マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

遠田町の正月飾り

2014年05月28日 07時19分49秒 | 楽しみにしておこうっと
蔵堂の守屋宮司から聞いていた遠田町の正月飾りは簾型の注連縄。

その様子を拝見いたしたく12月28日、29日、30日の三日間も訪れた。

結果はなかったのである。

おそらく31日であろうと思って、元旦の日に出かけた天理市の遠田町。

東外れには子守神社がある。

遠田町にはもう一つの神社がある。

集落中央に鎮座するのが春日神社だ。

小社であるが奇麗に清掃されていた。



この日にはあった簾型の注連縄は垂らした簾の間隔は広い。

まばらな状況であるが簾型には違いない。

拝殿に掲げていた注連縄の両側。

葉付きの笹竹で支えている。

この形式はあまり見られない。

中央にはダイダイ。

半紙に包んだカタスミ、米も見られた。



それと同じ形式の注連縄は観音堂にも立ててあった。

それぞれ砂を盛って松・竹・梅は門松だ。



同じ門松は、行者堂、庚申石、地蔵石仏などの前にもある。

ずらりと並べた景観が美しい。

幹回りが太い大木はムクの木。

今でも実をつけると話す近所の婦人。

毎月17日には「十七はん」をしていると云う。

17日は観音さんの日。

観音講の婦人たちは夜6時半に集まって西国三十三番のご詠歌を唱えていると云う。

番外に遠田町もあると云われる観音講の営みは2月もあるそうだ。

ちなみに31日に門松・注連縄を作ったのはマエと呼ばれる前年トーヤとトーヤの二人。

宮守さんもしていたようだ。

トーヤの勤めは毎月1日と15日。

その日に清掃をされていたのであろう。

婦人が云ったドロイモ喰い。

炊いたのか、蒸したのか判らないが、そのドロイモを子守神社付近にある竹を伐採して串にする。

ドロイモを竹に挿して味噌をつけて食べる芋(喰い)講があるようだが何時か判らない。

もしかとすればだが、と思った日は芋名月かも知れない。

(H26. 1. 1 EOS40D撮影)

備前町天皇神社の初詣で

2014年05月25日 09時06分22秒 | 楽しみにしておこうっと
天理市の備前町が出里のNさんが話していた砂の道。

実家のすぐ傍に流れていた川があった。

大和川支流の西門川に流れる水路には奇麗な川砂があった。

それを掬って門屋、玄関、蔵などへ道のように砂を撒いていた。

父親が毎年大晦日の日にそうしていたという。

今でもそのような風習があるのか調べてみようと思った。

門松や注連縄を設えていた神社は天皇神社。

社殿は国宝に指定されていると案内板に書かれてあった。

大晦日はそれより数日前の29日。

鳥居前に門松が立っていたが、村人はおられなかった。

正月元旦であれば、砂の道の痕跡があるかも知れないと思って再訪した。

神社では何組かの家族連れが参拝していた。

初詣でである。



砂の道を尋ねた結果は、「ない」である。

昭和25、6年頃にはしていたと話す氏子。

もう一人はこの年に勤めていた一年村神主の宮守さんだった。

記憶は随分前のこと。

社殿から境内に撒いていた砂の道。

集落内では各戸が砂の道を繋げるようにして撒いていた。

採ってきた砂は大和川。

現在のような護岸工事がされてなかった時代である。

川砂は奇麗だった。

山砂であればそのような状態にならないと話す。

十羽ほど飼っていた鶏小屋にも繋げていたと云う砂の道は過去の状況であった。

天皇神社の祭祀を勤めているのは8戸の敬神講。

特定の家だそうだ。

マツリは10月11日。

前日はヨイミヤである。

それより十日ほど前。

10月1日には石上神宮から神官が来られて榜示祭が行っていると云う。

榜示を挿す境界は南方へ数十メートル。

天理市の武蔵町との境界である。内側の備前町は布留郷。

石上神宮の支配圏内を示す榜示である。

早いうちに取材したいものだ。

(H25.12.29 SB932SH撮影)
(H26. 1. 1 SB932SH撮影)

