運命紀行
さすらう女房
『 岩橋の夜の契も絶えぬべし 明くるわびしき葛城の神 』
「拾遺集」に載せられている和歌である。
和歌の意味は私見であるが、「葛城の神の岩橋の工事が未完成であったように、私たちの夜の逢瀬も絶えてしまうのでしょうね。夜が明けるのが辛いのです、葛城の神のように醜い私ですから」となる。
なお、葛城の神とは、奈良葛城山に住むという神で、役行者の命令で葛城山と吉野金峰山との間に岩橋を架けようとしたが、自分の容貌が醜いことを恥じて夜間しか工事をしなかったため、岩橋は完成しなかったと伝えられている。
作者は、小大君(コオオキミ・コダイノキミ)。三条院女房左近とも伝えられている女性である。
この和歌の相手となる男性は、藤原朝光と考えられている。
朝光は、関白藤原兼通の四男(三男など諸説ある)。若くからの俊才で、二十四歳で参議となり、兄弟たちの中で一番早く公卿となった。父親の期待も大きく、二十七歳で権大納言兼左近衛大将と抜群の昇進を続け、一門の期待の人物となったが、四十五歳で当時大流行した疱瘡のため死没している。
朝光は、歌才にも恵まれていて当時の著名な歌人との交流も多かった。
「新古今和歌集」に、このような和歌が収録されている。
『 きえかへりあるかなきかの我が身かな うらみてかへる道芝の露 』
意訳すれば、「折角訪ねてきたのに逢うことも出来ず、生きているのか死んでしまったのかも分からないこの身です。つれないあなたを恨みながら帰る道端に生えている雑草の露のような私なのです」
この和歌は、「小大君集」にも採録されているので、小大君に贈られたものと考えられる。
早くから宮仕えの女房となり、それも決して高位の女房であったとは考えられず、しかも、再三主人を変えねばならなかった小大君・・・。
しかし、少なくとも名門の御曹司との逢瀬を重ねていた一時期は、切なくも幸せな時間を送っていたに違いない。
* * *
小大君は、三十六歌仙の一人に選ばれている平安時代の女流歌人である。
三十六歌仙とは、平安中期の歌壇の一人者であった藤原公任の秀歌撰「三十六人撰」に撰ばれた、万葉歌人から当代までの有力歌人を指す。その選定は、公任の個人的な判断に歪められている部分もある。特に、当代に近い歌人については、時の権力者藤原道長に配慮したと考えられる部分もあり、三十六歌仙をもって、平安中期までの歌人の最上位と考えるのは正しくない。
しかし、そうではあっても、三十六歌仙に選出されている歌人が、相当の評価を得ていたことは確かなことであろう。
小大君の生没年は未詳である。そればかりではなく、両親や家柄なども確定できていない。この時代の女性の生没年などが分からないのはごく普通ではあるが、それにしても、歌人としては生前から注目されていたし、著名な歌人との交流も少なくなく、宮仕えも経験しているのである。
何か意図的なものがあるようにも疑ってしまう。
残されている記録を辿ってみると、最初は円融天皇の皇后媓子(コウコ)に仕えている。媓子が入内したのは西暦973年で、979年に三十三歳で亡くなっている。
その後、三条天皇が皇太子であった時代(986~1011)女蔵人として仕え、左近と呼ばれていたらしい。
三条天皇は在位四年余りで病もあって退位、その翌年に崩御している。
小大君が何年の生涯を送ったのか全く不明であるが、媓子が皇后であった全期間、三条天皇の皇太子から崩御するまでの全期間を女房あるいは女官として仕えていたとしても、三十五年ほどである。それ以外の期間は、どのように生活していたのだろうか。
三条天皇の皇太子時代は、女蔵人として仕えていたとの記録があるが、女蔵人というのは命婦(中臈クラス)より下位にあって、雑用などを担当する女官である。上級貴族の息女が務める職務ではないと考えられる。つまり、小大君の実家は有力者でないと考えられるのである。
しかし、「後拾遺和歌集」には気になる文章が残されている。
この勅撰和歌集の巻頭歌には、小大君の和歌が選ばれているのである。
『 いかに寝て起くる朝(アシタ)に言うことぞ 昨日を去年(コゾ)と今日を今年と 』
