大和郡山市小南町に鎮座する小南神社は古くから雨乞いの神として崇められ、元治元年(1864)、大正2年の干ばつにききめがあったと伝えられている。
かつて小南神社の年中行事を祭祀する宮座があった。
座は二つ。八幡座と天王座で、それぞれの座の本殿は北側に八幡宮、南側は天王宮社を祀る両宮である。
八幡大菩薩と称される源氏の氏神で知られる誉田別命、牛頭天王こと素盞鳴命を祀る神社は平成14年に本殿を塗り替えた。
本殿前に建之された2基の燈籠は正徳元年(1712)の刻印がみられる。
古座(こざ)である北座の八幡座と新座とする南座は天王座であった。
座の人たちは特に集落の北側とか南側とかで分けることなく、両座とも一老、二老、三老の三人。
亡くなる、或いは引退されるまで勤める終身制の座は、拝殿の北と南に分かれて座っていたという。
時代は不明だが、神社の北側に新池を造った際に天王社を移設して両座にしたという。
奈良県図書情報館が所有する奈良県庁文書『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば、小南に「左八幡座、右天皇 一老、二老」とあるようだ。
氏子が云う宮座とは若干の違いがみられる。
ここら辺りは富雄川が氾濫することが度々あった。
その影響で神社が高地などに遷った処が多いという。
隣町の田中町、池之内町、満願寺町がそうだった。
富雄川より流れる川は井堰によって新木町、杉町、丹後庄町から筒井へ抜けたそうだ。
それは今でも流れているという。
小南町は平城京を造宮する際に飛鳥から来た人たちが住み着いた町。
元の地の小山田と南浦から来たことから合わせてその名を小南と名付けた小村である。
東隣の豊浦町も同じように人が移ってきたと話す。
平成元年に座を休止され、今では自治会運営となったが、宮座を踏襲する宮守の六人衆が任を勤める。
現在の六人衆は年齢順で構成されている。
六人衆の任期は6年間。
一老が引退するにつれ二老が一老に、三老は二老へと繰り上がる。
そして新しく六人衆が加わる。
一年ごとに繰り上がる6年間をお勤めするということだ。
6年間は神社の祭祀を守り勤めるが、任期中に服忌ともなれば一年間は勤めない。
年忌が過ぎれば復帰する。
その間は次の年齢の人が入って代行を勤める。
そのようなことで服忌の場合は5年。繰上げれば7年間となるのである。
祭典の準備、祭祀執行・直会の世話方もするし、後片付けもしている六人衆だ。
神饌御供や御湯の斎場を設えて氏子たちを待つ。
六人衆、自治会長や氏子らは拝殿に座って始まった。
この日の行事名は住吉祭りであるという宮司に対して、氏子たちは十日盆と呼んでいた。
隣村の田中町に鎮座する甲斐神社がある。
ここでは8月7日に行われる行事に祖霊祭がある。
今では直近日曜になったが、かつては7日。
これをもって七日盆の祖霊祭と呼んでいる。
さらに西に向かえば満願寺町に鎮座する古田神社がある。
ここでも7日に行われている住吉祭があり、氏子たちはお盆まつりと呼んでいる。
7日にお盆といえば七日盆である。
古田神社の祭神は誉田別命・素盞男命だ。
先に挙げた奈良県庁文書『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』に記載して満願寺町の宮座は「左座・右座 一老~四老」である。
ちなみに田中町では「座」のみで老中の詳細は書かれていないが、現在は一老から五老までの宮守五人衆が勤めている。
祭事日の日から七日盆或いは十日盆と呼んでいる地域は大和郡山だけでなく、田原本町佐味にもある。
7日に行われていた天神社の行事にヤマモリがある。
7日にされていたことから七日盆のヤマモリと呼んでいる。
それはともかく小南神社、古田神社ともに大阪住吉にある住吉大社の大神は祀られていないが、住吉祭りと呼んでいるのである。
住吉大社の神さんは三柱。底筒男命・中筒男命・表筒男命であるが、摂社に若宮八幡宮がある。
住吉大社の第四本宮で誉田別命を祭神とする。
誉田別命を祀る小南神社、古田神社の共通点はここにある。
両神社で行われる住吉祭りは住吉大社の若宮八幡宮であったと推定されるのである。
大和郡山市池之内町に鎮座する八幡神社の末社に住吉神社がある。
祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神に誉田別命を祀る。
池之内町の住吉祭りは7月30日。
大阪住吉大社の夏祭り(宵宮)と同じ日である。
長々と記した大和郡山市の住吉祭りの関係性はともかく小南神社の住吉祭りが始まった。
宮司による祓えの儀、祝詞奏上。
六人衆や氏子たちは拝殿で正座をして神事を見守る。
厳かな神事だけにいつもそうされている。
玉串奉奠は代表の六人衆ならびに氏子である。
奉奠には揃って拝礼し手を合わせる。
玉串奉奠を終えて御湯神事が始まった。
斎場は本殿と拝殿の間の神座である。
