雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  さすらう女房

2012-08-23 08:00:46 | 運命紀行
       運命紀行

          さすらう女房


『 岩橋の夜の契も絶えぬべし 明くるわびしき葛城の神 』

「拾遺集」に載せられている和歌である。
和歌の意味は私見であるが、「葛城の神の岩橋の工事が未完成であったように、私たちの夜の逢瀬も絶えてしまうのでしょうね。夜が明けるのが辛いのです、葛城の神のように醜い私ですから」となる。
なお、葛城の神とは、奈良葛城山に住むという神で、役行者の命令で葛城山と吉野金峰山との間に岩橋を架けようとしたが、自分の容貌が醜いことを恥じて夜間しか工事をしなかったため、岩橋は完成しなかったと伝えられている。

作者は、小大君(コオオキミ・コダイノキミ)。三条院女房左近とも伝えられている女性である。
この和歌の相手となる男性は、藤原朝光と考えられている。
朝光は、関白藤原兼通の四男(三男など諸説ある)。若くからの俊才で、二十四歳で参議となり、兄弟たちの中で一番早く公卿となった。父親の期待も大きく、二十七歳で権大納言兼左近衛大将と抜群の昇進を続け、一門の期待の人物となったが、四十五歳で当時大流行した疱瘡のため死没している。

朝光は、歌才にも恵まれていて当時の著名な歌人との交流も多かった。
「新古今和歌集」に、このような和歌が収録されている。

『 きえかへりあるかなきかの我が身かな うらみてかへる道芝の露 』

意訳すれば、「折角訪ねてきたのに逢うことも出来ず、生きているのか死んでしまったのかも分からないこの身です。つれないあなたを恨みながら帰る道端に生えている雑草の露のような私なのです」
この和歌は、「小大君集」にも採録されているので、小大君に贈られたものと考えられる。

早くから宮仕えの女房となり、それも決して高位の女房であったとは考えられず、しかも、再三主人を変えねばならなかった小大君・・・。
しかし、少なくとも名門の御曹司との逢瀬を重ねていた一時期は、切なくも幸せな時間を送っていたに違いない。


     * * *

小大君は、三十六歌仙の一人に選ばれている平安時代の女流歌人である。
三十六歌仙とは、平安中期の歌壇の一人者であった藤原公任の秀歌撰「三十六人撰」に撰ばれた、万葉歌人から当代までの有力歌人を指す。その選定は、公任の個人的な判断に歪められている部分もある。特に、当代に近い歌人については、時の権力者藤原道長に配慮したと考えられる部分もあり、三十六歌仙をもって、平安中期までの歌人の最上位と考えるのは正しくない。
しかし、そうではあっても、三十六歌仙に選出されている歌人が、相当の評価を得ていたことは確かなことであろう。

小大君の生没年は未詳である。そればかりではなく、両親や家柄なども確定できていない。この時代の女性の生没年などが分からないのはごく普通ではあるが、それにしても、歌人としては生前から注目されていたし、著名な歌人との交流も少なくなく、宮仕えも経験しているのである。
何か意図的なものがあるようにも疑ってしまう。

残されている記録を辿ってみると、最初は円融天皇の皇后媓子(コウコ)に仕えている。媓子が入内したのは西暦973年で、979年に三十三歳で亡くなっている。
その後、三条天皇が皇太子であった時代(986~1011)女蔵人として仕え、左近と呼ばれていたらしい。
三条天皇は在位四年余りで病もあって退位、その翌年に崩御している。
小大君が何年の生涯を送ったのか全く不明であるが、媓子が皇后であった全期間、三条天皇の皇太子から崩御するまでの全期間を女房あるいは女官として仕えていたとしても、三十五年ほどである。それ以外の期間は、どのように生活していたのだろうか。

三条天皇の皇太子時代は、女蔵人として仕えていたとの記録があるが、女蔵人というのは命婦(中臈クラス)より下位にあって、雑用などを担当する女官である。上級貴族の息女が務める職務ではないと考えられる。つまり、小大君の実家は有力者でないと考えられるのである。

しかし、「後拾遺和歌集」には気になる文章が残されている。
この勅撰和歌集の巻頭歌には、小大君の和歌が選ばれているのである。

『 いかに寝て起くる朝(アシタ)に言うことぞ 昨日を去年(コゾ)と今日を今年と 』

何とも滑稽で、しかし取りようによっては意味深長な作品ですが、この作者について説明書きが付いているのです。
「 小大君(三条院女房左近) 父母不詳。或書云、三品式部卿重明親王女、母貞信公女 」と。

つまり、或書には、斎宮女御徽子女王と同母の姉妹だと記録されているのである。
そして、この「後拾遺和歌集」の完成は1086年の成立とされているので、小大君が活躍していた時から最大でも七十年しか経っていないのである。これほどの家柄の女性の出自はあやふやになってしまうものなのだろうか。
また、藤原公任が1007年に撰んだとされる「藤原公任前十五番歌合」には、例えば、一番は紀貫之と凡河内躬恒というように二人一組にしているが、その十一番目には、斎宮女御と小大君が並べられているのである。
単なる偶然とは思われず、少なくとも公任は二人の関係を知っていたのではないか。
また、これは全く別のことであるが、家集「小大君集」には「小町集」と重複する歌が見られる。さらに、「小町集」の別の二首が、「栄華物語」では小大君の作品として紹介されているという。これもまた、たまたま起こった間違いに過ぎないのだろうか。

