農家にとっては欠かせない御田祭りの行事が行われている天理市楢町の楢神社。
縁起によれば『神護景雲元年(767)、加賀の国石川郡白山の麓に神現れて、石川比命が天つ真坂樹(榊)に乗り給ひて、石川河上楢郷に着いた』とされる。
同神を後世に鬼子母神に擬して子供の神となったそうだ。
石川の地名は大和郡山市の石川町に残されている。
楢神社が鎮座する楢町から西の方角にある旧村である。
その石川村に属していた楢村であった。
天理市の森本寺山に森本郷墓がある。
その墓は石川町と天理市の楢町、森本町、蔵之庄町、中之庄町の五大字の共同墓地である。
それはさておき同神社には古くから伝わる版木が残されているそうだ。
その版木から摺られた掛軸にはイザナギ、イザナミノミコトを両神に、中央に配したご本尊である鬼子母神。
大きく繁ったザクロの木を持つ姿だ。
そのザクロに実がある。
ザクロは種子が多いことから多産のシンボル。
それゆえ子供の守護神として祀られている。
「和陽楢社」の文字が見られる掛軸にはイザナギ、イザナミノミコト神像の真上に朱印が押されている。
いわゆるごーさん(牛玉宝印)と呼ばれるご朱印である。
その掛け図絵は版木を摺って配ったのではと話される。
ごーさんがあるだけに神宮寺があったのではと思われるがその所在を示す記録は見られない。
境内絵図が残されている。
そこには寺の存在が見られないが、多色摺りだったそうだ。
青色の社殿に朱色の柱。
鮮やかな配色だったそうだ。
もう一つは本殿を囲む樹木だ。
それは茶色だったそうだが、葉はそれほど多く描かれていない。
楢神社の秋祭りには渡御を斎行される。
お渡りが向う先はウエノミヤ(上ノ宮)。
元社であるとされる上ノ宮には神明神社が鎮座する。
楢神社から東方1kmにある宮山だ。
そこは東大寺山とも呼ばれている。
元禄年間(1688~1704)に描かれた櫟本村絵図には宮山が「楢村宮」と記されていることから、当時の鎮守社はウエノミヤであったようだ。
元社の上ノ宮に対して楢神社をシモノミヤ(下ノ宮)と呼んでいる。
秋祭りに際する渡御は御幣持、神饌櫃、御榊持、一老、二老、頭人、供頭、馬口取、馬両脇、警固の順であった。
女中手傳や千秋萬歳楽、當主の名が連なる大正十四年の御神拝目録があるそうだ。
當屋(頭人)を務めた人たちの名が残されている當屋順位文書。
当初は一老、二老、三老の三名があった。
それが昭和27年になれば一老、二老に宮司の名が加わった。
それは昭和37年までで、翌年からは一老、二老の二人になった。
そして、昭和四十年からは一老の名だけになった。
昭和48年からは宮司名が復活し一老を神主と呼ぶようになった。
その後においての神主は3人、或いは4人のときもあったが、現在の村神主はお一人である。
頭人を志す人もいなくなったがお渡りは今も健在だ。
十数年前までは頭人の姿もあった。
その記録写真が拝殿に掲げられている。
その頭人が担いでいたイナニナイ(稲荷い)が社務所に置かれていた。
稲穂にツボをニナイボウで担ぐ。
サカキが見られるのは神遷しされた証しであろう。
楢町の農家は専業に兼業農家を入れてもたかだか7軒。
少なくなったと話される。
その農家にとっては欠かせない行事が御田祭りである。
豊作を祈って春初めに神事を行う。
祭壇に供えられたのはお札を括り付けた松苗だ。
それにはネコヤナギの枝が添えられている。
今年は寒い。
例年なら白淡く芽吹いたネコヤナギであるが今年はそうもいかない。
数も少なくなってきたという。
それには半紙を巻いて水引で括る。
総代の役目だという。
敬神講の法被を着用している氏子たち。拝殿に登った。
その拝殿は能の舞台だったそうだ。
そういえば造りに面影が残っている。
豊作を願う松苗を供えて神事が始まった。
祓えの儀を済ませると神主は境内に下りて摂社の恵比寿神社へ参った。
この日はエビス祭も含んでいるのだ。
豊作の願いは田植えの所作へと移る。
拝殿前の四角い枠。
それが田んぼに見立てた神聖な場所なのだ。
この年はさらに区画を設けたという。
ほんとは氏子戸数を考えて5×6枡にしたかったが、4×6枡の24区画にされたという。
神主は供えた松苗を受け取って区画された田に置いていく。
まさに田植えの所作である。
40個ほどの松苗を植えられた。
昨年と違って籾蒔きが見られなかった。
実は皿に盛ることを失念されていて、お渡りの際に担がれていたイナニナイが社務所に残ったままだったのだ。
それには稲穂があった。
松苗を植えることは気にしていたが稲籾は忘れていたが実施したと笑う神主。
おおらかな楢町の御田植祭であった。
祭典を終えた神主、敬神講の人たちは楢町公民館兼社務所(昭和60年竣工)で寛ぐ。
そこにはかつて社殿前に置かれていた木像の狛犬がある。
弘化三年(1846)に建之されたものだ。
阿吽の狛犬は寄木造り。
彩色されていたが剥落したという。
むしろそれが原形の姿ではないだろうか。
大きな武人の絵馬がある。それは神功皇后が第十五代応神天を竹内宿禰に預けられ、戦に出陣せられる時の絵だそうだ。
大阪長堀の伊丹屋政介が奉納したものと判っているが年代は不明である。
