雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  平安王朝のサロンで

2012-05-25 08:00:35 | 運命紀行
       運命紀行

          平安王朝のサロンで


康和四年(1102)閏五月、第七十三代堀河天皇が催された「堀河院艶書合」の中に次のような和歌が残されている。

艶書合(ケソウフミアワセ)に詠める、
『 人しれぬ思ひありその浦風に 波のよるこそいはまほしけれ 』 中納言俊忠

返し、
『 音に聞く高師の浦のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ 』 祐子内親王家紀伊

この歌会が開催された時、堀河天皇が二十四歳の頃で、当時の文壇の中心人物になりつつあった。
堀河天皇は、僅か八歳で即位したが、父である白河天皇は健在であり皇位継承の思惑からの譲位であった。幼帝の後見は当然白河上皇が当たったが、それは堀河天皇が成人した後も続いた。
堀河天皇は二十九歳で崩御するまで皇位にあったが、政治の実権は傑物白河上皇が握り続けていた。そのこともあって、堀河天皇の興味は文化的な活動に向かった。

堀河天皇の性格は上品優雅で、誠実な人柄であったと伝えられている。音楽、特に管弦を愛し、笛の上手でもあった。和歌にも優れ、堀河天皇の周囲には文化的素養の高い人々が集い、気品高いサロンの様相を呈していたと想像される。
「堀河院艶書合」は、優れた歌人たちに恋の歌を競わせた歌会であった。
この中に、後世にまで語られる一対の和歌がある。特に返しの和歌は、小倉百人一首に採録されたこともあって、現代人にもよく知られている。

この和歌の作者、祐子内親王家紀伊という女性は、祐子内親王家に仕える女房である。
祐子内親王(ユウシナイシンノウ)は、長暦二年(1038)、第六十九代後朱雀天皇の第三皇女として生まれた。生後二か月で内親王の宣下を受け、三歳で着袴と共に准三宮(ジュサングウ・太皇太后宮・皇太后宮・皇后宮に準ずる称号)を授けられている。
生母は二歳で亡くなったが、生母の中宮嫄子の養父である藤原頼道に養育された。
頼道は父道長と共に藤原氏の全盛期を築いた人物で、関白を五十年にわたって務め、平等院鳳凰堂の造営でも知られている人物である。
祐子内親王は頼道と共に高倉第に住んだことから、高倉一宮、高倉殿宮とも呼ばれた。彼女はここで六十八年の生涯を送るが、自らの准三宮という地位に加えて、頼道の膨大な資産と権力にも後押しされて、この邸を中心に歌会を数多く催すなど平安王朝の一大文芸サロンを築いていた感がある。
仕えていた女房には、紀伊に加え、その母である小弁、さらには更級日記の作者である菅原孝標女(スガワラタカスエノムスメ)などが知られている。

その生涯を探るのがまことに困難である、祐子内親王家紀伊が、この平安王朝の絢爛豪華なサロンのスターであったことは確かなことである。


     * * *

祐子内親王家紀伊として知られる女性は、平安王朝文化のさなかを生きた女性である。
その生没年はいまだ確認されていないが、天皇の御代でいえば、後一条天皇あるいは後朱雀天皇の御代に生まれ、御冷泉天皇・後三条天皇・白河天皇・堀河天皇・鳥羽天皇の御代を生きて、おそらく鳥羽天皇在位中に亡くなったと考えられる。
活躍の中心は、白河院による院政の時代が中心であり、藤原氏の全盛に陰りが見えはじめた頃といえる。また、女流文学の流れからいえば、清少納言や紫式部からざっと六、七十年後の時代である。

紀伊の母は、同じく祐子内親王家に仕えた女房である小弁(コベン)で、この人も祐子内親王家小弁、あるいは一宮の小弁などとして知られる歌人で、勅撰集に採録された和歌の数は四十七首と紀伊の数を超え、物語も著したと伝えられている。
父については、従五位上民部大輔平経方とも、平経重、藤原師長などの名前も挙げられているが確認されていない。
ただ、紀伊の母である小弁の父は、越前守正五位下藤原懐尹なので、中下流の貴族の家柄に育った女性ということは出来る。
また、紀伊守藤原重経(後に出家して素意法師。歌人としても知られる)は、夫とも、兄とも伝えられているが、紀伊という名乗りなどを考えると夫であるように思われる。