横柿戸隠神社山仕事の七つ道具

2014年04月10日 09時05分01秒 | 楽しみにしておこうっと
桜井市の横柿に鎮座する戸隠(とがくし)神社を探していた。

これより一週間前にも探していた。

集落民家におられた若い男性に尋ねたが「判らない」と云う。

この日は婦人がおられた。

マツリに出ることもない婦人も所在地を知らないという。

おそらく山の上の方であろうと判断して歩いた。

林道らしき舗装された山道がある。

そこを登っていく。

歩くこと30分、峠になるような山道の先は袋小路だ。

どことなく見渡せば、さらに奥深い処に真新しい坂道があった。

神社に向かう参道である。

階段は整備された木道である。

さらに登っていけば、注連縄を張った朱塗りの鳥居があった。

注連縄は左右二本の竹に掛けてあった。

竹の下を見れば何日か前に降った雨で弾けた泥がついていた。

そこが戸隠神社である。



本殿はご神体のイワクラに建てている。

ひっそりと佇む神社には誰一人いない。

辺りを見渡せば、拝殿前に山の仕事道具を吊り下げていた。

カマ、オノ、ヨキ、ノコギリに2枚のクワの歯。

それぞれ杉板で象った道具である。

その下には昨年のものと思われる山の仕事道具がある。



これらは「亥の子マツリ」に寄せた山の神へ捧げる「七つ道具」であろう。

神社の様相を見届けて登ってきた林道を下る。

傍らには道祖神を祀ったと思われる石仏、地蔵仏などが並んでいた。

村の人たちが安置した石仏群は優しいお顔。



思わず手を合わせた。

尋ねた婦人が云うには今年の当屋さんは区長家。

川向こう岸にある家がそうだと聞いて訪ねた。

当屋家には79歳の母親がおられた。

本来なら亥の子マツリの七つ道具を奉じるのは6日であるが、サラリーマンであるゆえ平日は休むことができずに直近の日曜日にされたと云う。

7日は山の神さんの日。

大昔は山へ伐りだしにでかけていたが、今は山へ行くこともないし、山の仕事もしない。

7日は山の神さんも山仕事を休む日であるから、山師もしっかり休んで英気を養う日だと云う。

この日拝見した注連縄張りの青竹は当屋家の手伝いさんが立てたそうだ。

母親のマツリ話しはさらに続く。

マツリ前日の5日は、竃で小豆餡をこしらえて、炊いたウルチ米に塗して親戚中に配っていた。

トウノイモの頭はヤツガシライモ。

さいの目切りにして細かくしたイモは繋ぎにする。

「半ゴロシ」と云ってイモを半分ぐらいに潰す。

それをウルチ米・餅米とともに入れて炊いた。

小豆餡は砂糖と水飴を入れて作る。

八木の町で勤めていたおじいさんが饅頭屋だった。

そこで手に入れた水飴を入れるとテリ(照り)がついて奇麗にできたと話す。

秋の収穫が終わって作っていた小豆餡はヤツガシライモで炊いたメシに塗した。

収穫が無事に終わったという印に親戚じゅうに配ったと母親が話した食べ物の姿。

おそらく亥の子の日に作って食べるイモボタであると思ったが、その在り方は随分前に途絶えたようだ。

亥の子マツリの日の夕ご飯はトウノイモの頭と炊いたコンニャク、ゴボウを交互に竹串に挿して入れ物に置いた。

それが亥の子マツリのお供えで、下げて夕ご飯のおかずにしたそうだ。

山の弁当だと云うホオの葉に包んだ俵型に作ったオニギリも作って神社に供えていた。

終秋にはホオの葉がない。

仕方ないから採ってきたバランを敷いてオニギリを供えようとしたが、息子の当屋が断ったと云う。

村には宝積寺(ほうせきじ)がある。

集会所が完成して、預けてあった仏さんを移す作業もあって何かと忙しい区長役だそうだ。

さて、10月27日は村の座をしたマツリやったと話す婦人。

上の神さんと呼ばれる戸隠神社、下の神さんと呼ばれる御年(みとし)神社のマツリはかつて別々に行われていた。

「どっちの神さんか判らんけれど、道にしまわれているので」、遅れて帰って祭っていたが、過疎化した今では第三日曜日に移して二社祭典として一緒にするようになったと云う。

