良福寺文殊堂で行われる文殊会に招かれた長田光男先生。
大和郡山市の文化財審議会の会長を務めておられる。
昨年の11月に「大和郡山の歴史と文化」をテーマに話された県立民俗博物館以来だ。
史跡、文化財、考古など、幅広い学識をもつ長田光男先生の話は、地域文化財である文殊菩薩騎獅像を主に話された。
大切な菩薩像がどのようなものなのか詳しく述べられる。
この講演は昨年の11月13日に実施された「わがまち再発見 歴史講演会&ウォーク」がきっかけだ。
大和郡山市まちづくり会議が主催したイベントだった。
長田先生が案内、解説されたコースの一つにあったのが良福寺文殊堂。
そのときにお会いした町の人。
文殊堂や菩薩のことをチラシにしたかった。
詳しいことを教えてもらいたいとお願いされたT自治会長とTさん。
たまたま相談されていた三の丸会館で出会ったのだ。
Tさんは市の施設にいたときから知っていたご仁だ。
当時はここで行われている文殊会を存知していなかったからその話題もでなかった。
一年ぶりにお会いするとは思ってもいなかった。
そのことはともかく始まった講演。
昭和60年(1985)に撮影された文殊菩薩を掲げながら解説される。
県文化財課が解体修理された当時。
元々は彩色されていなかったのが判った。
そういうことで修理後は色を落として元の姿になった菩薩像。
童顔のような文殊さんは知恵の神さんだという。
菩薩は獅子に乗っているから文殊菩薩騎獅像と呼ぶ。
しっとりとした仕上げは同市の洞泉寺(とうせんじ)町にある洞泉寺の阿弥陀三尊像の造りに似ているという。
鎌倉時代の大仏師である快慶の作と伝わるそうだ。
田原本町の八尾にある安養寺に安置されている阿弥陀如来も快慶作とされる。
大和ではこの三尊が快慶作と伝わっている特徴が見られるそうだ。
騎獅像は玉眼(ぎょくがん)に粉溜(ふんだみ)塗工法で造られた。
快慶が好んで用いた手法で、その作風に特徴があるそうだ。
粉溜とは、白土を下地にその上に金の粉を塗ったもの。
漆と混ぜて金ピカに仕上げる。
玉眼は水晶玉。裏側に眼を書き入れているという。
光りが当たれば瞳のように映し出される。
それ以前の平安時代は彫眼。
平安末期から前期鎌倉時代に見られる造りだそうだ。
文殊菩薩の特徴はもう一つある寄木造り。
初めは繰り抜きの一本造り。
それは年々の経過においてひび割れが発生する。
中刳りをしてひび割れを防いでいた。
その後に寄木の技術が開発された。
いくつかの木を合わせて造る。
分業体制で造って組み合わせた寄木。
東大寺の仁王さんが有名。
作風にそれぞれの派風が見られるぜんぱ(善派)、けいは(慶派)、えんぱ(円派)、いんぱ(院派)の四派。
円派、院派は京都を本拠地とする貴族依頼の仏像造り。
奈良を本拠地としたが善派と慶派。
善派は西大寺中興の祖である叡尊と親しい間柄。
慶派は南都復興造仏に活躍した。
文殊菩薩には残される名がなかっただけに断定はできないが、おそらく善派であろうと長田先生は語る。
善円、善慶は同一人物であるかも知れないと但し書き。
おそらく途中で名替えをしたのではと話す。
その息子が善春。
造仏は善春であったろうと・・・。
鎌倉時代に活躍した興正菩薩叡尊。
生まれは同市の白土町だ。
三宅町の屏風に生まれた忍性との関わりがあった。
その忍性の墓塔が西町から東へ数百メートルの鎌倉墓にある。
額田部町だ。
平安時代は仏教が形骸化した。
お釈迦さんの教えが退廃した末法思想の時代。
仏教を再興した叡尊は亡くなられてから興正菩薩の名がついた。
その弟子に忍性がいる。
忍性は文殊菩薩を信仰した。
二人が共にになって文殊菩薩、特に世の中で貧しく心の病いに苦しむ人々を。
宗教を通じて病める人や貧しい人の化身とされた文殊菩薩の信仰を広めた。
解体修理の折りに獅子の胎内から発見された印仏は671枚。
大勢の人たちが銭を出し合ってこしらえた文殊菩薩であった。
名前が書かれ印仏札はコヨリで綴じられていた。
表に「帰命三宝海覚母妙吉祥堅求大善堤広度貧賤類」とあったそうだ。
「覚母」が文殊さんであると語られた。
話題は替ってお堂西側にある地蔵さん。
地蔵さんと思っていた石仏は阿弥陀さんだと先生は云う。
頭に長い髪があったと思われる石仏は鎌倉時代後期の作風。
大昔、墓地から寄せられたときに誤ったのではないかと話す村人。
今夏の地蔵盆には元に戻しておかねばと話す。
もう一つの石の話題。
戎子神社に狛犬がある。
製作者の名は見られないが作風から「佐吉」の作であろうという。
狛犬は奥目で尾がごつい。
頭が平らで流れ毛。
深い刀剣彫りで台座に四方線刻がある。
角は面取りされた縁取り。
断定はできないがその特徴から佐吉の作ではないかと話す。
奈良県下における狛犬を調べた長田先生。
佐吉は大阪住とも言われているが但馬であったろう。
佐吉の師匠が住んでいたのが丹波・但馬は兵庫県。
名高い竹田城の地で生まれたとされる佐吉。
それゆえに丹波佐吉の称される。
江戸時代の最後の天皇から日本一だと認められた石の尺八を製作した佐吉は「照信」。
花押も残されていると語った西町の石の文化財。
ありがたく聴講させていただいた機会に記しておく。
(H24. 2.25 EOS40D撮影)
大和郡山市の文化財審議会の会長を務めておられる。
昨年の11月に「大和郡山の歴史と文化」をテーマに話された県立民俗博物館以来だ。
史跡、文化財、考古など、幅広い学識をもつ長田光男先生の話は、地域文化財である文殊菩薩騎獅像を主に話された。
大切な菩薩像がどのようなものなのか詳しく述べられる。
この講演は昨年の11月13日に実施された「わがまち再発見 歴史講演会&ウォーク」がきっかけだ。
大和郡山市まちづくり会議が主催したイベントだった。
長田先生が案内、解説されたコースの一つにあったのが良福寺文殊堂。
そのときにお会いした町の人。
文殊堂や菩薩のことをチラシにしたかった。
詳しいことを教えてもらいたいとお願いされたT自治会長とTさん。
たまたま相談されていた三の丸会館で出会ったのだ。
Tさんは市の施設にいたときから知っていたご仁だ。
当時はここで行われている文殊会を存知していなかったからその話題もでなかった。
一年ぶりにお会いするとは思ってもいなかった。
そのことはともかく始まった講演。
昭和60年(1985)に撮影された文殊菩薩を掲げながら解説される。
県文化財課が解体修理された当時。
元々は彩色されていなかったのが判った。
そういうことで修理後は色を落として元の姿になった菩薩像。
童顔のような文殊さんは知恵の神さんだという。
菩薩は獅子に乗っているから文殊菩薩騎獅像と呼ぶ。
しっとりとした仕上げは同市の洞泉寺(とうせんじ)町にある洞泉寺の阿弥陀三尊像の造りに似ているという。
鎌倉時代の大仏師である快慶の作と伝わるそうだ。
田原本町の八尾にある安養寺に安置されている阿弥陀如来も快慶作とされる。
大和ではこの三尊が快慶作と伝わっている特徴が見られるそうだ。
騎獅像は玉眼(ぎょくがん)に粉溜(ふんだみ)塗工法で造られた。
快慶が好んで用いた手法で、その作風に特徴があるそうだ。
粉溜とは、白土を下地にその上に金の粉を塗ったもの。
漆と混ぜて金ピカに仕上げる。
玉眼は水晶玉。裏側に眼を書き入れているという。
光りが当たれば瞳のように映し出される。
それ以前の平安時代は彫眼。
平安末期から前期鎌倉時代に見られる造りだそうだ。
文殊菩薩の特徴はもう一つある寄木造り。
初めは繰り抜きの一本造り。
それは年々の経過においてひび割れが発生する。
中刳りをしてひび割れを防いでいた。
その後に寄木の技術が開発された。
いくつかの木を合わせて造る。
分業体制で造って組み合わせた寄木。
東大寺の仁王さんが有名。
作風にそれぞれの派風が見られるぜんぱ(善派)、けいは(慶派)、えんぱ(円派)、いんぱ(院派)の四派。
円派、院派は京都を本拠地とする貴族依頼の仏像造り。
奈良を本拠地としたが善派と慶派。
善派は西大寺中興の祖である叡尊と親しい間柄。
慶派は南都復興造仏に活躍した。
文殊菩薩には残される名がなかっただけに断定はできないが、おそらく善派であろうと長田先生は語る。
善円、善慶は同一人物であるかも知れないと但し書き。
おそらく途中で名替えをしたのではと話す。
その息子が善春。
造仏は善春であったろうと・・・。
鎌倉時代に活躍した興正菩薩叡尊。
生まれは同市の白土町だ。
三宅町の屏風に生まれた忍性との関わりがあった。
その忍性の墓塔が西町から東へ数百メートルの鎌倉墓にある。
額田部町だ。
平安時代は仏教が形骸化した。
お釈迦さんの教えが退廃した末法思想の時代。
仏教を再興した叡尊は亡くなられてから興正菩薩の名がついた。
その弟子に忍性がいる。
忍性は文殊菩薩を信仰した。
二人が共にになって文殊菩薩、特に世の中で貧しく心の病いに苦しむ人々を。
宗教を通じて病める人や貧しい人の化身とされた文殊菩薩の信仰を広めた。
解体修理の折りに獅子の胎内から発見された印仏は671枚。
大勢の人たちが銭を出し合ってこしらえた文殊菩薩であった。
名前が書かれ印仏札はコヨリで綴じられていた。
表に「帰命三宝海覚母妙吉祥堅求大善堤広度貧賤類」とあったそうだ。
「覚母」が文殊さんであると語られた。
話題は替ってお堂西側にある地蔵さん。
地蔵さんと思っていた石仏は阿弥陀さんだと先生は云う。
頭に長い髪があったと思われる石仏は鎌倉時代後期の作風。
大昔、墓地から寄せられたときに誤ったのではないかと話す村人。
今夏の地蔵盆には元に戻しておかねばと話す。
もう一つの石の話題。
戎子神社に狛犬がある。
製作者の名は見られないが作風から「佐吉」の作であろうという。
狛犬は奥目で尾がごつい。
頭が平らで流れ毛。
深い刀剣彫りで台座に四方線刻がある。
角は面取りされた縁取り。
断定はできないがその特徴から佐吉の作ではないかと話す。
奈良県下における狛犬を調べた長田先生。
佐吉は大阪住とも言われているが但馬であったろう。
佐吉の師匠が住んでいたのが丹波・但馬は兵庫県。
名高い竹田城の地で生まれたとされる佐吉。
それゆえに丹波佐吉の称される。
江戸時代の最後の天皇から日本一だと認められた石の尺八を製作した佐吉は「照信」。
花押も残されていると語った西町の石の文化財。
ありがたく聴講させていただいた機会に記しておく。
(H24. 2.25 EOS40D撮影)