斎宮女御徽子女王の母寛子(カンシ)は、945年に亡くなっているので、小大君の出生がこの時だと仮定した場合、三条天皇の皇太子時代に女蔵人として仕えた時は、四十歳を過ぎていたことになる。
親王を父に持ち、朱雀天皇の摂政関白を務めた藤原忠平の娘を母に持っている女性ならば、上臈女房として出仕しておかしくない。下級女官に過ぎない女蔵人として仕えるなど、身分制度の厳しい当時、考えられないことである。
この「或書」が間違っているのか、女王と呼ばれるべき出生を隠さなくてはならない事情があったのか、もしそうであるならば、小大君にとって厳しい生涯だったのではないだろうか。

小大君が生きた時代は、清少納言や紫式部などの活躍期と重複する時代である。平安王朝文学の絶頂期ともいえる。
その中にあって、小大君は後世にその名を残すだけの文才を発揮したことは確かであるが、その才能に見合うだけの生涯を送ったのかどうか、気になってならない。

                                        ( 完 )

   
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運命紀行  お笑いなさるな

2012-08-17 08:00:51 | 運命紀行
       運命紀行

          お笑いなさるな


清原元輔が内蔵助に就いていた頃のことである。

その元輔が賀茂祭の奉幣使として颯爽たる姿で一条大路にさしかかった時、事件は起こった。
そのあたり一帯には、若い殿上人たちの牛車が数多く止められていて、行列の到来を待ち構えている。所々には桟敷も設けられていて、こちらも人々が溢れるばかりである。

元輔の飾り馬がその前に来た時、突然馬が暴れ出し、元輔は頭から逆さまに落ちてしまった。
年老いた姿の使者が落馬したのであるから、見物に集まっていた君達(キンダチ・公達とも。若い貴族)たちが気の毒なことだと見ていると、元輔は、まことに素早く起き上がった。
しかし、冠は飛んでしまい、むき出しになってしまった頭には一本の毛さえない。まるで素焼きの土器を被っているみたいである。

この時代、人前で頭をさらすことは恥辱とされていたから、馬の口取りは大慌てで冠を拾って渡そうとしたが、元輔は受取ろうともしない。そして、
「さてさて、何と騒がしいことだ。しばらく待たれよ。物見の君達方に申し上げたいことがございます」
と言って、並んでいる殿上人たちの牛車のもとに歩み寄った。
折から夕陽が差してきていて、頭はきらきらと光り、たいそう見苦しきことこの上もない。
大路に詰めかけている者たちは、我も我もと集まり罵りながら大騒ぎになる。牛車の君達も桟敷にある者も、みな伸び上がるようにして、大笑いしながら罵っている。

そんな騒動の中、元輔は君達の牛車に近づいて大声で話しかける。
「御曹司たちは、元輔が馬から落ちて冠を落としてしまったことを愚かだと思っているのでしょう。しかし、それはとんでもない間違いですぞ。
なぜなら、思慮分別のある人でさえ、物につまづいて転ぶことはよくあることです。ましてや、馬には思慮分別などあるはずもない。それにこの大路はデコボコ道ですぞ。また、馬は口の金具を引かれているから、自分が歩こうと思う方向に歩かせてもらえず、右に左に綱を引いて転ばせてしまったのである。だから、何が何だか分からないうちに倒れてしまった馬を憎らしいと思うべきもあるまい。

それにな、倒れようとする馬を私にはどうすることも出来ますまい。さらに、あの豪華な唐鞍というものは、鐙(アブミ)に足をしっかりとかけられないように出来ているから、馬がひどくつまづいたため私は落ちてしまったのですぞ。だから、私の責任ではない。
また、冠が落ちてしまったことについては、冠というものは、紐で結んで固定するものではないでしょう。髻(モトドリ)を巾子(コジ・冠のうしろの頂上に高く立てるもの)に差し込んで固定するものでしょう。ところがじゃ、髻はほれこの通り、つゆほどもなし。落ちた冠を恨むわけにもいきますまい。

それにですぞ、冠を落としたということについては、前例のないことではありませんぞ。
某々大臣は、大嘗会の日に落としなさった。また、某々中納言は、その年の野の行幸で落としなさった。さらに、某々中将は、葵祭の帰りの日、紫野で落としなさった。
このような例は、数えきれないほどあるのですよ。

ですから、事情もご存知ないまだお若いは君達方は、これをお笑いになってはいけませんぞ。お笑いになった君達こそが、かえって愚かだということになるでしょうからな」
と言いながら、元輔は一台一台に向かって、指を折りながら、一つ一つ言い聞かせている。それがようやく終わると、牛車の列から遠く離れて、大路の真ん中に突っ立って、
「冠を持って参れ」と大声で従者に命じて、ようやく冠を被った。
その様子を見ていた人たちは、皆が心を一つにしたかのように笑い罵った。

また、冠を渡すために元輔のもとに寄って来た馬の口取りは、
「馬より落ちられましたうえ、さらに御冠をお付けにならない状態で、なぜ長い時間意味のないことを申されていたのですか」と、あきれ顔でたずねますと、元輔は、
「意味のないことなどでは、ないぞ。
あのように道理を言いきかせておけば、後々は、この君達たちは笑わないだろう。そうでなければ、口達者な君達たちは、いついつまでも物笑いにする者たちぞ」
と言って、大路を通り過ぎて行った。