ある記録によれば現在地に鎮座する戸隠神社はかつて御年神社であったが、大正七年頃に分霊を勧請し下に祀った神社を御年神社と呼ぶようになり、旧社地を戸隠神社としたようだ。

昭和32年に発刊された『桜井町史続 民俗編』によれば、今では戸隠神社と呼んでいる九頭神さんに参っていたとある。

訪ねた当屋家は今年が当たり年だったそうだ。

8年に一度の村の廻りの八講さんの講(談山権現講であろうか)も勤めたと云う。

かつてはお寺(宝積寺であろうか)に(藤原鎌足像の)掛軸を掲げて礼拝していた。

8年前に勤めた区長が持っていた謡い(高砂・四海楼であろう)のテープを流して礼拝するが、今では談山神社で行っていると云う。

隣村の大字北山は過疎化によって継続することが難しくなりいち早く逃げたと云う。

同市周辺大字の生田(おいだ)、浅古(あさこ)、下(しも)、倉橋、下居(おりい)<針道・鹿路ともに>、今井谷(いまいだに)、大正九年に大字北音羽が退いて八講入りした多武峰(とおのみね)・八井内(やいない)・飯盛塚(いいもりづか)の各村が毎年交替して礼拝する八講祭は、平成26年が廻りの今井谷。

平成18年4月2日に行われた地は村の満願寺であった。

藤原鎌足父子肖像および寒山拾得の掛軸を掲げて談山神社の神職が祭典を行っていた。

他村では談山神社の神廟拝所でされていることは存知している。

唯一残る村の在り方であった今井谷。

8年ぶりに訪れてみたい村の八講祭は継承されているのだろうか。

(H25.12. 6 EOS40D撮影)

