雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

きみは虹を見たか   第九回

2010-11-02 10:20:20 | きみは虹を見たか
          ( 5 - 2 )

「入りますよ」
声とともに、お母さんがドアを開けました。

「どうしたの、こんなに遅くまで、二人とも・・・」
お母さんは、二人の顔を交互に見ると、自分も床に座りました。

「マーくんが・・・、マーくんが、自分のせいでお父さんが死んだって言うの・・・」
それだけ言うと、道子さんはお母さんの胸に顔をうずめて声を出して泣きだしてしまいました。
お母さんは、道子さんの背中を優しく撫でていました。

「どうしたの、マーくん。なんで、そんなことを思ったの?」
道子さんの泣き方があまりに激しいので、少し圧倒されながら正雄くんはお母さんに答えました。

「ぼくが、お父さんを怒らせたから・・・。ね、ぼくがわがまま言ったから・・・。だから、お父さんは死んでしまったんだ・・・」
お母さんは、正雄くんを抱き寄せました。片手で道子さんの背中を撫で、片手で正雄くんの肩を抱いていました。
正雄くんは、「ぼくが悪いんだ」と何度も繰り返し、道子さんは激しく泣きじゃくっていました。

そのままの時間がしばらく続きました。
道子さんが少し落ち着いた頃、お母さんは二人を離しました。
「マーくん。ねぇ、マーくん、よく聞いて。お父さんが亡くなったのは、マーくんのせいではないのよ。誰のせいでもないのよ。ねえ、分かるでしょう、あの優しいお父さんが、正雄のわがままぐらいで本気で怒ったりしないわ。正雄がお父さんのこと好きだったように、お父さんは正雄が大好きだったのよ。道子がお父さんのこと好きだったように、お父さんは道子のことが大好きだったのよ。お母さんも、お父さんのことが大好きよ・・・。誰のせいでもないのよ。誰が悪いわけでもないのよ・・・」

「でも、お父さんは死んでしまったよ。もう、帰って来ないんだよ」
正雄くんは、自分が悪いのだという気持ちを消すことが、なかなか出来ません。

「マーくんも、ミッちゃんも、お父さんが亡くなってしまって、悲しいよね。お母さんも悲しいわ・・・。お父さんだって、お父さんだって、きっと悲しいのよ。だから、悲しい時は辛抱しなくていいのよ。泣いていいのよ。辛抱しないで泣いていいのよ。少しも恥ずかしいことじゃないのよ・・・。
苦しくなったらお母さんに話して。助けてあげられなくても、一緒に泣いてあげるわ・・・。三人一緒になっても辛抱できない時は・・・、その時は、お父さんに助けてもらうわ」

「でも、お父さんは、もういないわ・・・」
道子さんが、泣き腫らした目で、お母さんにうったえました。

「そうねえ、お父さんは亡くなったものねぇ・・・。でも、お父さんはいらっしゃると思うの。亡くなったので、わたしたちと一緒に生活することは出来ないけれど、お父さんはずっと一緒だと思うの」
「でも、お父さんは帰って来ないよ」

「でも、いるのよ。ずっとわたしたちのこと、見守ってくれているのよ。そして、どうしても困った時には、きっと助けてくれるわ」
道子さんは、じっとお母さんの顔を見つめています。そして、時々頷いたりしているのですが、正雄くんには、お母さんの言うことが納得できません。

「どうして、お父さんは死んでしまったのかなあ・・・。やっぱり、ぼくのこと、嫌いになったのかなあ・・・」
「そんなこと、絶対にないわ。ねぇ、マーくん。お父さんはどうしても天国へ行かなくてはならなかったのよ」

「ぼくらだけ残して?」
「とても大切なお仕事があるのよ」

「どんな?」
「さあ、お母さんにもよく分からないわ・・・。でも、お父さんでなくては出来ない、大切な大切なお仕事が出来てしまったのよ、きっと・・・」

「ふうーん」
正雄くんと道子さんが、同時に声を出しました。納得したわけではないのですが、お母さんの言うことが本当のような気もします。

三人は、この後も長い時間話し合いました。
亡くなったお父さんのことについて、こんなに話し合うのは初めてのことでした。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きみは虹を見たか   第十回

2010-11-02 10:19:29 | きみは虹を見たか
          ( 6 - 1 )

