼卿の祖母にあたるのです。
それにしても、隆顕殿と申されるお方のお気持ちはまったく理解できません。姫さまの第一の後見者であるはずだと思うのですが、このようなお話をお聞きしますと、姫さまがこのお方をあまり好ましく思っていないわけがよく分かります。

御所さまも、さすがに北山の准后殿まで巻き込むことには躊躇されたご様子で、
「准后よりも、そなたに罪が及ぶであろう」
と、孫にあたる西園寺実兼殿に矛先を向けられました。
「それは、あまりにも根拠がはっきりとしない御命令でございます」
と実兼殿はしきりに抗弁されましたが、
「無罪であるはずがない」
と追及されて、とうとう西園寺家も罪を負うこととなりました。

その内容は、御所さまには、沈香で作った舟に麝香鹿のへそ三つで作った船頭を乗せたものと、お召物とを差し上げられました。二条左大臣殿には牛と太刀を、残りの公卿方には牛を、女房方御中としましては金銀箔・州流し(スナガシ・金銀の砂を散らしたもの)・梨子地・紅梅などの檀紙百枚でございました。

     * * *
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第四十七回

2015-07-12 09:26:48 | 二条の姫君  第二章
               第二章 ( 五 )


それにしましても、戯れに始まった事件は次々と波紋を広げて、とうとう行き着く所まで行ってしまったのでございます。

例によって隆顕殿は、なお姫さまの父方のご縁者への贖いを実行させようとしていたのです。
そして、とうとう隆顕殿自ら久我の尼上に連絡を取ったのです。
『このような無礼な振舞いがございました。係累にあたるものはそれぞれ二条の罪科の償いとして賠償いたしました。そちらはいかがなさいますか』
といった内容だったそうです。
この久我の尼上と申される方は、姫さまの父方の祖母にあたるお方ですが、今少し詳しく申しますと、姫さまの御父上雅忠大納言殿の継母にあたるお方でございます。御所さまが直接血が繋がっていないと申されていましたのは、このことを指しております。
姫さまの御祖父、つまり雅忠殿の御父上は久我太政大臣と呼ばれました源通光殿です。久我の尼君はそのご継室でありますから、隆顕大納言ごときの脅しに簡単には動じたりは致しません。

そのご返事は次のようなものであったそうでございます。
『大変なご無礼があったという件でございます。
あの子は幼少の折に、母とは死別いたしました。父雅忠大納言が不憫に思っておりましたところ、まだ産着の中という頃から御所に召し置かれておりましたので、私宅で育ちますより教養があるように育っているものと思っておりました。それゆえ、それほどに道理の分からぬ無作法者に、御前で育っているとはまったく存じませんでした。
これは、わが君のご教育の失敗と存じ上げるしだいでございます。上下を区別しない習慣で、またわが君が大目に見てくださることに増長して、甘え申したものでしょうか、それらのことも私には分かりません。
畏れ多いことではございますが、咎(トガ)は上つ方より順に責任追及の御使いをお下しいただきたく存じます。そう致しましたなら、まったくこちらには累は及びますまい。
雅忠などが生きておりましたなら、不憫のあまりに贖い申しますでございましょう。私にとりましては不憫でもございませんから、勘当せよとのご意向でございますなら、御命令に従います』

隆顕殿がこのご返事を持って参って、御前で披露いしますと、伺候しておりました公卿方は、
「久我の尼上の申し状は、一応その道理がないとは言えまい。御所で成長しましたという、事件のもともとの出所をこそ論ずべきだということは、申すまでもなく正論でございます。
また、女が亡くなると、最初の男性が三瀬川(ミツセガワ・三途の川)をさえ背負って越すということですから」
などと申すものですから、御所さまは、
「これはまた何ということだ。自分自身の訴え事で他人に贖いをさせてきたが、今度はわが身が贖いをせよということなのか」
と仰せになられましたが、
「上として、罪科があると仰せあるならば、下の者もまた上の非を言うのも、道理というものでございましょう」
などと、公卿たちも様々な意見を述べられ、とうとう御所さまも、贖いの勤めを果たすことになったのです。

贖いに関することは権中納言藤原経任殿が担当されました。
公卿方には御太刀一振りずつが与えられました。 女房たちは衣装一揃えずつを頂戴したそうでございます。
姫さまにとりましては、久方ぶりに、愉快でならない出来事でございました。

