めいすいの写真日記

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ショパンコンクールのレジェンド達

2021-10-25 | クラシック音楽

                                                                                                                              NHK Eテレ 2021/10/10

 きっと誰もが,その名を知る世界で一番有名で権威のあるコンクール。5年に1度若き
天才ピアニストたちがホーランドのワルシャワに集い,その腕を競い合う。審査するのは、
現代を代表する一流のピアニストたち。どんな才能が出て来るのか、世界のファンが熱い視線を
注ぐコンクールである。
 すでに今年2021年の優勝者、入賞者は決まってしまったが、その発表前に放映された
「ショパンコンクールのレジェンド達」から6人ほどのレジェンドを選んでみた。

 ■ マウリツィオ・ポリーニ  当時18才だったポリーニ。

  精密機械のような正確なテクニックが生み出す洗練されたショパンの演奏は、聴衆を圧倒した。
  名録音は,ショバンの解釈を決定的に変え、ショパン演奏の道しるべとなった。

ポリーニの代表的な録音である「練習曲」

  この番組で紹介された音楽評論家の林田直樹さんの話「ポリーニと握手した瞬間、
グローブのような、なんて力強い手だなと思え、指の関節の一つ一つが筋肉でパンパンに膨れていて、
凄まじい握力でした。
 これまで、いろいろなピアニストと握手をすることを心がけて来ているが、ポリーニほどの
ごつい手はこれまでになかった。あの手だったら、あの演奏が出来るだろうと思った。」

  また、別の機会に取材していた時、ポリーニは林田さんに向かって、作品の核をこの手にしたいと、
顔の前で手に強くつかみ取るような仕草をしたという。
 若き日のポリーニの練習量や執念を知るエピソードも、またすごいものであることを知ることになった。

       2002年サントリーホールでの円熟のポリーニ演奏

 私の好きな録音は、ベートーヴェンのソナタ28番「ハンマークラヴィーア」、17番「月光」。
   80才近くになった今も、現代曲に取り組む姿が番組にはあった。

■ マルタ・アルゲリッチ

  24歳でショパンコンクールに優勝したアルゲリッチ。同時にマズルカ賞も受賞。音色が美しく、
打鍵は極めて強く、リズム感が抜群である。
 最初に優勝した女性ピアニストでもある。ショパンコンクールの優勝者は18回のコンクール
で2人のみ(もう一人は2010年、45年ぶりのユリアンナ・アヴデーエワ)である。
 実力もさることながら、打鍵が強かったことが優勝した理由のひとつであろう。ショパンの曲には
力強いタッチを必要とする旋律が多いからである。また、優れたピアニストでいられる理由でもあると思う。
 
   経歴はスペイン大統領府でアルゲリッチ親子と会ったフアン・ペロン大統領が、マルタに
留学希望の有無を尋ね、「フリードリヒ・グルダに習いたい」との申し出に従って、アルゲリッチの父を
外交官に、母を大使館職員にそれぞれ任命し、1955年初頭(13才)から一家でウィーンに赴任させた。
これに伴って家族とともにオーストリアに移住したアルゲリッチは、ウィーンとザルツブルクで
2年間グルダに師事した。1961年にはイタリアでベネディッチ・ミケランジェリにも師事している。
ただミケランジェリはレッスンを嫌がり、4回しか行わなかったとか。
1957年ブゾーニ国際ピアノコンクール優勝。またジュネーブ国際音楽コンクールの女性ピアニスト部門優勝。

 

 

 アルゲリッチの名盤はなんと言っても、受賞記念の現地での演奏であるピアノ協奏曲第1番である。
 この演奏はショパンコンクールの優勝者の中でも傑出したものである。これまで、幾度となく、
優勝者のこの曲の演奏と聞き比べてきたが、人を惹きつけて止まない曲想、美しい音色は。他を
寄せ付けない。ショパンコンクールでの優勝が喜びに満ち、これから世界に向かって羽ばたいていこう
という気持ちが表れていて見事。
  オーケストラの音が今ひとつであり、会場のノイズも入っているが、ピアノの音は当時としては極めて良質な録音である。

 もうひとつの私のアルゲリッチのショパンのCD愛聴盤はソナタの2番と3番。
  「この2つのソナタはアルゲリッチの真骨頂が発揮されている1枚である。
女性とは思えぬほどの力強いタッチと激しい情熱がみなぎり、また新鮮な叙情や詩的な表現など、
ショパンの音楽に鋭く深く迫っている名演である(CD解説)」

この番組ではなぜか、NHKのアルゲリッチの良い映像が放映されなかった。
NHKのアーカイブスにはないのかな?

