運命紀行
平安王朝のサロンで
康和四年(1102)閏五月、第七十三代堀河天皇が催された「堀河院艶書合」の中に次のような和歌が残されている。
艶書合(ケソウフミアワセ)に詠める、
『 人しれぬ思ひありその浦風に 波のよるこそいはまほしけれ 』 中納言俊忠
返し、
『 音に聞く高師の浦のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ 』 祐子内親王家紀伊
この歌会が開催された時、堀河天皇が二十四歳の頃で、当時の文壇の中心人物になりつつあった。
堀河天皇は、僅か八歳で即位したが、父である白河天皇は健在であり皇位継承の思惑からの譲位であった。幼帝の後見は当然白河上皇が当たったが、それは堀河天皇が成人した後も続いた。
堀河天皇は二十九歳で崩御するまで皇位にあったが、政治の実権は傑物白河上皇が握り続けていた。そのこともあって、堀河天皇の興味は文化的な活動に向かった。
堀河天皇の性格は上品優雅で、誠実な人柄であったと伝えられている。音楽、特に管弦を愛し、笛の上手でもあった。和歌にも優れ、堀河天皇の周囲には文化的素養の高い人々が集い、気品高いサロンの様相を呈していたと想像される。
「堀河院艶書合」は、優れた歌人たちに恋の歌を競わせた歌会であった。
この中に、後世にまで語られる一対の和歌がある。特に返しの和歌は、小倉百人一首に採録されたこともあって、現代人にもよく知られている。
この和歌の作者、祐子内親王家紀伊という女性は、祐子内親王家に仕える女房である。
祐子内親王(ユウシナイシンノウ)は、長暦二年(1038)、第六十九代後朱雀天皇の第三皇女として生まれた。生後二か月で内親王の宣下を受け、三歳で着袴と共に准三宮(ジュサングウ・太皇太后宮・皇太后宮・皇后宮に準ずる称号)を授けられている。
生母は二歳で亡くなったが、生母の中宮嫄子の養父である藤原頼道に養育された。
頼道は父道長と共に藤原氏の全盛期を築いた人物で、関白を五十年にわたって務め、平等院鳳凰堂の造営でも知られている人物である。
祐子内親王は頼道と共に高倉第に住んだことから、高倉一宮、高倉殿宮とも呼ばれた。彼女はここで六十八年の生涯を送るが、自らの准三宮という地位に加えて、頼道の膨大な資産と権力にも後押しされて、この邸を中心に歌会を数多く催すなど平安王朝の一大文芸サロンを築いていた感がある。
仕えていた女房には、紀伊に加え、その母である小弁、さらには更級日記の作者である菅原孝標女(スガワラタカスエノムスメ)などが知られている。
その生涯を探るのがまことに困難である、祐子内親王家紀伊が、この平安王朝の絢爛豪華なサロンのスターであったことは確かなことである。
* * *
祐子内親王家紀伊として知られる女性は、平安王朝文化のさなかを生きた女性である。
その生没年はいまだ確認されていないが、天皇の御代でいえば、後一条天皇あるいは後朱雀天皇の御代に生まれ、御冷泉天皇・後三条天皇・白河天皇・堀河天皇・鳥羽天皇の御代を生きて、おそらく鳥羽天皇在位中に亡くなったと考えられる。
活躍の中心は、白河院による院政の時代が中心であり、藤原氏の全盛に陰りが見えはじめた頃といえる。また、女流文学の流れからいえば、清少納言や紫式部からざっと六、七十年後の時代である。
紀伊の母は、同じく祐子内親王家に仕えた女房である小弁(コベン)で、この人も祐子内親王家小弁、あるいは一宮の小弁などとして知られる歌人で、勅撰集に採録された和歌の数は四十七首と紀伊の数を超え、物語も著したと伝えられている。
父については、従五位上民部大輔平経方とも、平経重、藤原師長などの名前も挙げられているが確認されていない。
ただ、紀伊の母である小弁の父は、越前守正五位下藤原懐尹なので、中下流の貴族の家柄に育った女性ということは出来る。
また、紀伊守藤原重経(後に出家して素意法師。歌人としても知られる)は、夫とも、兄とも伝えられているが、紀伊という名乗りなどを考えると夫であるように思われる。