何とも滑稽で、しかし取りようによっては意味深長な作品ですが、この作者について説明書きが付いているのです。
「 小大君(三条院女房左近) 父母不詳。或書云、三品式部卿重明親王女、母貞信公女 」と。
つまり、或書には、斎宮女御徽子女王と同母の姉妹だと記録されているのである。
そして、この「後拾遺和歌集」の完成は1086年の成立とされているので、小大君が活躍していた時から最大でも七十年しか経っていないのである。これほどの家柄の女性の出自はあやふやになってしまうものなのだろうか。
また、藤原公任が1007年に撰んだとされる「藤原公任前十五番歌合」には、例えば、一番は紀貫之と凡河内躬恒というように二人一組にしているが、その十一番目には、斎宮女御と小大君が並べられているのである。
単なる偶然とは思われず、少なくとも公任は二人の関係を知っていたのではないか。
また、これは全く別のことであるが、家集「小大君集」には「小町集」と重複する歌が見られる。さらに、「小町集」の別の二首が、「栄華物語」では小大君の作品として紹介されているという。これもまた、たまたま起こった間違いに過ぎないのだろうか。
斎宮女御徽子女王の母寛子(カンシ)は、945年に亡くなっているので、小大君の出生がこの時だと仮定した場合、三条天皇の皇太子時代に女蔵人として仕えた時は、四十歳を過ぎていたことになる。
親王を父に持ち、朱雀天皇の摂政関白を務めた藤原忠平の娘を母に持っている女性ならば、上臈女房として出仕しておかしくない。下級女官に過ぎない女蔵人として仕えるなど、身分制度の厳しい当時、考えられないことである。
この「或書」が間違っているのか、女王と呼ばれるべき出生を隠さなくてはならない事情があったのか、もしそうであるならば、小大君にとって厳しい生涯だったのではないだろうか。
小大君が生きた時代は、清少納言や紫式部などの活躍期と重複する時代である。平安王朝文学の絶頂期ともいえる。
その中にあって、小大君は後世にその名を残すだけの文才を発揮したことは確かであるが、その才能に見合うだけの生涯を送ったのかどうか、気になってならない。
( 完 )
さすらう女房
『 岩橋の夜の契も絶えぬべし 明くるわびしき葛城の神 』
「拾遺集」に載せられている和歌である。
和歌の意味は私見であるが、「葛城の神の岩橋の工事が未完成であったように、私たちの夜の逢瀬も絶えてしまうのでしょうね。夜が明けるのが辛いのです、葛城の神のように醜い私ですから」となる。
なお、葛城の神とは、奈良葛城山に住むという神で、役行者の命令で葛城山と吉野金峰山との間に岩橋を架けようとしたが、自分の容貌が醜いことを恥じて夜間しか工事をしなかったため、岩橋は完成しなかったと伝えられている。
作者は、小大君(コオオキミ・コダイノキミ)。三条院女房左近とも伝えられている女性である。
この和歌の相手となる男性は、藤原朝光と考えられている。
朝光は、関白藤原兼通の四男(三男など諸説ある)。若くからの俊才で、二十四歳で参議となり、兄弟たちの中で一番早く公卿となった。父親の期待も大きく、二十七歳で権大納言兼左近衛大将と抜群の昇進を続け、一門の期待の人物となったが、四十五歳で当時大流行した疱瘡のため死没している。
朝光は、歌才にも恵まれていて当時の著名な歌人との交流も多かった。
「新古今和歌集」に、このような和歌が収録されている。
『 きえかへりあるかなきかの我が身かな うらみてかへる道芝の露 』
意訳すれば、「折角訪ねてきたのに逢うことも出来ず、生きているのか死んでしまったのかも分からないこの身です。つれないあなたを恨みながら帰る道端に生えている雑草の露のような私なのです」
この和歌は、「小大君集」にも採録されているので、小大君に贈られたものと考えられる。
早くから宮仕えの女房となり、それも決して高位の女房であったとは考えられず、しかも、再三主人を変えねばならなかった小大君・・・。
しかし、少なくとも名門の御曹司との逢瀬を重ねていた一時期は、切なくも幸せな時間を送っていたに違いない。
* * *
小大君は、三十六歌仙の一人に選ばれている平安時代の女流歌人である。
