雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  斎王の身を投げ捨てて

2011-12-27 08:00:44 | 運命紀行
       運命紀行

          斎王の身を投げ捨てて


伊勢斎王大伯皇女(オオクノヒメミコ)が弟の刑死を知ったのは、686年の初頭の頃である。
弟大津皇子を飛鳥に帰すことに危険を感じていたし、悲劇が起こる予感がなかったわけではない。しかし、天武天皇の重臣たちの大津皇子への信頼は高く、皇后とはいえ持統がここまでするとは思わなかった。持統皇后の草壁皇子への執着は伝え聞いていたが、その力を過小評価していたのかもしれない。
大伯皇女は激しい悲しみと、それをも上回る後悔の念にかられた。
「あの時、むりやりにも引きとめるべきだったのだ・・・」

大伯皇女は、飛鳥行きを決意した。
十三年にものぼる斎王の地位を投げ捨てるのに何の躊躇もなかった。
天武天皇の命令により就いた職ではあるが、崩御された今は誰の命令にも従う必要などなかった。持統や草壁が政務全般を委ねられているということではあるが、それが何の障害になるわけでもなかった。大伯皇女を飛鳥へ案内してくれる勢力は、持統らを遥かに超える力を有していた。

しかし、大津皇子も越えたであろう飛鳥への山路にかかる頃になると、大伯皇女の悲しみはさらに増し、弟のいない都へ向かうことのむなしさが胸に迫った。
大伯皇女の苦しい胸の内は、万葉集に残されている。

  『神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに』
  『見まく欲(ホ)りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに』

激しい後悔の念に襲われながらも、足を止めるわけにはいかなかった。
何があったのか、糺さなければならなった。弟大津皇子の身柄は今どうなっているのか・・・。
大伯皇女は顔をあげ胸を張った。飛鳥の地に馬を進め、都に向かった。
辛くとも与えられた定めを果たすための旅路であった。


     * * *

   『うつそみの人にあるわれや明日よりは 二上山を弟世(イロセ)とわが見む』
     (この世の人である私は、明日からは二上山を弟と思って眺めよう)

これも万葉集にある大伯皇女の歌である。
そして、この歌には、「大津皇子の屍を葛城の二上山(フタカミヤマ)に移し葬(ハフ)る時、大伯皇女の哀しび傷む御作歌」との説明が付けられている。

都に辿り着いた大伯皇女の動向を知る資料はない。
しかし、万葉集を参考にして推定すれば、大津皇子の遺体は、おそらく適当に埋葬されていたであろうものを、大伯皇女の手によって、二上山に移葬されたことが分かる。それも、「弟と思って眺めよう」と言うからには、山上近くであったことは確かであろう。

大伯皇女が都に着いたのは、大津皇子が処刑されて二か月余り後のことと思われる。都は、おそらく騒然としていたか、あるいは緊張に静まり返っていたことであろう。
そのような状況の中で、罪人である大津の皇子の遺体を移葬させることは、そうそう簡単なことではなかったと考えるのが自然である。それも、飛鳥にとって三輪山と並ぶ霊山である二上山の山上近くに埋葬するということは、罪人の埋葬とは思えない扱いである。
この出来事は、持統・草壁勢力の特別の計らいなのか、その勢力に有無を言わせぬ後ろ楯が大伯皇女に付いていたかのどちらかであろう。

この後、大伯皇女がどのように生きたのか記録が残されていない。
「二上山を弟として眺めよう」と歌ったからには、都近くで過ごしたと考えられるが、その住居さえ確定されていない。持統や草壁が大伯皇女に好意を示したとは考えられないし、たとえ住居提供の申し出があっても大伯皇女は受けるまい。
おそらく、大津皇子が残した邸を住まいとしたか、後見する有力者があったものと思いたい。

この時から十五年後の701年、「続日本書紀」の大宝元年十二月二十七日の条に、「大伯内親王屍。天武天皇之皇女也」の記事が残されている。享年四十一歳。
この記録があることから見れば、まだ持統が生存しているにもかかわらず、大伯皇女はどこかに打ち捨てられるような生涯ではなく、天武皇女としての存在感を保ち続けていたものと考えられる。
姉は詩歌に優れ胆力もあり、弟は稀有の偉丈夫であったと伝えられる悲運の姉弟は、今も二上山の懐に眠っているのかもしれない。

