
午後に始まる涌出宮居籠祭の饗応の儀(あえのぎ)までの数時間は、関連する神事ごとが行われる周辺調査に費やす。
神事の最中は、誰も見てはならぬ、他見を許さない非公開の神事に「森廻し神事(みややまど)」、「野塚神事」、「御供炊き神事」、「四ツ塚神事」がある。
意を決して、「森廻し」の場を探した人がいる。
この日に初めてお会いしたKさんが宮司と面会をされていた。
手には、「森廻し」など、禁忌神事の場所を明示した地図を持っていた。
Kさんは、その地図を頼りに出かけた時間は夕刻を過ぎていた。
暗闇に見える範囲で登ったそこに・・・。
そのときの探訪記は「京都ブログ」に載せている。
地図に書いていた森廻し神事場のルート。
大まかな地図だけにルート探しは困難だった。
涌出宮を出てはじめに立ち寄る「山の神」。
次が「谷山不動」。
不動尊のある谷山ということであろうか。
次は「光明山」。
近場ではなさそうな”山”道を行くのだろう。
戻ってくる道もたぶんに山道。
着いた処が「城山」とあるから、山から山への旅路であろう。
不動川を渡って名称のない⑥の地。
そこから、再び不動川渡り。
北に向けて歩くルートに「しへい屋敷」とある。
地図ルートによれば⑨~⑪。3カ所になにかがあるようだ。
また、棚倉駅の西に東に⑦と⑧。
これらもまた名称が記されていない。
番号だけで手がかりの名称がなければそこはどういう処さえわからない地図であるが、右に書いてあるキャプションで少しはわかる。
資料地図にキャプションがある。
「15日の野塚は神社より線路を渡った西の方角の小川のほとり」とある。
目印は“小川”であるが、西側は新興住宅地に。
調査報告書が発刊された以降に住宅開発。
野神の場所も移動している可能性も考えられる。
「16日は、これよりやや神社寄りの駅にあたる田の中」。
そこら辺りは、今や田んぼの姿さえ見えない地に見つけることは難しい。
「17日は、神社の東方の方角の柿の木の所にある」。
これもまた難しい柿の木が植生する地である。
一旦は涌出宮を離れて綺田の食事処で昼飯を摂っていた。
その食事前と食事後に探していた「四ツ塚神事」と「野塚神事」の場である。
「森廻し神事」、「四ツ塚神事」の場は、平成29年の3月20日に行われた「女座」行事が終わったあとに宮司自ら案内して教えてもらっていた。
遠く離れた場以外の涌出宮の本殿周辺にある場である。
いずれも、その場に立ててあった榊幣で神事の場がわかる。

1カ所は、すぐ近くに布袋像がある場。
映像は前日の17日に撮ったものだが、翌日の18日にはお供えしたと思われる黒塗りの折敷があった。

そこにあった丸い形の石は何であろうか。
不思議な丸石である。
前年に拝見していた森廻りの場。
同じような様相にある神事の場をまた見ていた。
鬱蒼とした樹勢に囲まれる場にそれぞれ砂盛りを施している。

その手前に張った注連縄は結界であるから一歩たりとも侵入してはならん場。
幣を括りつけた榊が示す神聖な処。
当地が「四ツ塚神事」の場である。
竹で支えていたが何らかの動きがあったのか、斜めになっていた。
車も走る一本道に石標が建之されている。

「内式 和岐座天乃夫岐賣神社」とあり、他の面には「北 蟹満寺十丁 高倉宮十五丁 筒井浄妙塚十五丁」に「東 北吉野 神堂寺廿町」とあるからここもまた神域であろう。
この「四ツ塚神事」の場、というか通りにもう一つ。