■ スタニスラフ・ブーニン

  当時19才だったブーニンは「圧倒的なパッションと切れ味の鋭いテクニックで聴衆を熱狂させた。

 ブーニンが一躍、名声を博した伝説の名演奏がこれ、リズム良く演奏され、あたかもショパンがサロンで
演奏しているかのような、女性の心をわしづかみにする演奏だった。首を振りながら拍子を取る姿が愛らしい。
 普通は曲目の間では拍手はしないコンクールであるにもかかわらず、演奏が終わるや感激のあまり
聴衆が拍手をはじめてしまうほどであった。 
 日本には翌年来日、圧倒的な人気となり「ブーニン・フィーバー」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。
日本に文化振興を果たしてくれたことになる。
  1988年ソヴィエト国内では思うように音楽活動が出来ないため、西ドイツに亡命した。
 しかし、メジャーなレーベルとの契約は困難を極め、1990年以降、活動には勢いがなくなった。CD録音は日本で主に行っている。
「ブーニン・フィーバー」以来、彼は日本に好意を持つようになった。妻は日本人であり、家も日本にある。

■ アルトゥール・ルビンシュタイン

 アルトゥール・ルビンシュタインは、ショパンコンクールには出場していないが番組ではレジェンドにされている。
 ショパン弾きとしては、外すことが出来ないピアニストであるからだろう。

私はこの番組で初めてホールで演奏する姿を見たが、すっきりとした演奏姿勢が印象的である。

 ルービンシュタインの演奏はホーランド生まれゆえのポーランド的な高貴さを持ち
 見事なオクターブのテクニック、力強い表現を持っている。まさに20世紀を代表する
ピアニストである。ワルシャワでピアノを学び10歳でベルリンへ、ポツダムでデビューし、成功を収める。
1905年ニューヨークにデビュー。アメリカ合衆国市民権を取り、ニューヨークとパリに居を構え。ヨーロッパとアメリカで演奏活動した。

 ルービンシュタインの録音は数多く、ショパンの曲はとりわけ数多い。
  私の愛聴盤は「夜想曲集」である。ショパンの曲を優雅に聴ことの出来る素晴らしい名盤である。

■ 小山実稚恵

 1985年ショパンコンクール4位入賞。
 本人の話では、ワルシャワでの滞在が3週間あり、ショパンの国の音楽を感じることが出来、その後のショパンの演奏に大きな影響を与えたという。

  ピアノコンチェルトを演奏した時のホールの響きが力強く感じられ、土がぐっと足に付いていて、誇り高い精神が迫ってきた。
 そして私のショパンの観念が「はかない美しさ」から「強さと優しさをたたえた美しさ」に変わったという。
 その後は、人生の節目、節目でピアノ協奏曲第2番第2楽章(ラルゲット)を弾くという。

■ イーヴォ・ポゴレリッチ

  予選でのポゴレリッチの演奏は聴衆を魅了し、誰もが入賞は確実だと思われた。
 しかし、結果は予選敗退であった。
 番組での映像を見る限り、指の動きは滑らかで速く、圧倒的に力強かった。
 ポーランドは当時はまだ、第2次世界大戦後のロシアの支配下にあり、共産圏の審査員が極めて低い点数0~1で
評価したためである。半年も前から優勝はタイのダン・タイソンに決まっていたとの話もある。
 ポゴレリッチの演奏は個性的すぎてショパンコンクールにはふさわしくない演奏というのが予選敗退
の理由であった。

 このため、アルゲリッチ他、数名の審査員が決勝の審査を辞退することとなった。
  アルゲリッチは「彼は天才よ」との言葉を残して帰国したという。
  これが、ショパンコンクールを揺るがす大スキャンダルとなった。
  アルゲリッチが辞退した影響は大きく。ポゴレリッチは審査員特別賞を受けることになった。
  その後ポゴレリッチはドイツ・グラムフォンと契約。レコードの売り上げを伸ばし
今も名ピアニストとして活躍している。
   彼は楽譜を徹底的に読み込むため楽譜は書き込みだらけ、また5年以上練習した曲でない
と演奏会では演奏しないという。

  一方、ダンタイソンは決勝に臨むにあたり、オーケストラとの共演をしたことがないので、
2つの協奏曲から一つを選ぶに当たって、短くて覚えやすい2番を選択したという。
 彼は受賞後、音楽の勉学のため、モスクワに渡った。ソヴィエトを出るのに時間がかかり、カナダに渡って、
ピアノ教師になる。この後、ショパンコンクールの審査員を務めている。自身のこともあり、
「公平な審査」が出来るよう心がけているとのことである。
 なお、彼はまた今年優勝した ブルース リウ のカナダにおける教師でもある。

(了)