                                       ( 完 )
 
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運命紀行  二上山を仰ぐ

2011-12-21 08:00:25 | 運命紀行
       運命紀行

          二上山を仰ぐ


『二人行けど行き過ぎ難き秋山を いかにか君が独り越ゆらむ』
                        (万葉集・巻二 大伯皇女御作歌)

伊勢の国から飛鳥の地に入る時に越える山というのは、どの山のことを指しているのであろうか。
大津の皇子が僅かな下僕を従えて飛鳥の地に戻ったのは、天武天皇崩御後間もない秋のことであった。
都はすでに天武天皇の喪に入っており人影は少なく、それでいて、どこか殺気立っているような空気が流れていた。

天武天皇が衰えを見せ始めた頃、政務の一切を持統皇后と草壁皇子に委ねると決定した。しかし、実質的な政務は大津皇子を筆頭にして壬申の乱を勝利した重臣たちが牛耳っていた。
常に天武天皇の側近くにある持統皇后への天皇の信頼は厚いが、何分にも皇后は天智天皇の皇女であった。いくら天武の皇后といっても、壬申の乱を戦った重臣にとっては、敵方の血統であることを消し去ることなど出来ていなかった。

大津皇子は、文武両道に優れた偉丈夫であり、重臣たちの期待を担っていた。持統の影響を強く受け大津皇子を謀反人として扱っている日本書紀でさえ優れた資質の持ち主であるとたたえている。
その大津皇子であるから、天武天皇崩御の後、身に迫る危険は素早く察知したはずである。持統皇后の異常なまでの草壁皇子への偏愛も見てきていたし、不幸な最期を遂げた皇子たちの事件の真実も承知していたはずである。

しかし、大津皇子は、天武天皇の亡骸が安置された殯宮(モガリノミヤ)において、謀反の疑いで捕らえられ、翌日には処刑されてしまう。悲報を受けた妃の山辺皇女は、髪を振り乱し、素足で処刑場に向かい、殉死したという・・・。
大津皇子、二十四歳。大人物と期待された皇子のあまりにもあっけない最後である。
それは、謀反により処刑というより、暗殺というべき出来事であったのか。あるいは、絶対に優勢な陣営の支援を受けていたための油断であったのか。
そして、また、飛鳥に戻ってから、やがて永久の住処となる二上山を仰ぎみることはあったのだろうか。
      


     * * *

大津皇子の誕生は、663年、斉明天皇の御代で天智・天武の両雄の確執がまだ表面化する前のことである。
父は天武天皇。母は天智天皇の娘である大田皇女である。
大田皇女と持統天皇とは父母を同じくする姉妹であるが、二人の母蘇我遠智娘は、実の父を夫である中大兄皇子に責め殺され狂乱のうちに死ぬという不運の人であった。
そして、この姉妹は、共に大海人皇子に嫁いだのである。一夫多妻が普通の時代であるが、中大兄皇子は弟と伝えられている大海人皇子にこの他にも二人、全部で四人も自分の娘を嫁がせているのである。

両親を共にする二人の皇女は、相次いで大海人皇子に嫁ぎ、大田皇女は大伯皇女と大津皇子を生み、持統は草壁皇子を生んだ。このような関係が、大田と持統にどのような影響を与えたのか想像することさえ難しいが、結果としては、大津皇子と草壁皇子という並び立つことが出来ぬ、そして共に哀しい運命を背負わせることになるのである。

大伯皇女と大津皇子にとっての不運は、母大田皇女の早すぎる死であった。逝去の正確な日は伝えられていないが、埋葬記録から大津皇子が三、四歳の頃であったと考えられる。
大田皇女と持統は全く同じ血脈であり、普通であれば、大海人皇子が即位したときに皇后の地位を得るのは、姉である大田皇女のはずであった。しかし、すでに亡くなっていることから持統皇后が実現したのである。そしてこのことが、大伯・大津の姉弟に過酷な運命を強いることになったのである。

壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子は即位し天武天皇となった。これまでの大王という称号から始めて天皇という称号を唱えることになる。
天智天皇の後継者となった大友皇子と大海人皇子が戦った壬申の乱の時、大津皇子は十歳の頃であり武勇を立てる年齢ではないが、そのご立派な成長を遂げ天武天皇や重臣たちの期待を集めていった。
「懐風藻」は大津皇子の人柄をほめそやし、罪人として扱っている「日本書紀」でさえほめたたえているのである。一方の草壁皇子は凡庸であり何よりも病弱であった。

持統皇后は、わが子草壁皇子を天武天皇の後継者にするべく、懸命の策を練った。
大伯皇女を伊勢神宮の斎王として送り出させたのも、有力皇族や豪族に嫁いで、大津皇子の後ろ盾になることを恐れたものと考えられる。
しかし、大津皇子は天皇や群臣たちの期待を一身に担って偉丈夫に育っていく。一歳年上でありながらひよわな草壁皇子とは、年々差が開いていった。
持統皇后は、衰えを見せ始めた天武天皇に草壁立太子を積極的に働き掛け、自らも祭り事に口出すことを強めて行った。すでに大津皇子は、群臣たちの間では次期天皇に近いほどの信頼を集めており、このまま天武が身罷りなどすれば、自分たち親子の立場が弱くなることは明らかであった。

皇后の立場も草壁皇子の存在も、天武天皇あってのものであった。いくら皇后として、時には天皇の代行役を務めていても、群臣たちにとって持統は、天智天皇の皇女であった。壬申の乱を戦った豪族たちにとっては、敵方の娘であることを忘れていないのである。
天武天皇の病は重くなり、ついに、政務一切を皇后と草壁皇子に委ねるとの決定を受けることに成功する。持統皇后は、天皇の病気回復のための祈祷や行事を盛大に行い、群臣の掌握に努め、草壁皇子の次期天皇としての存在感を高めようと努力を続けた。
しかし、群臣たちにとっては、天武天皇の後継者は大津皇子であり、病床の天皇の決定に関わらず、大津皇子の存在に何のかげりも見えなかった。

686年9月、天武天皇崩御。
大津皇子は、僅かな供を連れて密かに都を離れた。
天武王朝の体制は固まっているとはいえ、持統皇后を中心とした勢力の暴走も予測される状況にあり混乱から身を守るためであった。飛鳥を離れ伊勢国に向かった。伊勢神宮斉王である姉大伯皇女に会うためであった。
この伊勢行きが、単に姉に会うためであったのか、混乱から身を守るためであったのか、あるいはもっと他に大事があったのか、残されている確かな資料はない。
ただ、伊勢国は飛鳥と東国を結ぶ土地である。東国は天武勢力の強い土地柄であり、壬申の乱を戦った天武重臣たちの信頼厚い大津皇子にとっては、いざ戦乱となった時には重要な意味を持ってくる。そのため、天武崩御直後の大津皇子の密かな伊勢国行きは、謀反の準備ととられる面も持っていた。

しかし、天武の群臣たちの厚い信頼と期待を受けていた大津皇子に謀反の必要などあったのだろうか。
草壁皇子が正式に皇太子に就いていたか否かに関わらず、天武王朝は大津皇子を中心とした勢力を中心に運営されており、謀反を起こすとすれば、それは、未だに群臣たちから敵視されがちな持統皇后側であったはずなのである。
大津皇子の謀反事件では三十余人が捕らえられ、大津皇子は十分な詮議もなく翌日に処刑されているが、他は二人が流罪にされただけで許されているのである。この事件は、謀反というより、暗殺というものであったように感じられてならない。

それにしても、大津皇子は何故に伊勢国に向かったのであろう。
斎王である姉とはどのような話をしたのであろう。
都に戻ることを心配する姉に比べて、あまりにも無防備に飛鳥への山を越えたのは、群臣たちの信頼を受けている自信であったのか、それとも油断であったのか・・・。
そして、飛鳥への山を越え、無念の最期を迎えるまでの間に、あの二上山を仰ぎ見ることがあったのだろうか。

                                        ( 完 )


