朝7時ころから降り出した雨はやがてみぞれになっていた。
昨今の天気予報はよく当たる。
今はもう当たるという表現は避けた方が良いのかもしれない。
県内の山間地に至っては、みぞれでなく本雪になっていた。
天理東から入った西名阪国道は雨に濡れた道路だった。
しばらく走れば五ケ谷ICに着く。
それまでなんともなかった車内の温度がぐっと下がって、足元や膝などが冷んやりする。
ここまで来るルートは大和郡山市内の稗田町を東進。
井戸野町を抜けて天理市楢町辺り。
さらに東進して中之庄町から農道を利用する。
平坦部であるが、畑地の多い地域が真っ白になっていた。
畑の作物も白い帽子を被っていた。
降雪量は多くないから、やがてみぞれに戻れば解けてしまうだろう。
さて、降りたところが五ケ谷IC。
忘れもしない日がある。
山添村の民俗取材に向かっていたときだ。
平坦では雨だったが、この日と同じように天理東から西名阪国道に入ってと同時に雪が降ってきた。
みるみるうちに道路が真っ白。
降雪量はとんでもない早さで天から降りてくる。
スタッドレスタイヤであったが、こりゃ本降りどころか、とてつもない量が一気に。
真っ白になった道路を先行するトラックなどの轍を踏んでとろとろ走行。
やがて到着した五ケ谷ICは出入り口が閉鎖。
泣く泣く走り続けて針テラスで助けられた平成25年の1月14日。
今回はまずそこまでの降雪量にはならないと思った。
目的地は奈良市米谷町の白山比咩神社。
村の入口でもある神社参道前。
数台の車が停まっていた。
うち一台は車の屋根が真っ白に覆われていた。
車の所有者は寿福寺上ノ坊住職だった。
本堂はもっと奥になる高地。
福住に近い地は標高410m。
結構な量の雪が降っていたという。
参道は積もっていないが、山間に生える樹木は真っ白になっていた。
手水舎があるところだけは樹木の空白地帯なのか、そこだけが真っ白になっていた。
朱の鳥居を潜って登っていけば、そこは一面が真っ白。
粉雪というか、パウダー状になった積雪を踏みしめたらキュッキュと音がでる。
この日は2月1日の「小正月」行事である。
2月1日は「一夜正月」、若しくは「重ね正月」とも呼ばれるらしい。
最初の朔日(ついたち)を2度目の正月として、数え年で厄年にあたる人に一つ歳をとらせて、早く厄年をやり過ごそうとした考え方のようだ。
2度目の正月を二ノ正月と呼ぶ地域は割合に多い。
これも2度目の正月のことで2月朔日になる。
ただ、米谷町の「小正月」名称が気になる。
小正月は1月15日である。
ひと月遅れに小正月行事をする地域がある。
つまりとんどである。
とんどは小正月行事であるから1月15日。
とんどの火付けを前夜の1月14日にする地域も少なくはない。
このとんどを2月15日に行う地域がある。
あまり知られていないが、ごく一部の地域でされているとんどである。
この日に集まる米谷の十一人衆に上ノ坊寿福寺住職。
宮総代を務めていたOさんの他、2名が繰り上げした座中入り。
暖房のある籠り所に集まっていた。
米谷の参拝はめいめいが順次済ませて暖をとっていた。
菜花にニンジン、コイモ、バナナにパンの御供は予め村神主が供えていた。
映像では見えないが、洗米に丸めた小豆も供えたという社殿は、村の人が云うにはチンジサン。
鎮守社が訛ったチンジサンであるが、史料の『五ケ谷村史』から推定した大山祇神を祀る山王神社である。
お供えはチンジサンだけでなく、本社殿にも並べている。
社殿の壇に置いた白いものは寿福寺上ノ坊が用意した“米谷宮”の文字があるごーさん札である。
村の戸数分の枚数を束ねて置いている。
右に立てかけているのは村神主が用意した2m以上の長さがある7本のウルシ木だ。
ごーさん札にウルシ木が揃えばオコナイ。
そもそものオコナイはムネの薬師さんで行われる仏行事であるが、本日の小正月行事は白山比咩神社で行われる神社行事。
ごーさん札は2種類ある。
仏行事のごーさん札の中央に配置した文字は「壽福寺」。
本日は神社行事だけに「米谷宮」の文字である。
2枚を揃えて苗代に立てる豊作の願い。
平成29年の4月21日に拝見したO家の水口まつりに「米谷宮」のごーさん札を拝見していた。
ところで、ごーさん札の“米”の文字である。
知人のFさんは、この文字を見て素直に判読した「八」に「木」である。
まさにその通りに読めるが、「米谷」町を知っている人なら、これもまた素直に「米」谷と読むであろう。
もう一人の知人にMさんがいる。
なにかといろんなことを深い知識と情報をもつMさんの見立ては“はち”に“ぼく”。
つまりは“八”に“木”である。
いつの時代にどなたがいい出したのかわからないが、“米”の文字を分解した“八木(はちぼく)”である。
つまり、米谷で作る米が豊作になってほしい、という思いが、“米”の文字を分解し、“八木”文字を生み出したのでは・・ということだ。
ネット調べによれば、「・・享保の改革に・・米価の統制に力をいれた徳川八代将軍の徳川吉宗・・・米の文字を分解して“八”、“木”・・・・・人々は、はちぼく“八木”将軍と暗喩した・・・」とある。なるほどである。
一老のKさんから座に上がれ、とご下命が下った。
宮総代から、そう伝えられて座中一同に挨拶させていただき下座につく。
一老が話す先人、つまり先輩が話していたこと。
「意味はこうじゃ・・・」と、言って語ってくれた。
米谷の行事の数々を拝見してきた2年間。
前述した神仏習合のオコナイ行事。
苗代に豊作を願う村の初祈祷などとの関係性を話したら、2月8日に神主渡し、2月22日はデンガクにも来てほしい、と言われた。
大安のえー日に、豆の交換をする節分のトシコシもあるという米谷の年中行事。
昔は「百座」があったという。
『五ケ谷村史』に書いてある「百座」を補正、要約する。
「2月9日の百座。村神主の交替披露の日。むかしは村神主の家に招かれる十一人衆。夜には神社でオッサン(上ノ坊寿福寺住職)によって仁王経を読経された後、親類らも集まって賑やかに飲食した。今は昼間。神社に集まり、終わるようにしている。住職と新の村神主が拝殿に座り、後は籠り所に座ることになっている。旧の村神主が準備をして、佐多人がこれを助ける。十一人衆の他、氏子総代のうち、一人が陪席する。“肥後和夫氏の宮座資料”によれば、この日の村神主は十一人衆、佐多人とともに、神社へ参り、神前に“トリの盃”、と云って、一尺二寸、三寸ほどの盃を旧の村神主、一老、二老の順に飲み廻し、最後に旧の村神主に戻り、さらに新の村神主が飲む作法があった、と記している」とある。
村史はさらに「百座の名称は、地元では坊さんが百人も読経したために、或いは夜通しに籠りをしたので、火を焚くのに、柴が百駄も要ったからなどと云われているが、仁王経に見られる“仁王般若経護国品”の故事に基づく百座仁王講に由来する名称かと思われる。」
また、続けて「『定式』(※宝暦六年、安政六年に書写された宮本定式之事)には正月九日の行事とあり、社僧、平僧によって仁王経を読経されたことが記されており、そのときの献立も詳しく記されており、参考になる」と締めている。
現在おられる十一人衆には記憶のない百座のこと。
村史に記述された報告内容で読みとるしかない。
さて、この日の座中。
今年のマツリをどうするか、である。
トウヤ(唐屋)も一巡した。
次のトウヤ(唐屋)を決めるフリアゲや費用負担などさまざまな案件がある。
最終的には2月の町集会で決めなければならない。
座の〆に行われる“ゼニ カネ コメ”の作法である。
佐多人が手にした牛玉寶印。
古くから伝わる朱印にベンガラを混ぜたと思われる朱肉ももつ。
上座から順にされる“ゼニ カネ コメ”の作法。
両手を差し出した手のひらに“ゼニ”、“カネ”、“コメ”と声をあげて3回。
判を捺すような恰好でする牛玉寶印の作法。
“ゼニ カネ コメ”は大判小判のうちの小判。
つまり食べもんと同じ、金の”銭“。
手で受けて“銭”、“金”、“米”を授かる。
にこやかに盛り上がった座中の一人、一人が“銭”、“金”、“米”を授かる。
いわば各戸に福を授かり、村が反映するという願いにほかならない、と思うのである。
「あんたもしてもらいや」、と云われて左手で受けて捺印。
まるで認めてもらったような錯覚に陥る。
なお、寿福寺上ノ坊住職神名帳詠み、般若心経の祈祷もあるようなことを聞いていたが、この年は見られなかった。
一老のKさんが唐突に云った台詞。
「神社庁に行って神職になれ」のお言葉。
ありがたく賜るが、申しわけないが、その力はないと思う。
(H30. 2. 1 EOS40D撮影)
昨今の天気予報はよく当たる。
今はもう当たるという表現は避けた方が良いのかもしれない。
県内の山間地に至っては、みぞれでなく本雪になっていた。
天理東から入った西名阪国道は雨に濡れた道路だった。
しばらく走れば五ケ谷ICに着く。
それまでなんともなかった車内の温度がぐっと下がって、足元や膝などが冷んやりする。
ここまで来るルートは大和郡山市内の稗田町を東進。
井戸野町を抜けて天理市楢町辺り。
さらに東進して中之庄町から農道を利用する。
平坦部であるが、畑地の多い地域が真っ白になっていた。
畑の作物も白い帽子を被っていた。
降雪量は多くないから、やがてみぞれに戻れば解けてしまうだろう。
さて、降りたところが五ケ谷IC。
忘れもしない日がある。
山添村の民俗取材に向かっていたときだ。
平坦では雨だったが、この日と同じように天理東から西名阪国道に入ってと同時に雪が降ってきた。
みるみるうちに道路が真っ白。
降雪量はとんでもない早さで天から降りてくる。
スタッドレスタイヤであったが、こりゃ本降りどころか、とてつもない量が一気に。
真っ白になった道路を先行するトラックなどの轍を踏んでとろとろ走行。
やがて到着した五ケ谷ICは出入り口が閉鎖。
泣く泣く走り続けて針テラスで助けられた平成25年の1月14日。
今回はまずそこまでの降雪量にはならないと思った。
目的地は奈良市米谷町の白山比咩神社。
村の入口でもある神社参道前。
数台の車が停まっていた。
うち一台は車の屋根が真っ白に覆われていた。
車の所有者は寿福寺上ノ坊住職だった。
本堂はもっと奥になる高地。
福住に近い地は標高410m。
結構な量の雪が降っていたという。
参道は積もっていないが、山間に生える樹木は真っ白になっていた。
手水舎があるところだけは樹木の空白地帯なのか、そこだけが真っ白になっていた。
朱の鳥居を潜って登っていけば、そこは一面が真っ白。
粉雪というか、パウダー状になった積雪を踏みしめたらキュッキュと音がでる。
この日は2月1日の「小正月」行事である。
2月1日は「一夜正月」、若しくは「重ね正月」とも呼ばれるらしい。
最初の朔日(ついたち)を2度目の正月として、数え年で厄年にあたる人に一つ歳をとらせて、早く厄年をやり過ごそうとした考え方のようだ。
2度目の正月を二ノ正月と呼ぶ地域は割合に多い。
これも2度目の正月のことで2月朔日になる。
ただ、米谷町の「小正月」名称が気になる。
小正月は1月15日である。
ひと月遅れに小正月行事をする地域がある。
つまりとんどである。
とんどは小正月行事であるから1月15日。
とんどの火付けを前夜の1月14日にする地域も少なくはない。
このとんどを2月15日に行う地域がある。
あまり知られていないが、ごく一部の地域でされているとんどである。
この日に集まる米谷の十一人衆に上ノ坊寿福寺住職。
宮総代を務めていたOさんの他、2名が繰り上げした座中入り。
暖房のある籠り所に集まっていた。
米谷の参拝はめいめいが順次済ませて暖をとっていた。
菜花にニンジン、コイモ、バナナにパンの御供は予め村神主が供えていた。
映像では見えないが、洗米に丸めた小豆も供えたという社殿は、村の人が云うにはチンジサン。
鎮守社が訛ったチンジサンであるが、史料の『五ケ谷村史』から推定した大山祇神を祀る山王神社である。
お供えはチンジサンだけでなく、本社殿にも並べている。
社殿の壇に置いた白いものは寿福寺上ノ坊が用意した“米谷宮”の文字があるごーさん札である。
村の戸数分の枚数を束ねて置いている。
右に立てかけているのは村神主が用意した2m以上の長さがある7本のウルシ木だ。
ごーさん札にウルシ木が揃えばオコナイ。
そもそものオコナイはムネの薬師さんで行われる仏行事であるが、本日の小正月行事は白山比咩神社で行われる神社行事。
ごーさん札は2種類ある。
仏行事のごーさん札の中央に配置した文字は「壽福寺」。
本日は神社行事だけに「米谷宮」の文字である。
2枚を揃えて苗代に立てる豊作の願い。
平成29年の4月21日に拝見したO家の水口まつりに「米谷宮」のごーさん札を拝見していた。
ところで、ごーさん札の“米”の文字である。
知人のFさんは、この文字を見て素直に判読した「八」に「木」である。
まさにその通りに読めるが、「米谷」町を知っている人なら、これもまた素直に「米」谷と読むであろう。
もう一人の知人にMさんがいる。
なにかといろんなことを深い知識と情報をもつMさんの見立ては“はち”に“ぼく”。
つまりは“八”に“木”である。
いつの時代にどなたがいい出したのかわからないが、“米”の文字を分解した“八木(はちぼく)”である。
つまり、米谷で作る米が豊作になってほしい、という思いが、“米”の文字を分解し、“八木”文字を生み出したのでは・・ということだ。
ネット調べによれば、「・・享保の改革に・・米価の統制に力をいれた徳川八代将軍の徳川吉宗・・・米の文字を分解して“八”、“木”・・・・・人々は、はちぼく“八木”将軍と暗喩した・・・」とある。なるほどである。
一老のKさんから座に上がれ、とご下命が下った。
宮総代から、そう伝えられて座中一同に挨拶させていただき下座につく。
一老が話す先人、つまり先輩が話していたこと。
「意味はこうじゃ・・・」と、言って語ってくれた。
米谷の行事の数々を拝見してきた2年間。
前述した神仏習合のオコナイ行事。
苗代に豊作を願う村の初祈祷などとの関係性を話したら、2月8日に神主渡し、2月22日はデンガクにも来てほしい、と言われた。
大安のえー日に、豆の交換をする節分のトシコシもあるという米谷の年中行事。
昔は「百座」があったという。
『五ケ谷村史』に書いてある「百座」を補正、要約する。
「2月9日の百座。村神主の交替披露の日。むかしは村神主の家に招かれる十一人衆。夜には神社でオッサン(上ノ坊寿福寺住職)によって仁王経を読経された後、親類らも集まって賑やかに飲食した。今は昼間。神社に集まり、終わるようにしている。住職と新の村神主が拝殿に座り、後は籠り所に座ることになっている。旧の村神主が準備をして、佐多人がこれを助ける。十一人衆の他、氏子総代のうち、一人が陪席する。“肥後和夫氏の宮座資料”によれば、この日の村神主は十一人衆、佐多人とともに、神社へ参り、神前に“トリの盃”、と云って、一尺二寸、三寸ほどの盃を旧の村神主、一老、二老の順に飲み廻し、最後に旧の村神主に戻り、さらに新の村神主が飲む作法があった、と記している」とある。
村史はさらに「百座の名称は、地元では坊さんが百人も読経したために、或いは夜通しに籠りをしたので、火を焚くのに、柴が百駄も要ったからなどと云われているが、仁王経に見られる“仁王般若経護国品”の故事に基づく百座仁王講に由来する名称かと思われる。」
また、続けて「『定式』(※宝暦六年、安政六年に書写された宮本定式之事)には正月九日の行事とあり、社僧、平僧によって仁王経を読経されたことが記されており、そのときの献立も詳しく記されており、参考になる」と締めている。
現在おられる十一人衆には記憶のない百座のこと。
村史に記述された報告内容で読みとるしかない。
さて、この日の座中。
今年のマツリをどうするか、である。
トウヤ(唐屋)も一巡した。
次のトウヤ(唐屋)を決めるフリアゲや費用負担などさまざまな案件がある。
最終的には2月の町集会で決めなければならない。
座の〆に行われる“ゼニ カネ コメ”の作法である。
佐多人が手にした牛玉寶印。
古くから伝わる朱印にベンガラを混ぜたと思われる朱肉ももつ。
上座から順にされる“ゼニ カネ コメ”の作法。
両手を差し出した手のひらに“ゼニ”、“カネ”、“コメ”と声をあげて3回。
判を捺すような恰好でする牛玉寶印の作法。
“ゼニ カネ コメ”は大判小判のうちの小判。
つまり食べもんと同じ、金の”銭“。
手で受けて“銭”、“金”、“米”を授かる。
にこやかに盛り上がった座中の一人、一人が“銭”、“金”、“米”を授かる。
いわば各戸に福を授かり、村が反映するという願いにほかならない、と思うのである。
「あんたもしてもらいや」、と云われて左手で受けて捺印。
まるで認めてもらったような錯覚に陥る。
なお、寿福寺上ノ坊住職神名帳詠み、般若心経の祈祷もあるようなことを聞いていたが、この年は見られなかった。
一老のKさんが唐突に云った台詞。
「神社庁に行って神職になれ」のお言葉。
ありがたく賜るが、申しわけないが、その力はないと思う。
(H30. 2. 1 EOS40D撮影)