千代の明神講を訪ねて

2014年02月15日 09時51分56秒 | 楽しみにしておこうっと
台風24号崩れによって大雨をもたらした午前中は土砂降りだった。

宵宮の灯りは心配されていたが、午後からはピーカン照り。

暑さも倍増になったこの日。

村屋坐弥冨都比売神社に関係する郷村の明神講は今でも存在しているのか、下見がてらに訪問した田原本町千代(ちしろ)の阿部田。

市杵島姫神社では幕を張って鏡餅を供えていたが、この夜の宵宮は氏神さんに参拝するわけでもなく村屋坐弥冨都比売神社へ出かけていたようだ。

村人の話しによれば10月1日は弁天さんのマツリ。

村屋坐弥冨都比売神社の宮司さんが来られて執り行われる神事は宮迎えのようだ。

かつては3組もあった明神講の営みにはアンツケモチを供えたようである。

F家婦人が話すには阿部田の市杵島姫神社では8月28日に風鎮祭を営んでいると云う。

場は神社であるが、村の十念寺の僧侶が営む祭事。

拝殿になんらかの掛軸を掲げていると云う。

神社の行事であれば北側に掲げるが、風鎮祭では東に向かってである。

何故にそうなのか判らない行事には神官が登場せず、僧侶の法要。

神仏混合の行事に興味をもったのである。

神社付近に住む村人二人の話しによれば、阿部田の明神講は平成に入った頃に解散したようである。

千代(ちしろ)には阿部田の他、もう一つの垣内があると云うことを聞いて散策してみた。

そこは八条(はっちょう)と呼ばれる垣内。

春日神社(千代神社とも)の宵宮に提灯をぶら下げていた。



村人に話を伺う時間もなかったが、八条には綱切り講が5軒であったようだと話す阿部田の住民。

戦争中に解散して綱切り祭が途絶えたようである。

千代の様相を確かめて向かう先は蔵堂の村屋坐弥冨都比売神社。

守屋宮司の話しでは戦中に男性がかりだされ、かつて行われていた道開きの行事とする千代の綱切り祭は明神講の解散をもって中断したと云う。

神社禰宜さんが記憶する高校生の頃。

綱切りの作法をしていたことを覚えているというから平成元年の頃まではあったようだ。

昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』に書かれてあった千代の綱切り祭。

村屋坐弥冨都比売神社からの七度半の呼び遣いを受けて青白紙と日の丸扇の幣を持つ前頭家を先頭に千代から出発したお渡りは蔵堂に向かった。

前頭家は現・後頭家とともに白浄衣を着用していた。

領角廻りと呼ぶ田に幣を挿して、馬場先にある一の鳥居の注連縄を腰に挿した短刀で切った。

二の鳥居の注連縄も切ることで村屋坐弥冨都比売神社の秋祭りが始まるしきたりであった。

千代の綱切り講は享保年間(1716~)から明治維新のころまで行われていたようだ。

その後は中断していたが天保年間(1830~)に作成された『森屋内宮御渡式之覚』、『御渡式之節之買物覚』が発見されて大正元年に復活したとある。

阿部田の明神講の刻印がある燈籠は村屋坐弥冨都比売神社の二の鳥居下にある。



天保十三壬寅年(1842)に建之された大明神燈籠である。

現在の行事に関わることもなくなった燈籠は近年に置いて新しく建之したようだ。

(H25.10. 9 SB932SH撮影)

御所市三室の行事

2014年01月13日 08時16分49秒 | 楽しみにしておこうっと
おふくろを住之江に送って目指すは御所市。

西名阪国道を降りた処からは渋滞。

ここが時間を喰う場所。

當麻・新庄を抜けて御所に入る。

途中の太田・兵家で知らせる地車巡行。

10月の第二土曜・日曜らしい。知りたい地は三室だ。

蛇穴から道路を隔てた西側にある地である。

三室を象徴する陵がある。

五代天皇だという孝昭天皇の陵がある。

こんもりとした森があるから判りやすい。近くまで寄ってみたが、集落内は軽自動車でも難しい狭い道。

旧村はどこでも同じである。

一角に居られた男性に声を掛けた。

調べていたのはススキ提灯。

話しによれば今年行われた葛城町の一大イベント。

ススキ提灯が一斉に勢ぞろいした。

その数はおよそ百基もあったと云う。

その内の2基は三室が出仕した。

上から2、4、4のススキ提灯である。

三室は新規に加わった新町を含めれば145軒。

マンション・アパート住民も含めた戸数であるが、旧村は今も昔も45軒ほど。

およそ3倍にもなった村の戸数であるが、自治会にも属さない家もあるらしい。

さて、ススキ提灯の出仕のことはと言えば、御陵の傍らに鎮座する孝昭宮から出発する。

提灯の組み立ては当日の朝9時ころから始める。

昼前には準備が整う。陽が暮れる時間帯に明かりを灯すススキ提灯。

三室では2基である。

お宮さんを出発したススキ提灯は村内を巡る。

伊勢音頭も唄われるらしい。

辻、辻で休憩をとりながら戻ってくるのは1時間半後。

お宮さんに入るから宮入りだと話す任期2年のK自治会長。

その名を知ったのは蛇穴に残されていた御湯釜の刻印にあった「和葛上郡三室村御湯釜 頭主米田磯七 文化十四年(1818年)九月吉日 津田大和大掾 藤原定次」。

同名であるが、三室には同じ名字が多いと云う。

(H25. 9.14 SB932SH撮影)