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運命紀行  血脈に翻弄されて

2011-12-15 08:00:07 | 運命紀行
       運命紀行

          血脈に翻弄されて


「私が政務一切の先頭に立とう」
亡き天武天皇の皇后、持統(鸕野讚良・ウノノササラ)は決意を固めた。

朱鳥元年(686)七月、重病の床にある天武天皇から重大な発表がなされた。政務の全権を持統とその子である草壁皇子に委ねたのである。
持統は、天皇の病気平癒を願い大規模な宗教行事を催した。年号も縁起を求めて朱鳥(アカミトリ)と改め、諸王、群臣らを集めて天皇のために祈祷などを数多く行った。
しかし、天皇の病に回復の気配は見えず、ついに、九月九日古代史屈指の英雄天武天皇は崩御した。

壬申の乱から十四年、天武王朝は盤石の王権を築き上げてきていた。しかし、それは、皇后持統の立場を盤石にしているということではなかった。いわんや、皇太子草壁の存在に至っては、極めて危ういものといえた。二人の地位は、天武天皇あってのことで、壬申の乱を戦ってきた天武の重臣たちの多くは健在で、皇后とはいえ持統の思いのまま祭り事を進められる状態ではなかった。
さらに、持統の強い働きかけにより、わが子草壁を皇太子につけることが出来たが、血統、年齢のいずれをとっても見劣りしない大津皇子の存在があった。
草壁とは異母兄弟である大津皇子は、早くから祭り事に深く関与しており、その能力人望は高く、母である持統の目から見ても病弱である草壁を全ての面で上回っていることを認めざるを得なかった。
天武王朝の重臣たちの多くは、大津皇子こそが天武の後継者と望んでおり、持統・草壁に全権を委ねたという重病の天武の決定を素直に受け入れていない者も多い。

しかし、何が何でも、わが子である草壁皇子に即位させなくてはならないと、持統は自らを励ました。
持統は懸命に策を模索した。今強行することはあまりにも危険が大きい。王朝勢力の大半は大津皇子に目が向けられており、正面からはとても太刀打ちできる情勢にはなかった。
「私が称制になろう」
持統は決意した。
斉明天皇崩御の後、天智天皇が即位することなく「称制」として政務を行った例があり、天武天皇の喪に服する時でもあり、これに反対する者はいないと考えたのである。
わが身が担う数奇な血脈を草壁を通して伝えて行くための決意であり、それは、苦難な戦いを覚悟する決意でもあった。


     * * *

王権をめぐる激しい戦いが繰り返された飛鳥時代。その真っ只中を生き抜いた女帝がいた。持統天皇である。

現代人にもなじみ深い小倉百人一首。その一番歌は、天智天皇の御製であるが、二番歌には持統天皇が挙げられている。
『春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山』というのどやかな歌である。
もともとは万葉集に収められているものを、新古今集を経て小倉百人一首に選出されたものであるが、本歌は少し違い、『春過ぎて夏来たるらし白妙の 衣ほしたり天の香具山』であり、この方が遥かに力強く、のびやかに感じられる。
いずれにしても、歌の巧拙はともかく、持統天皇の持つイメージは、飛鳥時代を制した天武天皇の皇后であり、その後を引き継いだ持統天皇として繁栄の生涯を思い浮かべがちである。しかし、今少し残された記録の向こうを覗いて見ると、壮絶な生涯が垣間見られる。

この時代を知るための資料の根幹をなすものは「日本書紀」である。古事記と比べ、あるいはその他の資料と比べ批判を受ける部分もあるようだが、わが国最初の正史である「日本書紀」を軽視することは出来まい。
ただ、「日本書紀」は、天武天皇の命により編纂が始まり、神代から持統天皇の御代までが記録されている。つまり、壬申の乱の勝者である天武・持統の意向が強く反映された記録書であることは否めない。さらに言えば、完成したのは奈良時代に入ってからであり、さらに時の実権者により意図的な編集がなされていることは十分考えられることである。

