二条の姫君
第二章 絢爛の荒波に揉まれて
第二章 ( 一 )
『 いかで我隙ゆく駒を引き留めて 昔に帰る道を尋ねん 』
と、詠んだ人もおりますが、時の移り変わる速さといえば、早瀬川の流れをも凌ぎ、再び元に戻すことなど出来ぬのが定めと申すものなのでしょうか。
昨春には八歳の後宇多天皇が即位なさり、後深草院・亀山院という御兄弟の上皇が相並ぶこととなり、何かと騒がしいことでございましたが、後深草院の皇子が春宮に立たれることで決着をみて、後深草院の御所には晴れやかな雰囲気が漂うようになっております。
そして、明けて建治元年(1275)正月、姫さまは十八歳の春を迎えました。
百千鳥(モモチドリ・たくさんの鳥)が楽しげにさえずる春の日差しがのどかな新春でございますが、姫さまのお気持ちは沈みがちなものでございました。
何が原因だとはっきりしない心の内の煩悶を、姫さまは常に抱いておられるようで、はなやかな新年の様々な行事にも今一つ心が晴れぬご様子なのです。
今年の御薬の行事には、花山院太政 大臣殿がお役として出仕されました。昨年、後院の別当というお役にお就きになられましたが、後院は亀山天皇のためのものでございますから、こちらの御所の方々はご不快の様子もあったようですが、御所さまの皇子が春宮(トウグウ)にお立ちになられたことで、政治上のご不満も解消されましたし、また後々までいさかいの根を残さないためにも、今回御薬のお役に参られたようでございます。
女房たちは、格別に袖口も美しく装って、台盤所の人々は特別に気配りし、衣装の色なども心を尽くされたようでございます。
いつぞやの年、姫さまの御父上である中院大納言殿が御薬のお役をお勤めになられたことなどが、新年とはいえ姫さまには昨日のことのように思い出され、昔を懐かしむ涙を流されるのを、責めることなど出来ません。
さて、春宮の御方は、堅苦しい御行事が一段落するのを待ちかねていたのでしょうか、早速に御方分かち(オンカタワカチ・二組に分かれて何かの勝負をする)をしようと、それも十五日の内にと大騒ぎをされる。
いつものように、院の御方と春宮の御方がそれぞれに分かれられ、廷臣や女房たちはめいめいくじによって分けられるのです。その相手には、廷臣に女房を合わせられるのです。
春宮の御方には、傅の大臣(フノオトド・春宮の補導役、主に大臣の兼職)始め皆廷臣で、院の御方には御所さま以外は皆女房で、相手をくじで決めるのです。
姫さまのお相手には、傅の大臣(藤原師忠、この時二十二歳で右大臣)が当たりました。
「めいめい引出物を思い思いにそれぞれが用意して、さまざまな芸能を無理にでもさせよ」
という申し付けがありました。
賑やかなお遊びの中で、女房の方々にとって、ひどく堪えがたかったことは、あまりのことにも、御所さまが御自身お一人ではなく、近習の男たちを召し集めて、女房たちを粥杖(カユヅエ・正月十五日に粥を焚いた木で女性の腰を打つと安産だという迷信があった)で打たせさせたことでした。
これを、女房皆が何ともしゃくにさわることだというので、姫さまは東の御方と相談され、十八日に御所さまをお打ち申し上げようとの企みを練ったのです。
十八日、早朝の御食事が終わった頃、台盤所に女房たちが寄り集まって、御湯殿の上の口には新大納言殿・権中納言殿、表の方には別当殿・九五殿、常の御所の中には中納言殿、馬道(メンドウ・殿舎をつなぐ板敷の道)には真清水殿・さぶらふ殿などを配置することを決め、姫さまと東の御方はお二人で奥のひと間でとりとめもない話をしながら、
「きっと御所さまはここにおいでになるでしょう」
と言いながらお待ちしていますと、まことその通りお見えになったのです。
このようなお部屋に姫さまと東の御方までいるものですから、御所さまにすれば予想外のことで、下ばきともいえる大口袴だけのお姿で、
「どうしたのか、常の御所に人影さえないというのは。ここには誰が伺候しているのか」
と言って入ってこられた御所さまを、東の御方が抱きしめられました。
「おお、怖い、怖い。誰かいないのか、誰かいないのか」
とおどけながらも大きな声で人を呼ばれましたが、すぐに参上してくる者はおりません。
ようやく、廂の間に師親の大納言殿が参ろうとしましたが、馬道におりましたさぶらふ殿と真清水殿が
「わけがございます。お通し申しません」
と言って、粥杖を持っているものですから、師親の大納言殿が逃げてしまわれたので、姫さまと東の御方は思いのままに御所さまを粥杖でお打ちになったそうでございます。
『これ以後は、ずっと、人に打たせるようなことはしない』
との、御詫び状をお書きいただいたというのですから、上臈女房方も、なかなか恐ろしいものでございますねぇ。
* * *
第二章 絢爛の荒波に揉まれて
第二章 ( 一 )