そのあと、正雄くんはなかなか眠ることが出来ませんでした。
お母さんやお姉ちゃんと長い時間話し合ったあとの気持ちの高ぶりが、なかなかおさまらなかったからです。
お母さんもお姉ちゃんも、お父さんが死んだのは正雄くんのせいではないと言ってくれました。お父さんが、正雄くんのわがままをいつまでも怒っていたりしないとも言ってくれました。二人が繰り返し言ってくれたので、ほんの少し気持ちが楽になったように正雄くんは感じていました。

しかしそれは、本当にほんの少しでした。
自分のベッドに戻ったあとも、正雄くんは考え続けました。本当にぼくのせいでないとしたら、なんでお父さんは死んでしまったのだろう・・・。
正雄くんの考えは、そこまで行くと先に進まなくなってしまいます。お父さんが死んでから、正雄くんはお父さんの夢を何度かみましたが、いつも、怒っている顔か悲しそうな顔でした。
「やっぱりお父さんは、まだ許してくれていないんだ」
正雄くんの考えは、結局そこに行きつきます。

グルグルグルと、考えを繰り返しているうちに、正雄くんは眠ってしまいました。
朝になってもまだ眠くってぐずぐずしていると、お母さんがベッドの中の正雄くんをのぞきこんで、「行ってくるわね」と声をかけてくれました。
正雄くんも、「行ってらっしゃい」と返事をしましたが、少し経ってから、「そうだお母さんはお仕事なんだ」と思いながら、また眠ってしまいました。

次に目が覚めたのは、お昼前でした。
一階におりて行くと、お姉ちゃんがキッチンにいました。
「おはよう、よく眠っていたわね」と、何だかお母さんのような言い方です。最近お姉ちゃんは、だんだんお母さんに近づいているみたいに正雄くんは感じていました。

「うん、よく眠った。でも、お母さんとは話したよ」
「まだ寝ぼけているみたいって、お母さん言ってたよ」

「寝ぼけてなんかいないよ」
正雄くんは口をとがらせるようにして抗議しましたが、お姉ちゃんは相手にしないで、サンドイッチを運んできました。
「もう、お昼よ。お母さんがサンドイッチを作ってくれているのよ。いまスープを作るからね」
食卓にサンドイッチを二皿置いて、インスタントのスープをコーヒーカップに手際よく入れています。

「お母さんみたいだ」
正雄くんのひとりごとのような言葉に、道子さんは満足そうです。

   **

食事のあと、正雄くんは自転車で家を出ました。
「遅くならないうちに帰ってくるのよ」
お姉ちゃんは、やっぱりお母さんと同じ言い方で正雄くんを送りだしました。
正雄くんの自転車は子供用ですが、運転には自信があります。少し遠いのですが、行く先は決まっていました。

ベッドの中で何度も何度も考えた結果、正雄くんは、とても大切なことを思いだしたのです。お父さんが死んだのが、あの図書カードのことだと思い込んでいたのですが、お母さんやお姉ちゃんが絶対違うと言うので少し気が楽になりましたが、何か原因があるのだという考えは正雄くんの頭から消えませんでした。
そして、もう一つ重要なことがあったことに気付いたのです。こんな大切なことが今まで気づかなかったことが不思議ですが、これまでは図書カードのことが原因だと正雄くんが思いこんでしまっていたからです。

正雄くんが向かった公園は、家から三キロメートルほど離れているので、今まで一人で行ったことがないのですが、行き方は簡単です。それに、自転車だとすぐです。ただ、最後のあたりがずっと登り坂なので、自転車から降りて押しながら進みました。
正雄くんが着いたのは、山を切り開いて造られた広い広い住宅地の一画にある大きな公園でした。
そこは、お父さんの運転する車で何度も来た所です。テニスコートや野球などが出来る広いグランドがあり、別に小さな子供たち用の広場があるのです。その広場の中央には、ひょうたんみたいな形をした大きな砂場があります。砂場の中には背の高い山小屋みたいな建物があって、ハシゴのような階段と滑り台がついているのです。

砂場には、正雄くんよりずっと小さな子供が二人遊んでいるだけでした。子供のお母さんらしい人が砂場の外に立っています。子供たちは、ハシゴを登っては滑り台を滑り降りています。二人ともキャーキャー言いながら、何度も何度も繰り返しているのです。
正雄くんは、しばらく子供たちの遊んでいる様子を見ていましたが、しばらくしてから、子供たちとは一番離れている砂場の隅に立ちました。手には、家から持ってきた植木用のプラスチック製の棒を持っています。正雄くんの身長よりずっと長い棒です。
そして、その棒で、砂を掻き始めました。慎重に、慎重に、砂の中から何かを探しているのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きみは虹を見たか   第十一回

