大和郡山市の額田部町を通過しているときだった。
白っぽい装束に身をかためた二人の男性が歩いていた。
それは獅子舞を演じる姿だ。
一人の男性が獅子頭を抱えている。
通り過ぎる一瞬ではあったが、大和の行事のなかでその姿を見ているだけに間違いはないだろう。
付近に住むYの話によれば、獅子舞をする大神楽は昔から来ているという。
今では若い人になったが、以前は年寄りだったそうだ。
朝一番にやってきて、お金を渡したら玄関前で剣の舞をしてくれた。
家内安全を祓ってもらったという。
毎年、学校が春休みになる前の日に来るという。
ジャンガラと呼んでいた鉦や太鼓はなかったが、笛一本で吹いていて、終われば頭を被るような格好で獅子頭をパクパクさせていたと話す。
この日の朝に訪れた大神楽はお札を2枚置いていった。
一つは玄関に貼るという。
もう一枚は今年初めてもらったもので「天照皇大神」のお札。
Yさんが続けて話した大神楽はもっと昔のこと。
推古神社を新築したときは大勢の大神楽がやって来て、傘回しの曲芸をしていた。
村人が大勢来ていてゴザを敷いて見ていたと話す。
M氏によれば、それは40年ほど前のこと。
推古神社の本殿を建てなおしたときに奉納された獅子舞の大神楽。
それは4人以上も来ていて、傘回しの曲芸もしたそうだ。
同じようにゴザを敷いて見物していたと思い出された。
子供の頃、獅子舞の大神楽が来て剣の舞をしていたと話すKさん。
生まれ育った長安寺町でのことだ。
氏神さんの厳島神社には大神楽がなかった。
ところが隣村の池沢町の春日神社では大神楽があった。
何の祭りかは覚えていないが、伊勢の大神楽がやって来て傘回しをしていた。
一行は4人ぐらいだったので道具も多く、大八車に載せてきたという。
獅子舞が来ていたという長安寺町に住むNさん。
酒屋とか商売屋さんは金持ち。
多額の金を摘んで舞ってもらった。
そのときの鉦の音を覚えているそうだ。
横田に住むHさんの話では、氏神さんの八幡神社に大神楽が来ていたという。
随分前のことだが、肩の上に乗った人が演じていたというからおそらく接ぎ獅子舞だったろう。
こうした神社で奉納されていた大神楽は県内のあちこちで聞くが今は見られない。
随分と前になくなった大神楽。
聞いた話では年老いて引退し、祭りから大神楽が消えたという。
その名残の一枚が残されている橿原市東坊城町の杵築神社。
社務所に当時の写真を拝見したことがある貴重な一枚だ。
天理市の楢町に鎮座する楢神社ではかつて大神楽が奉納されていた。
一枚の写真が『楢町史』に掲載されている。
拝見すればゴザが敷いてある。
日傘をさして見る人もいる。
夏祭りだとすれば7月16日。
現在は大神楽は見られないが、その日を「ダイカグラ」と称している。
天理市櫟本の膳史(かし)に住むNさんが話す大神楽は和爾下神社の秋祭りだったというがおそらく夏祭り。
それを奉納していた大神楽の人は帯解(今市の東)のほうから来ていたという。
そんな話題をしていた二日後の都祁針。
前年度頭家を務められたM家の婦人の話では当地にも大神楽が行われているという。
今は曽爾村今井の獅子舞保存会になったが、かつては伊勢の大神楽だったそうだ。
その獅子舞は数え42歳と61歳になる男性が厄除け祈願奉納として村人に披露してもらうのだ。
昨年に取材させてもらったのは曽爾の獅子舞だった。
そのときに聞いたのは15年前までは伊勢の大神楽だった。
それは二組だったという。
一つは天理市の櫟本から、もう一つは奈良市の京終だったという。
櫟本の組は演じる人が亡くなったことから来られないようになった。
それにつれて京終もいなくなった。
そうした事情で相談したのが伝統芸能を継承している曽爾村だったのだ。
厄除け祈願する男性はその年によって人数が変わる。
多ければ獅子舞の費用負担が少なく、人数が少なければ負担が重くなるという。
奈良市別所町の村人から聞いた話では、ゾーク(造営上棟祭)で奉納された大神楽は本場伊勢桑名の大神楽だという。
オヤマの道中もあったそうだが、雨が降ってきたのでわりかし短めやったと話す。
それはともかくここも獅子舞の大神楽がやって来ていたとそうだ。
4、5人がリヤカーを引いてやってきた。そこには獅子、天狗、太鼓、笛、鉦などの道具箱(唐箕)を乗せてきた。
どうやらリヤカー(若しくは大八車)だったようだ。
村にやってきたのは2組。一つはTの組で京終から来ていたという。
もう一つはMの組で天理から来たようだという。
どうやら都祁針も別所町にやってきた大神楽は同一であるようだ。
当件とは直接関係はないが、櫟本の市場に住むFさんの話では和爾下神社の祇園祭で立山があったと回顧された。
