運命紀行
斎王の身を投げ捨てて
伊勢斎王大伯皇女(オオクノヒメミコ)が弟の刑死を知ったのは、686年の初頭の頃である。
弟大津皇子を飛鳥に帰すことに危険を感じていたし、悲劇が起こる予感がなかったわけではない。しかし、天武天皇の重臣たちの大津皇子への信頼は高く、皇后とはいえ持統がここまでするとは思わなかった。持統皇后の草壁皇子への執着は伝え聞いていたが、その力を過小評価していたのかもしれない。
大伯皇女は激しい悲しみと、それをも上回る後悔の念にかられた。
「あの時、むりやりにも引きとめるべきだったのだ・・・」
大伯皇女は、飛鳥行きを決意した。
十三年にものぼる斎王の地位を投げ捨てるのに何の躊躇もなかった。
天武天皇の命令により就いた職ではあるが、崩御された今は誰の命令にも従う必要などなかった。持統や草壁が政務全般を委ねられているということではあるが、それが何の障害になるわけでもなかった。大伯皇女を飛鳥へ案内してくれる勢力は、持統らを遥かに超える力を有していた。
しかし、大津皇子も越えたであろう飛鳥への山路にかかる頃になると、大伯皇女の悲しみはさらに増し、弟のいない都へ向かうことのむなしさが胸に迫った。
大伯皇女の苦しい胸の内は、万葉集に残されている。
『神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに』
『見まく欲(ホ)りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに』
激しい後悔の念に襲われながらも、足を止めるわけにはいかなかった。
何があったのか、糺さなければならなった。弟大津皇子の身柄は今どうなっているのか・・・。
大伯皇女は顔をあげ胸を張った。飛鳥の地に馬を進め、都に向かった。
辛くとも与えられた定めを果たすための旅路であった。
* * *
『うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟世(イロセ)とわが見む』
(この世の人である私は、明日からは二上山を弟と思って眺めよう)
これも万葉集にある大伯皇女の歌である。
そして、この歌には、「大津皇子の屍を葛城の二上山(フタカミヤマ)に移し葬(ハフ)る時、大伯皇女の哀しび傷む御作歌」との説明が付けられている。
都に辿り着いた大伯皇女の動向を知る資料はない。
しかし、万葉集を参考にして推定すれば、大津皇子の遺体は、おそらく適当に埋葬されていたであろうものを、大伯皇女の手によって、二上山に移葬されたことが分かる。それも、「弟と思って眺めよう」と言うからには、山上近くであったことは確かであろう。
大伯皇女が都に着いたのは、大津皇子が処刑されて二か月余り後のことと思われる。都は、おそらく騒然としていたか、あるいは緊張に静まり返っていたことであろう。
そのような状況の中で、罪人である大津の皇子の遺体を移葬させることは、そうそう簡単なことではなかったと考えるのが自然である。それも、飛鳥にとって三輪山と並ぶ霊山である二上山の山上近くに埋葬するということは、罪人の埋葬とは思えない扱いである。
この出来事は、持統・草壁勢力の特別の計らいなのか、その勢力に有無を言わせぬ後ろ楯が大伯皇女に付いていたかのどちらかであろう。
この後、大伯皇女がどのように生きたのか記録が残されていない。
「二上山を弟として眺めよう」と歌ったからには、都近くで過ごしたと考えられるが、その住居さえ確定されていない。持統や草壁が大伯皇女に好意を示したとは考えられないし、たとえ住居提供の申し出があっても大伯皇女は受けるまい。
おそらく、大津皇子が残した邸を住まいとしたか、後見する有力者があったものと思いたい。
この時から十五年後の701年、「続日本書紀」の大宝元年十二月二十七日の条に、「大伯内親王屍。天武天皇之皇女也」の記事が残されている。享年四十一歳。
この記録があることから見れば、まだ持統が生存しているにもかかわらず、大伯皇女はどこかに打ち捨てられるような生涯ではなく、天武皇女としての存在感を保ち続けていたものと考えられる。
姉は詩歌に優れ胆力もあり、弟は稀有の偉丈夫であったと伝えられる悲運の姉弟は、今も二上山の懐に眠っているのかもしれない。