2010-11-02 10:18:37 | きみは虹を見たか
          ( 6 - 2 )

あれは、正雄くんが、まだ幼稚園の年少組の頃だったと思います。

正雄くんとお姉ちゃんは、お父さんに連れられてこの公園に遊びに来ました。しばらくは三人で砂山を作ったりして遊んでいたのですが、お父さんはすぐに飽きてしまいました。いつもそうなのですが、この日も本を読むといって砂場の近くのベンチに座りました。そして、これもいつものことなのですが、本を開くとすぐにベンチに横になって寝てしまうのです。
お姉ちゃんは、砂のお城を作るのに一生懸命です。

正雄くんは砂遊びに飽きて、次の遊びを考えました。そして、面白い遊びを思いつきました。
前にもしたことがあるのですが、砂の中にボールを隠して、それを見つけるという遊びです。でも、この日はボールを持ってきていなかったので、代わりのものがないかお父さんに聞こうと思いベンチの方へ行きました。
そして、いいものを見つけたのです。お父さんのスポーツシューズです。

お父さんは靴を脱ぎすてて、ベンチに長々と寝そべっています。正雄くんは、そっと靴の片方を持って砂場に戻りました。
まず、お姉ちゃんが遊んでいる近くにその靴を埋めました。本当は誰か別の人に埋めてもらえるといいのですが、お父さんは寝ているしお姉ちゃんも相手にしてくれませんから、自分で埋めたあと、砂場の周りを一周力いっぱいに走りました。そして、埋めた靴を探すのです。

一度目は簡単に見つけることが出来ました。
二度目はもっと真ん中よりに埋めました。今度は少しばかり手間取りましたが、うまく見つけだしました。
その次は、真ん中の幅が一番広くなっているあたりに埋めて、誰にも分からないように砂をよくならしてから、砂場から離れて遠くまで走って行きました。この時は簡単に見つかりませんでしたが、ようやく見つけだした時の楽しさは最高です。

そんなやり方を何度かしたあと、正雄くんが隣のグランドまで走って行った所で、小さな犬に追っ掛けられました。正雄くんはあまり犬は好きではないのですが、小さくてとてもかわいい犬なんです。走るのも正雄くんより遅いので、噛まれる心配もありません。
子犬が近づいてくるまで、正雄くんは手をたたいて待ちます。子犬がまつわりついてきそうになると、正雄くんは走って逃げます。何度かそうしていましたが、子犬は疲れたのか、正雄くんを追うのをやめて向こうの方へ歩きだしました。飼い主が呼んでいたからかもしれません。

正雄くんはもう少し子犬と遊びたかったのですが、あきらめて砂場の方に戻りかけました。
ちょうど砂場の方からも、「帰るわよォー」というお姉ちゃんの大きな声が聞こえてきました。正雄くんも大きな声で返事をしながら勢いよく走りだしました。そして、その時、お父さんの靴を砂に埋めて遊んでいたことを思いだしたのです。

お父さんの靴は、なかなか見つかりません。どこに埋めたのか覚えていたはずなのですが、思っていた場所で見つからなかったので、何度か埋めた時の記憶が入り交じって何が何だか分からなくなってしまったのです。
お姉ちゃんや、片足だけ裸足のお父さんも一緒になって探したのですが、どうしても見つからないのです。
三人は一度家に帰り、潮干狩りで使った熊手持って探しに行きました。隅から隅まで丹念に探しましたし、グランドの方へ持って行ったのではないかと言われて、そちらも探し回ったのですがどうしても靴は見つかりません。
他にも何人かが砂場で遊んでいましたが、まさかその人たちが持って行ってしまったとも思えません。
「犬が持って行ったのよ」とお母さんは大笑いしていましたが、犬が砂場に入ればお姉ちゃんが気付くはずです。

結局、お父さんの靴は見つからなかったのです。

   **

正雄くんは、慎重に慎重に砂の中を探っています。お父さんの靴を埋めたのは五年も前のことですが、正雄くんは何としても見つけだす覚悟でした。
あの時、正雄くんが埋めて失くしてしまったものは、靴だけではなかったと気付いたのです。ベッドの中で何度も何度も考えたあと、正雄くんが思い至ったのはあの靴のことでした。