何歳の頃であるのか分からないが、紀伊は母と同じように祐子内親王家に出仕する。
記録に残っている歌会などから推定すれば、少なくとも十五年程度は同じ場で活躍していたらしく、母娘揃っての和歌の名手として脚光を浴びていたに違いない。
紀伊の生活などについて伝えられているものは極めて少ないが、伝えられている和歌の数は少なくない。勅撰和歌集に採録されている和歌は三十一首あり、幾つかの歌会にも足跡が示されているし家集も作られている。

しかし、生没年ばかりでなく、その活躍の期間もなかなか断定しにくい。
残されている消息の最後のものは、永久元年(1113)の「少納言定通歌合」への出詠でほぼ確定されているが、最初のものとなると、天喜四年(1056)「皇后宮春秋歌合」が最初という説もあるが、長久二年(1041)という説もある。
ただ、長久二年から永久元年までとなると、その活躍期間は七十三年にも及び、不可能ではないにしても八十歳を超えてなお瑞々しい感性で創作活動を続けていたことになる。もし、天喜四年が最初だとしても、その活躍期間は六十年に近く、かなりの長命であったと考えられる。

半世紀ばかり前の清少納言や紫式部が活躍した舞台は、宮中にあった。天皇や中宮などに仕える女房たちが絢爛たる王朝文学を築いていった。
しかし、紀伊が瑞々しい感性を築き上げていった舞台は、内親王家とはいえ宮中を離れた藤原氏の邸宅に過ぎなかった。しかし、そこには、祐子内親王という感性豊かな主人と、藤原頼道という強大な後援者がいた。その高倉第は、内裏から離れた一貴族の邸とはいえ、有り余るほどの財力と豊かな才能が集められた絢爛豪華なサロンを築き上げていたに違いない。

そのサロンで存分の輝きを見せた祐子内親王紀伊は、天皇家や貴族間の凄まじい権力争いや、武士階級の台頭による混乱から離れていたがゆえに、今日に伝えられている資料は少ないが、王朝女流文学の代表歌人の一人として見事な生涯を送ったに違いない。

                                      ( 完 )
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運命紀行  名声も草枕で聞く

2012-05-19 08:00:04 | 運命紀行
       運命紀行

          名声も草枕で聞く


想えば、身を隠すような生涯であった。
神職として各地を訪ねる旅から旅の生活は、皮肉なことに彼の文学的な才能に磨きをかけることとなった。
霊験あらたかな神社に仕える身とあれば、時には敬われ歓待されることもあるが、それはごく限られた場面でしかなかった。むしろ、旅の途上の毎日は、露を避ける場所さえ見つけられず、空腹を満たすに足りる食事さえ満足に得られないことの方が多かった。街道や大きな町にある時はまだしも、村から村への移動は、時には深山深く分け入り、時には身の危険にさらされ、草枕を重ねる日々の方が多かった。

『 奥山にもみぢふみわけ鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき 』
『 をちこちのたづきも知らぬ山中に おぼつかなくも呼子鳥かな 』

幾つかの和歌は、宮中においても披露され、勅撰和歌集に収められたものも少なくない。
しかし、それらは、いずれも作品を披露し取り扱いを託している彼の君を通してのものであり、作者の名前さえ示されていない。
自らの本名を名乗ることが憚られていることは承知であるし、いや、自ら望んだことではあるが、読人知らずとして伝えられていることに、一抹の哀愁を感じる時があるのも確かである。