大江町の行事1

2013年12月05日 07時24分33秒 | 楽しみにしておこうっと
度々訪れる大和郡山市の小林町に住むH婦人が話した辻念仏。

奥さんが生まれ育った出里は同市内の大江町。

実施時期は覚えていないが町内にある四か所の辻で鉦を手で持って叩いていたと云う。

もしかとすれば、であるが、その鉦は六斎鉦ではないだろうか。

そうであればお盆の行事である。

大江町は旧村。碑田村・美濃庄村・大江村・若槻村・井戸野村・上三橋村・下三橋村・番匠田中村からなる添上郡平和村の一町村である。

聞き取りさせていただいた婦人が住まいする住居は集落の北側。

旧道が通っている面にある。

かつて庄屋さんではないだろうか。

家の前には水路がある。

大江村は大和平坦に挙げられる環濠集落の一つであった。

大将軍神社(拝殿前にあるのは貴船神社)の南側にも名残の濠の張りだし部が見られる。

正月迎えの注連縄を調査していた平成22年12月31日平成23年12月30日。拝殿に掲げてあった注連縄は簾型であった。

奈良県庁宮座調査によれが大江町には左座・右座があり、10月1日には朔日座、同月5日には五日座があると記載されている。

同月の14日が宵宮座であったようだ。

11月14日、若しくは16日には大阪平野から如来さんがやってくるというから融通念仏宗派である大江町。

8月10日は南にある墓地で施餓鬼をする。

塔婆ツキはお寺で書いてもらう。

無住であるお寺には奈良市の西九条に住む僧侶が来られるらしい。

各家でオショウライさんを迎えるのは13日の夕刻。

稲刈りを終えれば稲藁束を残しておく。

昨年に刈った稲藁束は納屋に残しておいた。

それを二つに割って稲のシビを取る。

奇麗にした稲藁の内部にオガラを入れる。

それはタイマツ。

家の中庭で火を点けて、線香に移す。

くゆらした線香を仏壇に移すオショウライサン迎えである。

婦人が出里の奈良市高樋町では家の外で迎えて鉦を叩いているそうだ。

南側に建つ民家玄関先に置いてあった木製の木箱。

形からして、おそらく燈明箱であろう。当番の家に置いていったのではと思った。

(H25. 8.12 SB932SH撮影)


丹波市・守目堂のダイジングサン調査散策

2013年11月09日 08時48分29秒 | 楽しみにしておこうっと
中之町伊勢講の神具を見送った私たちはご近所で祭られているダイジングさんの在り方を調査した。