埋めたはずの靴が無くなるなんて、絶対におかしい。誰かが持って行ったはずがありません。やはりあの時も、あの靴は消えてしまったのだ、と正雄くんは考えついたのです。自分が埋めてしまったために、お父さんの靴は消えてしまったのだと思ったのです。
お父さんが死んだのと同じだと正雄くんは思いました。お父さんの命が消えてしまったことと、お父さんの靴が消えてしまったことは、同じ出来事なのだと思いました。
お父さんが死んだのがあの図書カードのせいでないとしたら、あの靴に原因があるのだと思ったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きみは虹を見たか   第十二回

2010-11-02 10:18:03 | きみは虹を見たか
          ( 6 - 3 )

正雄くんは、砂場の半分を探し終えました。
お父さんの靴は見つかりません。腕が痛くなってきたのを感じて、正雄くんは大きく伸びをしました。砂場には誰もいなくなっていて、あたりが薄暗くなっていました。

お昼を食べてすぐに家を出たので、夕方までにはまだ時間があるはずです。
正雄くんが不思議に思った時、ぽつぽつと雨が降ってきました。空を見上げると、いつの間にかまっ黒な雲が空一面を覆っていました。恐いほどに暗い空です。

「雨が降るぞォ」と、正雄くんは大きな声をだしました。
その声を待っていたかのように、激しい雨が降りだしました。
正雄くんは滑り台のある山小屋のような建物に駆け寄り、ハシゴ段を登りました。その間にも雨は激しさを増し、風も出てきました。公園のすぐ近くにバスが通る道があるのですが、その道がよく見えないほどの雨になってきました。

その小屋のハシゴ段を登った所は、二メートル四方ほどの広さがあり屋根が大きく張りだしているので、雨が直接あたる心配はありません。丸くくりぬかれたような窓が二つあるのですが、そこからは雨は入ってきません。
ただ、滑り台がある所とハシゴ段がある所からは雨が吹き込んできます。特に滑り台の方向からは、雨と風がしぶきとなって、滑り台を駆け上ってきます。
あたりは、夜になったように真っ暗です。所々にある外灯だけが心細げな光を放っています。それも微かに見えるだけで、外灯の柱などは全く見えません。樹木は悲鳴を上げているように唸り、激しく揺れています。

正雄くんは、二つの窓を交互にのぞいて回り、「すごいぞ、すごいぞ」と大きな声をだしています。
滑り台を駆け上ってくるしぶきには、「来るな、来るな」と叫んでいます。
声をだすことで自分自身を励ましているのです。
そんな状態がどのくらい続いたのでしょうか。正雄くんには、ずいぶん長く感じられる時間でした。

やがて、雨は少し小降りになり、風がおさまってきました。空も少し明るくなってきました。
しかし、雨はまだ降っていて、小屋から出られる状態ではありません。
それでも正雄くんは、ほっとしました。下の砂場は池のようになっていましたが、風が止んだことと空が少し明るくなったことで、何だか戦いに勝ったような気持になっていました。
正雄くんは、床に足を投げ出して座りました。壁に背中をもたげると、本当に戦いをしていたような疲れが感じられました。
うとうとと、眠気が襲ってきました。

   **

正雄くんは夢を見ていました。
空いっぱいに大きな虹がかかっています。
「ああ、雨が上がったんだ」と正雄くんは思いました。何とも楽しい気分です。
その時、正雄くんは誰かに呼ばれているような気がしました。しかし、あたりには誰もおりません。

「正雄、正雄」
今度は、はっきりと聞こえてきました。
お父さんだ、と正雄くんは思いました。けれども、やはり周りには誰もおりません。見上げた空に、大きな虹がかかっているだけです。

「正雄、ここだよ、正雄」
再び声が聞こえてきます。
「お父さん? お父さんでしょう? どこにいるの?」
「ここだよ。ほら、虹が見えるだろう」

正雄くんは、もう一度空を見渡しました。くっきりと、大きな虹が広がっています。しかし、お父さんの姿は見えません。
「お父さーん、お父さんは、どこなの? 虹の中なの?」
「そうだよ、お父さんは虹の中だよ」

「お父さん、なぜ帰って来ないの。ずっと待っているんだよ。ぼくだけじゃないよ。お姉ちゃんも、お母さんもだよ」
「心配かけてるね・・・。お父さんは帰れないんだよ。分かるだろ、正雄・・・。でも、お父さんはいつもいるよ。正雄や、道子や、お母さんのそばにいつもいるよ」