この元輔は、世慣れた人で、物事を滑稽に言って人を笑わせるのを役目と思っているような翁であるから、これほどまでに、臆面もなく言ったのだと、語り伝えられているとか。


     * * *

以上は、今昔物語集に収録されているものである。宇治拾遺物語にもほぼ同様の内容で載せられている。
冒頭に、元輔が内蔵助の頃とあるので、天延二年(974)に周防守と兼務で鋳銭長官に就いているので、その後のことらしい。そうだとすれば、年齢はすでに六十歳代後半、当時としては、文中にもあるように「翁」と表現される高齢である。
文中、申し聞かせる相手の君達たちは、おそらく二十歳前後、しかも官位は五位以上の殿上人で、四位、あるいは三位の貴公子もいたかもしれない。いずれにしても、この頃従五位下の元輔より上位の者たちだったであろう。

文中末尾には、元輔は「物をかしく言ひて、人笑はするを役とする翁にてなむ有りければ・・」とあるが、果たして、「三十六歌仙」の一人であり、「梨壺の五人」と称された賢人の一人である彼が、本当に道化た性格の持ち主であったのだろうか。
藤原氏全盛の公家社会において、報われない官人生活を送って行く中で身につけた処世術であったような気がしてならない。

清原元輔は延喜八年(908)の誕生である。醍醐天皇の御代で、「古今和歌集」が完成されつつある頃であった。
父の清原春光(異説もある)は、最終官職が従五位下の下総守であり、貴族としては下級の家柄といえる。
清原氏は、天武天皇の皇子、舎人親王を祖先と称する一族であり、平安時代になってから台頭してきた中下級の貴族である。
しかし、台頭してきたとはいえ古くからの名門氏族とは並ぶべくもなく、さらにこの時代は藤原氏が全盛期を迎えようとしている頃であり、元輔の官位昇進は遅々たるものであった。

天暦五年(951)、村上天皇の命により、平安御所内の七殿五舎の一つである昭陽舎に和歌所が置かれ、五人の才人が集められた。昭陽舎の庭に梨の木が植えられていたことから梨壺と呼ばれていたが、そのことから集められた人たちは、「梨壺の五人」と称せられた。
その五人とは、大中臣能宣、源順、坂上望城、紀時文、そして清原元輔である。
この和歌所では、勅撰和歌集の一つである「後撰和歌集」の編纂や、万葉集の訓読などが行われた学問の拠点であった。

しかし、この時四十四歳の元輔は、河内権少掾に過ぎず、貴族の最下限ともいえる従五位下河内権守に就いたのは、安和二年(969)のことで、六十二歳になってからのことである。
天延二年(974)、周防守に就き、鋳銭長官を兼務。
天元三年(980)、従五位上に昇叙。
寛和二年(986)、肥後守となり、その四年後に任地で没している。享年八十三歳であった。

「梨壺の五人」といえば、当時一流の文学者として認められていたということであり、特に歌人としては著名な存在であった。
「枕草子」の中に、元輔の娘である清少納言が、「父の名前を辱めたくないので、自分は和歌を読みたくない」と中宮定子に訴えて、許可されるという一文がある。事実、清少納言が詠んだ歌は極めて少ないのである。
また、藤原定家が選歌をしたといわれる小倉百人一首には、祖父である清原深養父、本人の元輔、娘の清少納言の三人が採録されている。それに何よりも、清少納言という類稀なる文学者を生みだしているのである。

しかし、八十歳を過ぎてなお地方長官の任にあった元輔は、下級貴族として懸命に働き続けていたのかもしれない。
前半部分で紹介した今昔物語の記事は、そんな元輔の必死な姿の一端のように感じられてならないのである。

                                        ( 完 )





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運命紀行  琴の音哀しく

2012-08-11 08:00:10 | 運命紀行
       運命紀行

          琴の音哀しく


天皇は、歩を止めて耳を澄ました。
微かに聞こえてくる琴の音は、嫋々として切なく、風に吹き消されるかに思われながらもなお続き、その琴の音よりもさらに弱々しげな声も加わった。

『 秋の日の あやしきほどの 夕暮れに  荻吹く風の 音ぞきこゆる 』

承香殿に暮らす女御の切ない気持が運んでくるかのように、琴の音と低い歌声は溶けあうようにして、天皇の心に訴えかけていた。
従う蔵人たちは、思わずさらに後方に控えてうずくまり、天皇はただ立ち尽くしていた。


     * * *

徽子女王(キシジョオウ)は、延長七年(929)に誕生した。
第六十代醍醐天皇の御代であるが、翌年には崩御、朱雀天皇が即位している。
父は、醍醐天皇の第四皇子、式部卿宮重明親王である。朱雀天皇は醍醐天皇の第十一皇子であり、重明親王の異母弟にあたる。
母は、左大臣藤原忠平の次女寛子(カンシ)である。忠平は、やがて朱雀天皇の摂政、ついで関白に就いている。