丹波市(たんばいち)町の市座神社から北寄り。

東西を抜く北側は勾田(まがた)町である。

その道筋の向かい側にあった斎壇。



木製の燈籠は大神宮なのか、それとも愛宕さんなのか判らない。

吊るしてあった御神燈提灯には「東等町」の文字がある。

地区の名称であるのか判らない。

斎壇にあったカヤの葉は何を意味するのであろうか。判らないことだらけである。


そこから北へ向かった。

道筋に高く揚げた御神燈の提灯がある。

ここは守目堂(もりめどう)町の中之町。

斎壇を組んでいる太神宮石塔は「文化七年(1810)」の刻印があった。

昭和60年7月16日に新調された白幕には「西之町 伊勢講」とある。

住民の話しによれば夕方にお供えをして「ダイジングサン」のお祭りをするらしい。



ちなみに置いてあった「「おみきどっくり」は中之町伊勢講で拝見した色柄と同じで松竹梅を描いている。

愛知の稲荷大名神の店で買ったものだと云う。

ここら辺りはくねくねと曲がった筋違いの街道。

南北に通る伊勢街道だと話す男性。

この町の構造は藤堂藩が築城した城下町で攻撃を防ぐために造った「カイマガリ」だそうだ。

「カイマガリ」を充てる漢字は「鍵曲」。

鍵の手のように曲がった筋違い路は、見通しを悪くして敵の進入を防いだのである。


これよりさらに北へ向かう。

西之町の住民が云うにはそこより西へ曲がった奥にあるという。

角にあった石塔。

「月参講中」が建てたと思われる「太神宮」は「常夜燈」でもあり、「文化巳丑二季(1805)四月」の年号が見られる。

その場からぐぐっと南下した場に斎壇があった。



その街道も「カイマガリ」の構造になっている。

街道とも思える場には高く揚げた献燈提灯は本町とある。



その街道を西に向かった。

民家の玄関に飾ってあった「蘇民将来子孫家門」の護符。



「家運隆盛」との間には特異な幾何学的デザインで描かれている。

星型のセーマンと格子状のドーマンである。

門戸が閉まっていたのでお話を聞くことができなかった。

そこから西へわずか。川があった。

清廉な川は布留川のせせらぎ。

透き通る川の流れに金魚藻がたくさん生えていた。

ハヤ(ハイ)魚も泳いでいる。

町中でこれほどまでに奇麗な川の流れは見たことがない。



橋の袂からそこを眺めた風景。

宮崎酒造の酒蔵が美しい姿で建ち並ぶ。


本町から南下した。



ここにも高く掲げた献燈提灯がある。

市座神社の真正面にあたる地区は新町である。

白雲山迎乗寺(げいじょうじ)北端にある燈籠は2基。



南側が木製の「愛宕大神」で、北側は石塔の「大神宮」だ。

お供えをして、「愛宕大神守護符」が置いてあった。


短時間の調査に聞き取りはできなかったが、当地ではダイジングサンとアタゴサンが混在しているように思った。

他市町村のアタゴサンは7月23日、24日、或いは橿原市の八木のように8月23日、24日が見られる。

新暦、旧暦のどちらかを選択していると思われる。

(H25. 7.16 EOS40D撮影)

信貴南畑素盞嗚尊神社を探して

2013年10月21日 07時43分48秒 | 楽しみにしておこうっと
ハゲッショの日には御湯神事が行われると知って地域を探す。

始めて訪問する地はどこであるのか、事前に下見をしておかなければならない。

平群町西宮からはそれほど遠くない信貴南畑は信貴山麓下にある。

集落を東西に抜ける街道は旧道。

その上にある道は信貴生駒スカイライン。

近畿日本鉄道所有の有料道路である。

大阪高安山~信貴山門駅間は戦前にあった信貴山急行電鉄の廃線跡地を道路に転用した。

昭和33年に阪奈道路登山口-生駒山山上駐車場が開通し、その後の昭和39年に同駐車場から信貴山駐車場が開通した。

街道を歩いて探す素盞嗚尊神社。

それらしき表示が見当たらないが、「南畑歌舞伎一座」の説明板書が目に入った。

平成11年3月に三郷町教育委員会が立てた板書である。

その板書によれば、「明治20年の頃の信貴南畑には「日出座」と呼ばれる歌舞伎一座があった。地元の人たちは南畑歌舞伎と呼んで親しまれていた一座の座長は慶應生まれの鶴沢三枝。地元青年に歌舞伎を教えて一座を結成した。法隆寺、田原本に生駒山を越えた大阪においても公演していた」とある。

「道頓堀では「日出座」の幟がなびいた」そうだ。

その場には鶴沢三枝が63歳になった祝いに門弟たちが明治34年10月に建之した碑がある。

戦後の昭和23年には南畑青年団が芝居を復活して「修善寺物語」をしたと伝わる。

村歌舞伎があった信貴南畑の民俗を知るのである。

その前の民家にあった石造仏は弘法大師であろう。

垣根辺りに安置された弘法大師は家屋敷の外にある。



昨年3月に訪れた生駒市高山町大北地区のお大師さんを思い起こすソトマツリのお大師さんである。

その辺りから西に向かえば表示があった禅入寺。

もしかとすればその近くにあると思われた盞嗚尊神社を目指して急な道を登っていく。小字でいえば竹ノ坂である。

禅入寺からさらに奥へ登ればあったのだが、付近には村人の姿は見られない。

(H25. 7. 1 SB932SH撮影)