     * * *


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第四十八回

2015-07-12 09:25:53 | 二条の姫君  第二章
               第二章 ( 六 )


正月からの大騒ぎは一段落し、いつしか三月になりました。
三月は、いつもの後白河院追善の御八講の行われる時分でございます。
かつて行われていた六条殿長講堂は焼失しておりますので、正親町殿の長講堂で行われました。
その結願の十三日に御所さまの御幸がございましたが、その間にお参りになられた方がありました。御所さまの異母弟であられる仁和寺の性助(ショウジョ)法親王でございます。

「還御をお待ち申し上げよう」
と仰って、そのままおいでになっていて、二棟の廊にいらっしゃいました。
姫さまがお目にかかられまして、
「ほどなく還御でございます」
とご案内申し上げて帰ろうとしますと、
「しばらくそこにおいでなさい」
と仰るのです。姫さまは、何の御用かとも思われましたが、そわそわとして逃げ出さなければならないようなお人柄ではありませんので、そのまま伺候することになりました。

特別なお話があるわけではないのですが、いつしか昔話をなされ、
「故大納言がいつも申されていたことも忘れられない」
などと申されるのが姫さまにはとても懐かしく、緊張していた気持ちも緩みうちとけて対坐していますと、何としたことでしょうか、思いがけないことに姫さまに好意を持っているなどと話しだしたそうでございます。

「私の気持ちを、御仏は邪念のある勤行だとお思いであろうと、気が咎めるのだが」
などと仰るものですから、姫さまには全く意外なお話なので、何とか話題をそらしてその場を立ち退こうとしましたが、その袖をさえ引きとどめて、
「どのようなわずかな隙にでも、ほんの少しばかりでも逢おうと、せめて期待を持たせて欲しい」
とまで言われるのです。
嘘偽りではないように見えるお袖の涙が煩わしく感じられたちょうどその時、「還御」という声があり、人々がざわつき始めたのを潮に、姫さまはお袖を振り切って立ち去ることが出来たそうでございます。

意外なことながら、今のことはわけの分からない夢だと思えばよいのかなどと姫さまが考えていますと、御所さまはこの性助法親王とご対面になって、「久し振りだから」などと言って、お酒をお勧めになられたのです。
当然姫さまは、その配膳を勤めることとなり、つい先ほどのお話や、性助法親王の心の内や、はたまた御所さまは何かを感じておられるのだろうかなどと考えてしまったそうです。
そして、姫さまは、この時はまだ、そのようなことを考えているご自分が可笑しかっただけなのでした。

     * * *
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第四十九回

2015-07-12 09:25:04 | 二条の姫君  第二章
               第二章 ( 七 )

さて、そのようなことがありました頃のことでございます。
後深草院と亀山院御兄弟の御仲がよろしくないということが、たいそう良くないことだと鎌倉幕府でも噂になっているということが、伝わってきておりました。
そこで、こちらの御所へ新院(亀山院)が御幸なさりたいというお申し出がありました。

蹴鞠が行われる場所に植えられている木々などご覧になられるであろうということで、その折に蹴鞠を行うということになったそうでございます。
「どのような形式で行えばよいものか」
と、御所さまは前関白であられる近衛の大殿にお尋ねになられました。
「あまり度を越さぬ程度に御酒を差し上げます。そして、蹴鞠の途中でご装束をお直しになられる時には、柿浸し(干柿を刻んで酒に浸したもの)を差し上げることがあります。女房に差し上げさせればよろしいでしょう」
と、お答えになられました。

「女房は誰が良いか」
などと、なお相談をなされて、「ちょうどよいお年頃です。それにふさわしいお人柄でもあるから」ということで、そのお役を姫さまが承ることになったのです。
樺桜(カバザクラ・表が蘇芳、裏が紅花色という重ね)七枚、裏山吹(表が黄、裏が紅)の表着、青色唐衣、紅の打衣、生絹(スズシ)の袴といったご装束でございました。
さらに、浮織物の紅梅の匂いの三つ小袖、唐綾の二つ小袖という艶やかさでございます。

新院がお成りになられました時、御座を差し向かいに設けておりましたが、新院は御覧になられると、
「後嵯峨院の御時に定めおかれたのに、御座の設け方がよろしくない」
と申されて、ご自分の御座を長押の下の廂の間に下げられましたところへ、主人側である御所さまがおいでになられ、
「朱雀院の行幸では、主人の座を差し向かいにされたのに、今日のお出ましには御座を下げられたのは、変わった趣向ですね」
と、申されたそうでございます。
源氏物語の一場面を引いて、御所さまが弟である新院をお引き立てなさったものですが、「とても優雅なお振舞いであった」と、人々が噂されておりました。

格式に従った御食事をなされ、三献が終わった後に春宮(トウグウ)がお出でになり、蹴鞠が行われました。
半ば過ぎた頃、新院が二棟の東の妻戸へお入りになったところへ、松襲(マツガサネ)の五つ衣に紅の打衣、柳の表着、裏山吹の唐衣といった盛装の女房別当殿に、柳箱に御杯を据えて、金の提子(ヒサゲ・つるのついた銚子)に柿浸しを入れたものを持たせて、姫さまが伺候され、御杯をお勧めになられました。
「まず、そなたから飲まれよ」
などと、お言葉をお掛けになられたそうでございます。

新院は、暮近くになるまで蹴鞠を続けられ、松明をともしてお帰りになられました。
次の日、近習の藤原仲頼殿が使者として新院からの御手紙が姫さまに届けられました。仲頼殿は、姫さまの乳母の御子息で旧知のお方であります。
御手紙には、
『 いかにせむうつつともなき面影を 夢と思へば覚むる間もなし 』
とあり、しかも紅の薄様の紙で、柳の枝に付けられているといった、なんとも艶めいたものだったのです。
姫さまもさすがに躊躇されましたが、そのままご返事申し上げないというわけにもゆかず、縹色(ハナダイロ・薄い藍色)の薄様の紙に書いて、桜の枝に付けて、
『 うつつとも夢ともよしやさくら花 咲き散るほどと常ならぬ世に 』
と、この世の無常を訴える内容でございました。

その後も、新院から姫さまにたびたびお手紙が届けられ、姫さまの途惑いは増すばかりでございました。

     * * *
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第五十回

2015-07-12 09:24:00 | 二条の姫君  第二章
               第二章 ( 八 )

六条殿と申しますのは、今は後深草上皇の別院でございますが、大変由緒ある所でございます。
ただ、幾度もの火災などで荒れておりましたが、御所さまが次々と修復をなさっておられるのです。

さて、その六条殿に新しい長講堂をお造りになっておられましたが、このほど完成し、四月にお引っ越しがございました。
御堂供養は曼荼羅供(マンダラク・曼荼羅を掲げて行う法会)。御導師は比叡山の公豪大僧正で、ともに経を上げられる僧は二十人でございます。
その後、やはり比叡山の憲実導師により、定朝堂でも御供養がございましたが、こちらはお引っ越しの後に行われました。

お引っ越しの出だし車(イダシグルマ・女房の衣の袖や裾を簾の下から出して飾りとした車)は五輌でございました。姫さまは、一の車の左側にお乗りになられ、右側には京極殿がお乗りになりました。
はい、お乗りになる席は、左側が上位であるのは当然のことでございます。
姫さまは、撫子(表は紅、裏は紫)の七つ衣、若菖蒲(表は青、裏は紅梅で次第に色が薄くなっている)の表着でした。京極殿は、藤(表は薄紫、裏は青)の五つ衣でした。
お引っ越しの後の三日間は謹慎なされるのが習わしで、白い衣に濃い色の裳・唐衣の礼装で、この間は着替えもなさらないのです。

「御壺合わせしよう」ということになり、公卿・殿上人の方々、上臈・小上臈(上臈は二位・三位の典侍や大臣の娘・孫などで女房となった者。小上臈は公卿の娘で女房となった者)方が御壺庭を割り当てられました。この壺合わせと申しますのは、壺庭を飾ってその出来栄えを競うお遊びでございます。
姫さまには、常の御所の東向きの二間の御壺庭が割り当てられました。
平時継殿は定朝堂の前の二間の通りを割り当てられていて、小さな反り橋を遣り水にとても可愛らしく渡していたのですが、善勝寺の大納言殿が夜のうちに盗んできて、姫さまの御壺に置いたものですから、それと知った時の姫さまは、はじけるほどに大笑いなさいましたのです。