『 いかで我隙ゆく駒を引き留めて 昔に帰る道を尋ねん 』
と、詠んだ人もおりますが、時の移り変わる速さといえば、早瀬川の流れをも凌ぎ、再び元に戻すことなど出来ぬのが定めと申すものなのでしょうか。
昨春には八歳の後宇多天皇が即位なさり、後深草院・亀山院という御兄弟の上皇が相並ぶこととなり、何かと騒がしいことでございましたが、後深草院の皇子が春宮に立たれることで決着をみて、後深草院の御所には晴れやかな雰囲気が漂うようになっております。
そして、明けて建治元年(1275)正月、姫さまは十八歳の春を迎えました。
百千鳥(モモチドリ・たくさんの鳥)が楽しげにさえずる春の日差しがのどかな新春でございますが、姫さまのお気持ちは沈みがちなものでございました。
何が原因だとはっきりしない心の内の煩悶を、姫さまは常に抱いておられるようで、はなやかな新年の様々な行事にも今一つ心が晴れぬご様子なのです。
今年の御薬の行事には、花山院太政 大臣殿がお役として出仕されました。昨年、後院の別当というお役にお就きになられましたが、後院は亀山天皇のためのものでございますから、こちらの御所の方々はご不快の様子もあったようですが、御所さまの皇子が春宮(トウグウ)にお立ちになられたことで、政治上のご不満も解消されましたし、また後々までいさかいの根を残さないためにも、今回御薬のお役に参られたようでございます。
女房たちは、格別に袖口も美しく装って、台盤所の人々は特別に気配りし、衣装の色なども心を尽くされたようでございます。
いつぞやの年、姫さまの御父上である中院大納言殿が御薬のお役をお勤めになられたことなどが、新年とはいえ姫さまには昨日のことのように思い出され、昔を懐かしむ涙を流されるのを、責めることなど出来ません。
さて、春宮の御方は、堅苦しい御行事が一段落するのを待ちかねていたのでしょうか、早速に御方分かち(オンカタワカチ・二組に分かれて何かの勝負をする)をしようと、それも十五日の内にと大騒ぎをされる。
いつものように、院の御方と春宮の御方がそれぞれに分かれられ、廷臣や女房たちはめいめいくじによって分けられるのです。その相手には、廷臣に女房を合わせられるのです。
春宮の御方には、傅の大臣(フノオトド・春宮の補導役、主に大臣の兼職)始め皆廷臣で、院の御方には御所さま以外は皆女房で、相手をくじで決めるのです。
姫さまのお相手には、傅の大臣(藤原師忠、この時二十二歳で右大臣)が当たりました。
「めいめい引出物を思い思いにそれぞれが用意して、さまざまな芸能を無理にでもさせよ」
という申し付けがありました。
賑やかなお遊びの中で、女房の方々にとって、ひどく堪えがたかったことは、あまりのことにも、御所さまが御自身お一人ではなく、近習の男たちを召し集めて、女房たちを粥杖(カユヅエ・正月十五日に粥を焚いた木で女性の腰を打つと安産だという迷信があった)で打たせさせたことでした。
これを、女房皆が何ともしゃくにさわることだというので、姫さまは東の御方と相談され、十八日に御所さまをお打ち申し上げようとの企みを練ったのです。
十八日、早朝の御食事が終わった頃、台盤所に女房たちが寄り集まって、御湯殿の上の口には新大納言殿・権中納言殿、表の方には別当殿・九五殿、常の御所の中には中納言殿、馬道(メンドウ・殿舎をつなぐ板敷の道)には真清水殿・さぶらふ殿などを配置することを決め、姫さまと東の御方はお二人で奥のひと間でとりとめもない話をしながら、
「きっと御所さまはここにおいでになるでしょう」
と言いながらお待ちしていますと、まことその通りお見えになったのです。
このようなお部屋に姫さまと東の御方までいるものですから、御所さまにすれば予想外のことで、下ばきともいえる大口袴だけのお姿で、
「どうしたのか、常の御所に人影さえないというのは。ここには誰が伺候しているのか」
と言って入ってこられた御所さまを、東の御方が抱きしめられました。
「おお、怖い、怖い。誰かいないのか、誰かいないのか」
とおどけながらも大きな声で人を呼ばれましたが、すぐに参上してくる者はおりません。
ようやく、廂の間に師親の大納言殿が参ろうとしましたが、馬道におりましたさぶらふ殿と真清水殿が
「わけがございます。お通し申しません」
と言って、粥杖を持っているものですから、師親の大納言殿が逃げてしまわれたので、姫さまと東の御方は思いのままに御所さまを粥杖でお打ちになったそうでございます。
『これ以後は、ずっと、人に打たせるようなことはしない』
との、御詫び状をお書きいただいたというのですから、上臈女房方も、なかなか恐ろしいものでございますねぇ。
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