本編の主人公持統天皇が誕生したのは、西暦645年、和暦でいえば大化元年にあたる。この年は、乙巳の変(イッシノヘン・大化の改新とも)が断行された年である。
父は、大化の改新という呼び名でよく知られている乙巳の変の首謀者、中大兄皇子、後の天智天皇であり、母は、このクーデターの実行グループの一人である蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘(オチノイラツメ)である。
つまり、乙巳の変は、蘇我本家である蘇我入鹿を暗殺し滅亡させたクーデターといえようが、その実行者には、中大兄皇子や中臣鎌足らと共に、持統の祖父も有力メンバーとして加わっていたのである。
しかも、四年後には、蘇我倉山田石川麻呂は謀反との讒言を受けて中大兄皇子に、誅殺されてしまうのである。持統の母遠智娘は、夫に父親を殺されてしまったのである。そして遠智娘は、この事件により発狂状態になり死に至ったという。

持統は、十三歳の時、大海人皇子に嫁いだ。
中大兄皇子と大海人皇子の関係は、何とも難しい関係である。二人は共に舒明天皇の子であるが、母も皇極天皇である同母の兄弟とされているが、否定的な説や文献もある。大海人皇子の実母は別であり、兄弟も逆であるというものである。
やがて中大兄皇子は即位して天智天皇となるが、大海人皇子に対しては、大変な配慮と警戒を持っていた。
持統が嫁いだのもその懐柔策の一つであろうが、他にも、大田皇女、少し後のことであるが、大江皇女、新田部皇女と中大兄皇子は四人の娘を大海人皇子に嫁がせている。その一方で、あの額田王は、大海人皇子との間に十市皇女をもうけながら、天智のもとに引き取られているのである。現代のモラルで当時を推し量っても真実は見えないとしても、何とも理解し難い二人の関係ではある。
やがて、持統は草壁皇子を生み、同母の姉大田皇女は大伯皇女と大津皇子を生む。大田皇女が早く亡くなったこともあり、持統は天武即位と共に皇后となるが、それは少し先のことである。

やがて、天智天皇の衰えと共に、後継者問題が現実化して来た。
天智即位と共に大海人皇子は皇太子(あるいは皇太弟)の地位につき、次期天皇を約束されていたとされるが、この頃は、まだ皇太子という制度はなかったと考えられ、これは事実ではないと思われるが、次の天皇は大海人皇子だという漠然とした形であれ流れが出来ていた可能性はある。
しかし、時間の経過とともに、天智天皇の意思は、わが子大友皇子を後継者にする方向へと移って行った。
当時は、天皇後継者の条件に母親の血統が重視されていた。大友皇子はその点から適任ではなく、後継者は、大海人皇子、あるいはその子である、草壁皇子、大津皇子が適任者であったと想像される。
しかし、天皇の意思は絶対であった。

大海人皇子は天智王朝の都近江を脱出し、吉野に向かう。皇位継承の意思がないことを示すために身を引いたとされるが、身の危険を察しての脱出であることは誰もが承知のことであった。持統は、この脱出に同行し、この後も行動を共にする。実父である天智天皇を捨て、夫である大海人皇子を選んだのである。
果たして、大友皇子を後継者に指名して天智天皇が崩御すると、大海人皇子は決起する。壬申の乱の勃発である。

古代日本最大といえる壬申の乱に勝利した大海人皇子は、都を近江から蘇我氏の本拠地である飛鳥浄御原宮に移して即位する。天武天皇の誕生である。なお、これまでの天皇は、正しくは大王という称号であり、天武が天皇という称号で即位した初代である。
これにより、持統は皇后の地位に就き、強力な天武王朝を築き上げる夫を助けたとされる。
しかし、天武が即位してから十三年後、ついに英雄天武天皇が崩御すると、天武王朝に難問が表面化した。後継者問題である。

天武は生前、後継者を草壁皇子としていたが、壬申の乱を戦ってきた天武の重臣たちは、その決定が草壁皇子の母である持統の強い圧力で決定されたことを知っていた。
天皇崩御により、重臣たちの意向は大きく動いて行った。
この時点で、天皇後継者となりうる人物が二人いた。草壁皇子と大津皇子である。年齢は草壁が一歳上であるが、文武両面で大津の方が遥かに上で、人望は比較にもならなかった。さらに草壁は、幼い頃から病弱であった。ただ、大津皇子に不運だったのは、母である大田皇女が早くに亡くなっていたことである。
しかし、持統は何としても草壁を即位させる覚悟であった。