さて、それはそれとして、今宵もまた草枕、荒れ寺の軒端を借りられた幸運に感謝して、眠ることにしよう。 


     * * *

小倉百人一首の五番歌に猿丸大夫の和歌が収められている。
藤原定家により撰歌されたと伝えられる小倉百人一首は、概ね時代順に並べられているので、和歌の順と作品の優劣は関連していない。しかし、例えば上位の七人を列記してみると、古代歌人のお歴々が並んでいる。
1.天智天皇   2.持統天皇   3.柿本人麻呂   4.山部赤人
5.猿丸大夫   6.大友家持   7.安倍仲麿

さて、その中にあって、猿丸大夫の出自経歴は謎に包まれている。
伝えられている資料が皆無なのかといえば、決してそうではない。むしろ、あり過ぎるほどある。それらしいものから、唐突なものや伝説的なものまで幾つもある。さらには、この魅力あふれる歌人に惹かれた後世の研究者たちの推察も加わって、結局は謎をさらに深くしてしまっている。

伝えられている幾つかのものを見てみよう。
まず、その活躍期であるが、元明天皇の時代(西暦710年頃)とも、元慶年間(西暦880年頃)とも伝えられているが、これだけでも170年もの差がある。
また、出自についても、猿丸大夫という名は「六国史」などの公的資料に登場しないので、本名ではないとか、全く架空の人物であるという説も古くからある。

しかし、一方で、「古今和歌集」の真名序(漢文の序)には、六歌仙の一人である大友黒主を紹介する部分で猿丸大夫の名前が使われているので、少なくとも古今和歌集が成立した頃(西暦905年頃)には、著名な歌人として認知されていたと考えられる。
また、「大夫」(ダユウ、タイフ)というのは、五位以上の官位を得ている者や、伊勢神宮の神職のうちしかるべき地位の者の称であり、勅撰和歌集の撰者などにも広く認知されていたとすれば、宮中、あるいはそのごく近くに活動の場を持っていたと考えるのに無理はない。

出自ということでは、多種多彩である。
聖徳太子の子とされる山背大兄王の子とされる弓削王とされる説がある。この弓削王は、天武天皇の皇子である弓削皇子とは別人であるが、山背大兄王が蘇我入鹿に滅ぼされた時に死んだとされる人物である。それが生き残っていたということなのだろうが、そもそも、聖徳太子にしても山背大兄王にしても、資料的には謎の多い人物であることを考えると、弓削王の後の姿ということになれば、さらに謎めいている。

二荒山神社の神職小野氏の祖である猿丸だという説も古くからある。同じように、猿が日枝(比叡)神社の神使であることや、東国に残されている資料が少なくないことから、神事や金属採掘などに関連した一族の一人であるとか、その一族全体を指す架空上の人物だといった説もあるようだ。
もっと具体的なものとしては、弓削の道教の晩年であるとか、柿本人麻呂の晩年であるといった説もある。この二人の場合、共に罪に問われ都を追われたり処刑されたとされているので、生き残っていたとしても本名を名乗るのは難しいと思われることから、伝説としては面白い。

結局、猿丸大夫を歴史上の人物として公式な資料の中から見つけ出すことは難しいようである。
しかし、歌人としての評価は高く、猿丸大夫の作品と伝えられるものが、幾つもの勅撰和歌集や歌合わせなどにも登場しているが、そのいずれもが読人知らずとして記されている。つまり、勅撰和歌集としては、猿丸大夫としての作品は一首もないのである。
それでいて、藤原公任が選んだとされる三十六歌仙の一人とされ、藤原定家は小倉百人一首の撰定にあたって、たった百人の枠の中に猿丸大夫として加えているのはなぜなのか。