何歳の頃であるのか分からないが、紀伊は母と同じように祐子内親王家に出仕する。
記録に残っている歌会などから推定すれば、少なくとも十五年程度は同じ場で活躍していたらしく、母娘揃っての和歌の名手として脚光を浴びていたに違いない。
紀伊の生活などについて伝えられているものは極めて少ないが、伝えられている和歌の数は少なくない。勅撰和歌集に採録されている和歌は三十一首あり、幾つかの歌会にも足跡が示されているし家集も作られている。
しかし、生没年ばかりでなく、その活躍の期間もなかなか断定しにくい。
残されている消息の最後のものは、永久元年(1113)の「少納言定通歌合」への出詠でほぼ確定されているが、最初のものとなると、天喜四年(1056)「皇后宮春秋歌合」が最初という説もあるが、長久二年(1041)という説もある。
ただ、長久二年から永久元年までとなると、その活躍期間は七十三年にも及び、不可能ではないにしても八十歳を超えてなお瑞々しい感性で創作活動を続けていたことになる。もし、天喜四年が最初だとしても、その活躍期間は六十年に近く、かなりの長命であったと考えられる。
半世紀ばかり前の清少納言や紫式部が活躍した舞台は、宮中にあった。天皇や中宮などに仕える女房たちが絢爛たる王朝文学を築いていった。
しかし、紀伊が瑞々しい感性を築き上げていった舞台は、内親王家とはいえ宮中を離れた藤原氏の邸宅に過ぎなかった。しかし、そこには、祐子内親王という感性豊かな主人と、藤原頼道という強大な後援者がいた。その高倉第は、内裏から離れた一貴族の邸とはいえ、有り余るほどの財力と豊かな才能が集められた絢爛豪華なサロンを築き上げていたに違いない。
そのサロンで存分の輝きを見せた祐子内親王紀伊は、天皇家や貴族間の凄まじい権力争いや、武士階級の台頭による混乱から離れていたがゆえに、今日に伝えられている資料は少ないが、王朝女流文学の代表歌人の一人として見事な生涯を送ったに違いない。
( 完 )
平安王朝のサロンで
康和四年(1102)閏五月、第七十三代堀河天皇が催された「堀河院艶書合」の中に次のような和歌が残されている。
艶書合(ケソウフミアワセ)に詠める、
『 人しれぬ思ひありその浦風に 波のよるこそいはまほしけれ 』 中納言俊忠
返し、
『 音に聞く高師の浦のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ 』 祐子内親王家紀伊
この歌会が開催された時、堀河天皇が二十四歳の頃で、当時の文壇の中心人物になりつつあった。
堀河天皇は、僅か八歳で即位したが、父である白河天皇は健在であり皇位継承の思惑からの譲位であった。幼帝の後見は当然白河上皇が当たったが、それは堀河天皇が成人した後も続いた。
堀河天皇は二十九歳で崩御するまで皇位にあったが、政治の実権は傑物白河上皇が握り続けていた。そのこともあって、堀河天皇の興味は文化的な活動に向かった。
堀河天皇の性格は上品優雅で、誠実な人柄であったと伝えられている。音楽、特に管弦を愛し、笛の上手でもあった。和歌にも優れ、堀河天皇の周囲には文化的素養の高い人々が集い、気品高いサロンの様相を呈していたと想像される。
「堀河院艶書合」は、優れた歌人たちに恋の歌を競わせた歌会であった。
この中に、後世にまで語られる一対の和歌がある。特に返しの和歌は、小倉百人一首に採録されたこともあって、現代人にもよく知られている。
この和歌の作者、祐子内親王家紀伊という女性は、祐子内親王家に仕える女房である。
祐子内親王(ユウシナイシンノウ)は、長暦二年(1038)、第六十九代後朱雀天皇の第三皇女として生まれた。生後二か月で内親王の宣下を受け、三歳で着袴と共に准三宮(ジュサングウ・太皇太后宮・皇太后宮・皇后宮に準ずる称号)を授けられている。
生母は二歳で亡くなったが、生母の中宮嫄子の養父である藤原頼道に養育された。