西宮平群神社を訪ねて

2013年10月20日 08時54分23秒 | 楽しみにしておこうっと
天理市櫟本の膳史(かし)に住むN婦人の出里は平群町西宮。

ハゲッショの田植え休みがあったと聞いて出かけた。

高台に鎮座する平群神社の祭神は大山祇神である。

総本社は愛媛県今治市の大三島に鎮座する。

武内宿禰が神功皇后とともに朝鮮出兵前に戦勝祈願として大山祇神をこの地に祀ったと伝わる西宮の平群神社である。

一年に一度は同級生である龍田大社の権宮司とともに参拝するという氏子のNさんら男性が集まってお寺に登る階段を整備されていた。

大字城山にあるお寺は城峰山来迎寺。

文明九年(1477)、西宮城の畠山義就が急襲以来、再三の戦火に襲われた。

近郷の念仏講、有志が戦死者を祀るに坊を創建した念仏道場は元禄三年、伝わる和尚代大通労尊が中興の祖となり享保十七年・寛政元年にかけて再建した。



境内は奇麗に整備されて、樹木は美しく佇まいをみせる。

Nさんらは神社役員を勤めるとともに寺檀家役員でもある。

神社の秋祭りは4レーンもあるソーメン流しをしている。

子供会が中心となった行事である。

旧村になる西宮も越してきた新町が増えて45軒から150軒にもなったと云う。

かつて西宮には宮座があった。

正月座、マツリ座と呼ばれる座中であった。

行事の進行は長帳に記載されている通りに沿ってトーヤがまかないをする。

旧村の西宮は農業を営む家が多かった。

時代を経て農家が徐々に減少した西宮。原則的に宮座入りを認めなかった。

宮さんの田んぼもあったが、農業員が少なくなって維持管理ができなくなった。

高齢化とともに寄付の負担も大きくなり、宮座を解散した。

14、5年も前のことである。

神社の祭りは実行委員会が宮さんの田んぼを運営することになった。

いつしか水利組合に移った。

その頃に、寺は檀家に、宮さんは崇敬者に替えて村の行事とした。

その際に建て直したのが社務所である。

秋祭りは10月15日に近い日曜日に行っている。

朝は8時に集まってソーメン流しを設える。

大勢で賑やかな祭りは丸一日関わる。

前日の宵宮は前述した龍田大社から上田宮司が来られる。

そのときに行われるのが献燈祭。

燈す祭りと思えばそうではなかったケントウ祭は献湯祭だ。

鳥居下で行われる献湯祭は釜に湯を沸かして神事する御湯である。

巫女さんがされるというからおそらく三郷の巫女さんであろう。

ちなみにハゲッショと植え付け休みは兼ねているそうだ。

何故に西宮と呼ばれるのか聞いてみた。

法隆寺の南の端に藪の傍に神社があった。

聖徳太子と関係があったとされる寺である。

線路を空けて寺があった地は法隆寺からは西の地。

そういうことだから西宮になったと云う。

(H25. 7. 1 SB932SH撮影)

大塩の農行事

2013年09月13日 09時17分17秒 | 楽しみにしておこうっと
山添村の大字大塩を訪ねた12日。

歳神さんを迎えるフクマル正月の祝い膳、キトラデ垣内の山の神、家族揃ってのブトノクチ焼きなど一連の民俗行事を取材させていただいたK家である。

婦人の話によれば5月5日の朝8時から田植えを始めたと云う。

その際に行ったウエゾメ。

カヤは12本で、煎ったマメで炊いたご飯を入れたフキダワラも12個。

ミツバツツジの花を添えて行ったウエゾメの儀式である。

ツキノカズノダンゴと同様の数の12本である。

新暦の閏年の場合はそれぞれ13本にすると話す奥さん。

すべての田植えを終えればウエジマイ(植え終い)はしていないが、かつては一束のナエサンを竃に供えたそうだ。

ナエサンにはキナコを塗したご飯も添えていたと云う。

同大字に住むYさんも5月5日の朝8時から田植えを始めたそうだ。

ウエゾメには束括りにしたカヤやフキダワラにお花を添えて祭ったと云う。

フキダワラの中身はエンドマメゴハン。

祭ってから中身を広げてその場で食べたという。

Yさんが続けて話した「ブトクスベ」。

平成17年に亡くなられた母親が作っていたブトクスベ。

端切れの綿生地を丸太のような形にしてワラでぐるりを巻いていく。

梅雨が明けた頃から虫が湧きだす夏場。

虫が多く出てきて農作業がしにくいから使っているブトクスベは、それ以降、秋の稲刈りが終わる頃まで使っている。

虫除けのブトクスベは数本が残っている。

母親の遺産である。

昔ながらのブトクスベは腰のベルトに挿す。

女性の場合は手にもってである。

火を点けたブトクスベはじわじわと燃えるが火は出ない。

煙が発生するのだ。

その煙の威力は蚊取り線香よりも利くと話す。

ご主人が話すブトクスベの形は県立民俗博物館で展示された春の企画展「お米作りと神々への祈り」の「ブトクスベ」そのものである。


(H25. 4.27 SB932SH撮影)

ウエゾメ、ウエジマイ、さらにはブトクスベまでも含めて山間部の各地で今でもされているのだろう。

聞き取りおよび実地調査は早めていかねばならないと思った日である。

(H25. 5.12 聞き取り)