平安後期に書かれた「袋草紙」の中には、「古今集には、猿丸大夫の和歌を多く入れていて、作者は読人知らずとしている」と書かれている。当時、このことは極秘情報ではなく、然るべき人たちの間では常識として伝えられていたようにも考えられる。
さらに、現代に生きる私たちが猿丸大夫という存在を知ることが出来ている原因は、小倉百人一首の存在と共に「猿丸家集」の存在がある。
「家集」というのは、勅撰集に対して個人が編纂した特定歌人の作品集を指すが、たくさんの物がつくられ現在に伝えられているものも多い。そして、その「家集」という形態が登場してくるのは、十世紀前半頃のことであるが、その最も古い例は、人丸集・赤人集・家持集・猿丸集の四つであり、その「猿丸家集」には、五十余首の和歌が収められている。
ただ、この多くの和歌の存在が、古今和歌集の読人知らずとされるものの多くが猿丸大夫の作品として認知される切っ掛けとなり、同時に、その人物の謎を深めてしまうことになり、架空の人物とまで言われるようになった原因とも考えられる。

先に紹介した二首の和歌は、何とも切なさを感じさせる作品であるが、次の二首は少し趣が違う。

『 をととしも去年(コゾ)も今年もはふ葛の したゆたひつつありわたる頃 』
(猿丸集。 意訳・・地を這う葛のように、秘めた思いがゆるんだまま長い年月を過ごしているのです)
『 をととしも去年も今年もをととひも 昨日も今日もわが恋ふる君 』
(古今和歌六帖。 作者不明記)

この二つの和歌を猿丸大夫のものと推定した時、私は「猿丸大夫はきっと実在したのだ」と感じた。
先の二首と違って、歌の巧拙はともかく、赤裸々に恋うる人に想いのたけをぶつけ、叶わぬ長い日々を恨んでいるのを見ると、そこには、間違いなく一人の男の匂いが感じられる。恵まれぬ定めを背負いながら生きた一人の男の息吹を微かながらも感じ取ることが出来る。
猿丸大夫は、確かに存在したのである。その名前が本名であれ否であれ、大したことではない。ゆえあって本名を出せない事情があったとしても、それは、彼の存在を否定するものでもなんでもない。
千数百年前に懸命に生きた一人の男は、現代の私たちに和歌を通して何かを語りかけてくれているはずなのだ。

                                   ( 完 ) 
 
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運命紀行  沖の石なれど 

2012-05-13 08:00:46 | 運命紀行
       運命紀行

          沖の石なれど


『 我が袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし 』

二条院讃岐と呼ばれる歌人がいた。
この和歌は、小倉百人一首にも加えられている著名な作品であるが、この作品により「沖の石の讃岐」とも称せられたと伝えられている。

若くして和歌の才能は高く評価され、二条天皇に仕える宮中生活でさらにその才能は磨かれ、二条天皇の内裏歌会にも出詠している。また、父と親しかった俊恵法師が主催する歌林苑での歌会にも参加、新古今調の歌風の担い手の一人と目されるほどになる。

永万元年(1165)に二条天皇が崩御、その後、讃岐が二十四歳の頃であろうか、陸奥守などを務めた藤原重頼と結婚、重光(後に遠江守)・有頼らをもうけるなど幸せな家庭生活に入った。
しかし、時代は激動の時を迎えようとしており、中流貴族として平穏な家庭を築いていた讃岐に大きな変動を与えようとしていた。

二条天皇のあとを継いだ六条天皇が即位したのは二歳の時であり、僅か二年半程で譲位した高倉天皇も八歳での即位であった。そして、十二年後に皇位についたのは、僅か三歳の悲劇の帝、安徳天皇であった。
相次ぐ幼帝の時代の政治実権者は、藤原摂関家から清盛率いる平氏一門へと移って行っていた。源平と並び称された武門の一方の旗頭、源氏の衰退は著しく、すでに根絶されたかの様相さえあった。

そのような逆境の中で、平氏政権の末席で息をひそめていた人物がいた。讃岐の実父、源頼政である。
頼政は、都に近い摂津を本拠地としていたこともあって、平治の乱では清盛に味方し、中央政権で唯一源氏の灯を守っていた。
しかし、源氏としては異例の三位に上り「源三位頼政」と称されたとはいえ、平氏一門とは比べるまで゛もなく遅い昇進であり、武勇で知られた彼も七十歳を超えた今は、和歌の上手としての方が名高かった。
讃岐の冒頭の和歌は、紛れもない恋歌であるが、父頼政の鬱々とした気持ちを代弁しているようにもみえる。