持統は称制として、政務一切を背負う覚悟を決める。
天武天皇の喪に服しているうちに、いかなる手段をとろうとも、草壁即位を群臣たちに認めさせなければならない。持統のこの強い覚悟は、苦しい戦いの日々への出発だったのではないか。

持統は直ちに行動に出た。大津皇子を謀反の疑いで逮捕、自死に追い込む。
最大のライバルを滅亡させたが、それでも、一年経ち、二年経っても、草壁を即位させることが出来なかった。天武の喪を続けるにも限度があった。そして、草壁皇子も死去してしまう。伝えられている死因は病気とされている。
ついに持統は、自ら即位する。持統天皇の誕生である。

持統天皇は、690年(持統四年)に即位し、697年(持統十一年)に、文武天皇に譲位したとされている。そして、この五年後に逝去する。
その治世は、天武王朝の継承であり、むしろ持統天皇を頂点とする王朝を確立させたともいわれている。
しかし、持統天皇統治とされる時代は、持統にとって安らかなものであったとは考えにくい。王朝の有力者は、壬申の乱を勝ち抜いた人物が中心であり、持統の父は仇敵天智天皇であり、母は蘇我氏とはいえ、蘇我本家を滅ぼした一族なのである。しかも、群臣たちに人望があった大津皇子を死に追い込んだ張本人と見られていたとすれば、持統天皇が誕生したこと自体不思議な気がするのである。
実際に、持統天皇が政務を司った宮城ははっきりせず、三十数回にも及ぶ吉野詣は、飛鳥の地に強い地盤を築くことが出来ていなかったことを窺わせるのである。

夫、天武天皇が崩御してから文武天皇に譲位するまでの十一年間は、持統にとって苦難の日々だったのではないだろうか。そして、藤原不比等らの協力を得て、愛してやまなかった草壁皇子の子、文武天皇を誕生させたことは、まさしく執念の勝利とでもいえよう。


                                        ( 完 )
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運命紀行  松が枝に託す命

2011-12-09 08:18:02 | 運命紀行
       運命紀行    

          松が枝に託す命  


『磐代の浜松が枝を引きむすび 真幸くあらばまた還り見む』

「松の枝を結んで願い事をすれば叶えられる」という古くからの言い伝えは聞いていたが、まさか自分自身がこの儚い願いに命を託すとは思いもよらなかった。
しかし、同時に、自分の身が危険にさらされていることは承知していることであった。正気を失っているとまでの配慮をしてきていながら、簡単に敵の罠にはまってしまった自分を恨むしかなかった。

捕われの身となり、紀の湯に滞在中の天皇に懸命の釈明を行うつもりであるが、聞き入れられるものかどうか予断が許されなかった。
すでに尋問を受けた中大兄皇子には、自分の言い分を聞きとろうとする気配さえなかった。それも当然なことで、次期皇位を狙う中大兄皇子にとって、自分が邪魔な存在であることは確かであり、そのためにめぐらした罠だったのだから。
天皇に最後の望みを託そうとしているのは、斉明天皇が自分の伯母にあたるからで、その血の繋がりにすがるつもりであるが、自分を亡き者にしようとしている中大兄皇子が実子であることを思えば、その願いは、「松が枝」に託するよりもさらに脆いものかもしれない。

有間皇子が処刑されたのは、松が枝に願いを掛けた翌日であったのか、さらにその翌日のことであったのか・・・。
まだ十九歳の青年皇族であった。


     * * *

有間皇子は645年に誕生した。父は、軽皇子、後の孝徳天皇である。母は、小足媛(オタラシヒメ)、左大臣安倍内麻呂の娘である。二人が有馬に滞在中に誕生したことから名付けられたともいう。

641年、舒明天皇が崩御。この時、舒明天皇には後継者として有力な皇子が二人いた。古人大兄皇子と中大兄皇子である。第一皇子である古人大兄皇子の年齢は不詳であるが、中大兄皇子は十六歳である。天皇の意中の後継者は、第一皇子であり蘇我馬子の娘を母に持つ古人大兄皇子であったが、まだ若年であったことから、皇后である宝皇女が即位した。皇極天皇の誕生である。