承平六年(936)九月、徽子女王は八歳で朱雀天皇の斎宮に卜定される。翌七年に野の宮に入り、天慶元年(938)九月、十歳で伊勢へ群行(グンコウ・公式に伊勢に向かうこと)した。そして、同八年(945)一月、母死去による服喪のため退下するまで、およそ十年間斎宮を務めた。
多くの女房などにかしずかれた生活とはいえ、都を遠く離れた伊勢の地で、ひたすら神に仕える生活は、どのようなものであったのか。

退下した年の秋、徽子女王は京に戻った。十七歳の年が終わろうとしている頃である。
当時の皇族の女性としては、すでに結婚適齢期を過ぎようとしていたが、母の死という悲しみを癒すのにはなお相当の時間を要したことであろう。
しかし、傷心の女王とはいえ、高貴な血筋に加え権勢を誇る藤原忠平を祖父に持つ麗人を世間は世捨て人にさせることはなかった。特に、叔父にあたる村上天皇の想いは強く、宮中に迎えられることになる。

朱雀天皇の同母弟である第六十二代村上天皇は、醍醐天皇の第十四皇子であり、徽子女王の父の異母弟である。つまり、女王の叔父にあたり、年齢は天皇の方が三歳上であった。
天暦二年(948)十二月、徽子女王は二十歳にして入内し、翌年四月には女御の宣旨を受ける。
これにより、徽子女王は、局を承香殿としたことから「承香殿の女御」、あるいは父の肩書から「式部卿の女御」、そして、その前歴から「斎宮の女御」とも称せられたが、後世においては、「斎宮の女御」として知られている。

徽子女王は、『いとあてになまめかしく』と栄華物語にも書き残されていることからも、とても気高く優美な女性であったと考えられる。さらに和歌に優れていることは斎宮時代に知られていたし、加えて、もと斎宮であったという神秘さに若き村上天皇は強く魅せられたようである。
天皇からの強い要請による入内であり、翌年には規子内親王誕生という慶びも手にすることが出来たが、徽子女王にとって、宮中での生活は必ずしも幸せなものではなかったようである。

村上天皇の後宮には多くの女御たちが上っていた。
いずれも才色兼備の女性たちで、有力な実家を背景に天皇の寵愛を得んと激しく争っていた。中でも、右大臣藤原師輔の娘である弘徽殿の女御安子は、その皇子が皇太子に立てられたことから後宮第一の女御となったが、他の女御へ圧力を加えることもあったらしい。
八歳にして斎宮の宣下を受け、その後十年に渡り神に仕える生活を送った徽子女王にとって、情念の渦巻く後宮の生活は息詰まるものであった。
さらに加えて、父・重明親王の後室、つまり徽子女王の継母にあたる藤原登子が天皇との逢瀬を重ねている噂が公然と聞こえて来るようになったのである。
徽子女王は、自らの局・承香殿に籠ることが多くなっていった。

天暦八年(954)九月、父・重明親王が死没する。徽子女王が入内して六年が経っており、女王は二十六歳になっていた。
亡父の東三条邸で喪に服すが、傷心の徽子女王は喪が明けた後も久しくこの邸を離れようとせず、天皇からの再三の招請にも、なかなか応じなかった。女王には後宮の生活はもともと気重である上に、女王を後見していた祖父の藤原忠平は五年前に没しており、さらに父を亡くした身であれば、さらに居心地の悪い場所になっていたと思われる。
それでも、応和二年(962)には懐妊し、九月に皇子を産むが、哀れにもその皇子はその日のうちに身罷ってしまった。

徽子女王は、一人娘の規子内親王を連れて再び東三条邸に引き籠ってしまった。
女王自身も病がちであったが、後宮の状況は女王には堪えがたいものであったのかもしれない。すなわち、後宮で権勢を誇っていた皇后安子が身罷ると、さほどの時を経ずして継母の登子は天皇の求めに応じて入内した。天皇の登子への寵愛は度が過ぎるほどであり、他の女御たちの怨嗟の声が高まっていった。
しかし、その村上天皇も、康保四年(967)五月に崩御、四十二歳であった。

村上天皇は、父・醍醐天皇譲りの風雅の人であった。自らも優れた歌人であり、勅撰和歌集「後撰集」の宣旨を下している。
やがて、徽子女王は規子内親王と共に、村上天皇の意思を継ぐかのように、著名な歌人を招いて歌会を催すなど、文化サロンのような活動を見せている。源順、大中臣能宣、平兼盛など当時の第一人者が集ったと伝えられている。

天延三年(975)二月、規子内親王が二十七歳で円融天皇の斎宮に卜定された。母娘二代続いての斎宮卜定である。斎宮は、内親王の重要な役目であり、また出家とは違うとはいえ、若い皇女にとっては過酷な定めといえる。有力な後見者を持たない皇女の悲劇ともいえよう。
さらに、この卜定のひと月後には継母である登子が亡くなっている。登子は村上天皇崩御後も宮中にあってなお華やかな生活を送っていたが、人の栄華の空しさを感じるに十分な出来事であった。
それらのことも影響したのか、徽子王女は規子内親王に同道することを決断する。

母親同道の斎宮の伊勢群行など前例がなく、天皇はじめ反対の声は強く、非難の声も少なくなかった。同時に、同情の声も少なくなかったとみえ、徽子女王の決意は実行され、伊勢での七年を母娘共に過ごすことになる。
永観二年(984)、円融天皇の譲位により規子内親王は斎宮を退下し、京に戻る。
この頃、徽子女王の健康は優れなかった様子で、翌年世を去った。享年五十七歳である。