治承四年(1180)四月、盤石と見えた平氏政権に挑む勢力が胎動を始めた。かねてからくすぶっていた平氏の横暴への不満が発火点を迎えようとしていた。
後白河天皇の第二皇子、以仁王の令旨を全国の源氏を中心とした反平氏勢力や有力社寺に発布して決起を促し、いっせいに平氏打倒に立ち上がるという計画であった。そして、その中心人物の一人が、讃岐の父源三位頼政であった。
だが、計画はもろくも翌月には露見してしまい、平氏政権は検非違使に以仁王の逮捕を命じた。
辛くも脱出した以仁王は園城寺に逃れた。この時点では、頼政が関与していることは知られていなかったが、以仁王を見捨てることは出来ず、決起し、共に奈良興福寺に向かうが追手に迫られ、途中宇治平等院で自刃、脱出させた以仁王も討たれてしまう。

この平氏に対する反乱のあと始末が苛烈であったことは想像に難くない。
当然、娘である讃岐やその婿藤原重頼への追及も厳しかったものと思われる。その後讃岐が、再び宮中に出仕したのは、この事件と無関係ではないことだろう。
讃岐は、後鳥羽天皇の中宮任子のもとに出仕することになったが、任子は九条家の姫であり、同家と強いつながりがあったと指摘する説もある。

父の戦死は、源氏の旗揚げの先駆けとなるものであったが、当時としては犬死といえるほど無謀な決起であり、讃岐は平氏政権下では謀反人の娘という辛い立場になってしまった。
父を亡くした時、讃岐はすでに四十歳であった。宮中という庇護下に入ることが出来たとはいえ、父を亡くした悲しみに加え、彼女自身への逆風も厳しかったであろうが、決して屈することはなかった。
讃岐は敢然と逆風を受け止めて、和歌を発表していった。むしろ、その逆風こそが、新古今調を代表するほどの耽美さを醸成したのかもしれない。


     * * *

『 世にふるは苦しき物を槇の屋に やすくも過ぐる初時雨かな 』

『 明けぬれどまだきぬぎぬになりやらで 人の袖をもぬらしつるかな 』

『 ひと夜とてよがれし床のさむしろに やがても塵のつもりぬるかな 』

『 あはれあはれはかなかりける契かな 唯うたたねの春の夜の夢 』

讃岐が生まれたのは、永治元年(1141)の頃と推定されている。名門源氏の娘として誕生たが、藤原摂関家の権勢はなお続いており、武家の地位はまだ低かった。
武家が政治への関わりを強めることとなった平治の乱は讃岐十九歳の頃であるが、それは平氏が全盛へと向かう戦いであって、源氏は壊滅状態となった。
ただ、その中で、父の源頼政だけは、平治の乱においても平清盛方についていたため安泰であった。平氏一門と比べようもないが官位も上がり、清盛の信頼も厚かった。
讃岐が、宮中生活を通して和歌の才能を花開くことが出来たのには、父の処世による貢献が大きい。

上に四首の和歌を紹介したが、個人的に讃岐らしいと感じられるものを挙げたものである。
勅撰和歌集に合計七十三首採録されている讃岐は、この時代の代表的な女流歌人であったことは間違いなく、これらの歌が代表歌というわけではない。

讃岐の処世をざっと見れば、源氏の家に生まれ、宮中生活を経て、受領階級とはいえ中流貴族と結婚して一家を成し、艶やかな歌を中心に数多くの作品を残したことを見て、平安な人生であったと考えてしまうことがある。
しかし、以仁王らと平氏打倒の旗を上げ、戦死したあとの数年間は決して安穏な日々であったはずがない。しかし、その中で、取り方によって、恋の悲しみや苦しみをもてあそぶかのようにさえみえる、技巧的で耽美的な作品を詠い上げていった陰には、激しく移り変わる世の無常を超越していることを感じ取らなくては、讃岐という女性の本質に迫ることは出来まい。

父の死後、讃岐は女房として長く宮中生活を送り、多くの歌会や歌林苑などを通して作品を発表している。
やがて、時代は源氏の世となり、夫も鎌倉に仕え、頼朝の側近の一人となる。頼政の遺領の一部も相続したようであり、讃岐自身も若狭国宮川保の地頭職などを継いでおり、晩年は恵まれていたらしい。

建久七年(1196)、宮仕えを退出、五十六歳の頃のことで、この頃出家している。
その後も歌人としての活動を続け、建保四年(1216)、七十六歳にして「内裏歌会」に出詠していることが確認されている。
その没年は確認できないが、少なくとも七十六歳では現役の歌人として、艶やかな作風に衰えはなかった。

                                        ( 完 )
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運命紀行  琵琶を抱いて

2012-05-07 08:00:51 | 運命紀行
       運命紀行

          琵琶を抱いて


逢坂山は、山城国と近江国との国境にある。
山麓の逢坂の関は、京の都から東に向かう人も、東海道や東山道を経て都を目指す人も、必ず通らなければならない要衝の地である。
行き交う旅人は、厳しい詮議を受けながらも、遥かなる旅路のひとときを、ほっと一息つき、そして、西へ東へと旅立って行くが、果たして再びまみえることなどあるのだろうか。

『 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関 』

そして、街道を離れて、少しばかり山中に入れば、人が住むにはあまりに険しく、あまりに侘しい土地となる。それでも、幾筋かのけもの道かと思われるものが延びているが、夏であれば青草に覆われ判別するのさえ難しい。
それでも、明らかにけもの道とは違う小道も山中深くまで続いている。この山中に生計の糧を求める人も少なからずいるのであろうか。

そんな小道さえも絶え果てようとする辺りに、小さな小屋がある。夏であれば木々や雑草に埋もれてしまうような小屋であるが、ごくたまには訪れる村人もいるらしい。もう随分と昔のことになるが、殿上人と思われる人物の訪問もあったらしい。
小屋の主も、やや不自由な身体を押して、村里や関所の近くまで姿を見せることもあるらしい。村人たちは、杖と頭陀袋に琵琶を背負った僧侶と思しき小屋の主を見かけても、何の不審も抱かず、中には僅かばかりの布施もするらしい。
村の長者や、関所の役人などが琵琶を所望することもあるようだが、よほど機嫌のよい時以外はめったに奏でることはない。

ただ、夜更けて、小屋の中から琵琶の音が聞こえてくることは少なくない。
関所に努める役人などは、山中から聞こえてくる妙なる琵琶の音を聞いた者も数多くいるので、月の明るい夜などには、小屋を出て村里近くで琵琶を奏で、低い声で吟じることもあるらしい。
小屋の主が、この地に住み着いて、どれほどの月日が経っているのだろうか。
日頃の生活を知る人はほとんどおらず、都で噂されることもある人らしいが、宮中あたりではすでに伝説上の人物になっているらしい。

小屋の主は、すでに老い、不自由な身で時には激しく琵琶を弾じ、記録されることもない和歌を詠じ、世の中のあはれを眺めながら、どのような晩年を生きたのだろうか。
 


     * * *

平安前期の頃、蝉丸といわれる歌人にして琵琶演奏の名手がいた。
名にし負う逢坂の関に近い山中に粗末な小屋を設けて、琵琶を弾じ、和歌を詠み、隠者のごとき生涯を送ったとも伝えられているが、その実像を正しく伝えてくれるものは見当たらない。
しかし、それでいて、いや、それなるがゆえに、現代に生きる私たちの心で共鳴する何かがメッセージとして伝えられているように思われてならない。

蝉丸の出自や生涯について、確たる資料は残されていない。
断片的な資料や伝説は数多くあるが、そのいずれもが事実なのか、あるいは事実に近いものであるのか、判別が難しく、伝説上の人物とされる場合さえある。
しかし、前出の『これやこの・・・』の和歌は、小倉百人一首にある著名なものであるし、この他にも新古今和歌集などに三首収録されていることを考えれば、実在の人物であることは間違いあるまい。

