楢神社の御田祭り取材を終えて上ツ道を奈良に向けて上がっていった。
同行した写人がなにやら看板を発見した。
それには「かぼちゃ薬師」とある。
集落を抜ける狭い道。
手前には地蔵石仏を並べた延命地蔵尊が祠に安置されている。
そこは薬師さんではない。
もう少し奥に入ったところだ。
そこには何年か前に建て替えられた薬師堂がある。
向いのお寺は融通念仏宗の興願寺だ。
「かぼちゃ薬師」と看板表記があるだけにかぼちゃが供えられるのだろうと思い、崩れかけた土塀が見られる民家を訪ねた。
ご婦人の話によれば冬の寒い時期に近郷農家の人がかぼちゃを供えていたという。
お堂回りの回廊にそれが所狭しに置かれてあった。
そのかぼちゃはたばって帰ることもできるので量はたえず変動するらしい。
それを見かけたのは随分と前のこと。
今ではお供えをする人も少なくなり見かける人も僅かだという。
冬ということであれば冬至のころではないだろうか。
初成りに収穫した南瓜かぼちゃを供えるということは初夏。
南瓜が好物の薬師さんに祈願することで、「しゃく(癪)の病い」と呼ばれる腹痛みが治ると信じられて供えていた。
楢神社の村神主、総代らから贈呈を受けた『楢町史』にはそのことが記載されていた。
本が記すには天保十一(1840)、十二年のこと。
大和郡山の若槻村たばこや嘉兵衛(勘兵衛とも)が十九歳の女(高田町ちゃわんやのなおとふじや里歌秀女)の眼病で、郡山町かせや(鍵屋)忠兵衛は耳病いで祈願した。
目や耳の病気が平癒して、若槻村に西寺に住む光顕上人が之(薬師如来台座)を作り修理したとある。
そのことと、かぼちゃ御供との関係は判らないが、ご婦人は1年に2回あったという。
もしかとすればだが、施餓鬼、十夜会、それとも冬至であるかも知れない。
町史は10年の調査期間を経て昭和63年に発刊された。
当時の聞き取りは丹念にされていたようで年中行事も詳しく載っている。
大切にしたいご本になった。
夏を思い出されたのかご婦人は続けて話されたお盆のときの六斎の鉦の音。
集落の家を回って鉦を叩いていたという。
それは5、60年も前のこと。
子供だった戦前だという。
どうやら六斎念仏を唱える念仏講があったようだ。
そのことも町史に書かれてあった。
興願寺に属していたと思われる六斎念仏講には新旧二組の講中があった。
6、7日は墓参りの日。
20数名の講中が夏の盆行事として8月7日に新仏のある家に出かけて念仏を唱えていた。
14日には講中の家を回って念仏あげた。
新の講は15日に墓参りして六地蔵の前で念仏を唱えた。
いずれも念仏と和讃(融通念仏の影響であろうか)を唱えて六斎鉦を打ち鳴らしたとある。
その叩き鉦は昭和17、8年頃に戦時供出されて講は解散された。
話してくれたご婦人の記憶通りだった六斎念仏講である。
語ってくれた婦人の家前にあった土塀跡。
数年前まで使っていたドテグラ(土手蔵であろうか)だという。
収穫した野菜などはその蔵にしまっておく。
ひんやりとしていつまでも腐らずにあった野菜。
冷蔵庫では水分が凍ってしまいパサパサになる。
ドテグラにあった野菜は新鮮そのものだったという。
「しゃく(癪)の病い」や「耳の病い」に効くとされる。そのことは風習であろう。
(H24. 2.17 SB932SH撮影)
同行した写人がなにやら看板を発見した。
それには「かぼちゃ薬師」とある。
集落を抜ける狭い道。
手前には地蔵石仏を並べた延命地蔵尊が祠に安置されている。
そこは薬師さんではない。
もう少し奥に入ったところだ。
そこには何年か前に建て替えられた薬師堂がある。
向いのお寺は融通念仏宗の興願寺だ。
「かぼちゃ薬師」と看板表記があるだけにかぼちゃが供えられるのだろうと思い、崩れかけた土塀が見られる民家を訪ねた。
ご婦人の話によれば冬の寒い時期に近郷農家の人がかぼちゃを供えていたという。
お堂回りの回廊にそれが所狭しに置かれてあった。
そのかぼちゃはたばって帰ることもできるので量はたえず変動するらしい。
それを見かけたのは随分と前のこと。
今ではお供えをする人も少なくなり見かける人も僅かだという。
冬ということであれば冬至のころではないだろうか。
初成りに収穫した南瓜かぼちゃを供えるということは初夏。
南瓜が好物の薬師さんに祈願することで、「しゃく(癪)の病い」と呼ばれる腹痛みが治ると信じられて供えていた。
楢神社の村神主、総代らから贈呈を受けた『楢町史』にはそのことが記載されていた。
本が記すには天保十一(1840)、十二年のこと。
大和郡山の若槻村たばこや嘉兵衛(勘兵衛とも)が十九歳の女(高田町ちゃわんやのなおとふじや里歌秀女)の眼病で、郡山町かせや(鍵屋)忠兵衛は耳病いで祈願した。
目や耳の病気が平癒して、若槻村に西寺に住む光顕上人が之(薬師如来台座)を作り修理したとある。
そのことと、かぼちゃ御供との関係は判らないが、ご婦人は1年に2回あったという。
もしかとすればだが、施餓鬼、十夜会、それとも冬至であるかも知れない。
町史は10年の調査期間を経て昭和63年に発刊された。
当時の聞き取りは丹念にされていたようで年中行事も詳しく載っている。
大切にしたいご本になった。
夏を思い出されたのかご婦人は続けて話されたお盆のときの六斎の鉦の音。
集落の家を回って鉦を叩いていたという。
それは5、60年も前のこと。
子供だった戦前だという。
どうやら六斎念仏を唱える念仏講があったようだ。
そのことも町史に書かれてあった。
興願寺に属していたと思われる六斎念仏講には新旧二組の講中があった。
6、7日は墓参りの日。
20数名の講中が夏の盆行事として8月7日に新仏のある家に出かけて念仏を唱えていた。
14日には講中の家を回って念仏あげた。
新の講は15日に墓参りして六地蔵の前で念仏を唱えた。
いずれも念仏と和讃(融通念仏の影響であろうか)を唱えて六斎鉦を打ち鳴らしたとある。
その叩き鉦は昭和17、8年頃に戦時供出されて講は解散された。
話してくれたご婦人の記憶通りだった六斎念仏講である。
語ってくれた婦人の家前にあった土塀跡。
数年前まで使っていたドテグラ(土手蔵であろうか)だという。
収穫した野菜などはその蔵にしまっておく。
ひんやりとしていつまでも腐らずにあった野菜。
冷蔵庫では水分が凍ってしまいパサパサになる。
ドテグラにあった野菜は新鮮そのものだったという。
「しゃく(癪)の病い」や「耳の病い」に効くとされる。そのことは風習であろう。
(H24. 2.17 SB932SH撮影)