藁蓆を敷いた場に座って神事をされる巫女は三郷町の坂本さんだ。
初めにキリヌサを湯釜に撒く。
小幣を左右に振ってポン、ポンと柏手を打つ。
一礼されて、・・・今日のはらえたまえ、きよめたまえと申す・・・と祝詞を奏上される。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/74/77634a083b4fc4d49786f251ec822a3a.jpg)
「まきちらす・・・」と申しながらキリヌサを撒きお神酒を湯釜に注ぐ。
寄進の刻銘は見られないがそうとう古い湯釜のように思えた。
大御幣を手にして左右に振る。
その御幣を湯釜に浸けてゆっくりとかき混ぜる。
「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。
「・・・東では三十三国、西でも三十三国、併せて六十六国」などを述べて湯を掻き混ぜる。
「みちのふどうのまつの大明神 この御湯にのり遷し のりかわし」勧請を申す。
勧請した幣を左手に、右手は鈴を手にしてシャンシャンと鳴らしながら左、右、左にそれぞれ一回転する神楽を舞う。
2本の笹の葉を執って「この手に笹をもちまねき・・・天より降りたもう」と告げる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/70/24fea389e8578c5dbd9cdd359a5da569.jpg)
湯に浸けて上下に動かす笹の葉。
もうもうと立ちあがる湯のけむり。
「祓えたまえ きよめたまえ」と掻き混ぜた笹を拝みながら「東では天照皇大明神、南は多武峰大権現、西では住吉大明神、北では春日若宮大明神」。それぞれ「お受け取りください」と四柱の神々の名を告げて捧げまつる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/39/b8388c59259df693ae45661f782ad13b.jpg)
再び笹束を湯に浸けて上下に動かす。
一礼されて四神それぞれに向かって「元のおやしきに送りそうろう おさめそうろう おんなおれ」と告げる。
そして笹束、大御幣を左手に、右手は鈴をもってシャンシャンと神楽を舞う。
先ほどと同じように左、右、左に一回転する。
履物を履いて本殿に登ってシャンシャンシャン。
同じように神楽を舞う。
そのときには宮司も本殿横に移動する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/52/186048b89924aad8416aec90c8bb6fd6.jpg)
これより作法されるのはお祓いだ。
「家内安全、水難盗難、交通安全、身体健勝、どうか守りたまえ、祓えたまえ、清めたまえ」と鈴を振って祓う。
宮司の次は拝殿に座っていた六人衆、氏子一人ずつ祓ってくださる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/40/68c5faf470a7baae0faa396fa5e6d86c.jpg)
この日の一般参拝は親子連れなど7人。
御湯の神事など、始めて見たのであろうか子どもたちは神妙な眼差しで固唾をのんで参拝していた。
巫女の湯祓いの間に幣を持つ宮司も祓ってくださる。
拝殿におられた全員の祓えが終われば一般参拝者にも「祓えたまえ 清めたまえ」と御湯神事に所作された幣と鈴で祓ってもらう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/82/6a0c149bab0490c78fb74648f6212789.jpg)
小さな子供にも祓ってくださる。
両親にされるときには、その様子を伺って下から見上げていた。
いつもより多いと云う一般参拝もありがたく受けたのであった。
拝見する坂本さんの祓えはどこでもあってもお一人ずつされる。
ありがたいことに私までしてくださった。
こうして十日盆の住吉祭りの神事を終えた六人衆、氏子らは拝殿で直会。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/4e/7c08aa4df4e269253dcd2483517bb1dd.jpg)
氏神さんに供えた神饌御供を下げる六人衆。
ひとつずつ丁寧に撤饌される。
座の配膳は御供下がりの2個のモチ、均等割りしたスルメとコンブに夏の果物の葡萄やバナナだ。
座が調えば上座に宮司と巫女が座る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/11/1b676134c2657801876ca3264458a76f.jpg)
席にはお猪口。六老がお酒を次ぎ回る。
一老の挨拶を経て乾杯した直会。
しばらくは歓談の場に移る。
およそ一時間余りで終える直会であるが、お神酒一本を飲み干すことには終わらないそうだ。