「・・・。お父さんは、いつも、ぼくたちのそばにいるの?」
「そうだよ・・・。正雄、きみは、虹を見ているだろう?」

「うん、とてもきれいな虹だよ」
「それが、お父さんだよ」

「虹がお父さんなの? お父さんは、虹になったの?」
「そうだよ。お父さんは、虹にもなるし、星にもなるし、風にもなるよ。いつでも、みんなの近くにいるんだよ」

「でも、ぼくは、本当のお父さんと会いたいなあ・・・」
「正雄、よく覚えておくんだよ。お父さんは、前のように、みんなと一緒に暮らすことは出来ない。これは、どうすることも出来ない・・・。でも、正雄、きみは今虹を見ているだろ。正雄がお父さんにどうしても会いたくなった時には、お父さんは虹になって現れる。道子がお父さんにどうしても会いたくなった時には、お父さんは風になって会いに行く。お母さんがお父さんにどうしても会いたくなった時には、お父さんは星になって話をするよ。
お父さんは、山にもなるし、川にもなる。鳥にもなるし、花にもなる。どんな時でも、みんなの近くにいることをよく覚えていておくれ」

   **

正雄くんは立ち上がりました。
いつの間にか眠ってしまったんだ、と思いました。お父さんと話したことは、夢だったのだと思いました。
雨はすっかりあがり、外は明るくなっています。正雄くんはハシゴ段を下りました。池のようになっていた砂場の水もほとんど引いています。手には、まだしっかりと棒を握っていましたが、靴を探すのはこの次にしようと思いました。

置きっ放しにしていた自転車はずぶぬれで、とても乗れません。押して行きながら公園を出た時、正雄くんは虹を見ました。
薄い色の、今にも消えそうになっていましたが、大きな虹です。
「きみは、虹を見たか」というお父さんの言葉がよみがえり、あれは、本当にお父さんだったのだと、正雄くんは思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きみは虹を見たか   第十三回

2010-11-02 10:17:31 | きみは虹を見たか
          ( 7 - 1 )

道子さんは一人で心配をしていました。
激しい雨になったのに、正雄くんが帰ってきません。遊んでくると言って出かけたのですが、行く先を聞いていなかったことを悔やんでいました。
激しい雨なので友達の家ででも雨宿りしているのだと思いましたが、自宅にいても怖いような雨なので正雄くんが怖がっていないか心配でした。

やがて雨は上がりました。空は急速に明るさを取り戻してきました。そうなると、帰って来ない正雄くんのことが一層心配になってきました。
何かあったのではないかという心配と、どこか友達の家ででも遊びに夢中になって時間を忘れているのではないかという腹立たしさが、交互に道子さんを襲ってきます。それに、こんな時に限って救急車のサイレンの音が聞こえてきたりして、道子さんの不安を大きくするのです。

道子さんは家の前を行ったり来たりしていました。正雄くんを探しに行くにしても、全くあてがありません。自転車に乗って行っているので、かなり遠くまで行っているかもしれませんし、道子さんが家を離れたあと帰ってくるかもしれません。
たぶん正雄くんは家の鍵を持って出かけているはずですが、帰ってきた時に誰もいないとかわいそうだという気持ちもあります。

道子さんが思い悩んでいると、お母さんが帰ってきました。お母さんも自転車で通っているのです。
道子さんは、お母さんの顔を見ると泣きだしそうになってしまいました。張りつめていた気持ちが少し楽になりましたが、正雄くんが帰って来ないことを必死にうったえました。
お母さんは自転車を置くと、「大丈夫よ」と道子さんの肩を抱いて家に入りました。
道子さんは大変な雨だったことを話し、正雄くんが困っているはずだとうったえ続けました。正雄くんが夕食の時間近くまで帰って来ないことはよくあることなのですが、あの激しい雨が道子さんには心配だったのです。

道子さんが、どれほどすごい雨だったか話し続けている時、表で音がしました。正雄くんが帰ってきたらしい様子です。
「正雄! どこへ行ってたのよ」
表に飛びだした道子さんは、大きな声で叫びました。

「公園だよ。ほら、大きな砂場のある公園」
正雄くんは道子さんの気持ちなど全く気付かないらしく、のんびりとした声で答えるのです。
道子さんは、自分がどれほど心配していたかを言いたかったのですが、うまい言葉が見つかりません。何とか自分の気持ちを伝えようとイライラしてきたのですが、正雄くんの後姿を見て吹きだしてしまいました。お尻の部分が丸く濡れているのです。