( 完 )
斎王の身を投げ捨てて
伊勢斎王大伯皇女(オオクノヒメミコ)が弟の刑死を知ったのは、686年の初頭の頃である。
弟大津皇子を飛鳥に帰すことに危険を感じていたし、悲劇が起こる予感がなかったわけではない。しかし、天武天皇の重臣たちの大津皇子への信頼は高く、皇后とはいえ持統がここまでするとは思わなかった。持統皇后の草壁皇子への執着は伝え聞いていたが、その力を過小評価していたのかもしれない。
大伯皇女は激しい悲しみと、それをも上回る後悔の念にかられた。
「あの時、むりやりにも引きとめるべきだったのだ・・・」
大伯皇女は、飛鳥行きを決意した。
十三年にものぼる斎王の地位を投げ捨てるのに何の躊躇もなかった。
天武天皇の命令により就いた職ではあるが、崩御された今は誰の命令にも従う必要などなかった。持統や草壁が政務全般を委ねられているということではあるが、それが何の障害になるわけでもなかった。大伯皇女を飛鳥へ案内してくれる勢力は、持統らを遥かに超える力を有していた。
しかし、大津皇子も越えたであろう飛鳥への山路にかかる頃になると、大伯皇女の悲しみはさらに増し、弟のいない都へ向かうことのむなしさが胸に迫った。
大伯皇女の苦しい胸の内は、万葉集に残されている。
『神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに』
『見まく欲(ホ)りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに』
激しい後悔の念に襲われながらも、足を止めるわけにはいかなかった。
何があったのか、糺さなければならなった。弟大津皇子の身柄は今どうなっているのか・・・。
大伯皇女は顔をあげ胸を張った。飛鳥の地に馬を進め、都に向かった。
辛くとも与えられた定めを果たすための旅路であった。
* * *
『うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟世(イロセ)とわが見む』
(この世の人である私は、明日からは二上山を弟と思って眺めよう)
これも万葉集にある大伯皇女の歌である。
そして、この歌には、「大津皇子の屍を葛城の二上山(フタカミヤマ)に移し葬(ハフ)る時、大伯皇女の哀しび傷む御作歌」との説明が付けられている。
都に辿り着いた大伯皇女の動向を知る資料はない。
しかし、万葉集を参考にして推定すれば、大津皇子の遺体は、おそらく適当に埋葬されていたであろうものを、大伯皇女の手によって、二上山に移葬されたことが分かる。それも、「弟と思って眺めよう」と言うからには、山上近くであったことは確かであろう。
大伯皇女が都に着いたのは、大津皇子が処刑されて二か月余り後のことと思われる。都は、おそらく騒然としていたか、あるいは緊張に静まり返っていたことであろう。
そのような状況の中で、罪人である大津の皇子の遺体を移葬させることは、そうそう簡単なことではなかったと考えるのが自然である。それも、飛鳥にとって三輪山と並ぶ霊山である二上山の山上近くに埋葬するということは、罪人の埋葬とは思えない扱いである。
この出来事は、持統・草壁勢力の特別の計らいなのか、その勢力に有無を言わせぬ後ろ楯が大伯皇女に付いていたかのどちらかであろう。
この後、大伯皇女がどのように生きたのか記録が残されていない。
「二上山を弟として眺めよう」と歌ったからには、都近くで過ごしたと考えられるが、その住居さえ確定されていない。持統や草壁が大伯皇女に好意を示したとは考えられないし、たとえ住居提供の申し出があっても大伯皇女は受けるまい。
おそらく、大津皇子が残した邸を住まいとしたか、後見する有力者があったものと思いたい。
この時から十五年後の701年、「続日本書紀」の大宝元年十二月二十七日の条に、「大伯内親王屍。天武天皇之皇女也」の記事が残されている。享年四十一歳。
この記録があることから見れば、まだ持統が生存しているにもかかわらず、大伯皇女はどこかに打ち捨てられるような生涯ではなく、天武皇女としての存在感を保ち続けていたものと考えられる。
姉は詩歌に優れ胆力もあり、弟は稀有の偉丈夫であったと伝えられる悲運の姉弟は、今も二上山の懐に眠っているのかもしれない。
( 完 )