町会の日帰り研修会として、次に訪れたのは世界遺産の「富岡製糸場」。平成26年に登録されました。ここは正門。
富岡製糸場は、明治初期の殖産興業の代表的な工場。フランス人ポール・ブリュナが指導者として雇われ、 建設事業から
製糸の先進的な的な手法を教えました。フランスの製糸技術など産業全般がいかに高度だったか も知ることが出来ます。
入場するとすぐに、東置繭所があります。レンガ造りです。明治4年に工事に着手しましたが、当時日本にはレンガがありま
せんでした。「木骨レンガ造り」工法を採用。レンガはフランス人技師の指導を受けて瓦職人が造りました。目地は石灰で造ら
れた漆喰を用いました。平成26年に「国宝」に指定されました。
1階は、事務所・作業所。2階には乾燥させた繭を貯蔵しました。(写真は東置繭所の2階)
操糸所。繭から生糸を取る作業を行っていた場所。
操糸所の内部。創業当初はフランス式の操糸器300釜が設置されていました。当時は世界最大規模の操糸所でした。
広い空間が必要なため、屋根を支えるために木造のトラス構造となっています。平成26年に「国宝」に指定されました。
特に学問を受けていなかった工女の横田英。努力によって製糸場の一番優秀な人となりました。日常を記した「富岡日記」が
残っています。こうした人達の活躍があって製糸業を始めとする日本の近代化が進みました。
日本人工女に、機会による糸取りの技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の宿舎として建設されました。
診療所。
ここでの工女の労働条件は1日8時間。日曜日は休み、月給制などが採用されるなど良好だったようです。
診療所などの施設が整っており、勉学も可能で、病死した人はいなかったということです。
製糸工場というと「ああ、野麦峠」などで知られる「女工哀史」(岡谷製糸工場)など悲しいイメージが頭に浮かびます。
富岡製糸場についても、同様のイメージを、持ってしまいがちですが、ここ富岡製糸場は国営で、武家の子女などを採用、
全国各地の製糸場の指導者を育てる役割を担っていたようです。
指導者のポール・ブリュナが住んでいたブリュナ館。後に学校となりました。ここで、読み書き、洋裁などを教え、企業内教育の先駆
となりました。