大樹の幹に幣が置いてあった。
これは「四ツ塚神事」でなく「森廻し神事」の一つ。
11カ所あるうちの一つである。
なお、この年の森廻し役を務めたのは古老のYさんと若手のKさんのお二人。
暗闇に行われる秘儀を担ったそうだ。
さて、「野塚神事」の場である。
菊約さんが手にする地図を拝見するまでは手がかりまったくなし。
与力座の人であれば当然にご存知の場。
その件について七度半の呼び遣い役に送迎されていたNさんに話題を投げたら教えてくださった。
場は2カ所あるという、そこは棚倉駅の西側。
線路の向こう側にあるが、地図を書いてもわかりにくいから案内してあげましょうと車で送ってくださった。
かつては田んぼが一面に広がる地だった。
こんもりした段丘のような地であったが、住宅開発の折りに段丘は崩され平たんな地になった。
建築された住宅地は縦横一角がわかりやすいが、元々あった野神の地がすっぽりその地に収めるには角地利用と相成った。
そして野神の地とわかるように大きな岩で碑を建てた。
大きな文字で彫った「いごもり祭 野神」の碑。

黒っぽい方の碑には前年度、いやもっと前のものとも思われる竹串に挿した幣があり、その前に今年のいごもり祭の幣があったが、横になっていた。
竹串を挿す地は硬い。
以前の幣を取っ払いたくなかったのだろう。
やむを得ずの判断にそうしたと推定したのだが・・・。
もう一つの碑にはその痕跡すら見られない。

野神の神事は一度に2カ所とも、ではなく日にちを分けているのだろう。
その野神の地に祭る祭具が、前日に拝見したマグワ(※馬鍬をマングワ或いはマンガンなどと呼ぶ地域もある)にカラスキ、スキ、クワのミニチュア農具。
人目につかない深夜に行われる野神の神事は秘儀。
決して見ることさえ許されない秘儀であるが、終わったあとに見つけた人は持ち帰っても良しとされている。
そういえば、18日の朝である。
本殿、末社などに野菜盛り神饌を供えていた時間帯に奉っていたミニチュア農具。
三方に盛っていた農具は午後の祭典には消えていた。
おそらく供えてしばらくしてから宮司が下げたのであろう。
その農具はその日の深夜の野神神事に祭られるのだろうか。
Nさんが案内してくれた場はもう一つある。
棚倉駅北側の線路を渡って東側である。
あそこがそうだという地には野神の碑はない。

植生されている植木の傍がそうである、というが、岩、若しくは大石などのような印しそのものもない。
植木の幹辺りにある大石がそうであるのか断定できるわけでもない。
17日の朝に拝見したミニチュア農具は3体。拝見した場もまた3カ所。
それぞれに奉られるようだが、手にした人は我黙して語らずのようだ・・。
また、この他にもかつては坊があった山の高台にもある、といっていたのは、地図に示された「城山」若しくは「谷山不動」であろうか。
秘儀の場はもう一つある。
中谷宮司が見せてくださったその場所は居籠舎。
この日の深夜に行われる「御供炊き神事」の場である。

四脚門の勧請縄を取り換え際に古い方の縄から取り出したヤブニッキの葉付きの枝。
コウジブタ2枚に盛ったヤブニッキは火種に使う。
香ばしいという爽やかなニッキの匂いが居籠舎に充満する、という。
なんとも言えないその香りに包まれる中に行われる「御供炊き神事」。
中央に据えているのが竈である。黒く煤けた竈は年代物であろう。
左右側に配した道具は、いごもり祭の歴史を数えてきた歴史的な桶。

桶周りに「□別相楽郡平尾村氏神 涌出森神用具 文化十三丙子年(1816)十二月新調 神主 □□代」とあった。
数えてみれば200年前からずっと使い続けてきた桶もまた涌出宮の歴史を語る。
「御供炊き神事」は秘儀。
決して見ることのできない禁忌の神事であるが、平成19年7月に著者印南敏秀氏によって発刊された『京文化と生活技術―食・職・農と博物館―』によれば、それは鳥占(とりうら)であるそうだ。
いごもり祭の最期を〆る神事。
つまり2日間(※かつては3日間)行われてきたいごもり祭の成否を占う儀礼。
古くは鳥占であったろう、と記されている。