(H24. 2.17 EOS40D撮影)
縁起によれば『神護景雲元年(767)、加賀の国石川郡白山の麓に神現れて、石川比命が天つ真坂樹(榊)に乗り給ひて、石川河上楢郷に着いた』とされる。
同神を後世に鬼子母神に擬して子供の神となったそうだ。
石川の地名は大和郡山市の石川町に残されている。
楢神社が鎮座する楢町から西の方角にある旧村である。
その石川村に属していた楢村であった。
天理市の森本寺山に森本郷墓がある。
その墓は石川町と天理市の楢町、森本町、蔵之庄町、中之庄町の五大字の共同墓地である。
それはさておき同神社には古くから伝わる版木が残されているそうだ。
その版木から摺られた掛軸にはイザナギ、イザナミノミコトを両神に、中央に配したご本尊である鬼子母神。
大きく繁ったザクロの木を持つ姿だ。
そのザクロに実がある。
ザクロは種子が多いことから多産のシンボル。
それゆえ子供の守護神として祀られている。
「和陽楢社」の文字が見られる掛軸にはイザナギ、イザナミノミコト神像の真上に朱印が押されている。
いわゆるごーさん(牛玉宝印)と呼ばれるご朱印である。
その掛け図絵は版木を摺って配ったのではと話される。
ごーさんがあるだけに神宮寺があったのではと思われるがその所在を示す記録は見られない。
境内絵図が残されている。
そこには寺の存在が見られないが、多色摺りだったそうだ。
青色の社殿に朱色の柱。
鮮やかな配色だったそうだ。
もう一つは本殿を囲む樹木だ。
それは茶色だったそうだが、葉はそれほど多く描かれていない。
楢神社の秋祭りには渡御を斎行される。
お渡りが向う先はウエノミヤ(上ノ宮)。
元社であるとされる上ノ宮には神明神社が鎮座する。
楢神社から東方1kmにある宮山だ。
そこは東大寺山とも呼ばれている。
元禄年間(1688~1704)に描かれた櫟本村絵図には宮山が「楢村宮」と記されていることから、当時の鎮守社はウエノミヤであったようだ。
元社の上ノ宮に対して楢神社をシモノミヤ(下ノ宮)と呼んでいる。
秋祭りに際する渡御は御幣持、神饌櫃、御榊持、一老、二老、頭人、供頭、馬口取、馬両脇、警固の順であった。
女中手傳や千秋萬歳楽、當主の名が連なる大正十四年の御神拝目録があるそうだ。
當屋(頭人)を務めた人たちの名が残されている當屋順位文書。
当初は一老、二老、三老の三名があった。
それが昭和27年になれば一老、二老に宮司の名が加わった。
それは昭和37年までで、翌年からは一老、二老の二人になった。
そして、昭和四十年からは一老の名だけになった。
昭和48年からは宮司名が復活し一老を神主と呼ぶようになった。
その後においての神主は3人、或いは4人のときもあったが、現在の村神主はお一人である。
頭人を志す人もいなくなったがお渡りは今も健在だ。
十数年前までは頭人の姿もあった。
その記録写真が拝殿に掲げられている。
その頭人が担いでいたイナニナイ(稲荷い)が社務所に置かれていた。
稲穂にツボをニナイボウで担ぐ。
サカキが見られるのは神遷しされた証しであろう。
楢町の農家は専業に兼業農家を入れてもたかだか7軒。
少なくなったと話される。
その農家にとっては欠かせない行事が御田祭りである。
豊作を祈って春初めに神事を行う。
祭壇に供えられたのはお札を括り付けた松苗だ。
それにはネコヤナギの枝が添えられている。
今年は寒い。
例年なら白淡く芽吹いたネコヤナギであるが今年はそうもいかない。
数も少なくなってきたという。
それには半紙を巻いて水引で括る。
総代の役目だという。
敬神講の法被を着用している氏子たち。拝殿に登った。
その拝殿は能の舞台だったそうだ。
そういえば造りに面影が残っている。
豊作を願う松苗を供えて神事が始まった。
祓えの儀を済ませると神主は境内に下りて摂社の恵比寿神社へ参った。
この日はエビス祭も含んでいるのだ。
豊作の願いは田植えの所作へと移る。
拝殿前の四角い枠。
それが田んぼに見立てた神聖な場所なのだ。
この年はさらに区画を設けたという。
ほんとは氏子戸数を考えて5×6枡にしたかったが、4×6枡の24区画にされたという。
神主は供えた松苗を受け取って区画された田に置いていく。
まさに田植えの所作である。
40個ほどの松苗を植えられた。
昨年と違って籾蒔きが見られなかった。
実は皿に盛ることを失念されていて、お渡りの際に担がれていたイナニナイが社務所に残ったままだったのだ。
それには稲穂があった。
松苗を植えることは気にしていたが稲籾は忘れていたが実施したと笑う神主。
おおらかな楢町の御田植祭であった。
祭典を終えた神主、敬神講の人たちは楢町公民館兼社務所(昭和60年竣工)で寛ぐ。
そこにはかつて社殿前に置かれていた木像の狛犬がある。
弘化三年(1846)に建之されたものだ。
阿吽の狛犬は寄木造り。
彩色されていたが剥落したという。
むしろそれが原形の姿ではないだろうか。
大きな武人の絵馬がある。それは神功皇后が第十五代応神天を竹内宿禰に預けられ、戦に出陣せられる時の絵だそうだ。
大阪長堀の伊丹屋政介が奉納したものと判っているが年代は不明である。
(H24. 2.17 EOS40D撮影)