645年、政変が発生。中大兄皇子や中臣鎌足を中心とした勢力が実力第一の蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼしたのである。乙巳の変(大化改新とも)である。
これにより後ろ楯を失った古人大兄皇子は、天皇位につく意思のないことを宣言して吉野に隠退するが、謀反の疑いとされて中大兄皇子勢力に滅ぼされてしまう。
皇極天皇は政変後譲位を決意し、息子である中大兄皇子を即位させようとしたが、まだ若年であることや反対勢力を侮れないことなどを理由に時期を待てという中臣鎌足の進言を入れ、結局皇極天皇の同父母弟である軽皇子に譲位されることとなる。孝徳天皇である。

父の即位により、有間皇子は、次期天皇への有力候補に躍り出てしまったのである。
それは、中大兄皇子にとっては全く意図しないことであり、「皇祖母尊(スメミオヤノミコト)」という称号を受けた皇極も全く同じ考えであったと思われる。(もっとも、この称号は、あとの時代に作られたものらしい)

孝徳天皇は、難波の宮を拠点として大化の改新と呼ばれる政治体制を推し進めて行った。しかし、孝徳天皇の政治力の発揮は、皇極にとっても中大兄皇子にとっても望ましいものではなかった。
皇極・中大兄親子にとっては、孝徳天皇は一時的に皇位を預けたものに過ぎなかった。皇極にとっては飛鳥の倭京の建設こそが重要であり、中大兄としては孝徳天皇が実力を蓄えて行くことは黙視できることではなかった。悪くすれば、次の皇位を自分の子である有間皇子にする可能性が強くなる。

中大兄皇子は、孝徳天皇に都を倭京に戻すことを強く求め、聞き入れられないとなると影響下にある貴族たちを引き連れて倭京へ移ってしまった。皇極も行動を共にし、皇后の間人皇女までが中大兄に従ってしまった。
孝徳天皇の皇后である間人皇女は、中大兄皇子と父母を同じくする兄妹であるが、とかくの噂のある関係でもあった。
さらに、おそらく、孝徳天皇に対し退位を迫り、実際に実質的な王権は皇極・中大兄の手中になって行ったと考えられる。

654年、孝徳天皇は失意のうちに崩御。天皇位はふたたび皇極のもとに戻り、斉明天皇として即位した。重祚である。
この時、中大兄皇子は二十九歳になっており、即位してもおかしくない年齢と思われるが、群臣たちに受け入れられない事情があったと想像できる。

有間皇子は、父である孝徳天皇が崩御すると、政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装って、療養のためとして紀の国に身を隠した。古人大兄皇子の轍を踏まないためであった。
やがて飛鳥に戻った有間皇子は、斉明天皇に病気完治を報告し、彼の地のすばらしさを伝えた。斉明天皇は心を動かされ、静養のために紀の国に向かった。

飛鳥に残っていた有馬皇子のもとに、蘇我赤兄が接近をはかってきた。天皇や中大兄皇子の政策に不満を漏らし、失政を指摘し、自分は有間皇子の味方であるから何なりと申しつけてほしいと親交を深めようとした。自分が極めて危うい立場にいることを承知していたつもりであったが、天皇が行幸中であることもあり、有間皇子にも油断があったのかもしれない。
ある日、突然に有間皇子の邸は蘇我赤兄の軍勢に包囲され、謀反の疑いで捕われの身となった。

中大兄皇子の尋問を受けた有間皇子は、「真実は、天と赤兄だけが知っている。吾は何も知らない」と、述べたという。
有間皇子に、父孝徳天皇の無念を晴らしたい気持ちがなかったとはいえまい。母の実家安倍氏は、水軍など強力な軍事力を有しており、何らかの思惑を描いていたかもしれない。
しかし、有間皇子と一緒に捕われた、守大石や坂合部薬は、流罪の後許されており、坂合などは、後の壬申の乱では近江方として戦っていることを思えば、罠にはめられたとしか思えない。
いずれにしても、中大兄皇子には弁明を聞く耳など持ち合わせていなかった。天皇のもとに護送される途中で、若い命は断たれてしまったのである。

『家にあれば笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る』
有間皇子の歌である。
十九年の生涯を終えようとする運命の旅の歌と思えば、胸が詰まる。

                                      ( 完 )
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