マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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雑穀町元藩医家の先祖迎え

2015年03月11日 07時33分53秒 | 大和郡山市へ
大晦日の三宝飾りや正月のサンニンサンを取材させていただいた大和郡山市雑穀町の元藩医家。

冬至の日にシンノウサンの掛軸を掲げる元藩医家は、昭和47年に柳澤文庫専門委員会が編集・発刊された『大和郡山市史』に掲載されている由緒ある城下町・旧家である。

当初、柳澤家に仕えた御殿医と聞いていたが、実際は柳澤城主が甲府から転封される前から住んでおられ、郡山藩の町医者だった。

享保九年(1724)のころの城下町には59人の町医者が開業していたそうだ。

内町・外町合せて内科が30人、外科が7人、針医者は17人、目医者は4人、歯医者は1人だった。

貞享(じょうきょう)三年(1686)・『雑穀町間数帳』に、“楠本玄東 本道医師”が見られ、つまり内科のお医者さんとして開業していたようである。

寛政十年(1798)の町割図のほか、柳澤家が入封した享保九年(1724)の『町鑑』にも、楠本玄東の名が記されている。

御目見町医師として藩医を勤めた旧家は、明治時代前半に医師を廃業されて現在に至る。

そもそもの元藩医家は、聖武天皇を補佐した政治家の橘の諸兄(たちばなのもろえ)(684~757)の後裔(こうえい)となる南朝の武将の楠木正成(~1336)の末裔になる楠本静斎のようだ。

足利時代の永正年間(1504~21)のころから医業をしていた旧家は近年に於いて建て替えられた。

当時の面影は見られないが、いまなお、神農さんの掛軸を掲げてお供えをされているのである。

神農さんを祭る神社行事は、薬に関係する大阪道修町の少名彦神社や奈良県高取町の土佐恵比寿神社の神農さん(明治40年より)があるが、いずれも11月22日だ。

新暦、旧暦の違いであるかも知れないが、雑穀町の旧家では12月22日の冬至の日にされている。

この日は同家のお盆。

お供えは、お頭つきの魚、ナンキン・ダイコン・ニンジンに洗い米を二杯。

毎年このように供えていると云う。

お供えはされているが、手を合わすことも、祝詞を奏上することはない。

「単に供えるだけだ」と云うのだ。

檀家寺の龍厳寺住職が来られる前にお供えやオショウライサン迎えをしておく。

お供えはソーメンに葡萄。

決まっているお供えにはお菓子もある。

ハスの葉に包みこんだお供えはナスビ、シマウリ、ナシ、モモ、渋の青いカキ。

これらは決まっている同家のお供えである。

ハスの葉で包みこんでいるのでまるでキャベツのように見える。

お茶は仏さん前に三つ。

他にお盆に置いた九つの椀がある。

合計で12杯だ。



お供えはもう一品。

ムカエダンゴと呼ぶ白い玉団子だ。

それには米粉を振りかけていた。



奥の方に錫の容器がある。

一枚のシキビの葉っぱを添えた水容器だ。

お店で買ってきたシキビの葉を一枚ずつ千切って「水つき」をする。

葉の枚数分を分けて一枚ずつ。

二日半に切り分けて行う「水つき」である。

「水つき」の容器の水は毎回捨てて新しく水を入れ替える。

入れ替えてからシキビの葉で浸した水をぱっぱと仏さんにかけるのだ。

買ったシキビが60枚の葉であれば、二日半に分けるとしても60回の水つき。

その都度、お茶も入れ替えるで、立ったり、座ったりで落ち着く暇もないぐらい。

おばあさんの負担も軽減しなければと考えて、最近は20枚ぐらいの葉がついたシキビを買うようにしたと云う。

「そろそろ始めよか」と云った息子さんは前庭に下りた。



その場でオガラを燃やす息子さん。

ライターライではなくマッチ棒を擦って火を点けた。

オガラが燃え上がれば2本のローソクに火を移す。



風にあたって消えないように手で保護した。



火が点いたローソクを受け取ったおばあさんは仏壇に立てる。

前に座って手を合わすおばあさんだ。



「なむあみだぶつ」を小さく唱えて、「今日はお帰りなさい」と声をかけた。

先祖さんを迎えたこの日。

取材のためにということで早めてもらった晩のお供え。



先祖さんのおかずはサトイモ、カボチャ、ひも結びのカンピョウ。

三品のお供えは12皿もある。

先祖さんの十二仏に供えるのであろうか。

尋ねてみたが「判らない」と云う三品のお供え。

味付けは鰹ではなく昆布と決まっている。

「仏さんは動物性を嫌うので精進料理になります」と云うお供え。

「しょうゆやのかどをヒコーキでとおるくらいに薄味にしますんや」とおばあさんは云う。

面白いたとえであるが、なぜに飛行機なのか、意味は判らない。

飛行機が通るぐらいの早さの味付けが薄味ということであるのか・・・さっぱり判らない。

オガラは適当な長さに折った12本の箸。

一膳の箸とすれば6人分の箸の本数。これもまた判らない本数である。

白ご飯は中段に3杯。

下段に9杯。合計で12杯だ。

数は決まっていると云う。



住職の法要が終わったことを踏まえてハスの葉に包んでいた中身を拝見させてもらう。

20年ほど前までは小さなハスだった。

包むこともなく、葉を広げて載せていたと云う。

ハスは花屋で注文したものだ。

今では包むようになったことから大きな葉のハスを注文している。

毎年、そうしているが手に入りにくくなったようだ。

同家付近の何軒かはハス池をもっているそうだ。

その家に頼んで貰う場合もあると話す。

その家が所有するハス池はそれほど広くない。

家族が食べる分量ぐらいしか作らないので小さめの池のようだ。

ハスの葉を手に入れることも難しくなり、ドロイモの葉に替えている家が増えつつあると云う。



ハスの葉に包みこんだお供えはナスビ、シマウリ、ナシ、モモ、渋の青いカキだった。

これも決まっていると云う。

翌朝14日のお供えはオハギになる。

住職が来られる昼前に供えていると云う。

陰膳の呼び名があるオハギは大が5個。

ガラス容器に盛る。

仏さんのオハギは小皿に小オハギを9皿。

おかずのウリ・ナスの朝漬け小皿は12皿。

オガラの箸も添える。

同家の神さんとされるサンニンサンにもオハギ、漬物、それぞれ三皿供える。

昼は白ご飯と奈良漬。

夜は白ご飯とゼンマイ・ウスアゲの煮物を供える。

15日の朝はセキハンとも呼ぶアカゴハンにウリ・ナスの朝漬けになる。

昼は白ご飯と奈良漬。

午後3時ごろには醤油・砂糖で煮たウスアゲ・ソーメンになる。

夕方は20個のオクリダンゴ供える。

晩は白ご飯にズイキの「たいたん」だ。

ズイキが手に入らない場合は「ひふ奈」若しくはナスビの胡麻和えにする。

聞き慣れない「ひふ奈」は「ヒユ」である。

どうやら「ヒユナ」が訛って「ひふ奈」と呼んでいたようだ。

「ヒユナ」の別称はジャワホウレンソウとかアマランサスの名がある。

ご主人曰く、「ヒユ」は東南アジアからの輸入もの。

最近は日本でも栽培されているようだと話すが、調べてみれば中国南方の雲南省が原産地だった。

こうして先祖さんを迎えたお盆の三が日。

15日晩には仏壇に灯したローソクの火をもって迎えと同じ前庭でオガラを燃やして「また、来年も帰ってくださいと送りますねん」と話していた。

3日間のおばあさんのお勤めは鉦を打ちながら西国三十三番のご詠歌を唱える。

「番外もあげるのでたいへんですわ」と話していた。

寛文(1661)、宝永(1704)、享保(1716)、元文(1736)、延享(1744)、寛延(1748)、宝暦(1751)、明和(1764)、寛政(1789)、文化(1804)、文政(1818)、天保(1830)などを記した楠本家歴代の位牌や経木を並べられた元藩医家。

貞享(じょうきょう)三年(1686)、『雑穀町間数帳』には楠本医として開業していた元藩医家。

位牌の年代はそれより古い寛文(1661)であった。

位牌も歴史を知る貴重な物品なのである。

お盆の仏壇に供える仏さんの「食」の在り方は各家まちまちであろう。

位牌や経木を並べられた元藩医家の先祖迎えの在り方を拝見させていただき感謝申し上げる次第だ。

(H26. 8.13 EOS40D撮影)