雅工房 作品集

長編小説を中心に、中短編小説・コラムなどを発表しています。

運命紀行  クルスの旗の下に

2011-08-23 08:00:07 | 運命紀行
     運命紀行        

          クルスの旗の下に


天正十五年春三月。
明石海峡を望む船上城は、うららかな陽光に包まれている。
開け放たれた城門を出立した長い隊列は、林立する旗や幟を先頭にして西に向かう。
先頭を行く集団の掲げる旗や幟には、鮮やかな深紅のクルスが描かれている。その後に続く徒士武者たちのそこここにも、旗や幟が翻っており、それらにも鮮やかな十字架が描かれている。


そして今、騎馬武者の一団が沸き起こる鯨波の声に送られて城門を離れた。
その中央、ひときわ大きい紅のクルスの幟に囲まれた騎馬武者こそ、明石船上城の城主高山右近であった。いかめしい甲冑姿ながら兜はつけず、胸には、やや大ぶりのロザリオが揺れている。
騎馬武者徒士武者合わせて七百人という軍勢は、高山右近の持つ戦力からいえば決して大軍とはいえないが、荷駄人夫や下僕たちを加えた軍勢は、クルスの旗の下に見事に統制されていた。

ようやく最後尾が城門を離れた隊列は、左には波静かな明石海峡を眺め、右手前方には肥沃な播磨野が広がる街道を、遥か九州を目指しての行軍に移った。その隊列のいたる所には、あざやかにクルスが描かれた旗や幟や旗指し物が、やわらかな潮風に翻っていた。
おそらく、この軍団こそが、わが国キリシタンの歴史上、最も壮麗な進軍姿だったと思われる。



     * * *

この時、高山右近は三十五歳。
明石六万石(十二万石との説もある)の城主として、豊臣秀吉の幕下にあって、西国からの守りの要として、とりわけ瀬戸内海交通の要衝といえる明石海峡を見張る役目を任されていたと思われる。
当時、小西行長や黒田官兵衛などキリシタン大名と呼ばれる勢力は勢いを増していた。織田信長がキリシタンや外国人宣教師に好意的であったこともあって、正式に入信しないまでもキリシタンに好意的な有力武将の数は少なくなかった。そして、その精神的な中心に右近がいたのである。

柴田勝家を破り、関東から九州に至る有力勢力をほぼ支配下とした秀吉にとって、天下統一への残る関門は、薩摩の島津氏と関東の北条氏に絞られていた。
右近の、クルスの旗を掲げての壮麗な出陣は、秀吉の九州征伐の先陣としての出立であった。
秀吉は総勢二十五万ともいわれる大軍で西進、主力部隊が九州に到着すると島津勢は総崩れし、五月早々に島津義久は降伏した。

九州征伐の目的を果たした秀吉は、六月七日には筑前筥崎に凱旋、戦勝の祝いや戦後の九州の仕置きに取りかかった。
そして、六月の十九日の夜になって、突然に伴天連追放令が発せられたのである。
秀吉が突然のようにキリシタン弾圧に舵を切ったのには、幾つかの要因が挙げられている。
まず一つは、施薬院全宗や承兌をはじめとする旧宗教勢力による働きかけがあったことは間違いないであろう。
また、キリシタン大名が結束して外国人宣教師を媒介として武装強化を計る危険を感じたこと。
加えて、かつて信長でさえ手を焼いた、一向一揆をはじめとする命を惜しまない宗教勢力の恐ろしさを秀吉もまた身に染みていたと考えられる。
さらに、日本人を奴隷として海外に連れ去っていることも理由とされているが、おそらくそういうことが事実として行われていたのであろう。
いずれにしても、天下統一を実現しつつある秀吉としては、ゼウスという神に帰依し、自分の命令の届かない集団の肥大を恐れたことは確かだろう。

この伴天連追放令により、わが国はキリシタン受難の国となった。
この政策は徳川政権下でも引き継がれ、さらに厳しさを増して行った。
この日を境に、右近の数奇な人生はさらに波乱を増し、わが国のキリシタンは、過酷な受難の歴史を綴ることになるのである。

                                     ( 完 )
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