「どうしたの、お尻?」
「ええっ? お尻がどうしたって?」

正雄くんは手でお尻を撫でながら、首をねじっています。
そして、お尻のあたりがぐっしょりと濡れているのに気がつきました。何だか冷たいとは思っていたのです。
公園を出た時は自転車を押していたのですが、家までは大分遠いのでサドルが濡れているのに途中から乗ってきたからです。
家に入ると、お母さんも笑いながら早く着替えるように言いました。
道子さんは怒ってやろうと思っていたのですが、笑ってしまったあとでは、どうも調子が出ません。それに、正雄くんは着替えたあと、おやつのお菓子を取りに来ただけで自分の部屋に籠ってしまって出てきません。

少し様子が変だと、道子さんはお母さんに話しましたが、お母さんは何も心配していないみたいです。
夕食の準備を手伝いながら、正雄くんのことがどうして心配ないのか、お母さんに尋ねました。

「それはね、正雄も、道子も、とっても良い子だからですよ。勉強が出来るとか出来ないとかではないのよ。お父さんとお母さんの子供だもの、悪いことなんかするはずないんだもの」

道子さんは、お母さんはすごい、と思いました。自分は正雄くんのことをあんなに心配していたのに、お母さんはケロッとしているからです。
お母さんの代役は大変だと道子さんは思いました。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きみは虹を見たか   第十四回

2010-11-02 10:16:57 | きみは虹を見たか
          ( 7 - 2 )

夕食になると、正雄くんは勢いよく階段を下りてきました。
階段を走って上がったり下りたりするので、正雄くんはお父さんやお母さんによく叱られていました。
でも、最近は、静かなことが多かったのです。

「今日、ぼく、お父さんに会ったよ」
食事が始まると同時に、正雄くんが言いました。
お父さんに似た人に会ったということだと道子さんは思いましたが、お母さんは真剣に聞いています。

「よかったねぇ。お父さん元気だった?」
「うん。声だけだったけれど、いつもと変わらないお父さんだったよ」

正雄くんは、公園で見た夢のことを一生懸命に話しました。
「でも、あれは夢ではないよ。だって、目が覚めたあとにもお父さんの声が聞こえたし、虹も残っていたよ」
正雄くんは、お母さんと道子さんを交互に見ながら一生懸命です。

「お母さんも、そうだと思うわ。マーくんは夢を見ていたのかもしれないけれど、そこに現れたお父さんは本当のお父さんよ。お父さんは・・・、お父さんは、いつも近くにいるのよ。マーくんのそばにいるし、ミッちゃんのことも、いつも見守ってくれているのよ」
道子さんも、正雄くんやお母さんの言うことは本当だろうと思いました。そして、正雄くんのことが少しうらやましく、お父さんは自分の所へはいつ来てくれるのかと思い、そのことを口にしました。

「だって、ミッちゃんも、お父さんの夢を見たって言っていたじゃないの。お父さんは、いつも近くにいてくれているのよ。わたしたちが気がつかないだけで、今も近くにいてくれているはずよ。ただね、わたしたちが本当に困ってしまった時にしか会えないだけなのよ」
食事をしながら三人は話し続けていました。昨夜の続きのように、お父さんのことを話し合いました。

食事を食べ終えた正雄くんが、大きな声で言いました。
「ぼく、お父さんと会った時の絵を描いたよ」
「ほんとう? あたし、見たいわ」
道子さんは、正雄くんが部屋に籠っていたのは、絵を描いていたのかと思いがら言いました。
「もう、乾いているはずだ」と、生意気な口調で言うと、正雄くんは大きな足音を立てて階段を駆け上がっていきました。

「マーくん、すごく元気になったよ」
という道子さんの言葉に、お母さんもうれしそうに答えました。
「そのかわり、これからは階段がうるさくなるわよ」
二人は、顔を見合わせてくすくす笑いました。

正雄くんが画用紙を持ってきて、まだ食器が残っている食卓に広げました。
画用紙いっぱいに、大きな虹が描かれています。
虹の色は、橙色と黄色を中心にしてあざやかに配色されています。空の色は明るく、虹の下に広がる山並みも、濃淡がくっきりと描き分けられています。

「マーくん、すばらしい絵よ。ほら、お母さん、見てよ。マーくんが、すばらしい絵を描いたよ」
道子さんは立ち上がって、正雄くんの絵をほめています。
正雄くんはお父さんと会った時のことを繰り返し繰り返しお姉ちゃんに話しています。

お母さんは、二人の子供の様子を微笑みながらながめています。そして、これからの長い長い将来のことを考えていました。
いくらお父さんに見守られているとしても、三人だけの生活は、まだ始まったばかりなのです。

                                     (終)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする