平成18年9月に行われた倉橋のお仮屋建てでお世話になったN家を訪ねた。
ご主人は不在だったが奥さんに「むさいな」の件を伺った。
昭和32年に発刊された『桜井町史 続 民俗編』に「倉橋のむさいな」行事のことが書かれていた。
旧暦の7月14日に村の11、12歳の男の子や女の子が太鼓を打ちながら「むさいな」と囃して金福寺から出屋敷にある行者堂まで巡っていたという記事であった。
今でもその行事があるのか、ないのか・・・話しはとにかく聞いてみなければ思って訪れたのだ。
N家は平成18年に宮講のマツリコ(祭り講)を勤めた。
この日は七日盆で、ご主人はラントバサンと呼ぶ墓地の清掃に出かけていた。
奥さんが話してくれた墓地。
倉橋にはもう一つの墓があり、そこはカザリバカと呼んでいる。
カザリバカは仏さんを埋めていないからカラバカ。
お骨はないそうだ。
別にノバカと呼ぶ埋葬墓もあるようだ。
ラントバサンはかつて山の上にあったが、行くのも困難な地であるため下に降ろしたと云う。
倉橋は浄土宗もあれば平野大念仏宗派もあるそうだ。
宗派とは関係なく、13日はオショウライサン迎えをしている。
辻向こうの川に出かけてムギワラの松明に火を点けていたが38年前にやめたと云う。
今では線香に火を点けて家に戻る。
その行為を見た子供は「ケムリのタクシー」やと云ったそうだ。
奥さんは「むさいな」の件はご存じでなく「80歳以上の長老なら覚えているかも・・」と云われて、平成19年10月にマツリコを勤めたH家に向かう。
現役の井戸があるH家では前庭に新聞紙を広げた箕にカンピョウを干していた。
後日の14日に伺った奥さんの話しによれば今年最後のカンピョウ干しだったそうだ。
布団干しのような藁を撒きつけた竿で干していたと云う。
カンピョウの皮剥きは小刀のような小さな道具。
おそらく山田で拝見した道具と同じ形であろう。
盆入りのこの日は仏壇を清掃されていた。
金属製の杯などを奇麗にされていた作業を一時中断された話しを伺う。
数年ぶりにお会いした長老は83歳。
倉橋は60戸の集落であるが、マツリコを勤める講中家は5軒。
子供のころには12軒もあったそうだ。
さて、本日の聞取りは「むさいな」の件だ。
話しを伺えば戦前辺りに途絶えたと話す。
当時は8月14日の新暦にしていた。
金福寺にある太鼓をオーコで担いでいった。
子供は小学生で、上は今の中学二年生にあたる高等科の子供まで。
大将らは太鼓担ぎ、横から太鼓打ちの3人構成だったようだ。
「むっさいな むっさいな」と囃しながら太鼓を打っていた。
蒸しあがって喜ぶ表現が「むっさいな」と云われる。
長老が小学6年生だった戦時中に「男の子の仕事やから」と云われて経験した記憶があると云う。
「町史」によれば村中巡って行者堂があったとされる出屋敷まで行ったと書いてあったが、経験ではそこまで行かなかったようだ。
稀に小さな子供も太鼓担ぎした思い出話。
そのころはまだ小さかった長老は太鼓が打たれたら担ぎ手が振られたと回想する。
倉橋のイノコは12月5日であった。
藁束を濡らして各家の門口で叩いていた経験もあるそうで、下(しも)との境界線に出かけてお互いの子供らは石の投げ合いをしていたと思い出された。
宮さんに行って棒で叩きあいをして喧嘩もしていたそうだが、「なんで喧嘩したのか判らない。それ以上は思い出せない」と話す。
その様相を私は拝見していないが、どことなく吉野町千股の「ささいわ」行事のような悪態つく感じに思えた。
石投げは民俗行事の印地撃ちとも呼ばれる石合戦は二手に分かれて行っていた子供が競い合う行事。
悪態言葉も発したようだが、県内事例では見当たらない。
その日帰宅してからH長老から電話があった。
現在はしていないが「むさいな」の記憶をもつ長老らが語る思い出話の場を設けるというのである。
(H26. 8. 7 SB932SH撮影)
ご主人は不在だったが奥さんに「むさいな」の件を伺った。
昭和32年に発刊された『桜井町史 続 民俗編』に「倉橋のむさいな」行事のことが書かれていた。
旧暦の7月14日に村の11、12歳の男の子や女の子が太鼓を打ちながら「むさいな」と囃して金福寺から出屋敷にある行者堂まで巡っていたという記事であった。
今でもその行事があるのか、ないのか・・・話しはとにかく聞いてみなければ思って訪れたのだ。
N家は平成18年に宮講のマツリコ(祭り講)を勤めた。
この日は七日盆で、ご主人はラントバサンと呼ぶ墓地の清掃に出かけていた。
奥さんが話してくれた墓地。
倉橋にはもう一つの墓があり、そこはカザリバカと呼んでいる。
カザリバカは仏さんを埋めていないからカラバカ。
お骨はないそうだ。
別にノバカと呼ぶ埋葬墓もあるようだ。
ラントバサンはかつて山の上にあったが、行くのも困難な地であるため下に降ろしたと云う。
倉橋は浄土宗もあれば平野大念仏宗派もあるそうだ。
宗派とは関係なく、13日はオショウライサン迎えをしている。
辻向こうの川に出かけてムギワラの松明に火を点けていたが38年前にやめたと云う。
今では線香に火を点けて家に戻る。
その行為を見た子供は「ケムリのタクシー」やと云ったそうだ。
奥さんは「むさいな」の件はご存じでなく「80歳以上の長老なら覚えているかも・・」と云われて、平成19年10月にマツリコを勤めたH家に向かう。
現役の井戸があるH家では前庭に新聞紙を広げた箕にカンピョウを干していた。
後日の14日に伺った奥さんの話しによれば今年最後のカンピョウ干しだったそうだ。
布団干しのような藁を撒きつけた竿で干していたと云う。
カンピョウの皮剥きは小刀のような小さな道具。
おそらく山田で拝見した道具と同じ形であろう。
盆入りのこの日は仏壇を清掃されていた。
金属製の杯などを奇麗にされていた作業を一時中断された話しを伺う。
数年ぶりにお会いした長老は83歳。
倉橋は60戸の集落であるが、マツリコを勤める講中家は5軒。
子供のころには12軒もあったそうだ。
さて、本日の聞取りは「むさいな」の件だ。
話しを伺えば戦前辺りに途絶えたと話す。
当時は8月14日の新暦にしていた。
金福寺にある太鼓をオーコで担いでいった。
子供は小学生で、上は今の中学二年生にあたる高等科の子供まで。
大将らは太鼓担ぎ、横から太鼓打ちの3人構成だったようだ。
「むっさいな むっさいな」と囃しながら太鼓を打っていた。
蒸しあがって喜ぶ表現が「むっさいな」と云われる。
長老が小学6年生だった戦時中に「男の子の仕事やから」と云われて経験した記憶があると云う。
「町史」によれば村中巡って行者堂があったとされる出屋敷まで行ったと書いてあったが、経験ではそこまで行かなかったようだ。
稀に小さな子供も太鼓担ぎした思い出話。
そのころはまだ小さかった長老は太鼓が打たれたら担ぎ手が振られたと回想する。
倉橋のイノコは12月5日であった。
藁束を濡らして各家の門口で叩いていた経験もあるそうで、下(しも)との境界線に出かけてお互いの子供らは石の投げ合いをしていたと思い出された。
宮さんに行って棒で叩きあいをして喧嘩もしていたそうだが、「なんで喧嘩したのか判らない。それ以上は思い出せない」と話す。
その様相を私は拝見していないが、どことなく吉野町千股の「ささいわ」行事のような悪態つく感じに思えた。
石投げは民俗行事の印地撃ちとも呼ばれる石合戦は二手に分かれて行っていた子供が競い合う行事。
悪態言葉も発したようだが、県内事例では見当たらない。
その日帰宅してからH長老から電話があった。
現在はしていないが「むさいな」の記憶をもつ長老らが語る思い出話の場を設けるというのである。
(H26. 8. 7 SB932SH撮影)