垢離をとった御供炊きが炊いた御供を、古川座の一老が、樫の葉にのせて四ツ塚に供える。
夜明けに供えた塚の御供を確かめにいく。
もし、御供が消えていたならば、いごもり祭の明け、つまり終わりである。
その明けに一老は太鼓を打ち鳴らして、 “いごもり祭は無事に終えた”と村人たちに告げる太鼓打ち、である。
仮に、御供が残っておれば、神への祈願が通じなかったことになり、祈祷日待ちとなる。
古くは、そうであれば、はじめからいごもり祭をやり直したそうだ。
それほど四ツ塚の占いは大切なものであった。

鳥占は、卜占(ぼくせん)の一種でもあるが、棚倉涌出宮・四ツ塚の場合は年占(としうら)であろうか。
年頭に山に入り、捕らえた鳥の腹中に残っている穀物の有無をもって、その年の吉凶を占う。
鳥によって行われる吉凶を占う鳥占であるが、野や里に住む鳥獣の可能性も拭えない。
奈良県行事に「狐の施行」行事がある。
これまで数例を拝見、取材記録してきた事例であるが、山中に入って狐が好むアブラアゲメシを供える地域があった。
山中を歩き回って、獣がいそうな処に御供を供える。
時間をかけて相当な距離を歩く行軍のような感じでもあるが、数か所の地域で見た供えた跡。
供えて1時間足らずの時間帯に再び拝見したその場に供えた御供はすっかり消えていた。
鳥獣が食べたということであるが、「狐の施行」は、その字のごとく、山に住む鳥獣に施しである。
施行は、寒の入りから寒中において行われる。

つまり食べ物が少なくなった時季、山に住む鳥獣に施しておこうという民間信仰であるが、「狐の施行」は鳥占でなく、あくまで鳥獣に施すものである。
(H29. 3.20 EOS40D撮影)
(H30. 2.17、18 EOS40D撮影)
神事の最中は、誰も見てはならぬ、他見を許さない非公開の神事に「森廻し神事(みややまど)」、「野塚神事」、「御供炊き神事」、「四ツ塚神事」がある。
意を決して、「森廻し」の場を探した人がいる。
この日に初めてお会いしたKさんが宮司と面会をされていた。
手には、「森廻し」など、禁忌神事の場所を明示した地図を持っていた。
Kさんは、その地図を頼りに出かけた時間は夕刻を過ぎていた。
暗闇に見える範囲で登ったそこに・・・。
そのときの探訪記は「京都ブログ」に載せている。
地図に書いていた森廻し神事場のルート。
大まかな地図だけにルート探しは困難だった。
涌出宮を出てはじめに立ち寄る「山の神」。
次が「谷山不動」。
不動尊のある谷山ということであろうか。
次は「光明山」。
近場ではなさそうな”山”道を行くのだろう。
戻ってくる道もたぶんに山道。
着いた処が「城山」とあるから、山から山への旅路であろう。
不動川を渡って名称のない⑥の地。
そこから、再び不動川渡り。
北に向けて歩くルートに「しへい屋敷」とある。
地図ルートによれば⑨~⑪。3カ所になにかがあるようだ。
また、棚倉駅の西に東に⑦と⑧。
これらもまた名称が記されていない。
番号だけで手がかりの名称がなければそこはどういう処さえわからない地図であるが、右に書いてあるキャプションで少しはわかる。
資料地図にキャプションがある。
「15日の野塚は神社より線路を渡った西の方角の小川のほとり」とある。
目印は“小川”であるが、西側は新興住宅地に。
調査報告書が発刊された以降に住宅開発。
野神の場所も移動している可能性も考えられる。
「16日は、これよりやや神社寄りの駅にあたる田の中」。
そこら辺りは、今や田んぼの姿さえ見えない地に見つけることは難しい。
「17日は、神社の東方の方角の柿の木の所にある」。
これもまた難しい柿の木が植生する地である。
一旦は涌出宮を離れて綺田の食事処で昼飯を摂っていた。
その食事前と食事後に探していた「四ツ塚神事」と「野塚神事」の場である。
「森廻し神事」、「四ツ塚神事」の場は、平成29年の3月20日に行われた「女座」行事が終わったあとに宮司自ら案内して教えてもらっていた。
遠く離れた場以外の涌出宮の本殿周辺にある場である。
いずれも、その場に立ててあった榊幣で神事の場がわかる。

1カ所は、すぐ近くに布袋像がある場。
映像は前日の17日に撮ったものだが、翌日の18日にはお供えしたと思われる黒塗りの折敷があった。

そこにあった丸い形の石は何であろうか。
不思議な丸石である。
前年に拝見していた森廻りの場。
同じような様相にある神事の場をまた見ていた。
鬱蒼とした樹勢に囲まれる場にそれぞれ砂盛りを施している。

その手前に張った注連縄は結界であるから一歩たりとも侵入してはならん場。
幣を括りつけた榊が示す神聖な処。
当地が「四ツ塚神事」の場である。
竹で支えていたが何らかの動きがあったのか、斜めになっていた。
車も走る一本道に石標が建之されている。

「内式 和岐座天乃夫岐賣神社」とあり、他の面には「北 蟹満寺十丁 高倉宮十五丁 筒井浄妙塚十五丁」に「東 北吉野 神堂寺廿町」とあるからここもまた神域であろう。
この「四ツ塚神事」の場、というか通りにもう一つ。

大樹の幹に幣が置いてあった。
これは「四ツ塚神事」でなく「森廻し神事」の一つ。
11カ所あるうちの一つである。
なお、この年の森廻し役を務めたのは古老のYさんと若手のKさんのお二人。
暗闇に行われる秘儀を担ったそうだ。
さて、「野塚神事」の場である。
菊約さんが手にする地図を拝見するまでは手がかりまったくなし。
与力座の人であれば当然にご存知の場。
その件について七度半の呼び遣い役に送迎されていたNさんに話題を投げたら教えてくださった。
場は2カ所あるという、そこは棚倉駅の西側。
線路の向こう側にあるが、地図を書いてもわかりにくいから案内してあげましょうと車で送ってくださった。
かつては田んぼが一面に広がる地だった。
こんもりした段丘のような地であったが、住宅開発の折りに段丘は崩され平たんな地になった。
建築された住宅地は縦横一角がわかりやすいが、元々あった野神の地がすっぽりその地に収めるには角地利用と相成った。
そして野神の地とわかるように大きな岩で碑を建てた。
大きな文字で彫った「いごもり祭 野神」の碑。

黒っぽい方の碑には前年度、いやもっと前のものとも思われる竹串に挿した幣があり、その前に今年のいごもり祭の幣があったが、横になっていた。
竹串を挿す地は硬い。
以前の幣を取っ払いたくなかったのだろう。
やむを得ずの判断にそうしたと推定したのだが・・・。
もう一つの碑にはその痕跡すら見られない。

野神の神事は一度に2カ所とも、ではなく日にちを分けているのだろう。
その野神の地に祭る祭具が、前日に拝見したマグワ(※馬鍬をマングワ或いはマンガンなどと呼ぶ地域もある)にカラスキ、スキ、クワのミニチュア農具。
人目につかない深夜に行われる野神の神事は秘儀。
決して見ることさえ許されない秘儀であるが、終わったあとに見つけた人は持ち帰っても良しとされている。
そういえば、18日の朝である。
本殿、末社などに野菜盛り神饌を供えていた時間帯に奉っていたミニチュア農具。
三方に盛っていた農具は午後の祭典には消えていた。
おそらく供えてしばらくしてから宮司が下げたのであろう。
その農具はその日の深夜の野神神事に祭られるのだろうか。
Nさんが案内してくれた場はもう一つある。
棚倉駅北側の線路を渡って東側である。
あそこがそうだという地には野神の碑はない。