高貴な家柄に生まれ、容姿、才能ともに優れ、天皇に求められて入内を果たしながら、徽子女王の生涯は何故か薄幸に見えてしまう。
しかし、少なくとも、一人娘規子内親王と過ごした晩年の十余年間は満ち足りた時間であったと想像できる。さらに、やがて全盛を迎える平安王朝文学の担い手たちに、徽子女王すなわち斎宮の女御が、少なからぬ影響を与えたことも間違いあるまい。

                                        ( 完 )


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運命紀行  人の心を種として

2012-08-05 08:00:06 | 運命紀行
       運命紀行

          人の心を種として


『やまと歌は 人の心を種(タネ)として よろづの言の葉とぞなれりける。
  世の中にある人 こと わざ しげきものなれば 心に思ふことを
  見るもの聞くものにつけて 言ひいだせるなり。

  花に鳴く鶯 水に住む蛙(カハヅ)の声を聞けば 生きとし生けるもの
  いづれか歌をよまざりける。

  力をも入れずして 天地を動かし 目に見えぬ鬼神をも あはれと思はせ
  男女のなかをも やわらげ 猛きもののふの心をも 慰むるは 歌なり。

  この歌 天地の開け始まりける時より いできにけり ・・・・・   』

これは、「古今和歌集」の仮名序の冒頭部分である。
「古今和歌集」は、わが国最初の勅撰和歌集であり、この後、二十一代集とも呼ばれる数多くの勅撰和歌集が編纂されていくが、それらに大きな影響を与えた和歌集といえる。

わが国の歌集といえば、万葉集が最古のものであり、その存在感には圧倒的なものがある。万葉仮名という特別な手法も加えて、やまと歌を今日に伝えている。しかし、その中心を成しているものは長歌である。短歌も数多く載せられていて、今日なお名歌として伝えられているものも多いが、それらは主として反歌として作られたもので、長歌優位の感が強い。

「古今和歌集」に収録されている歌は、そのほとんどが短歌で占められている。つまり、このわが国最初の勅撰和歌集は、やまと歌、つまり和歌とは短歌を指すという先鞭となったように思われる。
そして、この歌集誕生に際して重要な役割を担ったのが、紀貫之である。

「古今和歌集」は、醍醐天皇の勅命により編纂されたもので、撰者には紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の四人が任じられた。当初は紀友則が筆頭であったようであるが、途中で没したため紀貫之が筆頭であったらしい。
編纂されたものは、延喜五年(905)四月に奏上されたが、その後に詠まれた作品も収録されていることから、奏上後も修正がなされたらしく、実際の完成は延喜十二年(912)の頃ともいわれている。

総作品集は1111首。長歌5首、施頭歌4首の他はすべて短歌である。冒頭に挙げた紀貫之による仮名序と紀淑望による真名序が載せられている。
作者としては、万葉の時代から伝えられているものも多く加えたこともあってか、「詠み人知らず」とされているものが四割を占めている。収録数の最も多いのは紀貫之の102首と群を抜いており、凡河内躬恒の60首、紀友則46首、壬生忠岑36首と撰者四人の作品が二割以上を占めている。
後世、「古今和歌集」の文学的価値を低評価する文学者が出ているが、この収録の片寄りにも一因があるかもしれない。
ただ、平安王朝期においては、「古今和歌集」の全作品を暗誦し理解することが教養の一つとして重視されていたし、紀貫之の仮名序は、その後の文学に大きな影響を与えたことは確かであると考えられる。

「古今和歌集」の編纂に重きを成した紀貫之は、三十代の半ばの頃であったろうか。
撰者に選ばれることからして、すでに和歌の上手として知られていたのであろうが、宮廷での身分は高くなかった。
紀氏は、古くからの豪族ではあるが、朝廷は藤原氏が激しい競争を繰り広げている時代であった。
紀貫之はまだ貴族の身分には遠く、下級官僚として忍従の時を送りながら、やまと歌の未来に夢を描いていたのかもしれない。


     * * *

紀貫之の生年は、はっきりしていない。本稿では貞観十四年(872)とするが、八年、十年、十三年、十六年など諸説がある。
歌人としては早くから認められていたらしいことは推察できるが、若い頃の公的な資料は残されていない。
紀氏は、古代から伝わる名門豪族であるが、先に述べたように、藤原氏の台頭とともに一族の力は衰え、貫之の頃には、軍事的、政治的な面での勢力は、ごく限られたものになっていた。

延喜五年(905)に、わが国最初となる勅撰和歌集の撰者に選ばれるが、その頃はまだ六位以下の下級官吏に過ぎなかった。三十四歳の頃と考えらるが、当時としてはすでに脂の乗り切った年齢といえる。
古今和歌集は同年四月十八日に醍醐天皇に奏上されたとされているので、撰者の選定などはもっと早い時期であったのかもしれない。
古今和歌集はその後も修正が続けられたらしく、実際の完成は延喜十二年(912)の頃とも言われているので、その間は貫之もその任にあたっていたと考えられる。

貫之が、貴族の末席といえる従五位下に昇進したのは、延喜十七年(917)年のことで、四十六歳の頃である。古今和歌集完成からすでに五年を経ており、天皇自ら命じた勅撰和歌集を完成させた評価は意外に低いものであったのか、それとも貫之の官位が相当低かったのかもしれない。
その後、加賀介、美濃介等々に就いたあと、延長八年一月に土佐守となり、中下級の貴族としては一つの目的ともいえる国司に任じられている。
そして、承平五年二月に任を終えて京に戻るが、その時の様子を描いたのが「土佐日記」である。

天慶六年(943)一月、従五位上に昇叙、じつに、官位を一段上るのに二十六年を要したのである。
天慶八年(945)三月に就いた、木工権頭が最終の役職である。
そして、同年五月十八日に没したとされる。享年、七十四歳の頃であったか。

『 人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香ににほひける 』
これは、小倉百人一首に採録されていることもあって、現代人によく知られている紀貫之の和歌である。
しかし、その他にということになれば、よほど彼やこの時代に興味があるか研究している人以外は、簡単に上げることが出来ないのではないだろうか。もっとも、彼に限らず、同時代の他の歌人にして同じかもしれないが、実は、この時代の歌人としては相当抜きん出ていた存在なのである。
例えば、「古今和歌集」に採録されている数が最も多いことはすでに述べたが、これに続く勅撰和歌集である「後撰和歌集」「拾遺和歌集」の三つを三代集というが、そのいずれでも収録されている和歌の数は、第一位なのである。

理知的な歌風は高い評価を受けており、古今和歌集が当時の教養書であったことなどから、当時の文学会の最高峰に位置していたと考えられる。
その例として挙げるなら、「大納言藤原師輔が父の太政大臣藤原忠平への返礼に添える和歌の代作を頼むために、五位の下級貴族に過ぎない紀貫之の屋敷に足を運んだという」「紀貫之の詠んだ歌の力で、幸運が持たされたという伝説が幾つもあるという」

また、紀貫之と聞けば、むしろ「土佐日記」の方が連想されるかもしれない。
『 男もすなる日記(ニキ)というものを、女もしてみんとてするなり・・・ 』で始まるこの作品は、日記文学という分野を生み出す役割を果たしているが、それ以上に、古今和歌集の仮名序とともに、仮名による文学の可能性を世に示したものであって、その後の宮廷を中心とした女流文学に大きな影響を与えたことは紛れもあるまい。

しかし、平安時代最高の文学者も、官人としては恵まれない生涯だった。貴族としては最下級の五位から脱出することが出来ないまま生涯を終えている。
そして、遥か千年にも近い時を経た明治三十七年(1904)に、従二位が贈られている。
『贈従二位』というのが、現在の紀貫之の冠位ともいえるが、あまりにも遅い栄誉である。

                                         ( 完 )
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小さな小さな物語 第七部 ・ 表紙

2012-08-01 15:20:45 | 小さな小さな物語 第五部~第八部

         小さな小さな物語 第七部



       (No.361) から (No.420)まで収録しています。
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小さな小さな物語  目次

2012-08-01 15:19:19 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
       小さな小さな物語  目次 ( NO.361 ~ 380 )


   NO.361  富士山より高い山
      362  雪に埋れて
      363  新しい社会モデルを
      364  コダック社に学ぶ
      365  冬枯れの庭  


        366  プロの技
      367  魚心あれば
      368  デフレ克服
      369  銀河の姿
      370  鍵握る高齢者


       371  一票の格差
      372  平均とは?
      373  一期一会
      374  善管注意義務
      375  原子力と向き合う


       376  春らんまん
      377  イソギンチャクの戦い
      378  ロスタイムの感動
      379  ちょっとした差
      380  無駄足の数
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富士山より高い山 ・ 小さな小さな物語 ( 361 )

2012-08-01 15:17:24 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
戦国時代もようやく終わりを告げようとしていた時代のことです。
天下を手中に収めた徳川幕府の命により、黒田藩も江戸城天守台の普請に携わったが、その工事を終え、国に戻る途中、霊峰富士が見事な姿を見せていました。馬上の勇者も、徒歩の侍も、荷駄を運ぶ小者までもが、こぞってその姿を称えました。
すると、ひときわ頑強な体躯の豪傑が大声で否定しました。
「何の、わが鷹取城の背後に聳える福智山の方が高いわ」と。
そして、彼はその場の座興で言ったのではなく、死ぬまでその主張を曲げなかったという。


その豪傑の名は、母里多兵衛友信。黒田藩切っての豪傑であり、常に先鋒を務めた侍大将であります。それも、単に槍一筋の荒武者なのではなく、黒田長政より一万八千石を与えられた重臣であり、鷹取城を預けられていました。
さらに言えば、かの有名な民謡『黒田節』に歌われている「黒田武士」とは、この母里多兵衛友信のことなのです。


実は、母里多兵衛友信について調べている時に、このエピソードを知ったのです。彼については、別の機会に紹介させていただきますが、今回は「富士山より福智山の方が高い」という話を考えて見ました。
まあ、「どうということもない話だ」と言ってしまえばそれまでですが、何故このエピソードが今日まで生き残っているのかと考えますと、少し面白い側面が見えてきます。
一般的には、この話は、母里多兵衛友信という豪傑は、とてつもない頑固者だったそうで、その証拠の一つとして語られてきたようです。あるいは、お国自慢ということもあったかもしれません。
実際に、富士山と福智山の両方を見た人は、いくら重臣である豪傑の言葉とはいえ、笑ってしまうことでしょう。何せ、福知山は九百メートル程の山なのですから。
母里多兵衛友信は、おそらく、旅の無聊の慰めに大法螺を吹いたのか、同僚や部下たちが富士山をあまりに称えるので腹立たしかったのか、案外豪傑らしからぬ愛敬からお国自慢をしたのかもしれません。
ただ、この話、まだ通信手段の十分でない、鷹取城周辺土着の人たちには、かなりの真実性を持って伝わったかもしれないような気もするのです。富士山という名前は、その辺りでも知られていたかもしれませんので、福智山の方が高いとまで思わないまでも、それほど差がないのではないかと思う人が少なくなかったかもしれません。だって、天下無双の豪傑が自信満々に話すことなのですから。


この話、馬鹿げているといえばその通りかもしれませんが、もしかすると、現代に生きる私たちも同じような体験をしているのかもしれません。
溢れかえるほどの情報が乱れ飛ぶ社会でありながら、私たちの多くは、本当に重要な情報は伝えられていないかもしれないのです。例えば、尖閣諸島海域での出来事のビデオ漏洩事件は記憶に新しいことですが、同様の、いえ、それより遥かに重要な情報が、隠されたり、歪められたりして伝えられているかもしれないのです。
『これぞまことの黒田武士』と称えられた豪傑には悪意などありませんが、現代社会においては、悪意による情報操作が結構あるような気がしてなりません。

( 2012.01.28 )

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雪に埋もれて ・ 小さな小さな物語 ( 362 )

2012-08-01 15:15:36 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
旅人は大雪に見舞われ、西も東も分からなくなってしまいました。途方にくれているとすぐ前に一本の丸木のようなものが立っていました。旅人は、その木に馬を繋ぐと、あるったけの衣類などで身を守って寝てしまいました。そして、ぐっすりと眠った後目覚めますと、何と、旅人は教会の高い塔の上にいたのです。馬を繋いだのは、教会の塔の十字架の先端だったのです。
うろ覚えで申し訳ないのですが、これ、何のお話だったでしょうか。


落語にはこんな話もあります。
旅自慢のいい加減な男が、ご隠居さんに雪国への旅の話をするものです。
北国の冬は寒いので、何もかも凍らせてしまいます。そして、何もかも雪に覆われてしまいます。
秋の空っ風で森のあちこちで火災が発生しますが、ひとたび北風が吹きつけると、火事さえも凍ってしまいます。赤い炎もそのまま凍ってしまい、雪に覆われてしまいます。しかし、春になって雪解けの頃になりますと、あちらこちらから炎が活躍し始めるのです。
これも、正確に覚えているものではありませんので、ごめんなさい。


さて、今、北国は大雪で大変なようです。
その一方で、被災地も雪に覆われて、家も田畑も流されたあたりも雪に覆われて、実は何もなかったのではないかと錯覚してしまうような場所もあります。
春になって、雪が解けると、実は自分は大きな家に屋根に坐っていて、眼下の景色は昔のままで、あの大地震や大津波はやはり夢だったのだ・・・、と、切ない願いを抱く人も少なくないことでしょう。
しかし、現実は、雪が解ければ、凍りついていたが炎が燃えだすような、厳しい現実が待っています。


津波の傷跡も、地震の悪夢も、悲しい思い出までも、雪は覆ってくれるかもしれません。
一面の雪景色は、何もかも等しく覆い隠してはくれますが、ひとときの目隠しを与えてくれているにすぎません。やがて、雪解けとともに、避けることのできない現実が、浮かび上がってきます。
私たちは、意識的に、あるいは無意識のうちに、苦しいものに雪のようなものを被せてしまいます。
調子のよい言葉や、正義面した人々・・・、何を頼りにすればよいのか見分けの難しい今日には、雪のように、ほんのひとときだけ甘い思いをさせてくれるものがたくさんあります。
しかし、雪解けの下には、必ず現実があります。辛くとも、それを否定することは出来ません。

( 2012.01.31 )
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新しい社会モデルを ・ 小さな小さな物語 ( 363 )

2012-08-01 15:14:23 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
2060年には、わが国の人口は8,674万人になり、総人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)が4割に達する・・・、という推計を国立社会保障・人口問題研究所が公表しました。
これを受けた新聞やテレビなどの報道や論評は、「ますます少子高齢化が進む」「何人で何人を支えることになる」「年金制度の存続がピンチ」「社会保障制度全体が厳しい運用を迫られる」等々、ここ何年も聞かされてきたのと同じような内容のものばかりでした。


この人口見通しなど、別に目新しいものでもなんでもありません。ほぼ同じような統計は何年も前から出ていますし、この研究所からは定期的に発表されています。
この研究所は、人口動向について、低位・中位・高位の三つのパターンを算出していて、今回公表されているものは中位のものです。ただ、その見通しは、たいてい公表数字より低位(人口減)の方向にぶれているように思われます。
それにしても、わが国が明確な人口減少社会に移っていながら、十年前と同じような意見が主流を成していることに大きな不安を感じます。
人口が減り、労働人口が減り、高齢者比率が高まる・・・、正確な数字はともかく、今時そんなことが分かっていない人などごく少数です。こんな発表などで、おたおたすることなど全くありませんが、未だに同じような意見しか聞かれないことに、おたおたするべきではないでしょうか。