(H26. 8.10 EOS40D撮影)
かつて小南神社の年中行事を祭祀する宮座があった。
座は二つ。八幡座と天王座で、それぞれの座の本殿は北側に八幡宮、南側は天王宮社を祀る両宮である。
八幡大菩薩と称される源氏の氏神で知られる誉田別命、牛頭天王こと素盞鳴命を祀る神社は平成14年に本殿を塗り替えた。
本殿前に建之された2基の燈籠は正徳元年(1712)の刻印がみられる。
古座(こざ)である北座の八幡座と新座とする南座は天王座であった。
座の人たちは特に集落の北側とか南側とかで分けることなく、両座とも一老、二老、三老の三人。
亡くなる、或いは引退されるまで勤める終身制の座は、拝殿の北と南に分かれて座っていたという。
時代は不明だが、神社の北側に新池を造った際に天王社を移設して両座にしたという。
奈良県図書情報館が所有する奈良県庁文書『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』によれば、小南に「左八幡座、右天皇 一老、二老」とあるようだ。
氏子が云う宮座とは若干の違いがみられる。
ここら辺りは富雄川が氾濫することが度々あった。
その影響で神社が高地などに遷った処が多いという。
隣町の田中町、池之内町、満願寺町がそうだった。
富雄川より流れる川は井堰によって新木町、杉町、丹後庄町から筒井へ抜けたそうだ。
それは今でも流れているという。
小南町は平城京を造宮する際に飛鳥から来た人たちが住み着いた町。
元の地の小山田と南浦から来たことから合わせてその名を小南と名付けた小村である。
東隣の豊浦町も同じように人が移ってきたと話す。
平成元年に座を休止され、今では自治会運営となったが、宮座を踏襲する宮守の六人衆が任を勤める。
現在の六人衆は年齢順で構成されている。
六人衆の任期は6年間。
一老が引退するにつれ二老が一老に、三老は二老へと繰り上がる。
そして新しく六人衆が加わる。
一年ごとに繰り上がる6年間をお勤めするということだ。
6年間は神社の祭祀を守り勤めるが、任期中に服忌ともなれば一年間は勤めない。
年忌が過ぎれば復帰する。
その間は次の年齢の人が入って代行を勤める。
そのようなことで服忌の場合は5年。繰上げれば7年間となるのである。
祭典の準備、祭祀執行・直会の世話方もするし、後片付けもしている六人衆だ。
神饌御供や御湯の斎場を設えて氏子たちを待つ。
六人衆、自治会長や氏子らは拝殿に座って始まった。
この日の行事名は住吉祭りであるという宮司に対して、氏子たちは十日盆と呼んでいた。
隣村の田中町に鎮座する甲斐神社がある。
ここでは8月7日に行われる行事に祖霊祭がある。
今では直近日曜になったが、かつては7日。
これをもって七日盆の祖霊祭と呼んでいる。
さらに西に向かえば満願寺町に鎮座する古田神社がある。
ここでも7日に行われている住吉祭があり、氏子たちはお盆まつりと呼んでいる。
7日にお盆といえば七日盆である。
古田神社の祭神は誉田別命・素盞男命だ。
先に挙げた奈良県庁文書『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』に記載して満願寺町の宮座は「左座・右座 一老~四老」である。
ちなみに田中町では「座」のみで老中の詳細は書かれていないが、現在は一老から五老までの宮守五人衆が勤めている。
祭事日の日から七日盆或いは十日盆と呼んでいる地域は大和郡山だけでなく、田原本町佐味にもある。
7日に行われていた天神社の行事にヤマモリがある。
7日にされていたことから七日盆のヤマモリと呼んでいる。
それはともかく小南神社、古田神社ともに大阪住吉にある住吉大社の大神は祀られていないが、住吉祭りと呼んでいるのである。
住吉大社の神さんは三柱。底筒男命・中筒男命・表筒男命であるが、摂社に若宮八幡宮がある。
住吉大社の第四本宮で誉田別命を祭神とする。
誉田別命を祀る小南神社、古田神社の共通点はここにある。
両神社で行われる住吉祭りは住吉大社の若宮八幡宮であったと推定されるのである。
大和郡山市池之内町に鎮座する八幡神社の末社に住吉神社がある。
祭神は底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神に誉田別命を祀る。
池之内町の住吉祭りは7月30日。
大阪住吉大社の夏祭り(宵宮)と同じ日である。
長々と記した大和郡山市の住吉祭りの関係性はともかく小南神社の住吉祭りが始まった。
宮司による祓えの儀、祝詞奏上。
六人衆や氏子たちは拝殿で正座をして神事を見守る。
厳かな神事だけにいつもそうされている。
玉串奉奠は代表の六人衆ならびに氏子である。
奉奠には揃って拝礼し手を合わせる。
玉串奉奠を終えて御湯神事が始まった。
斎場は本殿と拝殿の間の神座である。
藁蓆を敷いた場に座って神事をされる巫女は三郷町の坂本さんだ。
初めにキリヌサを湯釜に撒く。
小幣を左右に振ってポン、ポンと柏手を打つ。
一礼されて、・・・今日のはらえたまえ、きよめたまえと申す・・・と祝詞を奏上される。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/74/77634a083b4fc4d49786f251ec822a3a.jpg)
「まきちらす・・・」と申しながらキリヌサを撒きお神酒を湯釜に注ぐ。
寄進の刻銘は見られないがそうとう古い湯釜のように思えた。
大御幣を手にして左右に振る。
その御幣を湯釜に浸けてゆっくりとかき混ぜる。
「この釜はひとかまなれどなるかまとおぼしめし・・・きこしめしかしこみかしこみ申す」。
「・・・東では三十三国、西でも三十三国、併せて六十六国」などを述べて湯を掻き混ぜる。
「みちのふどうのまつの大明神 この御湯にのり遷し のりかわし」勧請を申す。
勧請した幣を左手に、右手は鈴を手にしてシャンシャンと鳴らしながら左、右、左にそれぞれ一回転する神楽を舞う。
2本の笹の葉を執って「この手に笹をもちまねき・・・天より降りたもう」と告げる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/70/24fea389e8578c5dbd9cdd359a5da569.jpg)
湯に浸けて上下に動かす笹の葉。
もうもうと立ちあがる湯のけむり。
「祓えたまえ きよめたまえ」と掻き混ぜた笹を拝みながら「東では天照皇大明神、南は多武峰大権現、西では住吉大明神、北では春日若宮大明神」。それぞれ「お受け取りください」と四柱の神々の名を告げて捧げまつる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/39/b8388c59259df693ae45661f782ad13b.jpg)
再び笹束を湯に浸けて上下に動かす。
一礼されて四神それぞれに向かって「元のおやしきに送りそうろう おさめそうろう おんなおれ」と告げる。
そして笹束、大御幣を左手に、右手は鈴をもってシャンシャンと神楽を舞う。
先ほどと同じように左、右、左に一回転する。
履物を履いて本殿に登ってシャンシャンシャン。
同じように神楽を舞う。
そのときには宮司も本殿横に移動する。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/52/186048b89924aad8416aec90c8bb6fd6.jpg)
これより作法されるのはお祓いだ。
「家内安全、水難盗難、交通安全、身体健勝、どうか守りたまえ、祓えたまえ、清めたまえ」と鈴を振って祓う。
宮司の次は拝殿に座っていた六人衆、氏子一人ずつ祓ってくださる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/40/68c5faf470a7baae0faa396fa5e6d86c.jpg)
この日の一般参拝は親子連れなど7人。
御湯の神事など、始めて見たのであろうか子どもたちは神妙な眼差しで固唾をのんで参拝していた。
巫女の湯祓いの間に幣を持つ宮司も祓ってくださる。
拝殿におられた全員の祓えが終われば一般参拝者にも「祓えたまえ 清めたまえ」と御湯神事に所作された幣と鈴で祓ってもらう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/82/6a0c149bab0490c78fb74648f6212789.jpg)
小さな子供にも祓ってくださる。
両親にされるときには、その様子を伺って下から見上げていた。
いつもより多いと云う一般参拝もありがたく受けたのであった。
拝見する坂本さんの祓えはどこでもあってもお一人ずつされる。
ありがたいことに私までしてくださった。
こうして十日盆の住吉祭りの神事を終えた六人衆、氏子らは拝殿で直会。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/4e/7c08aa4df4e269253dcd2483517bb1dd.jpg)
氏神さんに供えた神饌御供を下げる六人衆。
ひとつずつ丁寧に撤饌される。
座の配膳は御供下がりの2個のモチ、均等割りしたスルメとコンブに夏の果物の葡萄やバナナだ。
座が調えば上座に宮司と巫女が座る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/11/1b676134c2657801876ca3264458a76f.jpg)
席にはお猪口。六老がお酒を次ぎ回る。
一老の挨拶を経て乾杯した直会。
しばらくは歓談の場に移る。
およそ一時間余りで終える直会であるが、お神酒一本を飲み干すことには終わらないそうだ。
(H26. 8.10 EOS40D撮影)