現在伝えられている出自を見ると、まず、宇多天皇の皇子である敦実親王に仕えていた雑色であったというものがある。また、醍醐天皇の第四皇子である、というものもある。あるいは、少し時代をさかのぼった仁明天皇の時代の人物だともいわれる。
これらのどれかが正しいのか、いずれも正しくないのか確定できないが、大まかに言って、西暦でいえば、850年から950年の頃の人物らしい。

そして、和歌に優れ、琵琶演奏の名人だったともいわれ、後の皇室の御物となった琵琶の名器「無明」は、蝉丸が愛用していたものだとも伝えられている。その作歌が勅撰和歌集に収録されていることを考えると、彼が、単なる世捨人や乞食坊主であったとは考えられない。
しかし、残念ながら、その生涯を伝えてくれる資料はあまりに少ない。ただ、いくつかの逸話は伝えられている。

今昔物語には、このような話が残されている。
『 管弦の名手であった源博雅(西暦918~980の人物)は、逢坂の関近くに住む蝉丸が琵琶の名人であるということを知り、蝉丸の演奏を聞きたいと思い、逢坂山に三年間通い続け、ついに八月十五日の夜に念願が叶い、秘曲「流泉」と「啄木」を伝授されたという。 』

能の演目に「蝉丸」というものがある。作者は世阿弥である。そのあらすじは、
『 延喜帝の第四皇子蝉丸の宮は、盲目の身に生まれついた。帝は、宮の後世を思い清貫に逢坂山に捨てるよう命じる。
清貫は哀れに思い悲しむも、蝉丸の君は過去の罪業を償わせようという父帝の慈悲なのだと、恨み嘆く態度を見せない。清貫は帝から命じられた通りに、蝉丸の君を剃髪、出家させて、蓑、傘、杖などを置いて去っていった。
気丈に振舞っていた蝉丸の君も、一人取り残されてみると、さすがに寂しく、琵琶を抱いてその場に泣き臥してしまう。
やがて、博雅三位がやってきて、蝉丸の君を慰め励まし、小屋を作りその中に助け入れて、また訪れることを約して都へ帰っていく。

さて、宮中で弟の大事を知った蝉丸の君の姉宮逆髪は、その名の如く髪を逆立たせ、狂乱状態となり、御所をさまよい出る。先々で迫害されながらも訪ね訪ねて、いつしか逢坂山に辿り着く。そして、粗末な藁屋の奥から、妙なる琵琶の音色が聞こえてくるのに気付き、引き寄せられるように立ち入ると、中から声をかけたのは弟宮の蝉丸だった。
姉と弟は互いに手を取り合って、身の不運を嘆き悲しみ、互いに慰め合う。やがて、互いに名残を惜しみながらも、姉宮は、いずこともなく去って行き、弟宮は見えぬ目で見送る・・・。 』

この作品を書いた世阿弥は、蝉丸が生きたと思われる時代より五百年程も後の、室町前期の人物である。
従って、この作品に描かれているものが蝉丸の生涯を描いたものでないことは確かであるし、むしろ、この物語から蝉丸の生涯がゆがんだ形で伝えられている懸念も少なくない。
しかし、世阿弥は、単なる想像だけでこの作品を書き上げたのではなく、今昔物語などの伝承をヒントにしたことは間違いあるまい。そうだとすれば、室町時代の頃には、蝉丸はすでに伝説の中に生きていたのかもしれない。

琵琶を抱き爪弾きながら、都への上り下りに逢坂の関を行き交う人々の生きざまを想いながら晩年を過ごした蝉丸。その胸中はいかなるものかは想像するしかないが、その一端を感じ取れるような和歌が新古今和歌集に残されているので、ご紹介しておく。

『 世の中はとてもかくても同じこと 宮もわら屋もはてしなければ 』

                                         ( 完 )
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