マネジャーの休日余暇(ブログ版)

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150年ぶりに復活した郡山城跡・極楽橋を渡り初め

2023年03月08日 07時14分59秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市城内町の郡山城跡で再建整備工事が進められていた極楽橋が完成。

3月12日(金)、完成式典を済ませた午後3時より一般公開、雨天の渡り初めにおよそ50人が、記念写真を撮るなどして150年前の様相を思い起こしていた。

極楽橋は本丸の周りを囲む内堀に掛かっていた橋で、本丸登城の正式な橋であった。

明治6年の廃城令により撤去されたとみられ、およそ150年ぶりの復活である



極楽橋は本丸と柳沢文庫のある毘沙門曲輪(びしゃもんくるわ)を結ぶ橋。

建造時期は不明であるが、現存最古の国立公文書館所蔵の正保城絵図「和州郡山城絵図」によれば、本丸(天守曲輪)と二の丸(毘沙門曲輪)の間には橋が描かれ、本丸側には櫓が描かれていることから、正保年間(1644~1648)にはすでに存在していたことが伺え、江戸時代前期から明治時代の初めまでは橋があったとみられる。

極楽橋という名称は、柳澤吉里公が名付けたと考えられ、享保九年(1724) に、吉里が甲府から郡山へ転封する以前、極楽橋や白沢門は、「玄関前橋」・「玄関前門」と称していた。

その後、柳澤家が城主時代に作成された郡山城図では、極楽橋・白沢門と記載されているそうだ。

郡山城史跡・柳沢文庫保存会は、平成28年4月に旧郡山藩ゆかりの篤志家から極楽橋再建を目的とする3億円の寄付を受け、専門家でつくる郡山城極楽橋再建・白沢門櫓台(やぐらだい)整備委員会を設置。再建に向け、本丸側にある白沢門櫓台石垣の修復工事や発掘調査などを実施し、令和2年3月から再建工事を進めてきた

橋の構造は詳細が不明なため、江戸時代の史料や発掘調査の成果を踏まえ、長さ22.12メートル、幅は5.4メートルの反り橋



内堀を跨ぐ半円形の太鼓橋形式とする伝統工法で再建された

高欄や床材には奈良県産の檜を使用。

橋脚の芯には鉄骨を用い、通行できる強度と耐震性を確保した。

総工費は約3億1500万円。

うち3億円は、市内在住の女性が寄付されたもの。

再建のほとんどに充てられた。女性の夫は、柳澤家家臣の家系。

亡くなられた夫は、保存会の評議員を務めていた関係もあり、遺志を告ぎ、寄付に至ったそうだ。

なお、市民団体の「明日のお城と城下町を考える会」の協力もあって、建築に至ったことも忘れてはならない。



雨降るなかの極楽橋を渡り初め。

雨が影響したのか並んだ人はおよそ30人。

午後3時ジャストに始まった渡り初め。

思い思いに記念写真を撮る人たち。

地元に生まれ育った地域の人たちも初めて体験する渡り初め。

一時のことだからと、雨に濡れても写真に収めていた。



白沢門櫓台。

櫓も復活するには、また高額の寄付を募ることになるだろう。その櫓台の両側に転用石が・・。

これまでまったく気がつかなかった転用石。

仏足なのか、石仏なのか・・。



映像を見てくれた橿考研のYさんが、教えてくれた。

この石造物は「蓮弁」だった。

一部しか露出していないのに、それがすべてかのように全容が見えているYさんに感謝しかない。

角柱と思われるほぞ穴も初見に思わすシャッターをきる。



なお、翌日以降の一般公開については、通行に時間制限を設けるようだ。

なお、柳澤文庫では、今年度の常設展「郡山城図にみる郡山城の変遷」に、極楽橋に関する資料やパネルも展示している。

展示は、令和3年5月9日(日)まで。

月曜、ならびに第4火曜(祝日の場合は開館)、年末年始休館。入館料は一般300円。



この日限りの駐車場に戻ったその場に早咲き桜が咲いていた。

濃い色の桜から河津桜のような気がするのだが・・・。

(R3. 3.12 SB805SH撮影)