三十六歌仙とは、平安中期の歌壇の一人者であった藤原公任の秀歌撰「三十六人撰」に撰ばれた、万葉歌人から当代までの有力歌人を指す。その選定は、公任の個人的な判断に歪められている部分もある。特に、当代に近い歌人については、時の権力者藤原道長に配慮したと考えられる部分もあり、三十六歌仙をもって、平安中期までの歌人の最上位と考えるのは正しくない。
しかし、そうではあっても、三十六歌仙に選出されている歌人が、相当の評価を得ていたことは確かなことであろう。
小大君の生没年は未詳である。そればかりではなく、両親や家柄なども確定できていない。この時代の女性の生没年などが分からないのはごく普通ではあるが、それにしても、歌人としては生前から注目されていたし、著名な歌人との交流も少なくなく、宮仕えも経験しているのである。
何か意図的なものがあるようにも疑ってしまう。
残されている記録を辿ってみると、最初は円融天皇の皇后媓子(コウコ)に仕えている。媓子が入内したのは西暦973年で、979年に三十三歳で亡くなっている。
その後、三条天皇が皇太子であった時代(986~1011)女蔵人として仕え、左近と呼ばれていたらしい。
三条天皇は在位四年余りで病もあって退位、その翌年に崩御している。
小大君が何年の生涯を送ったのか全く不明であるが、媓子が皇后であった全期間、三条天皇の皇太子から崩御するまでの全期間を女房あるいは女官として仕えていたとしても、三十五年ほどである。それ以外の期間は、どのように生活していたのだろうか。
三条天皇の皇太子時代は、女蔵人として仕えていたとの記録があるが、女蔵人というのは命婦(中臈クラス)より下位にあって、雑用などを担当する女官である。上級貴族の息女が務める職務ではないと考えられる。つまり、小大君の実家は有力者でないと考えられるのである。
しかし、「後拾遺和歌集」には気になる文章が残されている。
この勅撰和歌集の巻頭歌には、小大君の和歌が選ばれているのである。
『 いかに寝て起くる朝(アシタ)に言うことぞ 昨日を去年(コゾ)と今日を今年と 』
何とも滑稽で、しかし取りようによっては意味深長な作品ですが、この作者について説明書きが付いているのです。
「 小大君(三条院女房左近) 父母不詳。或書云、三品式部卿重明親王女、母貞信公女 」と。
つまり、或書には、斎宮女御徽子女王と同母の姉妹だと記録されているのである。
そして、この「後拾遺和歌集」の完成は1086年の成立とされているので、小大君が活躍していた時から最大でも七十年しか経っていないのである。これほどの家柄の女性の出自はあやふやになってしまうものなのだろうか。
また、藤原公任が1007年に撰んだとされる「藤原公任前十五番歌合」には、例えば、一番は紀貫之と凡河内躬恒というように二人一組にしているが、その十一番目には、斎宮女御と小大君が並べられているのである。
単なる偶然とは思われず、少なくとも公任は二人の関係を知っていたのではないか。
また、これは全く別のことであるが、家集「小大君集」には「小町集」と重複する歌が見られる。さらに、「小町集」の別の二首が、「栄華物語」では小大君の作品として紹介されているという。これもまた、たまたま起こった間違いに過ぎないのだろうか。
斎宮女御徽子女王の母寛子(カンシ)は、945年に亡くなっているので、小大君の出生がこの時だと仮定した場合、三条天皇の皇太子時代に女蔵人として仕えた時は、四十歳を過ぎていたことになる。
親王を父に持ち、朱雀天皇の摂政関白を務めた藤原忠平の娘を母に持っている女性ならば、上臈女房として出仕しておかしくない。下級女官に過ぎない女蔵人として仕えるなど、身分制度の厳しい当時、考えられないことである。
この「或書」が間違っているのか、女王と呼ばれるべき出生を隠さなくてはならない事情があったのか、もしそうであるならば、小大君にとって厳しい生涯だったのではないだろうか。
小大君が生きた時代は、清少納言や紫式部などの活躍期と重複する時代である。平安王朝文学の絶頂期ともいえる。
その中にあって、小大君は後世にその名を残すだけの文才を発揮したことは確かであるが、その才能に見合うだけの生涯を送ったのかどうか、気になってならない。
( 完 )