五十年後、わが国は、「人口8,500万人、そのうち65歳以上の人が3,400万人」という国家になるのです。少々の誤差はあるとしても、これが現実なのです。
大変だ、大変だというのも結構ですが、現実の姿を大変だと騒いだり怖がっていたのでは話になりません。現実を見据えた対策を打っていかなくてはなりません。
人口が減るのがまずいと思うなら、人口を増やす方法を考えねばなりません。まさか、一夫多妻制というわけにはいかないでしょうから、移民を積極的に受け入れるのも一つの方法でしょう。
社会保障制度がもたないのであれば、根本的な改正が必要でしょう。現制度を手直しで対処していくのであれば、大幅な補償範囲の削減が必要になるでしょう。
どんな方法を取るにしても、そこからくる副作用は小さくないはずなので、慎重な対応を迫られることでしょう。


そして、何より大切なのは、何人で何人を支えるという現在の思考を捨て去ることでしょう。
その一つの方法は、高齢者の範囲の変更です。例えば、健康であれば誰でも75歳まで働ける社会を作り出せば、高齢者比率の概念は大きく変化するでしょう。
さらにこんな考え方も成り立つのではないでしょうか。つまり、一人一人が自分を支える社会モデルを構築することです。50年後の平均寿命は90年に近づくそうですから、例えば、最初の二十五年間は親や社会に養育される期間、成長後の四十年間は家族と自らの生活費と自分の引退後の費用を積み立てる期間、そしてその後の十年間は自分の生活費と社会に奉仕する期間、最後の十五年間はこれまでの蓄えと社会保障で生活する期間、とするのです。
つまり、世代間で支え合う仕組みから、個人の生涯で支える時と支えられる時を完結させる仕組みに社会を変えるのです。
どんな方法を取っても必要な資金に変わりがないと意見もあるでしょうが、例えば現行の年金制度を見ても分かるように、世代間で支え合うという制度は、人口減少社会では絶対に成立しないのです。現在の制度を続けて行けば、結局食い逃げ世代を作ってしまうことになり、ネズミ講に近いものになってしまいます。いえ、すでになりつつあります。
もう、ぼつぼつ本気で、私たちはそのことを認めなくてはならないのではないでしょうか。

( 2012.02.03 )


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コダック社に学ぶ ・ 小さな小さな物語 ( 364 )

2012-08-01 15:12:42 | 小さな小さな物語 第五部~第八部
先月、米イーストマン・コダック社が、米連邦破産法11条を申請したというニュースが伝えられました。
この法律は、日本でいえば民事再生法に相当するものですが、二年前、米ゼネラル・モーターズ(GM)が行ったのと同じ申請です。
一口に倒産といっても様々な形態があるのでしょうが、いずれにしても、業績悪化による経営の行き詰まりには違いありません。


写真をフイルムカメラで覚えた年代にとっては、コダックは大変な存在でした。
企業としても、GMやGEやIBMなどと共に、米国大資本の象徴のように私などは感じておりました。
経営不振の原因は、デジタル化の波に遅れたためとされていますが、おそらくそんな単一の理由だけではないのでしょう。
解説の中には、苦境脱出を知的財産権の売却と人員整理で切り抜けようとして、新技術の開発などへの対応が手薄だったとしているものもあります。もしそうだとすれば、人員整理で企業を立て直そうとした場合、それが民主的な方法であればある程、有能な人材から去っていくという典型的な形だったのかもしれません。知的財産権(特許など)も全く同じで、売却できるものは経済的価値があるものであって、往々にしてそれらは、わが身を侵略してくるものになるのです。


ただ、米国という国のすばらしさは、リベンジが可能な国だということです。あのGMは、いくつかの幸運に恵まれたとはいえ、僅か二年で業績の立ち直りを見せ、昨年は販売台数世界第一位の地位を回復しているのです。
コダック社も、プリンター事業を中核にして復活を目指すそうですから、早期に健全な企業となって、世界に通じるコダック製品を開発して欲しいと願っています。


今回のコダック社の倒産に限ったことではありませんが、いかなる巨大企業も倒産するということを教えられました。
長い歴史を有していても、世界に冠たる技術を持っていても、有り余るほどの利益を上げていても、いずれも永遠に続くものではないというのが現実なのです。
わが国においても、まさかという企業が倒産し、他社に吸収されていきました。敗れて行く企業には、いろいろな原因があります。実に様々な原因がありそれらが絡み合っているのでしょうが、いずれにも共通するものもあります。それは、優れたトップに恵まれなかったことと、足を引っ張る社員が多過ぎたことです。
これは、企業に限ったことではなく、国家とて全く同じではないでしょうか。国家の倒産は、一企業の倒産とは形態が異なるでしょうが、悲惨な状況に陥る人の数は遥かに膨大となることでしょう。
いつまでも繁栄を続けるかに見えていても、企業であれ、国家であれ、賞味期限のようなものが決められているのです。もし、その期限を少しでも伸ばすためには、優れたリーダーシップを持つ指導者を手に入れるか、それが無理なら、社員や国民の相当の覚悟と努力が求められるのではないでしょうか。

( 2012.02.06 )
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