(H24. 3.12 SB932SH撮影)
白っぽい装束に身をかためた二人の男性が歩いていた。
それは獅子舞を演じる姿だ。
一人の男性が獅子頭を抱えている。
通り過ぎる一瞬ではあったが、大和の行事のなかでその姿を見ているだけに間違いはないだろう。
付近に住むYの話によれば、獅子舞をする大神楽は昔から来ているという。
今では若い人になったが、以前は年寄りだったそうだ。
朝一番にやってきて、お金を渡したら玄関前で剣の舞をしてくれた。
家内安全を祓ってもらったという。
毎年、学校が春休みになる前の日に来るという。
ジャンガラと呼んでいた鉦や太鼓はなかったが、笛一本で吹いていて、終われば頭を被るような格好で獅子頭をパクパクさせていたと話す。
この日の朝に訪れた大神楽はお札を2枚置いていった。
一つは玄関に貼るという。
もう一枚は今年初めてもらったもので「天照皇大神」のお札。
Yさんが続けて話した大神楽はもっと昔のこと。
推古神社を新築したときは大勢の大神楽がやって来て、傘回しの曲芸をしていた。
村人が大勢来ていてゴザを敷いて見ていたと話す。
M氏によれば、それは40年ほど前のこと。
推古神社の本殿を建てなおしたときに奉納された獅子舞の大神楽。
それは4人以上も来ていて、傘回しの曲芸もしたそうだ。
同じようにゴザを敷いて見物していたと思い出された。
子供の頃、獅子舞の大神楽が来て剣の舞をしていたと話すKさん。
生まれ育った長安寺町でのことだ。
氏神さんの厳島神社には大神楽がなかった。
ところが隣村の池沢町の春日神社では大神楽があった。
何の祭りかは覚えていないが、伊勢の大神楽がやって来て傘回しをしていた。
一行は4人ぐらいだったので道具も多く、大八車に載せてきたという。
獅子舞が来ていたという長安寺町に住むNさん。
酒屋とか商売屋さんは金持ち。
多額の金を摘んで舞ってもらった。
そのときの鉦の音を覚えているそうだ。
横田に住むHさんの話では、氏神さんの八幡神社に大神楽が来ていたという。
随分前のことだが、肩の上に乗った人が演じていたというからおそらく接ぎ獅子舞だったろう。
こうした神社で奉納されていた大神楽は県内のあちこちで聞くが今は見られない。
随分と前になくなった大神楽。
聞いた話では年老いて引退し、祭りから大神楽が消えたという。
その名残の一枚が残されている橿原市東坊城町の杵築神社。
社務所に当時の写真を拝見したことがある貴重な一枚だ。
天理市の楢町に鎮座する楢神社ではかつて大神楽が奉納されていた。
一枚の写真が『楢町史』に掲載されている。
拝見すればゴザが敷いてある。
日傘をさして見る人もいる。
夏祭りだとすれば7月16日。
現在は大神楽は見られないが、その日を「ダイカグラ」と称している。
天理市櫟本の膳史(かし)に住むNさんが話す大神楽は和爾下神社の秋祭りだったというがおそらく夏祭り。
それを奉納していた大神楽の人は帯解(今市の東)のほうから来ていたという。
そんな話題をしていた二日後の都祁針。
前年度頭家を務められたM家の婦人の話では当地にも大神楽が行われているという。
今は曽爾村今井の獅子舞保存会になったが、かつては伊勢の大神楽だったそうだ。
その獅子舞は数え42歳と61歳になる男性が厄除け祈願奉納として村人に披露してもらうのだ。
昨年に取材させてもらったのは曽爾の獅子舞だった。
そのときに聞いたのは15年前までは伊勢の大神楽だった。
それは二組だったという。
一つは天理市の櫟本から、もう一つは奈良市の京終だったという。
櫟本の組は演じる人が亡くなったことから来られないようになった。
それにつれて京終もいなくなった。
そうした事情で相談したのが伝統芸能を継承している曽爾村だったのだ。
厄除け祈願する男性はその年によって人数が変わる。
多ければ獅子舞の費用負担が少なく、人数が少なければ負担が重くなるという。
奈良市別所町の村人から聞いた話では、ゾーク(造営上棟祭)で奉納された大神楽は本場伊勢桑名の大神楽だという。
オヤマの道中もあったそうだが、雨が降ってきたのでわりかし短めやったと話す。
それはともかくここも獅子舞の大神楽がやって来ていたとそうだ。
4、5人がリヤカーを引いてやってきた。そこには獅子、天狗、太鼓、笛、鉦などの道具箱(唐箕)を乗せてきた。
どうやらリヤカー(若しくは大八車)だったようだ。
村にやってきたのは2組。一つはTの組で京終から来ていたという。
もう一つはMの組で天理から来たようだという。
どうやら都祁針も別所町にやってきた大神楽は同一であるようだ。
当件とは直接関係はないが、櫟本の市場に住むFさんの話では和爾下神社の祇園祭で立山があったと回顧された。
(H24. 3.12 SB932SH撮影)