頼道は父道長と共に藤原氏の全盛期を築いた人物で、関白を五十年にわたって務め、平等院鳳凰堂の造営でも知られている人物である。
祐子内親王は頼道と共に高倉第に住んだことから、高倉一宮、高倉殿宮とも呼ばれた。彼女はここで六十八年の生涯を送るが、自らの准三宮という地位に加えて、頼道の膨大な資産と権力にも後押しされて、この邸を中心に歌会を数多く催すなど平安王朝の一大文芸サロンを築いていた感がある。
仕えていた女房には、紀伊に加え、その母である小弁、さらには更級日記の作者である菅原孝標女(スガワラタカスエノムスメ)などが知られている。
その生涯を探るのがまことに困難である、祐子内親王家紀伊が、この平安王朝の絢爛豪華なサロンのスターであったことは確かなことである。
* * *
祐子内親王家紀伊として知られる女性は、平安王朝文化のさなかを生きた女性である。
その生没年はいまだ確認されていないが、天皇の御代でいえば、後一条天皇あるいは後朱雀天皇の御代に生まれ、御冷泉天皇・後三条天皇・白河天皇・堀河天皇・鳥羽天皇の御代を生きて、おそらく鳥羽天皇在位中に亡くなったと考えられる。
活躍の中心は、白河院による院政の時代が中心であり、藤原氏の全盛に陰りが見えはじめた頃といえる。また、女流文学の流れからいえば、清少納言や紫式部からざっと六、七十年後の時代である。
紀伊の母は、同じく祐子内親王家に仕えた女房である小弁(コベン)で、この人も祐子内親王家小弁、あるいは一宮の小弁などとして知られる歌人で、勅撰集に採録された和歌の数は四十七首と紀伊の数を超え、物語も著したと伝えられている。
父については、従五位上民部大輔平経方とも、平経重、藤原師長などの名前も挙げられているが確認されていない。
ただ、紀伊の母である小弁の父は、越前守正五位下藤原懐尹なので、中下流の貴族の家柄に育った女性ということは出来る。
また、紀伊守藤原重経(後に出家して素意法師。歌人としても知られる)は、夫とも、兄とも伝えられているが、紀伊という名乗りなどを考えると夫であるように思われる。
何歳の頃であるのか分からないが、紀伊は母と同じように祐子内親王家に出仕する。
記録に残っている歌会などから推定すれば、少なくとも十五年程度は同じ場で活躍していたらしく、母娘揃っての和歌の名手として脚光を浴びていたに違いない。
紀伊の生活などについて伝えられているものは極めて少ないが、伝えられている和歌の数は少なくない。勅撰和歌集に採録されている和歌は三十一首あり、幾つかの歌会にも足跡が示されているし家集も作られている。
しかし、生没年ばかりでなく、その活躍の期間もなかなか断定しにくい。
残されている消息の最後のものは、永久元年(1113)の「少納言定通歌合」への出詠でほぼ確定されているが、最初のものとなると、天喜四年(1056)「皇后宮春秋歌合」が最初という説もあるが、長久二年(1041)という説もある。
ただ、長久二年から永久元年までとなると、その活躍期間は七十三年にも及び、不可能ではないにしても八十歳を超えてなお瑞々しい感性で創作活動を続けていたことになる。もし、天喜四年が最初だとしても、その活躍期間は六十年に近く、かなりの長命であったと考えられる。
半世紀ばかり前の清少納言や紫式部が活躍した舞台は、宮中にあった。天皇や中宮などに仕える女房たちが絢爛たる王朝文学を築いていった。
しかし、紀伊が瑞々しい感性を築き上げていった舞台は、内親王家とはいえ宮中を離れた藤原氏の邸宅に過ぎなかった。しかし、そこには、祐子内親王という感性豊かな主人と、藤原頼道という強大な後援者がいた。その高倉第は、内裏から離れた一貴族の邸とはいえ、有り余るほどの財力と豊かな才能が集められた絢爛豪華なサロンを築き上げていたに違いない。
そのサロンで存分の輝きを見せた祐子内親王紀伊は、天皇家や貴族間の凄まじい権力争いや、武士階級の台頭による混乱から離れていたがゆえに、今日に伝えられている資料は少ないが、王朝女流文学の代表歌人の一人として見事な生涯を送ったに違いない。
( 完 )