そのようなこともあり、やがて八月となりました。
このところ御所さまは、特にご病気というわけではないのですが、何とはなくお悩み続けることがあって、御食事が進まず、汗をおかきになられるなどの症状が何日も続いておられました。
どういうことかと皆さま方ご心配なさり、医師が参上し、お灸を十か所ばかりに据えられましたが一向に回復されませんでした。
九月の八日でございましたが、延命供(エンメイク゜・延命菩薩、観音菩薩などを祀り読経する仏事)を始められ、七日を過ぎてもなおお変わりがないものですから、姫さまもたいそうご心配されておりました。

この時、御祈祷の阿闍梨として参上されましたのは、この春姫さまに、あからさまにお気持ちを打ち明けられ、袖に涙を宿してまで真情を示そうとされたお方だったのです。
その後も、姫さまが御所さまの御使いとして参られる折々にも、そのお気持ちを伝えようとなされているのですが、姫さまは、何かと紛らわしつつ避けてきておりました。何分、御所さまの異母弟にあたる御方でございますから、邪険にも出来ず、かといって親しくお話しなさるわけにもゆかず、姫さまにとって難しい御方だったのです。

ところがこの度も、こまごまと御心の内をしたためて御手紙を届けられ、しきりにご返事を催促なさるのでした。

     * * *




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第五十一回

2015-07-12 09:22:58 | 二条の姫君  第二章
               第二章 ( 九 )


御所さまの異母弟であられる仁和寺の性助(ショウジョ)法親王は、姫さまにとりまして、何とも悩ましい御方でありました。
何と申しても、御仏に仕える高僧でございますし、御所さまの使者として会う機会も多い御方でございますから、常に粗相のないように御衣裳を整え、お気持ちも緊張を強いられる御方なのですが、その御方が姫さまに胸の内をうちあけられ、しきりにお手紙を届けられるのです。

御所さまの御病状の回復が遅れ、そのご祈祷に訪れていましたこの時も、切々とお心の内を述べられた御手紙を姫さまにお届けになられました。
対応に困られておりました姫さまは、薄様の紙で作られているこよりの端を破られて、「夢」という文字一字だけをお書きになって、御使いとして参った時に置いてきたそうです。
姫さまにすれば、この春お会いになった時の法親王のお言葉などは、全て夢としてお忘れ下さいと伝えたつもりのようでしたが、さて、どのように伝わったのでございましょうか。

日も置かぬうちに姫さまが再び御使いに参りますと、法親王は、樒(シキミ)の枝を一つお投げになられました。
姫さまがお手に取り、片隅に控えて見てみますと、葉に何か書かれているのです。
『 樒摘む暁(アカツキ)起きに袖濡れて 見果てぬ夢の末ぞゆかしき 』

姫さまには、御歌の内容もさることながら、樒の葉に御歌をお書きになられるなど、とても優雅な振舞いに感じられたようでございます。
このことがあってから後の姫さまは、法親王への御使いが重荷ではなくなり、法親王のお話かけにも落ち着いて対応されるようになられました。

御所さまの病状は目立ったご回復の気配がみえない日が続きました。
法親王は御所に参られ、御所さまに対面されて、
「このように、いつお治りになるか分からない状態が続くとは」などとお嘆きになられた後、「御撫物(オンナデモノ・祈祷の時に用いる衣服。あるいは紙の人形)を持たせて、御祈祷の始まる時間に、聴聞所へ御使いの人を遣わせて下さい」
と申し上げられました。

「初夜(一昼夜のうち祈祷などが行われる六つの時刻の一つ。晨朝・日中・日没・初夜・中夜・後夜で、初夜は午後八時から九時頃)の祈祷が始まる頃に、衣を持って聴聞所に参れ」
と、御所さまは姫さまに命じられました。
姫さまが参りますと、伴僧の方々も御祈祷に参加する装束の準備にそれぞれの部屋にいるらしく、聴聞所には何方もいないのです。
ただ、そこには、法親王唯一人いらっしゃったのです。

「御撫物、どちらに持参すればよろしいでしょうか」
と、尋ねられますと、
「道場の側の局へ持参なさい」
と、仰せになれました。
局に参ってみますと、部屋の中は御灯明で照り輝くほどに明るいのに姫さまは驚かれましたが、そこへ、法親王が正装ではなく着慣らしたしわのある衣で入ってこられたのです。