植生されている植木の傍がそうである、というが、岩、若しくは大石などのような印しそのものもない。
植木の幹辺りにある大石がそうであるのか断定できるわけでもない。
17日の朝に拝見したミニチュア農具は3体。拝見した場もまた3カ所。
それぞれに奉られるようだが、手にした人は我黙して語らずのようだ・・。
また、この他にもかつては坊があった山の高台にもある、といっていたのは、地図に示された「城山」若しくは「谷山不動」であろうか。
秘儀の場はもう一つある。
中谷宮司が見せてくださったその場所は居籠舎。
この日の深夜に行われる「御供炊き神事」の場である。

四脚門の勧請縄を取り換え際に古い方の縄から取り出したヤブニッキの葉付きの枝。
コウジブタ2枚に盛ったヤブニッキは火種に使う。
香ばしいという爽やかなニッキの匂いが居籠舎に充満する、という。
なんとも言えないその香りに包まれる中に行われる「御供炊き神事」。
中央に据えているのが竈である。黒く煤けた竈は年代物であろう。
左右側に配した道具は、いごもり祭の歴史を数えてきた歴史的な桶。

桶周りに「□別相楽郡平尾村氏神 涌出森神用具 文化十三丙子年(1816)十二月新調 神主 □□代」とあった。
数えてみれば200年前からずっと使い続けてきた桶もまた涌出宮の歴史を語る。
「御供炊き神事」は秘儀。
決して見ることのできない禁忌の神事であるが、平成19年7月に著者印南敏秀氏によって発刊された『京文化と生活技術―食・職・農と博物館―』によれば、それは鳥占(とりうら)であるそうだ。
いごもり祭の最期を〆る神事。
つまり2日間(※かつては3日間)行われてきたいごもり祭の成否を占う儀礼。
古くは鳥占であったろう、と記されている。

垢離をとった御供炊きが炊いた御供を、古川座の一老が、樫の葉にのせて四ツ塚に供える。
夜明けに供えた塚の御供を確かめにいく。
もし、御供が消えていたならば、いごもり祭の明け、つまり終わりである。
その明けに一老は太鼓を打ち鳴らして、 “いごもり祭は無事に終えた”と村人たちに告げる太鼓打ち、である。
仮に、御供が残っておれば、神への祈願が通じなかったことになり、祈祷日待ちとなる。
古くは、そうであれば、はじめからいごもり祭をやり直したそうだ。
それほど四ツ塚の占いは大切なものであった。

鳥占は、卜占(ぼくせん)の一種でもあるが、棚倉涌出宮・四ツ塚の場合は年占(としうら)であろうか。
年頭に山に入り、捕らえた鳥の腹中に残っている穀物の有無をもって、その年の吉凶を占う。
鳥によって行われる吉凶を占う鳥占であるが、野や里に住む鳥獣の可能性も拭えない。
奈良県行事に「狐の施行」行事がある。
これまで数例を拝見、取材記録してきた事例であるが、山中に入って狐が好むアブラアゲメシを供える地域があった。
山中を歩き回って、獣がいそうな処に御供を供える。
時間をかけて相当な距離を歩く行軍のような感じでもあるが、数か所の地域で見た供えた跡。
供えて1時間足らずの時間帯に再び拝見したその場に供えた御供はすっかり消えていた。
鳥獣が食べたということであるが、「狐の施行」は、その字のごとく、山に住む鳥獣に施しである。
施行は、寒の入りから寒中において行われる。

つまり食べ物が少なくなった時季、山に住む鳥獣に施しておこうという民間信仰であるが、「狐の施行」は鳥占でなく、あくまで鳥獣に施すものである。
(H29. 3.20 EOS40D撮影)
(H30. 2.17、18 EOS40D撮影)