「仏のありがたいお導きは、愛欲の暗い道に迷い入っても必ず救ってくださるだろう」
などと仰せられながら、泣いているかのご表情で姫さまを抱きしめられたのです。
あまりの突然に姫さまはたいそう驚きましたが、「何事です」などと、強く突き放せるような身分の御方ではありませので、じっと堪えながらも、
「御仏の御心のうちも恥ずかしゅうございます」
などと申し上げられましたが、それ以上、どうすることも出来なかったのでございます。

     * * *
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二条の姫君  第五十二回

2015-07-12 09:22:07 | 二条の姫君  第二章
               第二章 ( 十 )


まるで、夢の中のような体験を強いられました姫さまは、その夢がまだ覚めきれずとても現実のこととも思われない状態の時、
「定刻になりました」
という声が聞こえ、伴僧たちがやってきましたので、法親王は局の後ろの方から逃げ帰られたのですが、
「後夜の時に、もう一度必ず来るように」
と強く申されたのです。
間もなく、御祈祷が始まりましたが、まるで何事もなかったかのように御祈祷の導師を務めている法親王のお姿を見ておりますと、とても心から尽くされているとは思われず、姫さまは恐ろしさに身が震えるばかりでございました。

御灯明の光は一点の曇りもなく差し込んできますが、対象的にその火影(ホカゲ)は、愛欲のために沈みこむ来世の闇のように思われて悲しいのですが、その火のように心に灯ってしまった気持ちを姫さまは戸惑うばかりでございました。
心に灯った火は弱々しく、思い焦がれる気持ちなどはないのですが、後夜を過ぎる頃になると、姫さまの足はかの局に向かうのでした。

人の気配のないのを窺いながら局に身を入れますと、法親王はすでにお待ちになっておられました。
後夜の御祈祷はすでに終わっておりますので、少し落ち着いてお逢いすることが出来ましたが、切々とむせび泣かれるご様子はお気の毒なほどでございますが、夜の明けゆく音が聞こえてきますと、姫さまが肌にお付けの小袖と、ご自分の小袖を「形見にするのだ」とむりやり取り換えなさったのです。
朝の起き別れる時も、後朝の恋の情緒とはとても言えないものでしたが、姫さまのお心が大きく変化した一夜であったことは確かなようでございます。

自分のお部屋に戻られた姫さまは、今一度横になられましたが、先ほど取り換えてきた御方の小袖の褄に、何かが付いているのです。
取って見てみますと、陸奥紙を少し引き裂いたものに、
『 うつつとも夢ともいまだわきかねて 悲しき残る秋の夜の月 』
と書いてあるのです。
いつの間にお書きになったのかと思うにつけても、気まぐれではないらしい愛情が姫さまにも伝わってくるものでした。

この後も、この期間中は、毎夜と言ってよいほどお二人は逢瀬を続けられました。
この度の御祈祷は、とても心清らかな御祈誓などと申せるものではなく、姫さまは、ただただ御仏にお恥ずかしい思いが積み重なっておりました。
しかしながら、御所さまへの御仏のお気持ちはありがたく、二七日(ニシチニチ)の末頃から快方に向かわれ、三七日(サンシチニチ)にて御結願となり、性助法親王はお帰りになられました。

いよいよ明日はお帰りだという日の夜、
「この先は、どのような機会を待っておればよいのか。そなたのことを思うにつけ、修業もおろそかになり、念誦の床にも塵積り、護摩の道場も煙が絶えてしまいそうだ。せめて、そなたの心が私と同じであるのならば、この地位を捨てて世捨て人の墨染の衣にかえて、深山に籠り、さほど長くもない今生を思い惑うことなく過ごしたい」
と、姫さまに訴えかけました。その余りの一途さは、姫さまには気味悪く感じられたようでございます。

夜明けを告げる鐘の音に、お別れの仕草などは、いつの間にそのようなことをお習いになったかと思われるような言葉を残されるのも感慨深いものがありますが、それらの振舞いが、辛い憂き名を流すことにはならないかと、心配されるのです。
姫さまにとって、決してお好きな人ではなく、突き放せないご身分と、同情心からの始まりだったとお見受けしますが、やはり、いつしか少なからず心にかかるお人となり、「有明の月」殿と呼ばれるようになったのです。

    * * *
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする